創造力を社会実装するアーツプロダクション Twelve とは何者か

創造力を社会実装するアーツプロダクションTwelve とは何者か

Twelve Inc.
2023.07.31
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美術家で映像作家の山城大督(やましろだいすけ)と、アートマネジメントやプロデュースを行う野田智子(のだともこ)が株式会社 Twelve(以下、Twelve)として法人成りし、活動をスタートしたのは、2020年6月。アーツプロダクションとして、京都を拠点に全国各地で活動を行う。メンバーは山城、野田のほか、フリーのアートマネージャーとして活動をしていた山口麻里菜(やまぐちまりな)、映像表現を中心に活動する須賀亮平(すがりょうへい)が加わり現在4名。それぞれの技術と創造力を活かし、ジャンルにとらわれないプロジェクトの立案・実施・管理・運営を行っている。今回は設立3年目を迎えたTwelveに、会社設立に至る経緯と、チームづくりについて、そして今後の展望を聞いていく。

Twelve Inc.のロゴ
ロゴデザイン:STUDIO PT.


Twelve という変換法

──いきなりですが、Twelve(トゥエルヴ)って何をする会社なのでしょうか。

野田:Twelveはアーツプロダクションです。「アーツ」はアートの複数形で「多様なジャンルを包括する広義の意味での芸術」を指しています。文化芸術分野における創造力と技術を用いてアートプロデュースやメディアプロデュースを軸に、企画制作と映像制作を行う会社です。


──社名にはどんな意味が込められていますか?

山城:「12」という数字は、何か目に見えないスケールを概念に変換するときによく使われる数字だと昔から気になっていたんですよね。暦とか干支、時計や音楽の平均律、あと色相環など。見えないものを見える化するための変換法のように感じていて。不可視な感覚を形にするシンボルとして「12」を選択しました。それと、会社の名前は誰でも使っている言葉を使いたいと思っていました。

野田智子さん(左)、山城大督さん(右)

──会社を設立したきっかけについて聞かせていただけますか?野田さんはアートマネジメントやプロデュースを中心に、山城さんはご自身も美術家、映像作家としてそれぞれ活動をされているわけですが、法人化はいつ頃から考えていたのでしょうか。

山城:2019年頃だと思います。僕が大学の仕事を始めたのもきっかけのひとつです。仕事の中で、教育分野を強化しようと考えていたタイミングで大学の話があって、京都に引っ越しました。教員をするなら大学での業務と作家としての活動の良いバランスを取りたいと考えていて、今後どう、山城美術【※1】の活動を続けていこうかと考えていたときに、野田の活動と合わせて法人にした方がいいかなと思いました。ちょうど、愛知県がコロナ禍で公募したアーティスト支援事業【※2】のプロポーザルに応募したので、そのタイミングで法人化しました。


──「AICHI⇆ONLINE(アイチオンライン)」ですね。これはどんなプロジェクトですか。

野田:愛知県が主催する、コロナ禍における文化活動の継続を目的としたオンラインプロジェクトです。コロナ禍で展覧会がなくなって、発表の場がない、観ることもできないような状況下で、アーティストやその制作を支えるさまざまな職能を持つ人たちと一緒に映画、現代美術、文学、漫画、音楽など計9つのプロジェクトを制作し、オンライン上で発表しました。

山城:コロナ禍では観る環境をつくると同時に、そこへ関わる人たちの仕事を創出していくというのが先決してやることだったので、それがTwelveとして1年目のプロジェクトになりました。実際には2年目以降、社会が少しづつ復旧していくなかでTwelveの具体的な事業計画を立てていった感じです。

「AICHI⇆ONLINE」のキービジュアル
ロゴデザイン:三重野龍
「AICHI⇆ONLINE」ウェブサイトトップ画面

──会社設立の翌年、2021年に山口さん、22年に須賀さんがメンバーとして加わります。おふたりはどのような経緯や理由でTwelveのメンバーに加わったのですか?

山口:私はこれまでどこにも所属せず、フリーで活動をしていたのですが、個人ではない働き方をしてみたいなと考えていたときに声をかけてもらいました。ひとりの意志とかビジョンを拠り所にして、そこを目指して仕事をしていくのではなくて、「法人格」として違う人格が持つビジョンや願いを元に仕事をしてみたかったというか。元々野田さんたちとはよく一緒に仕事をしていてお人柄とかもよく知っていたし、会社に就職をするのは、実は初めてなんですけど、ふたりの元なら嬉しいなと。

須賀:僕は秋田の大学院に通っていたんですが、在学中におふたりの共通の知人でもある萩原健一先生を介して、「あいちトリエンナーレ2019」の映像の仕事で声をかけていただいたのがきっかけです。大学からずっと秋田にいたので、自分の世界が狭く感じていたんですが、いろんな現場を見て世界が広がっていくことが楽しいなと思いました。そこから2年くらい秋田で働いていて、やっぱり自分の世界の狭さを感じていた時にTwelveに誘ってもらえたのですが、自分の中で良いタイミングだと感じたのと尊敬できるふたりだったので決めました。


