大学院博士後期課程の修了後、任期付きの研究職を転々とし、正規雇用のポストに就くことのできない博士研究員(通称ポスドク)の状況を指す「ポスドク問題」。優秀な若手研究者の存在は学術的な研究活動の場を活性化させる重要な役割を担うも、社会的に不安定な立場に晒されることが多い。キャリアパスが不透明であることも、その問題のひとつである。
タイの映像作家アピチャッポン・ウィーラセタクンの作品を主な対象に研究を行う中村紀彦さんは、大学院の博士後期課程在籍中に神戸市が2019年度に新たに設けた試験区分デザイン・クリエイティブ枠に応募し、同枠の第一期生として合格する。大学を離れ、翌年の2020年4月より神戸市の職員として行政の仕事に従事しながら現在も自身の研究を続けている。研究者のキャリア/働き方としては少し特異と言えるだろう。
本稿では、映画制作を志していた中村さんが映像作品、とりわけアピチャッポン作品を研究するようになった経緯と、研究を行いながら神戸市の職員として働く彼の眼差しの先にあるものについて伺った(本文中敬称略)。
少年時代は、ハリウッドのアクション映画などをテレビでよく見ていたという。日本テレビの『金曜ロードショー』やテレビ東京の『木曜洋画劇場』(2009年3月に放送終了)をはじめ、テレビで映画を見る機会が今よりもあった。中でもNHK BSで放送されていた『衛生映画劇場』(現:『プレミアムシネマ』)では、「渋い」ラインナップが多かった。
「『ジュラシック・パーク』(1993)とかもしこたま見ました。やっぱりスピルバーグ監督作品は好きでしたね。そういえばアピチャッポンも、映画館で彼の作品を夢中で観ていたとか。でも僕は映画館になどほぼ行かず、映画を字幕で見るという体験をしたのも、NHK BSがせいぜい初めてでした。あと、テレビで放送していた映画は全てビデオにダビングしていましたね。とにかく全部です(笑)。映画ノートを作りながら、ダビングしたビデオが並んでいくのが嬉しくて。その当時に見た『ブレイド』(1998)【※1】は、今でも一番好きな映画です。」
やがて映画制作を志し、高校卒業後は立命館大学の映像学部に進学する。同学はいわゆる芸術大学ではないながら、太秦にある松竹の撮影所内にスタジオを持っていたり、制作現場で活躍する教員からの指導を受けられたりするなど、実践的な映像制作を学べる稀有な学部である。理論的な知識を蓄えながら映画を撮れるのではないかと期待し入学するも、周囲の学生たちの意識は少し違ったようだ。
「面白い映画を見て、喧々諤々議論した上で映画をつくる理想を夢見ていたんです。でも、「どういう意図でここにカメラを置いたん?」と聞いても、自分の感性を信じきっている人が多かった。つまり、自分の表現はオリジナリティそのものだと。かつそれが「なんかイイ」とする雰囲気がありました。厳然と映画史が横たわるなかで、あらゆる映画作品に埋れて影響を受けた結果、オリジナリティなどもはや生まれようのない世界で何かを生み出すために足掻くというのが自分の中では理想だと思っていて。だから自分の感性を信じる人たちに嫉妬しました。僕はそれができなかったんです。」
直感的に撮影する学生たちに疑問を感じながら、徐々に映画を作ること自体があまり楽しくなくなってきたという。しかし、映画を考えることは一貫して面白い。そうした状況の中、ハリウッド映画や現代思想に詳しい北野圭介が担当する授業に出会う。
「アルフレッド・ヒッチコック監督の『裏窓』(1954)や『めまい』(1958)などの古典的な作品を見ながら、それを精神分析理論で切っていく授業なんですけど、めっちゃ面白かったんです。「なんでこの女性は緑の服を着ているのか」ということを、映画の中で類推していって「やっぱり彼女は緑を着るしかないよね」と十分な条件にさせる。映画のなかに留まり続けて思考することと、映画の外にある様々な知の枠組みやツール(哲学や美学など)を援用してどんどん映画作品を解体していく作業が気持ちよかった。映画を解剖して心ゆくまで堪能してから再構築すると、同じパーツなのに全く異なる相貌になる……そんな創作の手触りすら感じました。」
