人々と音楽をつなげる音楽ホールとプロデューサーの役割

人々と音楽をつなげる音楽ホールとプロデューサーの役割

あいおいニッセイ同和損保ザ・フェニックスホール チーフ・マネージャー|宮地泰史
2024.10.04
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音楽ホールの企画・制作担当者として、長いキャリアを持っている宮地泰史さんは、現在、あいおいニッセイ同和損保ザ・フェニックスホール自主企画グループのチーフ・マネージャーを務めている。あいおいニッセイ同和損保ザ・フェニックスホール【※1】は、定員300名ほどの小ホールで、1995年、旧同和火災海上保険株式会社の創立50周年記念事業として新社屋の内部につくられた。

以来、同社のメセナ活動として、クラシック音楽の室内楽の公演を中心に運営されている。梅田新道と新御堂筋に分岐する三角地帯にあり、まさに大阪のビジネス街の中心部に位置している。舞台奥の反響板を上げるとガラス張りになり、御堂筋が一望できるロケーションも魅力だ。2022年10月30日に上演された、フィリップ・グラスの『浜辺のアインシュタイン』(演奏会形式)では、令和4年度(第77回)文化庁芸術祭大賞を受賞し、新しい試みを行うホールとしても注目されてきている。宮地さんに、音楽ホールのプロデューサーの役割や、都心部のホールの可能性についてうかがった。

宮地泰史(みやじ やすふみ)さん

映画とゲーム音楽の進化

幼少期はどのような関心をもっていたのだろうか?


「もともとは映画を撮りたかったんです。12歳の時に『風の谷のナウシカ』を見て衝撃を受けました。以来、宮崎駿監督は私の中心に存在しているのですが、高校生になりもっと他の映画も観なくてはと思い立ち、レンタルビデオ屋に通いつめ、映画の古典といわれるような名作をたくさん見るようになりました。そこで特に面白いと思ったのがヒッチコックの作品でした。ヒッチコックの演出手法とプロットの素晴らしさには心から感服し、レンタル店に置いてあるものは全て制覇しました。同時にテレビで再放映していたヒッチコック劇場もよく見ていました。他には、当時読売テレビで深夜放送されていた『CINEMAだいすき!』という番組が好きでした。確かレオス・カラックスの『ボーイ・ミーツ・ガール』もこの番組で観たように思います。こんなにもぶっ飛んだ世界があるんだと、今で言うアート系の映画に知らず知らずの内に触れていました。

同時に、文学でも名作を読まなければという使命感から、太宰治や三島由紀夫の小説を読んでいました。いっぽうで、映画と同じくらいTVゲームにどっぷりと嵌ってました。いわゆるオタクだったと思います。TVゲームについては小学生の頃、ファミコンで遊ぶと同時に、親に頼み込んで買ってもらった富士通FM-7でBASICを使って簡単なプログラミングを楽しんでいました。なんというか自分で何かをつくりたかったんですよね。TVゲームは、8bitから16bit、32bitという具合にどんどん進化し、映像も音楽もどんどん表現が豊かになっていく時代でしたので、将来的には映画もインタラクティブなものになるんだろうと思ってました。」


当時のゲーム音楽は、bit数の増加によって、音楽の進化がプレイヤーにも感じられるものだった。バロック風の音楽で有名なすぎやまこういちの『ドラゴンクエスト』や、プレイするときに出る効果音も音楽の一部として取り込んだ任天堂の作曲家、近藤浩治の『スーパーマリオブラザーズ』など、クラシック音楽が300年かけた進化の変遷を反復し、拡張していった。


「音楽もサイン波のようなコンピュータが生成した音から、FM音源やPCM音源が登場し、いろんな楽器の音源が鳴らせるようになって、TVゲームでも音楽の重要性が高まってきていました。中学や高校の頃はよくゲームセンターに通ったのですが、人気のない時間帯が好きで、ゲームの音楽を聴くためにゲームをプレイするという事もしばしばでした。『風の谷のナウシカ』でも、シンセサイザーが多用されていますが、電子的な音の音色とかプログラミングにも興味を持っていたんですね。ポップスで言うと、中学生の頃、YMOの散開の後、TM NETWORKが出てきて、コンピュータでこれだけ演奏ができるんだと驚いて、自分でも見様見真似でバンド活動をするようにもなりました。」