──それぞれにTwelveとのご縁を感じますね。おふたりはTwelveにどのようなことを期待して働かれているのでしょうか。

須賀:自分自身に対しては、映像制作のスキルをもう少し付けたいなと思っています。でも、映像だけがやりたいわけでもないし、展覧会の設営にも行けたら楽しいし。会社には、仕事の多様性がありそうだなという期待をしています。

山口:自分だけの尺度で考えたり判断して進めるのではない、法人格がもっている「願いの立て方」みたいなもの……。例えば、信念とか哲学といったミッションみたいなところを相談して作れたり、そこへ向かって仕事ができること、少し遠くにボールを投げることができるといいなと思っています。


──野田さん、山城さんはいかがでしょうか。設立2年目にして規模が倍になった訳ですが。

山城:できる事業の規模や関わる人たちの量が変わったと思います。よろこびもそれだけ増えるし、それを相互に思いあえたり実感できるのは嬉しいです。よろこびってひとりで作るもんじゃないんだなって思いますね。去年、山口さんが担当している山口情報芸術センター[YCAM]の「やまぐちアートコミュニケータープログラム:架空の学校『アルスコーレ』」【※3】の運営現場に3人でサポートに行ったんです。4人全員で一緒の現場に関わるっていうのはこれまであまりない機会でしたし、チームでやっているからできる事業なんだなって感じられたのがよかったですね。

野田:Twelveはみんなのものでもあるっていうチーム感覚があります。これが自分たちの仕事なんだなという手応えは、これまで持っていなかった感覚です。あとは単純に、わからない時に頼れる存在がふたり増えた。彼らからの刺激もとても多いですし、そういう環境が自分にとっても会社にとってもいいなって思います。

山口麻里菜さん(左)、須賀亮平さん(右)



──仕事の依頼はどのようなものが多いのでしょうか?今、関わっているプロジェクトがあれば教えてください。

山城:展覧会やアートプロジェクトの企画制作と文化芸術分野における映像制作が業務の中心です。広報のための映像制作もあれば、映像配信をコーディネートするときもあります。いま企画をしているのは、名古屋城でのアートプロジェクトです。名古屋城史跡は戦前、城郭として国宝第一号に選ばれた文化的にも高い価値のある史跡として知られていたのですが、戦下の空襲により天守閣をはじめとする主要な建造物が焼失してしまいました。その後、天守閣の再建や本丸御殿の復元整備が行われています。そのような歴史背景を持った特別史跡を舞台にした展覧会を企画していて秋に実施する予定です。


──面白そうですね。Twelveの仕事の多くは企画から入り込み、クライアントと協働しながら制作していく形だと思います。今後、どのように仕事の幅を広げていこうと思われていますか?

山城:難しい質問ですね。変革し続ける事業でありたいですし、特に教育の観点からは、価値観や社会通念の更新をさせたいと思っています。今ある価値をさらに広げるより、初期値を少し変えることをしていかないといけなくて、その変え方が大事だなって思います。価値観や社会通念って「あたりまえのもの」なので自覚しにくいと思いますが、そこを多角的に見せてくれることがアートの仕事として有効であると思うし、大きく意識を変えていくことができる事業をやっていきたいですね。


──活動を拡張して、社会に向けて声を上げていきたいということのようにも聞こえます。具体的な構想はありますか?

山城:長期的に大きな事業を提案していく必要があると考えています。具体的に日本には、「アーツ」に出会える場所が少ないと思っています。僕の場合は、幼少期に図書館で表現を味わうよろこびを知りました。それを美術館で教わる人もいるだろうし、公民館とか近所のおじさんとかから教わる人もいると思う。一方でそういうチャンスがあまりにも不平等で偶然性に任せすぎていると思うんです。鑑賞するための美術館とかスポーツをするための運動場とかそういうことではなくて、もっと複合的で恒久的な場所が公共施設として必要だし、それをつくりたいと思いますね。


──複合的で恒久的な場所、というと…もう少し聞かせていただけますか?

山城:例えば美術館や劇場やアートセンター、そして公民館や学校や公園・スタジアムという機能を大幅にアップデートさせて混合させた場所だと考えています。それは今の世の中にない新しい機能の提案です。未知な事象や文化に出会うことができ、歴史や知識を得ながら誰もが感覚を開くことができる場所です。そういう都市機能としての居場所を「あたりまえのもの」として、いつか社会実装させたいですね。

Twelve Inc.のオフィスにて


Twelveのルーツとは

──前半では現在の Twelveの活動について話を伺いましたが、後半は番外編的に、Twelveの設立者でもある野田さん山城さんご自身についての話を聞かせていただけたらと思います。美術学校へ進学した多くの学生が卒業後、アーティストとして活動を続けるのか、進学・就職をするのかを考える中、おふたりもご自身の「表現」を模索してこられたのかと思います。卒業後は企業や美術館などへはすぐに就職をされなかったおふたりが、現在Twelveを設立し、会社を運営されているわけですが、この辺りの経緯を遡って詳しく聞かせていただけますか。

