アートの声を拾う ヴォイスギャラリーに聞こえる可能性

アートの声を拾う ヴォイスギャラリーに聞こえる可能性

MATSUO MEGUMI+VOICE GALLERY pfs/w|松尾惠
2021.08.25
18

 京都市下京区、閑静な職住共存地域に、白の外観が目に優しいギャラリーがある。京都の老舗ギャラリーのひとつ、MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/w(※以降本文内ではヴォイスギャラリーと表示)である。代表の松尾惠(まつおめぐみ)さんはギャラリーを通して、アーティストの紹介・育成だけでなく、地域の芸術環境整備にも広く関わっている。

 ヴォイスギャラリーは、声を届けるギャラリーだ。松尾さんが、所属するアーティストたちと親交を重ねる中で生まれた言葉を、訪れる人たちに伝えている。同ギャラリーの中で大切にされていることは、広くアートに耳を澄ませることだと言っても過言ではないのだろう。

 今回はそんなギャラリーの声を元に、地域に根付いた活動スタンス、そしてその先に見えるギャラリーのあり方や可能性を、松尾さんのお話から探っていく。

ヴォイスギャラリー入り口


ヴォイスギャラリーとは

――松尾さんがヴォイスギャラリーをはじめた経緯を聞かせてください。

松尾:大学を卒業して、いろんなところでバイトをしていたんですけれど、当時はアーティストを支える側の人たちがほとんどいませんでした。人材もいなければ、人材を作り出すような制度もありません。そのせいもあるのか、アーティストの声がちっとも外に届いていないと感じていました。だから勤めていたギャラリーが閉店して自分でギャラリーを始めるとき、ヴォイスと名前をつけたんです。アーティストの声を代弁するようなギャラリーにしたいと。今でいうところのアーティスト・ラン・スペースとして出発しています。

――当時京都にはアーティスト・ラン・スペースみたいなところは、いくつかあったのでしょうか。

松尾:私が覚えている限りではほとんどありませんでした。大阪の方がもっとオルタナティブで活動的でした。サウンドアートとか、当時で言えば少し新しいもの。そういうものを専門的にやっているギャラリーはいくつかありましたが、京都にはなかったと思います。

――ヴォイスギャラリーの前は、ギャラリーにお勤めだったんですよね。そこでギャラリストへの転機があったんですね。

松尾:はい。私は当時、河原町にあったギャラリーで働いていました。女性の素敵なオーナーさんがやっていらして。 今もそうですけれど、アーティストが店番をしていたりすることが多くて、私もその一人でした。働いている時にそのオーナーさんが、「これからはスターディレクターが必要になる時代が来る」って仰ったんです。思い返せば妙に巫女的な、予言者的なところのある不思議な人で。その人が私に、あなたそういう仕事に向いてるわって。私としてはその時まで全然、意識もしていなかったんですけれどね(笑)。きっかけはその言葉だったように思います。

――面白いですね。ちなみにギャラリーを86年にオープンされ、90年代からは作家活動より、ギャラリストとしての仕事により集中されていったと伺っています。やっている中でこっちの方が向いているなとか、そういう意識が生まれたのでしょうか?

松尾:それはありましたね。例えば自分のギャラリーをやりながら、年に1回、自分の個展もやっていたんですけれど、個展があるから作品を作るって、作家としてどうなんだろうと感じたのがひとつ。それからそれこそ中原浩大さん【1】たちの(関西ニューウェーブ)時代とかぶるんですけど、彼らがデビューしてきたときに、私程度じゃだめだって、中途半端なことしてたらあかんって思ったのもひとつです。

――ギャラリー設立当初、どういう作品を入れていくとか、そういうイメージみたいなものってあったんですか?

