古都からの挑戦・地方美術館の未来を写真で切り拓く

古都からの挑戦・地方美術館の未来を写真で切り拓く

入江泰吉記念奈良市写真美術館 館長|大西洋
2024.02.29
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入江泰吉をご存知の方はいるだろうか? 往年の写真関係者なら知っている人も多いだろう。入江泰吉は、奈良に生まれ、大阪で写真家として独立する。戦後、奈良に戻り、奈良の神社仏閣、仏像、行事、路地、自然などを撮り続け、写真を通して奈良のイメージを内外に広めた人物である。また戦前、志賀直哉の元に集まった文化人サロンを引き継いだ、入江の幼馴染の上司海雲(後の第206世東大寺別当)に誘われ、奈良を拠点に芸術家と交流をした。

1992年に、高畑町に開館した入江泰吉記念奈良市写真美術館は、植田正治写真美術館、土門拳記念館に並び、写真家の名前を冠した美術館であり、入江泰吉の膨大なコレクションを所有している。単に所蔵しているだけではなく、著作権自体が奈良市に譲渡されていることも大きな特徴だろう。

同館では入江泰吉の作品の展覧会が開催されるだけではなく、今まで数多くの著名な写真家の展覧会も開催されてきた。その奈良市写真美術館で、2021年、メタバース美術館の計画が発表された。今までデジタル化の先進事例としても挙がったことがない奈良市写真美術館が、国内の美術館の中でもっとも早い動きを見せたことに驚いた方もいるかもしれない。それを牽引したのが、2022年4月より館長を務める大西洋氏だ。東京を拠点に写真集販売サイト写々者(shashasha)【※1】、出版社Case Publishingなど運営している大西がなぜ館長に就任したのか。そして、現在進行形の新しい取り組みについてうかがった。

入江泰吉記念奈良市写真美術館

奈良市写真美術館の館長になるきっかけ

大西の前は、写真家の百々俊二(どどしゅんじ)が館長を務めていた。百々は、長年、関西を拠点に写真を撮影し、モノクロームの画面から都市の雑踏や風土、人間の生が溢れ出るような作風で評価されてきた。百々は奈良に移り住んだ縁もあり、7年間、奈良市写真美術館の館長を務めた。
今回、大西はなぜ館長に就任することになったのだろうか?


「写真美術館は、今は指定管理制度になっていて、奈良市総合財団【※2】という第3セクターが管理運営をしているんです。私は奈良市写真美術館の嘱託職員という形で雇用されていまして、5年契約でその後の延長は2年ごとになっているんです。そういった外部館長としての形式は、前館長の百々さんが初めてなんですよ」



奈良市写真美術館が開館した最初の23年間は、行政側が兼務することが多かった。しかし指定管理者制度などができたのち、一時館長職が不在になっていたという。そこで議会などでも館長職を求める意見がでてきたこともあり、百々が推薦されたという経緯がある。百々は長年、大阪のビジュアルアーツ専門学校【※3】の校長で、教え子に奈良出身で著名な映画監督になった河瀨直美がいたということもある。大西は百々とどのように出会ったのだろうか?


「百々さんとは仕事上でのつながりはありました。大阪にgallery 176(ギャラリー イナロク)【※4】という小さなギャラリーがあるんですけど、2018年に森山大道さんが坂口安吾をテーマに撮影した写真集『Ango』の展覧会を開催したんです。私が出版プロデューサーで、グラフィックデザイナーの町口覚さんと一緒につくった写真集なんです。その際、森山さんも現地に来られるということで、百々さんもいらっしゃったんです。その時初めて長くお話をして、深く知り合い始めました。」


その時、出た話が奈良写真美術館の館長職だという。


「百々さんも、私と同じように任期が5年で、その後2年更新だったんですけど、ちょうど5年が経とうとしていたぐらいで、次の館長を探さなければみたいな話でした。私としても興味がありましたので、『こんなことを自分ではやってみたい』と夢を語りました」


その頃、知人の会社から事業継承の話も出ていたとのことだがそれも断り、奈良に移住する形で館長職に就任することになる。東京を拠点にしていた大西にとって躊躇はなかったのだろうか。


