次世代のアーティストとアートに携わる人材を育てる京都芸術センター

次世代のアーティストとアートに携わる人材を育てる京都芸術センター

京都芸術センター副館長|山本麻友美
2023.08.11
48

2000年に開館した京都芸術センターは、四条烏丸に近い京都の中心部、まさにセンターにある。明倫小学校の校舎を改修し、京都の伝統芸能・舞台芸術・現代美術・現代音楽など幅広い芸術を扱い、ホールやギャラリー、和室、図書室などに加えて、制作スタジオを持つ。特に若手や実験的な表現、まだあまり知られていない国内外のアーティストの制作を支援しながら、展覧会や公演を実施することが多い。そのため、現代美術のアーティストにとっても、芸術祭やアートフェアの一作家として参加するのではなく、自身の作品を理想的な形で発表できる場として重要な位置づけにあるといってよい。

いっぽうで多種多様な芸術を取り扱っていることもあり、どのような成り立ちと運営体制になっているか知らない方も多いだろう。開館当初からアートコーディネーターとして参画し、シニア・アートコーディネーター、プログラムディレクター、チーフプログラムディレクターを経て、現在、副館長の山本麻友美さんに、京都芸術センターと自身の活動について話を伺った。

京都芸術センター正面
撮影:表恒匡



京都芸術センターの初めての副館長

現在は、どんなことをしているんだろうか?


「京都芸術センターの副館長と、京都市の文化芸術企画課で文化政策コーディネーターを兼務しています。市役所にも席があるので、毎日、センターと市役所を行ったり来たりしています。京都芸術センターの事業全体をみつつ、行政とアーティストや現場で働く人の声を双方に届け、調整をすることをしています。」


具体的にはどんなことを。


「例えば今朝は、京都市の文化市民局とは別の部署から、地域とアーティストとの交流を考えているが、ワークショップの講師にどんな人がいいか、誰か紹介してもらえないか、というような相談がありました。ニーズやこれまでの取り組みを聞いて、よいのではないかと思う方を何人かご紹介しました。

他には、京都市で新しく取り組んでいるアート×ビジネス推進事業を、京都芸術センターで受託しているので、そのディレクションを行っています。京都芸術センターの今年度の事業はほとんど決まっているので、今は来年度以降のことを主に検討している段階です。」


昨年度新設された京都市文化政策コーディネーターとして勤務しながら、今年から副館長職に就任した。それにはわけがあるという。現在の館長は、京都市立芸術大学や多摩美術大学の学長、国立国際美術館の館長を歴任した美術評論家の建畠晢氏だ。しかし、現在、指定管理者の運営している施設の館長は、常勤ではない場合も多い。


「館長は折にふれ様々なアドバイスをしてくださいますが、非常勤ですので、実務はプログラムディレクタ―とアートコーディネーターが主に担当します。どこの公立文化施設でも同じだと思いますが、経験が浅く現場で業務に追われて働いていると、設置主体である自治体がどういう方針で何を考えているのか等、気にしている余裕もないというのが現状だろうと思います。しかし実際には、予算の出所の方向性や意図を理解しつつ、アーティストや現場で働く人のニーズと擦り合わせる、というのがとても重要な作業だと気づきました。今、私に京都市のポストがあるのは、行政の手法やロジックを学ぶ機会をつくってもらったと理解しています。これを現場に還元する必要がある。そのため副館長として京都芸術センターの現場への復帰を求められたのだと思います。」

京都芸術センターグラウンド 
撮影:表恒匡

京都芸術センターの開館と参画

もともとどのような関心をもっていたのだろうか?


