MUZ ART PRODUCE代表、京都を拠点にしているアートプロデューサーのカルドネル島井佐枝さんは、「KG+」【※1】の立ち上げ、「ニュイ・ブランシュKYOTO」【※2】、「ARTAOTA」【※3】、「FOTOZOFIO【※4】」さらに奈良市の三条通にオープンしたアートセンター「MOMENT Contemporary Art Center」【※5】など、年齢、ジャンル、国籍、性別を超えた幅広いプロデュースを行っている。
もともと日本画家としてスタートしたキャリアが、なぜここまで広範囲な活動をするようになったのか。鑑賞教育、国際交流、学生、シニア世代向けの制作発表機会の創出など、今、アート業界にもっとも必要とされる分野を扱うカルドネル島井佐枝さんに、今までのキャリア、それぞれの活動の経緯や現在の取り組み、問題意識について、MOMENT Contemporary Art Centerで伺った。
もともとはどのようなことに関心があったのだろうか?
「もともと家は愛媛県の地主で、両親の代で大阪に出てきて、枚方市の中でも大阪と京都と奈良の境界近くのところで、私は4人兄弟姉妹の長子、父方の祖母を含めた7人家族で育ったんです。当時の枚方市はとてもリベラルで、教員のストで授業が自習になったりするような教育環境でした。私は男勝りの学級委員長タイプで、運動も絵を描くのも得意な子供でした。中学生になると友達のお父さんに、広告代理店のクリエイティブ・ディレクターがいました。有名なテレビCMをつくっている人だったんです。いろいろ話を聞いて、15秒の映像で何百万、何千万人の心を動かすという仕事にすごく惹かれて、将来テレビCMをつくりたいと思うようになりました。」
当時、枚方では皆が地元の高校に行って、地元を活性化するようなことが求められていたという。しかし、島井はそのような「教育の空気」を押し切り、進学校であった大阪府立四条畷高校に進学する。
「高校では軟式テニス三昧で真っ黒に日焼けしていました(笑)。でも、CMプランナーになるにはどういう進路を歩めばよいかと考え、当時はインターネットが一般に普及してなかったので大型書店を梯子して本で情報収集をして、大学の進路は社会学部のマスコミ専攻かな、とか考えていました。そうしたら学校の先生から、美術大学に行け、と言われたんです。特に美術の先生は京都市立芸大の彫刻科を出ていて、私が制作する美術の課題を見て、面白いと思ってくれていたみたいなんです。親は反対したんですが、普通の大学よりも広告業界ならそちらの方が近道だって説得してくれたんです。」
しかしテニス漬けだった島井は、その時すでに高校3年生の5月。そこから芸大受験のために当時大阪の四天王寺前夕陽ヶ丘にあった高瀬善明美術研究所に通うことになる。
「浪人中、昼間は研究所で絵を描いて、夜は予備校で勉強をするというダブルスクールの時期もあり、1日6時間、ほぼ休みなく実習をすることもよくありました。例えば、天王寺動物園で1日中動物のクロッキーをして動体視力が養われ、当時活発だった「具体」(美術協会)の制作のような課題「色あそび」では既成概念が取り払われ色感が高まりました。その後受験対策のため、モチーフの配置を意識して静物デッサンをしたり、ジオメトリックな色彩構成を何度もして基礎が身につきました。思い返せば、この基礎は現在取り組んでいるさまざまな事業に活きていると思います。結局、京都教育大学に当時存在した芸大のようなカリキュラムを組んでいた特修美術学科に入学することになりました。1学年で美術科は絵画、彫刻、デザイン、書道など全てのコース全部で50人くらいしかいなくて、教員養成課程であるため普通科はもちろん工業科での教職も前提に、絵画、デザイン、彫刻、工芸、設計製図に至るまで何でもやらされたんです。それも良かったことだと思います。また絵画の中でも西洋画担当教員は「具体」の嶋本昭三だったし、同期の仲間たちには秋野不矩(日本画家)や横尾忠則などの親戚がいて、当時の美術業界に直結した話題が周囲に溢れていて、いい刺激を受けました。」
行動派である島井は、大学1年生の夏休みの1か月半、フルタイムで大手広告代理店の下請けの制作会社にアルバイトとして入れてもらう。
