「戦後日本美術の面白さを世界に向けて実証する美術史家」富井玲子さんに聞く。 <前編>

「戦後日本美術の面白さを世界に向けて実証する美術史家」富井玲子さんに聞く。<前編>

美術史家、インディペンデント・キュレーター|富井玲子
2025.03.03
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富井玲子さんは、ニューヨークを拠点にした美術史家、インディペンデント・キュレーターとして35年以上のキャリアを持つ。グローバル美術史のなかの、戦後の日本美術をテーマにした研究、出版、キュレーションで世界的な評価を得ており、日本のみならず非西洋を包括した美術史の理論化における功績は大きい。

1960年代の日本美術の国際的同時性をテーマにした、英文単著『Radicalism in the Wilderness: International Contemporaneity and 1960s Art in Japan(荒野のラジカリズム:国際的同時性と日本の1960年代美術)』(MITPress、2016年)でロバート・マザーウェル出版賞【※1】を受賞し、2019年、同書をもとにした展覧会「Radicalism in the Wilderness: Japanese Artists in the Global 1960s(荒野のラジカリズム:グローバル1960年代の日本のアーティスト)」展をジャパン・ソサエティーで開催するなど、理論化と実践の両面で国際的に活動し、評価を得ている日本人美術史家だ 。

昨年2024年には、戦後日本のアーティストが実践してきた表現と社会をつなぐ回路をテーマに、日本語の初めての単著『オペレーションの思想:戦後日本美術史における見えない手』(イースト・プレス)を上梓した。そのユニークなキャリアはどのように築かれたのか? また、国際社会でどのように戦後の日本美術を打ち出し、アーティストや社会と向き合ってきたのかおうかがいした。

彦坂尚嘉個展でギャラリートークをする富井玲子さん
(Courtesy of Misa Shin Gallery; Photo by Takayuki Kaetsu)

数学、「生け花」からキネティック・アートへ

富井は大阪大学の数学科を卒業して学士を取得してから、再び美術史を学ぶために学部に入り直すというユニークなキャリアを持っている。美術には幼少期から関心をもっていたのだろうか?


「父はまだ大阪大学の薬学部に統合される前の大阪薬学専門学校、母は大阪大学の薬学部を卒業してふたりで薬局をやっていました。父は、紫根から止血材にエキスだけ抽出する特許を取得したような人でしたが、アメリカのドラッグストア方式を取り入れた業態へと事業拡大することに努力した人でした。」


当時、大阪の布施市(現・東大阪市)に生まれ、そして小学校4年生で引っ越して八尾市に住んでいた富井は、小学校から私立の学校に通っている。


「近畿大学付属の小学校に通っていたんですが、まったく社会のことがわかってない子供でした。一年生の時に将来何になりたいかという寸劇をすることがあったのですが、学年が1クラスしかないような小学校で、医者や弁護士とみんなが答える中、私だけ「お母さん」といってしまうような子供でした(笑)。本当にひとりだけだったので大変ショックだったことを覚えています。」


中学からは戦前から阪神間の裕福な家庭の子女が進学する神戸女学院に通った。1875年に創立された中高一貫女子校で、キリスト教プロテスタントのミッションスクールとしては関西でもっとも長い歴史を持つ。校舎群は、関西を中心に多くのキリスト教学校や教会、商業施設を設計したアメリカ出身の建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズによるもので、現在、国の重要文化財に指定されている。


 「中高部の図書室は充実していて、美術全集の頁を繰って作品を見ていました。文芸部に入っていて、3年生の時に部長になり、パウル・クレーからインスピレーションを得て毎週の文章作りを演習したり、文化祭の時には色をテーマにパネルをつくってインスタレーションのようなこともしてみたりしました。幼稚園のときからお絵描きが苦手でスケッチも苦痛だったので美術が好きじゃなかったんですが、この時に誰か私がしていることが現代美術だと気付いてくれたらアーティストになっていたかもしれない(笑)。 高校一年生のときに進学はどうするんだと聞かれ、何もしなくても大学の英文科に進学できるのですが、英語が嫌いだったので(笑)。成績が悪いわけじゃないから、そういう人は医者か弁護士を目指す人が多いんですけど、医者は人体の修理工みたいだし、弁護士は議論を戦わせなきゃいけないというイメージだったのでとてもできないと思ったんです(笑)。先生が困り果てて、私の通信簿を見て、数学が結構できるから数学科でもいくかということで決まったんです。」