「関西学院大学の美学でジャン・ティンゲリーを研究していて、ナムジュン・パイクのような初期のメディアアートや、ローテクとハイテクが混ざっていたり、未分化なものに興味を持っていました。芸術とは何か、と考えた時に、西洋哲学では語源的にもアルスやテクネーとは切っても切り離せない。メディアアートでは、一旦分化した概念を、物理的に改めて統合させようとしているのか、その先に何があるんだろうと関心があったのだと思います。大学院のゼミの教授は現代演劇が専門で、今では考えられませんが、お酒の飲み方以外はほとんど何も教えてくれませんでしたが(笑)、研究はなんでも許容してくださる方でした。同じゼミの後輩には、contact Gonzoのメンバー等がいます。」


山本の学生時代だった90年代初頭は、インタラクティブアートのような新しい表現が勃興している時期だったこともあるだろう。しかし、大学院を修了する頃は、就職氷河期世代で上の世代も「ポスドク」(博士後期課程修了後の、任期付きの研究員など)などのまま、なかなか正規で就職できない状況があったという。その時、目に留まったのが京都芸術センターの開設とアートコーディネーターの募集の知らせだった。


「京都市芸術文化協会【※1】という歴史のある財団から古めかしい冊子が研究室に送られてきていましたが、それと一緒にアートコーディネーターの募集案内があって何だろうなと思いました。いくつか美術館のインターンやギャラリーでアルバイトを経験してみて、美術館で物故作家の作品を扱うよりも今生きている作家と関われるのなら、そちらの方が面白いなと思ったんです。」

制作室の風景 協力:Monochrome Circus 
撮影:表恒匡

京都芸術センターが誕生したのにはいくつかの背景があるという。まず京都には芸術大学が集積していて、アーティストはたくさん生まれているが、卒業後に創作を続けられる場所がないことが課題だった。そのため創作できる場所を提供したり、支援したりすることが京都芸術センターの設立の趣旨であった。また90年代の京都は、世界的に活動をしていたダムタイプのほか、岸田國士戯曲賞を受賞した鈴江俊郎や松田正隆などを輩出した小劇場演劇の隆盛期でもあり、演劇関係者から、稽古場を求める要望が京都市に提出されていたという。京都市青少年活動センターなどの施設はあるが、20代の「青少年」の年齢を過ぎると使用料が上がるなど、30代以降の舞台芸術団体の稽古場がなかったのだ。


「こうした要望を受けて、京都芸術センターの中核事業として、制作支援事業という制作室(スタジオ)を貸し出す事業を開館以来継続して行っています。ジャンル不問で、期間は最長3ヶ月。公演や展覧会など、発表が決まっている等の条件がありますが、審査に通れば無料で使うことができます。」


そのようなアーティストのニーズに加えて、京都芸術センターの建築である元明倫小学校の耐震補強の問題があったという。元々、京都芸術センターの建築は、明倫小学校を改修したものだ。明倫小学校は1869(明治2)年、下京三番組小学校として開校している。実は、江戸時代に石田梅岩(1685~1744)が創始した、庶民のための生活哲学「石門心学」の心学道場「明倫舎」の跡地で土地、建物が転用された経緯を持つ。そのため後に明倫小学校と変更される。現在も残る近代建築は、1931(昭和6)年のもので、京都市営繕課による設計で鉄骨造になっている。決して無機質ではなく、当時流行していたスペイン風瓦屋根、クリーム色の外壁、緑青色の雨樋など、温かみのある色彩が施されている。さらに、明倫学区は、祇園祭の山鉾町が多く含まれているため、正面のデザインは山鉾を模したものだ。


「小学校は1993年に閉校しましたが、地域の方から自分たちが寄付をしてつくった大切な建物なので、できるだけそのままの形で残してほしいという要望があったと聞きました。活用方法を検討する中で、1995年に阪神・淡路大震災があり、そのまま活用するためには耐震補強をしなければならないという状況になりました。その時に、先ほどの演劇関係者等の要望も重なり、京都市が耐震補強をした上でリノベーションを行い、アートセンターとして活用するという形になりました。」


そして1995年5月から「芸術祭典・京」の芸術共感部門の会場として利用され、地域住民に受け入れられるか試行される。1996年には京都市芸術文化振興計画が策定され、「京都芸術センター」が京都の芸術文化振興の拠点として位置づけられる。1997年に元明倫小学校を芸術センターとして活用することが承認。1998年に整備工事が着工され、2000年1月に竣工、4月に開設した。

アートコーディネーターの仕事とは?

しかし、新しい施設と職種なので何をやるかはわからなかった。アートコーディネーターはどのような仕事としてつくられたのだろうか?