「奈良にいくのであれば、東京から通うことは元々考えてもいなかったんです。53、4歳になっていたので、次に新しいことをするのであれば、もう今しかないなっていうタイミングでした。そのときに3つぐらい話がある中で、なぜ奈良市写真美術館を選んだのかっていえば、いちばんはもちろん写真が好きだし、アートが好きだったということですね。今になって思えば、行政の仕事というものに興味があったのかも知れないです。自分の起業した経験や金融機関で働いていた経験も役立つのではないかと。」


そして、大西は新たな奈良の魅力も発見している。


「大都市圏から近い町で、これだけの歴史が残っている。日本で唯一無二に近いんじゃないかと思います。私が過去住みやすいと思ったのは、唯一東京以外で住んだことのあるロンドンとかヨーロッパの都市で、それにもすごく似ているなと思いました。中心部に比較的大きな公園がいっぱいあって、森もあって。鹿もいますが(笑)、旧市街と新市街に分かれている。この辺(高畑町)は風致地区で高さ制限されているので、本当にヨーロッパの旧市街にすごく似ています。そういう意味では自分が若い頃に経験したことがある雰囲気なので、東京から来てもあまり違和感もなく生活ができているのかなと思います。」

金融の価値から芸術の価値へ

大西のキャリアは極めてユニークだ。もともと金融機関で働いた後、会社を立ち上げ投資事業や未上場会社の価値判定を行っていた。その際、あるギャラリーがコレクションしていた作品を引き継ぐことになったのだが、どのくらいの価値があるのだろうと思い、面識のあった日本のアートオークションの先駆けであった、シンワオークション【※5】の倉田陽一郎氏に価値を聞いたら、売れないからゼロだと言われたという。


「私は元々金融機関にいたときは、定量的なものを追求していたんですよ。人為的なものが入るから、株価も為替も振れるし、そもそも価値は理由があって付くわけなのになぜこのアートの価値はゼロなんだ、と(笑)。それが最初に写真の前に美術に興味を持ったひとつのきっかけなんです。

一応、大量に残されたアート作品を順に見ていくわけです。その時、大岩オスカールという、日系ブラジル人の作家がいるんですけど、会田誠さんとかと昭和40年会に入っていた1人で彼の作品がその中に入っていたんですよ。彼の作品を見たときに、なんか面白いなと心が引っ張られていく感覚があったんです。」


そのような経緯もあって、現代美術に関心を持つようになる。その頃、大西は財界の人たちのために音楽ツアーや合唱体験を提供する旅行会社と付き合いがあった。その支援者に、ソニーの創業者である盛田昭夫の夫人である、盛田良子氏も含まれていたという。良子氏は著名な現代美術のコレクターでもあり、ニューヨーク近代美術館(MoMA)にも、盛田良子コレクションが収蔵されている。彼らはクラシックホールに置かれるコンサート情報を掲載する『クラシックジャパン』というフリーペーパーなどを応援していた。クラッシックと現代美術のパトロンやオーディエンスには共通点があるのではと思い、そこで現代美術の情報も入れて、大西が美術館情報雑誌『Article(アーティクル)』を発行し、美術館とコンサートホールに置いた。それが月間8万部にまで成長する。その後は、アートのオンライン販売サイトのタグボートに売却されたという。そしてその頃、東京で勃興していたSCAI THE BATHHOUSEやタカ・イシイギャラリーといったコマーシャル・ギャラリーとの付き合いも始まる。


「写真に関わるきっかけは30年来の友人であるマーク・ピアソンです。ある日、高尾山に一緒に行ったのですが、彼は今後のことを悩んでいたんです。ちょうど彼が事業で成功して、次のスッテプ、自分の生き方も含めて考えている時期で。その時、熱心に写真を撮っていたんで、カメラ好きなの?って聞いたら昔から父さんがやっていたというので、タカ・イシイ(ギャラリー)【※6】を紹介したんですよ。」

2023年パリフォトのブックフェア「Polycopies」にて
左が大西さん、右がマークさん

マーク・ピアソンは、その後、1987年に新宿に瀬戸正人が開設し、大野伸彦や森山大道らと運営している写真の自主ギャラリーPlaceM【※7】が主催している学校に通うようになる。現在では一番古い写真の自主ギャラリーであり、1970年代半ばから始まる写真家の自主ギャラリーやワークショップの流れを今に残す貴重なギャラリーだ。そこでマークは、急速に日本写真の知識を蓄えていった。そして、多くの日本の写真や写真集を収集し、自身でも2009年に禅フォトギャラリー【※8】を開設することになる。大西もマークの情熱に巻き込まれる形で、一緒に写真の事業を行うようになっていく。そこで2012年に写真集とアートブックのオンラインブックショップ「写々者(shashasha)」を立ち上げる。なぜ写真に注目したのだろうか?