3年生になり北野ゼミに所属すると、中村はほとんど映画を撮らなくなった。とはいえ、本場の制作現場を経験したい、いずれは自分もそういうところで働きたいという考えはあったという。同じく大学3年生の時、大学が提供していた特別プログラムで3ヶ月間住み込みで映画制作現場に撮影助手として参加する。中村が参加したのは、山田洋次監督による小津安二郎監督『東京物語』のリメイク映画作品『東京家族』(2013)の制作現場だ。
「すごく貴重な体験でしたね。実は『東京家族』の現場での体験記を『小津安二郎 大全』という大著に掲載してもらっています。フィルムで撮影すること自体、当時でも珍しいことでした。監督を中心にすべてが動いていて、さながら山田洋次組という感じでした。でもそこで働くことは、どう考えても無理だと思いましたね。現場にいるのはほとんどフリーランスなんです。『東京家族』は松竹の映画作品だからお給料も雇用条件も良いと思うんですが、自主制作や低予算映画の現場だとお金も労働環境ももっと厳しいだろうなと想像がつきました。めちゃめちゃ忙しいし、力仕事で大変やし、上下関係も厳しい世界。自分だと首の皮一枚繋がった状態で必死に生きるだけになるだけだと、簡単に諦めることができました。」
制作ではないかたちで映画に携わることに決めた中村が卒業論文として研究対象に選んだのは、韓国の映画監督キム・ギドクによるセルフドキュメンタリー映画『アリラン』(2011)だった。前作の『悲夢』(2008)の撮影時に女優のひとりが危うく命を落としかける事故があって以降、映画界を離れ山中で3年間の隠遁生活を行ったギドクが、自身の葛藤を記録した作品である。
「映画内では、ギドクが前作で女性をすごく苦しめてしまったこととかをカメラに吐露するんです。でも、これって要するにセルフケアなんですよ。自分で反省すると言いながら、また映画を撮りたいと言ってるんです。それだけだとただのセルフドキュメンタリーなんですけど、作家としてのギドク自身は幾層にも戦略を忍ばせていて。泣きながら反省するギドクを撮るギドク、撮った映像を観ながら「情けない。泣きやがって。でもお前は映画を撮りたいだけなんだろ」とメタなツッコミを入れるギドクなども現れるんです。映画の構造や技術を駆使して、自己を複数化させ、セルフケアも斜めから解体していく。しかしそれはハラスメントや性的加害を経た表現や結果でしかなかった。」
『アリラン』は第64回カンヌ国際映画祭で「ある視点」賞を受賞するなど、高く評価されたことは事実だ。しかしその後、2017年に監督作品『メビウス』(2013)の撮影に参加した女優から性的暴行のかどで告発を受けたことを発端に、彼によるセクシュアルハラスメントの被害が多く浮上した。ギドク作品を卒業論文の研究対象に選んだことは、中村にドキュメンタリーないしは映画をより研究したいという動機を与えるも、卒業論文の完成を境にしてギドクという作家からは距離を置くこととなる。中村自身、「卒論のために半年間ギドクの顔しか見なかったわけですから、嫌になって離れるのも当然です。ギドクの他者にたいする加害性は本作を観ても明らかだったわけで、僕はその後の彼の作品と向き合う理由も体力も無くなった」と回顧する。
大学卒業後は、神戸大学大学院人文学研究科に進学し、写真研究の前川修に師事する。立命館大学時代のゼミのひとつ上の先輩が前川の研究室に進学しており、多忙ながらも充実した研究生活を行っていることに惹かれたためであるという。当時の研究室には、フランスの思想家のジョルジュ・バタイユや演出家の鈴木忠志など、多種多様な研究に取り組む若手研究者/学生たちが集まっていた。
「多種多様すぎて、全員がバラバラだったんです。写真の研究をしてる学生はほとんどいないみたいな(笑)。だから面白かったんですよね。みなさん映像の研究と直接関係しない研究をされているのに、それでも映像の話は僕よりもはるかに知っている。自分も研究領域とは異なるカテゴリーに対してそうなりたいと感じました。」
進学時は、アジアのドキュメンタリー映画を研究することだけを決めていた。本当は古典的ハリウッド映画の研究をしたかったが、卒論の執筆時に引っ掛かったのは、アジア映画とりわけドキュメンタリー映画の文献になかなかアクセスできなかったことだという。先行研究の膨大な蓄積がある対象よりも、ほとんど未開の場所の隙間を埋めるような研究をしたいと考えるようになった。そうして中村が偶然出会ったのが、タイの映像作家アピチャッポン・ウィーラセタクンの初長編作品『真昼の不思議な物体』(2000)だ。タイの市井の人々にカメラを向け、リレー形式で即興的に架空の物語を語らせる、シュルレアリスムの「優美な死骸」の方法を用いたドキュメンタリー映画である。
