「建築を通じて都市と人々をつなげ、意識を変える建築家」 髙岡伸一(イケフェス大阪事務局長)さんに聞く。 <前編>

「建築を通じて都市と人々をつなげ、意識を変える建築家」髙岡伸一(イケフェス大阪事務局長)さんに聞く。<前編>

イケフェス大阪事務局長|髙岡伸一
2025.01.17
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髙岡伸一さん(建築家、近畿大学建築学部教授)は、令和6年度文化庁長官表彰を受賞した、延べ6万人以上を動員する日本最大級の建築一斉公開イベント、「生きた建築ミュージアムフェスティバル大阪」(イケフェス大阪)を主催する組織の事務局長として、10年以上その運営を支えている。建築家としては戦前戦後の古いビルのリノベーションを手掛けるほか、戦後の建築を再評価するBMC(ビルマニアカフェ)のメンバーとして、ZINE『月刊ビル』の発行や『いいビルの写真集 WEST』『いい階段の写真集』(パイ インターナショナル)、『喫茶とインテリア WEST』『特薦いいビル 国立京都国際会館』(大福書林)の執筆、さらには味園ユニバースでのイベント「トロピカルビルパラダイス」など、大阪の建築や街を活性化する活動を続けてきた。まさに、建築と人々、街と人々をつなげる「アーキネイバー」といえる。現在に至る髙岡さんの広範な活動についてお聞きした。

髙岡伸一さん 撮影:西岡潔

事務能力に目覚めた学生時代

幼少期から建築に関心があったのだろうか?


「いえ。大阪の吹田市にある公立高校に通っていたんですが、理系か文系かといえば理系でしたし、小さい頃からモノをつくったり絵を描いたりするのが好きだったので、アート的なことに触れられる分野で理系の学科ということで、建築を見つけたということです。それで家から通えて、国公立であるということもあって、大阪大学の建築工学科に進みました。当時は著名な建築家とかを知っていたわけではまったくないです。もし建築家のことを少しでも知っていたら、違う大学を選んだかもしれませんね(笑)。」 


というのも、大阪大学の建築工学科は、その名称の通り、構造などのエンジニアリングが強く、アトリエ系の建築家のような、意匠設計の研究者はいなかったからだ。とはいえ、髙岡が大学に入学したのは1990年のことである。バブル期の終盤であり、日本でもポストモダンといわれる、さまざまな建築が建てられていた頃だ。大学に入ってからどのような建築に関心を持つようになったのだろうか。


 「当時は雑誌『新建築』を読むと、磯崎新さんが活発に連載していた頃で、そういう媒体から情報を集めて、建築家とその作品を知るようになっていき、月並みですけど安藤忠雄さんにも影響を受けました。大阪だったので比較的実作を見に行くことができましたし。安藤忠雄さんが狭小住宅から、オフィスや公共建築のような規模の大きな建築を手がけ始めた頃で、『ライカ本社ビル』(1989年竣工)や『大阪府立近つ飛鳥博物館』(1994年竣工)などを見にいったことを覚えています。後はドローイングにも引き込まれましたね。鉛筆で平面や立面に陰影をつけるドローイングを発表していくんですけど、それを見て凄い、と思ってマネしたりしてました。ちょうど大阪市中央公会堂の中に卵状の球体を入れる中之島全体のドローイングを発表していた頃だと思うんですけど。意識の高い同期の友人たちは早くから、安藤事務所にアルバイトに行ったりしていたので、彼らから教えてもらったりしてました。」


しかし、髙岡自身は、安藤事務所やアトリエ系の建築家の事務所にアルバイトに行くことはなかったという。


「僕はどちらかというと組織設計事務所やゼネコンにアルバイトに行っていました。ひとつは時給が全然違うのと(笑)、あとは建築家のアトリエに行くほどの意識はなかったんですね。将来建築家になるんだというほどの気はその頃はあまりなく、なんとなく組織設計事務所などの企業に就職するんだろうなと思ってました。」


しかし、そのまま大学を卒業して就職したわけではない。今日の活動につながる経験を積んでいる。


「大学院に上がってからのことなんですが、M1(修士1年生)の時に、日本建築協会【※1】で学生に何かやらせようという企画が立ち上がったんです。日本建築協会は、大阪に本部があるので、京阪神の大学院生に各先生を通じて行ってこいみたいな声がかかりました。それでいくつかの大学から学生が集められました。阪大とか関大(関西大学)、大工大(大阪工業大学)、神戸芸工(神戸芸術工科大学)とか、メインは10人くらいだと思うんですけど、定期的に集まるようになったんです。」