「当時、アートコーディネーターという職種での募集は他では聞いたことがなく、具体的に何をするのかわからなかったので面接の時に聞いたんです。そうしたら「企画をするのではなく連絡調整係です」とはっきり言われました。コーディネーターなんだからそうですよねと妙に納得した覚えがあります。美術館ではないので学芸員はおかしいし、新しい機能を持った新しい施設なんだから新しい職名をということで考えられたと聞きました。

開館当初は、実務は、ほぼ新卒で素人のアートコーディネーターと行政の方しかおらず、企画委員会や運営委員会といった外部の専門家からなる委員のお力をお借りしていました。」


つまり、行政と企画者、あるいはアーティストと市民の間に立って連絡調整する。それがアートコーディネーターの役割だった。初期においては全館を使ったプログラムが多かったという。外部の企画者のプランを実施するなかで、アートコーディネーターはそれを見よう見真似で覚えていった。


「いろんな先輩方がアドバイスをしてくださったのですが、基本的な実務の流れや具体的な作業を教えてくれる人が身近にはおらず、ポイントや全体像が全然わからなくて。1年目は予算があるのかどうかも知らされなくて。広報? どこに? 誰が? チラシ? 誰がつくるの? どうやって? みたいな(笑)」 


初代のアートコーディネーターは6人で、3年の任期だったという。山本も3年勤めて、その後、2003年に開催された京都ビエンナーレ2003のアートコーディネーターとして1年勤務したのちに、いったん退職をしている。そして出産などを経て、フリーランスで仕事をしていたが、2006年、再び京都芸術センターに戻ってくる。


「ちょうど展覧会を見に行くと、当時の事務局長に声をかけられ、「こういう事業をしたいんだが担当できる人がいない。企画書書いてきて」と言われたんです。そこから業務委託契約という形で、数年間、個別の事業を担当しました。」


その時の山本の肩書きは、シニア・アートコーディネーターだ。京都芸術センターのアートコーディネーターは3年任期ということもあり、ノウハウや人脈をうまく引き継げず、組織としても難しい時期を迎えていた。少し長めに働き、経験のある人材が必要だったともいえる。その後、山本がフルタイムで戻れるように体制が代わり、プログラムディレクターという職種が生まれる。プログラムディレクターは、6人いるアートコーディネーターを統括し、さまざまな事業プログラムをディレクションする役割だ。


「事業が多いと委員会や委員とのやりとりも増え、会議に時間がかかってしまう。ちょうどアートコーディネーターやプログラムディレクターでも企画を立ててなんとかできそうだという意識が芽生えた時期と、ジャンルを超えたい、あるいは壊したいと思っているのに、委員の間で専門性を重視するあまり遠慮が見え始めた時期が重なったこともあります。さらに組織のスリム化を進める改変もあって、企画委員会は解散になりました。専門家の意見が必要な時は、その時々に相談しようとなり、今もその形で行っています。」


さらに、山本はチーフプログラムディレクターに就任している。当初プログラムディレクターは2人だったが、それでも回らなくなり、3人体制になったときにチーフに昇格した。京都芸術センター内で企画も行われるようになったことで、アートコーディネーターは実質的にキュレーターに近い役割になったといえる。しかし伝統工芸や茶会、展覧会、公演、アーティスト・イン・レジデンス、ワークショップなどのさまざまなプログラムを実施しているが、ジャンルに絞った担当を決めてないという。


「基本的には今からつくられる新しい表現を支援しようとしているから、ジャンルは問わない、あるいは新しいジャンル自体が作られることを期待しています。なので、必ずしも、専門性に沿った形での担当割をしていない。私もアートコーディネーターだった時は、伝統芸能やアーティスト・イン・レジデンスの担当をしていました。こうした担当割はアーティストや関係者には不可解で、ご迷惑をおかけしたことも多々あると思いますが、その組み合わせだからこそできた作品や事業もあると考えています。」


その狙いは成功しているように思える。京都芸術センターは、美術館やギャラリー、あるいは芸術祭やアートフェアではできないアーティストの実験的な表現をできる場所として評価が高い。現在、世界的に活躍している名和晃平、宮永愛子らも京都芸術センターで作品を発表して次のステップを得ている。そのようなポジションは意図して維持されているのだろうか?