「日本の写真文化は独特な形で成長してきました。よく知られているように、写真はおよそ200年前に発明されましたのですが、欧米と日本で一斉に始まった新しい芸術なんですよ。例えばオイルペインティングだと西洋に長い歴史があるし、なかなか日本人が勝てる雰囲気はない。カメラに関しては同じ時代に日本に入ってきていて、そんなに遅れてないから、いろんな文化の違いはあるかもしれないけれども結構対等に戦える可能性はあるんじゃないかと思ったんです。」


そこでカメラメーカーとともに発達した、日本の出版文化に気付く。


「写真の独特な成長の仕方が、日本の場合は雑誌だったし、写真集だった。その写真集にはすごく価値があるっていうことは私とマークで一致して買っていったんです。日本であまり売れてなかった、例えば森山大道さんみたいな、いわゆるスナップの写真家の写真集は欧米人からしてみれば、目新しいものだし、みんなが望んでいると思ったんです。それを世界に出していくのはすごくいい仕事だし面白いよねって始まったのが写々者なんです。」


さらに自分たちでも写真集をつくるようになる。


「タカ・イシイギャラリーがFAPA【※9】という芸術写真の組合みたいなのを設立したんです。それで写真業界を盛り上げるためには、定期刊行物の写真集を出したいということで、デザインを担当していた田中義久さんが一緒に何かできないか?みたいな共同出版みたいな話があったんです。」


田中義久はアーティストであり、飯田竜太(彫刻家)とのアーティスト・ユニット「Nerhol」などマルチに活躍している。またアートディレクター、デザイナーとしての側面も持ち、東京都写真美術館のVIを手がけるだけではなく、友人の中島祐介とブックショップ「POST」や「The Tokyo Art Book Fair」の運営もしたりしている。


「その頃、KYOTOGRAPHIE【※10】が始まったりと、芸術写真への注目と共に写真集も盛り上がり始めていました。そこで若い力と、海外勢の力がものすごく重要だというふうに思い、田中さんに、一緒にやってくれるんだったら出すと。要するに若い子たちのネットワークと、田中さんのデザインで本を作ってみたいと思ったんです。個人的にはそれだけではなく、写真集ができる過程や素材も見せられたらと思っていて、「Post」の中島祐介さんにも参加してもらい、それで1回やってみようってことになったのが、Case【※11】なんです。」


Caseは、大量印刷を前提としていた日本の出版社ではできない、実験的なデザインや製本を、業者を探しながら開拓していった。それらは、パリ・フォト【※12】などの著名なアートフェアに出品し、日本の写真集の新しい価値を吹き込むことになる。

大西さんが最も思い出深い本と語るCASEが制作した『点子
CASE Rotterdam(現在閉鎖中)

館長の役割

日本では、金沢21世紀美術館の長谷川祐子や森美術館の片岡真実のように、自身も大きな展覧会をキュレーションする館長が知られている。百々もそのようなスタンスだった。その点、大西はどのような館長を考えていたのだろうか。


「私は学校で美術のことを勉強したこともないし、写真家でもないですけど、マーク・ピアソンと一緒に仕事をしていることもあって、私が彼のコレクションの管理をしたり、一緒に写真集をつくったりしていたので、ヴィンテージ写真を山ほど見てるんですよね。彼は日本でいちばん、日本の写真の作品をコレクションしているのではないですかね。それらを見ているといろんなことがわかるし、写々者でもたくさん写真集を見るので、そういう形で私が得た知識で、キュレーションができるかもしれない。でも、今は私の役割ではないと思うんです。」


では、大西にとって考える館長職とはどのようなものなのだろうか?


