<サイトリニューアルにあたって>
アートと社会をつなぐ「アートネイバー」の役割を研究する+5(プラスファイブ)。
「対話する記録メディア」という新たなキーワードの元に今回、デザインを新たにサイトリニューアルを行いました。+5が見つめるものは、意図的に残さないとこぼれ落ちていく、アートの記録です。どんなに小さな取り組みでも、アートを通して社会を良くしようとするアートネイバーの活動を、対話の中で創造的に記録し、メディアとして何を残せるか、記録の活動を通して問い続けていきます。(+5編集部)
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展覧会や芸術祭というソフトをつくるキュレーターは、「アートネイバー」の最たるものだといえるが、ハードという面では美術館を設計する建築家の役割も大きい。美術館は、人々とアートをつなぐものであると同時に、都市とアートをつなぐものでもある。今回の特集では、2022年に開館した大阪中之島美術館で活躍する「アートネイバー」を取り上げ、ソフト・ハードの両面から紹介していく。
大阪中之島美術館は、日本で久しぶりに大都市圏の中心部に立地した美術館であり、構想から約40年、計画から約30年の間に蓄積された6000点を超える膨大なコレクション、ブラックキューブが中空に浮かぶ外観、巨大な吹き抜けと長いエスカレーター、アーカイブズ情報室などの新しい機能を持つユニークな美術館として注目されている。大阪中之島美術館はどのような構想のもとにできたのか?
+5サイトリニューアル記念企画として今回は、アートを見る人々の動きを設計する、建築家の遠藤克彦(えんどうかつひこ)氏に話をうかがった。
家族の影響
まずはなぜ建築家になったのだろうか?
「まず、建築家になろうと思って建築学科に入ったわけではないんです。有名な建築家もほとんど知りませんでしたし、影響も受けていた訳ではないので。元々僕の父は小さな設計事務所をやっていたので、影響という意味では父の姿があるかもしれません。高校2年の時に、ご多分に漏れずどういう進路がいいかなと悩むわけです。僕は生きることに一生懸命だったわけじゃないし何をやっていいかわからなかった。数学や物理が得意だったから、経済学部に入って企業の経営的なディレクションとかをやれればなと考えていたんです。そうしたら、父が建築の設計をやったらいいじゃないか、構造をやれば食いっぱぐれないぞと言われ、構造をやるつもりで大学に入学したんです。」
実は、日本には「建築家」という資格はない。日本で建築家という場合、意匠設計の資格を持ち、文化的な発信を行っているものを指すことが多い。日本の場合、意匠設計、構造設計、設備設計などによって資格が異なり、欧米におけるアーキテクト、その訳語である建築家とは、もっと文化的な側面が重視されているからだ。遠藤はそのような建築家の存在も知らなかったという。ただし、遠藤の父は、多趣味な上に、意匠、構造、設備ができ、3人いる兄弟の長男である遠藤に加えて、次男はメディアアーティスト、三男は陶芸家になったというので家庭の影響は少なからずあるだろう。
「大学に入って、建築デザインはこんなに面白いものなんだと気づいたんです。僕はすごく静かな高校生でしたから、大学に入ってクリエーションしたものに点数がついたり、評価を得たり、自分が表出したもので人から意見をもらえるのが、非常に嬉しいことでした。1年生の最初に出された別荘の課題で高評価をもらって、これは意匠に向いているんだなと思い、構造をやっている場合じゃないと。それで単位も落としちゃったんですけど(笑)」
転機となったのは、「SHシリーズ」という戦後、鉄鋼造による工業製品のような狭小住宅の設計で知られる広瀬鎌二【※】が担当していた1年生のカリキュラムだという。
(遠藤さんと関わりのある建築家については、文末に情報を記載している)
「広瀬研究室のB4とM1、M2(修士課程)まで含めた学生たちがティーチング・アシスタントを全員やっているわけですね。入ってきた1年生をティーチング・アシスタントがみるんです。それが濃くて、未だにその人たちには頭が上がらない。」
その時ティーチング・アシスタントを務めていた人たちは、現在では日本設計のディレクターや竹中工務店のプリンシパルなどをつとめるくらい非常に優秀な人たちだった。しかし、後期は日本の木造建築を研究していた広瀬研究室には入らず、就職活動もせず、大学院も決めていなかった遠藤を、非常勤講師をしていた新居千秋から、東京大学の原広司の研究室に行くよう勧められたという。
「原研は当時有数の研究室だったから、先輩には、竹山聖さん、隈研吾さんら綺羅星がいるわけですよ。山本理顕さん、小嶋一浩(シーラカンスアンドアソシエイツ)さんもそうです。そういう意味では受験は大変だった。だからもう死ぬほど勉強しました。やっぱりその他の大学から、そこに入るっていうのはものすごい勉強量が必要で、1回落ちています。入ったら入ったでまたとんでもないモンスターみたいな先輩たちがいっぱいいるわけですよ。」
そこで遠藤はまた壁にぶつかる。当時、建築論や空間論を語るためには哲学が欠かせないので、活発に哲学の議論がされていたが、何を言っているかさっぱりわからなかったという。そこでまた勉強をはじめることになる。現在までつながる自身の建築論はどのように構築していったのだろうか?
