翻訳家の使命:クリストファー・スティヴンズの場合

翻訳家の使命:クリストファー・スティヴンズの場合

翻訳家|クリストファー・スティヴンズ
2024.09.26
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新型コロナウイルス感染症の水際対策の緩和、1ドル160円台にのぼる記録的円安に伴い、訪日外国人の数は日を追って増加の傾向にある。彼らの訪れる先には、日本各地の美術館や博物館も当然含まれる。これらの外国人来館者に対応するべく、各館は図録や解説パネル、音声ガイドにおいて多言語での情報発信に努めている。

クリストファー・スティヴンズさんは、美術館の依頼により日英翻訳を担う翻訳家のひとりである。東京国立近代美術館や国立国際美術館をはじめとする日本各地の美術館で開催される展覧会やそれに係る刊行物の翻訳を長年手掛けている人物だ。謝辞や奥付でその名を目にしたことがある人も多いだろう。カリフォルニア出身の彼がなぜ日本に渡り美術関係の翻訳業を手掛けるようになったのか、雑誌編集や美術記事の執筆などの経験をもふまえた、翻訳家の使命について伺った(本文中敬称略)【※1】。

クリストファーが自宅で開いたパーティー、2023年。
2列目向かって左から2番目の男性がクリストファー。
参加者は学芸員、アーティスト 、ライター、翻訳家、音楽家など。

カリフォルニアから日本へ

1985年秋、大学を卒業してまもない20歳のとき、クリストファーはスーツケースのみを携え単身で日本に渡る。青年時代の彼がビート文学【※2】とパンク音楽に傾倒していたことを鑑みれば、そう不思議でもない。


「ケルアックは僕の小さい時に亡くなったけど、ギンズバーグやバロウズには会いに行ったりして【※3】、文通とかもしてたね。僕はバロウズの大ファンで。中学を卒業した14歳くらいの時には、友だちとパンクバンドを組んでました。」


いくつかの短期大学での学生生活を経て、弱冠15歳でフレズノにある州立大学に進学し、アメリカ文学を専攻する。とりわけディキンソンやホイットマンといったアメリカの詩人たちの作品に親しんだという。


「そのときはいくつかの短期大学に行くのが普通でした。ほんとに400円くらいで通えて安かったしね。自分が何をしたいかよくわからなかったから、まずは色んなところに行って試してみようと思って。他の大学に行っても単位は一緒だから認めてもらえるんです。最初は音楽をやろうとしたけど、僕がその当時したかったことはアナーキーなことだったから(笑)。大学ではできないしやる意味もないし、楽譜も読めなかったしね。」


卒業後は、叔父の住まいがあったワシントンDCの大学院への進学を考えもしたが【※4】、奨学金の都合により進路を変更する。それが突如思い立った、単身での渡日である。


「当時はバブルの時代で、『Jobs in Japan』という本に、日本に行ったら英語さえできればいっぱい仕事があるとか、学校での英語教師の採用情報とかが書いてあって、「じゃあいけそうだな~」と思って(笑)。スーツケースだけで何も持ってこなかった。」


しかしながら、当時より日本及び日本美術への関心はあったという。テレビ番組や映画、母親の趣味がその影響のもとであった。


「実験音楽とか実験的なパフォーマンスを紹介するような『Alive from Off Center』というテレビ番組があったんだけど、そこで山海塾【※5】が紹介されていました。「これはすごい、僕の好きそうなやつだ!」と一発で思ったね(笑)。映画『ブレードランナー』(1982)で描かれた日本を見た時も、「これだ!」と思った。あとは、母が大学院で美術史を専攻していてコロンブス以前の焼き物が専門だったんだけど、日本の飾り物とかが家に結構あったりして。小さい時はそこまで興味なかったけど、なんかその時は急に日本への熱が湧いてきた。」