山城:僕は幼少期に映画というメディアに出会ったのが、表現の世界に入っていく入口だったと思います。映像の中に没入する感覚が好きで、とにかく多くの映画を10代の中頃までに見ていましね。小学4年生の時に近所に大規模図書館ができて、映画や音楽など数万タイトルあるオーディオビジュアル資料を無料で自由に見ることができました。その体験が大きな礎になったなと思っています。


──高校は確かデザイン系の高校に進学されるのですよね。

山城:映像が学べる美術高校に通いました。映画に憧れて表現に入っていったんですけど、実は、映像表現というものが物語に接続したものだけでなくて、現代美術の中にも映像が使われている。ナム・ジュン・パイクや岩井俊雄やダムタイプ、そしてクラブカルチャーでのVJのように多様な表現活動をしている人たちの存在に出会って、映像が横断したメディアなんだと知るんです。それで、高校卒業後は美大に行こうとしたんですけど勉強を全然しなかったのでどこにも受からず。

野田:画塾にも通わないで、対策も勉強もしなかったらしいです(笑)。

山城:自信家なので(笑)。インターメディウム研究所・IMI「大学院」講座【※4】という、大阪に1996年に開校したメディア・アートと現代美術を学べる大学や専門学校などの課程を終えた人々を対象としたアートスクールに1年間通いました。ほとんどの学生が、僕より4つも6つも年上の人たちでした。今考えると、その時に受けた影響は絶大なものでしたね。千里万博記念公園内に校舎があり、そこに入り浸りました。


──高校生としては結構、思い切った選択ですよね。その後IAMASに進学されるのも必然性を感じます。

山城:メディアアートを学ぶ岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー[IAMAS]【※5】に入る前は当然、コンピューターを使った作品を作ったりするんだろうなと思っていたんですけど、当時のIAMASは、大学を出た後にきた人や社会人が8割くらいで高度な技術を持って表現をする同級生がたくさんいたんです。これはもう、この人たちと一緒に何かをやればいいなと思って、作りたいものを伝えてコラボレーションをしていました。たとえば「アーカイ美味んぐ」【※6】っていう、いまも継続活動しているグループなんですけど。

当時、SNSの前身になるようなシステムを研究していた友人と、コミュニケーションツールを使った「人間臭くてダサいメディアアート」みたいなことをやっていました。「アーカイ美味んぐ」は「アーカイブ+美味しい+進行形のing」を掛け合わせた造語なんですが、とにかく過ぎ去っていく日々をデジタルカメラやビデオカメラで記録して共有する活動をしていました。その代表的なアウトプットがウェブサイト《ArchiBIMIng Fanta! Plastik!》です。メンバー3人が携帯で撮った写真をメールでサーバーに送るとずらっと並ぶサービスを作って、そこを介して反応が返ってくるという、コミュニティサイトみたいなことをやっていました。


──まるでInstagramですね。

山城:今でいう「いいね」みたいな概念がなかった時代の話です。当時のインターネット上の肌感覚を実験して表現いたんだなと思います。映像作品を作りたいってよりも、映像を使ってコミュニケーションを具現化しようとか実現しようという気持ちの方が大きかったと思います。

「アーカイ美味んぐ」の当時のウェブサイト



──IAMAS修了後は、就職されずに京都造形芸術大学(現:京都芸術大学)のアートプロデュース学科に進学されます。

山城:やっとつかみ始めた関心領域である「現代美術」「メディア芸術」「コミュニケーション」についてさらに研究したいと思い始めたんです。IMIでもIAMASでも作品の技術的なことは教えてくれるけど、技術というのは結局道具であって、その使う目的までは教えてくれない。展覧会を作ることも経験したかったし、現在進行形で作品を作るアーティストやキュレーターのことをもっと知りたくて進学しました。


──教員にはどんな方がいたのでしょう。

山城:ニューヨーク近代美術館(MoMA)で考案された対話型鑑賞の取り組みを日本に紹介した福のり子先生【※7】との出会いはとても大きいですね。当時、福先生はニューヨークから帰国して間もない頃で、海外のアートスクールでの授業を受けているような、ものすごくパワフルな先生でした。対話型鑑賞のファシリテーターの養成講座を開講していて、福先生のプログラムには多くの時間を使って参加しましたね。


──その後、山口情報芸術センター[YCAM] に就職されたのは、学びに手応えを感じられたからですか?

山城:学問って掘れば掘るほど終わりがないですよね。一方で、ただ掘るんじゃなくてどこで、何をアウトプットするかということを見せていかないといけないんだってことに気がつくんです。だけどそれを出す能力と経験値はないので、まだ続けないといけないんだということもわかる。その経験値を得るためという感じでしょうか。自分が持っている技術とそれが最終的に複合されていく準備をするっていうタームに入った感覚があったと思います。


──YCAMでは、教育普及課という部署でエデュケーターとして働かれます。どのようなプロジェクトに関わっていたのでしょうか。

山城:現在、YCAMのアーティスティック・ディレクターでありアーティストの会田大也さんらと、教育プログラムの企画や開発をおこなっていました。主には、子どもを対象としたワークショップやアーティストと市民が協同して作品制作するプロジェクトなどです。予想外に教育に関わりはじめることになりましたが、自分が持っている知識や経験や感動を教えたい、渡したいということは常々思っていたのですごく面白かったです。仕事の契約上、屋号が必要になったので、山城美術を立ち上げたのもこの頃です。YCAMの職員をした当時、中﨑くんに出会って、Nadegata instant Patrty が結成されました。


──なるほどYCAM在籍中にNadegataを結成されたのですね。野田さんはいかがでしょうか。大学では写真を専攻されていたのですよね。作品制作をしながらもその後、アートマネジメントやプロデュースの方面に進まれます。この辺りの経緯を聞かせていただけますか?