この頃は音楽を仕事にしようとは思っていなかったという。


「大学では映画を作りたかったので、大阪芸術大学の映像学科に行きたかったんです。偏差値は高くなかったし、特に絵が描ける必要はないと募集要項には書いていたので……。でも、テストを受けてみたら、絵コンテの課題では皆すごく上手くて、とても敵わないと思いました。当時、映像学科は7倍くらいの倍率があったのでこれは無理だと。私の場合、映画の勉強といっても、ひたすら映画を観るだけだったので、絵が描けるような人たちとは比べものになりませんでした。高校や予備校でもそんなことを教えてくれる先生はいないし、大学で教えてくれるものだと思ってたんですよね。それで一浪した結果、絵コンテを描く必要がない芸術計画学科【※2】に行きました。」


今でこそ庵野秀明が大阪芸術大学の映像学科に入学したことは、同じく映像学科に入学した漫画家の島本和彦が大学時代から漫画家に至るまでの自身をモデルにした『アオイホノオ』などでよく知られている。しかし、庵野秀明が社会的に著名になるのは、宮地の大学卒業後『新世紀エヴァンゲリオン』がヒットしてからのことだ。庵野秀明が、『王立宇宙軍オネアミスの翼』の作画監督や、宮地が一番影響を受けた『風の谷のナウシカ』の原画を担当し、巨神兵登場のシーンを描いていたことを当時の宮地は知らなかったのだ。ただし、大学には当時の雰囲気はまだ残っており、庵野秀明らと同学年だった漫画家の士郎正宗も含め、広義の意味でアートシーンを形成していたことは重要だろう。ちなみに、任天堂の近藤浩治は芸術計画学科の出身であった。

参加するための音楽としての民族音楽・民俗音楽と

大学ではどのようなことを習ったのだろうか。


「芸術計画学科は、言語、造形、映像、音響、放送と複数選択できたので、そこで映像をやろうと思っていました。高校3年生の時に、村上春樹や村上龍といった新しい小説を読むようになって、こんな小説もあるんだと驚いていたのですが、映像の授業で、フェデリコ・フェリーニの『道』、ルイ・マルの『死刑台のエレベーター』、ジャン・リュック・ゴダール『勝手にしやがれ』のようなヌーヴェル・ヴァーグの映画をたくさん見せてもらって、映画にも同じような世界があると思いました。田舎のレンタルビデオ屋には置いていませんでしたから……。それで大学の芸術情報センターにあるレーザーディスクでアート系の映画をたくさん見るようになりました。


いっぽう、1回生のときにコーラス部に入ったんですが、その時、芸能山城組に少し参加していた美術学科の先輩がガラクタと民族楽器を使ったバンドをやっていて、コーラス部と共同制作することになって、そこから民族音楽に関心を持つようになりました。高校生の頃、映画音楽では坂本龍一の『王立宇宙軍 オネアミスの翼』や芸能山城組の『AKIRA』が好きだったんですが、それが民族音楽の影響を受けていたことがわかったことで、えらく腑に落ちたんです。それ以来、民族音楽のコンサートを聴きに行ったり、いろんな地方のお祭りを見に行ったりするようになりました。」


その頃(1990年代前半)、関西のホールでは、民族音楽の権威でもあった大阪音楽大学の西岡信雄教授(後に学長)が伊丹アイフォニックホール【※3】で「地球音楽シリーズ」を開催しており、神戸のジーベックホール【※4】でも民族音楽や現代音楽のコンサートを多数開催していた。特に音響会社TOAがポートアイランドの自社ビル内に「音のショールーム」をコンセプトに開設したジーベックホールでは、藤本由紀夫のようなサウンド・アーティストや具体美術協会(具体)のパフォーマンスなど、アート関係者も出入りしていたところが先進的だった。


