2025年4月に閉店を発表した小規模アート複合施設「kumagusuku」。2015年、当初はアートホステルとして京都の四条大宮に誕生し、以来地域に向けて様々な対話の場を開き、特異な場所として認知されていた。kumagusukuとは、アーティスト矢津吉隆のアートプロジェクトであり、屋号であり、場所や考え方でもある。
今回はそんな複合的なkumagusukuを、特集として3つの記事で再考していく。記事はそれぞれ、本年(2025年)4月〜6月の間に行われた3つのkumagusukuクロージングトークの内容を起点に、ファシリテーターを務めた3名が、それぞれの視点でkumagusukuを振り返るものとなっている。
まずはトークの第1弾でファシリテーターを務めた、アートメディエーターのはがみちこさんによる記事をお送りする。(+5編集部)
2025年4月で店舗営業を終了したkumagusukuのクロージングイベントがHOTEL ANTEROOM KYOTOにて行われ、「kumagusukuとは一体何なのか」と題されたトークがおこなわれた。登壇したのはkumagusuku代表の矢津吉隆さんと、アートユニット「副産物産店」の活動を矢津さんと一緒におこなう山田毅さん、そして筆者である。このトークはkumagusukuを再考するための3つのトークプログラムのひとつであり、特に表現(アート)の一形態としてのkumagusukuにフォーカスを合わせる目的でおこなわれた。この記事では、その時に話された内容およびその打ち合わせのメモをもとに要約しつつ、私なりに「kumagusukuとは?」を考えてみようと思う。
“事業”としての「kumagusukuとは」については、過去の多くの媒体に掲載された記事を見てもらえたら大枠の概要を掴むことができる。また、当トークシリーズの別の記事でも検証されているはずなので、ここではその前提は省略させてもらう。この記事では、kumagusukuが「なぜアーティストの着想として生まれたのか」、「どのような点でアート実践であるか」について、私自身も見聞きした同時代的な界隈のアートの動向と同じタイムライン上に置くことで(やや内輪話のようになってしまうので恐縮だが)検証してみたい。
矢津さんとの出会いは2010年頃のことだったと思うが、私はkumagusukuを始める前の彼のことを売り出し中の“彫刻家”のようにとらえていた。だから、しばらくして自分が京都市の若手芸術家等支援組織「HAPS」の一員であった時に、矢津さんが「kumagusuku(南方熊楠+グスク=城)」というエッジの効いた名前の構想を、当時「HAPS」のディレクターだった芦立さやか(現・秋田市文化創造館ディレクター)に相談しに来て、たいそう驚いたことを覚えている。と同時に、ある意味では“時代の潮目”のような出来事として、興味深く感じたことも。それはアートのありかたが変化していく中で、時代をとらえた勇気ある“先手”であり、新しくその形を自ら見つけ出そうとする態度表明のように思えた。
その後、矢津さんのアートホステル構想は、2013年の瀬戸内国際芸術祭に合わせたアート・プロジェクトとして小豆島で期間限定で実現し、2015年には京都・四条大宮で実店舗がオープンした。気づけば十数年の間に、kumagusukuの構想は形を変えながら大きく展開していったし、そのダイナミズムに多くの人が(かくいう私もそうだった気がするが)巻き込まれていくことになった。今回、店舗としての形が終わることになり、振り返って実感するのは、kumagusukuという存在が、「芸術実践が場や社会との関係の中でどのようにありえるか?」という基本的な問題を、身近なものとして私たちに提起し続けてきたということだ。そして、こうした実践を読み解くこと自体が、現在進行形で変容し続けるアートの役割や、作家の生き方そのものを再考する機会になるようにも思える。
kumagusukuを考えるひとつの補助線に、矢津さんが学生時代から参加しアーティストとしてのキャリアを始めるきっかけとなった、アーティスト・コレクティブAntenna(2002年〜)との関わりが挙げられるだろう【※1】。
とりわけ、Antennaによるオルタナティブ・スペースの実践はソースとして参考になるものだ。学生時代に注目を集めてデビューしたAntennaは、映像やインスタレーションでの大掛かりな制作をおこなうため、出身校である京都市立芸大(沓掛キャンパス)の近くにスタジオを構えていた。そのうち、作品制作だけにとどまらず、自分たちや仲間の展示、イベントなどをおこなう発表スペース「Antenna Art Space[AAS]」として、その場の機能を拡張していく(2008〜10年)。
