美術家のミヤケマイのことをご存知だろうか? 日本文化をテーマに、絵画、インスタレーション、小説、商業施設のウィンドウや、ホテルの展示のアートディレクションなど多岐にわたる制作活動を行い、国内外の美術館や芸術祭、アートフェアで活躍している。
ミヤケの作品の特徴は、現代アートの作家では、文脈やルールがわからず表面的にしか扱うことができない日本美術の掛け軸を含めた伝統技法やフォーマットを駆使し、かつての日本の方法論をコンセプトに、現代の文脈に合わせて表現している点であろう。同時に、学生時代から同時通訳の仕事をしていたこともあり語学が堪能で、異文化にも精通しており、日本文化のコアな部分を抽出し、現代と異文化の人たちに翻訳して伝えることができる存在でもある。
それらの深い造詣をもとに、日本美術を教える京都芸術大学美術工芸科基礎美術コースの立ち上げにも関わり、現在、武蔵野美術大学で日本画を教えている。さらに、滋賀県大津市にアトリエを構え、日本文化を総合的に学べる「大人の寺小屋 余白」【※1】を主催し、多くの識者を集めた実験的でありかつ実践的な講座を開催している。
ミヤケがどのような背景でアーティストになったのか。また、「大人の寺小屋 余白」に至る活動について詳しくお聞きした。

幼少期はどんな文化体験をしたのだろうか?
「父の仕事の都合で海外に、小学校1年生の時に行っています。6歳から11歳、小学校4年生の時までいました。向こうでは、親の方針が文武両道なのでサッカーや女子ソフトボールや、現地の子と一緒に馬術や水泳をしていました。親が海外に出ていて、日本文化を知らない日本人になってもらっては困ると考え、日本人なんだからと言われ、お箸の上げ下げや、ものの扱い方、浴衣や着物を着れるようにと躾けられてました。」

そして帰国したら、日本社会は想像とは異なるものだった。
「海外で日本人ならできるはずのものを叩きこまれて帰国したら、現実には同級生の誰もそんな浮世離れした日本教育を受けておらず、親に騙されたことに気がつきます(笑)。子供なのでそのあと現代の日本に急速に環境適応して、馴染もうと努力して普通を目指します。その後、学校の美術の教育などで西洋美術を教えられて、マティスとかゴッホ、シャガールとかいろいろ見たりするうちに、自分がこの人のこの作品いいなって思って興味を持って調べると、全部それらの作品が日本美術に影響を受けていることに気がつきます。浮世絵の影響を受けている時代の作品とか、日本美術に影響を受けた作品とか、全部が日本に戻ってくる。それで、中学校ぐらいに諦めました。私は西洋的なものは受け入れられない体質をしているのだと。西洋の中にも日本の美がない限り私の琴線には触れないってことに気がついてしまいました。」
しかし、それだけでは日本文化をテーマにしたミヤケの作品の背景が説明できないところがある。それはなんだろうか?