学生時代に活動していたパンクバンド「Assholes」の仲間。
左からクリストファー、ジョエル・スミス(現モルガン・ライブラリー学芸員)、クリスチャン・ソンダーガード(行方不明)。中心メンバーである音楽家マルセロ・ラデュロビッチは欠席。

日本に来てから:白虎社での翻訳

日本に渡ったクリストファーは、はじめに大阪の羽曳野(はびきの)を拠点とする。フレズノの州立大学の教員が広島で1年間教えていたこともあり、その知り合いの知り合いを頼って、英会話教室での職を得る。そこでは、教科書を作成するような仕事も行っていたという。しかし、語学の壁もあった。当初はやがて日本語が話せるようになる日が来ると考えていたものの、そうもいかず日本語学校(YMCA)に通い始める。そんな彼の当時の愛読書は、雑誌『太陽』であった。


「日本語学校に通いながら、『太陽』でとにかくアングラ系の変わったものを探していました。日本語が読めなくても、これはよさそうというものは匂いでわかる(笑)。「澁澤龍彦、これはよさそう」「稲垣足穂、これもよさそう」「土方巽、これは僕の大好きな特徴!」みたいに、すぐに分かっちゃう。でも、それこそ日本語を勉強する気になるじゃないですか。何が書かれているんだろうって。」


彼の嗅覚の捉える先には、前衛舞踏集団の白虎社もあった。山海塾と同じく、舞踏の第2世代を牽引したグループで、京都を主な拠点として活動していた。日本語学校に通う傍ら、白虎社の公演を鑑賞に訪れた際、ポスターの裏に書かれた翻訳者の募集が目に留まる。


「その募集に応募して、1991年頃から週に1回くらい通っていました。海外の演者を呼ぶときもあったから、その時の手紙のやり取りを訳したりとか。白虎社で活動されていた佐東範一さんのアシスタントになって香港とかに一緒に行ったりもしました。通訳もちょっとはしたけど【※6】、あまり好きになれなかったね。リラックスできないし、人前に出るのは苦手だし(笑)。」


冒頭に記したように、クリストファーの渡日はちょっとした思いつきに過ぎなかったが、やがて日本に根を下ろすことに決める。インターネットの通じていない当時、最初は異国の地を拠点とするには精神的な浮き沈みも激しかったという。それが仕事や生活を続けるとともに、徐々に慣れてきてフラットになってきた。一度ワシントンDCの大学院への進学を経もしたが、文化ビザ【※7】やその後結婚した際には永住権を得て、日本での活動を本格化させる。

日本に根を下ろして:ジーベックホールでの翻訳

文学や舞踏、パフォーマンス等に関心を寄せる一方で、クリストファーは大の音楽愛好家でもある。1989年に神戸のポートアイランドの一角に実験的な音響ホール、ジーベックホールがオープンすると、頻繁に足を運ぶようになる。その杮落しにブライアン・イーノのビデオインスタレーションが開催されるなど、先鋭的な音楽家/作家によるパフォーマンスが盛んに行われていた。

ジーベックホールでは多彩な出会いがあった。特筆すべきは開設以前よりジーベックのディレクターを務めていた下田展久【※8】との出会いだろう。『Sound Arts』【※9】は1992年創刊のジーベックホールの機関誌であるが、同誌ではともに仕事を行った。


「『Sound Arts』は、下田さんが編集長で、音楽家のHacoさん、森信子さん【※10】、そして僕の4人でやっていました。1995年に阪神淡路大震災があって、だからこそ自国のニュースを全世界に伝えるという意味でも日英バイリンガルで掲載していて。僕が翻訳を担当していました。世界でもジーベックみたいな施設はほとんどなかったから、海外の人がわざわざ見に来て取材にくることとかもあったね。」


