世界との関係を情報によって結び直すキュレーター

世界との関係を情報によって結び直すキュレーター

キュレーター・批評家|四方幸子
2023.09.08
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2022年、四方幸子(しかた ゆきこ)氏が美術評論家連盟の会長に就任した。1954年に、国際美術評論家連盟の日本支部として設立され、瀧口修造や美術評論の「御三家」と言われた、東野芳明、針生一郎、中原佑介らが会長を務めた由緒ある団体であるが、約70年の歴史の中で女性の会長は初めてだった。

美術の専門教育を受けたわけではなく、メディアアートの黎明期を支えたキュレーターであるという四方のユニークなキャリアも新鮮に見えた。コロナ禍以降の活動をまとめた、『エコゾフィック・アート-自然・精神・社会をつなぐアート論』(フィルムアート社、2023)も刊行され、現在の自然環境やデジタル環境を包含する、視野の広い思想と実践に改めて注目が集まっている。四方の思想や実践がどのように築かれ、現在どのようなことを考えているのか。1980年代から現在までの長いキャリアを遡ってインタビューを行ったので、前編後編にわたって紹介したい。

ヨーゼフ・ボイスとアートとの出会い

四方は、もともと美術大学出身でもなければ、工学部出身でもない。美学や美術史を専攻していたわけでもないが、どのような形でアートに関心を持つようになったのだろうか?


「大学の時は英語を専攻していたので、英語を使ったクリエイティブなことができればいいなと。元々は教員養成系の大学に行ったのですが、結果的に教員試験を受けずにロータリークラブの英文機関誌の編集の職につきました。」


京都府の綾部に住んでいた四方は、高校時代フォーク&ロック同好会に入って女性2人のデュオを組んでいたという。高校の時にアメリカのロータリークラブの留学生が来て懇意にするなか、英語で何かしたいと思うようになり、山梨にある都留文科大学の英文科にたまたま入学した。卒業後は関西圏で英語の教員になる予定だったが、別の道を模索するようになる。


「音楽のライターになりたいと思い、音楽評論家講座に行ったりもしました(笑)。ただ、音楽は都市圏に生まれていたら、小さい頃から多くの情報に接する機会があるけれど、地方にいたので難しいと思ってもいたんです。」


その頃、偶然、ヨーゼフ・ボイスの存在を知ることになる。


「レゲエとか、ヘイシャンミュージック(ハイチ系)のお店で仕事の後に、週2、3回バイトしていたんです。そこにボイスを研究していた方がいたんです。」


四方は、『ヨーゼフ・ボイス・マガジン』の編集を手伝うようになる。その関係で、ボイスの晩年18年間インタビューを続けていたオランダのアートライター、ラウリン・ウェイヤースと知り合ったという【※1】。


「彼女は、ボイスからアンディ・ウォーホルを紹介され、ウォーホルからダライ・ラマ 14世に会うように言われ、結果的にボイスとダライ・ラマ 14世を出会わせることになりました。彼女の原稿を翻訳していくなかで、いわゆるメディエーター(媒介者)という生き方があることに気付きました。メディエーターとしての彼女の影響はすごく大きいですね。アートへのサポートが手厚いオランダではありますが、インディペンデントで活動していたんです。」



その頃、四方は自身でもミニコミ紙『Spicy Jam』を発行していた。イギリスの音楽誌『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』(New Musical Express)やカルチャー誌『ザ・フェイス』(The  Face)を購読して、興味深い記事を翻訳したり、東京での展覧会のレビューなどを手書きでレイアウトして知人に配っていたという。それを雑誌『宝島』(JICC出版局)に送っていたら記事にしてくれ、その後、本誌に書くようになる。海外の音楽誌にはアート系の情報も多く、また人と会ったり、展覧会を見たり、記事を自分で書くなかで現場でアートを学んでいった。

「ヨーゼフ・ボイス」展(西武美術館、1984)レセプション 
左からヨーゼフ・ボイス、四方幸子、ラウリン・ウェイヤース

そして、1984年に西武美術館での個展のためにヨーゼフ・ボイスが来日する。朝日ホールでの講演会、東京藝術大学での公開対話集会、ナムジュン・パイクとのパフォーマンスも開催され当時の日本の美術界に大きな影響を与えた。『ヨーゼフ・ボイス・マガジン』もそれに合わせて来日記念号が発刊された。


「来日中、ラウリンがずっとボイスについていたので、彼女を通してボイスと会うことができたんです。実は、ボイスの来日は、それ以前に2度予定されながら実現していませんでした。『ヨーゼフ・ボイス・マガジン』は、初号に(前回の)来日記念号が予定されていたんですけど突然中止になったので、「来日中止記念号」になりました。私が関わったのは、1984年のボイスの来日3か月前に発行された『ヨーゼフ・ボイス・マガジン2』なんです。」