京都には90年代のDumb Typeというコレクティブの先例があるが、後続世代のAntennaもまたその求心力を発揮し、規定のアーティスト像をはみ出すような組織的運営を得意とした。近隣のシェアスタジオと連携したオープンスタジオ企画「KYOTO OPEN STUDIO」(2010年〜)、約90名のアーティストが全国から集った大規模展覧会「わくわく京都プロジェクト」(旧・立誠小学校、2010年)の実施など、社会的な発信力を強めていき、2011年には、さらに多職能のメンバーを集めてNPO法人「アンテナメディア」を立ち上げて、河原町五条にスペースをオープンする。
2000年代を通じて、日本各地で、アーティストたちが表現の場をDIYで立ち上げる「アーティスト・ラン・スペース」の動きが活発になるが、京都では2010年頃のAntennaの活動においてもっともその様子が顕在化していたかもしれない。その頃、すでに矢津さんはAntennaから脱退していたが、彼らの活動を横目で見ながら意識するのは当然のことだったのではないだろうか。アートを媒介にした新たな公共圏を見据えるように、活動とコミュニティの幅を広げていくAntennaに対し、kumagusukuの構想は「自分なりのアンサー的なもの」だったと矢津さん自身も振り返っている(「隣人と語ろう#2」)。
その一方では、ヤノベケンジさんや名和晃平さんといった、少し上の世代の京都芸大彫刻専攻の先輩アーティストたちも美術館やギャラリーで顕著な存在感を示していた。そうしたアート界で確固たる評価を築く“ビッグ・アーティスト”の姿をスタンダードとして追いかけるのではない、矢津吉隆という個人のアーティストのオルタナティブな道の探究がkumagusukuだったのだと思う。既存のアートの制度に依存しないかたちで表現していくための模索、エネルギッシュなこの時期の潮流からkumagusukuが始動した背景が見えてくる。
矢津さん自身も、kumagusukuの背景に色濃くあるのは、2010年前後の社会的閉塞感だと語る。とりわけ、この頃の若手アーティストを取り巻く状況は厳しいものだった。少し前の2000年代半ばには、「アートフェア東京」(2005〜)の開催を皮切りにアート・バブルの状況が生まれ、日本でもようやくアート・マーケットが整い始めたかに見えていた。だが、依然として東京一極集中であり、リーマンショック以降はそれも失速して、若手アーティストの表現は再び行き場を無くすことになる。1980年生まれの矢津さんはいわゆるロスジェネ世代で、こうした影響をまともに受け、「表現の場」以前に「生きる場」が問題となっていたという。
そんな中で、この世代の美大出身者たちには、飲食店やショップを開業し、作品制作とは別の手段で創造的な営みを続けるようなケースが散見された。2010年前後の京都で、「Art space其の延長(お粥さんBar京楽)」、「ゲストハウスこばこ」、「スペースネコ穴」、「森林食堂」など、まるで「芸祭の屋台がお店になった」かのような、独創的な店が相次いだことは、この時代の空気をよく表している。こうした「表現者たちの生存戦略としての“店”(営利活動)」という文脈の上に、当然kumagusukuも位置しているというわけだ。
ここで言う「生存戦略」とは、単に生活の糧を得ることだけでなく、制度の外で表現を続けること、信念を持って活動を保ち続けることを含んでいる。そこにたどり着くまでには、多くの現実的なハードルがあったという。金融機関からの融資を得るため、展覧会の企画書とは異なる「事業計画書」の作成や、建築・法規制への理解が求められた。これは、従来のアーティストにとって馴染みのない領域であり、kumagusukuの立ち上げは、表現者が制度に挑む実践でもあった。
今日では、美大でもキャリア支援体制が整い、美術至上主義を問い直す教育が行われるようになったが、当時はまだ「制作を続けてアーティストになるか or 制作を辞めて就職するか」という二者択一しか提示されていなかった。ただし、矢津さんは「アーティストを辞めた」のではなく、アートの概念自体を押し広げるような方法で、それを社会実装していくためのスペースを開発していった。こうした背景を踏まえれば、kumagusukuとは、アートと社会のはざまに新たな表現の選択肢を示すラボラトリー(実験室)だったと言えるだろう。