松尾:実は最初から、貸し画廊をやろうと思っていました。他より安く、他より長い期間、アーティストに提供できるようにと思って。だから経営も展覧会がメインです。貸し画廊のレンタルフィーとかで補いながら、企画展を年に何回かやるような形で。

ギャラリー設立当初の松尾さんヴォイスギャラリー提供

――作品ジャンルはどんなものだったのですか?

松尾:色々ですね。インスタレーションとか、半ばパフォーマンス的なものや、映像作品などもありました。今の造形大の前身の芸術短期大学に、映像学科があったんですけれど、そこの学生さんたちの作品とかも扱っていました。原神玲さんなんかもいました。レイ・ハラカミね【2】。レイ・ハラカミも映像作品を制作されてたんですけど、その周辺の世代の人たちが、うちで実験映像のグループ展をやったりしていました。夜通しの設営やライブなどで大きな音を出すから、ご近所からよく文句を言われましたね。今は静かに展覧会やっていますけど、当時は絶えずうるさかった。

――他にはどういう人たちが集まってきてたんですか?

松尾:京都芸大の人たちも多かったんですけど、基本は他のギャラリーで、展示ができないと断られた人ばかりでした(笑)。

――早くからそういったインスタレーション作品を扱われていたのは、当時からすると前衛的だったのかなと思うんですけれど、やはりそういった作品を扱い出されたのは、元々ご興味があったのでしょうか。

松尾:それもありますし、アーティストがスタジオを持っておらず、大きな作品を広げる場所がなかったという状況を少しでも解決したいという気持ちもありました。今では共同スタジオなどで制作場所を確保している方が多いですけど、当時は大体が自宅で制作していたのではないでしょうか。インスタレーションが日本で流行った理由のひとつに、小さく作って大きく広げることができるからだと思います。小さい制作スペースで作って、大きいギャラリーに持ってきてそれを広げるみたいなことが当時は普通でしたから。展示が終わっても畳んでしまったら、保存・保管ができるじゃないですか。だから制作スタジオがないっていうあのデメリットが、インスタレーションの発展に繋がったんじゃないかと感じます。

――そのころ、収集もされていたのでしょうか?

松尾:収集は一切していませんでした。気に入った作品を個人で買うとか、画廊代のかたにもらうとかはありましたけれど。作品販売の方も、売れ始めたのは2003年くらいに急にです。当時は思いがけずに売れて、「あぁアート作品って売れるんだ」という妙な実感が湧いたのを覚えています。

――作品が売れるものだとわかって、そこから作品を売ることに特化していこうとは思われなかったのですか?

松尾:なかったですね。なぜならそこに集約していくと見落とす作品がたくさんあります。金銭の価値しかつけられなくなっちゃうと、そうじゃない価値を捨てざるを得ません。そこは私のスタンスと少し異なりますし、あとはやはり来られたかたとの、ある種丁寧なコミュニケーションが成立した上で売るみたいなところを重視したいのもあります。

――やはり最初の時にやられていたような、誰にも受け入れられない表現の受け皿みたいなことができなくなってくると。

松尾:そうですね。もちろん売りたいですし、売れたら嬉しいんですけどね。作家の人も作品制作を続けていけますし、単純に収入も増えるわけですから。でも無理せずに、良いものを、ちゃんとした価格とコミュニケーションを経て売っていきたいという姿勢を大切にしていきたいです。

展覧会「左側に気をつけろ!」トークショー(1995年9月)
ヴォイスギャラリー提供

京都だからできるギャラリー運営とは

――ギャラリーをはじめられたとき、どうして京都を選ばれたのですか?

松尾:元々神戸出身なんですが、阪神地域には阪神間モダニズムという大正・昭和初期の非常に洗練されたアートシーンの名残がありました。とても素敵なものなんですが、私にはちょっと違うなっていうのが漠然とあったように思います。地元で活動することにピンと来なかった。京都は、土地的にも文化的にも、目に見えない様々なものが湧いているように感じていて、そこにある力強さのようなものに憧れたのかもしれません。

――京都でギャラリーをやることの特異性であったり、特別感みたいなものはありますか?