ボイスの来日は、西武美術館が《7000本のオーク(樫の木)》【※2】をサポートすることで実現したもので、その他にもギャルリー・ワタリ(現:ワタリウム美術館)【※3】の創設者である和多利志津子はそれ以前からボイスとつながりがあり、来日中にボイスはパイクと和多利を訪ねている。さらに、当時、西武セゾングループ系の株式会社SPNに在籍していた石原恒和(現:株式会社ポケモン代表取締役社長)がプロデューサー、筑波大学大学院を修了した畠山直哉がディレクターとなって記録映像を制作。膨大な映像を元に、ペヨトル工房【※4】の今野裕一が編集をして、ビデオカセット・ブック『ドキュメント ヨーゼフ・ボイス TVプリンター・マガジン』(西武美術館、1984)を出版している。「芸術大学」での対話集会は、当初武蔵野美術大学の有志が講演を企画していたが、結果的に東京藝術大学で宮島達男や長谷川祐子らが実行委員会になって開催された。四方は、それらとは別にインディペンデントの形でボイスに関わっていた。

ドイツでの新しいアートの胎動

その後、原宿ビブレ21の広報・アートの担当として展示や公募展を実施するが、1986年、ボイスが拠点とするデュッセルドルフに滞在することになる。


「ドイツ語やルドルフ・シュタイナーについて勉強したりと準備をしていたのですが、渡航の前月、1986年の1月にボイスが亡くなってしまったんです。それでも予定通り行くことにしました。そして、ボイスが立ち上げた自由国際大学(FIU)の集会に行ったりナムジュン・パイクやインゴ・ギュンター、ボイスと親しかったデュッセルドルフの日本人のアート関係者に会うことができました。パイクは音楽、インゴは文化人類学からアートの世界に入った経歴を持っていますが、時代時代の科学・技術や社会の動向を考察しながら、外からの視点でアートに臨む彼らに共感し、そのような態度でアートに関わりたいと決意したんです。」


仕事を辞めて半年デュッセルドルフに滞在していたこともあり、フリーライターとして本格的に活動を始める。


「最初に発表した現代美術の大きな記事は、1987年の「ドクメンタ8」について、『ブルータス』に書いたものです【※5】。」


「ドクメンタ8」では、ボイス没後にも続けられた《7000本のオーク》が完了、またインゴ・ギュンターなどによるビデオ・インスタレーションも数多く展開された。日本からは川俣正や鈴木昭男、吉澤美香が選ばれている。帰国後、ギュンターを含めた重要な作家の資料をまとめ、展覧会の企画書を書いて、美術館やギャラリー関係者に会うなどの活動を開始する。並行して、実験音楽集団、ディー・テートリッヒェ・ドーリス(Die Tödliche Doris)のメンバーとも交流し、四方個人で彼らのパフォーマンス・ビデオの配給も行った。ケルンの235というアート系のビデオレーベルがリリースしていたものを、アール・ヴィヴァン【※6】などに卸したという。

この頃、企業がアートを支援する動きがあり、電通など代理店がプロデュースに入るケースがあったという。その流れで四方は銀座のソニービルの2階にあったサントリー(株)のアートギャラリーSUNTORY ART BOXのキュレーターになるが、就任まもなくこの活動の中止が決定する。自らは一度もキュレーションできなかったが、最初のキュレーターという肩書きだった。

1989年、ベルリン滞在時の四方さん

その後、ドイツのゲーテ・インスティトゥート本部から2か月ドイツ語を学びに行く奨学金を得る。1989年10月、天安門事件後の北京やウラン・バートルなどに立ち寄り、シベリア鉄道に乗り換え2週間かけて西ベルリンに到着したという。そこには、ボイスのユーラシア構想への思いもあったのだろうか?


「それもありましたね。ユーラシアは広いけどつながっている。京都府の北部で育ったので、情報が閉ざされている日本海の向こうの国々のことがずっと気になっていました。そのような視点は、今も変わっていません。」


到着後2週間でベルリンの壁が崩壊し、その現場に立ち会うことになる。東側から人がなだれ込み、時代が大きく変わる状況を体験した。


「「ドクメンタ8」に参加していたロルフ・ユリウスにはとてもお世話になりました。彼の紹介で小杉武久さんにも会っています。ベルリンのサウンドアート関係の組織「ジャノッツオ」や、ルネ・ブロックの奥さんのウルシュラ・ブロックが運営していた現代音楽のショップ&レーベル「ゲルベムジーク」にもよく通っていました。」 


ちなみに、ルネ・ブロックは、ボイスとも長年懇意にしていたギャラリスト兼キュレーターで、一週間アメリカのギャラリーでコヨーテと過ごし、そのままドイツに帰るという、ボイスの著名なアクション《コヨーテ  私はアメリカが好き、アメリカも私が好き》(1974)は、ニューヨークのルネ・ブロック・ギャラリーで行われている。

四方さんとルネ・ブロック(1989年12月2日 ベルリンにて)

キヤノン・アートラボの立ち上げ

ドイツでベルリンの壁の崩壊に立ちあって、世界が変わっていく様子を間近で見たこともあり、ベルリンに戻って勉強し直したいと思いながら帰国する。当時は美学を志し、まずTU(Technische Universität/工科大学)に入って、ベルリン自由大学(FU)に転学することを考えていた。


「1990年の5月に、キヤノン・アートラボでキュレーターを担当しないかと、SUNTORY ART BOXの時と同じプロデューサーに打診されたんです。実は、88年頃『朝日ジャーナル』に、キヤノンのカメラについて書いたことがあって、キヤノンに関心を持っていたんです。そのカメラは、例えば、秋山庄太郎のような著名な写真家のモードを搭載していて、それに似た写真が撮れるというものでした。技術的な革新が、オリジナリティや創造性の領域へと進出し始めたこと、それは今から思えば、現在においてはAIにまで至っている技術と芸術の根源的な問題に触れているからでしょう。またアートラボで、ソフトウェア・エンジニアとアーティストを媒介しながら作品を作っていくことにも興味がありました。」 