「衝撃だったのが、バリ島の竹製ガムラン、ジェゴグのチームである「スアール・アグン」のコンサートでした。ジェゴグというと『AKIRA』のサントラでも使われていた楽器です。想像以上の迫力で、何の音響装置も使っていないのに、重低音・大音量で圧倒されました。それから、音楽学者の中川眞(現・大阪公立大学 都市科学・防災研究センター 特任教授)さんが中心になって調査していた十津川村の盆踊りに参加したことで音楽に対する考えが変わりました。今まで音楽は頭で聴くものだと思ってたんですが、民族音楽や民俗音楽は、参加することが重要であるし、共同体の中でいかに快楽を得るかということのために、長い時間をかけてつくられた音楽だと思いました。その後、自分たちでもバリ島のケチャや竹の楽器を使って演奏をするグループをつくるのですが、真似事に過ぎないものでしたがいい経験になりましたね。」


ジェゴックはバリ島の西部の村が発祥の巨大な竹を切ってつくった「ガムラン」で、「スアール・アグン」はジェゴクの重低音とダイナミックな演奏に定評があり、当時頻繁に来日公演を行っていた。中川眞は、当時、京都市立芸術大学の助教授で、サウンド・スケープやサウンド・アートといった新しい分野を積極的に紹介しており、京都の音風景の変遷を、古代から現在まで文献と実地調査を組み合わせて明らかにした『平安京 音の宇宙』(平凡社、1992)は大きな話題となり、サントリー学芸賞を受賞していた。

十津川村の盆踊りは、「十津川の大踊」【※5】として、1989年に国の重要無形民俗文化財に指定され、2022年11月30日にはユネスコ無形文化遺産に「風流踊」のひとつとして登録された。中川は、書籍の中で室町時代の「風流踊」を今に伝えると言われる十津川村の盆踊りに、京の都から伝承された文化の名残りを見い出し、詳細な記述と分析を加えている。大阪芸大の音楽学者、馬渕卯三郎も十津川村の盆踊りの共同研究に参加していたこともあり、宮地も調査の手伝いに行く。宮地は紀伊半島の深い山中にある十津川村の集落で村人たちが、一対(2本)の舞扇を持って、手と体を複雑に旋回しながら踊る盆踊りと、最後に男衆がぶつかりながら周る大踊に、踊り・音楽のひとつの極点を見たのだ。中川はその後、大阪市立大学に移籍し、社会包摂型のアートの実践研究を推進し、ココルーム(NPO法人こえとことばとこころの部屋)【※6】の上田假奈代らの活動をバックアップしている。

卒業後はどうしたのだろうか? 当時は、就職氷河期が始まった頃で、ましてや芸術大学の卒業生に就職先などほとんどない頃だ。


「大学を出て進路に迷っていた頃、先生から尼崎のホールに職があるから行かないかと誘っていただきました。それで一年間、舞台音響のスタッフとして働いたのですが、舞台音響の勉強なんて全然してなかったので、まるで使い物にならず散々怒られました。私としては是非とも舞台の企画がしたいと思い、企画書を書いていたのですが、そもそも職場が縮小される可能性があると聞いて辞めました。そうしたら、河内長野市のラブリーホール【※7】の職があると先生から連絡があり、いろいろ迷ったんですが面接を受けることにしました。そうしたら、ラブリーホールでは「かわちながの世界民族音楽祭」というシリーズをやっていて、ちょうど「スアール・アグン」が来日する予定になっていたんです。面接ではとにかく「スアール・アグン」がいかに素晴らしいかを熱弁しました(笑)。今考えると、あまりいい印象ではなかったように思いますが、なんとか入れてもらいました。」

「かわちながの世界民族音楽祭」と市民参加ミュージカル

河内長野市のラブリーホール時代は、どのような仕事をしたのだろうか?