松尾:まず、作り手意識の高い人が多いというのはあげられますよね。アーティストだけではなく、アートとは直接関わりのない職人さんや、物作り周辺の人たちも含めると人口比率的にかなり多いんじゃないかな。だからコミュニティもできやすいんです。そういう視点から考えると、過ごしやすいですよ京都は。共通言語が他の地域よりは浸透している気がします。
だから京都にいると時々、サンクチュアリの中にいるような気持ちになることがあります。極端な話ですが、アートに関わる限りここから一歩も出なくても生きていけると。

――以前別のインタビューで、「京都から出ると、私の考える芸術がなりたたない」と答えておられましたが、成り立たないって言うのは、そういったコミュニティの観点でですか?

松尾:それもありますが、あとはやっぱり、都市のカオスっていうんでしょうか。そういうのも含めて京都で、そこが私には必要です。やっぱり人が地域に密集していて、問題も混在しているから現代美術が成り立つというか。まぁ現代美術っていう限定的な言い方はさておきですけれど、それらのごちゃごちゃとしたものを美術に転換しやすい場所のようには感じています。作品へということだけではなく、アート周辺の仕事に関してもです。

共通言語が多いというのはやはり重要で、京都はそこが程よい。例えばこの町内会で、やっぱりギャラリーがあるということは最初、珍しかったんです。それでもふと立ち寄られた方が、興味を持って色々と聞いてくださる。ものづくり人口が多い都市ならではのアートに対する理解の土壌があるのだと考えています。

――京都ならではですね。近所のかたがたも結構ヴォイスギャラリーにお越しになるんですか?

松尾:はい。例えば黒川岳さん【3】の展示の時は、近所のかたも、石を運ぶのを応援してくださってね。お祭りみたいでした。

――「石の声を聞く」【4】ですね?

松尾:そうそう。一家4人で来て、「石に頭突っ込んでいいですか?」みたいな(笑)。そして地域の人たちも、芸術に敏感だなと思うことも多いです。これは面白いっていうものと、これは面白くないっていうものを、みなさんすごい見分けられるような気はします。私が「これはどうかな、わかりやすいかな」って思っているものは素通りなさったり、逆に意外なものに興味を持って来てくださったりするんです。

ヴォイスギャラリーで記録した”石の声を聞く”の360°写真。当日は搬入作業から作品設置の様子を360°カメラで記録した。
記録映像はこちら

――そういう意味では地域の人たちも、自分の好みをこのギャラリーを通して形成されているのかもしれませんね。地域という観点で、京都のギャラリスト同士の繋がりみたいなものはあるんですか?

松尾:98年から京都アートマップ【5】と称し、貸し画廊も含めて20件くらいでネットワークを作っていました。筆頭はギャラリー16【6】の井上道子さんで、皆さんに声をかけされて。年に1回全員で、同じ時期に展覧会をして、集客と、ギャラリー所在地の紹介などをやっていました。京都の画廊ってだいたい個人でやっておられるでしょ。法人のギャラリーって少ないんですよね。京都アートマップに参加している画廊は、オルタナティブな作家のためのスペースが重要と考えています。こういう繋がりも重要ですね。


アーティストの声を聞く

――松尾さんはよく、新人や、まだ名の知られていないアーティストを独自の視点で発掘されているように思います。松尾さんが意識されている選定基準などがあれば教えてください。

松尾:いわゆるトレンドになるという路線とは違った方向性をお持ちのかた。トレンドにない力強さってあるじゃないですか。多分、私が京都に憧れてきたのは、上流社会のためのアートじゃないものが多くあるからだと思います。そして実際長く京都で過ごしていると、ますますそんなものがたくさん存在することがよく分かります。だから私がその中でも見ていたい、見なければいけないと感じるかたでしょうかね。