実は、キヤノン株式会社は1990年に大阪で開催された通称「花博」(国際花と緑の博覧会)に参加しており、藤幡正樹やタナカノリユキらが参加したデジタル画像処理を施した展示が成功していた。また当時のキヤノン株式会社社長、山路敬三(工学博士。キヤノン(株)初の工学系出身の社長)は、レオナルド・ダ・ヴィンチを敬愛し、「アート&サイエンス」に興味を持っていた。そのような経緯もあり、アーティストとエンジニアが組んだ実験を、金銭に加え、自社技術の活用、継続性の3つを念頭に行うビジョンを持っていた。そのアーティストとエンジニアを仲介し、一緒に創造する役割を担ったのが四方というわけだ。四方はその立ち上げから参加した。 


「半年後に阿部一直さんがもう一人のキュレーターとして参加しましたが、それまでは私の方で、準備を始めていきました。阿部さんは東京藝大出身で美学を専攻した方で、美術史をはじめ芸術全般に造詣が深い上、実験的なものへの興味も強く持っていました。エンジニアの方とのコミュニケーションは、彼らの使う用語や論理が独特で当初大変でしたが、アーティストをつなぐことも含めてとても刺激的で多くのことを教わりました。」

中原浩大《デート・マシン》@アートラボ第1回企画展(TEPIA、1991)

四方らは知名度や実績よりも、エンジニアとのコラボレーションによって新たな展開を遂げる可能性を感じる作家の発掘に努めた。1991年キヤノン・アートラボ第1回企画展「ARTLAB」では、コンプレッソ・プラスティコ(平野治朗+松蔭浩之)、中原浩大、福田美蘭の3組を選出している。コンプレッソ・プラスティコは、モニターなどを用いて耽美的なインスタレーションを行う大阪芸術大学出身の若いアーティストユニットであったが、1989年、すでにスパイラルでも個展「メタリズム」を開催し、1990年にはヴェネチア・ビエンナーレのアペルト部門に当時、世界最年少で選出されていた。福田美蘭は過去の名画などを軽妙に模写しながらずらしていく作品を制作していた。四方が担当したのは中原で、さまざまなメディアを軽妙に使い、特にレゴを用いた作品で注目されていた。中原は京都市立芸術大学で彫刻を専攻していたが、80年代に隆盛する「関西ニューウェイブ」の後発で、90年代のインタラクティブアートやネオ・ポップを予兆するさまざまな作品を制作していた。


「当時コンピューターと言えば大きなワークステーションで、企業や政府、大学の研究施設などにしかありませんでした。そのため第1回企画展では、コンピューターに触れたことがない、わからないからこそ可能になる作家の想像力に期待して、エンジニアとやりとりしながら実現していくことを重視しました。キヤノン・アートラボでは、最初から一貫して、既存のヒエラルキーから自由な関係でコミュニケーションを行っていました。キュレーターからまず、各時代の科学・技術や社会の動向を踏まえた上で構想やビジョンをアーティストに提案し、そこから対話を始めていく。アーティストともエンジニアとも、コラボレーターに近い形で付き合っていきましたし、そのようなスタンスは今も変わらないですね。」


中原は、その時、《デート・マシン》(1991)という2人用のインタラクティブ・インスタレーションを制作した。2人の体験者の心拍に応じて、中古のアナログ家電ーーブラウン管TV受像機やターンテーブル、照明などーーがオンオフをすることで、空間全体が生体の延長としての様相を呈することになる。中央にはベッドが並んでおり、二人の心拍が同期すると、TVモニターに「rendez-vous(ランデブー)」の文字が出る(2013年に岡山県立美術館の中原の個展で再制作されて話題になった)。壁面には、心拍データを可視化した作品も展示されていたが、そこには中原をサポートしたエンジニアの名前を冠した作品も含まれている。ただし、当時エンジニアの技術は、静止画像処理が主体で、メディアアートの端緒とされる1990年代初頭に登場したアルゴリズムをベースとしたインタラクティブアートという形ではなかったという。

ウルリーケ・ガブリエル《パーセプチュアルアリーナ—空間のパラドックス》@アートラボ第3回企画展(ヒルサイドプラザ、1993)

「そのような意味で、キヤノン・アートラボがメディアアートを手がけたのは、第3回企画展の「パーセプチュアルアリーナ空間のパラドックス」(アーティスト:ウルリーケ・ガブリエル)のVR(ヴァーチャル・リアリティ)を使った作品からですね。ちなみに93年頃は、メディアアートにおいて重要な作品が多く発表された時期なんです。脳波センサーなど生体データの活用や、AL(人工生命)を応用した作品などがあり、アートラボでもそのような作品を展示しました。」


当時、観客が関与して作品が動く作品は、インタラクティブアートと呼ばれていた。日本で最初にメディアアートという用語を使用したのは、(四方によれば)浅田彰で、1989年にNHK BSの番組として放送された『メディア・アート・ミュージアム』ではないかという。キヤノン・アートラボでは、当初「デジタルアート」と呼んでいたが、90年代前半にメディアアートという一つの領域として世界的に確立されていく。