「「かわちながの世界民族音楽祭」を中心にやっていた先輩のプロデューサーが、私が入社して3年目くらいで辞めてしまったんです。私はまだ20代半ばで経験もなかったのですが私は「かわちながの世界民族音楽祭」をどうしても続けたいと思っていたので、皆からは反対されましたが、なんとかやらせて欲しいと押し通しました。それで1年目に何をやろうか考えているときに、ちょうど「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」が来るらしいとの情報があったんです。その時点では大阪の他のホールは誰も手を挙げておらず、私が真っ先に手を挙げました。まだドキュメンタリー映画の公開前(この映画はその後大ヒットを記録する)であり、ほとんど知られてなかったんですけど、映画を監督したヴィム・ヴェンダースは大好きでしたし、これはイケると思いました。蓋を開けたら、「かわちながの民族音楽祭」始まって以来最高動員数を記録することになり、なんとか皆に認めてもらえたように思います。」


「かわちながの世界民族音祭」は、民族音楽ファンの間では、よく知られたイベントになっていった。長く携わったなかでもっとも印象深いものは何だろうか?


「どの公演も本当に想い出深いのですが、ひとつ挙げるとすればアフリカのコンゴ民主共和国からやってきた「Konono No.1」でしょうか。手作りの金属製の親指ピアノ(リケンベ)をギターアンプにつないだり、廃品を使ったり、さまざまな楽器を自分たちでつくっていた人力テクノバンドで、そこに、日本の大編成ジャズバンド「渋さ知らズ」を呼んで、セッションをやってもらったりしました。あのセッションはめちゃくちゃ盛り上がりましたが、カオス過ぎて本当に大変でした(笑)。」


その他にも、NHKの連続テレビ小説『おちょやん』などの音楽を担当し、ミュージカル・ソウ(のこぎり)奏者として有名なサキタハヂメも世界民族音楽祭に出演している。


「サキタさんは芸術計画学科の先輩であり、早くから交流がありました。カフェコンサートをはじめ、いろんな形で出演してもらってたんですが、前々から「かわちながの世界民族音楽祭」で取り上げたいという話をしていました。世界からミュージカル・ソウの名手を呼んで、大々的にのこぎり音楽の祭典をやったのも画期的なことだったと思います。」


サキタはその後、河内長野に移り住み、ミュージカル・ソウや地元の素材から創作楽器をつくって音楽を奏でる、河内長野「奥河内の音プロジェクト~山を鳴らす~」の芸術監督として公演を行っている。「かわちながの世界民族音楽祭」は、サキタを中心としてワールド・ミュージックを河内長野から発信するお祭「奥河内音絵巻」に継承されている。


「音楽祭と並行して子供たちが参加するミュージカルの公演も企画しました。はじめ私自身は乗り気ではなかったんです。子供は苦手だったんで......(笑)。とはいえ、市立のホールとして子供たちが舞台に触れることは大切な事だと思い、プロジェクトを進めました。1回目は東京の「こどもの城」から講師を呼び、作品を借りて再演したのですが、実際にやってみると、子供たちが活き活きして舞台で表現するのを目の当たりにし、これはとても重要な仕事だと思いました。

それで何回か試行錯誤を繰り返した後、自分たちも経験を積んできたので、ラブリーホールオリジナルのミュージカルを作ろうという話になりました。『オズの魔法使い』を原作にしたミュージカルをつくったら、すごい人が入ったんです。大成功したと思ってアンケートを見たら、出演者の家族はめちゃくちゃ感動してくれたんですが、出演者に関係がなく、宣伝を見て来てくれた人からの評価は散々でした。正直、これにはかなりへこみました。それで、やはり人に見せるためには、舞台作品として一定レベル以上のものを創らなければならない、ということを痛感するんです。」


そこで開始したのがラブリーホールを拠点にしたミュージカルスクールだ。


「実はその頃、中学生や高校生の部活動で演劇部やコーラス部がどんどん廃部になっていく状況がありました。でも、演劇や合唱をやってみたい子供達もいるはずだ。その受け皿をつくることこそが必要ではと考え、ミュージカルスクールを立ち上げました。スクールを作った事で、子供達が継続してレッスンを受けることができるようになり、飛躍的にレベルアップを図ることができました。」

