新聞記者、正木利和:活字で伝える美術の営み

新聞記者、正木利和:活字で伝える美術の営み

美術ジャーナリスト、元産経新聞文化部編集委員|正木利和
2025.04.11

テレビや新聞、ラジオ、雑誌など、インターネットが普及する以前より情報発信を担ってきた媒体を指す「オールドメディア」。80年代より台頭してきた「ニューメディア」に対応するものとして使用されてきた用語だが、最近は揶揄あるいは自虐する意味合いで用いられることも多い。情報化社会がますます進行する中、各メディアは自らの役割により自覚的であることを迫られているといってよいだろう。

美術面を掲載する新聞も同様である。正木利和さんは、産経新聞大阪本社に42年間勤めたベテランの新聞記者だ。社会部、運動部を経て、2014年からは文化部の編集委員として美術面を担当してきた。今年の2月に定年退職し、現在はフリーランスの記者として活動する正木さんに、これまでのご経験と美術界における新聞というメディアの役割について伺った(本文中敬称略)。

正木利和さん

呉から京都の大学へ

大阪本社に長年勤めた正木だが、出身は広島県呉市である。軍港と任侠映画で知られる街であるが、美術に触れる機会はそれほど多くはなかったという。


正木:絵を描くのは好きで、小さい頃はアニメや漫画に影響を受けました。小学生の頃に自分の描いた水彩画が呉市のコンテストに入選したこともありましたね。でも呉市は、そんなに文化的な環境はよくないと思います。呉市立美術館くらいしかないし、見に行った記憶もないです。美術史家の山下裕二さんに取材したときに、お互い呉市出身だということで話が盛り上がったことはあるんですが、それほど文化的な人も出ていない街だと思います。


高校卒業後は、京都の立命館大学法学部に進学する。アメリカのドラマ『若き弁護士たち』(1970)に影響を受けたこともあり、「世の中のためになりたい」という漠然とした思いから弁護士を志し進路を選んだ。勉学に励む一方で、美術鑑賞や読書にも慣れ親しんだという。


正木:当時付き合っていた女の子と美術館に行ったりしました。美術館に行く男性ってちょっと賢く見えるでしょ(笑)? あとは、雑誌の影響はすごく大きくて、『POPEYE』や『BRUTUS』はよく読んでいました。椎名誠などの「昭和軽薄体」【※1】という文体が出てきた時代で、憧れたりしましたね。もし東京の大学に進学していたら、雑誌の方に進んでたんじゃないかなと思ったりもします。


当時、学生運動は下火だったが、まだ活動している友人たちもいた。立命館大学は共産党系の団体である民青(日本民主青年同盟)が優勢で、彼らと議論を戦わすこともあったという。正木のフラットでニュートラルな立場を重んじるスタンスは、その後新聞記者として受け継がれるものでもある。


正木:社会というより学内の環境を良くしようという運動が盛んでした。でも、学ぶことは個々人の問題であって、とりあえず大学で学ぶということが第一義なんじゃないのかと思ってたんです。一度だけ学生大会に参加したことがあるんですが、何時間も自由を拘束されるわけです。彼らにはなんとも噛み合わない、空論めいたものを感じていましたね。

学生時代の愛読書。丸山眞男『日本の思想』(1961)やカミュ『ペスト』(1947)、カフカ『城』(1926)、ヘミングウェイ『誰がために鐘は鳴る』(1940)などが並ぶ。

大阪新聞、産経新聞・社会部での経験

弁護士の道は早々にあきらめたが、当時は大学に左寄りのイメージがあり、就職活動も難航した。公務員試験や主要新聞社の採用選考を受けた中、受かったのが産経新聞社だった。役員面接の際に、同社の子会社で夕刊紙『大阪新聞』を発行する大阪新聞社への配属を打診される。夕刊紙では、一般紙が書いていない、事件の裏側を取材して「読ませる」ことが求められた。いわゆる踏み込んだニュースストーリーを手掛けていたという。


正木:若い頃は体当たり取材みたいなこともやっていました。取材相手の家の前に張って突撃したりするんですが、これが一番辛かったですね。記者が聞くことって絶対に言いたくないようなことじゃないですか。でも、たまに話してくれる人もいるんです。そういう意味で言うと、やっぱり「人間」というものを追っかけていましたね。


未知の相手に迫る後ろめたさと仕事としての責務の間で葛藤を抱えながらも、夕刊紙の記者を5年間務めた。当時は大阪という街も、新聞をはじめとする活字文化にも、活気があったという。


正木:原稿はもちろん手書きです。編集部の横に工場(こうば)があって、要するに輪転機があるわけです。原稿をそこに持っていったら、文選工の人が活字を拾って組み上げていくんです。そうするとすぐに真っ黒なゲラが上がってくるわけですよ。当時は大阪新聞の他にも夕刊紙がたくさんあって、梅田の地下街の壁には新聞がいくつも張り出されていました。すごく活気がありましたね。