「キュレーターとしてここに呼ばれたのであれば学芸員の仕事をしなければいけないけど、私は館長の仕事は学芸員とは違うと思っているんです。その館をどうやって運営するのかということですね。市という行政の美術館ですから、行政との交渉でどういうふうに予算を獲得すべきなのか。この館の運営で、年間全部で1億何千万かかっているわけなんですけど、奈良市は37万人都市なので、1人当たり大体年間300とか400円くらい頂いている計算になるんですよ。写真文化に対して、市民に対してどういうことを我々として提供できるのかを考えることが重要かと。」


つまり、資金調達や市民への還元をどのようにするか、ということだが、そのような考え方は国公立の美術館がほとんどないアメリカに近い。最近では日本でも、指定管理者制度やPFI(Private Finance Initiative)方式のような民間のノウハウを活かした運営が模索されるようなってきており、メトロポリタン美術館の主催する「メットガラ(Met Gala)」のような資金調達のためのイベントが、京都市京セラ美術館で開催され話題となった。


「バブルが崩壊しはじめた頃ですね。それから公共工事を政府が増やして。その後10年-15年の間に日本全国にびっくりするくらいの博物館美術館のハコモノができたんですよね。 その多くが老朽化していって、それをどうしたらいいかどこも悩んでいるわけです。」


奈良市写真美術館は、バブル絶頂期に作られたわけではないが、美術館運営の資金に苦慮しているのは同じだ。


「私としてはもちろん写真が好きで、写真文化を残していかなければいけないなと思っているんだけれども、それよりも先に、この美術館を持続可能な形で、あと20年後残せるようにすることが、私のやるべきことだと思っているんです。」

奈良市写真美術館の先進的な取り組み

それでは大西が館長になって最初に取り組んだことは何だろうか?


「令和4年(2022)4月に来て、館長になりました。でも、令和5(2023)年度の真ん中ぐらいまでは、当たり前なんですけど、前館長の百々さんが展覧会のスケジュールを決めていましたので、私は基本的にやることがなかったんです。1年間百々さんもアドバイザーという形で残っていただいていたので、自分は自分で色々と勉強しようと思っていたんです。」



その頃、コロナ禍もあって、世界は急速に新しいデジタル技術が進化していっていた。それはかつてWeb2.0と称された参加型のインターネットの次に来る非中央集権的、分散管理的なものとしてWeb3と言われたりした。


「私が2022年4月に来たときに、いろいろと見ていたらメタバースとかNFTとかっていう話が出てきていました。もともと現代美術が好きなのでそういうふうになっていくんだなと。でも写真ってもしかすると最初からデジタルなので一番相性いいんじゃないかなと思ったんですよ。」


その頃、NFT(Non-Fungible Token、非代替性トークン)は、端末同士をつなぐブロックチェーンの分散型台帳とも言われる技術を使って、複製可能なデジタルアートに唯一無二の保証を与えるものとして高額で取引されるようになっていた。日本のアーティストでは、村上隆がNFTアートを発表し話題となった。また、並行してメタバースと言われるバーチャル空間での交流も盛んになっていた。大西はコロナ禍、趣味でオートバイレースを始めており、その時に知り合った若者、伊達隼氏が、FPSゲームの世界で活躍するe-sportsプレーヤーであったということを知る。


「伊達くんは前職の会社を4月に辞めて、再就職が決まっていたんだけど1ヶ月間余っているから、大西さんとこに手伝いに来ますよということで遊びに来たんです。鈴鹿にでも走りに行こうかという感じで。一緒にうちに泊まっていて話をしていたら、メタバースはマインクラフト【※13】みたいですね、という話になったんです。それで市長に会いに行ったときに、NFTやメタバースとかを使って、何か新しい美術館の未来が見えたらいいですね、という話をしたら面白いからもう1回聞かせてくれという話になったんですよ。」


そこで、伊達はメタバース上で遊ぶブロックチェーンゲームプラットフォームのThe Sandbox(ザ・サンドボックス)【※14】を使って、メタバース上に美術館をつくって市長に見せに行ったという。そこで市長に君も奈良に来たらどうかと口説かれ、次の就職先を断り、奈良に来てベンチャーを立ち上げるということも起きる。