「キヤノン・アートラボを始めたとき、私からは、日本の作家で言えば、当時ダムタイプのリーダー的存在でもあった古橋悌二さんのソロと三上晴子さんを提案したんです。ダムタイプは1985年には存在を知っていたんですけど、初めて作品を見たのは1988年に原宿クエストホールで行われた東京での初公演《Pleasure Life》で、その時に知り合うことができてキュレーションできればと思っていたんです。古橋さんにキュレーター2人からアートラボでの作品制作を打診したのは1992年です。その時、HIVポジティブであることを本人から知らされて......。その時のことは、忘れることができません。そのような中、万一自分がいなくなっても作品を発表できるようにという本人の強い意思のもと、ダムタイプの皆さんのサポートもあり、実現に向けて動き始めたんです。」

古橋悌二《LOVERS—永遠の恋人たち》@アートラボ第4回企画展(ヒルサイドプラザ、1994)

当時、古橋はアジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)の助成で留学しており、ニューヨークと日本を往復していたが、発表前の夏は入院もしたという。そのような中、完成させたのが《LOVERS—永遠の恋人たち》(1994)だ。代官山ヒルサイドテラスの地下スペース(ヒルサイドプラザ)の壁面に黒い幕をはり、当時のプロジェクターの光量や映像の解像度も手伝って、不思議な質感のゴーストのような映像が行き交うインスタレーションとなった。


「《LOVERS》では、ミニマルで静謐な空間で、等身大の裸体の人々がすれ違い、時に出会う様が繰り広げられます。その中で唯一、古橋さんの映像だけが、空間内のセンサーに来場者がセンシングされることで、その人の方を振り向き、一連の動きの後に背後の闇の中に倒れていきます。インタラクティブだけれど、そうであることに気付かれなくてもいい作品でした。技術的な側面が目立ってなかったので、広範囲の方々にいらしていただき、会場内でそれぞれが感じていただける体験になったと思います。ダムタイプの《S/N》と同時並行に準備が進められた中で、動(S/N)と静(LOVERS)という対比が強くでたように思います。」

《LOVERS》は、技術的な側面でダムタイプのメンバーに多く助けられたという。とりわけ、空間中央の複数のプロジェクターを搭載したタワーから、各プロジェクターが1人もしくはテキストを投射しながら15分間回転するシークエンスをプログラミングで実現するなどの作業である。アートラボは展示空間を持たず、会場を借りていたので、設営からプログラミングのバグ取りまでの作業を1週間ほどで行う必要があった。会期も2週末を挟んだ9日ほどが多く、それほど多くの人が見られたわけではない。メディアアートの印象が強いキヤノン・アートラボの展示に訪れるアート関係者がさほど多くなかった時代だが、評判を呼び、その後国内外を巡回して、1998年にはMoMAに収蔵されるまでになる。2001年には第2バージョンがせんだいメディアテーク開館時に制作され、修復後、国立国際美術館に収蔵された。

そして、キヤノン・アートラボの代表作の一つともいえるのが、キヤノンの視線入力技術を使った三上晴子の《モレキュラー・インフォマティクス—視線のモルフォロジー》(1996)だろう。三上は1980年代から廃材などジャンクな素材を使ったオブジェで知られており、サッポロビール恵比寿工場跡で初個展「滅ビノ新造型」(1985)で注目を浴びていた。四方は初個展から取材を通じて、交友があったという。三上はコンピューターに関心を持ち、1990年代前半、ニューヨーク工科大学大学院情報科学研究科コンピュータ・サイエンス専攻に在籍していた。


「当初インタラクティブ・インスタレーションをお願いしたんですけど、ちょうどインターネットが登場してきた時期で、彼女がコンピューターウイルスの可能性を強く感じていた矢先で、「モレキュラー(球体分子状の)」をテーマに、1995年のアートラボ第5回企画展はインターネットの作品を、続いて1995年の第6回企画展でインタラクティブ作品を展開することになりました。前者は、当時のインターネット作品では先見的なバイオアートの問題系を扱うもので、実際に不特定多数のユーザーがプログラムをダウンロードして、それを培養し、再びアップロードすることで、予測不可能的にWeb上の蜘蛛の形状が細胞レベルで変容していくといく作品でキヤノンUKが開発したRenderWareというソフトを使って実現しました。」 


まだインターネットがほとんど普及してない時代のことだ。そして、翌年発表されたのが《モレキュラー・インフォマティクス》である。


「1989年頃、知人のドイツのアーティスト、ヨッヘン・ヘンドリックスがベルリンの研究所で視線入力を使ったEye Drawingを行っていました。手で描くのではなく、視線の軌跡が、つまり見るという行為がリアルタイムでドローイングとなる作品です。彼はまた、光を見た時のドローイング、そしてその残像を視線でなぞってドローイングにしてもいました。視ることは、ルネサンス以降の美術が「視覚芸術」を優先してきたこと、またターゲットを認識し攻撃をするための軍事技術によって発達してきた側面も含め、表象や権力の問題をはらんでいます。視線による入力に興味を持った背景には、1980年代後半に熟読していたポール・ヴィリリオやロザリンド・クラウスの論考などがあります。当時は高度なマシンでしたけど、90年代半ばには、キヤノンも視線検知を搭載したカメラを発売していたので、社内の協力を得ることを想定して三上さんに視線入力技術に興味があるかと打診したんです。」