「修士のときに自分の建築論があったかなんてとてもじゃないけど言えない。博士までいたけど、僕がつくっている建築の建築論もその頃から今に至るまで考え続けていますね。だから建築論なんておこがましくて言えなくって、こうあるべきじゃないか、くらいなんです。」
そういう意味では、建築家がスター化して、思想としての建築を語るようになった風潮とは一線を画しているかもしれない。関西では、梅田スカイビルや京都駅ビルの設計で知られる原広司の研究室では、70年代から世界の集落の調査を行い、集落の建築のデザインを研究していた。しかし、遠藤が所属していた頃はすでに研究のメインではなくなっている時期で、遠藤自身は関わっていないという。
「原研のときは研究はまったくしていないんです。僕は原先生の建築事務所であるアトリエ・ファイでアルバイトしていました。原先生のそばにいるのが楽しかったんです。僕が修士の時は、地球外建築をやっていて、梅田スカイビルの屋上に60枚のパネルがあったのですがそのお手伝いをしていました。この前全部、リニューアルしていましたが、その時のフィルムを探し出して全部焼き直したから鮮やかなんです。それから博士1年くらいの時にParc BIT(都市計画国際指名提案競技)っていうスペインの計画、その後東大のキャンパス計画で、今、生産技術研究所がある駒場の基本計画と基本設計、それから柏キャンパスの基本計画を原先生の横でずっとお手伝いしていました。」
その後、遠藤は博士課程の3年の時に、建築事務所を立ち上げる。原研究室の先輩は、就職せずに在学中から建築事務所をつくる先輩が多く、小嶋一浩に相談したら今つくるべきだと言われたという。しかし、学生と二足の草鞋を履いているため、仕事の依頼は全然来ず、危機感を感じた遠藤は退学して独立することになる。設計事務所に入らず独立したことは良かったのだろうか?
「いいかどうかと言われたら、今もわからない。今から考えるとすごく遠回りした気もするし。でも逆に言うと飽きないで、全てに対して興味を持って仕事ができているのは、そのおかげかもしれないかな。」
社会との接続と求めて
設計事務所を開所してから、大阪中之島美術館の設計に至るまでどのような設計をしていたのだろうか?