そこで数学を本格的に勉強することになる。


「女子高校の数学だから、それだとちょっと足りないからと、父が知っている高校の数学の先生に家庭教師について教えてもらった。それとともに『数学セミナー』(日本評論社)という雑誌があるんですよね。高校以上のもので専門的なこともあるんですが、この雑誌で数学が美しいということは学んだわけ。数学は美しいから美しいものをするのはいいなと思った。美しくないものは全部駄目だから実学は全部駄目ですよね(笑)。」


しかし、大学での数学は、情報科学やコンピューター系に進む人がほとんどで、ちっとも美しいものではなかったという。


「母親にお茶とお花だけはしなさいと言われて、お茶は嫌だったのでお花を習うことにしたんです。阪急電車を使って通学をしていたのですが梅田駅の高架のところに高麗橋の未生流があって。ガラス張りだから生け花の教室だとわかって、月曜日から金曜日まで見たんですが、平日は会社員で混んでいる。結局、人が少なくゆっくり時間をもてる日曜日に通うことにしました。でも先生が生けるように真似しようとしてもなかなか生けられない。ただ、時間はあるので先生も見守ってくれて、本部の研究会に行けるようにまでなりました。未生流は、伝統的な技法と、草月流ほどではないですが現代的な技法を両方学べるところがよかったんですが、研究会に行くとおそらく、京都の芸術系短大の先生だったと思うんですが、造形美学の話をしていただくんです。そのときに、ロシア構成主義のナウム・ガボとアントワーヌ・ペヴスナーを知るんです。それで私は生け花が抽象彫刻みたいだなと思ったわけです。」


生け花を通じて、モダンアートを知るというのは、戦後の日本ならではだと思うが、事実、富井はそこから美術を本格的に学ぶことに舵を切ることになる。生け花の師匠を目指すことも考えるようになっていたが、それまでに多額の資金がいることを知り断念した。


「食い潰しにならないよう母には、数学の教育実習には行くように言われていたんだけどそれも嫌で、大学の近くに勝手にアパートを借りて下宿をし始めて、いきつけの飲み屋で音楽学を専攻している先輩に「美学科に行きたい」と相談すると、「(イマヌエル・)カントするんですか?」と聞かれ、「それは哲学だからしません」と言うと「じゃあ(コンラート・)フィードラーするの?」と聞かれたりして。その頃、研究会の影響で画廊にも少し行っていたし、「現代美術がしたい」と言うと、「それは美術史という学問だ」と言われて、初めて美術史という学問があることがわかったんです(笑)。それで阪大の木村重信先生のところに美術史したいんですって言いに行ったら、「何がしたいの?」と聞かれたので、「ガボとかペヴスナーがしたいです」と言ったんです。」


そして理学部数学科で学士を取得し、1年間は数学科の研究生として在籍させてもらい、その間フランス語の勉強などをして、再度、文学部美学科に学士入学する。


「卒業論文を『ガボのキネティックの実験』というテーマで書きました。それで大学院(西洋美術史専攻修士課程)に行って、その後2年で、ガボとモホリ=ナジとジョージ・リッキーという三題話で修論を書きました。あの頃は、修士が終わると、まだ学術博士という制度はなく、博士課程というのはありましたが仕事を探すまで籍を置いておくという発想で、就職できなければ留学するというのが一応のコースだったんです。それでアメリカだったら、フルブライト奨学金があるんですが、私は枠外で交通費の支給だけだったのでハーフブライトと自分で言っていましたが(笑)、テキサス大学に合格したんです。でもお金がないから行けませんと先生に書いたら奨学金をとれるようにしてくれたんです。」

 

テキサス大学オースティン校への留学

テキサス大学オースティン校(アメリカ近現代美術史専攻)でなぜ学びたいと思ったのだろうか?