三上晴子《モレキュラー・インフォマティクス—視線のモルフォロジー》@アートラボ第6回企画展(ヒルサイドプラザ、1996)のVer.2(DEAFフェス、ロッテルダム、1996)
※Ver.2から2人用となり、自己言及性からコミュニケーションへと体験的側面が変化した。

三上も関心を持ち、視線入力によってモレキュラー(球体分子)が生成していくという作品につながる。視線入力技術はキヤノンの別の部署だったが、協力を得ることができた。三上の作品によって、キヤノンのエンジニアとの協働関係が深化したといってよいだろう。それを実現するためには、キュレーターが、最先端の技術を把握し、アーティストとエンジニアと一緒にコラボレーションしていく必要がある。なぜそのようなことが可能だったのだろうか?


「1988年にキヤノンのカメラについての記事を書いたように、もともと科学・技術と表現の関係に興味があったからかなと。エンジニアの人もいろんな形で協力してくれたり、新しい技術を教えてくれたりもしたのでいい関係だったと思いますね。」 


作品発表後も、古橋や三上作品の海外巡回をサポートしたり、三上作品のバージョンアップに関わったりと、継続的なサポートが行われた。開発した技術で特許をとったり、成果を学会で発表するなどして、エンジニアのキャリアにもつながっていく。そして、キヤノン・アートラボは1996年にはメセナ大賞審査委員特別賞をとることになる。

NTTが、電話事業100周年として、ICCインターコミュニケーションセンターの開館準備を行う時期と平行しており、比較するとキヤノン・アートラボの活動は規模は小さいが、展示室をもたず、アーティストとエンジニアの実験を中心に据えた、革新的なものだったといえるだろう。

キヤノン・アートラボと海外との交流

四方が参照したキュレーターのモデルはいたのだろうか? 


「ハラルド・ゼーマンでしょうか。「態度が形になるとき(Live in Your Head: When Attitudes Become Form)」(ベルン・クンストハレ、1969)、「完全なる芸術作品を求めて(In Search of Total Art Work)」(1983)など、ゲーテ、ノヴァーリス、シュタイナー、ボイスなどの系譜に根差しているとともに、領域横断的に美術以外の作品や表現も取り入れています。ゼーマンには1986年に中立国であるスイスのイタリア語圏にあるアスコナにあるモンテ・ヴェリタ(真実の山)で実際にお会いしているんです【※7】。ここは19世紀末から自然主義運動やアナキズムに根差したコミューンがあり、チューリッヒ・ダダを揺籃した場所と私が思っているところです。ヘルマン・ヘッセとかミハイル・バクーニン、ルドルフ・フォン・ラバン、そしてダダイスムの中心人物となったフーゴー・バルも関わっていた。ダダイスムも第一世界大戦への抵抗として意味をなさない発話などを行ったけれど、コミューンというもの自体も当時の社会に対する抵抗やそこからの逸脱としてあった。話は飛びますが、ゼーマンに会う旅の途中、ソ連(現:ロシア)でチェルノブイリの原発事故(1986年4月26日)が起きたことも忘れられません。」 


1990年、ワタリウム美術館が開館するとき、ハラルド・ゼーマンがキュレーターとして招聘され、第1回目の現代美術展「ライト・シード」(1990)が開催される。その時、四方はゼーマンに1通の葉書を送る。ゼーマンの没後、2007年に彼の全展覧会をカバーするカタログが出版され、そこに四方の葉書(1990年12月30日付)が掲載されていたという【※8】(葉書は、矢印による図式によるもので、「Urkraft(根源力)」に発し、「Infant(子供)=innocent, pure, immaculate)への矢印とは別に、オルタナティブな方向として”Are you ready for the glorious new age?”と書かれ、yes/noの選択肢があり、「I say “Yes!”」と記していた)。存命の作家とアートを拡張していくゼーマンのキュレーションは、20世紀のキュレーターの在り方を変えたが、四方にも影響を与えたといえる。


「私は、テーマ展とか企画展、もしくは実験的なプロジェクトを構想・実施するのに向いていると思っていて。評価が定まった作品を扱うよりは、まだ見ぬ価値や創造性を引き出すことができればと思ってキュレーションをしてきました。」 


いっぽうキヤノン・アートラボのような活動は、世界にもまだほとんどなかった。参考にしていた活動はあったのだろうか?


「アートラボの活動内容とは異なるのですが、ビジョンや方向性、革新性でいえばバウハウスですね。モホリ=ナジやクレーだったら、どういう作品を生み出しているのだろうかと。キヤノン・アートラボは、一部の人に「ドイツラボ」と言われていたくらいで、ドイツ語圏の作家が多かったのですが、そこにはバウハウスが念頭にあるんです。1990年代前半に、私は「表象からプロセスへ」という言葉を提唱したのですが、そこで重要なのはストーリーや図像ではなく、環境の変化に応じて生成する終わりのない情報プロセスなんです。それは、90年代半ばに出会い、現在へとつながる「情報フロー」という概念につながっています。」