「美術研究所の友人のお父さんも大手広告代理店でクリエイティブ・ディレクターをしていたので、大学の入学が決まるや否や下請けの制作会社を紹介してもらいました。それで資料集めやアイディア出しなどを手伝いながら、CM制作の流れを勉強していました。しかし、私が2つの代理店のディレクターと知り合いということが会社に知れ、情報流出を防ぐために途中で事業部に異動になったんです。突然の業務変更と信用してもらえない理不尽さを昇華するのに時間がかかりましたが、その時、事業部では写真展の準備をしていて、私は資料をまとめて作品のキャプションを書く作業などを頼まれました。結局はその経験が後の私の活動につながることになりました。」
そして1か月半のアルバイトを経てCMの仕事を総括する。
「CM制作をしても自分の名前は出ない、企業という構造体のネジの1本みたいな存在で私はいいのか⋯⋯という問いが生まれて、もうちょっと絵を描いてみようと思ったんです。」
3年生になると日本画を専攻する。それは浪人時代に、日本画の絵具が綺麗だと思ったことと、日本画で「オフィーリア」を描いている作品を見て、日本画の画材で西洋の風景を描くことが粋だと思ったからだという。その頃からたびたびヨーロッパにスケッチ旅行に行くようになる。
「最初に行ったヨーロッパの旅行で、早朝パリから入り、エールフランスのバスが凱旋門の下に着いたんです。そこにあった朝靄に包まれた巨大な建造物を見上げて、圧倒されて腰を抜かしたんですね。木や土や紙の建築文化で育った自分が頼りなく、力が抜けてしまった。そこからヨーロッパの石の文化に対峙するように石の建築物を描くようになりました。それで休みになれば、ヨーロッパに赴き、スケッチをするようになったんです。当時は、まだインターネットが普及していない時代なので、雑誌で見た美しい風景を見に行くために、「ここに行きたい」と、フランス大使館の観光課にFAXで問い合わせたら、丁寧な手書きで教えてくれたりしました(笑)。」
それらの作品は公募展に入選したりしたが、頑張ってがむしゃらに描きなさいという画壇の先生方のアドバイスに島井は目的が見えず違和感を感じていたという。
「当時は、就職氷河期の幕開けで教育業界も教員の募集がなく、私は卒業後、午前は高校の非常勤で美術を教えて、午後に絵を描いて、夕方からは大学1回生から勤めていた学習塾で数学教師をするような生活をしばらく続けたんです。」
フランスではホームステイや民宿に滞在していた時に暖かく歓迎されたにも関わらず、現地の言葉で会話ができなかったことが悔しかったという。在学中は第1外国語であったフランス語を再履修したり、卒業後は週末に関西日仏学館【※6】でフランス語を勉強していたが、本格的に語学の習得とスケッチ旅行も兼ねてフランスに留学する。
「フランスでは平日は語学の勉強をして、週末はピレネー山脈やブルターニュの漁村や教会、時には近隣の国まで足を伸ばし、いろんなところにスケッチに行きました。当時、フランスをはじめヨーロッパの各都市ではブランド品を買い漁る日本人で溢れていたので、田舎の畦道で薄汚れたジーパン姿でスケッチしている日本人女性が珍しいのかすごく歓迎されて、アーティストに優しい国だなと実感しました。カトリックの影響か、皆、家族との団欒を大切にしていて、日本で塾講師をしている時に目の当たりにした、塾通いで家族と一緒にご飯を食べられない子供達の姿と対照的だったので、「私たち日本人は一体何をやっているんだろう?」と考えたりしました。」
フランス語は少し上達して帰国したが、京都にフランス語を活かす仕事はなかった。また教職に戻り、渡仏前に出会っていた日本在住のフランス人、シルヴァン・カルドネル(Sylvain CARDONNEL)と結婚する。カルドネルは、フランスで哲学を学び、現在は龍谷大学の国際学部の教授を務めている。西田幾多郎から始まり、村上龍や円城塔、高橋源一郎、辻仁成、赤瀬川原平などさまざまな日本の近現代文学の翻訳を手掛け、沼正三の『家畜人ヤプー』の翻訳で、2008年には日仏翻訳文学賞を受賞している。
「帰国後、夫が住んでいた京町家に転がり込み、昼までは、ヨーロッパで描きためたスケッチの日本画の制作をして、午後は懲りずに枚方で塾の数学教師、終電で京都に帰宅するみたいな生活をしばらく続けていました。それで夫にそんな非人間的な生活はもう辞めたらどうかと言われたのと、自分では子供を持つことを望んでいたので、この機会にとフルタイムの仕事を辞めました。ただ、結婚して子供を持っても、社会との接点を失いたくないと考えていたので、しばらくしてご縁があって、実家に近い通信制高校の美術教師をすることになり、枚方、梅田、奈良の各校で教えていました。」