『ミュージカル ナルニア国物語~ライオンと魔女と洋服ダンス~』フライヤー
『ミュージカル ナルニア国物語~ライオンと魔女と洋服ダンス~』舞台
『ミュージカル ナルニア国物語~ライオンと魔女と洋服ダンス~』舞台


しかし、多くの実験的な試みをしてきたラブリーホールは家族の東京転勤もあって、辞めることになる。とはいえ、子供達のミュージカルの脚本は、現在も宮地が担当している(宮地以外が担当することもある)。今年(2024年)は児童文学として世界的に有名な『ナルニア国物語』を原作に脚本を書いた。


「脚本は前々から一度書いてみたかったんですが、ラブリーホールを辞めることになったので、最後だからと脚本を勝手に書きました(笑)。これについては今でも色々想う事はあるのですが、当時は自分が誰よりもスクールの子供たちのことをわかっているはずだという想いを理由というか、言い訳にして書きました。プロデューサーという立場で、クリエイティブな箇所に直接参加する事は作品の私物化になってしまうのではという葛藤はもちろんありましたが、これで最後だという事で、このスクールに何かを残したかったという想いが暴走してしまったような気もします。結果的にはなんとかうまくいったので、退職後も続けて脚本を担当させてもらっている感じです。」


現在、宮地は母校の大阪芸術大学芸術計画学科の客員教授として、通信教育部で教えているが、近年ではラブリーホール・ミュージカル・スクール出身者が大阪芸術大学へ進学するものもいるという。その意味では、地域の芸術文化の醸成に役立っているといえる。

謎解きイベントとコンサートとの融合

東京に拠点を移してからはどのような活動を続けたのだろうか?


「東京に行くタイミングで、オリンパスホール八王子(現・J:COMホール八王子【※8】)に縁があり、3年間プロジェクトの制作担当者として勤めました。その後、予定通り3年でプロジェクトが終了することになったので退職することにしました。それを機に一度自分がやりたかった映像の脚本を書くことに挑戦してみようと思ったんです。それから2年間ほど脚本を書いてはコンクールに出す日々だったんですけど、40歳を超えている中、若い人の才能に太刀打ちできるはずもなく、コンクールの年齢制限もあったりと散々な結果でした。結局、2年間続けてみて、自分には才能がないということだけははっきりとわかりました(笑)。」 


しかしその後も、ラブリーホール・オリジナルミュージカルの脚本の執筆に加え、近年では謎解きイベントとクラシック音楽のコンサートを掛け合わせた、クラシック音楽謎解きミステリー『音楽探偵バッハの事件録』シリーズの脚本を手掛けるようになった。

クラシック音楽謎解きミステリー『音楽探偵バッハの事件録』フライヤー
クラシック音楽謎解きミステリー『音楽探偵バッハの事件録』舞台

「映像作品の脚本家として才能がないのは充分すぎるほどわかったので、それなら公共ホール向けの企画を考えてみようと思ったんです。公共ホールの運営についてはよくわかっていたので、公共ホールの担当者が面白がってくれるような企画を考えてみようと。その企画が採用されれば自分で脚本を書くことができる。自分で自分の需要を生み出そうと思って企画を考えました。その中で目を向けたのがクラシック音楽です。クラシック音楽は、公共ホールにおいても重要なコンテンツのひとつです。しかしながらファンは高齢化していて、このままではなくなってしまうかもしれないという危機感がありました。そうならないために、クラシック音楽業界では、子供向けのコンサートをあの手この手で開発していたのですが、ある時チラシを見ながらふと気づいたんです。これって保護者目線の企画だよね、と。子供向けコンサートのチケットは当然ながら親が買います。つまり子供向けのコンサートは親に気に入ってもらえるようにデザインされているのです。