「そうですね。すでに評価の高い完成されたものや人を紹介するのではなく、アーティストが作りたいものを作り、やりたいことを実現するためにある施設なので、実験的なことができる場所だと思ってくださる方がいるのは理想です。美術館や劇場ではできないけれど、京都芸術センターでなら試せるかも、とアーティストから思ってもらえる場であり続けたいと思います。」


アートコーディネーターという連絡調整係として設置された役割が、20年という時間と経験を経て、ジャンルを超えたアーティストの実験的な試みのための制作支援、滞在支援といった、広範囲であるが、創造的かつ共創的な役割になったことがわかる。

京都芸術センター副館長 
山本麻友美さん


施設としての特徴

それでは京都芸術センターの施設としての特徴はどのようなものなのだろうか?

「いちばん大きいのは、貸館をしていないということです。施設を借りたいという問い合わせは本当に多いですが、抽選や先着で貸したりはしていません。場所は、すべて事業と紐づいているので、募集している事業や企画に応募いただいて、審査を経て使用が可能になります。制作室の場合は、使用料は無料ですが、市民に向けてワークショップを実施するということが条件になっています。明倫ワークショップやSTUDIO OPENDAYがそれにあたります。」

STUDIO OPENDAY,前田穣「ゼンタイダンス」2023 

つまり、アーティストは稽古場やスタジオを無料で借りられる。市民はアーティストの創造的な活動をワークショップやオープンスタジオを通して、日常的に触れられるという循環構造になっているという。市民にとってはアートラーニングの施設になっているといえる。


「稽古場が無料で借りられる場所は全国的にもあまりないので、とても重宝されています。また、ここでつくられた作品は、他での発表が決まっているという前提条件があるので、京都芸術センター以外で発表され、全国各地や海外でも発表されることで、文化都市としての京都のプレゼンスを高める役割を担っています。」


しかし、貸館をしないので主催事業だけになるため、施設を使用しない時期が出てくる。そのため外からの企画でも京都芸術センターでしかできないものは共催事業としてするようになり、稼働率100%に近いレベルで10年ほど続けていたという。それが山本がプログラムディレクター時代にしていたことだ。


「さすがにこの事業数をフルの状態でやり続けるのは無理。みんな倒れてしまうという時があって。成果、成果と言われて、できることは全部やったけれど、アーティストや関係者には知られていても市民の認知度は高まらないし、入場者数も元々のキャパが小さいから細かい事業をやり続けたところで劇的に増えはしない。それなら、質を高めることにシフトした方がいいだろう、ということで共催事業を整理して、Co-programという形に改変しました。受け入れられる本数は減ったけれど、単に空いている場所を使ってもらうだけではなく、予算もつけて一緒に作りましょう、という形です。」

Co-Program 2022 カテゴリーA 額田大志×山下恵実「FURUMAiiiiiiiiiiiiiii」, 2022
撮影:井上嘉和

それが2016年から開始される。Co-programはA「共同制作」(公募事業)、B「共同企画」(展覧会事業)、C「共同実験」(リサーチ、レクチャー、ワークショップ)の3種類から始められ、D「KACセレクション」(舞台芸術分野の発表に限定した支援)が加わり、毎年ユニークなプログラムが実施されている。共催事業ではお金を出していなかったが、Co-programでは共同主催という形で、一部経費の補助も行われている。そのため、Co-programの応募も増えているという。外から見ていると、主催事業とCo-programの事業の見分けはつかないが良質な企画が並んでいる。


「Co-programは、もっと本数を増やしたい気持ちもありますが、主催事業とのバランスを整えたいとも思っています。「創作・発表の支援」という基本に立ち戻って、京都芸術センターが企画をして主催すべき事業というものがあると考えています。アーティストのためのトレーニングや育成事業もそれにあたるし、魅力的なキュレーションやプロデュースで世界に通用する作品も創作・発表したい。「やりたいことがあるのに」「まだ呼んでもらってない」という声を、アーティストから常にぶつけられる施設であるためにも、まだできること、やるべきことがあると思っています。」