野田:私は滋賀の成安造形大学で写真の勉強をしていました。制作も行うのですが、企画をつくるとか、作品を発表する環境づくりに面白みを感じていましたね。大学には当時、写真家の澤田知子さんがTA(ティーチングアシスタント)として在籍していらしたんですけど、澤田さんが木村伊兵衛写真賞を授賞されたのもこの頃です。スターになっていく姿を目の当たりにしました。一方で、美大を卒業した後に作家としてやっていく人ってどのくらいいるんだろうというようなことを考えるようになりました。


──大学卒業後は、就職はせずに大学院に進学されていますね。

野田:自分が制作をすることよりも、アーティストがどう社会のなかで生きていくのか、ということに興味を持ちはじめて、アートマネジメントが学べる静岡文化芸術大学の大学院へ進学しました。現代アートの制作現場やアーティストの制作環境について学びたいと思っていたんですけど、授業は文化政策の歴史であったり、地域文化の振興について法律的な視点や自治体としてどうシステム化するかといった話しが中心で、ちょっとイメージと違うなと思っていました。それで、東京でキュレーションが学べるスクール「AIT」【※8】を見つけて、浜松からバスで半年間くらい通っていました。


──進学後に感じられていた「リアリティのなさ」というギャップはスクールに通うことで補填できたのでしょうか。

野田:うーん。AITでは現代アートの歴史や、展覧会の動向などを学びながら議論するんですけど、当時は知識が追いつかずに、私はワードを追うような時間の方が多かったかもしれないです。ここでもリアリティのなさというか、自分が見ているものとの温度差を感じていました。そのころに中﨑くんに会うのかな。この辺りのモヤつきを聞いてもらっていました。大学院やスクールではわからないから自分でアクションして始めようって思ったのがナデガタの活動に繋がっていきます。


──ここで中﨑さんに出会われるのですね。当時の中﨑さんについて聞かせていただけますか。

野田:自分がこれまで会ったことのないくらい、よく喋る作家って印象でした。中﨑くんは、自分でも武蔵野美術大学の学内に「遊戯室」【※9】っていうギャラリーをもっていました。油絵専攻なんだけど、ストレートに絵を書かない作品を制作していて。作品数も圧倒的な数ですし、何キロあるんだよっていうポートフォリオをいつも持ち歩いていていました(笑)。


──Nadegataを結成しようというのは野田さんのアイデアだったのでしょうか。

野田:中﨑くんに出会った同時期に、TOTAN GALLERY (とたんギャラリー)【※10】のオーナーに「何か企画をやってみない?」って声をかけてもらったんです。コミュニケーションを主題に作品を作っていた中﨑くんと、同じくデジタル手法を使ってコミュニケーションをテーマに作品を発表していた山城で「二人展」をやったら面白いんじゃないかなと思って、私から声をかけました。

Nadegata instant Patrty の活動の様子(写真中央でマイクを持っているのが中﨑さん)
写真:三浦知也



──展覧会の企画がきっかけだったのですね。その後、アーティストユニットとして活動を継続していったのはどういう理由からでしょうか。

野田:私自身は、山城と中﨑くんの「二人展」にキュレーションとして入るつもりでいたのですけど、当時自分が感じていた、作家の制作環境とかお金の話などの問題意識を中﨑くんに話していくうちに、こうした問題にゼロからコミットしていく活動をしたらいいんじゃない?ってヒントを出してくれたんです。中﨑くんがやっていたオルタナティヴスペース(「遊戯室」)自体が彼の問題意識からくる取り組みですし、私も内部に入りながら一緒に見ていくというのは面白いと思いました。ふたりならゼロからの共同体としてやっていけるというのが肌感覚としてあったのでNadegataを結成しました。


──学校で感じた「リアリティのなさ」というギャップをNadegataの活動で埋めていったのですね。

野田:そうですね。自分にもすごくフィードバックがあったと思います。自分たちで稼働していかないとNadegataは進んでいかないですし。アーティストの活動の当事者になるとういうのはめちゃくちゃリアリティがありました。


──Nadegataとしての活動を続けつつ、アートギャラリー「無人島プロダクション」等でも仕事をされています。その後、個人では「一本木プロダクション」として事業を始められていますがこの辺りはいかがでしょうか?