で、肝心の子供はどうか? 本当に楽しいと思っているのだろうか? 問題はそこにあるのではと考えました。というのも子供向けコンサートというのは小学校低学年までを対象にしたものがほとんどです。ではなぜ小学校高学年以上を対象にした作品がないのか? それは、小学校高学年になると自分の意志で行動するようになりますが、当の子供たちの興味はなくなるのです。クラシック音楽が楽しければ、子供たちもコンサートに行きたいと言うはず。しかし、高学年になるとほとんどの子供はクラシック音楽のコンサートに対し「行かない」という意思表明をするのです。それは私の子供も同じでした。高学年になった途端、クラシック音楽のコンサートにはついて来なくなったのです。

そうした状況の中、『名探偵コナン』の映画を観たいから連れて行けと。そうか、コナンは観たいのか。それでコナンから発想して、謎解きとコンサートを組み合わせればいいのではないかと考えたのです。謎解きイベントは当時からたくさんありましたが、クラシック音楽と組み合わせた企画はほとんどありませんでした。それで、『音楽探偵バッハ』が主人公で、音楽にまつわる謎を解いていく。途中で子供たちも参加して一緒に謎を解き、その謎に関連する曲を最後に聞かせるというものを企画したのです。その企画書を見てくれた西宮市フレンテホール【※9】のスタッフが、やりたいと手を挙げてくれたことでプロジェクトが動き始めたのです。その時、10代の頃にたくさん観た映画の要素と、ひたすら嵌っていたTVゲームの要素が一つに合わせられたように思い、手応えを感じました。」


その頃、あいおいニッセイ同和損保ザ・フェニックスホールから誘いがかかる。


「脚本を書くことを仕事にする事はあきらめていましたから、ザ・フェニックスホールで働くことにしました。ただ、ザ・フェニックスホールはクラシック音楽の室内楽を中心としたホールであり、私のこれまでのキャリアでは知識も経験も不足していたので、一から勉強し直さなければなりませんでした。これは現場を回しながらだったので、思いの外大変でしたが、クラシック音楽の勉強は面白く、勉強すればするほどクラシック音楽の奥深さを知ることができました。それは『音楽探偵バッハ』にも好影響を与えることになり、コンスタントに脚本を書くことができました。」


『音楽探偵バッハ』は、すでに6作つくられていて、年間4~5本くらいは全国で上演されているという。役者ひとりとピアニストひとりの最小の人数で成立するので、どこのホールでも実施が可能だ。これは美術館の子供向けのプログラムに置き換えることも可能であるし、画期的なことではないだろうか。 

クラシック音楽と新しい客層の取り込み

クラシック音楽は、どのようなことが課題となっているのだろうか? 


「現在のクラシック音楽ファンが作られたのは、高度経済成長期に出来た鑑賞団体が大きな役割を果たしていたと思っていて、それは年会費を支払えば幾つかのコンサートを聞くことができるというシステムです。当時の若い人達は、エンターテインメントとしてだけでなく「教養」としてもクラシック音楽を楽しんでいたのではないかと思います。現在そうしたシステムは、楽しみの多様化とともに減少しています。結果、新しいファンを獲得することができていないということが、クラシック音楽業界全体の課題です。」


そこで少しずつ新たなファン層を増やす取り組みを始める。


「自分としては、まず同世代である40代~50代のファンを増やそうと思い、学生時代に関心を持っていたミニマル・ミュージックにフォーカスを当てようと思いました。しかし、これが簡単ではありませんでした。そもそもミニマル・ミュージックはクラシック音楽業界の人に認められていないという現実があったのです。クラシック音楽は悪く言うと業界全体が象牙の塔のような雰囲気があり、ポピュラリティに対して積極的ではないように思います。この雰囲気はちょっと厳しいなと思いつつ、試行錯誤を繰り返しながらアーティストを探していたのですが、ある時、中川賢一さんというピアニストとの出会いが状況を一変させました。中川さんと共にミニマル・ミュージックへの取り組みや、新しい試みに挑戦することができるようになったのです。」