――ただアーティストも、卵から考えると、たくさんいます。その中でも、特にこの人、こういう作品だと選ばれるわけですよね。他にはどのようなところに注目されているのでしょうか。

松尾:そうですね。ひとつはちゃんと系統的にも芸術を学んだかた。誰しもが表現者ですし、誰でもアーティストになれる時代だと思っていますし、ゆえに正当な芸術教育を受けていなくても優れた作家が多いのも事実です。でも私は、特に無名の新人を見つける時などは、ちゃんと勉強してきた人を、意識的に見るようにしているかもしれません。学問の中には、その時に理解することが難しいものもあります。ただその中で悩んだり、困ったりした人の方が、表現の幅や底力があるように思います。京都は芸術系の学校も多いですし、そう言った底力のある作家も多い。そしてその学校の中でも、あえて言えばいわゆる優等生じゃない人を見るかもしれません。卒業制作展に足を運んでも、賞がついていない作品をよく見ています。

――賞がついていない人たちの中でも、この作家なら今後5年10年続けられるか。そんな持久力みたいなものも感じ取られているのではないでしょうか。

松尾:えぇ、そうですね。作品だけ見ても、十分にはわかりません。だから実際作家に会って、その人が何を目指しているのか、何を求めているのか。そういうコミュニケーションでマッチする人でしょうか。これは作家だけに限らずかもしれませんが、最近は傷つきやすく、落ち込みやすいかたも多い。新人作家の中にはそういう沼のような深みにいる人もいます。私は、その深みから引きずり出して日の目を当ててあげようとか、そんなおこがましいことまでは思いません。やはり、自分で戦える人じゃないといけませんから。

もうひとつ、意識的には選んでいませんが、女性の作家は応援したいと思っています。
自分もそうだったように、圧倒的に女性作家の多くは、もがいてる感じがあります。もちろん男性も同様でしょうけれど、女性だから感じる悩みや葛藤があるのも事実です。だからせめて女同士って言ったら変ですけれど、同性で、この世界で活動しているからこそ分かり合えるところだったりとか、今はこのタイミングじゃないよとか、なんかそういう話ができるっていうんでしょうか。とにかく女の人には頑張ってほしいと思っています。

――ちなみにいま、何人くらいの作家さんと恒常的にお付き合いされているんですか?

松尾:20人くらいでしょうかね。先日、ギャラリーの年表を作ってみたんです。するとね、のべ2500人くらいの作家と今までお付き合いさせていただいたみたいで。疎遠になった人も多くいるんですけれど、ご縁が復活する兆しが最近少しあるんですよ。向こうからご連絡いただいたりして、繋がりが復活したりね。皆さんコロナ禍のそれぞれの時間の中で、過去を振り返ったのかなぁと、漠然と考えていました。

――そういった嬉しい変化もあるのはいいですね。いまお付き合いされている作家さん以外に、新しい作家さんの展覧会もされるのでしょうか?

松尾:新しい人は時々ですね。昔ほど、新規の作家さんのものはやっていなくて。やっぱり次の世代に送って行かないといけないっていうのも感じていますから。私自身の感覚も古びていってる可能性もありますし。極端な話、作家とは20年付き合わないと色々見えないと思っています。だから今20代の人に、うちでどう? なんて言って20年経たないうちに放り出すみたいなわけにはいかないなと。もちろん若い作家も1人、2人いらっしゃるけれど基本は、かねてからの作家との仕事が多いです。

ギャラリー内の1室。落ち着いて作品と対峙できる空間となっている。


ギャラリストのできるアーカイブとは

――ギャラリストとして作品を売ることと、アーカイブすることのバランスについて聞かせてください。

松尾:まず売り買いに関していうと、ヴォイスでは個人コレクターに適正価格で買っていただくような、ささやかな感じでやっています。

もちろん投機目的として作品を購入し、ギャラリーを運営していれば、この場所もまた違った場所になるのかもしれませんが、私のスタンスはそうではありませんでした。アーティストや作品の声を聞いて、アート愛好家としての個人コレクターと誠実につなげてきたつもりです。