「いろんな人が数珠繋ぎのように話し続けたフィクションの結果が一本の映画になるわけです。でもその時アピチャッポンはどこにいるんだろう、と疑問に思いました。「監督 direction」を離れて作品が勝手に走り出している感覚です。ドキュメンタリーでも何らかの制御(=演出)をする監督という役割が、この映画ではほとんど制御できていない(笑)。謎の再現映像が挿入されるのも妙にリズミカルで面白くて。とにかくその自由さに圧倒されました。それで、「ドキュメンタリーとは何か」ということをアピチャッポンの作品を通して論じてみようと思いました。」
しかしながら、中村が最終的に修士論文として取り上げたのは、『真昼の不思議な物体』でもなければその他のドキュメンタリー映画でもない。同じ頃、京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAで、アピチャッポンの個展「PHOTOPHOBIA」(2014)【※2】が開催されていた。
「その個展が超面白かったんです。よくよく調べてみたらアピチャッポンは映画よりむしろアートの文脈の方がプレゼンスが高い人だと知りました。映画では『ブンミおじさんの森』(2010)でカンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞していますが、現代美術と映画の領域を行き来して双方を混淆させるような作り方をする人なんかもしれへんなと思いました。ただ、いろんな写真作品やヴィデオ・インスタレーションが展示されていたんですけど、どれも「なるほど!」みたいな瞬間が全然ないんです。まったく観方が分からない。映像の文法というか、規則性が読み取れないわけです。繋がっているようで繋がっていない、自由な表現のようでいて、目に見えない何かや政治に背後を狙われているような。それで、この人自身を研究したいなと思ったんです。ドキュメンタリーへの関心は、アピチャッポンの諸実践のなかに包摂されました(笑)。」
修士論文では、現代美術と映画の関係をアピチャッポンを縦軸にして論じた。しかしながら、画面に映されているものやカメラの動き、編集などに焦点を合わせたフォーマリスティックな方法論によるもので、アピチャッポン作品に散りばめられたタイの政治的・社会的な要素をあまり踏まえられなかったという。タイは2000年代以降にも二度の軍事クーデターを経験し、近年のコロナ禍では若者を中心とした軍政反対デモも起こり、政治的情勢は安定しているとは言い難い。
映画史においてもその特徴は際立っている。日本には無声映画時代に画面の説明やセリフを独自に演出して語る「弁士」がいたが、タイでも1970年代頃まで「弁士」的な存在や、映画上映中に直接吹き替えをする役者がいるのが主流であった。そういった当時のアピチャッポンの映画体験/映画館体験は、彼の作る映画を基礎づけているという。
「タイの映画館で映画を見る状況なんですが、1970年代とか80年代でも俳優の吹き替えが生で付けられていたんです。声優や役者が映画館の観客席の後ろにあるガラス張りの部屋から音声をその場で付けていたようです。アピチャッポンの両親は医者で比較的裕福な環境だったようですが、こういったタイの特殊な上映システムを特等席で体感しています。というのも、後方の席でそういう状況を見ていたし、なんならその部屋の中に入れたわけです。
だからアピチャッポンの映画は映し出されているもの、投影されているものがどのように生じているかを意識させる。つまり映画館の観客に後ろを振り向かせることを求めるんです。それは、きっと彼の原体験にもあると思います。彼自身も後ろを振り向いていた、プロジェクション(映写機)の方を見ていた。」
それは、タイの政治的な状況や慣習に対してのアピチャッポンの姿勢にも一貫しているという。