「ひとつひとついろんなことをクリアして、とりあえず奈良市として、一応公式に実証実験をすることができますよと発表できたのが7月ぐらいだったと思います。9月ぐらいにちゃんとプレオープンしました。公立美術館の中ではおそらく一番最初にメタバース美術館をつくったんだと思うんですよね。」


そこで利用したプラットフォームは、The Sandbox(ザ サンドボックス)とDecentraland(ディセントラランド)【※15】という、イーサリアムブロックチェーンをメインとして開発された歴史の長いメタバースプロジェクトだ。奈良市写真美術館は、メタバースNFT美術館として、Decentralandの座標35.10、36.10に、MANA Nara City Museum of Photographyを開設し、最初の展覧会、入江泰吉写真展「古都奈良―春夏秋冬」を2022年11月に開催する。それは入江泰吉のデジタルデータから厳選されたものだ。

MANA Nara city Museum of photograph

デジタル資産と活用

実は、入江泰吉の写真のデジタルデータがひとつのポイントでもあるという。


「実は行政が私に対して用意した契約書に書いてあるのは、展覧会業務、いわゆるその事業の運営と入江泰吉作品のデジタル化の2つなんです。この2つが私のミッションなんです。」


入江泰吉がその生涯に撮影した写真は膨大なものとなる。目録によると8万枚のフィルムがある。目録以外にも没後に追加された7万枚を合わせると、合計約15万枚にのぼるという。それを百々が館長時代にPhase One(フェーズワン)という高精細なデジタルカメラを購入して撮影していたが、その数は5000枚程度だった。デジタル化にはほとんど予算がついてなかったという。


「実はそのこととメタバース、NFTがつながっているんです。令和5年度から入江作品のデジタル化予算を計上していただいたのですが、3年でやるとしたらその分予算をあげてもらわないとできない。予算がなければ15年かかります、と。フィルムの劣化はどんどん進むし。でも、もしかすると8万枚の単なるデジタルデータだけができました、ということで終わる可能性もあるわけです。デジタルデータといっても色見本がなかったらプリントにはできない。あくまでも記録として残るだけになる。逆に記録として残すんだったら綺麗に取る必要もないんです。今、世界的な美術館は、このような光源で撮影するということが、ルールとして出ていて、大きなところはみんなそうやっているわけです。その辺の問題もあって、デジタル化をする予算をもらうにあたって、デジタル化の先に何を市民に提供できるのか。それを考えるひとつの取り組みとして、メタバースがあります」


つまり、用途が想定されていないデジタルデータがあったとしても、まさに価値を生み出さない可能性があるわけだ。


「要するにデジタル資産をどういうふうに活用していったらいいのかっていうことで、それが当時はメタバースという、要はバーチャル美術館だったし、今はそれにAIが加わるという流れなんです。アナログフィルムをデジタル化するだけだとデジタルデータを市民の人に無料公開しても見せるだけになる。確かに検索システムが視覚化されるので美術館同士の作品の新釈などは容易になると思う。でも、それだけだと……。だからメタバース、Web3で動かそうとしました。私としてはWeb3がもう少し発達すれば、いろんな美術館がそれぞれ買ってそこでツアーができるようになったりとか、デジタル資産を利用できる可能性もあると思うんです。」


その際、入江泰吉の作品の著作権が全て奈良市にあるということは大きいという。確かに、世界の美術館でも、作品は所有していても、存命であったり、死後70年の保護期間にある作品はデジタルデータを自由に使用したりはできない。奈良市写真美術館だからできる試みといえるだろう。

奈良女子大学との取り組み

さらに、国立大学法人奈良大学機構(奈良女子大学)と提携をし、アートコミュニケーション人材育成プログラム「あ³」(あのさんじょう)【※16】も今年から始まっている。それは奈良女子大学の工学部の教授である長谷圭城氏との出会いも大きいという。


「市役所で騒いでいたんですよ。デジタル化の先に何かないといけないし、お金もないといけないと営業をかけていたら、奈良市が奈良女子大と連携しているということで紹介してくれたんです。」