「あるときから別荘の案件が増えていきました。別荘というのは、お金に余裕があって、土地も持っていて、それから自分の世界、つまり非日常を作ろうとする人たちが求めるもので、空間として面白いものを求める別荘はそんなにないんです。お金は空間に使うんじゃなく素材に使っていくことになります。大理石とか、見えてわかる素材感が重視されるんです。それが10数軒あって、ある段階でこれでいいのかと考えるようになります。経営的にはいいんだけれど、社会とのつながりが全然ないんです。しかも周囲の木が育つと、別荘が埋もれ、外から見えなくなっていく。だから、表現として面白いものをつくっているという自負と満足の一方で、社会との接続を渇望するようになりました。」
そこから遠藤は、社会との接続を求めるために公共建築のためのスタッフを集め、プロポーザルや設計コンペなどに出すようになっていく。
「ちょうど新聞販売所(「EdgeA」2006年竣工)【1】の設計だとか、自分が社会にプロポーザルとかをやり始めた頃と、会社として大きなものを設計しようっていうのが重なり始めた時期なんです。ただ、2005年ぐらいからプロポーザルをやっているんですけど、勝てないわけですよ。実績もないし、名が売れているわけでもない。初めて勝った設計コンペは2007年の「豊田市自然観察の森ネイチャーセンター」(2010年竣工)【2】です。僕は設計コンペの方が強いんですよ。プロポーザルよりも、コンペは設計案を見るんです。」
新聞配達所やコンペなどの設計で、公共を意識するようになったが、別荘(「軽井沢深山の家」2010年竣工)【3】の設計ではパブリックとプライベート、開かれた内部空間と閉じられた内部空間が接合されているプランがあり、大阪中之島美術館の原型になっているという。
「美術館建築は市民のための建物であることは自明のことですが、市民が入れるパブリックと入れないパブリックがある。後世のために守らなければいけない空間があるんです。閉じた空間と開いた空間っていう構図は、大きな建築でも住宅でも同じことがいえます。それを僕は構想が横断するって言っています。」
場所が人との出会いや交流の特権的なメディアでなくなった現在、建築の状況を捉え直してデザインしていた遠藤は、新聞配達所をメディアセンターと考え、人の動きや光に形を与えている。それらの思考と実践が大きく実を結んだのが大阪中之島美術館だ。
「2017年に2次の図面の提出があり、2月2日にプレゼン、9日に結果が発表されました。僕は10年ごとに節目があるんです。1997年に事務所を始めて2007年に最初のコンペ、2017年に大阪中之島美術館のコンペに勝っているんです。」
大阪中之島美術館のプラン
大阪中之島美術館は、その時にあったいちばん大きなコンペだった。2016年、日本大学で非常勤講師をやっていたとき、優秀な学生がいて、インターンをしたいというので、大阪中之島美術館のコンペのリサーチを提案したという。そして大阪までその学生と所員を連れて調査に行き、コンペの設計に取り掛かる。コンペのテーマになっていたのは、「パッサージュ」だった。「パッサージュ」というのは、フランスの屋根付きの商店街、いわゆるアーケードのことだが、芸術論の著作も多いヴァルター・ベンヤミンがパッサージュに触発されて、「パサージュ論」を展開しているので、特別な意味合いがある。
「パッサージュっていうと、普通にフランス語を訳すと、道の延長と解釈するんだけれど、僕は都市の延長だと思ったんです。建物の中に伸びている都市の延長として、都市空間として中につながっているっていうのが大切だと思いました。パッサージュっていう言葉の解釈を各建築家に委ねるって書いてあって、明解な形とか面積を出してなかったことが、僕たちの創作意欲を掻き立てたのは確かです。」
大阪中之島美術館は大阪にとっては悲願とでも言うべき美術館で、財政難から計画が頓挫するのではないかと言われ続けてきた。日本の中でも古い歴史を持ち、規模も大きい都市の中心部にどのような形を与えるべきだと考えたのだろうか?
「いわゆる大阪らしいというものをつくるつもりではなく、都市を見て考えました。僕は設計を関数だと思っているので、コンペがあり、遠藤克彦が出すのであれば、その全てのファクターを解いた関数として美術館を設計するということだと思いました。だから、敷地調査のときに周りを見て接続であると、結節点であると考えた。バラ園から中之島の遊歩道、川沿いを歩いてきて、あの場所に出てくる。丘はあって橋はあるけれどまだつながっていない。西を見れば未開拓で、駐車場だったり、ホテルも川の方を向いたまま接続していない。それから南側にある国立国際美術館も全くつながっていない。つまりこの美術館に求められるものは何か考えたとき、都市の接続というものがここに求められていると分析しました。」
結節点、ノードとはケヴィン・リンチが『都市のイメージ』(2007年。日本語訳は建築家の丹下健三・富田玲子が担当した)で提案した5つの都市の構成要素の分類、パス(道)、エッジ(縁)、ディストリクト(地域)、ノード(結節点)、ランドマーク(目印)のひとつであり、例えば、駅は典型的なノードである。つまり、美術館をランドマークのようなシンボリックなものというより、道をつなげ集結させるものとして考えたというわけだ。
「結節点であると考えたとき、1階と2階、さらに上階を、どう面的に接続をするかを解いていくわけです。同時に、地形が川から下っているから、水害の問題があります。美術品をそこから守るというファクターとして、1階、2階よりは上の階に美術品を持っていった方が、圧倒的に安全ですよね。エネルギーの冗長性とかいろいろあって、エアコンや設備とかあるけれど、そんなことよりも物理的に水が来ないことの方が一番大切なわけです。だから、1階には美術品を入れず、2階を面として捉えて、各地域から来るラインを全部つなぐ結節点として、その上に美術品を完全に浮かせるということでまず基本構想ができたんです。」
それでは内部はどのように解いていったのだろうか?