ただやはりギャラリストっていうのは基本的に資金を豊富に持ってないといけないっていうことも、30年目くらいで改めて思いましたけれどね(笑)。やれることが変わりますから。大資本があれば、日本国内で売れない分、海外のビジネスの現場であるアートフェアを通じて輸出に注力できます。この2年ほどアートフェア中止も多いのですが、オンラインでは盛んに売買されるようで、人気作品は中国などのバイヤーが買い、転売されるケースも増えているようです。ただ私は、せめてその作家が生きている間は、ギャラリーで作品を追跡できるような範囲で売りたいなと考えています。

――基本的には追跡されているんですか?

松尾:基本的にはしていますね。もちろん取扱は買った人に委ねられますから、完全にというわけではありませんが。

――ギャラリーで作品を買った後、どうするかは個人の自由だと思うのですが、松尾さんは、作品を購入する一般の方々に持っておいて欲しい考えなどはありますか?

松尾:作家としてはたとえば1点でも2点でも美術館に残ると、少しでも歴史に引っかかっていけるわけでしょう?だからそういう道筋の中でコレクション意識を持ってくださいと伝えたいです。例えば5千円くらいの、紙のドローイングを、単体で持っていてもしょうがないかもしれませんが、それをたくさんの人が持っていることによって、一人の作家に対する支援層が厚くなって、歴史を太くしていくことはできると。そういう意識を持っていただきたいなとは思います。

必ずミュージアムに貸し出せるような、あるいは収蔵していただけるようなミュージアムピースばっかり持っていてくださいっていうのも、日本の住宅事情からして無理じゃないですか。個人コレクターではそもそも限界もあります。個人コレクターと組織的なコレクターの役割や違いっていうのも、売る側も買う側も意識していただきたいですね。

特に個人コレクターが細くでもしっかり集まれば、ひとつの流れ、道筋にはなるかなと考えています。

――個々人が保有する作品の繋がりという視点は、ギャラリストならではの大事な見方ですね。一方、やはり大きな作品や、重要な作品の最終保管場所として美術館はアーカイブと密接に関わっています。その中で美術館が抱える収蔵問題は、年々状況が厳しくなっていますが、松尾さんは今後、保存、アーカイブに対してどのような視点が必要だと思われますか?

松尾:たとえばですが、おそらく京都の美術館では、80年代、90年代の収蔵が薄いと思います。その頃から、流れとして作品は大規模化していますし、メディアアートも多く生まれていますが、多くは残せていません。当時のものが今、再現不可能になっています。大袈裟にいうとちょっと空白がありますよね。私が言いたいのは、ただ残そうということだけでなく、そう言った文脈をどう残すのかという問題に焦点を当て、残せるものがあるのであれば、オファーがあった時に美術館がどう答えられるのかという細やかな視点が重要だと考えます。そして作品の「再現」という観点で、ギャラリーにできることがあると考えています。例えばヴォイスの作家の中で、もちろんすごく整理が行き届いていて、再現可能なように作品をアーカイブしている作家もいますが、多くの作家はひとつ作品を作れば、次に進んでしまいます。だからその辺を示唆してあげられるのって、ギャラリーかなと。

ーーなるほど。確かにそうですよね。松尾さんは先ほど、ヴォイスの年表を作られたと仰っていましたが、作成のきっかけは何かあったのでしょうか。

松尾:純粋に今まで、何回展覧会をやったか確認してみようと思ったのがひとつ。あとは何人と関わって、みんなどうしてるのかなぁと。そうやってさかのぼって見ていると、当時あった制度とかも付随するように見えてきました。助成金とかですね。助成金申請をして実現させた展覧会とかがいくつも出てくるわけなんですよ。最初は先ほど述べたようなきっかけだけだったんですが、年表を作る中で、芸術の社会制度の移り変わりみたいなものを俯瞰し、何を本当に残していきたいかと考えるきっかけになりました。

ヴォイスギャラリーで歴代使用されていた印鑑。ギャラリー内に展示されている。

――ギャラリーの皆さんはそういう回顧録のようなものを作っておられるものなんですか?