長谷は、京都市立芸術大学の彫刻科出身で、今年亡くなった野村仁や、福嶋敬恭に教えを受けた。先輩には中原浩大やヤノベケンジがいる。奈良女子大学の附属高校で長く教鞭をとり、工学部ができる際、アートと工学、いわゆるSTEAM教育のようなものを提案し、大学の教員として転任してきたところだった。そこで、大西と長谷は、奈良女子大学工学部と美術館の連携プロジェクトとして、新しいデジタルイメージや3Dプリンターなどのデジタル工房と連携したアートマネジメントを行う人材育成プログラムを展開することになったのだ。

今回、3組のアーティストを招聘して、ワークショップやレジデンスを実施し、最終的に奈良市写真美術館とメタバース奈良市写真美術館で展覧会を開催する。それが木村伊兵衛賞作家の写真家、藤岡亜弥と姉弟によるアーティスト・ユニット、SHIMURAbros、そしてAhn Junである。


「SHIMURAbrosはもともと短編の映像作家なんです。例えば、この作品は1秒(24コマ)の映像の1コマを入れ替えて8秒間上に積み上げているんです。それを3Dプリンターでつくっています。これはポリゴンデータなので、バーチャル空間上でも浮かべることもできます。プリズムみたいに色が変わるんですけど、前回の滞在時に、當麻寺のマンダラを見て発想しているんです。マンダラのRGBの色は、ヨーロッパのRGBの色と違うと。当たり前だけど西洋と東洋で違うから、その違いが自分たちのこの作品の発想になっているからってことで、奈良に来て、ちょっと見られない国宝とかを今回見て制作します。」


SHIMURAbrosは、2014年からオラファー・エリアソンのスタジオの研究員として在籍し、光学や映像、色彩の原理から新しいイメージをつくろうとしている。いっぽう、AhnJunはAIを駆使してイメージをつくる。藤岡亜弥はスナップショットの名手であり、奈良女子大学の前身、奈良女子高等師範学校の時代に想いを馳せた写真を撮る。写真の中のさまざまな新旧、東西の実験的な試みが、12月2日から展覧会「加速するヴィジョン あ³」展としてお披露目された。

このようなアートプロジェクトも今後も続けるのだろうか?


「そうですね。芸術系ではない学生にどのくらいアートに興味を持ってもらえいるかがポイントなんです。もちろん1−2年で成果を上げるのはむずかしいかもしれない。今回のこのプログラムは3年続けられる予定となっているので、1年で終わらせないで、このまま続けられるようにしていきたいと思ってます。なのでレジデンスのプロジェクトに関しても最初にいた作家が次年度もフェローみたいになって、その後にひとり一人新しく入ってみたいな形で続けていければいいなと思っています。」

「加速するヴィジョン あ³」展示風景
Photo: Takeshi Dodo

SHIMURAbrosのおふたり
Photo: Takeshi Dodo
藤岡亜弥さん
Photo: Takeshi Dodo
AhnJunさん
Photo: Takeshi Dodo
AhnJunさんのワークショップ風景(奈良女子大学にて)
Photo: Takeshi Dodo

奈良の地域での取り組み

奈良に在住している若いアーティストとのコレボレーションの予定はあるのだろうか?


「美術館や出版社は結構アーティストの人生を変えるので、公的な立場にもなったこともあり少し慎重に考えています。やっぱり地盤が整ってない、器が整ってないのに呼んでも、人は来ない、予算は取れないという悪循環になるので1回立ち止まりたいんです。とにかくインフラを整えたら、これだけ動いていますから、そうすると認知度も上がるし、館にも人が入ると思うんです。だから令和6年とか7年ぐらいになれば、地元のアーティストを集めて何かやろうと、言えるようになるんじゃないかと思っているんです。」 


いっぽうメタバースなど先進的な取り組みは、思わぬ形で美術館の外部に広がっている。


「マインクラフトは、ボクセルで積んでいくんですけど、地上絵が描けるんです。上から見れば、2次元になりますよね? だから、子供たちを集めて、入江さんの写真を最初に見てもらうんです。彼らはプリントとかを見たことがないので、写真はこういうものだよ、と。その後に、入江さんの写真をデジタルで見て選んで、ボクセルに変えるんです。地上絵なんで、XとYの座標は決まっているんですけど、高さに関しては任意なんで、それをみんなで決めて一緒につくっていくというワークショップをしたんです。」