そんな折に第一子が生まれ、スクーリングで週に2、3回授業に行く際は、両親に預けるなどして子育てとの両立を図っていく。
「個展の前に私が絵を描いている時に、当時3歳の長女が自分もやりたいと、目を離したすきに勝手に嬉しそうに塗ったりしていたんです。でも、日本画の顔料には毒性があるので子供が触るのは嫌だなと思って、一旦画材を片付けて、風景や、人物の写真を撮ってそれを雲肌麻紙にプリントして、墨や胡粉で手を加えるという制作をはじめたんです。」
35歳くらいまでは日本画の制作を続けていたが、3人目の子供の出産によって、制作の方向性を変えていくことになる。
「2007-08年に夫の大学の研究休暇で1年間、家族でパリに行くことになり、この機会にパリで個展でもしたいと思っていたんです。そうこうしているうち2006年に3人目の次女が生まれて、予定が狂っちゃうんですね。いっぽうで2005年、2人目の長男が生まれる頃、ヴィラ九条山【※7】にレジデンスに来ていた小説家のフィリップ・アダンという友達が、フランスでうまく他者とコミュニケーションが取れず落ち込む日本人女性をテーマにした『パリ・シンドローム』という短編小説を書いて発表していたんですね。それを読んで、大変興味が湧いたのですが、フランス人的な解釈で日本人を描写していたので、私が少し手を加えて映画にしてはと思ったんです。それで「映画にしたい」とその友達に言ったら、快諾してくれたので、それ以来このプロジェクトをあたためていたんです。それで絵も描けないから映画を撮ろうとなったんです。パリにいる間に元ヴィラ九条山のレジデントの映像作家グザヴィエ・ブリヤをはじめ、役者ディディエ・ガラス、作家、音楽家などの友人達、夫はもちろんみんなが協力してくれて、ベビーカーや抱っこ紐でロケハンや撮影をしました。乳飲子を抱えているから何もできない、というような弱音は吐きたくない性分でしたね。根っからの体育会系なんです(笑)。」
それが2008年に島井が監督をした映画『パリ・シンドローム』だ。映像編集は自分たちで、スタッフはボランティアといっても映像制作にはお金がかかる。その分は、フランスのドロームに広大な日本庭園を持つ庭園設計士の友人エリック・ボルジャがヌイイのシャネル本社に日本庭園をつくるのに、京都の灯篭を送ってほしいと依頼が島井にあり、その時のアルバイト料で経費等はまかなったという。しかし、完成後の上映は具体的には計画していなかった。
「関西日仏学館の当時の館長に見せたら、上映会をしようと言ってくれて、稲畑ホールで上映会とトークをしました。オープン以来の大入りになって、みんな通路に座って見るくらいで館長が喜んでいました。その後、大阪のアリアンス・フランセーズ(現・関西日仏学館-大阪)、九州日仏学館を巡回しました。当時の東京のフランス大使館の文化参事も気に入ってくれて、東京でも映画祭の時に上映会をやろうと言ってくれたんですけど、地元のフランス企業が本国のイメージが悪くなるから、ということでそれは駄目になりましたが⋯⋯。」
友人であるベルギーの小説家、映画監督のジャン=フィリップ・トゥーサンの妻、マドレーヌ・サンタンドレア(ギャラリーChapitreⅫ 主宰、元コルシカ島FRAC【※8】ディレクター)からの提案がきっかけで、ブリュッセル国際女性映画祭「Elles Tournent」【※9】で上映されたり、本編に友情出演をしてくれた翻訳家・小説家のコリーヌ・アトランの計らいでパリ日本文化会館で上映会とシンポジウムが開催されることになった。
「そこでもたくさんの人が押し寄せ、すごい大騒ぎになったんです。だから外国で落ち込むカルチャーショックのテーマは普遍的な問題で皆の興味の対象なんだなと思いました。実は友達が書いた小説は、パリの日本大使館専属の精神科医の太田博昭先生が書いた『パリ症候群』という本があるんですけど、そこからインスピレーションを得ているんです。太田先生は、ガードが固くてなかなか取材などは受けられないのですが、実はとっても優しい方で、のちに夫が開いた龍谷大学での“日本人の国際化”をテーマにしたシンポジウムに登壇してくださいました。その後、映画といえば、2011年にヴィラ九条山のレジデントだったマーク・プティジャンの友禅の人間国宝、森口邦彦さんについてのドキュメンタリー『Tresor Vivant』(2012年)や、パリでは家族ぐるみの付き合いだった辻仁成さんの映画で、京都の自宅で撮影した『醒めながら見る夢』(2013年)に現場のスタッフとして関わったりしました。」