「お茶かなと思います。身内にお茶の先生をしていた者がいて、そういう文化が小さい頃から生活の中に原風景としてどこかにあると思います。床の間に軸がかけられ、お花が生けられて、食器と、お菓子を選び、お茶が点てられて、その季節や会に合わせて着物を選び、すべてがオーケストレーションされている。誰も見てない、見落とされる努力や思いに気づいてもらい、繋がった瞬間に、空間と季節と人が、ピタッと気持ちよく合ったときの満足感。世界をつくる、奇跡を呼び込む仕組みというか……。外の世界と私が繋がったみたいなあの一瞬の感覚が気持ち良いので創作を通して同じようなことをくり返すのではないかと。」
ミヤケは、東洋と西洋の両方の文化を深く知っているがゆえのズレを抱えて成長することになる。
「もともとややマイペースで、人にどう見られるかなど気にならない性格なので、帰国子女で日本の常識や習慣がわからないままになると困るということで公立の中学校に入れられました。父が下から私立で男子校に行っていた反動もあったと思います。美術部に入って、先生に目をかけていただいたのですが、その結果、受験用のデッサンで円錐形とか描かされることになって、ありがた迷惑でした(苦笑)。全然描きたくないもの、心動かされないものを描くのが苦痛でした。
子供の頃から絵が好きで描いていましたが、本を読むのはもっと好きで、学校の図書館の本を隅から隅まで全部読んでいくような子供でした。だから、目が見えなくなくなることが、当時の自分にとって一番恐ろしいことだったんです。(目が見えなくなったアーティストの映画を見たこともあって)目が見えない生活はどんなふうなんだろうと疑問に感じて、点字図書について調べてみたことがありました。すると点字になっている本の数がびっくりするぐらい少なくて、将来自分が目が見えなくなった時に読んだ本ばかりだったら嫌だなと思って、本を点字にして盲学校に寄贈する「点字クラブ」をつくりたいと言ったら許されて、人を集めて少数ですが「点字クラブ」の部長もしていました。」
中学生の時点で、西洋美術的な認識方法を植え付けるデッサンに違和感を覚えている点がミヤケらしいといえる。さらに「点字クラブ」では、視覚障がい者の体験や共同での点字制作など、感覚をテーマにしたアートプロジェクトのようなことを行っている。いっぽうで水泳の強化選手としても活躍し、学力も優秀であった。中学卒業後は、文化祭などのイベントが多く、多様な背景の人が集まる国立大学の付属高校に入学する。
「高校に入って父がサッカーをやっていたことから、サッカー部のマネージャーをしていたら、もともと水泳をやっていたので引っ張られて、たまに水泳部の試合に出たり、美術でも賞をいただいたので、美術部にも誘われて、結局、途中まで美術部と水泳部、サッカー部のマネージャーの3つを掛け持ちしてました(笑)。美術部でも部長をさせていただいていたのですが、先生が藝大(東京藝術大学)の油画の人で歴代の部長が全員、藝大に入るような部で、先生が熱心で勝手に願書を書いて出してくれるような感じだったので、藝大を受けました。ただ石膏デッサンなんかほとんどしてないので最終試験で落ちました。藝大に入れない歴代初の部長となり先生に申し訳ない気もちになりました。デッサンがどうしても好きになれなかったので受からないのは当たり前なのですが(笑)。多摩美(多摩美術大学)のグラフィックには受かったのですが学校が遠く、結局家から近いという理由で青山学院大学の英米文学科に入ります。」
しかし青山学院大学での経験が、他のアーティストとは異なる展開につながる。
「青学では、英米文学科の戯曲専攻で、そこにテネシー・ウィリアムズの研究者の先生がおられたんです。テネシー・ウィリアムズは、社会の中で踏み外していく人たちを描いていて、その辺が東洋文学に通じるものがあったのでその先生のゼミに入りました。それで、『ガラスの動物園』と『欲望という名の電車』などと、村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』から対話形式のものを抽出して、その登場人物たちが交わす対話の中に見える、日米の孤独の質の差というテーマで卒業論文を書きました。」
青学の英米文学はレベルが高いことで知られている。
「3、4年の専門科目になると、その中のトップ10パーセントの学生が受けられる授業があるんです。その中に同時通訳の選抜クラスがあって、学生25人ぐらいのところに専門の教師が3人くらいつくんです。最後は夏休みとかにお寺で合宿があったりして、スパルタで泣かされたりするという……。入部していた体育会系のクラブとの両立が大変でした。私は同時通訳のスピードが早いタイプで、その時、同時通訳の脳の研究をされている人たちに、電極などを刺す実験に連れて行かれたんです。そうしたら、私は文法を処理する部位をあまり介さずイメージで変換しているらしいというのがわかったりして【※2】、人はみんなつくりが違うんだなと思いました。」