産経新聞の社会部へと異動してからは、夕刊紙での「読ませる」記事とは異なり、要点を簡略にまとめる技術が必要とされたという。所轄担当、鉄道担当を経験する中で、時には実際の事件と紙面になった記事とのギャップに気づかされたこともあった。


正木:火事があったから現場に行ってくれという連絡があって行ってみたら、夫婦が焼身自殺をしていて、娘だけ残されていたんです。本当の悲しみの声とはこういうもんなんだなと、未だに忘れられません。「お父さん、お母さん」と叫んでるんですよ。それで記事を書いたんですが、会社に戻ってゲラを読んだら、普通の火事の記事になっていました。こういうことは書いちゃいけないんだなと。新聞にはそういう裏側があったりするわけです。

取材時は、手帳、バインダー、万年筆、カメラ、スマホを持参するという。写真は正木の私物。

運動部への異動、デスク及び管理職へ

社会部の記者を2年間務めたのち、ノンフィクション作家の山際淳司【※2】ら、スポーツライターの文章を好んで読んでいたこともあり、運動部への異動を志望する。正木は「人間をじっくり書けるのがいいなと思ったんです」と語る。


正木:社会部というのは、基本的に一度きりなんです。現場に行って、話を聞いて、それきりです。ところが運動部の場合は、人間関係をつくることをやらないといけない。何度も何度も練習に通うことによって、顔や名前を覚えてもらって、そこで信頼を勝ち得ることがすごく大事なんです。


競技場だけで話していたのが、やがて合宿所での取材を許され、ついには選手がマッサージを受けている最中にも話を聞けるようになったこともあった。不意に漏らされた情報を掴むこともあったが、選手の体面を尊重し、記事に書かないこともしばしばあったという。会社から頼まれても決して書かないというけじめを持って取材に取り組んだ。

オリンピックや世界陸上などの取材も経験したが、正木が長年携わったのが産経新聞社などが主催する大阪国際女子マラソンだ。同大会については、文化的・歴史的背景にフォーカスした記事も手掛けた。 


正木:僕が入社する前から始まった大会ですから、歴史があるんです。女子マラソンはどうやって出来上がってきたのか、なぜ女子マラソンが必要とされたのかとか、当時の人々に話を聞きに行って、周年の企画で1面で連載したことがあります。こういう記録は、残しておかないといけないことじゃないかと思ったんです。


25年間在籍した運動部では、デスクや管理職も経験している。デスクでは、どの記事をどのように掲載するか、判断を迫られる場面も多い。 


正木:新聞記者の本領とは何かというと、ニュースの価値判断を行うことです。通常であれば自分の面白いと思う記事をトップに出せばいいと思うんだけど、社会的にあるいはスポーツ界に影響力があるものがあれば、それを取り上げないといけない。場合によっては1面や社会面に出さないといけない。それを判断する責任はとても重大です。


後輩記者の指導に当たっては、彼らの興味関心を優先した。「組織を管理するものとしてはそれを活かすのが最善の方法だと思ったんです」と正木は語る。文章の癖がなおらない記者に対しても、個性だと考えて目をつむることもあった。「好きこそものの上手なれ」、「角を矯めて牛を殺すことはしない」が、彼の人材育成の方針である。運動部長として管理職を4年半務め、一転、美術面担当への異動を志望する。 


正木:スポーツは4年スパンで動いているんです。夏季・冬季オリンピック、ワールドカップも全部終わって、管理職としてはもうやることはないなと思いました。元々原稿が書きたかったのに、会社の中に閉じ込められていることにも疑問を感じて、自分で開拓するしかないのかなと。それで「アート担当になりたいです」と、それも部長ではなく「書き手としていきたい」と申し出ました。

編集委員として文化部に

運動部時代から美術館には頻繁に出かけていた。デスクは平日が休みのことが多く、京都の古道具屋を巡ることが趣味にもなっていた。京都には大家の作品が歩ける距離に遍在している。やがて数寄者的な関心が正木をアートの深みに誘ったという。 


正木:最初に狩野尚信と下村観山の屏風に、富岡鉄斎の書を買ったんです。それを家に飾ってたら、「いいねえ、なかなか」と思うようになって(笑)。最初は、お店の人に「これ長沢芦雪でしょ? これは伊藤若冲じゃないの?」と聞くと首を横に振られ、真作ではなく写しだと教えてもらうこともありました。でも、見れば見るほど目というのは絶対に肥えていきます。ものを見ること自体が、やっぱり勉強なんだなと思いましたね。


難なく希望が通り、編集委員として文化部に異動し、現場復帰を果たす。運動部長からの異例の転身である。新天地では、美術というジャンルを扱う以上、ものを見る力、判断力がより必要とされたという。 


正木:編集委員なので、ひとりで全部やらないといけません。古典から現代アートまであらゆるものを見て、それを自分の中で咀嚼して、評価して、書いていく。書かないことは評価していないことと等しいですね。私たちは「じっくり見て考える」ということをやらないといけない。その人の作った意図とか、それを作品の中にどう込めているのか、私たちはそれをどう受け止めるのか。それは多様かもしれないけど、受け止めないといけないことだと思います。