松尾:そうだと思います。だいたいみなさん個人でやっておられるから、引退なさって画廊を閉めるときに、記録集というものを作られて残されていると思います。

――その記録集というのはどこかに収納されるものなんですか?

松尾:だと思いますよ。美術館とかね。ギャラリーを閉める時に、そのコレクションを美術館に寄贈したいと思うのが多くのギャラリストの中にあると思うんですよ。ただ美術館の方も受け取れきれない、整理しきれないというのがありますから、それも課題ですよね。ギャラリーを閉めた後の作品の行き先。やはり美術館は方針がはっきりしているから、当たり前かもしれませんが美術館の収蔵、収集方針に従ったものしか置いてもらえません。そうすると、大部分はいらないみたいなことにもなるから、皆さん、すごい慎重に考え、寄贈されていると思います。

――個人で経営していると、そういう問題もでてきますよね。個人でギャラリーを経営するとき、どのような視点が必要だと松尾さんはお考えですか?

松尾:この時代に合った空間としてのギャラリーなのか、商業なのか、そこの境界線を自分でどう持つのかは考えて、ギャラリーをやっていただきたいですね。どちらが良いという話ではありません。資金に余裕があるなら、やはり高いものを仕入れて、高く売っていけばいいと思います。その中で審美眼を磨くこともできますし、恒常的に資金繰りができるところでないと、アートフェアにも出品できません。

一方で私のギャラリーのような場所は、また別の役割がありますから、人材教育など、ここでしかできないことを実践していかなければいけません。

――ちなみにコロナ禍で、ギャラリーのあり方は変わりましたか?

松尾:変わりました。特に今の状況下では、やはりずっとギャラリーで待っていても人は来てくれません。今までは偶然の出会いのようなものにまかしてきましたが、偶然だけではやっていけません。だからどうやってアピールしていくかを考えるようになりました。せっかくのこの空間をどう活かしていくかなどですね。

――そのような観点で、今考えておられる挑戦などはあるのでしょうか。

松尾:芸術を通したまちづくりに寄与していこうとは考えています。市も、こういう状況下だからこそ、個人事業主が何をできるか、そしてそれが新しい街の形にどう関わるか考えているみたいで、プロジェクトの募集などもやっています。私なら、例えばギャラリーを使ったささやかな鑑賞会。親子連れや高齢者の皆さんに美術の入口を紹介したいとかね。まだそんなにお付き合いはありませんが、近隣の棒【7】さんとか、磔磔【8】さんとかもあるし、下京区に京都市立芸大も移転してくるし、美大生もその中のハブ的な環境だったりプロジェクトだったりが必要だから、そこと結びつけていければいいなとも思っています。

――コロナだからこそ新しい繋がりを作って行かないといけないってことですよね。

松尾:はい。あとは宿泊施設との連携ですよね。例えば斜め向かいのホテル【9】には多くのアーティストが関わっていますし、実は日比野克彦さんの作品がたくさんある場所です。ちょうど町内会長やっていた時に、地域の皆さんと、Openの時に見学させていただきました。でも、コロナ禍によって長らく休業中で、日比野さんの作品は誰にも見られず眠っています。最近はホテルにも現代美術を入れることがトレンドになっているみたいですし、たとえば休館中のこの状況を活用して、下京区アートツーリズムみたいなものができればと考えています。

――宿泊施設の中の作品は、なかなか見てもらえる機会がないですもんね。宿泊施設との連携に関しては以前から構想があったんですか?