「テキサス大学には、リンダ・ヘンダーソン(Linda Dalrymple Henderson)という先生がいて、その方はキュビスムや四次元の研究をする専門家だったんです。私が日本にいる間に、プリストン大学から立派な本『The Fourth Dimension and Non-Euclidean Geometry in Modern Art(モダンアートにおける四次元と非ユークリッド幾何学)』(1983年)を出していました。私が読んだのもキュビスムに関する論文で、1980年代初頭くらいだと、キュビスムはアインシュタインの相対性理論の影響を受けて成立したという誤解した考え方が流通していたわけです。先生はそれが違うということを証明して、通説を塗り替えたんです。アイシュタインの時空の四次元ではなく、多次元幾何学の中の四次元幾何学であるということを、作家の言葉や、インテレクチュアル・ヒストリー(思想史)と言うんですけども、その時にどんな文化的理解があったかということを、(ヘレナ・ペトロヴナ・)ブラヴァツキーの神智学などを詳細に資料分析するわけです。そういう思想の流れの中で、四次元というのは現実世界の三次元より、もうひとつ上の次元の別世界であるという考え方に、モンドリアンやカンディンスキーが非常に興味を持ったり、キュビスムではピカソ、ブラックではなく、ピュトー・グループ(ジャック・ヴィヨン、デュシャン兄弟、フランティスク・クプカなど)の人たちが、数学的・神秘的な四次元に興味を持ったりしていたことを証明したんです。後に先生はデュシャンの《グリーン・ボックス》なども、四次元およびそれをとりまく文化思想を駆使して解読することになります。私はその先生が「証明した」ということに非常に感銘を受けました。」


リンダ・ヘンダーソンの仕事に感銘を受けた部分はどこだろうか?


「先日、高階秀爾先生がお亡くなりになられて、その追悼文を秋丸知貴(美術史家)さんが『美術評論+』に掲載されていて【※2】。その後、秋丸さんとメールでやりとりをして面白いなと思ったんですが、木村重信先生は高階先生とだいたい同世代で同時期に海外に行かれているんです。木村先生は実証というのを重んじたんですね。直観が最初にあってもかまわないんですけど、それを裏付ける形で実証するように、というのが指導方針でした。実証というのは私のバックグラウンドでもある理科系の態度とも通じる。それが阪大の木村先生の下で学んで一番よかったことですね。だからヘンダーソン先生が実証していることで尊敬したんです。実証というのは、たとえばアーカイブを調べて出てくる資料を見ながら書くのも実証ですね。だから「実証」という言葉に突き動かされてここまで来ているところがあります。」


直接の指導教官は、ローマ美術を専門にしつつ、現代美術の批評をしていたジョン・クラーク(オーストラリアで近現代日本美術史を研究するジョン・クラーク教授とは別人)だったが、大阪大学でテーマにしていたジョージ・リッキーや構成主義を引き続き研究し、博士号を取得する(博士論文のタイトルは、「Between two Continents : George Rickey, kinetic art and constructivism 1949-1968(ふたつの大陸の間で:ジョージ・リッキー、キネティック・アートと構成主義、1949~1968))。しかし、修了する頃、テキサスでは院生が就職できないという「大恐慌」が訪れていたという。その理由はいわゆる東海岸におけるニュー・アート・ヒストリーの台頭である。コロンビア大学、NYU(ニューヨーク大学)、プリンストン大学といった大学は、新しいセオリーやポストモダン思想によって美術を読解するようになっていたのである。


「今から考えると東海岸の大学に行かなくて良かったと思います。そういう勉強をさせられるわけですよね。それって英語ができないと駄目なんですよね。基本的にディスクール(言説)であり、究極的に哲学なので、私には一番苦手なところです。」


しかし、富井は英文の論文や単著を出せるくらいの英語力がある。それらはどこで養われたのだろうか?