ジーベックホールは音響機器の開発と製造を手掛けるTOA社の「音の情報発信基地」となるべく開設されたこともあり、音に特化したイベントが中心ではあったものの、サウンドアーティストの藤本由紀夫によるアートイベントや具体美術協会の作家のひとり村上三郎による「紙破り」のパフォーマンスが行われるなど、現代美術に関するイベントも数多く行われていた。下田がディレクターを務めていた当時のジーベックを「すごく良いところだった」とクリストファーは回顧する。

無念にも『Sound Arts』は17号を最後に1998年に廃刊してしまう。しかしながら、彼の編集業と翻訳業は別のかたちで展開されることとなる。当時西宮市大谷記念美術館で学芸員を務めていた中井康之の存在も大きい。彼の口コミによりクリストファーの翻訳の仕事が広がっていったと言っても過言ではない。


「Hacoさんがなんかのイベントで中井さんに会って、僕が翻訳をやってると言って名刺を渡したみたいで。その頃彼は大谷にいて、当時学芸課長をしていた篠雅廣さんともよくごはんに行ったね。美術館の依頼で翻訳をしたのは、大谷がはじめでした。中井さんが2000年頃に国立国際美術館に移ったあとも色んな翻訳を頼まれたりしたね。そこから中井さんが館内外の色んな人に僕を紹介してくれて、翻訳の仕事が広がっていきました。」

翻訳を担当した書籍でいっぱいになった押入れ。
ここから見えるものは初期の仕事が多いという。

編集と執筆:『KANSAI TIME OUT』、『Artscape Japan』

クリストファーの美術関係の翻訳業については、本稿のおわり近くで取り上げることとしよう。彼の編集業は別のかたちで、英字月刊誌『KANSAI TIME OUT』において展開される。ジーベックでのブライアン・イーノの展示情報を知ったのも同誌からだったという。


「「ブライアン・イーノ!?」と思ったね(笑)。イベントについてだけじゃなく、マニアな情報がいっぱい載っていて面白かった。当時は周りのみんな読んでたよ。僕も日本語が読めない頃は毎月買ってたわけ。本当に何が起こってるかわからなかったから。でも日本語が読めるようになったら『ぴあ』もあったし毎月買うことはなくなったけど、タワーレコードで募集欄だけ立ち読みしてた(笑)。念のためにね。何か面白いことないかなと思ってみてたら、編集部の募集がのっていて。」


『KANSAI TIME OUT』に掲載されていた同誌の編集部の募集に応募し、最初は校正などを担当していたという。およそ1998年のことである。それが徐々に読書コーナーを任されるようになったり、「Art Focus」という展覧会を3本紹介する毎月の連載を担当するようになったり、自身の企画による特集記事をこしらえるようになったりしていく。


「外部のライターにはアングラ系音楽の専門の人がひとりいて、彼は本当に誰も知らないようなバンドばっかりを紹介していました(笑)。他の雑誌では、特に英語でそういう情報は絶対に手に入らなかったから、そのことが大事だった。あとはジャズが専門の人もいたから、僕がアート担当になったんです。」


特集記事では、具体のメンバーのひとり嶋本昭三や写真家の石内都、現代美術家のヤノベケンジらに話を聞きに行く機会を得たこともあったという。美術関係者のほかにも、ライターで政治運動家の小田実や小説家の村上春樹などにも取材の経験がある。雑誌という媒体は会いたい人に会いに行ける口実ともなったと語る。2004年には編集長になり、廃刊の2009年までの5年間最後の編集長を務めた。1977年創刊の歴史のある雑誌であったが、印刷費用の高騰や紙媒体の需要の低迷に伴い、廃刊となった。

その後、美術館・アート情報のWebマガジン『artscape』の英字版サイト『Artscape Japan』にて展評を連載するようにもなる。『KANSAI TIME OUT』の「Art Focus」と似たような体裁だが、日本人作家(在日韓国人などは可)の展覧会であること、必ず足を運んだ展覧会でレポートを書くこと、掲載時に展覧会会期であること等の決まりが設けられていたという。『Artscape Japan』での連載も不思議な縁によるものであった【※11】。