新聞とは、一般の人々が手にとって読むメディアである。展覧会や美術の動向を取り上げる専門的なメディアも存在するが、新聞というメディアの特性上、できるだけ平易な文章で魅力を伝えられるように努めているという。 


正木:美術のメディアのように難しくならないようにとは思います。いくつかは専門家向けというか、ちょっと格調高いですよね。とりあえずはアートを見に行く人が増えてくれればそれに越したことはないわけです。そのためには分かりやすく書くことと、「熱」を伝えることを重視しています。「これ、いいよね」というところからアートへの関心は始まると思うんです。


最近は「オールドメディア」という総称が否定的な含意で使用される場面が散見されるが、作り手や読み手によって脈々と受け継がれてきた媒体であることには間違いない。正木は、時間をかけて出来上がったメディアにはそれなりの意味があるのではないのかと考えるという。 


正木:ひとつには情報が偏らないことってすごく大事だと思うんです。先ほども言ったように、新聞ではニュースの価値判断が行われています。それは、これまでの様々な経験、人間が積み上げてきた知識や見識から考え出されているものなんです。新聞が失われていくということは、それらをなくしていくことになると僕は思う。新聞を読むことの意味とは、人間理性のバランスを保てるようにすることじゃないかと思うんですよね。

正木の個人コレクションより富岡鉄斎《高砂図》(富岡益太郎箱)。

まとめにかえて

長年新聞記者として人間を追いかけ、人間に聞き、人間を書いてきた正木。運動部時代は試合の最中に原稿を求められることも多かったのに対し、文化部ではより時間をかけて綿密な取材ができるようになったという。作家と話をしていると「僕らの感性とは違うものをこの人たちは持ってるんだ」と思わされることもあるという。

新聞記者として話をする中で、建築家の安藤忠雄、美術家の森村泰昌、この度「咲くやこの花賞」を受賞をした画家の野原万里絵【※3】や、学芸員では大阪市立美術界の名誉館長の篠雅廣【※4】、和歌山県立美術界の青木加苗【※5】など、なぜだか「馬が合う」人たちとの出会いもあった。彫刻家の新宮晋もそのひとりであるという。


正木:
新宮さんにインタビューしていたときに、僕がトイレに行くのに少し席を外したんです。レコーダーは起動したままだったんですが、席に戻ってそのまま取材を続けました。あとから録音を聞いたら、僕のいないところで奥さんと話されていたんです。その時もらった言葉が「正木さんだったら、何でも話せるんだよね」と。無意識に話されたことだとは思うんですが、それはすごく嬉しかったですね(笑)。


定年退職した現在、量は減るが、変わらず産経新聞にて取材・執筆に励む予定だという。新聞の美術面から休日の予定を立てるのも乙なものかもしれない。

神戸市内のギャラリーにて、現代美術家で絵本作家の中辻悦子(中央)、西宮市大谷記念美術館館長の故越智裕二郎(右)との一枚

注釈

【※1】昭和軽薄体

椎名誠『さらば国分寺書店のオババ』(1979)に代表される、話し言葉を駆使した饒舌な文体のこと。

【※2】山際淳司

ノンフィクション作家。代表作に『江夏の21球』(1980)など。綿密な取材に基づいた、詳細な描写と客観的な記述が特徴。

【※3】正木利和「「王道」から外れて光る個性 まだ見ぬ「描き方」を追求する画家・野原万里絵さん」(産経新聞、2025年2月28日)
(URL最終確認2025年4月11日)

【※4】正木利和「勉強嫌いから学芸員に、問い続ける美術館の役割 篠雅廣・大阪市立美術館名誉館長」(産経新聞、2024年1月19日)
(URL最終確認2025年4月11日)

【※5】正木利和「世界の美術を和歌山から変える 県立近代美術館の学芸員・青木加苗さん」(産経新聞、2023年2月10日)
本メディアでも、青木へのインタビュー記事を掲載している。
「対話で生まれるみんなのミュージアム ICOMと美術館でひろげる可能性」
(+5)
(URL最終確認2025年4月11日)

INTERVIEWEE|正木 利和(まさき としかず)

大阪新聞から産経新聞社会部、運動部、部長を経て大阪編集局報道本部社会・文化ユニット編集委員を歴任。運動部歴25年目となった秋、念願かなって美術担当に異動する。好きなものは富岡鉄斎の絵、よく墨のおりる端渓硯(たんけいけん)、品のよい腕時計、勇敢なボクサー、寡黙な長距離走者。定年退職した現在は、フリーの記者として活動する。

INTERVIEWER |山際 美優(やまぎわ みゆう) 

同志社大学大学院文学研究科美学芸術学専攻博士前期課程修了。アメリカの戦後の写真集、とりわけロバート・フランクやジョン・シャーカフスキーの作品を対象とし、広くイメージとテキストの関係について研究を行う。現在は+5編集部で校正を担当するほか、記事の執筆にも携わっている。