 「ひとつ学年が下の修士の人に、お昼を一緒に食べながら英語の勉強を一緒にしてほしいと頼んだんです。私が簡単なお弁当を用意して学生カフェテリアで話すという形式で。『ニューヨーク・タイムズ』の意見記事とか、『ニューヨーカー』の短めの記事などをテキストにしながら、それについての話を一緒にするというのが眼目です。当時は『ニューズウィーク』は端から端まで読みましたし、『ニューヨーカー』も結構頑張って読みました。『ニューヨーク・タイムズ』はテキサスなので普通の日は読めないし入手しにくいけど、日曜版だとホールフードのスーパーに行けば売っているので、日曜版で読んで。英語の勉強は新聞と雑誌でしました。美術史の英語ではないものを読んだのが良かったですね。『ニューヨーカー』は文学的な評価が非常に高いし、『ニューヨーク・タイムズ』も一定のレベルがあるから、そのふたつを教科書代わりにして、ずいぶん長い間真面目に読みました。美術史のテキストは内容がわからないといけないので、内容を取るために読むわけです。お昼休みのレッスンは必ずしも内容ではなく、言葉を読むんです。言葉が面白いことを、そのとき初めて知りました。その言葉にも表現があるわけです。なるほどこういう言い方もあるのかみたいなね。」


そこで使われている多くの読者を対象にした文章によって、英語の文章表現を磨くことになる。


 「だから言葉っていうのは面白いもんだっていう思いがあって、それがないと私の仕事はないですね。英語も元々あんまりできる方ではなかったのですが、編集の仕事もするようになりました。そうすると言葉を機能的に見るわけですね。言葉を機能的に見る技術は高かった。どうしてかって言うと高校の英語のとき文法をちゃんと教わるじゃないですか。文法はトップだったんです。英語のスピーキングは駄目で、ライティングもあまり良くなかったんだけど、とにかく文法のテストだけは満点に近い点を取っていたんです。アメリカへ来て分かりましたが、アメリカでは必ずしも英語の文法は教えないんですよ。だから、私の方が英語の文法が分かる部分もあります。」


機能的でロジカルな文章というのは、今日まで富井の文章の特徴になっている。

 

国際現代美術センター(CICA)と「草間彌生回顧展」

富井は、自分自身でも、周囲の人たちも日本に帰国すると思っていたという。しかし、富井は日本の体制に馴染まない性格であることを自覚していて、それがアメリカで増幅されたこともあって、帰国せずに就職の道を探すようになる。しかし、アメリカの学生なら、大学に残りたい場合はティーチング・アシスタントをしたり、美術館で勤めたい場合はインターンをして現場の経験を積むのが定石だったが、富井はそうした就職の準備を一切してこなかった。経験がなければ教えることもできない。そのような限られた条件のなかで、就職活動を続けたがなかなかぴったりな候補が見つからない。


「ある時、ニューヨークにある国際現代美術センター(CICA)、Center for International Contemporary Artsが求人を出していたんです。「国際」というのがいいんじゃないかと思って。というのも二言目には、「君は日本人なんだから日本美術がわかるよね?」と言われるわけです。でも私はアメリカ美術が専門なんだという自負がある、むしろ日本美術史は学部で勉強しただけで。非常に中途半端な立場でした。ただ、博士論文には草間彌生も入っています。1965年にオランダのアムステルダムで「ヌル」の展覧会が開催されたとき、ジョージ・リッキーも参加していて、博士論文には草間彌生や具体(美術協会)と一緒に撮影した集合写真を掲載しました。草間さんはヌルとかゼロ、またモノクローム絵画の作家と近かったので、ヨーロッパでもよく知られていました。ジョージ・リッキーのことをやっていたけれど、草間さんや具体も入っている。ヌルやゼロのグループは、新構成主義だったので、ジョージ・リッキーが彼らのことを本にまとめていて、その本も博士論文で扱っているので、国際美術をやっていると一応言えたんですね。」


そして、指導教官のジョン・クラークの推薦をもらい、国際現代美術センター(CICA)を受けることになる。


「リサーチ・アソシエイト(研究員)とディレクターと2人募集していたんですね。それでリサーチ・アソシエイト、つまり調査の専門家の方で来ませんかっていうことになって、そこで勤めることになりました。私が論文を提出したのが1988年ですから、1988年の9月からそこで働き始めました。面接のときにセンターに行ったら、施設がまだ工事中で、これから最初の展覧会を考えるという話でした。そこでアレクサンドラ・モンローに最初に会うわけです。」


