2010年代から芸術祭の開催やレジデンス事業の実施が全国でみられるようになり、近年では日本でもアートフェアが活況を呈している。それに伴い、職業をアーティストとして生きていくという選択肢も生まれてきている。かつて国内のアーティストはほとんどが兼業で、大学や高校の教員が空いた時間で制作や発表をしていた。現在は、多くの発表の場が生まれたこと、美術・芸術大学の常勤教員の雇用数が減少していることもあって、大学外でスタジオを持つアーティストが増えてきている。
個人スタジオを持つ場合もあるが、共同でスタジオを持ち、制作場所や機材をシェアする場合も多い。本メディアでも取り上げたC.A.P.のように、NPOが運営する場合もあれば、おおさか創造千島財団のSuper Studio Kitakagaya(SSK)のように、財団が運営する場合もある。両者は積極的にオープンスタジオやイベントを開催しているが、アーティスト主導で自主的に運営している団体の場合、自分たちの制作に加え、イベントを開催していくのは労力的にも難しい。その中で京都と滋賀の県境の山中町に居を構える「山中suplex」は積極的にイベントやレジデンス事業を実施したり、スタジオでユニークな展覧会を開催したり、コレクティブのような形で芸術祭や展覧会に呼ばれたりするなど、積極的に外部に発信し、独自のネットワークを形成している。
今回は、共同スタジオの中でもとりわけユニークな活動を続ける山中suplexがどのように運営されているのか、アートと人々を繋ぐアートネイバーとしてどのような活動をしているのか、共同設立者の小宮太郎(こみやたろう)とプログラムディレクターである堤拓也(つつみたくや)に話を伺いながら、共同スタジオの可能性について考えていく。
山中suplexはどのような経緯で設立されたのだろうか?
小宮「小笠原(周)くんと石黒(健一)くん、本田(大起)さんに僕という今残っている4人に加えて、京丹後に拠点を移した陶芸作家の林大作(DAISAK)くん、名和晃平さんのスタジオ(Sandwich)【※1】で働いている北條裕人さん、自転車屋さんをやっていた同級生の窪山勝也くんの7人で最初にスタートしました。当時の京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)と京都精華大学出身の同世代で石彫や、金属加工、陶芸、木材加工など、主に立体物を制作しているアーティストたちが集まりました。それぞれ制作をするにあたり、住宅街では騒音や粉塵の問題があって制作場所の確保に困っており、それを解消するというシンプルな理由から山中suplexは立ち上がりました。」
もともと山中suplexのある広大な敷地は、土木建築業者の土地で、白川砂の原料となる白川石の採取地であった。白川砂とは、もともと白川上流でとられる花崗岩が砕けた天然の砂利で、寺社仏閣の庭園などに使われていた。現在は、災害防除や風致の観点から、条例で切り出しが禁止となり、現在の山中suplexの敷地も、採取禁止後は産廃業者によって、産業廃棄物が埋められていた。そのような場所でも、騒音や粉塵がいちばんの問題になる立体制作においてはメリットが多いという。
小宮「京都と滋賀の県境で、京都市街地から車で20分くらいの好立地なんですが、雨になったら砂が流れてくるような土地なので普通は誰も借りないんです。土建屋だった頃の建物とかは残っていましたけど、廃棄物もありますし、水道も電気も通っていない状態でした。でも最初に見に来た初夏の頃、新緑が青々と芽吹き出した時期で、ここだったら何でもできるんじゃないかと思ったのを覚えています。それが2013年中頃のことです。」
小宮は、京都造形芸術大学の博士課程まで進学したため、その分、作品や制作に関する荷物も膨大になっていた。作品の保管や制作場所の確保は喫緊の課題で、広大な敷地を持つ現山中suplexは最適な場所のように思えたのだ。一方、小笠原は、ひとりで亀岡の一軒家をスタジオ兼自宅にしていたが、2013年、台風第18号により洪水被害にあったという。
小宮「小笠原くんのスタジオ兼自宅が浸水してしまったことや、石黒くんが東京からもういちど関西に戻ってこようとしているとか、それぞれが違う場所で活動していたけど、いろんなことが重なって、これなら人数的にいけるかもとなったんです。」
当時、立体制作に特化したスタジオは、名和晃平やkumagusukuの矢津吉隆が入居していた京都市伏見区にある共同スタジオ・淀studio【※2】や凸倉庫など、立体制作ができるスペースは限られた場所しかなく、卒業しても空きがないと入居できる保証はなかった。卒業後の制作場所は誰もが課題としてありながらも、自分たちで共同の場所をつくろうという動きはないと感じていたという。京都造形芸術大学は、短期大学を前身としており、束芋や宮永愛子といった一部を除いて、活動している先輩のアーティストの層が薄かったというのもあるかもしれない。しかし、「土建屋」の廃屋と廃棄物がある状況で一から共同スタジオをつくるのは大変だったのではないだろうか?