フィリップ・グラスのオペラ『浜辺のアインシュタイン』(演奏会形式・抜粋版)フライヤー

その中で実施したのが、演出家ロバート・ウィルソンとフィリップ・グラスのオペラ『浜辺のアインシュタイン』(演奏会形式・抜粋版)だ。誰もが知るミニマル・ミュージックの名作で、多くのアート関係者も集った。


「譜面を見ると旋律は一見単純なんだけど、拍子が目まぐるしく変っていくのと、正確に小節を数えながら演奏しないといけないので、演奏者は本作の演奏にとてつもない緊張を強いられたと思います。また、今回は特に演奏に注目してもらいたかったので、舞台美術的なことは一切入れませんでした。」


抜粋版とはいえ2時間に及ぶ演奏で、演奏者の緊張や気迫が観客にも伝わり、クライマックスでは背面の反響板が開き、御堂筋に通る車のライトが遠くまで続く背景を見ながら大団円となった。そして本作は前述した通り、令和4年度(第77回)文化庁芸術祭大賞を受賞することになる。ミニマル音楽のシリーズは現在も続いており、次の年にはスティーヴ・ライヒの曲を取り上げたパーカッション・アンサンブルのコンサート、今年度(2024年)は久石譲の映画音楽ではないミニマル・ミュージックを特集したコンサートも実現される予定だ。久石は、現在では日本に移住して、コンサート活動などをしているテリー・ライリーなどの影響を受け、ミニマル・ミュージックの作曲を先駆的に行っている。『風の谷のナウシカ』等の映画音楽は、ミニマル・ミュージックの要素がふんだんに取り入れられているのだ。それは、ミニマル・ミュージックの研究者でもある作曲家、マイケル・ナイマンの映画音楽にもいえる。

『ジャパニーズ・ミニマル・ミュージック~オール久石譲・プログラム』フライヤー



また、ザ・フェニックスホールではミニマル・ミュージック以外の現代音楽も積極的に行っている。2017年には、MIDIキーボードを使って、合成音をその場で生成し、歌声として発音させる奏法でも知られる、三輪眞弘のモノオペラ「新しい時代」を愛知県文化振興事業団と共同制作し上演している(本作は、第17回佐治敬三賞を受賞)。三輪はライゾマティクスの真鍋大度らを輩出した、岐阜にあるIAMAS(情報科学大学院大学)【※10】で長らく教鞭をとり、学長にも就任した。三輪もメディアアートの祭典、アルス・エレクトロニカ【※11】でも幾度も受賞歴がある。2021年には、「スピーカーのオーケストラ」との異名を持つスピーカーの集合体「アクースモニウム」の演奏家/作曲家として知られる、檜垣智也のリサイタルを共催し、令和3年度大阪文化祭賞奨励賞を受賞している。


「クラシック音楽業界は、今、才能のある若手の演奏家がどんどん輩出されてます。これは非常に期待が持てる状況なんですが、反面ポピュラリティを兼ね備えた若手の作曲家が少ないと思います。現代音楽は、ちょっとタコツボ化しすぎているのではないかと感じていて、もう少しポピュラリティが必要な気がします。そうした現状の中、どうやって話題性をつくるかが大きな課題ですが、若手の作曲家や演奏家が活躍できる場を積極的につくりたいと思っています。」

『「月に憑かれたピエロ」をめぐる冒険』フライヤー

2025年1月には、12音技法を開発し、現代音楽の祖とされるシェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』を中心にしたコンサートも予定している。


「シェーンベルクは、これまでの音楽に対し、終わりを告げた作曲家のようなもので、そこから現代音楽と呼ばれる混沌の世界へと突入します。彼が始めた無調音楽や12音技法は、現代音楽に対するアレルギーの元になっているような面もあるのですが、あえてそこにスポットを当ててみたいと考えています。2024年は、生誕150周年であり多くのプログラムが国内外で組まれています。その中でフェニックスホールでは、抽象画の先駆者のひとりであるカンディンスキーらとの交流など、第一次世界大戦直前のウィーンやドイツのアートシーンを担った人物としての側面や彼がユダヤ人でナチス政権誕生によってアメリカに亡命したというような社会的な背景も含めて紹介したいと思います。