後に「Yayoi Kusama: A Retrospective(草間彌生回顧展)」、「戦後日本の前衛美術:空へ叫び(JAPANESE ART AFTER 1945: Scream Against the Sky)」展をキュレーションするアレクサンドラ・モンロー(Alexandra Munroe)との運命的な出会いだった。モンローは、ジャパン・ソサエティー・ギャラリー【※3】のディレクターであるランド・カスティル(Rand Castile)の下で、日本の現代美術のキュレーションをてがけていて、国際現代美術センター(CICA)のお披露目の展覧会のゲストキュレーターとして招聘されていた。


「日本の作家で第1回目の展覧会をしたいというのは最初から構想していたようです。それはブーペンドラ・カリア(Bhupendra Karia)というディレクターだった人が、日本で版画の勉強をしているんです。カリアさんは基本的には写真家で、ICP(International Center for Photography)【※4】の創設学芸員でした。それで日本で版画や紙の修復保存を勉強したりしていて、日本の現代美術をよく知っていたんです。だからモンローに誰がいいか日本に行って調査して、プレゼンしてほしいと依頼しました。私を採用した理由も、日本人で一応博士論文も書いているから、即戦力としてそれなりに使えるだろうということだったと思います。でも、最初はあまり使いものにならなかったんですけどね(笑)。」


当時、富井はジョージ・リッキーの調査で、アーカイブズ・オブ・アメリカンアート(AAA)【※5】や作家の個人アーカイブを使ってはいたが、アーカイブのつくり方は知らなかったという。


「最初の展覧会が草間さんに決まった後、アーカイブのつくり方を一から教えてもらいました。資料整理の方法、またカタログの編集の方法、データベース構築の方法など。CICAは1988年の時点で、美術史に関する情報をデータベースで管理するという構想を持っていました。とても先見的だったんです。日本語でできるかどうかを検討するためにトヨタ財団から研究助成を受けましたが、英語と互換的なシステムも全然ないわけです。英語で現代美術のデータベースをつくろうとするだけでもCICAは先駆的でした。本当に10年早かったと思います。」


国際現代美術センター(CICA)は、インド在住のクエートのコレクター、エブライム・アルカジがつくった組織だった。アルカジの国際的にインド美術を考えたいという意志と、カリアがそれならこういう方法があると提案して立ち上がったという。


「インドのアーティストがもっと認められるためには世界的な視野がないといけないということがあったと思います。そういう先見性は今になると本当に感動します。だけどその頃は、あんまりよくわからなかったですね。ただ、私にとっては非常にありがたい場所でした。」


モンローが日本で調査をして帰国してから提案したのは、半年から1年で開催できるという条件を考えて、日本のミニマル系、建築系の展覧会だったという。そのことについて、富井はカリアに意見を求められるが、日本文化のイメージに合っているけど大人しいし、インパクトに欠けると答えた。そのカリアから意見を求められたのが草間彌生だった。


 「私は腰が抜けるほどそれは素晴らしいと言ってしまったんです。後からモンローに聞いたら、本当は草間さんがやりたかったけど、半年から1年では準備できないと思ったらしい。それで現実的な判断をした。カリアさんはディレクターだから、確信犯的にわかっていたんだろうと思う。だから草間さんでやることになり準備が始まりました。」

『Yayoi Kusama: A Retrospective(草間彌生回顧展)』カタログ
(国際現代美術センター、1989年)

当時、草間彌生は日本では北九州の美術館で回顧展が開催されていたり、フジテレビギャラリーに所属していたりして、決して知られていないわけではなかった。しかし、アメリカでは1973年から全く展示をしていないので忘れられていた。草間の国際現代美術センター(CICA)での展覧会は、草間のニューヨークにおける堂々たる帰還となったのだ。


「CICAは、五番街のミッドタウンにあったから場所も良かったし、オープニングはセンセーショナルでしたね。私は日本のこともできるし、アメリカのことと繋げられるし、アーカイブや文献の整理など現場で仕事をする方法論も学習できたので非常に有意義でした。それが最初の仕事です。」


具体的には何をしたのだろうか?