小宮「制作で使えるようになる前に、少し家賃を安くしてもらって整備をする期間がありました。家賃は最初の7人で折半していましたけれど、土建屋時代のものなどが残っていて、それを捨てるのにもお金がかかりました。水も通ってなかったので、近くの白川通り沿いの温泉の井戸で水を汲んできて掃除などもして。最初から空のスペースがあったわけではないので、ブースに分けて使えるような状況ではなく、みんなでひとつずつ片付けて、共有のスペースをつくっていったんです。」
現在ではすでに5段階くらいの改装を経ているとのことだが、最初は木工や石彫の作業も外で行い、雨が降ったら中に入れるという形だったという。
小宮「山中suplexのスタジオの特徴としても表れているんですが、例えば僕が木工、小笠原くんや石黒くんが石彫、当時は本田さんが鉄で彫刻をつくっていたり、陶芸の作家がいたりと、扱っているマテリアルが違うので、それぞれ持っている機材も違うんです。だからスタジオの使い方も、扱う素材ごとにゾーニングされていった。各自の機材も技術もシェアしながら段階的にスタジオ整備をして、2016年の段階では制作場所も確保できてきていたので、半屋外のギャラリーなども作っていきました。基本的にお金がないので、全部セルフリノベーションでやってます。」
その拡充は、計画的なものなのか、あるいは展覧会を開催するなど必要に応じて進めていったことなのだろうか?
小宮「最初はメンバーが7名いたんですが、結婚などそれぞれの理由で減っていったんです。そうすると個人で負担する家賃も増えるし、自分たちのためにも新しいスタジオメンバーに入ってきてもらう必要がでてくる。でも山の中で廃屋状態のままだと新しくスタジオ利用者を募っても誰も入りたがらない……。人に来てもらうには改装して使える場所を増やしていくか、もしくはまだ手付かずな部分を新しく入った人が自由に改装できるという形で、メンバーを募集していたりしました。ある程度、山中suplexが整ってきた段階で、オープンスタジオやイベントをしたり、スタジオビジットとしてアート関係者にもどんどんきてほしいなと思っていました。」
山中suplexができた時期は、京都市が立ち上げた若手芸術家等の居住・制作・発表の場づくりのための事業であるHAPS(東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス【※3】ができた時期と重なっており、国内外からキュレーターが京都市内のスタジオを回るようになっていたという。しかし山中suplexは滋賀県にあり、行政区が違うため、サポートから漏れてしまう。
小宮「その時、ここでただ作品をつくっているだけだと誰も来てくれないと自覚したんですよね。」
堤「それがいちばん最初の公共化っていうか、スタジオをオープンにすることの動機になるんです。」
2016年には「あいちトリエンナーレ2016」が開催されるため、その1, 2年前から京都のスタジオでもキュレーターが積極的にスタジオビジットし、リサーチを重ねていた。その中に、山中suplexは入っていなかったのだ。それで2016年には屋外ギャラリーを設置して、見に来てもらえる環境を整えていくことになる。
小宮「僕らもまだ20代だったので、展示できる場所ってほとんどないんですよ。まだオルタナティブなスペースも少なかった。公募展に出したりしても、お金を出してまで展示スペースをレンタルはしたくない。それだったらスタジオの中にギャラリーをつくって、展示して、外から人に来てもらった方がいいとなったんです。」
それ以前から、イベント形式でパフォーマンスのようなことはしていたが、スタジオ内の展覧会に合わせて定期的にバーベキューをするなど交流の場を開いていくようになっていく。アーティストのちびがっつ【※4】によるパフォーマンスバトルなども開催され、当初はメンバーの知人・友人による20人程度だったものが、やがて40~50人規模のイベントに拡大していった。一方で堤は、2013年から2016年まで京都造形芸術大学が三条で運営していたギャラリー・ARTZONE【※5】のキュレーターとして働いていて、山中suplexとの関わりは機材などを貸し借りする程度の関係だったという。