そして、ドイツやオーストリアのアーティストを中心に、その後もリサーチと交流を続けていく。アートラボとして、オーストリアのリンツで開催されている電子芸術フェスティバル、アルス・エレクトロニカ【※9】を1990年に視察したが、そこで米国西海岸初のVRシステム(ジャロン・ラニアー率いるVPL社)が大きくヨーロッパで迎えられた状況を見る。当時アルスのディレクターで、後にカールスルーエ・アート・アンド・メディア・センター(ZKM)【※10】の館長になるペーター・ヴァイベルやゴットフリート・ハッティンガー、1995年にディレクターになる、ゲルフリート・シュトッカーらと交流を続け、アルス・エレクトロニカ賞の審査員を3度担当、また2001年にはシュー・リー・チェン、アルミン・メドッシュとの共同キュレーションによるオンラインプロジェクト「KOP(Kingdom of Piracy)」のキュレーターとして展示でフェスティバルにも参加している。しかし、アルス以外に重要な場所があるという。


「オランダのロッテルダムにあるインディペンデントなメディア組織、V2_Organisationを私の中では重視しています【※11】。もともとは1981年にスヘルトーヘンボスという小さな街で、アーティストがスクウォッティング(空家不法占拠)をして活動を始めたんです。その創設者で、ディレクターだったアレックス・アドリアンセンス(数年前に亡くなってしまいましたが)の精神とビジョン、態度、活動には本当に触発されました。90年代以降は、サウンド、メディアアート、建築など領域を横断して、常に先見的なメディアアートのプロジェクトやイベントを行い、出版活動も活発に行っていました。公共空間での先見的なメディアアートの大規模なプロジェクトも、数多く実施していたんです。」


V2が主催するDEAF(ダッチ・エレクトロニック・アート・フェスティバル)に、1995年に四方はアートラボについてのプレゼンテーションで招聘され、1996年にはアートラボで制作した三上晴子の《モレキュラー・インフォマティクス》2人用の改訂版を出品する(ちなみにV2は、数年前に脳科学研究から転じたミシェル・ファン・ダーテルがディレクターを引き継ぎ、現在も活発な活動を展開している)。

クリスティアン・メラー《オーディオ・グローブ》@「クリスティアン・メラー サウンド・ガーデン —浸透する空間」展(スパイラル/ワコールアートセンター、1997)
共同キュレーター:阿部一直、四方幸子、主催:東京ドイツ文化センター、ワコールアートセンター

また、1989年、フランクフルトのシュテーデル美術大学【※12】の付属のインスティトゥート・フォー・ノイエ・メディアン(INM-Institute for New Media)が設立され、ペーター・ヴァイベルが研究所長に就任し、同機関では、キヤノン・アートラボ第3回企画展のウルリーケ・ガブリエルや、第2回プロスペクト展のクリスティアン・メラーに出会っている。プロスペクト展は海外のアーティストの既存作品を紹介するシリーズで、5回開催された。


「当時のインスティトゥート・フォー・ノイエ・メディアンには、いろんな人がメディアアートという未分化な領域に可能性を感じて集まっていたんです。音楽や絵画、建築、パフォーマンスなど、それぞれの専門分野から逃れて、一種難民のように。そこにバウハウスに通じる抽象性、そして情報のプロセスによる美学を感じました。それがまさに、キヤノン・アートラボが追求していた世界とシンクロしたんです。」


さらに、ケルン・メディア芸術大学【※13】も重要だという。ケルンには西部ドイツ放送・ケルン(WDR)という放送局があり、ケルン・メディア芸術大学は、放送系とアート系の両方の要素を兼ね備えていた。ここでは、後にアートラボ第7回企画展「IO_DENCIES [テンデンシーズ] ―情報からの都市への問い」を開催する3人組ノウボティック・リサーチ(KR+cF)【※14】に出会う。ノウボティック・リサーチはそこで学んだ学生だった。


「ジークフリート・ツィーリンスキーというメディア考古学者が当時この大学の学長で、ノウボティックが師事していました。錬金術と科学が未文化な中世やそれ以前の時代へも遡りながら展開されるメディア論によって独特のカリスマ性と実験的な精神を持つ方です。彼には、アドバイスをいただいたり、アートラボの出版物に寄稿してもらうなどとてもお世話になりました。現在も時折り連絡をとっていますが、非常に尊敬する方です。」

世界を情報フローとして捉える視点とマイノリティ・スタディーズ

ノウボティック・リサーチの展覧会によって、現在のキュレーションのコンセプトである環境を「情報フロー」として捉えるという視点を得る。


「彼らがアートラボ第7回企画展で行った「IO_DENCIES [テンデンシーズ]」というプロジェクトは、江戸時代の遺跡の発掘調査で当時10年以上開発が止まっていた新橋駅東側の汐留地区の空き地の将来を、どのようにみんなで考えていくか、という構想で、この土地の周辺地域を10のサイトに分け、各サイトにおいて複数の情報のフロー(人、金融、建築、情報...)をリサーチし(都市リサーチ・コラボレーターとして市川創太を紹介。市川はその後、多摩美術大学で三上晴子、四方とともに演習を持ち、2004年には三上との共作による《gravicells―重力と抵抗》をYCAMで発表する)、その成果をインターネット上のインターフェイスを通して広くパブリックな参加を促すものでした。都市を物や形態ではなく情報フローの絡まり合いによる傾向(テンデンシー)の変化として捉えていたんです。」

ノウボティック・リサーチ《IO_DENCIES [テンデンシーズ]》@アートラボ第7回企画展(ヒルサイドプラザ、1997)