「僕はその時ドナルド・フィリッパイという翻訳家の研究をしていて。最初に彼を知ったのは、音楽家スラヴァ・ランコとしての一面でした。彼はすごく暗いアンビエント系の音楽を作ってたんだけど、まだ僕がアメリカにいた頃にサンフランシスコで彼のレコードを買ったことがあって。後になって彼が古事記やアイヌ叙事詩の翻訳をしていたことを知りました。彼については革マル派と関わりがあったり、他の不思議な噂も聞いたことがあるね(笑)。本当に天才的な人だったみたい。その人についての本を出そうかなと思って色々調べたり取材をしてたわけ。彼の弟子のひとりにアラン・グリースンという人がいて、アメリカ出身のすごくいい人なんだけど、彼が当時『Artscape Japan』の編集長をしてたんです。」


その当時、ライターがひとり辞めたこと、関西を拠点とするライターがいなかったこともあり、『Artscape Japan』での記事の執筆を依頼されたという。フィリッパイについての研究は数年来滞っているようだが、上梓される時を待たれたい。

『KANSAI TIME OUT』同僚スタッフの誕生会で再会した時の様子、2017年。
左からクリストファー、同誌の発行人デヴィッド・ジャックと松永幸子、元編集長ドミニク・アルバドリ。

現在の翻訳業

現在は、大学での英作文の授業を受け持つ傍ら、翻訳の仕事を主な生業としている。日本各地の美術館から翻訳の依頼を受けるというクリストファーであるが、彼の仕事は早い。400字ほどの作品解説の文章であれば、ものの15分で翻訳できるという。


「昔から早いってよく言われるね(笑)。ちゃんと時間制限を設けていて。それは雑誌の編集をしていた頃からだけど、締め切りは守りましょうというようにしています。雑誌の場合だと、印刷屋が事務所まで来て待ってるわけじゃないですか。彼を待たせるわけにはいかないものね、かわいそうだし。あとは、遅くとも20時までしか仕事はしないと決めていました。今は土日は休みで、18時まで。倒れたら何もできないから、ちゃんと自分の体を大事にしなきゃ。」


彼が翻訳の仕事を行う際には、大まかなルールが設けられている。一点目は上述した「時間制限を設けること」、そして二点目は「全部読まずに一文ずつ訳すこと」である。最初に全部読んでしまうと「ミステリー」がなくなってしまうためだという。ミステリーを残すことで読む・訳す楽しみを保持できるとともに、素早く訳すことができるようだ。そして三点目は「断らないこと」である。現在では、コリン・スミスという人物がアシスタントを担当しており、それでも仕事が抱えきれない場合のみ断ることもあるが、長年翻訳を依頼されている館からの仕事は絶対に断らないという。


「アシスタントも『KANSAI TIME OUT』の外部ライターをしていて、それで知り合いました。日本語も上手だったし既に翻訳の仕事もしてたから、どう?と。彼は美術が専門で画家でもあるんだけど、性格的にもよく合うし、とってもうまくいってます。よく「もう少しアシスタントを増やしたらどう?」と言われるけど、これ以上は増やさない。彼以上にいい人はいないしね。」

夙川に面した仕事部屋。
桜の季節になると、窓から花見ができるという。

翻訳家の使命と美術館の課題

長年の翻訳業に加え、雑誌編集や美術記事の執筆の経験があるからこそ見えてくる課題もある。最近の動向や翻訳の楽しみについても伺ってみた。


「最近は文章がよくなっているように思う。昔の超難しい論文に比べると、わかりやすいというか、読む人がわかるように書かれている気がします。そう考えると楽しいね。難しい文章もあるかもしれないけど、美術館は社会のためにあるものだから。読んでもらう人が理解できる文章を書かないとね。」