建築界では「海の博物館」(1992年)を発表した内藤廣が俄然注目され始めていた時期だという。


「僕たちも内藤さん凄いという話になっていて、確か関西ではまだ内藤さんの講演会をやったことがなかったので、それなら自分たちで呼ぼうということになったんです。それで内藤さんに直接交渉して、天王寺にある一心寺に場所を借りて、内藤さんを囲んだ座談会をやりました。後は複数の大学で合同卒業設計展を企画するとか、やってましたね。その時僕が代表みたいなことをやっていたんですよ。」


まさに現在のような多くの人々の調整を行う事務能力、マネージメント能力の萌芽が見られる。


「僕が手を挙げた記憶はなく、何となくお前がやれという感じでした。振り返ってみればその頃からですね(笑)。内藤さんの座談会も僕が進行をやって、他のメンバーにできるだけ発言するように話を向けたり、段取りをしたり、事務的なことはだいたい僕がやっていました。そういうのはわりと得意なんだなと自分自身でも気付き始めてはいましたね(笑)。どちらかというと前に出ていくよりも、裏方の方が向いてるなと。」


髙岡は、その後、書籍やZINEも多く手掛けるようになるが、その頃、テキストの執筆は熱心にやっていたのだろうか。


「日本建築協会は『建築と社会』という月刊誌を出していて、そこに何回か書かせてもらいました。内藤廣さんの講演会のレポートとか、編集部会にいれてもらってコラムを担当したり、何度か書いた記憶はあります。でも文章については、その時は向いているとは思っていませんでしたね。むしろ中学・高校の頃は文章を書くのはすごく苦手でしたから……。」


しかし、その当時の建築思想は、雑誌の言説を中心に動いていたといってもいいだろう。髙岡もアートの展覧会はそれなりに見ていたが、雑誌や書籍からの影響が大きいという。


「磯崎新が書いたり話したりすることが建築の世界ではとても注目されていて、磯崎新や浅田彰が関わっていたAnyシリーズや『批評空間』のような雑誌に、モダンアートとか現代美術の紹介があって、こういうのを知っておかないといけないんだなぁと。わからないなりに読んでいたのは覚えていますね。『10+1(テンプラスワン)』も、建築思想や理論が書かれる雑誌としてはすごく貴重な媒体だったので、創刊の頃から熱心に読んでましたね。」


大学の卒業設計や修士論文はどのようなテーマを選んだのだろうか。


「卒業論文は、その頃、建築家の山本理顕などを中心に、家族制度をめぐるプログラム論というのが盛んに議論されていて、近代家族がいかに規範に縛られていて、それは建築が縛っているんだ、みたいな話で、フェミニズム研究の上野千鶴子さんも参入してきたりしてました。近代の家族制度を如何に脱するかを訴える住宅作品や論考がわりと雑誌を賑わせていて、それにもろに影響を受けて住居論を書きました。」


髙岡のゼミは、都市計画が専門だったが、卒業論文はどんなテーマでもOKだった。当時、教授の紙野桂人は行政の仕事などで多忙を極め、当時助教授の船橋國男や、助手の小浦久子に指導を受けていたという。


「阪大は卒業論文と卒業設計と両方やるんですが、卒業設計は、梅田地下街をテーマにして、梅田という都市全体をひとつの構築物と捉える視点を提示しました。梅田にあるビルの図面をあちこちから入手して、各ビルの柱型だけを図面にプロットして、梅田全体をひとつの建築として捉えてみる。梅田は地面の上にビルが建つということには全然なってなくて、断面的にも地面と基準階、地下といった区別も意味がないじゃないかと。そこに裂け目みたいなものを見つけて、自分が設計した建築を滑り込ませるという提案をしたんです。ただ、膨大な柱型を書くだけで終わっちゃって、自分の設計した建築は本当に大したことなくて。今と全然変わってないですね(笑)。」


髙岡は、後に大阪の戦後の近代建築をテーマにした『新・大阪モダン建築』(青幻舎)を書くことになるが、まさにそれは建築とインフラがアメーバのようにつながる「都市建築」をテーマにしたものだ。その後、修士課程では、小浦久子の指導のもと、駅前空間の行動調査をしたという。また修士1年生の時に阪神・淡路大震災が起きる。


「その頃も吹田に住んでいたんですけど、家族でも被害に遭う人はいなくて、周りにも亡くなったりとか怪我したりとかって人はいなかったんですけど、こういう仕事を選ぼうとしていた人間としては、大きなショックを受けたのは間違いないですね。その後、日本建築学会の主導で、京阪神の大学でチームを組んで、各エリアに入って行って、建築の被災度を色分けしていく調査をしました。その当時はどちらかというと思考停止に陥っていて、目の前の作業をとにかくやっていた感じです。」

 

作品としての建築から、街中の建築へ

その後、修士課程を修了して髙岡は大阪に本社のある組織設計事務所である昭和設計に入社する。設計事務所に入社してからどのような仕事をしたのだろうか?