kumagusukuを語る上で欠かせないのが、やはり「宿」と「アート」を融合させたアートホステルというフォーマットだ。この分野の前例が無かったわけではなく、矢津さんも構想の際にそれらを参照したという。2005年の横浜トリエンナーレの連動企画「BankART Life 24時間のホスピタリティー」は、まさに“泊まれる展覧会”という形式で、kumagusukuのインスピレーション源になった。
その他にも、90年代から直島の「ベネッセハウス」は美術館とホテル、さらには島の自然が一体となったサイト・スペシフィックな宿泊施設として知られていたし(それが後に瀬戸内国際芸術祭へと繋がる)、越後妻有や別府などにも芸術祭に付随した宿泊体験型作品がある(マリーナ・アブラモヴィッチ《夢の家》2000年、十日町市など)。京都でも、幅広いアーティストたちの手がけた客室がある「ANTEROOM」が2011年にオープンしていた。鳥取の「たみ」は、ゲストハウスやシェアハウス、カフェ、ギャラリーなどの複合スペースで、kumagusukuと近い規模感でアーティストたちによって同時期に作られている。「たみ」の前身となった実験的なゲストハウス「かじこ」(2010年、岡山市)も、瀬戸内国際芸術祭に合わせて3ヶ月の期間限定で運営されたものだった。こうした動きから「アート×宿」というジャンルが、地方芸術祭の興隆にともなって、さまざまな形で多発的に各地に登場したことがわかる。
だがこの文脈で重要なのは、芸術祭のようなアートの領域(非日常)での短期間の企画ではなく、実際の都市(日常)の中で長期的な店舗としてkumagusukuが経営されたことで、「アート×宿」というジャンルを一般化・社会化した点にある。その上で、kumagusukuでは日々の宿泊客に向けて、客室も含めた全フロアを展示室として、熱量のある企画展覧会が開催された。キュレーションや展示の見せ方には、美術館やアートセンター同様のアートの作法が採用され、単に「宿にアートがある」状態とは一線を画していたように思う。むしろそれは、「アートに宿る(泊まる)」という特別で祝祭的な行為によって、鑑賞体験と日常そのものを拡張して繋ごうとする試みだったといえる。アートに生活を持ち込むこと、生活にアートを持ち込むこと、両方のベクトルが交錯する緊張関係が、kumagusukuを独自のポジションに置いていた。
kumagusukuのこの態度の源には、2011年の東日本大震災を契機に加速した「アートと生活の接点」というテーマへのシフトがありそうだ。1990年代以降の欧米圏を中心に、アーティストたちの表現が、美術館の自律的空間を飛び出して公共空間へと進出する機会が増えたが、それらの実践はしばしばそこに暮らす人々の参加や協働を呼び込むものであったため、「リレーショナル・アート(関係性の芸術)」、「ソーシャリー・エンゲージド・アート(社会に関与する芸術)」などの名称で呼ばれていくことになった。震災以降の日本の危機的な状況下で、そうした流れが必然性をともなって広がっていったことで、アートはより社会的な文脈に近づき、日常と非日常のあいだで展開される表現が注目を集めるようになる。
矢津さんの場合、「kumagusukuは自分の作品ではない」とこれまで語ってきた。自身の表現を見せるための場としてではなく、他者の表現を活かして、それを媒介に人々が集い交わり合うような、関係を編むためのプラットフォームと位置づけていたからだ。しかし、作品の形態が「モノ」から「コト」へ広がっている現代アートの視座から見れば、このような状況の設計自体もまた、一種の「作品」と見ることができるだろう【※2】。
「kumagusukuは、社会のなかで“芸術(アート)”という手法を用いて、新しい価値や関係、もしくは循環をつくりだす存在」――現在のステートメント【※3】で、kumagusukuはそのように自己定義されている。つまり、今回のようにスペースを閉じること自体は、kumagusukuの全くの終わりを意味するわけではない。これまでも、前節で論じたようなアートホステルの業態だけではなく、コロナ禍以降の業態である小規模アート複合施設や、モバイル式アートスペース、スクールプログラムなど、kumagusuku的な態度はさまざまな場や企画として表れてきた。