学芸員からよく言われることとして、「英語で読んで初めて自分の文章が理解できた」という声があるという。確かに、日本語でも理解の難しい複雑な文章の場合、英語の完結な構造に置き換えることで理解が容易になることもある。しかしその「置き換え」は誰でもできるわけではない。昨今は自動翻訳の性能も上がってきているが、翻訳家の存在はそう簡単には替えの効かないものだ。

「カリフォルニアに帰ると、弟妹たちから「仕事なくなるぞ〜」とか言われたりするけど(笑)、それは違う。僕がやってる翻訳は違う世界だから。翻訳ツールのDeepLをよくできてると言う人もいるけど全然、全くそんなことない。昔の名称と現在の名称とが混じっていることもあるし、文法的におかしいこともよくある。美術館では使われてないとは思うけど、大学の課題で使う学生とかはすぐわかるね。一発でわかる(笑)。」

その他にも問題はある。美術館は外国人来館者に対応するべく多言語での発信を行ってはいるものの、文章の内容自体は日本文化に明るいことを前提としていることが多い。

「「やなぎみわがこうこう言ってた」と書いてあっても「やなぎみわって?」ってなるよね(笑)。みんなが彼女を知っているわけじゃないから、ちゃんと説明しないと。翻訳家として一番最初に覚えるのは、江戸時代は1603年から1868年とか、明治時代は1868年から1912年とかだったりする。「明治初期」と書かれてあっても、「どこ?なに?」ってなってしまうから。「戦後」という言葉も難しい。ちゃんとWorld War 2と書かないと。どの戦争を指してるかなんてわからないし、「太平洋戦争」とかも英語では聞かないしね。」

一方で、作家の学歴や受賞歴、画壇における交流関係を細かく連ねる文章にも警鐘を鳴らす。ある作品を描写するのに毎回作家の経歴をひとつずつ説明しないといけないのか、もっと書くべき大事なことがあるのではないかと感じるという。これらのことは、外国人来館者への対応に関する問題だけでなく、美術の素養を前提とする旧来的な美術館のあり方にも問題があるともいえる。


まとめにかえて

今回取材を行った西宮市にあるクリストファー邸では、よくパーティーを催すという。海外出身の友人、アーティストや学芸員を交えた会を行うそうだ。

「不定期のパーティーの他に「夙川会」というのがあって、兵庫県立美術館の服部正さん、遊免寛子さん【※12】と芦屋市立美術博物館の大槻晃実さん、作家の山村幸則さんと僕がメンバーです。コロナ禍の前にはよく一緒にご飯を食べに行ったりしていました。アーティストと学芸員と翻訳家が同じ場所でパーティーをするなんて他ではありえないと思う(笑)。」

アーティストと学芸員と翻訳家とが対等にその時間を共有することができるのは、西宮ならではの気風と穏やかな信頼関係によるといえる。今後もクリストファーの翻訳が外国人来館者へ美術館の門戸を開き、未来の研究者たちへ展覧会の「後熟」をもたらすことだろう【※13】。

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注釈

【※1】本稿に先立って、国立新美術館で開催された「遠距離現在」展の関連イベントとして「福永信 ひとり対談:クリストファー・スティヴンズとは誰か?福永信が迫る、アートカタログ翻訳者の人生」が行われている。あわせて参照されたい。

【※2】ビート文学

1950年代にアメリカで興隆した文学運動。代表的な作家にジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズなどがいる。ヘミングウェイやフィッツジェラルドといった1920-30年代に活動した作家たちが「ロスト・ジェネレーション」と称されたのに対し、自らを「ビート・ジェネレーション」と称した。のちのヒッピー世代に大きく支持される。

【※3】1982年にケルアックの代表作『オン・ザ・ロード』の出版25周年を記念して、コロラド州ボールダーで開催されたイベントOn the Road: The Jack Kerouac Conferenceでのこと。ギンズバーグに「ここにいる奴の中で誰とファックしたい?」と声をかけられたという。