その後、就職活動では、大手メーカーのクリエイティブ職を志望して受験し、見事合格するがその後入社二年目からに海外に赴任することがわかり、両親が嫁入り前の娘に対して一人暮らしを許可しないという家の都合もあって断ってしまう。
「そこからの就活だからもうみんな採用が終わっている。どうしようと思って、就職課に行って相談すると、『ジャパンタイムズ』を見たら、外資は募集しているから、とアドバイスされました。ただ、どれを見ても金融関係ばっかりで無理だなと思っていたのですが、某外資の銀行でも人事ならいけるかなと思って受けました。採用はいただけたのですが、結果採用通知には配属先として国際投資金融本部と書いてあり、何のことだかわからなかった私は、人事ってこういうとこにあるのかな?ぐらいに思っていました(笑)。入ってみると、いわゆるディーリングとかをする花形の国際投資金融本部に唯一紅一点での採用でした。でも、経済学部出身でもないし、金融には興味が持てずすぐ辞めようと思いました。」
国際金融機関は激務であったことと、残念ながらミヤケの価値観と合わなかった。しかし両親とは1年間は続けるという約束をしていたため、ちょうど1年で退職する。その後、自身では子供の本や雑誌に挿絵を描いたりするささやかな仕事をし、やがて親の庇護下を出ることになる。
「またどうしようと思って。その時そうだ同時通訳できるんだったと思って(笑)。それでまた英字新聞を見て、同時通訳を募集しているのを見つけて、仕事をしながら絵を描くっていう生活をするようになったんです。その同時通訳をしている会社がたまたま画像とかをつくったりする会社だった。暇な時に絵を描いていたら、アートディレクターに絵が描けることを発見され、外注する時間がない絵コンテを頼まれるようになったんです。それで通訳のお金をもらいながら制作部から絵コンテ費ももらうようになりました(笑)。」
それが大きくミヤケの運命を変えていく。
「先輩のアートディレクターからお金が出ないような仕事を頼まれるときはご飯を奢ってもらっていたんですけど、『美術手帖』の翻訳をやっていた甲斐美都里さんが、骨董修復士の免許皆伝の葉書を送るための絵を、私に頼んできたんです。それがいろんなギャラリーとか美術関係者に送られたんです。それを見た新橋のギャラリーをやっている女性が見て、「この子誰なの? 展示とかしたくないかしら? 一度会わせて」と言われたみたいで、先輩がご飯をごちそうしてくれるからということで行ったんです。それで美大の先輩とかが個展をするたびにバイト代がなくなって大変だって言うのを聞いているので、断ったんです。そのことを伝えたら、「それは貸画廊で、企画は私がお金を出すのよ」って言われて(笑)。それでどれだけ描けばいいんですか?って聞いたら、20枚くらいというので、当時1日に何枚も描いていたので、できそうかなと思って引き受けたんです。」
しかし、その時は展覧会にまつわる作業をわかっていなかった。
「そしたら額装や値段、キャプションをどうしたらいいかとか全く知らなくて、意外に大変だってことがわかりました(笑)。当時は、バブルが崩壊して何年か経って、銀座のギャラリーもどんどん倒産していった頃だったので、先方も売れないだろうと期待されていなくて、ざっくりと好きなことを20枚描いてみたら初個展で完売しました。その時代はそういうことが少なかったので、オーナーもこの業界とは関係ないところから面白い子を拾ったみたいな感じで、来年もお願いと言っていただいたので、両方やるのは大変かなと思って、同時通訳の仕事は辞めてしまいました。」
そしてしばらく展覧会をベースに活動を行い、当時、日本画をポップなキャラクターと新たな手法で表現する日本画家として注目されるようになっていく。
「銀座の村越画廊で展示をしていたら、APS西村画廊で同時開催していた日本画家の友人が、近隣で個展してるからと見に行くと、そこでお会いした方から「ミヤケさん、今年の秋は何やってるの?」って言われて、「わからないです」って答えたら「じゃあうちで展示しない?」って言われて。それが水戸芸術館の学芸員だった浅井俊裕さんで、「クリテリオム65」(水戸芸術館現代美術ギャラリー)【※3】 という新人発掘の展覧会だったんです。当時、グラフィティの展覧会を初めて美術館で開催するという時期で、それと連動させて展示をしようということだったみたいなんですが、美大・藝大を出たアカデミックな人達だと嘘っぽくなるし、クオリティが低いものを美術館で展示するわけにはいかないと悩んでいた浅井さんが誘ってくださいました。私はグラフィティは日本のアートと地続きだと思っていたので嬉しかったです。それが私の実質的なデビューになったんです。その時、いろんな美術界の人たちがついでに見に来てくれるきっかけになりました。」