小宮「僕が2014年頃に台湾の台北市が運営しているトレジャーヒル・アーティスト・ヴィレッジ【※6】に滞在しているときに、いろいろスタジオを見て回ったんです。台湾に当時できたばかりの空場Polymer【※7】という馬鹿でかい駐車場を改装したスタジオや、バンブー・カーテン・スタジオ(竹囲工作室)【※8】という老舗の共同スタジオなども見にいきました。特にバンブー・カーテン・スタジオは山中suplex以上にオーガニックな場所だったんですけど、都市部からのアクセスの困難さとか、すごく似ているんですよ。そういうところに海外からアーティストが来て滞在しているのを見たときに、うちでもできると思ったんです。山中suplexには人が来づらいというネガティブイメージからスタートしているんですけど、ローカルな場所が一気に外部と繋がることも全然可能だなっていう実感を得たんです。」
それが山中suplexが次のステージに行くビジョンとなった。
当時、堤も「台北ビエンナーレ2014」などのアートシーンを見ることも兼ねて小宮を訪ねることになる。
堤「レジデンスのために海外に行くっていう体験をしたのが、僕らの世代で太郎くんぐらいしかいなかったんです。」
小宮以外に国外のレジデンスプログラムに参加したことがある京都造形芸術大学出身アーティストは少なく、ネットワークも確立されていなかった。
小宮「海外にレジデンスに行くには助成金を取ったり、国内のアートセンターの交流プログラムへ応募したりするけど、それに落ちたらお金がなくてなかなか海外にいく機会がない。だったら海外のアーティストを山中suplexに呼んで直接友達になれば、情報交換もできるし海外にも僕らが行きやすくなると考えていました。ただ山中suplexに海外アーティストを招聘したり、オープンコールで呼んだりするにもノウハウが無いので、僕がいちばん相談していたのが堤くんでした。交流プログラムとして団体で助成金にどう申請したら良いのかもわからなかったですし。だから実績をつくるために、まず手弁当でひとり呼ぼうということになりました。それでいちばん最初に呼んだのが、台湾で2014年に知り合った吳其育(Wu Chi-Yu)【※9】というアーティストなんです。」
その相談を、堤はボランティアで受けていたという。堤は2016年にARTZONEを退職し、とあるアーティスト団体のネットワークを使ってポーランドにある芸術大学で研修をしていた。
堤「その話の前から、別の企画のお手伝いなどをしていました。当時、僕はまだ何者でもなかったし、ポーランドに行って一層そう感じるようになったので焦っていましたね。だから自分がキュレーターとして何かしら関われるような場所を求めていたのかもしれません。それでポーランドからオンラインでコミュニケケーションを取りながら話を進めていったんです。」
その頃、堤はポーランドでどのようなことを勉強していたのだろうか?
堤「1年目は芸術大学のアーティスト・イン・レジデンスにいて、2年目から一般大学の大学院に入学しました。西ヨーロッパ、あるいは北アメリカ主義をいかに脱構築できるのか。東ヨーロッパのアート系の人たちは、そういうことを考えている人が多い印象でした。ボリス・グロイスもそのひとりですが、ピオトル・ピオトロフスキーやイゴル・ザベルなど他にもいっぱいいます。かつまた、東ヨーロッパのネットワークってめちゃくちゃ強いんですよ。いろいろなところで国際カンファレンスやネットワーキングが開催されている。最終的に、批判的美術史というのがあるんですけど、その辺のテキストに影響を受け、日本と比較してまとめました。日本と同じくポーランドも西に憧れそれを目指したという、両美術史が周縁地として比較可能であると見出せたのが、東ヨーロッパで得られたとても重要なことです。」
国外に拠点を置いたことで、国際的なネットワークの方はどうだろうか?