「美術へのアプローチとしては、2階と上のボリュームをどうつなげるかです。下から見ていくのか上から見ていくのかと言ったら、演出が必要だから、最初に観客を一番高いところまで上げて、5階、4階と降ろしていく。言ってみればそのスペースが人の移動の経路としてより楽しませることにつながるわけですよね。それらを縦に積み上げたパッサージュなんですよ。だから都市から連続して5階までつながっている経路の設計をしているということなんだと思うんです。」
なかでも周囲と、最も接続しているのは1階と2階だ。
「2階は全ての方向に開いています。後は運用です。休みの日でも、どうやって使ってもらえるかっていうことをそこに乗せていく。そうなると5階にレストランがあるより、絶対に1階あって、街のにぎわいに寄与した方がいい。僕は都市の人間だから道端がどれだけ大切かっていうのはわかっているつもりだったので、1階2階ににぎわい、それより上層に美術空間をつくるということを、シンプルにまとめたんです。今、あの場所の人の流れが全く変わったと思っています。予定していたこと、計画したことが起きて良かったなと思います。」
今回、提示されたコンペのテーマである「パッサージュ」を都市の結節点として捉え、都市計画的な観点で解釈したのが遠藤の構想だったが、都市計画の一部としてつくられたわけではない。そのような都市の顔としてつくられる美術館との差は何だろうか?
「都市軸とかそういうものが決まっている場所での美術館建築と、都市の積層型の美術館では全く違います。つまり歴史地区みたいなところでつくる美術館というのはどうしてもその都市軸、アクシスに左右されがちだし、正面性みたいなもので、シンボライズされるところがある。それに対して大阪中之島美術館は、僕が解いたように、シンボリズムから離れようとしてつくっているんですよ。正面部がどこかって言われたらあの建物にはそんなものはなくて、むしろ全方向から人を受け入れる建築、まさに結節点としての建築を計画しています。もし今後、美術館を調べるときにタイポロジーをしたら、全く違うものとして捉えられると思います。」
内外をつないで美術を見る
都市的な接続も重要だが、美術館は館内の多くの場所を回るので、内部の動線の設計も重要になる。その点はどうだろうか?
「一筆書きというのは基本です。それはオーソドックスなんです。基本はそれだけど今はそれを自由に使えるように5階も3セグメントになっていて、どこからでも入れるようになっているし、4階もやろうと思えば逆回りもできる。基本であり、オーソドックスにも使えるけど、そこにフレキシビリティを持たせるっていうのも大切です。」
館内の2階と4階をつなぐ大きなエスカレーターが2本縦断しているので、一瞬奇抜に見えるが、構造としては国立西洋美術館のような一筆書きで回れるようになっている。その上で異なるプログラムも可能にしている。さらにパッサージュは、4階5階に窓をつけ、内部空間の広がりと光が差し込む解放感もある。
「美術のスペースに入って、美術だけを見て、そのまた同じエントランスに戻ってくるってことはしたくなかった。つまり、中之島をちゃんと4面体験する美術館にしなきゃいけない。実は5階だけは東西南北4面に窓があるんです。都市の積層型美術館だから、中之島に対して4面、ちゃんと責任を取ることが大切です。中之島という場所で、都市とともにある美術館をつくるっていうことが大切であるし、そのためのプランニングをしています。」
展示室と展示室の間には外の風景が見えることがアクセントになっていて、中之島を見渡す展望室の役割も兼ねるし、息抜きにもなる。
「美術品はやっぱり集中して見るので疲れると思います。ではその場所の建築というものは、どうあるべきかですよね。建築が戦うっていうこともありうるわけで、そういう意味では中之島はそのバランスをとることを意識しています。僕自身が建築に対して自分が全部つくるっていう表現者ではなくて、都市との調停者として考えているんです。」
光の形を設計する。建築の見えるものと見えないもの
外部との結節点、内部での縦のパッサージュに重点が置かれながらも、外観は黒いキューブで強い印象が残る。その点はどう考えたのだろうか?