【※4】卒業後すぐに大学院へ進学はしなかったものの、最初の来日から1年後に希望の大学院からの奨学金が通り、同学への進学を果たしている。しかし中途退学し、再び来日する。

【※5】 山海塾

1975年に舞踏家・演出家の天児牛大(あまがつうしお)が設立した舞踏グループ。頭髪を剃った全身を白塗りにした男性ダンサーによる洗練されたパフォーマンスが特徴。山海塾の活動はButohの名を世界に広めた。

【※6】 2005年に開催されたヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展日本館での写真家の石内都の展示に、The Third Gallery Ayaのオーナーでギャラリストの綾智佳に誘われて訪れた際、現地のテレビ番組から石内が取材を受けることになり、急遽クリストファーが通訳を担当することになったこともあるという。

【※7】当時は、華道や茶道の教室に週に2日ほど通うと、ビザが降りたという。現行の制度については、出入国在留管理庁の公開している在留資格「文化活動」の項を参照のこと。

【※8】本メディアでは、神戸のC.A.P.(芸術と計画会議)について同団体の代表を務める下田に取材した記事を公開している。あわせて参照されたい。

アーティストの連帯が街に浸透するC.A.P.(芸術と計画会議)の試み<前編>
アーティストの連帯が街に浸透するC.A.P.(芸術と計画会議)の試み<後編>

【※9】同誌については、中川克志による調査報告「【日本におけるサウンド・アートの系譜学】神戸ジーベックホール(1989-1999)をめぐって:その1――『Sound Arts』誌(1992-1998)の場合――」京都国立近代美術館編『CROSS SECTIONS』11号、2024年に詳しい。

また、下記の同誌についての下田へのインタビュー記事も参照されたい。

松本ひとみ「ニューズマガジン「Sound Arts」」(「阪神・淡路大震災+クリエイティブ」タイムラインマッピング プロジェクト)

【※10】現在、大阪音楽大学にてミュージックコミュニケーションの分野で助手を務める。下田と同じくC.A.P.のメンバーでもある。C.A.P.10th 証言:森信子等を参照。

【※11】しかしその終了も不思議であったという。Webページのリニューアルに関する意見を募る編集部とライターを交えたミーティングのあと、まもなく更新の終了が発表された。これに伴い『Artscape Japan』編集長も運営元の大日本印刷を去ったという。現時点でいくつかの記事が公開されたままであるが、いつ閉鎖されるともわからないと言い渡されたとクリストファーは語る。

【※12】本メディアでは、美術館における教育普及活動について遊免に取材した記事を公開している。

学校と美術館をつなぐアートエデュケーターの仕事

【※13】今回の取材に係るお礼メールをクリストファーに送ったところ、「話がどんどん飛んで、人の名前などがよく思い出せなかったのでクイズ番組のようでしたが、行き先が分からない会話より楽しいことはないじゃないですか」との返答をいただいた。まさしくその通りである。

INTERVIEWEE|クリストファー・スティヴンズ(Christopher Stephens)

1964年、カリフォルニア生まれ。1985年に渡日以来、関西を拠点に活動。英字月刊誌『KANSAI TIME OUT』の編集長を長年勤めた。翻訳家としては国立国際美術館、国立新美術館、東京国立近代美術館、東京国立博物館、京都国立近代美術館を含む全国または海外の美術施設のため数々の図録などを英訳。主要訳書に『From Postwar to Postmodern: Art in Japan 1945-1989: Primary Documents』(ニューヨーク近代美術館、2012)、『田名網敬一記憶の冒険』(国立新美術館、2024) など。

INTERVIEWER |山際 美優(やまぎわ みゆう) 

京都国立近代美術館研究補佐員。同志社大学大学院文学研究科美学芸術学専攻博士前期課程修了。アメリカの戦後の写真集、とりわけロバート・フランクやジョン・シャーカフスキーの作品を対象とし、広くイメージとテキストの関係について研究を行う。現在は+5編集部で校正を担当するほか、記事の執筆にも携わっている。