Co-Program2022 カテゴリーB 井上亜美「The Garden」, 2023
撮影:麥生田兵吾

世界のレジデンス施設との連携

また、アーティスト・イン・レジデンス事業も量が多いという。


「2000年当初は、アーティスト・イン・レジデンスを実施している施設は多くはなかったですが、京都芸術センターは開館当初から、件数は多くはありませんが、着実に実績を重ねてきました。途中、予算が減って、もう続けられないのでは...となった時期にちょうど、文化庁の補助金がスタートし、事業を拡充・継続することができました。これによって、国内外の施設や団体との連携を進め、今、そのネットワークは芸術センターの財産になっていると思います。」


アーティスト・イン・レジデンスでは、制作室に加えて、宿泊する施設もすべて京都芸術センターが用意して、アートコーディネーターがサポートするので非常に大変だという。


「基本は申請書に書かれたプラン審査なので、実際に来て話してみないとわからないことが多いし、アーティストも少しリサーチをして感覚を掴んでからでないと決められないことばかりだろうと思います。ルールを決めて型にはめてしまえば簡単ですが、それをせずひとりひとりに合わせたカスタムメイドの伴走支援をしており、とにかく手間がかかります。

ただ、アーティスト・イン・レジデンスは制作支援事業と同じで、創作を支援するという京都芸術センターの趣旨とは合致していていると考えています。完成したものを見せるのではなく、創作の過程を支えるといういちばん厄介で、見えにくいことをレジデンス施設や団体は行っています。ジャンルを問わず、というのは国内ではあまりないのですが、海外のA.I.R.施設や多ジャンルを扱うアートセンターは、親戚かと思うぐらいとても近い活動や考え方をしているところがありました。」


それは、ドイツの西部のエッセンにあるパクト・ツォルフェライン(PACT Zollverein)【※2】やフランス南部のマルセイユにあるモンテビデオ(montévidéo)【※3】である。パクト・ツォルフェラインは、世界遺産にも認定されているエッセンの炭鉱遺構の一部をリノベーションした劇場型のアートセンターだ。「鉱夫たちのシャワー施設だった建物の再活用」「スタジオと劇場からなる複合施設」という点も似ている。

いっぽう、モンテビデオはマルセイユの都市中心部にあるが、壁紙工場を再活用した施設だという。モンテビデオは、行政主導ではなく、アーティスト・ランの施設として始まっているが、現在では公的支援を受けている。こちらは劇場に加えて、音楽スタジオがあり、舞台中心ではあるが、双方スタジオとレジデンス事業を行っているということで京都芸術センターの活動と近い。この2館とは、2014年、各10名、計30名の学生が、各都市に1週間ずつ滞在し、地域特有の課題をテーマに共同制作を行うフェルトシュテルケ・インターナショナル(Feldstärke International)【※4】を実施した。

フェルトシュテルケ・インターナショナル2014

「京都芸術センターには海外から視察に来てくださる方も多い。連携したいと言ってくださるところも多く、ありがたいです。これは京都という都市が持つブランド力によるものだろうと思います。先日も、フランスのFRAC Champagne-Ardenneという美術館とアーツカウンシルが一緒になったような施設のディレクターが訪ねてきてくれて話してみると、やりたいことが近かったことがわかり、とんとん拍子に一緒にプロジェクトを進めることになりました。」 


世界的に、アーティスト・イン・レジデンスをするようになったこともあり、京都芸術センターの活動は結果的に世界の潮流と同じ方向性を向いていたことになる。


「美術館からはコレクションもきちんとした展示空間もないとバカにされるし、劇場ほど大きな予算をかけて公演を打つこともできず、どうしたらいいんだろうと悩んでいた時期に、海外の施設に私たちと近い活動をしているところが多く、参考にできるかもと思うようになりました。その頃から、海外のネットワークを広げることに特に注力しました。A.I.R.事業で、海外から人を受け入れるだけではなく、京都からも派遣したり、相互に受け入れを行うことができるようになったのは、その成果です。また、2019年(2018年度)に、世界最大のアーティスト・イン・レジデンスのネットワークであるRes Artisの世界大会をホストすることができました。」