「すごくフォトジェニックというか、絶対見たら忘れないものにしています。それはもちろんそうなんだけど、実はそこに込められている調停者としての自分の責務みたいなものをやった上です。だから成り立つ表現なので、そこがすごく大切だと思う。」
しかし、黒い壁面にするのは、目立つからだけではないだろう。機能として黒を選んだ理由は何だろうか?
「やっぱり汚れるのが嫌なんです。白は最初はいいけど、日本の場合は、白は汚れます。雨が多いし、気候の問題があるので、個人的には日本に白の建築は難しいと思っています。」
一方で近年、ガラスカーテンウォールの建築が多くなったことで、光害の問題が起きることもあったという。しかし、その光を反転させることが考えられている。
「黒にすると中の人の営みがよりはっきりするだろうと思いました。美術館の夜景の写真が撮影されていると思いますが、窓の形と人の動きがはっきりするわけです。つまり僕は光の形こそ人の営みだと最初からずっと言っていて、それを表現するには黒だったんです。だから、内部のパッサージュであって、人の移動をするパスが大切なんですよ。」
しかし、その黒い壁面を美しくするにも膨大な労力がかっているという。609枚のコンクリートパネルを張り付けているが、岩手産のすずりに使う黒い玄昌石、京都宇治の黒い石を砕いた砂、それに黒色顔料を最大限混ぜて、まず1度コンクリートをつくる。そこから手作業で表面5mm程度ウォータージェットで削っている。さらに、液体化した無機シリカにカーボンを入れ込んで染め付けているという。その凹凸があるために、表面に抑揚が生まれ、光を吸収するのでより黒く見えている。
また、内部の壁面を覆うプラチナルーバーも、45mmのルーバー、17.5mmの隙間を基本としているが、5%程度隙間を変えて、ズレて見えないように設計されているという。だからきれいに設備や配線、照明が収まって見ているのだ。さらに、実は下地に赤のグレーを入れていて、日光や照明が入ると、紫やオレンジなどさまざまな色相の輝きを放つという。表面上は単純に見えるが実は複雑になっている。
「モノとしてはシンプルに見えるかもしれないけど、起きていることは、極めて複雑な状況をつくっていて、美術と非常に近いところにあるとも言えます。」
その配慮は、設計、外観、内部の素材の選択、仕上げなど全体を通して徹底されている。それだけに細部の調整の労力は大変なものがあるだろう。
「例えば線1本ネジ1本取っても、調停者として、そこがコントロールされてなければ邪魔なものになるわけですね。二度とコントロールしたくないと思うくらい大変でしたけど、それは徹底的にやっていますね。」
建築における現代性とは
そのような微細な配慮をした公共建築をつくる背景には、どのような思想があるのだろか?
「大阪中之島美術館の説明でも常に使いますけど、現代性がすごく重要だと思ってそれは変わらないテーマです。建築においての現代性とはその現代という時代性を固化させることだと思います。それがいくつかの軸で見え始めている。ひとつは素材と技術。素材にも現代性や創造性があり、技術にも新しさ、つまり現代性がありますよね。この素材と技術に関しては、今の時代のデザインをしなきゃいけないと思っています。例えばiPhoneは非常にシンプルな作りで薄く、軽いものですが、あれ一台で多くのことを可能にできる。それはiPhoneをおおうガラスの背後に、多くの技術が隠れていてそれを可能にしている。」
さらに素材と技術を活かした形の傾向があるという。
「単純かつ複雑っていうのが現代なんです。この観点では、建築は決定的に遅れていると思います。現代アートでも、例えば蓄光するとか発光するものもあったり、見えているものが実はホログラムだったり、見えるものと見えないものに関して、早くから表現を通して考えています。リアルかどうかというテーマは、現代アートの方が早くて、建築は5年から10年遅れているというのが、印象です。」
その思想はどこから来たのだろうか?