野田:今まで仕事でインプットをさせてもらってきたことをNadegataではないチャンネルでやっていきたいなと思っていて、ちょうど子どもができて今後の働き方を考えていたタイミングでした。ほそぼそでもいいから自分で屋号を持とうと思って、作品やプロジェクト自体のマネジメントを行う、「一本木プロダクション」【※11】を作りました。



Nadegata Instant Party という接続法

──おふたりがどのような経緯で文化芸術分野における創造力や技術を育まれてきたのかよくわかりました。さて、中﨑透さんとの出会いを境にいよいよNadegata Instant Party(以下、Nadegata)としての活動がスタートするわけです。現在も活動を続けられているNadegataというグループについて、まずはお話を聞かせいただけますか?アーティスト名である「インスタント・パーティー」というコンセプトはどこから出てきたのでしょうか。

野田:その場に集まった人たちと一緒に、即興で作品を作るみたいなことをやりたいよね、っていうのはNadegataを結成するとき立ち上がってきたアイデアです。パーティーってクラブイベントとかお誕生日会のような社交を目的とした会という意味もあるんですけど、山登りを一緒に行うグループをパーティと呼んだり、党という意味もあるんです。

山城:「ナデガタ」は当時、仲間うちで「アンニュイ」とか「柔らかい」って意味で使っていた意味のない言葉。コンセプトを入れないってことをコンセプトにしています。


──最初の作品は『インストールパーティー』(2007年)ですね。これはどんな作品ですか?

野田:東京の南阿佐ヶ谷にかつて存在した団地「阿佐ヶ谷住宅」に前川國男が設計したテラスハウスがありました。この場所一帯が半年後に取り壊しが決まっていて、ある住人ーの自宅1階を取り壊すまで実験的にギャラリーとしてひらくという特殊な場所で発表した作品です【※12】。まず1週間の搬入期間が設定してあり、その期間中に天井からバナナが吊るされているんです。そのバナナをとるためには70cm床をあげないといけない。なので、ギャラリーにきたお客さんと床をつくる。でも、床だけつくり続けるだけでは面白くないので、バナナが取れた後にどうやって食べるかレシピを考えたり、新しく作られる床と元々の床の段差を使ってゲームをしたり、夜になると集まった人で毎晩パーティーをするという。この搬入期間が終わる7日目には、床も無事完成しバナナが取れるようになって、美味しいバナナを食べました。搬入後の展覧会期間中は、搬入中に起こった様々なエピソードを写真やテキストを使って展示を行いました。ある「場」で出来事を起こすことと、その「場」にいる人とどう過ごすか、そしてその出来事をどう残すか。時間軸も場所性も含まれた、複雑な構造の作品ですよね(笑)。これがNadegataの初期作です。


──作品の主意はコミュニケーションにあるようにも感じます。

野田:そうですね。それはあると思います。アーティストふたりの興味も固定された物体というよりも、その場に行って出会えるコミュニティや目には見えない時間軸みたいなものに興味があったので、コミュニケーションが主題と言っていいと思います。

山城:「バナナをとる」というのはコミュニケーションを生むために用意された目的です。


──なるほど。意味のなさを面白がっているからこそ、みんなが楽しめるのかなという感じがします。

山城:学校でもないしサークルでもない歪な形を「インスタントパーティー」として行っていた感じです。それを想定して名前をつけてもいます。


──即興である一方で、そこで起きる出来事を作品として残すことであったり、作品を通じて生まれたコミュニティを育成するということに関してはどのように考えてましたか?

野田:コミュニティの育成については最初から想定していないです。むしろまったく意味を持たない即興的なコミュニティを作ったときに、何が起きるのか?ということに関心があったんだと思います。

山城:僕個人としては、映像をやっているので「出来事を記録する」ことに興味があったし、中﨑くんは作品の時間軸だったり、作品を通じて生まれたコミュニティがその後どうになっていくか、ということに元々関心があったんだと思います。それぞれの関心領域を前提に、そこで起こっていることをどう作品化させるかですよね。「インストールパーティー」のときは僕としては10日間くらいの間に起こった何の変哲もない出来事を、写真や映像に記録して、最後に記録展覧会としてべちゃっと落とすみたいなことをしました。当然、残り切らないものもたくさんあります。コミュニティを「継続する」ということは想定していないんだけど、一方で作品に参加した人が次のプロジェクトにも参加をしてくれるみたいなことも起きている。作品自体は話題になって、たくさんの人が観にきてくれました。


──それはNadegataの活動を追う人たちが生まれたということですか?

野田:活動中に参加してハマってそのままずっと別の現場にもきてくれる人もいますし、疎遠になった人ももちろんいます。コミュニティといっても、その人個人と私個人との関係づくりになっていくから、お互いの人生に入っていく感覚はあります。