「プラトンの「洞窟の比喩」じゃないですけど……アピチャッポンは目前の光景がそう見える仕掛けそれ自体に疑問を投げかける人なんです。アピチャッポンの作品は、タイの歴史や政治的状況が複雑に絡まった土壌に確かに乗っかっている。彼はアクティビストではないので、社会問題を前面に取り上げたり、社会をよくすることを目的としないと思うんですけど、彼の作品からタイの歴史や政治的文脈を捨象すると本当に面白い部分も抜け落ちるんです。やっぱりアピチャッポンと同じようにプロジェクションの方に自分を晒さないと分からへんことばっかりやなと思いました。」
博士後期課程に進学して以降は、アピチャッポンを取り巻くタイの歴史的・政治的背景にも視野を広げ、研究を進める。2016年には横浜美術館でのグループ展「BODY/PLAY/POLITICS」【※3】への参加や、東京都写真美術館では個展「亡霊たち」【※4】が開催されるなど、日本国内でアピチャッポンが紹介される機会も多く、研究の機運が高まっていたこともあろう。積極的に作家自身にアプローチしたり、次々に論文を発表したりし、充実した研究生活を送る。
「修士3年目の時ですが、「修士論文を書くから話を聞かせてほしい」とアピチャッポンのエージェントにがむしゃらに連絡しました。そうしたら、東京都写真美術館の展示準備で日本に来ているときにインタビューさせてくれて、1時間半くらい話を聞けました。せっかくならどこかに発表したいなと思って、美術手帖に連絡してみたら是非とのことで掲載してもらいました【※5】。ラッキーですよね(笑)。そのインタビューでは、今読み返しても彼を言及する際の重要なキーワードが散りばめられているように思います。
あと僕は恥ずかしいことに完璧主義じゃ全然なくて、書き物とか50%の出来でもとりあえず出せちゃう傲慢さがあるんです。それによって様々な機会を失ってきたとも思いますが(笑)、これまでもいっぱい発表したし、いろんな媒体で書けました。もちろん自分が納得できる完璧な文章や理論が構築できるのが一番ですが、そうでなくても発表してみると案外面白がってくれる。「まずはこれで」のハードルがほかの研究者より低いのかもしれません。」
このまま研究を続け、研究者として大学で教えることを目指すも、もう少し他の方法があるのではないかと考えるようになった。その時に指導教員である前川より共有されたのが、神戸市が新設した「デザイン・美術・音楽・映像など芸術分野の素養を備えた人材を採用するため」の試験区分デザイン・クリエイティブ枠の採用情報であった。
「このままストイックに研究だけやっていても、今のどんどん小さくなる人文学系の研究者の席を自分が真っ向勝負で取るのは無理だと思って。少なくとも映画や現代美術など、研究している対象に近いお仕事ができたらなと思っていました。そんな時、博士後期課程3年目の夏くらいに、前川先生から「興味ないと思うけどこんなんあるよ」と神戸市のデザイン・クリエイティブ枠採用があると聞きました。神戸市自体に関心があったわけではないんですが、自分がシャバに出るにはこれしかないんじゃないかみたいな(笑)。いつでも辞めて戻ってこよう……という気持ちで進路を決めました。大学3回生の頃に撮影助手をしたときと同じですね、「この場所では生き残れない」の嗅覚が鋭いんです(笑)。」
デザイン・クリエイティブ枠の採用職員は、観光や広報、まちづくりに関連する部署におおよそ配属されることになっている。当時、博士論文も少しずつ書き進めているところであったが、神戸市役所の制度では休学しながら働くことができず、退学を経て神戸市役所に入庁する。現在は、論文博士(通称ろんぱく)を目指し、遅々として進まない博士論文の仕上げに努めているところであるという。
中村の他にデザイン・クリエイティブ枠で採用された同期の職員は5人いた。彼らは、神戸市内の各区役所のまちづくりや観光を担う部署に配属されたという。2020年春、時はコロナ禍に翻弄されていた頃で、5月下旬までの研修はすべてオンラインで行われた。しかし、中村の場合は少し違ったという。彼が配属されたのは、市長室広報戦略部である【※6】。いわゆる神戸市全体の広報を担う部署だ。