「素材と技術、単純さと複雑さみたいなことって、当時からジャン・ヌーヴェルがもっとシンプルな言葉で、単一と複数みたいな言い方をしています。このことは僕も原研の先輩たちともずっと議論していたんだけど、単一と複数ではなく、単純と複雑だと思います。それに気がついてからずっとそれを追い求めています。」
一方で、建築の現代性は、地域や場所の影響を大きく受ける。
「場所に関していうと、複雑になっていく要因はいくらでもあるんですよね。例えば僕は、社会資本という言葉を使いますけど、お金ではない、その地域における資本を見抜くことで、複雑な要素を引っ張り出します。単純には向かわない。もうひとつ複雑化する要素としては建築家というフィルターを通して建築をつくっていることです。つまり建築家という存在はその土地だけじゃなくて、常に移動している状態にあるんです。移動しながら物事を考えていて、各地域の複雑な要素をまとめていく建築家とは何なんだろうと考えるわけですけど、フィルターであり関数じゃないかと思います。その地域のいろいろな要素、クライアントの複雑な要求みたいなものを自分を通して形にしていくっていう意味においては、圧倒的なクリエーションというよりは、自分自身が関数になったような感覚があります。」
建築家を、関数や調停者になぞらえるのは、遠藤ならではといえるが、的を射ているように思える。表現主義的な建築家も多いが、建築家が過度に自己表現をすることで、環境や中身を切断したり、覆い隠してしまうこともある。
「よく建築家として、何を創ってみたいかと聞かれるんですが、僕はそういう観点で言えば、自分でゼロからつくりたいものなんてないんですよ。創造者としてのクリエーションは、建築家に求められていないと僕は思っている。クライアントがいないと成立しませんから。個性的なアーティストがいる中で、圧倒的な調停者でありたいとは思います。」
美術展示における建築家
関西では「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」をはじめとした、展示デザインの仕事も増えている。美術空間やデザインについてどのようなことを心掛けているのだろうか?
「それも調停者です。KYOTOGRAPHIEも写真家と場所の調停者です。特にKYOTOGRAPHIEに関してはスタッフの意見を尊重して、スタッフが表に出てもいいぐらい、彼らに意見を尊重しながら試させているところがあります。うちの会社は、本当に優秀なスタッフが僕を支えてくれているんだけど、彼らも成長しなきゃいけないわけで。成長するため必要なのは責任を取ることですよ。責任を取る大きな仕事をいきなりはできないので、そのためにもどんどんやらせています。」【4】
それは、設計事務所の経営者としても積極的な調停をしていくということだろうか?
「経営者として非常に大変ですが、大きな事務所を経営することには興味があります。そういうことに対して責任を取っていきたい。」
これから美術展示についても積極的にやっていく意思はあるのだろうか?
「美術展示については、やっとわかってきたと思います。建築より積極的な調停者というとおかしいんだけど、より関係をコントロールしなきゃいけないのが展示デザインです。そういう意味においてはやっぱり建築家の職能の拡張が行われているし、より積極的にやっていきたいですね。自分が設計した美術館の中に人の展示が入ったときにやっとわかったんです。」
それでは、これからどのような建築設計に関わっていきたいのだろうか?