また、のちに通信制高校と並行して非常勤で美術を教えていた京都市内の私立女子高校では、映画監督をした経験を買われて、演劇も教えるようになったという。授業の中で、ヴィラ九条山レジデントの役者や、自身の子供達が通う京都国際フランス学園の演劇教師のワークショップをオーガナイズして、生徒達にフランスの演劇文化に触れる機会を作っていた。高校美術教員は大学卒業後からコロナ禍まで20年以上勤めた。
-----------------------------
【※1】「KG+」
「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真芸術祭」に合わせて開催される、これから活躍が期待される写真家やアーティスト、キュレーターの発掘と支援を目的とした公募型アートフェスティバル。
(URL最終確認2025年5月22日)
【※2】「ニュイ・ブランシュKYOTO」
2002年にパリで始まった年に一度、秋に開催される現代アートの祭典(現在は6月に開催)。美術館やギャラリーを中心に市内各所で開催される。姉妹都市である京都も「ニュイ・ブランシュKYOTO」として、京都市と関西日仏学館の共催で、2011年から美術館やギャラリーに加えて、京都の特性を活かした市内各所で開催されている。(URL最終確認2025年5月22日)
【※3】「ARTAOTA」
京都市南区の廃業した銭湯「九条湯」を会場に、学生が中心となって開催するアートプロジェクト。作品を販売することもできる。
【※4】「FOTOZOFIO」
50歳以上を対象とした国際的な写真・映像の公募展。選ばれた作品は、四条通東洞院地下道や烏丸御池駅改札階南北通路など、京都市内の3会場を拠点に展示され、国際的なキュレーターやアーティストなどのポートフォリオレビューやセミナーを受けることができる。
(URL最終確認2025年5月22日)
【※5】MOMENT Contemporary Art Center
2025年2月に奈良の三条通りにオープンしたアートセンター。ギャラリーとレジデンスのほかトークイベントやポートフォリオレビューなどさまざまな交流機会を創出している。
(URL最終確認2025年5月22日)
(URL最終確認2025年5月22日)
【※7】ヴィラ九条山
アンスティチュ・フランセ日本がベタンクールシュエーラー財団の助成で運営するアーティスト・イン・レジデンス施設。
(URL最終確認2025年5月22日)
【※8】Fonds régionaux d'art contemporain(現代アート地域基金機構)
【※9】「ブリュッセル国際女性映画祭」
BRUSSELS INTERNATIONAL WOMEN'S FILM FESTIVAL
https://www.ellestournent-damesdraaien.org/wp-content/brochures/ETDD-brochure-2009.pdf
(2009年出品作品)
(URL最終確認2025年5月22日)
大阪生まれ。アートプロデューサー。京都教育大学 教育学部 特修美術学科 日本画専攻 卒業。日本画家、映画監督、文化イベント運営、現代美術ギャラリー、仏政府公式文化機関での勤務等を経て2018年MUZ ART PRODUCEを設立。ニュイ・ブランシュKYOTO、ARTAOTA、FOTOZOFIOなどのアートイベントを手がける。2024年より一般財団法人森記念製造技術研究財団 地域・文化事業部門 研究員。2025年一般財団法人 森記念製造技術研究財団と共同でMOMENT Contemporary Art Centerを設立する。
文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人。独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。