 「私の一番の任務は、草間さんの年譜を作るということでした。私は実証主義を阪大とテキサス大学で引き継いでいるから、ひたすら文献、それも学術的なものだけではなく、それこそ『週刊大衆』みたいな資料からも日付を写して伝記的に活動の内容を抜き書きして原稿をつくっていった。史料編纂みたいなものです。それと文献の整理は、もうひとり日本人の方に入ってもらって整理をお願いしました。ただ、私が書いた年譜は基本的には羅列なんです。何月何日、展覧会をどこでやった、みたいなものですが、それは読み物じゃないと言われて......。だから出版されたものを見ていただいたらわかるんですが、執筆のクレジットはカリアさんに付いていて、私はリサーチをしたことになっている。カリアさんは私が調べてつくった年譜をどんどん文章にしていくんですが、一番困ったのは時々思い込みが入るんです。でもその時は「違う」と私には言えなかった。編集的な観点でそれはまずいから積極的にこういうふうに変えませんか、と言うだけの度胸も器量もなかった。だから一部に後悔の残る仕事でもあるんです。」


草間の仕事はその後の富井の仕事の原形となるものだが、まだ全体を捉える大きな世界観は持っていなかったという。


「 「大地の魔術師たち」展【※6】がポンピドゥー・センターで開催されるのが1989年なんです。草間の展覧会をCICAでしたのも同じ1989年。だから私はモンローに1989年に起こった美術史上の重大な出来事は、「大地の魔術師たち」だけではないって言うんです。それは基本的には大枠の問題ですよね。「大地の魔術師たち」が本当に根本的に世界観を変えたかというと、ちゃんとした学問の体系になるには、それからまた長い時間がかかるわけです。あれが画期的だったことはもちろんなんですけど、その意味を後付けしていかないと学問にはならないし、個々の作家や作品のレベルからも積み上げていかないといけない。CICAの草間展は、まさにその積み上げていく作業の先駆的なものでもありました。ただ、マクロとミクロがそろったら、それを伝えていかないといけない。」


つまりいかにそれを語るかが重要な仕事になるのだ。


「自分ではそのときはまだできなかったですが、モンローのエッセイ、そしてカリアさんが書き直した年譜は、それを語っていく、言葉にして人に伝えていくっていうことの重要性を体現していた。しかもその背景にちゃんとした調査があって、作品を裏付けていかなければならない。そういう側面では、当時の私の役割は実証の分野にあり、モンローのその後の仕事にも影響したと思います。彼女は経験もあるし、非常に理解力のある人ですし、私の方法論もよくわかってくれたから、話をしていて非常に面白かった。一緒に仕事して面白い人なんですよ。」


その後、富井は国際現代美術センター(CICA)に研究員として留まり、スカンジナビアなど他の地域の作家の展覧会のサポートなどを行う。その中で、編集や本のつくり方の技術を学んだ。また、国際交流基金の助成で、日本の近現代の学術的な書物はすべて集めて、調査の土台としたという。


「私は大学では、日本の美術のことは全然学習しませんでしたからCICAで集めた図書を読んでいくことは、研究のバックグラウンドとしては非常に肥やしになりました。ただ、CICAの仕事ばかりしていてもしょうがないから、カリアさんがゲッティ研究所のポスドク研究助成があるから、申請したらどうかと勧めてくださいました。でもテーマが思いつかないわけです。困っていたら、カリアさんが、日本はグループ活動が盛んだからグループ論をしたらと助け船を出してくれました。団体展もありますし、戦後のグループ活動もありますし、非常に的を射たアドバイスでした。ただ、資料を読んでいても知識だけではわからない。思うような申請書は書けなかったし、助成ももらえませんでした。だから団体展をどう位置づけるか、というのはカリアさんからの宿題なんですよ。」


その時の宿題の答えは、近著『オペレーションの思想:戦後日本美術史における見えない手』によって30年越しに提出したともいえる。しかし、国際現代美術センター(CICA)は、イラクのクエート侵攻から始まる湾岸戦争によって、1992年に閉鎖されることが決まる。その時まで集められた膨大な資料、草間展の際に寄贈された作品、作家のインタビュー・テープなどの保管先を緊急に探さなければいけなくなる。富井は母校のテキサス大学の美術館に寄贈を打診し、恩師でもあるジョン・クラーク教授が強力に動いてくれて収蔵が決まった。その後、草間は国際シーンに復活し、数本の指に入る世界的アーティストとして知られるようになる。富井は、今でもテキサス大学美術館からベネファクター(寄付者)として感謝されているという。