出張美術館 in 月ヶ瀬

それは美術館の教育普及活動の一環だが、小学校の「総合的な学習」の学習指導要領に合わせた形にし、指導案としてつくったものだという。それはサマースクールのような形で実施された。現在、大都市圏以外は、「総合的な学習」を行う専門の部隊が不足しているという。地方の場合、自治体がサンプル指導案を出しているケースが多いので、それが採用されると、「総合的な学習」の授業として普及していく可能性があるのだ。


「文化庁でこの前、博物館法が改正されたことに合わせて、Innovate MUSEUM事業【※17】というのがつくられ、美術館ならではの教育普及事業の一環として提案した都市・農村間アートインクルージョン推進事業【※18】が採択されて、出張美術館をやっているんです。」


それは全国2位で採択され、奈良の山間部、奈良市は月ヶ瀬、都祁(つげ)、田原の3か所、南では奈良女子大と連携している吉野郡下市町で開催されている。山間部はインターネットが遅いので、イーロン・マスクの経営するスペースX社の衛星通信回線サービスのスターリンクを使ったという。その授業はどのように行われるのだろうか?


「前回美術館で実施したサマースクールは館のスタッフと、伊達くんたちのスタートアップベンチャーとかでやりましたけど、奈良女子大と採択された事業では、学生たちがやるんです。生徒たちがやることで、都市としての持続可能的につながっていくプロジェクトになればと。」


4か所で実施されたら参加した子供は合計50人程度になる。その後は、Web3的にオンラインだけで実施することも想定している。そのためには、Discord【※19】を教えたいという。さらにそのためには子供たちに教えるだけではなく、保護者にも理解してもらう必要がある。


「こういう活動を心配される保護者の方もいるので、指導案みたいなのも結構重要で、その地域は小・中学校の校長先生とお話して、指導案もお出しして、こういう形でちゃんと運営をしますと伝えれば納得してもらえるので。校長先生が大丈夫だと言うと違いますよね。」


そうすると、美術館がバーチャルに拡張される未来が描けてくる。Discordで何時集合というと、座標があるから、みんな集まることができるようになるのだ。


「美術館って1人も取り残さない、SDGsみたいなのも含めてそれがひとつの使命にもなっているわけです。もちろん端末を持っていない人たちには貸し出しもして、みんながそこに集まって、都市部にいようが農村部にいようが一つのところでみんなが触れ合うこともできるようになるんです。これはアバターで会うことに近い。私たちでもある程度コントロールして、決められた時間だけやるっていうこともできます。地上絵から始まっているので、その美術館で写真を見ることもできる。そして、空間認識能力がつくのでみんないろんなものをつくるんです。そういうことを学んでもらえるような場っていうのは私たちみたいなところしかできないことなんじゃないかなと思って進めているんです。」


それは従来イメージしている、写真による教育普及活動を大きく超えるものだろう。


「元々これも入江さんから始まったデジタル資産の再利用の一環なんですよね。マインクラフトを使ったワークショップでは、写真を見てそれをボクセルに変えて積み上げたものを上空から見たら写真になるので、最後にみんなで上空に上がると写真が見えるわけですよ。そういうやり方で写真を子供たちに繋げていくことはできるんじゃないかなと思っています。」


さらに、障害者向けのプログラムも始める予定にしているという。奈良は東大寺などもあり、福祉への支援も盛んなこともあり、すべての人に開かれる美術館へと進化していっている。

奈良市写真美術館の未来

大西の活動は、美術館の運営だけではなく、奈良全体をプラットフォームと捉えて、そのエコシステムに一石を投じているようにも見える。マインクラフトにも奈良市写真美術館やその周辺の街がつくられており、デジタルツインのような価値にもなっているのだ。


「20年後にここを続けるためには、来ていただく方を増やす、もしくはもっと露出をしてやっていかなければいけない。入江さんの写真を通じて県外に奈良の魅力を発信するっていうのが行政として美術館に求める一つの役割になっているのでそれはやらないといけない。令和7年が入江さんの生誕120年なんです。」


それに向けて、巡回展も企画しているという。今までは巡回展の仕組みを財団が持っていなかったが、東京都写真美術館なども企画料を財源にしていることもあり、はじめての巡回展として入江泰吉生誕120年記念展が福岡、東広島、高崎で開催される予定だ。さらに、海外での展覧会も視野に入れているという。

5年後、この美術館がどうなったらいいと願っているのだろうか?