堤「まだポーランドにいた2018年、香港にパラサイト(Para Site)【※10】っていうインディペンデント・スペースがあるんですが、そこで開催された若手のキュレーター向けのワークショップに参加しました。そのときに国際的なネットワークを構築する重要性を実感しました。東南アジアや東アジアを拠点にする若手のキュレーターたちが香港というアジアの中心に集まっていたんです。」
そこで堤が得たネットワークは、主にアジア系のキュレーターのネットワークではあるが、オランダのキュレーター、サスキア・ボスがアムステルダムで創設した、デ・アペル(De Appel)【※11】キュラトリアル・プログラムの受講生たちもいたという。日本の卒業生では、元ジャパン・ソサエティーのディレクターでキュレーターの神谷幸江がいる。彼らはポスト植民地主義やジェンダーイシューなど、社会正義と芸術表現を同時に抱き込む政治的な内容の展覧会キュレーションに長けており、香港のパラサイトは、かつてイギリスの植民地だったという歴史もあり、西洋的インスティチューションのアジア支部のようになっていたのだという。
堤「若手キュレーターのワークショップと同時に国際カンファレンスがあって、世界中からキュレーターやアーティストが来ていて、実際彼らが若手キュレーターの授業をするんです。朝から夜までずっと一緒に過ごしていましたが、もうめっちゃ辛かったです。言語的に態度的にもうまくも立ち回れないし、みんなの前で気の利いた意見すらを言えない。頑張って口に出してみたとて、その質問の意味がわからないみたいなこと言われる(単純に質問自体が伝わっていない)。そう考えると、キュレーターとしての振る舞い、戦略、構造をフィジカルに学んだのは、ポーランドではなくむしろ香港でした。ポーランドはむしろ、理論や社会的なことをテキストや授業を通じて学ぶ時間でした。とはいえ、西洋主義的な規範をいかに相対化するかということで言うと、両者の経験は共通しています。」
小宮と堤の海外での経験は、その後、山中suplexを国際的に開いていく重要な鍵となっていく。
一方で、個々の作家が集まる制作スタジオだけではなく、コレクティブとして山中suplexが活動するようになったのはなぜだろうか?
小宮「2019年頃、山中suplexにスタジオ利用としてのメンバーが増え出していたのと、個人でも活動の幅が広がっていったんですが、そのときにに小笠原くんがVOU/棒【※12】で個展をしました。そこの2階で、山中suplexの廃材やスタジオメンバーの作品を使ったワークショップをしたんですが、そのワークショップを当時京都芸術センターのコーディネーターだった平野春菜さんが参加されたのがきっかけで、「山中suplex」として京都芸術センターの展覧会に呼んでいただきました。それが、パブリックな場では最初の展覧会です。(「二つの部屋、三つのケース」【※13】)」
さらに、同時期に秋田県の上小阿仁村が取り組む、里山の魅力を発信するアートプロジェクト「かみこあにプロジェクト」【※14】からのオファーも舞い込む。当初、かみこあにプロジェクトのキュレーターが想定していた作家は山中suplexの中で有志者3名程度だったようだが、声を掛けられたメンバー全員が手を挙げ参加することになる。石黒健一、小笠原周、木村瞬、小西由悟、小宮太郎、坂本森海、本田大起、前谷開、宮木亜菜、和田直祐の10名だ。このあたりをさかいにして、共同スタジオというよりも「山中suplex」というコレクティブとして見られるようになっていく。
小宮「上小阿仁村は秋田にあるので、展覧会をするためには道具を持ってかなきゃいけない。10人の大所帯で行くにはどうしたらいいかといった話をして、大きいバンを借りてみんなで行きました。僕は吳其育の滞在などもあり、現地入りが遅れてみんなの滞在と時期がズレたのですが、到着するとコーディネーターの方が山中suplexメンバーの共同生活での立ち振る舞いなど通して、ひとつの生態系がやって来たみたいだったと感想を言われたのを覚えています。」
その後、小笠原が尼崎市民文化賞を受賞した記念に、尼崎城址公園、尼崎観光案内所で個展の開催が決定する。その受賞に合わせて、あまらぶアートラボ「A-Lab(えーらぼ)」【※15】で山中suplexのグループ展が開催されることになり、そのキュレーションを堤が担当することになった。その頃、山中suplexのロゴやウェブのディレクションを担当していたこともあり、堤は山中でスタジオを借りているわけではないものの、外部発信を前提としたプログラムディレクターを名乗ることになったという。
堤「僕も何かしら足の置き場があった方がいいんじゃないかと思ったんです。」
堤が参加する以前は、山中suplexのキュレーションはどうなっていたのだろうか?