その後、四方は1997年にポーラ美術振興財団の助成で、東欧・中欧のメディアアートのリサーチに行き、スロベニアのメディアアーティスト、マルコ・ペリハンと出会う。ペリハンは、隔絶した環境にエネルギー自足型の情報基地Makrolabを設置し、情報環境のリサーチを、テレコミュニケーション、気象、渡り鳥の移動の3要素から長期的に行うなど、アートとサイエンスを横断する実験的な活動を展開していた。彼は当時、ドイツのケムニッツ(旧カール=マルクス=シュタット)出身のアーティストのカールステン・ニコライと、「Wardenclyffeプロジェクト」(ニコラ・テスラの「Wardenclyffe Tower」を念頭に)という名でライブを行っていた。この二人に、初めてのインスタレーション作品として依頼し実現したのが、2000年のアートラボ第10回企画展「polar」 だ。


「効率的な資本主義社会とか合目的な世界観とは異なる世界に生きてきた人やそこでの時間や空間、身体的なリアリティに私はずっと興味があり、その極北として彼らとの出会い、そして《polar》があるように思っています。」

カールステン・ニコライ+マルコ・ペリハン《polar》@アートラボ第10回企画展(ヒルサイドプラザ、2000)

《polar》は、それぞれの時代の最新の情報技術を用いて、時間・空間の感覚の変化を捉える環境観測の方法を提案し、インスタレーション作品として展示するものだ。インターネットで検索された情報が解析されて言葉が辞書に追加されていくなど、AIの原型のようなものともいえた。本作を実現した時、アーティストもエンジニアも四方含むキュレーターも、生命体のような不思議なものを生み出してしまったという思いに包まれたという。この作品は、アルス・エレクトロニカのインタラクティブアート部門でゴールデン・ニカ(大賞)を受賞する。


「《polar》は私にとってはとても重要な作品です。この作品を経ることで、デジタルに加えて、世界に存在するあらゆるものを情報とみなし、それらが関わることで常に変容している世界を強く意識することになりました。」


しかし、「polar」展の翌年、キヤノン・アートラボは、翌年の第5回プロスペクト展の開催直後に突然終了が告げられ、2001年7月で活動を終える。四方は、90年代半ば以降、メディアアートのキュレーターとして認知されたこともあり、「アトピック・サイト」展(東京シーサイドフェスタ、東京ビッグサイト、1996)や資生堂CyGnet(サイバーアートギャラリー、1998-2003)、ミシャ・クバル「パワー・オブ・コードー対話のスペース」展(東京国立博物館初の現代美術プロジェクト、1999)など、インディペンデントでの活動を並行して展開していく。また同時に、海外のインディペンデントの組織やキュレーターとともにインターネット上を含む実験的なプロジェクト、日蘭共同キュレーションによるコラボレーション「PROTOCOLLISION」(2000)、台湾発で世界数箇所で展開された「KOP (Kingdom of Piracy)」(共同キュレーション、2001-2005)などを展開していく。

オーシャン・アース《オーシャン・アース/トウキョウ・ベイ》@「アトピックサイト」展(正式名:ギャラリー GALLERY 〜21世紀への都市芸術プロジェクト〜)(国際展示場・東京ビッグサイト、1996)
主催:TOKYOシーサイドフェスタ’96 アートプラザ実行委員会
ミシャ・クバル「パワー・オブ・コードー対話のスペース」展@東京国立博物館本館、1999 
主催:東京国立博物館、東京ドイツ文化センター  ※東京国立博物館平成館開館記念事業
オンラインプロジェクト「KOP(Kingdom of Piracy)」(2001-2005)共同キュレーター:シュー・リー・チェン、アルミン・メドッシュ、四方幸子(台北、リンツ、ロッテルダム、リバプール、サンフランシスコ、日本では「オープン・ネイチャー」展で新プロジェクトを加え展開)

四方にとって、90年代のメディアアートやキヤノン・アートラボはどのような存在だったのだろうか?


「特にメディアアートは既存の美術と違ってヒエラルキーがないし、90年代初頭の黎明期には新しくカオティックな世界でした。私たち(阿部一直と四方)は知名度も実績もないけれど、逆に新しいことに挑戦できる自由を持つことができた。そういった意味も込めて、私はメディアアートを境界領域を扱うマイノリティ・スタディーズでもあると思っているんです。古橋悌二さんもそうだし、キュレーションしたアーティストも(アートラボに限らず)旧東側出身者や、ハイブリッドのアイデンティティを持つ作家が多いんです。アートラボには当初、3年くらい関わろうと思っていたのですが、ちょうどメディアアートの黎明期と発展期に立ち会うことになり、結果的に最後まで関わることになりました。」

冷戦終結とグローバリズムの幕開けという、世界の構造が代わり、新しいデジタル技術やインターネットが爆発的に普及する時代に登場したメディアアート。それはあながち偶然ではなく、既存の対立を超えた情報の相互浸透という意味においては、きわめて同時代的な共振の中にあったのでは、と四方は位置付ける。生み出されたメディアアートの作品は、既存のヒエラルキーや価値観を問い直すものだったともいえるだろう。ボイスから始まった四方のアートとの関わりはメディアアートのキュレーターへと進化した。さらに大きく社会が変化する中で、四方自身の取り組みがどのように変化し、「エコゾフィック・アート」に至るのか後編で見ていきたい。