「就職すると震災復興案件がたくさん入ってきていて、会社はものすごく忙しかったです。最初に放り込まれたチームが、宝塚駅前の「花の道」という、宝塚大劇場に至るまでの道沿いにある高層マンションの再開発でした。今はわりと普通になっていますけど、建築家とのJV(ジョイント・ベンチャー)で、永田祐三さんというホテル川久を設計したことで知られる、竹中工務店出身の建築家との共同設計でした。僕は1年目でまともな設計なんてできないので、補助金申請のための面積計算をひたすらしてました。2年目以降は大きなプロジェクトのチームに入るというよりは、1人とか2人とかで担当できるぐらいの、わりと規模の小さい建物の設計を任せられることが多くて、その結果、設計の最初から工事が始まって完成するまでのプロセスを、ほぼ全部自分でみるっていう経験が積めました。」


そして8年間、設計の仕事をして独立することになる。何かきっかけになることはあったのだろうか。


「8年ぐらい働いて、建築の設計が大体こういうことなんだなっていうことがわかったということがあるし、そろそろ管理職っぽくなってくるので、それはあまりやりたくなかったということもあります。あとは30歳手前で体を壊したこともありますね。」

「O邸」(2008) 髙岡伸一設計 撮影:荒木義久

しかし最初から強く独立のビジョンを描いていたわけではないので、独立後に仕事が用意されていたわけではなかった。


 「いくつか個人住宅の設計などをやりましたけど、基本的には仕事がない(笑)。その頃は結婚して大阪市内に住んでいたんですが、自転車に乗って、大阪市内の道をひとつずつひたすら走っていくということをやり始めました。」


そこで戦後に建てられたそれぞれ独立しているけれども、街並みを形成するよく似た横並びの建築を発見するようになる。


「そういうアノニマスなビルを採集することを目的に、これはっていうのがあったらそれをウェブサイトに上げていったんですね。自分で設計し始めるようになってから、そういうビルに関心を持ち始め、「建築家なしの建築」(バーナード・ルドフスキー)じゃないですけど、作品をつくるっていうことに違和感があったんですね。見回してみれば、そういうヴァナキュラーな建築が都市を埋め尽くしている。」

髙岡が撮影した大阪の都心部にあるビルの一例(2004年撮影)

なぜ著名な建築家が設計した作家性の高い建築より、街中の建築に惹かれるようになったんだろうか?


「学生の頃は『新建築』に掲載されているような建築家の作品やそのコンセプトを見て設計に取り組んでいたんですけど、まわりを見回してみれば、街中にいっぱい建築が建ってるのに、そっちに目を向けへんってどういうことなんだろう、と思うようになったんですね。街中にある何てことない普通のビルや工場とか、今でこそ「工場萌え」とか言われていますけど。でも、機能主義ということじゃなくて、何ものにも媚びずただ建っている佇まいが清々しかった。デザインされた建築作品は、誰かとか何かに向けて訴えかけることを目的にしているけど、街中のビルとか工場ってそんなことを思いもよらずに、ただ建ってるじゃないですか。その清々しさに惹かれたんですかね。」

大阪の近代建築の発見と活用への転換 

そのような街中の建築を発見するなかで、もうひとつの古い層の建築に気付くことになる。


 「僕は今でこそ「船場」の専門家みたいになってますけど、その当時は「船場」という言葉すら知らなかったです。でも、あの辺を自転車で走っていると、古い建築が結構残っているなっていうことに初めて気付くんですね。それより前はまったく意識はしてなかったですね。大阪大学では、環境工学科の鳴海邦碩研究室が、船場の近代建築を調査していたんですが、関心を向けるのはずいぶん後になってからです。」


髙岡も大学の時に近代建築史は習っているが、ほとんどの近代建築はメインストリームではないので、教科書には掲載されていない。通史でみれば、大阪が誇る大阪市中央公会堂すら掲載されてなかったという。