「僕も4月の1週目くらいまでは在宅で、その後も1ヶ月半くらいこの調子だと思ってたんですけど、急に人事課から電話がかかってきて「中村さん、広報課に決まったので明日から来てください」と(笑)。あまりのショックで、晩御飯の鮭をご機嫌に焼いていたのに焦がした記憶があります。そもそも広報戦略部に新規採用職員が入ることはこれまでなかったみたいで緊張しましたが、やはりコロナ禍の対応でドタバタでした。課長には挨拶も早々に「イラレ(Adobe Illustrator)使える?」と聞かれたくらい手弁当で業務が行われている感じでしたね。1年目はコロナ禍の対応や慣れないHPの作業に追われてで、めちゃめちゃ大変でした。」
2年目以降は、自身で企画してプロジェクトを進行させたり広報の動画を作ったりなどするようになる。通常業務としては、子育て支援や医療制度といった市の大きな取り組みの情報発信のサポートが主な仕事で、現代美術や映画などの分野に関わることはほとんどなかったという。しかしながら、市の職員であったからこそ関われた仕事や出会いもあった。神戸フィルムオフィスは映画やドラマの撮影場所の紹介や相談を行う市の外郭団体だが、中村が市役所に務めていたからこそ経験できたと語る仕事のひとつである。
「市役所での仕事を通して神戸フィルムオフィスの当時代表をされていた松下麻理さんと知り合うことができました。彼女の紹介で黒沢清監督の『スパイの妻』(2020)でともに脚本を担当された映画監督の濱口竜介さんと野原位さんが登壇されたトークイベントにも一緒に関わることができました【※7】。濱口監督には「アピチャッポンの専門家がここで何してんすか」と言われたのを覚えています(笑)。他にも仕事ではないですが、市内で撮影が行われた佐藤信介監督の『キングダム』(2019〜)シリーズやマヒトゥ・ザ・ピーポーが初監督を務めた『i ai』(2023)など、色んなロケに出向きました。」
また、俳優でダンサーの森山未來とも知己を得たという。森山は神戸市出身で、現在市内にも拠点を持っている。神戸市が2022年より新たに始動したアートプロジェクト「KOBE Re:Public Art Project」【※8】でメインキュレーターを務めたり、同じく2022年4月より神戸市北野地区に国内外のアーティストが滞在できる施設「Artist in Residence KOBE(AiRK)」【※9】を発案しその運営にも携わるなど、地元神戸で芸術事業を促進するキーパーソンでもある。
「AiRKのお披露目式に森山さんも来られていて、アピチャッポンを研究していることを伝えたら「なんでここにいんの?!」みたいな(笑)。それから1年後くらいに職場に神戸フィルムオフィスの松下さんから電話があって「森山さんが『神戸市にアピチャッポンの研究している人がいるよね。話してみたい』と言っている」と。職場でびっくりしましたね(笑)。塚本晋也監督の最新作『ほかげ』(2023)に森山さんが出演されているんですが、「アピチャッポンと塚本晋也監督の関係について……いやアピチャッポンについて話してほしい」と言われました。アピチャッポンとは全然関係のない映画なんですが(笑)、シネ・リーブル神戸での上映後に森山さんと対談しました【※10】。」
現在、中村は神戸元町にあるミニシアター元町映画館の運営母体である一般社団法人元町映画館の社員でもある【※11】。以前よりトークイベントなどの登壇の機会も度々あった。「元町映画館オープンダイアローグ」は映画上映後に中村がファシリテーターを務め、参加者と映画を通して対話を行う企画で、現時点でのべ5回開催されている。
「「映画のここが面白かった」ということだけでなく、「映画の主題がどのように描かれ、いかに私たちの生きる社会とリンクしているか」を映画上映後に場所を設けて話しています。これまで、トランスジェンダーの話や障害を持つ方々の就労支援、ハーフ、選挙や行政のことなど、本当に様々なことを語りました。参加者は10人から20人くらいの規模なんですが、みんな発言してくれるんです。それがすごく嬉しくて。SNSで感想を言い合ってコミュニケーションをした気になったりもするけど、今その場で考えながら何も用意せずに話していくことで初めて自分も理解していく体験ってなかなか得られないことかなと思っています。」
中村にとって社員という関わり方は「ちょうどいい」と語る。研究者という立場上、ひとつの映画館に属して特定の映画館へ来館を呼びかけることはしない。あくまでアドバイザーであり、月に一度の会議に参加はするが経営への発言や決定権は持たず、トークイベントの登壇やファシリテーターとしての務めにも謝礼は出ないため、ある種映画館とフラットな関係でいられる。しかし社員となったのは、市役所での行政上の手続きに疑問を持ったためでもある。