「未来の美術館像が見えていたらいいなと思っているんです。特に公的美術館自体のあり方が変わるような美術館にしたいっていうふうには思ってるんですよ。写真を冠にしているということでいうと、写真=カメラっていうこと自体が大幅に変わったら、それはもしかするとコンテンポラリー・フォトグラフィーじゃないかもしれない。カメラの登場によって画家が印象派やキュビスムを生んだので、AIがもしカメラを代替するようになったら、何かが生まれる進化するわけですよね? 写真業界でも大幅にアップデートされる時期に来ていると思う。また、行政のいわゆる中核都市にある美術館の多くが、30-40年経って建物を含めたリニューアル時期なので、中小規模の美術館や公共施設が統廃合を含めた存続の危機がくると思っています。

文化庁も近くに来たし、他の美術館ともネットワークを組みながら、私としてはそれを超えるためにソフトとハードをうまい形でアップデートして、新しい美術館の姿をつくりたい。後3年ぐらいですが、もうある程度見えるんじゃないかなって自分で思っているんです。それがバーチャルではない気はしますが、何か新しい形が必ずあるんだろうなというふうに思っていて、まずはバーチャルでもできるので、それはそれで来てもらえればいいし、リアルな地方美術館、写真美術館の新しい姿をつくっていければなと思っています。」

「あ³展」内覧会での記念撮影
右から、AhnJunさん、藤岡亜弥さん、大西洋さん。
バナーを挟んで、奈良女子大学長 今岡春樹さん、同大学教授の長谷圭城さん、SHIMURAbrosのお二人と、草月流いけばな教室理事 岩本知星さん。

関連情報

入江泰吉記念奈良市写真美術館

(URL最終確認:2023年2月29日7:30)

注釈

【※1】写々者(shashasha)

(URL最終確認:2023年2月29日7:30)

【※2】一般財団法人奈良市総合財団 

(URL最終確認:2023年2月29日7:30)

【※3】ビジュアルアーツ専門学校 

(URL最終確認:2023年2月29日7:32)

【※4】gallery 176

(URL最終確認:2023年2月29日7:32)

【※5】シンワオークション 

(URL最終確認:2023年2月29日7:32)

【※6】タカ・イシイギャラリー 

(URL最終確認:2023年2月29日7:32)

【※7】PlaceM

(URL最終確認:2023年2月29日7:32)

【※8】禅フォトギャラリー

(URL最終確認:2023年2月29日7:32)

【※9】FAPA

(URL最終確認:2023年2月29日7:32)

【※10】KYOTOGRAPHIE

(URL最終確認:2023年2月29日7:33)

【※11】株式会社Case

(URL最終確認:2023年2月29日7:33)

【※12】パリ・フォト 

(URL最終確認:2023年2月29日7:33)

【※13】マインクラフト 

(URL最終確認:2023年2月29日7:33)

【※14】The Sandbox(ザ・サンドボックス)

(URL最終確認:2023年2月29日7:33)

【※15】Decentraland(ディセントラランド) 

(URL最終確認:2023年2月29日7:33)

【※16】アートコミュニケーション人材育成プログラム「あ³」 

(URL最終確認:2023年2月29日7:33)

【※17】Innovate MUSEUM事業  

(URL最終確認:2023年2月29日7:35)

【※18】都市・農村間アートインクルージョン推進事業 

(URL最終確認:2023年2月29日7:35)

【※19】 Discord 

(URL最終確認:2023年2月29日7:35)

INTERVIEWEE|大西 洋(おおにし ひろし)

【略歴】1966年 | 東京都生まれ
青山学院大学経営学部を卒業後、金融機関での海外勤務などを経て、2003年芸術情報誌アーティクル主宰。2012年には、世界でも最大手となるインターネット写真専門書店「写々者 (shashasha.jp)」共同創業。2015年写真集専門出版社 株式会Case (ケース) 創業。2022年4月入江泰吉記念奈良市写真美術館 館長就任。

INTERVIEWR |+5 編集部

WRITER|三木 学(みき まなぶ)

文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。
アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人。
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。
美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。