 

「戦後日本の前衛美術」展から「JAPANESE ART AFTER 1945」展へ

その時期、アレクサンドラ・モンローは横浜美術館の学芸員(当時)であった天野太郎らと一緒に戦後日本美術の展覧会の準備をしていた。それが1994年の「戦後日本の前衛美術:空へ叫び」展【※7】である。

アレクサンドラ・モンロー編著『JAPANESE ART AFTER 1945: SCREAM AGAINST THE SKY (戦後日本の前衛美術:空へ叫び)』
(HARRY N.ABRAMS、1994年)

「モンローが、日本語の資料を読んだりするのにひとりだと大変だから一緒に勉強会をしませんかと誘ってくれて、CICAが閉鎖して浪人中だったから、格好の機会でした。もちろん私には時間は十分にあったのです。そうしたらびっくりすることにCICAで読んだ日本美術史の本が役に立った。自分でも驚くほど、現代美術の背景となることを知っているわけです。CICAでの勉強がものすごく役に立った。モンローの方は現代美術のことはよく勉強している。だからお互いに教え合うような形で進んでいきました。現代美術といっても、文化的な背景や明治・大正・昭和初期をふくめて戦前の日本を知っていた方が厚みが出てきます。」


そして横浜美術館の後に、グッゲンハイム美術館ソーホー【※8】、翌年にはサンフランシスコ近代美術館へ巡回した。


「ニューヨークに持ってくるとき、今度は国際交流基金が協力してくれた。私は展覧会の内容自体には関わってなくて、むしろ横浜でつくったテキストではアメリカでは不十分だから拡張したいというモンローの意向で、英語版の本を手伝いました。そうして作業をしていたら、出版社の人が、「あなたは事実上の編集主任だってわかっているの?」と言うわけです。そうなのか、と思って(笑)。CICAでしていたことをそのまま続けてやっていただけなんですけれどね。」


 どのような仕事をしたのだろうか?


「まず、寄稿者としては、用語集と参考文献と、それからアンソロジー。評論集っていうのかな。三つの章をあなたが担当しなさいって言われたんですよ。文献は横浜美術館のカタログで柏木智雄さんが編纂したものをベースにして、それを拡充しつつ、羅列に終わらない読める構造に組み替えていく。用語集は、私が勝手に膨らませて仕事を大きくしていった(笑)。実は、日本語のタイトルは「戦後日本の前衛美術」ですが、英語では前衛を取って「JAPANESE ART AFTER 1945」にしてほしいってモンローに強硬に頼んだんです。ポロックを他の国に説明するのにいちいち前衛って言わないじゃない、どうして日本だと前衛と断らなくてはならないの。そういう理屈です。そうしたら英語圏の日本美術の先生方からは、現代美術しか扱っていないから「日本美術」ではないと言われるわけです。私はそんな批判がくるのはわかっていたので用語集で補った。明治以降の日本美術の問題、日本画・洋画、戦後の貸画廊などかなりの項目を作りました。単なる用語集ではなく、それを全部読んだら、日本の近代と現代の美術の基本がわかるように項目を立てて解説したんです。さらに評論集では美術評論に加えて、作家の言葉など、広く言説の領域をカバーしたので、その選択のためにかなりの分量の作家の言葉と美術批評を読みました。それを並べていると自然とセクション分割ができてしまった(笑)。それで各セクションのための前書き風解説も書いたら、モンローから「そんなにしっかり書いちゃったの?」と言われて(笑)。編集としては、モンローの書いた章や他の寄稿者の章のチェックや校訂、さらには追加のカラー図版と白黒参考図版の手配もしました。本当に大仕事でした。」