《インストールパーティー 》 2007  とたんギャラリー
詳細は注釈【※12】
《Reversible Collection》 2009 水戸芸術館現代美術センター
水戸芸術館で2009年に行われたコレクション展「現代美術も楽勝よ。」の関連企画として発表された作品。一般公募で集まった約50人のキャスト、スタッフと共に架空の映画『学芸員A最後の仕事』を制作した。映画のモチーフは、水戸芸術館やコレクション、そして展覧会そのものであり、鑑賞者は会場を通常のコレクション展としても、映画の舞台セットとしても見ることができた。
《24 OUR TELEVISION》 2010  国際芸術センター青森(ACAC)
Nadegata Instant Party が、国際芸術センター青森を拠点に、一般公募で集まった100名以上の人々とインターネットをベースとしたテレビ局を立ち上げ24時間テレビを制作するという試み。放送後日、テレビスタジオと化した展示室では「ドキュメント展」として当日のアーカイブ記録を展示した。
《カントリー・ロード・ショー》2012 東京都現代美術館
同美術館の展覧会、「MOTアニュアル2012」にて発表された映像インスタレーション。本作品でNadegataは団塊世代の16名と『だんかい JAPAN 合唱団』を結成。鑑賞者はメンバーが育った戦後日本の記憶が語られるモニター映像を巡りながら、約37分間の映像アトラクションを体験する。最終章では彼らの合唱で大団円を迎えるクロニクル・インスタレーション作品。
《STUDIO TUBE》あいちトリエンナーレ2013
中部電力本町変電所跡地を舞台にして、かつて中部地方の映画製作の拠点であったという架空の特撮スタジオ「STUDIO TUBE」を制作。スタジオが役目を終えて閉鎖されるにあたり、最後のオープンスタジオを観客が楽しむという「口実」の元、エキストラ数百名が集められた。会場内では、同スタジオで制作されたという8つの代表作のダイジェスト版を鑑賞しながら、虚構と現実が混じり合う体験が形成された。
《ホームステイホーム》2021 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館
全国各地の人々とオンラインで繋ぎ、丸亀の観光案内をしたり食事をしたりするホームステイプログラム。丸亀市民がホストとなり、Nadegataが、ほぼ全都道府県から集まった参加者と繋げ、関係性が深まっていく様子を記録した。本プロジェクトに関しては、『MIMOCA マガジン』でインタビューが掲載されている。
『「丸亀での現在」《ホームステイホーム》ーNadegata Instant Party インタビュー 前編』

『「丸亀での現在」《ホームステイホーム》ーNadegata Instant Party インタビュー 後編』



山城:17年経っているので状況も考え方も変化していると思います。当時は何か問題を解決していこうみたいなことは全く想定していなかったですし(笑)。むしろ解決されないまま、コミュニティが生まれて、続いていくということを面白がっていた感じもあります。

野田:Nadegataはこれまで半年〜1年目に土地のリサーチをして、2年目以降に長期的に滞在し制作して発表するをするという短期間で密なコミュニケーション手法でやってきたんですが、5年とか10年とか長期的な関わりのなかで作品を作っていくほうが、自分たちの現在のライフスタイルにもフィットしているんじゃないかなと感じ初めています。

山城:インスタントであること自体は変わらずポジティブに捉えているんだけど、一方でいつでもインスタントを脱却したり、時間軸を伸ばしたりしながらやっていきたいなと思います。


──フレキシブルなインスタントということですね。一周してNadegata Instant Partyのコンセプトに戻ってきたようにも感じます。「インスタントパーティー」という形態は今後も続くのでしょうか。

山城:そうですね。もちろん今後も続けていくんだけど、いまはもう少し長いスパンで「インスタント」をしていくということに興味があります。例えば、展覧会の会期って長くても半年くらいかと思うんですけど、5年くらい続く展覧会があってもいいんではないかなということを提案していたりします。行政と行うアートプロジェクトも同じことが言えて、1年とか3年の予算枠の中で行うんじゃなくて、もっと長期的な視点で行うべきだと思うし、こちら側もクライアントがいないとできないやり方ではないやり方を考えるべきかとも思います。クリスト【※13】とかアートプロジェクトの源流のような人たちが行ってきたことが参考になるのかもしれません。一方で、硬派なアートから脱却をするために、Nadegataを作ったようなところもあるので、どのポイントに行くかというのを常にチューニングしているというか、リビルディングし続けていく感覚は持ち続けるんだと思います。これは、Twelveにも言えることかもしれないけど。


──なるほど。Twelveという別のチャンネルが生まれたことで、Nadegataとしての表現が拡張していくようにも聞こえますし、本来的な表現活動の方向にますます向かっていくようにもであるようにも感じますね。いずれにせよ、NadegataとTwelve2つの異なるアウトプットが影響し合うからこそ、将来の展望がシナジーしていく部分もあるのかもしれませんね。本日はありがとうございました!

京都市上京区にあるTwelve Inc.のオフィス

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関連情報

 Twelve Inc.
(URL最終確認:2023年7月31日8時8分)

Nadegata Instant Party(ナデガタインスタントパーティ)

中﨑透、山城大督、野田智子の3名が2006年に結成した、アーティストユニット。正式名称は「Nadegata Instant Party(中﨑透+山城大督+野田智子)」
(URL最終確認:2023年7月31日8時8分)

中﨑 透(なかざき とおる)
1976年茨城生まれ。美術家。武蔵野美術大学大学院造形研究科博士後期課程満期単位取得退学。現在、茨城県水戸市を拠点に活動。言葉やイメージといった共通認識の中に生じるズレをテーマに自然体でゆるやかな手法を使って、看板をモチーフとした作品をはじめ、パフォーマンス、映像、インスタレーションなど、形式を特定せず制作を展開している。展覧会多数。2006年末より「Nadegata Instant Party」を結成し、ユニットとしても活動。2007年末より「遊戯室(中﨑透+遠藤水城)」を設立し、運営に携わる。2011年よりプロジェクトFUKUSHIMA!に参加、主に美術部門のディレクションを担当。(本人Webサイトより)
(URL最終確認:2023年7月31日8時8分)