「僕は人が移動することに興味がありますから、人が移動するその元となる建築をつくってみたいです。これからコロナでどうなっていくかわからないですけど、空港とか、駅とかそういう本質的に人が移動する物を触ってみたいです。そういう場所にこそ僕は状況論、美とかそういうものを感じるようなきっかけっていっぱいあると思うし、美術館に行って美に触れるとかじゃなくって、普段から美を感じることができるはずなんで、そういう建築設計にチャレンジをしていきたいです。」
最後に次世代のアートネイバーに対してコメントをいただいた。
「建築家という仕事は図面を書いて終わりじゃないんです。踏み込まないと絶対につくれない。つながっているだけではなく、つなげようという意思はすごく大切だと思います。僕は、僕なりのこうあるべきじゃないかっていう世界があるから、そこを頑張って人に伝えたいと思うし、こうあるべきじゃないかということは、常にアップデートしていきたいと思います。」
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大阪中之島美術館の設計に関して
遠藤克彦建築研究所より:http://e-a-a.jp/index.html?target=2
(最終閲覧:2022年10月11日16時37分)
遠藤克彦建築研究所では現在、事業拡大に伴い、新たな設計スタッフを積極的に募集している。
遠藤克彦建築研究所より:http://e-a-a.jp/index.html?target=275
(最終閲覧:2022年10月11日16時37分)
遠藤さんについてもっと知りたい方はこちら
茨城大学HP記事より:
<建築家の遠藤克彦教授が設計を手がけた大子町役場の新庁舎が完成―茨城県産木材だけの純木造建築「一歩踏み込む設計者に」>
https://www.ibaraki.ac.jp/news/2022/08/22011697.html
(最終閲覧:2022年10月11日16時37分)
【1】Edge A
遠藤克彦建築研究所より:http://e-a-a.jp/index.html?target=14
(最終閲覧:2022年10月11日16時39分)
【2】豊田市自然観察の森ネイチャーセンター
同施設HP:https://toyota-shizen.org/index.php/info/
遠藤克彦建築研究所より:http://e-a-a.jp/index.html?target=79
(上記2点最終閲覧:2022年10月11日16時39分)
【3】軽井沢深山の家
遠藤克彦建築研究所より:http://e-a-a.jp/index.html?target=25
(最終閲覧:2022年10月11日16時39分)
【4】KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭での実績
遠藤克彦建築研究所より:
建仁寺両足院での展示(2019):http://e-a-a.jp/index.html?target=35
誉田屋源兵衛 竹院の間での展示(2020):http://e-a-a.jp/index.html?target=186
京都文化博物館別館での展示(2021) :http://e-a-a.jp/index.html?target=221
京都市美術館 別館での展示(2022):http://e-a-a.jp/index.html?target=265
(上記4点最終閲覧:2022年10月11日16時40分)
【※】本文中に出てきた建築家(建築に興味があるひとはチェック)
◾️広瀬鎌二(ひろせけんじ)
1922年12月12日 〜 2012年2月7日
流通している工業素材(鉄、スチール、コンクリートなど)を使い、戦後の新たな住宅建築を目指した。代表的な「SHシリーズ」とよばれる作品群では構造と意匠の合一を目指し、50年代〜60年代末まで、実験的な作品を多く生み出した。
◾️新居千秋(あらいちあき)
(最終閲覧:2022年10月11日16時40分)
◾️原広司(はらひろし)
1936年〜
原広司+アトリエ・ファイ建築研究所。東京大学名誉教授。
代表作に京都駅ビル、梅田スカイビル。
◾️竹山聖(たけやまきよし)
https://www.amorphe.jp/profile
(最終閲覧:2022年10月11日16時41分)
◾️隈研吾(くまけんご)
(最終閲覧:2022年10月11日16時41分)
◾️山本理顕(やまもとりけん)
http://www.riken-yamamoto.co.jp/
(最終閲覧:2022年10月11日16時41分)
◾️小嶋一浩(こじまかずひろ)
(最終閲覧:2022年10月11日16時41分)
◾️ジャン・ヌーヴェル(Jean Nouvel)
フランスの建築家。ガラスの魔術師と称される。代表的な建築にアラブ世界研究所、カタール国立博物館、トーレ・アグバールなど。日本では電通本社ビルの設計者としても知られる。
(最終閲覧:2022年10月11日16時41分)
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INTERVIEWEE|遠藤 克彦(えんどう かつひこ)
1970年、横浜市生まれ。1995年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修士課程修了。同年、博士課程進学。1997年に遠藤建築研究所を設立。2007年遠藤克彦建築研究所に組織改編。現在、東京、大阪にオフィスを構える。2021年、茨城大学大学院理工学研究科准教授となり、翌年同教授。これまで大阪中之島美術館をはじめ国内の公共建築のコンペやプロポーザルで最優秀に選定されている。
INTERVIEWER|三木 学(みき まなぶ)
文筆家、編集者、色彩研究者、ソフトウェアプランナーほか。
アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人:https://etoki.art/about
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。