水戸芸術館での展示をきっかけに、ミヤケはさらにさまざまな展開をするようになる。


「水戸芸術館の後に文化村でやっていた展示を、銀座メゾンエルメスの藤本さんという方が見てくれていて、「ミヤケさんはペインターだけど空間構成能力が抜群だから、できると思うんだよね」といっていただきインスタレーションを始めることになりました。できるかどうかわかんないんですけど、やってみますと答えたものの、よく任せてくださったなと思います。それが銀座メゾンエルメス【※4】の展示でした。その年、私の他は名和晃平さん、吉岡徳仁というメンバーで、どの人も上手でそれを見て、私、死ぬ気でやらないとまずいと思いました(笑)。それですごく頑張った結果、いろいろな人に見ていただくことになりました。」
その後、ミヤケの作品は、平面作品から立体作品、インスタレーションへと空間全体に広がっていく。
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しかし、順調にアーティストとして新たな仕事を複数こなすなかで無理なスケジュールがたたってくる。
「その当時、仕事に根を詰めすぎて激務で働きすぎてぎっくり腰になりました。作家だけで食べているから休んだらどうやって生活するんだろうと考えていたら、フランス大使館の人に「ミヤケさん、パリのボザール【※5】に来て勉強しないか?」って言われたんです。フランスにも特に興味はなかったし、何よりフランス語も全く話せないのにパリに行く決意をします。水戸芸術館で展覧会をして、エルメスで展示をして少しは知られてきた時期なんでものすごく皆さんに反対されましたけど、周りがざわざわする感じが好きじゃないし、健康が大切なんで国外逃亡しました(笑)。」
パリではどのような勉強をしたんだろうか?
「奨学金をもらってパリに行くときに、「ミヤケさんはちょっと真面目すぎて仕事し過ぎているから、留学したら遊んでおいで」って言われたので(笑)、真に受けて何にもしてませんでした。主に針治療をして過ごして、ボザールで当時勉強したことといえばステンドグラスとモザイクを学んだぐらいです。昨年は、大阪・関西万博でその両方の技術が日の目を見ることになり、無駄にならなくてよかったです。」

ミヤケは、大阪・関西万博で、若手建築家が担った休憩所・トイレのひとつ「休憩所4」の壁面に、《水心》(2025年)を発表した【※6】。うねった地面と、鉄筋を組んだ大きな網状のパーゴラのかかった休憩所は、子供たちの遊び場として評判となった。ミヤケは、トイレと会場で唯一設けられた「祈祷室」の壁面に、大阪の象徴であるタコをモチーフに「八方良し(全方位に良きことがある)」ことを願って、大阪湾に面した夢洲の万博会場で、水のきらめきを感じるよう、ステンドグラスを砕いてモザイクにした作品を制作した。
「それと、パリに行く時に、いろんな知り合いや取引先に仕事を休みますと連絡したら、講談社の編集の方が私の書くコンセプトシートの文章を面白がってくださって、「本業を休むなら小説書いてみないか」って言われたんです。文学部出身だからやりたくなくはないけど、やったことないのにまた引き受けてしまいます(笑)。エルメスの展示と一緒で、後から考えたらどうして?と思うんだけど、恐怖より新しいことへの興味が勝り、やってみたいなと思いました。それで毎月短編小説を書いてその方に送るので、1年分できた頃に編集会議をかけて、形になりそうなら本にしてくださいとお願いしていました。その方のご尽力で編集会議に通り、パリから帰国後、処女作として『おやすみなさい。良い夢を。』【※7】という本を講談社から出版していただきました。」

『おやすみなさい。良い夢を。』は、講談社『モーニング』公式サイトで1か月1篇掲載され、1年間12回、彼女の書いた詩と小説の間の中間的な読み物は12人の登場人物によって季節と人生の瞬間を切りとったものとして好評を得た。その際ペンネームとしてアナグラム的に三山桂依(みやま・けい)と名付け、挿画をミヤケマイ名義で描いた。詩と小説の中間的な形態に挿絵を加える構成は、まさに「文人画」的といってもよい。なぜそれほど多彩な表現が可能なのだろうか?