小宮「混迷を極めていました。下見に行った秋田から京都に帰ってくるバンの中で、京都芸術センターの展示の相談していたんですが、カオスでした(笑)。みんなそれぞれやりたいことが本当に違う。一応コンセプトは決めるんですが、それを展覧会という形にするには、作品をつくるとは全く別の能力が必要ということに気付くんです。みんなやりたいことを言うんですけど、それを全部入れると破綻する。京都芸術センターでの展示の反省を経て尼崎の展示があるんです。」
堤がA-Labでキュレーションしたのは、尼崎という美術館がない街の市民に向けた、啓発的な展覧会を設計するということだったという。A-Labは1階に保育園があるということも踏まえ、子どもを対象としたデザイン性で偽装しつつも、幼少期の感覚から近代性を獲得していくプロセスを見せた。アーティストは選ぶことはできないけれども、尼崎やA-Labの文脈、メンバーの特性を見てうまくゾーニングし、展覧会として成立させた。このように、2019年の終わり頃、山中suplexが準コレクティブ的に外部での活動や発信をする時期と、堤がポーランドから帰国し、キュレーターとして活動する時期が合致していく。
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関連情報
(URL最終閲覧:2023年5月31日16時00分)
(URL最終閲覧:2023年5月31日16時00分)
注釈
【※1】Sandwich
(URL最終閲覧:2023年5月31日16時00分)
【※2】淀studio
2010年に始まった、京都市伏見区に在る共同スタジオ。鉄工所や機械部品工場の立ち並ぶ工業団地に位置している。
(URL最終閲覧:2023年5月31日16時00分)
【※3】HAPS(東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス)
(URL最終閲覧:2023年5月31日16時00分)
【※4】ちびがっつ
(URL最終閲覧:2023年5月31日16時00分)
【※5】ARTZONE
2019年に閉廊した大学が母体のオルタナティヴ・スペース。京都市中京区に位置し、京都造形芸術大学アートプロデュース学科の学生が授業の一環として運営していた。展覧会はもちろん、トークショーやワークショップ、パフォーマンス等を実施していた。
台北市にあるトレジャーヒル・アーティスト・ヴィレッジは、市の史跡である宝蔵巖(ほうぞうじ)を中心とした歴史地区にある芸術村。1960年代から1970年代にかけて建てられた違法な小屋が、自然の斜面を蛇行しながら乱立しており、同地域のランドマークのひとつとなっている。芸術村には14のスタジオがあり、台湾や海外のアーティストが制作・生活しているほか、リハーサル室、展示室、屋外展示場もある。
(URL最終閲覧:2023年5月31日16時03分)
【※7】空場Polymer
アートプロデューサーのFrank Huang(黃偉倫)が立ち上げた、台湾にあるスタジオ・アートスペース。同施設は正大紡績工場が所有しており、室内スペースは640坪、フリーテラスと後背地は700坪ある。台湾の現代美術、演劇、音楽などに携わる多ジャンルの人たちが集まり、創造的なアイデアや議論、コミュニティが自然と形成される。年に1度のオープンスタジオをはじめ、分野横断的なイベント、活動、トークを開催している。
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【※8】バンブー・カーテン・スタジオ(竹囲工作室)(台湾光華雑誌HP)
1995年まで手入れがなされていなかった地鶏の養鶏場を、現代陶芸家の蕭麗虹が個人アトリエに改造。そこに同じく陶芸家の陳正勲と范姜明道が集まり、クリエイティブスペースとなった。当初は広さ800坪の空間を単純な創作の場として使用していたが、2003年に台北市内に華山1914文化クリエイティブ産業パークが設置。芸術交流の場としての盛り上がりに影響を受け、芸術工場・アートビレッジへ方向転換。アーティストインレジデンスの先駆けとして、国際的なアーティストも数多く訪れた。現在はアートとコミュニティを結び、地域環境の持続可能性を考える場所となっている。
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【※9】吳其育/Wu Chi-Yu
(URL最終閲覧:2023年5月31日16時05分)
【※10】パラサイト(Para Site)
パラサイトは香港を代表する現代アートセンターで、アジアで最も古いアートセンターのひとつ。オルタナティブな活動で知られるアート機関のひとつで、アートと社会における国内外の現象を、批評的に捉え、展覧会、出版物、討論会、教育プロジェクトなどを実施している。