「個人の仕事(研究者)としてトークイベントに出たり、寄稿したりするときに、市役所に「この仕事を受けてもよろしいか」「それに対して謝礼を頂いてもよろしいか」と毎回起案書を出して決裁を行う必要があるんです。それがめちゃくちゃストレスで。各部署の職員を巻き込んで「僕のやっていることはこんなに神戸市のみなさんに意義がある活動なんです……」と説明することになる。なんだか毎回学振の申請書を提出するみたいで苦痛ですね。最後は人事課に回るんですが、不許可となる場合もあります。ただそれが「公益性が認められない」という理由だったりするんです。「それが嫌なら神戸市役所を辞めろよ」と自問自答する日々なんですが、それでも神戸市役所は懐が深いほうだと思います。トークイベント、原稿依頼、非常勤講師職も上記のプロセスで副業を認めてもらえる側面もあったからです。」
京都芸術大学通信教育部アートライティングコースで非常勤講師も務める中村。神戸市で(法人ではなく)個人による長期間の非常勤講師で副業を認めることは前例はなく、彼がその轍を作ったと言ってもよいだろう。しかしながら、こうした活動で収入を得ることへの許可/不許可かの判断基準は、公益性の有無が争点になるという。「公益性」を通じた判断結果は、中村自身にとっては納得のいかないことも多いようだ。
中村は「公益性という言葉は行政が一方的に求めるものでしかない」とも語る。神戸市内にはアート・デザインに関する施設もあるが、市の指定管理であれば制限は厳しい。昨今はアート事業も「公益性」の一環で子ども向けのイベントや子育て世代を意識的に取り込むものが多い。それ自体は悪いことではない。しかし「公益性」が目的化することで、先鋭的な試みはおろか、ほかにも重要なことを取りこぼしているのではないか、と考えるという。
「神戸市って表面上は綺麗なんですよ。昔からそうなんですが、綺麗に収まっちゃう。それが個人的には面白くないところでもある。その綺麗さは「公益性」と地続きなのでしょう。ところで、2019年に「アート・プロジェクト:TRANS- 」【※12】というグレゴール・シュナイダーとやなぎみわのふたりの作家を招聘した芸術祭が神戸であったんですが、シュナイダーが街の色んなところに変な仕掛けをしていたんです。これが大変面白かった。でも、みんなが違和を感じるものが街に突然現れるといったことは少なくなった気がします。「あれってなんの役に立つんですか」という声を避けるばかりのアートや芸術祭はなによりも退屈です。」
加えて、神戸市にある団体や施設、事業は「根付きにくいこと」「各々の繋がりが希薄であること」を問題点としてあげる。それを行政主導で改善すべきことなのか、中村自身是非を決めがたいと語るが、単に「きっかけ」を与えるだけでなく、「繋ぎ止める」ことまで力を尽くしたいという。続けて「短期的な結果や効率化、役立つことを求める社会的な傾向にあるなかで、短期的には全く意味の無さそうだけども中長期的にはじわじわ効果が出ることを、公益性を求める行政の内側から抵抗して提案し続けたい」と語る。
中村にとって、公益性とは権力を持つ側のツールである。そうした権力の手垢に塗れたツールは、我々の目前であたかも自然さを装って偏在する。それはプロジェクターがイメージの投影に決定的な要素を持つことや、その像を観客が疑問符なく眺める事態とも関係するだろう。
「僕たちが漫然と従ってきたものは、いったいいつ誰がどのように決めたのか。こうした問いを投げ続けるには、目前のスクリーンやそこに投げかけられたイメージではなく、そのイメージを決定づけるプロジェクターの光源に対峙する必要があると思います。」
彼に息づくこうした批判精神は、アピチャッポンが映画館のスクリーンではなく映写機の方を見ていたことと通底する。後ろを振り向くことは、目の前にあるものを単に享受しているだけでは見えなかった新たな景色への挑戦を意味するだろう。
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注釈