山口情報芸術センター(通称:[YCAM] )
山口県山口市にあるアートセンター。メディア・テクノロジーを用いた新しい表現の探求を軸に活動している。YCAMは開館以来、メディア・テクノロジーを用いた新しい表現の可能性を幅広いアプローチで探求しており、その成果を展覧会や公演などのイベントを通じて発表している。
山城さんも長く同施設に関わっており、直近は架空の学校「アルスコーレ」の活動に、Twelve Inc.として関わっている。(+5では過去にYCAMのR&Dセンターに関する記事をリリースしています。YCAMについてもっと知りたい方はこちら
(URL最終確認:2023年7月31日8時8分)

注釈

【※1】山城美術 
2006年に山城大督が設立し、2019年まで運営していた映像プロダクション。

【※2】「AICHI⇆ONLINE(アイチオンライン)
愛知県が2021年に文化芸術活動緊急支援金事業/アーティスト等緊急支援事業として主催、実施したオンライン・アートプロジェクト。
(URL最終確認:2023年7月31日8時8分)

【※3】やまぐちアートコミュニケータープログラム:架空の学校『アルスコーレ』
(URL最終確認:2023年7月31日8時8分)

【※4】インターメディウム研究所(通称:IMI)
1996年設立。「マルチメディア時代のバウハウスを目指す」ことを理念としていた。大学や専門学校などの課程を終えた人々を対象としたアートスクール(教育機関)、「インターメディウム研究所・IMI「大学院」講座」などを運営し、「彩都IMI吹田市大学院スクール」「IMI school」など呼称を変えながら活動を継続。メディア教育の実践の場を作り出し、次世代のメディアを担う人材を多く輩出してきた。現在は「写真表現大学 & Eスクール」として活動している。
(URL最終確認:2023年7月31日8時8分)

【※5】情報科学芸術大学院大学(通称:[IAMAS(イアマス)] )
岐阜県にある大学院大学。岐阜県は90年代から高度情報化を重要な政策としており、情報社会の新しいありかたを創造する表現者の養成、人材養成の拠点として、県の情報産業拠点であるソフトピアジャパンとともに1996年に、岐阜県立国際情報科学芸術アカデミーを設立したことに端を発する。当時は専修学校(実践的な職業・技術教育を行う教育機関)であり、メディア表現を専門的に学べる貴重な機関であった。メディア表現を中心とした現代アーティスト、キュレーター等、日本のアートシーンを担う人材を多数輩出している。
(URL最終確認:2023年7月31日8時8分)

【※6】アーカイ美味んぐ
2002年、岐阜にて結成。「Archive」+「美味」+「ing」。メンバーは萩原健一、丸尾隆一、山城大督の3人。現在も活動は続いている。

【※7】福のりこ
京都造形芸術大学(現 京都芸術大学)教授。芸術表現・アートプロデュース学科教授、学科長、アートコミュニケーション研究センター所長を歴任し、2023年3月で退任。1991年に、ニューヨーク近代美術館で開発された対話型鑑賞 (VTC:Visual Thinking Curriculum)を学び、日本に紹介した。2004年には日本の教育界では初めて、年間必修授業として対話型鑑賞を取り入れるなど、鑑賞教育の発展に寄与した人物。
著書に『美術館ものがたり』(共著/1997/淡交社)、『なぜこれがアートなの?』(アメリア・アレナス著/福のり子訳/1998/淡交社)。

【※8】AIT
(URL最終確認:2023年7月31日8時10分)

【※9】中﨑透遊戯室
アーティスト中﨑透が、2005年武蔵野美術大学在学中に自身のスタジオ内に設立したオルタナティヴスペース。自身で企画し運営を行っていた。卒業後、2007年にアーティスト有馬かおるが水戸で管理するキワマリ荘の建物の中の一画に、キュレーター遠藤水城と共に再オープンする。

【※10】TOTAN GALLERY
(URL最終確認:2023年7月31日8時10分)

【※11】一本木プロダクション
2013年〜2019年まで野田さんが運営していた個人事務所。
多ジャンルでの表現者の作品マネジメントや販売、企画製作などのプロジェクトを立ち上げ展開していた。
(URL最終確認:2023年7月31日8時10分)