多様な形態を取るこうしたkumagusukuの特徴を、山田毅さんはクロージング・トークに先立って書いた記事で、粘菌研究者の熊楠にちなんで「芸術的菌糸体」と呼んだ【※4】。それは、ポピュラーカルチャーの人気コンテンツのように、同じタイトルのもとで「シリーズ的な世界」がかたちを変えて継続されることを受容する、現代の文化的感性に無理なくフィットするあり方だという。
今日のアートの基盤には、芸術作品の本質は、その物質的な媒体にではなく、コンセプト(概念)そのものにあるとする「コンセプチュアル・アート」の考え方がある。山田さんが例として挙げているリクリット・ティラヴァーニャの《untitled (free)》(展示会場で食べものを無料で振る舞う行為)のように、そういった類の作品は展覧会の度ごとに新しく用意され、かたちを変えて提示される。コンセプトの同一性が、それらの別々の表れをひとつのものとしてまとめ上げるというわけだ。だとすれば「kumagusukuとは?」の答えにあたるものが、「作品」のコンセプトであり、コンセプチュアルなアートワークとしての《kumagusuku》の本質になるのではないだろうか。
鶏が先か、卵が先か――必ずしも言語的なコンセプトが先行するわけではなく、直感的におこなわれる実践を通じて、徐々にそのコアが見えてくるという場合もあるように思える。だから、たとえば「空間をひらき、関係を編み、仕組みそのものをつくることで、表現を生活の中に再接続する方法」といった言葉で、それをいったん記述してみることができるかもしれないが、現時点では、きっとそれは(仮)のままになるだろう。これからのkumagusukuがどのようなかたちで表れるか、私たちにはまだわからないし、その時どきの芸術と社会の接点を反映して、どんどん変異していくような可能性もある。その都度、「kumagusukuとは」というコンセプトもアップデートされていくはずだ。そのような「菌糸体」的表現の、見たこともないような次の「子実体」を目撃することを楽しみに待ちたい。
kumagusuku
(URL最終確認2025年7月30日)
KYOTO ART HOSTEL kumagusuku
(URL最終確認2025年7月30日)
本記事は、HOTEL ANTEROOM KYOTOの展覧会「kumagusuku2013-2025 THE BOX OF MEMORIES」の関連トークイベントを元に構成された。
<クロージングイベント>
4月6日(日)15:00-20:00
・TALK#01 15:30~17:00「kumagusukuとは一体何なのか?」
ファシリテーター:はがみちこ(アートメディエーター)
スピーカー:矢津吉隆(美術家、kumagusuku代表)、山田毅(美術家、只本屋代表)
【※1】Antennaについては過去、+5でインタビューを行っているのでそちらを参照されたい。
「【隣人と語ろう #2-a】アートやデザインといった枠組みを超える創造性 Antenna(アンテナ)」
「【隣人と語ろう #2-b】見えない「アート」を社会実装する意味とは? Antenna(アンテナ)」
(URL最終確認2025年7月30日)
【※2】最初は自覚的ではなかったというが、のちに矢津さん自身の説明も「kumagusukuは矢津吉隆の作品である」と変わっていった。それは本稿で指摘したような、世界のアートの潮流を意識するようになっての変化だったという。
【※3】kumagusuku
トップページをスクロールし、中盤にコンセプト「Art for New Ecosystem」が掲載されている。
(URL最終確認2025年7月30日)
【※4】Tsuyoshi Yamada「kumagusukuという菌糸体──かたちを変えて続いた実践の終わらせ方」note(2025年4月3日 )
(URL最終確認2025年7月30日)
アート・メディエーター/京都市立芸術大学芸術資源研究センター非常勤研究員
1985年岡山県生まれ。2011年京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程修了。2019年『美術手帖』第16回芸術評論募集にて「『二人の耕平』における愛」が佳作入選。主な企画・コーディネーションとして「THE BOX OF MEMORY-Yukio Fujimoto」(kumagusuku、2015)、「國府理「水中エンジン」再制作プロジェクト」(2017〜)、菅かおる個展「光と海」(長性院、Gallery PARC、2019)など。