【※1】原作は同名のマーベル・コミック『ブレイド』。ヴァンパイアと人間との間に生まれた黒人の青年ブレイドが主人公。中村は同作を「中二病的」であると評する一方、主人公が「ヴァンパイア」と「黒人」という二重に排斥されてきたアイデンティティを持つことが物語を複雑にさせているという。
【※2】「PHOTOPHOBIA」京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA、2014年6月14日~7月27日。
(URL最終確認:2024年10月31日)
【※3】「BODY/PLAY/POLITICS」横浜美術館、2016年10月1日〜12月14日。
(URL最終確認:2024年10月31日)
【※4】「亡霊たち」東京都写真美術館、2016年12月13日〜2017年1月29日。
(URL最終確認:2024年10月31日)
【※5】中村紀彦(聞き手・文)、樅山智子(通訳)「感覚そのものをとらえる。アピチャッポン・ウィーラセタクンインタビュー」美術手帖、2017年7月28日。
(URL最終確認:2024年10月31日)
【※6】現在は異動し北区に勤めている。
【※7】デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)で、同施設のシリーズプログラム「神戸スタディーズ」の一環として2021年3月に行われたトークイベントのこと。中村によるイベントレポートがKIITOのHP上で公開されている。
中村紀彦「まちと映画の「重心」を探る:神戸スタディーズ#8「まちで映画が生まれる時」スペシャルレポート」KIITO、2021年4月21日。
(URL最終確認:2024年10月31日)
【※8】「KOBE Re:Public Art Project」
(URL最終確認:2024年10月31日)
【※9】「Artist in Residence KOBE(AiRK)」
運営はコレクティブ「HAAYMM」(メンバー:小泉寛明、小泉亜由美、大泉愛子、遠藤豊、松下麻理、森山未來)が行う。
(URL最終確認:2024年10月31日)
【※10】映画『ほかげ』とアピチャッポンとは全く無関係ながら、塚本晋也とアピチャッポンは2005年に開催された第6回チョンジュ国際映画祭において、同映画祭が毎年3人の映画監督に依頼して製作されるオムニバス企画「三人三色」でともに名を連ねている。
【※11】元町映画館による中村へのインタビューが同館noteに公開されている。併せて参照されたい。
江口由美「Interview vol.11中村紀彦さん(映像・映画理論研究者) アピチャッポン作品で気づいた「目に見えないものの豊かさ」」元町映画館note、2024年5月31日。
(URL最終確認:2024年10月31日)
【※12】「アート・プロジェクト:TRANS- 」
「神戸がグローカル・シティの先鋒となるべく、現代アートを切り口に何かを“飛び越え、あちら側へ向かう”ための試み」として開催された芸術祭。出展作家を二名のみに絞った点に特徴が見られる。ディレクターは林寿美が務めた。
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INTERVIEWEE|中村 紀彦(なかむら のりひこ)
映像/アピチャッポン・ウィーラセタクン研究。京都芸術大学通信教育学部非常勤講師。 共著に『アピチャッポン・ウィーラセタクン:光と記憶のアーティスト』(フィルムアート社、2016年)、『小津安二郎 大全』(朝日新聞出版社、2019年)、『躍動する東南アジア映画:多文化・越境・連帯』(論創社、2019年)ほか。『美術手帖』、『ユリイカ』、『ヱクリヲ』などの雑誌にも寄稿。 また、神戸市役所にデザイン・クリエイティブ枠で入庁し、広報やまちづくりの業務に携わる。
INTERVIEWER |山際 美優(やまぎわ みゆう)
京都国立近代美術館研究補佐員。同志社大学大学院文学研究科美学芸術学専攻博士前期課程修了。アメリカの戦後の写真集、とりわけロバート・フランクやジョン・シャーカフスキーの作品を対象とし、広くイメージとテキストの関係について研究を行う。現在は+5編集部で校正を担当するほか、記事の執筆にも携わっている。