後編に続く→

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関連情報

四方幸子ウェブサイト 
※本文で言及された作品は上記サイトを参照されたい。
(URL最終確認:2023年9月8日6時31分)

美術評論家連盟(AICA Japan) 
(URL最終確認:2023年9月8日6時31分)

四方幸子 『エコゾフィック・アート-自然・精神・社会をつなぐアート論』(フィルムアート社、2023)
(URL最終確認:2023年9月8日6時31分)

注釈

【※1】ラウリン・ウェイヤースは、その後、ボイスとダライ・ラマ14世との対話を実現させたり、ボイス没後の1990年には、ジョン・ケージやロバート・ラウシェンバーグといった芸術家と、イリヤ・ブリゴジンら科学者、 スタニスラフ・メンシコフら経済学者、ダライ・ラマ14世のような宗教家を集めた5日間のシンポジウム「Art meets Science, Spirituality in a changing Economy」をアムステルダム市立美術館で実現している。

【※2】1982年のドクメンタ7から開始されたヨーゼフ・ボイスのプロジェクトで、7000体の彫刻を販売した資金で、7000本の樫の木をドクメンタの会場に植樹し、その前に玄武岩を置いていく。ボイス没後の1987年の「ドクメンタ8」で完成した。ボイスが提唱した拡張された芸術概念「社会彫刻」の代表的プロジェクトでもある。

【※3】ワタリウム美術館 
(URL最終確認:2023年9月8日6時32分)

【※4】1978年、今野裕一によって創立された出版社。幻想文学や映画、演劇等の書籍に加えて、『夜想』や『Ur』、『WAVE』(西武百貨店と共同製作)といったカルチャー誌を発行。最先端の現代アートも多く紹介していた。1998年出版を休止。

【※5】四方幸子「ドクメンタ展ドキュメント」『BRUTUS』No.164(マガジンハウス、1987年9月1日号)、pp.90-97

【※6】セゾン美術館に併設されていた美術書専門書店。

【※7】ハラルド・ゼーマンは、1978年に「モンテ・ヴェリタ(真実の山)」展をキュレーションしている。

【※8】Harald Szeemann with by through because towards despite - Catalogue of all Exhibitions 1957-2005,(Editors; Tobia Bezzola, Roman Kurzmeyer, Edition Voldemeer Zurich, Springer Wien New York, 2007), p.546 (Yukiko Shikata to HSz, 30 December 1990)


【※9】アルス・エレクトロニカ 
(URL最終確認:2023年9月8日6時32分)

【※10】カールスルーエ・アート・アンド・メディア・センター(ZKM) 
(URL最終確認:2023年9月8日6時32分)

【※11】V2 
(URL最終確認:2023年9月8日6時32分)

【※12】シュテーデル美術大学 
(URL最終確認:2023年9月8日6時32分)

【※13】ケルン・メディア芸術大学 
(URL最終確認:2023年9月8日6時32分)

【※14】ケルン・メディア芸術大学出身のクリスティアン・ヒュブラー、イヴォンヌ・ヴィルヘルム、アレクサンダー・トゥハチェクを中心としたアートグループ。

【※15】ノウボティック・リサーチのプロジェクトを実施するにあたり、コラボレーターとなった市川創太と、すでにノウボティック・リサーチを紹介されていた三上晴子は、これを機に交流が生まれる。その後、多摩美術大学の教員となった三上は、市川を非常勤講師として招聘。2000年代の前半、三上、市川、四方の体制で同じ学生を見ることになる。そこに在籍していた学生の一人に毛利悠子がいる。その他にも四方はキヤノン・アートラボで招聘した海外の作家に、三上、市川、エキソニモらを紹介し、国際的なメディアアートのネットワークが生まれていった。

INTERVIEWEE|四方 幸子(しかた ゆきこ)

キュレーティングおよび批評。京都府出身。美術評論家連盟会長。多摩美術大学・東京造形大学客員教授、IAMAS・武蔵野美術大学非常勤講師。オープン・ウォーター実行委員会ディレクター。データ、水、人、動植物、気象など「情報のフロー」というアプローチからアート、自然・社会科学を横断する活動を展開。キヤノン・アートラボ(1990-2001)、森美術館(2002-04)、NTT ICC(2004-10)と並行し、資生堂CyGnetをはじめ、フリーで先進的な展覧会やプロジェクトを数多く実現。近年の仕事に札幌国際芸術祭2014、茨城県北芸術祭2016(いずれもキュレーター)、メディアアートフェスティバルAMIT(ディレクター、2014-2018)、美術評論家連盟2020年度シンポジウム「文化 / 地殻 / 変動 訪れつつある世界とその後に来る芸術」(実行委員長)、オンライン・フェスティバルMMFS2020(ディレクター)、「ForkingPiraGene」(共同キュレーター、C-Lab台北)、2021年にフォーラム「想像力としての<資本>」(企画&モデレーション、京都府)、「EIR(エナジー・イン・ルーラル)」(共同キュレーター、国際芸術センター青森+Liminaria、継続中)、フォーラム「精神としてのエネルギー|石・水・森・人」(企画&モデレーション、一社ダイアローグプレイス)など。国内外の審査員を歴任。共著多数。

INTERVIEWER|三木 学(みき まなぶ)

文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。
アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人。
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。
美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。