松尾:きっかけのひとつとして私がずっとお世話になっていたホテルが廃業されたんですね。そこに60作品、うちから作品を納めていたんです。本当ならそれはもうホテルのものだから、閉める時には好きにされてもいいんだけれど、まぁ善良なかたがたで、このままだと捨てられるからと、全部寄贈すると言ってくださいました。だから私も、返せるものは作家に返したんですよ。返す前に一回ここで展示をして。みんな喜んでくれてね、20年ぶりに作品に再会できたって。それで、宿泊施設に眠ってる作品がいっぱいあるかもって感じました。

――ホテルもそうですし、地域と連携して、作品活用について考えるのは、素敵な取り組みですね。

松尾:こういう社会状況下だからこそ、色々考えられたこと、実践できたことがあると思っています。特に今まで疎遠だった繋がりがもう一度生まれたことなどはよかったことだと思います。この場所で長くやってきていますが、まだまだ新しい取り組みを、皆さんと連携してできれば良いなと、そう感じています。

松尾惠さん:ヴォイスギャラリー内にて


注釈

【1】     中原浩大
映像やパフォーマンス、ドローイングやインスタレーションなど多岐にわたる表現方法を持つアーティスト。特に80年代から多様な素材、メディアを使った作品を制作し、中でも置き換え・交換によって、アカデミックな意味での彫刻の概念を拡張し、多くの現代アーティストに影響を与えた。日本の現代美術シーンを代表するアーティストの1人。

【2】     レイ・ハラカミ
日本のミュージシャン。広島市出身。京都芸術短期大学卒業。テクノ、エレクトロニカの楽曲をメインとし、美しくも独創的なサウンドで幅広いリスナー層を持つ。

【3】     黒川岳

【4】     石の声を聴く(サイト中段に詳細)
+5の教育プログラムでもある「展覧観測」の一つとしてヴォイスギャラリーで実施。通常は鑑賞者の目に触れない、搬入から搬出までという展覧会の裏側をふくめて記録するプロジェクト。2019年10月実施。黒川の作品「石の声を聴く」から、巨石1体を運搬・展示する行為を観測した。

【5】     京都アートマップ

【6】     Galerie 16

【7】    GALLERY&SHOP VOU/棒 

「VOU / 棒」は2015年に開廊。京都の中心地・四条河原町から住宅街に入った場所に位置する、元印刷所跡地の3階建ビルを改装し、1階ギャラリー・2階ショップ・3階イベントスペースで構成し展開している。

【8】      ライブハウス磔磔 [takutaku]

【9】     THE GENERAL KYOTO Bukkoji Tominokoji〈 仏光寺富小路 〉:2023年1月末に廃業(2023年4月追記)


INTERVIEWEE|松尾 惠(まつお めぐみ)
1986年VOICE GALLERY(現 MATSUO MEGUMI+VOICE GALLERY pfs/w)開設。
京都芸術センターを運営する財団法人京都市芸術文化協会理事、財団法人京釡文化振興財団(大西清右衛門美術館)評議員を経験。京都市立芸術大学をはじめ多数の芸術大学において非常勤講師として後進の育成にも力を注いでいる。
ギャラリー運営を通じてアーティストの紹介、育成のみならず京都の芸術文化発展において、多くの活動にも関わっている。


INTERVIEWER|桐 惇史(きり あつし)
ART360°プロジェクトマネージャー、+5 編集長。1988年京都府生まれ。京都外国語大学英米語学科卒業後、学習塾の運営に携わりながら、海外ボランティアプログラムを有する、NPO法人のプロジェクトリードに従事。その後、ルーマニアでジャーナリズムを学び、帰国後はフリーランスのライターとして経験を積むかたわら、大手人材紹介会社でコンサルティング営業、管理職として組織マネジメントなどに携わる。現在は360°映像を通した展覧会のデジタルアーカイブ事業「ART360°」の推進に関わる。