「常にやっていることは同じなんです。思っていることや見てることを他人に伝えるのが、文字になったり、絵になったり、空間になっているだけで、その時与えられたメディウムでするということになっていきます。結局そのベースになる空間の体験は、すべてお茶事に入っている。なかでも空間をメディウムとするインスタレーションなら、お茶事の要素を全部入れられるので、私にとって「便利な器」なんです。そして、平面や文学などは、私にとっては、その中の一部を切り出す作業なんです。」
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【※2】私たちは言葉を「単語や文法」として処理するが、熟練した通訳者は、入力された言語を一度「意味の塊(メンタル・モデル)」や「イメージ」に変換し、そこから別の言語を再構築するとされる。通訳プロセスにおけるこの現象を「脱言語化(Deverbalization)」と呼ぶ。
【※3】「クリテリオム65:ミヤケマイ」(水戸芸術館、2005年)
【※4】銀座メゾンエルメス
【※5】パリ国立高等美術学校(École nationale supérieure des beaux-arts)通称(École des Beaux-Arts(エコール・デ・ボザール)
【※6】ミヤケマイ《水心》(2025)「大阪・関西万博2025」
【※7】三山桂依著、ミヤケマイ挿画『おやすみなさい。良い夢を。』(講談社、2011年)
(全URL最終確認2026年3月21日)
美術家。「大人の寺小屋 余白」亭主。
日本の伝統的な美術や工芸の繊細さや奥深さに独自のエスプリやユーモアを加え、東西文化を超える物事の本質や表現の普遍性を、絵画、工芸、骨董、小説、メディアアートなどさまざまなメディアを横断したり、空間に統合したりして表現している。
京都芸術大学美術工芸科基礎美術コースの立ち上げ、カリキュラム編成を担う(京都芸術大学特任教授2017~2024年)。2024年から滋賀県大津の古民家を改修して、日本文化・東洋文化を総合的に学ぶことができる私塾を開講している。
主な展覧会では、金沢21世紀美術館 東アジア文化都市2018金沢「変容する家」(2018)、釜山市美術館「BOTANICA」(2018)、OPAM「アート&デザインの大茶会」(2018)、ICOM京都大会/二条城・世界遺産登録25周年記念「時を超える : 美の基準 Throughout Time: The Sense of Beauty」(2019)、埼玉国際芸術祭(2020) 、千葉市美術館「とある美術館の夏休み」(2022) 神奈川県民ホールギャラリー「ことばのかたち かたちのことば」(2021) ポーラ美術館「天は自らを助くるものを助ける」、メゾンエルメス「雨奇晴好」、水戸芸術館 現代美術ギャラリー「クリテリオム65」ほか多数。
2018年~2020年「SHISEIDO THE STOREウィンドウギャラリー」、2020年「クロスフロンティア京都芸術大学美術工芸学科選抜展」、2023年10月〜「京都高島屋T8 THIS IS NATURE」、2024年5月「HANKYU ART FAIR 2024」のキュレーションを担当するなど幅広い活動を展開する。羽鳥書店などから計6冊の作品集が出ている。 執筆集「まるごと一冊ミヤケマイ」と最新作品集「反射」を2023年に刊行。三山桂依の名前で『おやすみなさい。良い夢を。』(講談社)と『色カラーズ』プラブダー・ユンとの共著(芸術新聞社)から2冊短編小説が出ている。2008年パリ国立高等美術大学校大学院に留学。2025年武蔵野美術大学非常勤講師。2024年「大人の寺小屋余白」主宰。
文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人。独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。