Res Artis Meeting 2019 京都 , 2019年2月
撮影:松見拓也

京都芸術センターを支えるボランティアの存在

それと並行して、京都芸術センターでは2015年に開催された「PARASOPHIA(パラソフィア): 京都国際現代芸術祭」【※5】や2017年に開催された「東アジア文化都市2017京都」【※6】のサポートも行っており、京都を中心とした芸術祭の下支えにもなっている。


「PARASOPHIAの時は、一時的に行われる芸術祭とどう関わるべきかを考え、芸術祭が終わったあとも継続していくことのできるボランティアスタッフの運営を担うことにしました。人との繋がりをさらに広げることができるし、システムのデジタル化も進めたいという下心もありました。ボランティアのマネジメントは、思った以上にたいへんだし、難しいことも多い。たくさん失敗もしています。東アジア文化都市の時は、二条城と京都芸術センターを主な会場とした「アジア回廊 現代美術展」全体を企画・運営を行いました。これらの芸術祭を通して知り合ったボランティアスタッフやインターンだった方達には今も折に触れ、助けてもらっています。」


京都芸術センターのボランティアの管理は高齢者が多いこともあって、PARASOPHIA終了後の2016年までは、手紙を郵送して、FAXで希望日を戻してもらって手入力でシフトを組むということを毎月行っており、膨大な手間がかかっていたという。


「市民との交流も重要なミッションのひとつなので、京都芸術センターの中で何をやっているかを知ってもらうためにも、ボランティアスタッフには最初から参加してもらっていました。ボランティアスタッフは人気があって、現在も200人前後の方が登録しています。芸術が好きだったり、若い人を応援したいなど、ボランティアの動機はそれぞれですが、最初期から続けている方もいらっしゃるので知識も経験も豊富で、アートコーディネーターよりも芸術センターのことをよく知っているということも多々あります。」 


京都芸術センターが管理しているわけではないが、ボランティアの中にはサークルができていて、たくさん自主的な活動をしているという。美術館に見学に出かけたり、英語の勉強会をしたり、毎年花見や紅葉狩りに行ったりしている。


「いちばん大きいのは「いっぷく」という茶道のサークルで、毎週火曜日にお稽古をされています。京都芸術センター開館以来、継続している事業に、明倫茶会があります。各界で活躍する方を席主にお迎えし、その方がプロデュースするいろんな茶席を、市民もアーティストもみんなが一同に会して体験することできる場として、非常に大切にしています。初代の館長が裏千家の現在の家元であることもあり、明倫茶会をボランティアスタッフに手伝っていただくこともありました。「いっぷく」は、芸術センターのボランティアたるもの、お茶の心得えがないのは恥ずかしい、と自主的に活動が始まりました(笑)。」

柴川敏之×てんとうむしプロジェクト「2000年後の小学校|PLANET SCHOOL」ボランティアスタッフとの制作風景, 2013
撮影:表恒匡

英語が堪能な人もおり、国際的な活動をしている京都芸術センターならではのボランティアの人材を擁しているといえる。

ビジネスとの新しいマッチング事業

若手アーティストの発掘や海外施設との連携だけではなく、今後、企業とアートとのコラボレーションにも力を入れるという。今年から制作室を2つ、倉庫を2つ改修して、スタートアップ企業等の7社に貸し出すことにした。その背景には、京都市の財政難もある。その中で無償で施設を貸し出しをしている京都芸術センターにもチェックが入ったのだ。


「制作室を2室削ることになったので、反発や反対の声もたくさんありました。制作室を使っているアーティストのみなさんとはかなりやり取りをして、正直に京都芸術センターの施設全体が有料になるかどうかの瀬戸際であること等も説明しました。もちろんまだ納得していない方もいると思いますが、アート×ビジネスと言っても、「ビジネスの手段としてアートを利用する」「儲かるか儲からないかの尺度を持ち込む」ということでは全くなく、今まで接点の少なかったビジネスパーソン、あるいは企業そのものとの関係性を構築していくところから始めたいと思っています。お互いに知らなさすぎるでしょう。アートと経済の好循環と言いますが、ごく一部のトップアーティストだけではなく、実際に創作を行うアーティストが何を考え、どうやって作って、何を発表しているのかを知ってもらう機会はもっとあっていい。そこには感動や気づきが常にあるし、そのことを共有できる人たちと、新しく事業を進めていきたいと考えています。」 