「ちょうどその頃に岩田雅希さんからのメールが間接的に届いて、(彼女たちの集いに)参加してみようかなと思ったんです。」


当時、既存建築の再生や用途転換、利活用を行うリノベーションを牽引していた中谷ノボルが率いるアート&クラフトのスタッフであった岩田雅希が、旧・三井住友銀行船場支店が解体されることをきっかけに、建築関係者に近代建築の解体について緊急のアンケートを送る。それをきっかけに、大阪の近代建築を利活用する市民団体「大オオサカまち基盤(大バン)」が結成された。

それは髙岡のような建築家だけではなく、編集者や映像作家、パティシェ、学生など多用なバックグラウンドを持つ人たちのゆるやかな集まりで、船場に集積する近代建築を探訪したり、再発見したり、発行物を出して近代建築の地図やリノベーションの提案などを行った。

大オオサカまち基盤(大バン)が開催した印度ビルでのシンポジウム 

そして、2005年3月、大阪市中央区道修町1丁目にあった印度ビル(旧・新良貴徳兵衛商店ビル)と名付けられた近代建築がほぼ廃墟と化しているのを見つけ、期間限定で1棟ごと借りて掃除し、イベントや大阪の近代建築の利活用に関するシンポジウムを企画する。そこに橋爪紳也(大阪市立大学・当時)、中谷ノボル(アート&クラフト)、酒井一光(大阪歴史博物館・当時)、岡絵理子(関西大学)などを招聘した。印度ビルでは、薬種問屋の店舗兼住宅として使われていた時の所有者の子供も来場し、鉄筋コンクリート造のため地域の防空壕として使われた出来事など、生々しい建築の歴史が開陳された。


「印度ビルのイベントを経験したことで、その気になればこのぐらいのことはできるんやっていうことも発見が大きかったですね。企業でも大学の研究室でも何でもない、もう本当に一般市民の集合かつ、あれだけ緩いグループにも関わらず、それでもこのぐらいのことはできるんだってことを教えてもらった。」

「近代建築オーナーサミット」左端が髙岡。左から芝川ビル、北浜レトロビル、江戸コダマビル、伏見ビル、生駒ビルの各オーナー(当時)、右端が橋爪紳也氏

同じく2005年、髙岡は第2回目のイベントとして、船場の近代建築を所有するオーナーを招聘し、船場の近代建築、芝川ビル【※2】で「近代建築オーナーサミット」を企画する。橋爪紳也をゲストに、髙岡は進行役を務め、それまでほとんど面識がなかった芝川ビル、伏見ビル、生駒ビル、北浜レトロビル、江戸堀児玉ビルの5棟のオーナー同士が初めて一堂に会する画期的なイベントとして、大きく新聞にも掲載されることになる。


「あれだけ近代建築が集積しているのに、そのオーナーさん同士が全然知らないということを知って驚きました。だけど、いろんなことで悩んでらっしゃるし、オーナーさんをつないで、解決できるところがあれば、一緒に考えた方がいいと思ったんです。何より建築家とか建築史家の講演はもう聞き飽きているから、そうじゃなくて所有者、オーナーの生の声を聞きたいと思ったんです。」


そこで小さな近代建築は、建築史に残るほど著名なわけでもなく、当時は価値のない単なる古い建物としか見られていなかったため、愛着はあっても、維持するのが大変であるという実態がわかってきた。つまり、所有者の強い意志がなければ、近代建築は維持されないのである。その後、近代建築のオーナーによる「船場近代建築ネットワーク」が結成され、問題を共に解決する場が生まれるきっかけとなった。



<後編に続く>

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注釈

【※1】日本建築協会 
(URL最終確認 2025年1月17日)

【※2】芝川ビル
(URL最終確認 2025年1月17日)

INTERVIEWEE|髙岡伸一(たかおか しんいち)

建築家/近畿大学建築学部教授

大阪大学卒業、同大学院修了。1996年に大阪に本社を置く昭和設計に就職。2004年に独立して高岡伸一建築設計事務所を設立し、近年は主に大阪の近現代建築のリノベーションを手がける。平行して2006年から大阪市立大学都市研究プラザ(当時)の特任講師として、大阪の歴史的都心・船場に設けられたサテライトの企画・運営を担当。2012年からは新しく設立された大阪府立江之子島文化芸術創造センター(enoco)のチーフディレクターを務めた。その間に大阪市立大学大学院の後期博士課程を修了し、博士(工学)を取得。2018年からは近畿大学建築学部に着任、現在に至る。生きた建築ミュージアムフェスティバル大阪には当初から深く関わり、現在は一般社団法人生きた建築ミュージアム大阪の事務局長を務める。近年の著書としては、『新・大阪モダン建築』(青幻舎・共編著)など。

INTERVIEWER|三木 学(みき まなぶ)

文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人。独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。