【※12】《Install Party》 (2007年 とたんギャラリー)
サブタイトルは、「高いところにあるおいしいデザートが食べたいんだ」。
刻一刻と変化していくギャラリー空間自体を会場とし、高いところにあるバナナを取るというひとつの口実(目的)のために、訪れた観客と木材を用いてギャラリーの床を70cm高くする公開制作を行った。公開制作期間中は、毎日17時から日替わりパーティ(イベント)を行い、展示期間中は、それまでの制作ドキュメントを展示した。Nadegataの記念すべき最初のプロジェクト。Nadegataは、本作品制作を経て、経験と記録の乖離性について問題意識を持ちはじめたと言える。Nadegataの「インスタントな体験」というのは、初めて会う人との共同作業によって成立する。そこには一種の「熱」が生じ、それが連鎖することで爆発的なエネルギーとなり、プロジェクトの価値を高めていくが、記録としてそれが残った時に、どうしても「伝わらない」部分というのが生じてしまう。山城さんは《Install Party》でそのことに強いショックを受けたと『アートプロジェクトの悩み・現場のプロたちはいつも何に直面しているのか』(小川希・編/フィルムアート社/2016)で語っている。その問題意識からインスタントな経験を残すこと、そしてその手法に重いて試行錯誤しながら、Nadegataの活動は続いている。

【※13】クリスト
ブルガリア生まれの現代アーティスト。妻で美術家のジャンヌ=クロードと共に、「クリストとジャンヌ=クロード」としても活動を行っている。ふたりの重要なキーワードとして「梱包」がある。クリストが日用品の梱包を始めたことに端をなし梱包の規模は徐々に巨大化。現在では巨大な建造物や公共空間も「梱包」し、見慣れた風景を遮ることで、日常風景に変化を与え、新鮮なショックを鑑賞者に与えている。彼らの作品はその性質上、恒久的な展示は不可であり、ある種インスタントな体験を限定的に集まった人々に与えるものと言える。


INTERVIEWEE|

山城 大督(やましろ だいすけ)

Twelve Inc.代表取締役。美術家・映像作家。
1983年大阪生まれ。映像の時間概念を空間やプロジェクトへ応用し、その場でしか体験できない《時間》を作品として展開する。主な作品に、広島の住宅街を舞台に50人の少年少女が同時間帯に自宅のピアノを演奏するコンサート《Time flows to everyone at the same time.》(2010)や、名古屋の港まちで住民や環境と27個の約束をする《Fly Me To The TIME.》(2017)がある。2006年よりアーティスト・コレクティブ「Nadegata Instant Party」を美術家の中﨑透とアートマネージャーの野田智子と結成し、「あいちトリエンナーレ2013」「瀬戸内国際芸術祭2016」など全国各地で作品を発表。主な展覧会に森美術館「六本木クロッシング2016展:僕の身体、あなたの声」。山口情報芸術センター [YCAM] にてエデュケーターとして、オリジナルワークショップの開発・実施や、教育普及プログラムを多数プロデュース。京都芸術大学専任講師。豊中市立文化芸術センター プログラム・ディレクター。第23回文化庁メディア芸術祭審査委員会推薦作品受賞。

野田 智子(のだ ともこ)

Twelve Inc.取締役。アートマネージャー。
1983年岐阜生まれ。2005年成安造形大学造形学部写真学科卒業、2008年静岡文化芸術大学文化政策研究科修了。無人島プロダクションにてアーティストのマネジメントや作品販売に携わった後、国際芸術祭の広報などに携わる。2013年よりアートマネジメントを専門とした個人事務所「一本木プロダクション」を主宰。ジャンルや環境にとらわれず、アーティストとの協働/作品販売/企画制作/出版などのプロジェクトを展開する。2015年-2017年、Minatomachi Art Table, Nagoya[MAT, Nagoya]共同ディレクター。2018年-2019年、あいちトリエンナーレ2019ラーニングセクションマネジメント担当。2021-2022年、国際芸術祭「あいち2022」ラーニングコーディネーター。アーティストコレクティヴ「Nadegata Instant Party」メンバー。2020年より関西学院大学にて非常勤講師を務める。

山口 麻里菜(やまぐち まりな) 

アートマネージャー。
大学で現代美術を、 大学院で障害児教育を学ぶ。 2010年4月からフリーランスのアートマネージャーとして主にアートプロジェクトやラーニングプログラムの運営に携わりながら、 障害福祉の現場でも活動している。 東京2020オリンピックパラリンピック公認文化オリンピアード「TURN」プロジェクト・コーディネーター(2017年〜2021年)、あいちトリエンナーレ2019 ラーニングコーディネーター(2019年)等を担当。2021年4月から株式会社Twelveメンバーとして活動。

須賀 亮平(すが りょうへい)

映像ディレクター。
1993年北海道生まれ。2019年秋田公立美術大学大学院複合芸術研究科修了。2020年よりNPO法人アーツセンターあきたにて、展覧会の設営や記録撮影、施設管理など幅広い業務に従事。大学院修了後より国内の文化施設にて映像作品を発表するなど表現活動を行う。2022年4月から株式会社Twelveメンバーとして活動。 


INTERVIEWER|奥田 奈々子(おくだ ななこ)

フリーランス編集者。1982年東京都出身。大学卒業後、新聞社勤務を経て建築雑誌やウェブ、美術インタビュー誌の編集者として活動。現在、奈良と山口を拠点に活動。コンテンツ制作のほか、イベントや教育プログラムの企画制作、運用も行う。アート・建築・教育分野を中心に 企画・編集・制作を通してテーマや目的のアウトプットについて考え実践することを活動軸としている。最近の関心事は祭りなど伝統文化の伝承について、知財、公害、福祉。