実は、山本は現在の副館長職に就く前、2017年度から2021年度まで5年間実施された「KYOTO STEAM―世界文化交流祭―」【※7】という、アーティストと研究者や企業をマッチングしてアート×サイエンス・テクノロジーのフェスティバルを開催したり、人材育成、ネットワーク構築を行ったりする産官学連携の事業に携わっていた。特に、アーティスト、研究者、企業が対話をしながら創作を発表するフェスティバルは、今までにない表現の可能性を開拓してきた。ただ、期間が5年しかなかったこと、ちょうど新型コロナウィルス感染症の感染拡大の時期に重なったこともあり、道半ばだったことも多い。


「私が携わったのは最後の1年間だけでしたが、アーティストと企業・研究機関とのコラボレーションを行うアート・コンペティションは、完成系ではないけれど可能性を感じていたので、別の形になっても継続したいと考えていました。今後、アート×ビジネス推進事業の中で、アーティストと企業のマッチング事業「器」も行うので、経験として活かしていきたい。コラボレーションの先に成果を求められてはいますが、個人的には作品でも商品でも、概念でも、単に友人が増えるでもいいと考えています。」

アート×ビジネス共創拠点「器」ロゴ

アーティストとの共創と人材の輩出

実は1990年代の企業メセナ活動では、例えばキヤノンアートラボ(キヤノン)【※8】、NTTインターコミュニケーションセンター(NTT東日本)【※9】、ジーベックホール(ジーベック)【※10】のように先端企業とアーティストとのコラボレーションは頻繁に行われていた。そこではキュレーターが企業との間にたってアーティストと一緒に新しい作品をつくっていたという経緯がある。2016年に、京都芸術センターで修復展示された古橋悌二の《LOVERS-永遠の恋人たち》も、最初にキヤノン・アートラボで制作された。それはキュレーターというよりも、コーディネーターやコラボレーターに近いかもしれないが山本の目指す姿も近いのだろうか?

古橋悌二《LOVERS-永遠の恋人たち》修復展示, 2016, 撮影:表恒匡

「私個人の資質としては、キュレーターではなくコーディネーターだと思います。間に立って調整する人。いちばん近いところで、クリエイションに立ち会えることに、これ以上ない面白さを感じています。思ってもみない出会いやちょっとした発想から、新しいものが生まれる。その瞬間の興奮はなんとも言えないものがあります。ビジネス的な発想や、企業のロジックについてはまだまだ勉強不足ですが、いろんな可能性があるのに、なぜ今まで目を向けてこなかったんだろうと思いました。素材も技術も、発想も、クリエイションの宝庫なのに。それをアーティストに紹介するのも役割のひとつになるのだと思います。もちろん、逆もまた同じです。」 


京都芸術センターのアートコーディネーター経験者は、山口情報芸術センター[YACAM]、京都国立近代美術館、ロームシアター京都など、メディアアートから劇場、大学や芸術祭などさまざまな場所で活躍していて、ゆるやかなネットワークを築いているという。 


「若いアーティストを育成するのと同様に、それと併走するアートコーディネーターも一緒に育てるということになっているので、任期が3年になっています。」


人材だけではなく、多くの企画も輩出している。毎年恒例となっている「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭」【※11】も京都芸術センターで行っていた「演劇計画」という事業から発展・独立したものだ。現在ではアジアを代表する演劇祭のひとつに位置づけられているという。現在も京都芸術センターは主催者として参画している。あるいは、トラディショナル・シアター・トレーニング(T.T.T.)という日本の伝統芸能を短期集中するトレーニングするプログラムで、海外のダンサーや俳優、日本文化の研究者と日本人が一緒になってトレーニングを受け、最後には大江能楽堂で発表しており、海外からの評価も高い。

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭,中間アヤカ&コレオグラフィ『フリーウェイ・ダンス』, 2021,
撮影:岡はるか
提供:KYOTO EXPERIMENT

設立から20年以上経ち、多くの成果や人材も輩出している。副館長になってこれから考えていることは何だろうか?