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【※11】デ・アペル(De Appel)
デ・アペルのキュラトリアル・プログラム(CP)は10ヶ月間を通してアムステルダムで集中的なレジデンスプログラムを受けるものとなっている。毎年、選ばれた最大6名の参加者は、デ・アペルを中心として地域のアートシーンに浸りながら、アート、歴史、コミュニティがどう作られていくのか、仕事をしながら実践的に理解する。
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【※12】VOU / 棒
元印刷所跡地の3階建ビルを改装し、2015年にオープンした。1階がギャラリー、2Fがオリジナルグッズの販売もしているショップ、3Fがイベントスペースとなっている。ギャラリーでは、京都を拠点とするアーティストをメインに、ボーダーレスな企画展をほぼ毎月開催している。山中suplex共同代表の小笠原周が数度、VOU / 棒で個展をしている。
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【※13】二つの部屋、三つのケース
アーティスト3組が京都市芸術センターの北・南ギャラリーの2つの部屋を同時に使い、それぞれが提示する3つの時間・場を検証する展覧会。山中suplexは、北と南のギャラリーを「倉庫」と「工房」に分け、山中suplexの実際のスタジオを再現し、展示・罠・整理整頓をテーマとしてワークショップを行った。
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【※14】かみこあにプロジェクト
(URL最終閲覧:2023年5月31日16時07分)
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INTERVIEWEE|
小宮 太郎(こみや たろう)
1985年神奈川県生まれ。滋賀県大津市在住。2016年京都造形芸術大学大学院芸術研究科芸術専攻(博士)修了 。 滋賀県大津市にて共同スタジオ「山中suplex」共同代表を務める。絵画や写真作品をはじめ、回転するオブジェや、空間を利用したトロンプ・ルイユ(Trompe-l'œil、騙し絵)的なインスタレーション作品などを制作する。主な展覧会に、2023年「VOCA2023」(上野の森美術館、東京)、2022年「五劫のすりきれ」 (京都文化博物館・京都)、2021年「Soft Territory かかわりのあわい」(滋賀県立近代美術館・滋賀)、2021年「THE ヨエロ寸 -尋-」(VOU・京都)、2020年「VIDEOTOPIA」(MAHO KUBOTA GALLERY・東京)、2019年個展「穴の容態」(Art Center Ongoig・東京)、2016 年「安部公房へのオマージュ/写真とヴォイアリズム」(G/P gallery 東雲、東京)、2014年個展「LIVING ROOM - 虚像日本」(THAV、台北)ほか
公式HP:http://www.komiyatarou.com/
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堤 拓也(つつみ たくや)
1987年生まれ、滋賀県大津市在住。インディペンデント・キュレーター、グラフィックデザイナー。 2011年京都造形芸術大学情報デザイン学科卒業後、2013年から2016年まで同大学付属施設ARTZONEディレクター兼キュレーター。 同年よりポズナン芸術大学(ポーランド)にて1年間のレジデンスを経て、2019年アダム・ミツキエヴィチ大学大学院カルチュラル・スタディーズ専攻修了。 主なキュレーション実績に、国際芸術際「あいち2022」(愛知県、2022年)、鳥海修「もじのうみ: 水のような、空気のような活字」(京都、2022年)、「血の塩、余の光」(東京・京都、2021年)など。展覧会という限定された空間の立ち上げや印刷物の発行を目的としつつも、アーティストとの関わり方に制約を設けず、自身の役割の変容も含めた有機的な実践を行っている。
公式HP:https://www.takuyatsutsumi.com/
(URL最終閲覧:2023年5月31日16時10分)
INTERVIEWER|三木 学(みき まなぶ)
文筆家、編集者、色彩研究者、ソフトウェアプランナーほか。
アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。
美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。