この作業をしているなかで、富井は日本の戦後美術を見直すことになる。


 「日本の現代美術、60年代、70年代のアートは、アメリカ美術よりも面白いと思った。アメリカの戦後美術は一応ちゃんと勉強しているから。ポロックとかがラジカルというのと具体(美術協会)をどう比べるかとかと言い出すといろいろ議論があると思いますが、それ以後の反芸術から非芸術にかけては日本の方が絶対にすごいと思っている。これはマジにそう思っています。実際に比べてみて、日本の作家は本当にラジカルだと思いました。私は、そもそもアメリカの60年代、70年代の美術がすごいと思って好きになったのですが、モンローの仕事を手伝ううちに、日本の方がすごいと気づいて。アメリカを専門的に研究したかったですが、背景もふくめて考えると、さすがにアメリカのことは日本ほどには理解できていないし、専門的にやるのは無理だから、ひとまず戦後日本美術を今後10年集中してやってみようと思ったんです。」


実はこの頃、富井は本格的に図書館学を学んで、アートライブラリーに勤めようと考えていたという。そのために大学院に通うことも考えていた。実務として仕事ができるし、それまでのリサーチの経験で、ライブラリーやアーカイブで仕事をしている人達の方が自分よりもよく知っていると実感することが多かったという。整理している本や資料に目を通していて、プロフェッショナルだなと感じていた。しかし、アメリカに巡回した「JAPANESE ART AFTER 1945」展によって大きく運命が変わる。


「非常に好意的な評判だった。日本の前衛は真似じゃない。オリジナルであるということが、『ニューヨーク・タイムズ』の展評の一言にあって、私とモンローは手を取り合って喜びました。その一言を取るのが、勝負どころというか、究極の目的だったと言ってもよかったので。」


それは美術史に介入して、アメリカが中心だった戦後の美術史をダイナミックに塗り替える行為でもあっただろう。そこまでの意図はあったのだろうか?


「結果的にそれができるようになったのは、ここまで来る間に美術史の業界自体が、あるいは文化の認識自体が時代的に変わってきたことがある。その中に私も生きていたということもあるし、美術史の見方自体が変わってきたときに、ちょうど私がしたかったことがうまく同調した。世界が動きはじめたときに、自分からの発言もできた。歯車がうまくかみ合ったというのが実感です。振り返ってみて、こういう風に生きることができてよかったと思います。」

<後編に続く>

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 注釈

【※1】ロバート・マザーウェル出版賞
(URL最終確認2025年3月3日)

【※2】秋丸知貴「美と知を心から愛した巨星――高階秀爾先生追悼」『美術評論+』(AICA JAPAN) 
(URL最終確認2025年3月3日)

【※3】ジャパン・ソサエティー   
(URL最終確認2025年3月3日)

【※4】International Center of Photography(ICP) 
(URL最終確認2025年3月3日)

【※5】アーカイブズ・オブ・アメリカンアート 
(URL最終確認2025年3月3日)

【※6】「大地の魔術師たち」展 
1989年にフランスのポンピドゥー・センターにおいて、ジャン=ユベール・マルタンのキュレーションによって開催された展覧会。非西洋も含めた世界各国から101人の存命の作家を選び、同じスペースを割り当てて展示した。西洋中心主義、植民地主義を問い直し、現在まで続く脱西洋中心主義、マルチカルチュラリズムの先駆けとなった。

【※7】「戦後日本の前衛美術」展(横浜美術館、1994年) 
(URL最終確認2025年3月3日)

【※8】グッゲンハイム美術館ソーホー 
(URL最終確認2025年3月3日)

 INTERVIEWEE|富井玲子(とみい れいこ)

美術史家、インディペンデント・キュレーター。ニューヨーク在住、国際現代美術センター(CICA)の上級研究員を経て1992年より無所属、グローバル美術史における日本の1960年代美術を中心に研究。「ポンジャ現懇」(ponja-genkon.net)を2003年に設立、主宰。出版多数。近著に『オペレーションの思想:戦後日本美術史における見えない手』(イースト・プレス、2024年刊)。2017年度ロバート・マザーウェル出版賞、令和2年度文化庁長官表彰(文化発信・国際交流-日本美術研究)などを受賞。

 

INTERVIEWER|三木 学(みき まなぶ)

文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人。独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。