「京都芸術センターのミッションは、若手芸術家の創作・発表支援です。芸術系大学などを卒業したあとも継続して活動したい人を中心に、キャリアが浅い段階での活動を支える、人材を育成する、環境を整えるという目立たないことを地道にやっています。芽が出て花が咲くまでの間。その期間がなければ、本当の意味でのアート・エコシステムは成り立たない。この紆余曲折期のエネルギー、面白さ、葛藤をもっと多くの人と共有したいと思います。」

注釈

【※1】公益財団法人京都市芸術文化協会 
京都で活動する芸術家や文化団体。文芸、舞台、造形、茶道、芸術企画・芸術文化評論の5つの部門に約250の団体・個人会員が所属している。1959(昭和34)年に、京都市文化団体懇話会として発足。1981(昭和56)年から財団法人、2011(平成23)年から公益財団法人。京都芸術センター開設にあたり、管理運営を京都市から受託。2015(平成27)年から指定管理者。
(URL最終確認:2023年8月10日13時18分)

【※2】パクト・ツォルフェライン(PACT Zollverein) 
(URL最終確認:2023年8月10日13時18分)

【※3】モンテビデオ(montévidéo) 
(URL最終確認:2023年8月10日13時18分)

【※4】フェルトシュテルケ・インターナショナル(Feldstärke International)
(URL最終確認:2023年8月10日13時18分)

【※5】PARASOPHIA(パラソフィア): 京都国際現代芸術祭
(URL最終確認:2023年8月10日13時18分)

【※6】東アジア文化都市2017京都
(URL最終確認:2023年8月10日13時24分)

【※7】KYOTO STEAM―世界文化交流祭―
(URL最終確認:2023年8月10日13時24分)

【※8】キヤノンアートラボは、1991年から2001年にかけてキヤノン株式会社が運営していた文化支援プロジェクト。固定の施設をもたず、アーティストとキヤノンのエンジニアが組んでさまざまな作品を一緒に制作した。キュレーターは阿部一直と四方幸子。代表作に、古橋悌二《LOVERS》(1994)や三上晴子《モレキュラー・インフォマティクス》(1996)などがある。

【※9】NTTインターコミュニケーションセンター(ICC)は、NTT東日本が日本の電話事業100周年(1990年)の記念事業として設立された、NTT東日本が運営する文化施設。機関紙「InterCommunication」を発行したり、マルチメディアイベントを行い、それらの成果を経て、1997年に開館。メディアアートの展示やイベント、教育普及の中心の場になっている。
(URL最終確認:2023年8月10日13時24分)

【※10】ジーベックホールは、音響機器メーカー、TOA株式会社の音のショールーム、「音の情報発信基地」として1989年に開館。開館記念として、ブライアン・イーノのサウド・インスタレーションが行われるほか、多くのサウンド・インスタレーション、実験音楽、環境音楽、民族音楽などが行われた。1995年メセナ大賞受賞。初期のディレクターはC.A.P.(芸術と計画会議)の下田展久。下田のインタビューはこちら。(前編) (後編)
(URL最終確認:2023年8月10日13時24分)

【※11】KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭
(URL最終確認:2023年8月10日13時24分)


INTERVIEWEE|山本麻友美(やまもと まゆみ)

京都芸術センター副館長、京都市文化政策コーディネーター。2000年の開館当初から、京都芸術センターにて国際共同プロジェクトや展覧会等、若手芸術家の育成、支援を目的とした多様な事業に携わる。京都芸術センターチーフプログラムディレクター(2016-21)、京都市文化芸術総合相談窓口(KACCO)ディレクター(2020-21)等を経て現職。2019年から研究会「新しい文化政策プロジェクト」プロジェクトメンバー。2022年から自主的な活動としてKYOTO INTERCHANGEを開始。


WRITER|三木 学(みき まなぶ)‍

文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。
アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人。
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。
美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。