多様な側面の情報を合わせることで、シェーンベルクは小難しいという印象しかない人にこそ面白さを感じてもらえるのではないかと思っています。今考えているのは、これからは芸術を理解するという感じではなく、より深く楽しむためにリベラルアーツ的な考えを取り入れるのが面白いのではと思っています。それで、今回は山城大督さんという、美術分野のアーティストに参加いただき、映像的な演出や、美術評論家や音楽評論家のレクチャーもプログラムに入れ、多面的に20世紀初頭のウィーンの芸術を取り巻く状況を楽しんでもらえたらと思っています。」

フェニックス・リベラルアーツ・プロジェクト「J.S.バッハ✕建築」フライヤー

リベラルアーツのプログラムは、フェニックス・リベラルアーツ・プロジェクトとして、文化芸術プロデューサーの浦久俊彦をナビゲーターに、すでに建築家の伊藤豊雄や脳科学者の茂木健一郎などを招聘して、トークイベントとコンサートが実施されている。最後に、クラシックや都心にあるホールのこれからの可能性について聞いた。


「ザ・フェニックスホールはビジネス街のど真ん中にあって、多くのビジネスパーソンが働いているんですけど、彼らはほとんどここには来ません。現状を考えると、ビジネスパーソンのニーズと、演奏家やホールが表現したい/提供したいものには大きな乖離があるのは事実だと思います。しかし、そこをどうにかつなげられないかと考えています。クラシック音楽は、わずか200年~300年の間に西洋でつくられた音楽を反復しているわけですが、近代化の時期と重なっていて、その時代の背景を知ることは、現在の世界を理解することにもつながると思いますし、グローバルに活躍するビジネスパーソンが知っておいて損はないのではと思います。

例えば、ベートーヴェンは、貴族から離れ音楽家として独立して生計を立てた最初の音楽家ですが、自分の曲を売るためにすごい工夫をしています。音楽そのものだけでなく、技術革新や市場開拓などの背景を知ればビジネスパーソンにも面白がってもらえるのではないかと思っているのですが、事はそう簡単ではないでしょう。今は、もっとこちら側からビジネスパーソン側のニーズを研究しないとダメかなと思っています。どうすればビジネスパーソンのニーズを掘り起こせるか。非常に難しい課題ですが、それをテーマにしている人も少ないと思うので、上手くいけばリターンも大きいはず。茨の道だとはわかっていますが、頑張ってみます。」

注釈

【※1】あいおいニッセイ同和損保ザ・フェニックスホール
(URL最終確認2024年10月4日)

【※2】大阪芸術大学 芸術計画学科 
(URL最終確認2024年10月4日)

【※3】伊丹アイフォニックホール
(URL最終確認2024年10月4日)

【※4】ジーベックホール
(URL最終確認2024年10月4日)

【※5】「十津川の大踊」
(URL最終確認2024年10月4日)

【※6】ココルーム
(URL最終確認2024年10月4日)

【※7】ラブリーホール
(URL最終確認2024年10月4日)

【※8】J:COMホール八王子
(URL最終確認2024年10月4日)

【※9】西宮フレンテテホール
(URL最終確認2024年10月4日)

【※10】IAMAS(情報科学大学院大学)
(URL最終確認2024年10月4日)

【※11】アルス・エレクトロニカ
(URL最終確認2024年10月4日)

INTERVIEWEE|宮地泰史(みやじ やすふみ)

河内長野市文化振興財団、八王子市学園都市文化ふれあい財団にて舞台の企画・制作を担当。現在は、あいおいニッセイ同和損保ザ・フェニックスホールで室内楽を中心としたコンサートの企画・制作に携わる。個人の活動として、謎解きとクラシック音楽を掛け合わせた舞台「音楽探偵バッハの事件録」を企画し各地で展開中。他に、大阪芸術大学芸術計画学科客員教授、堺アーツカウンシル・プログラムオフィサー等を務める。

WRITER|三木 学(みき まなぶ)

文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人。独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。