広く建築との関係性を独自の視点で深めてきた髙岡さん。後編では、ご自身が培ってこられた経験をもとに、建築の魅力を地域に発信し、街の人々と建築をつなぐ取り組みについて紹介する。
大オオサカまち基盤の活動を経て、髙岡はまちづくりの実践と教育分野に足を踏み入れていく。
「橋爪さんとは印度ビルのイベントを通じて初めてお会いしたんですけど、当時の大阪市立大学に都市研究プラザという新しい研究機関が発足することになって、講師を募集しているということで橋爪さんから声をかけられたんですね。お前どうせ暇やろ?と言われ、暇ですと(笑)。都市研究プラザは、大学のキャンパスに留まらない、西成とか船場に拠点を置いて、そこに研究者、学生を張り付かせて、地域の人たちとその地域の課題解決に取り組むっていうのが大きなミッションだったんです。それで、お前は船場をやれっていうことで、船場エクセルビルの最上階と地下のスペースを運営して、そこから何やるかっていうことで最初に企画したのが「船場建築祭」なんです。印度ビルやオーナーサミットとかの経験があったので。」
「船場建築祭」は、船場の近代建築を舞台に、芸術を含めたさまざまな活動が行われた。
「2006年の一番最初の船場建築祭は、都市研究プラザの教授に中川眞さんもおられたので、どちらかというと芸術祭のニュアンスが強かったんです。初回は、綿業会館と伏見ビルと芝川ビル、北野家住宅を使って、近代建築を舞台にして、クリエイターに参加してもらいました。北野家住宅では山口晃さんの小さな個展、綿業会館はタイの音楽楽団に演奏してもらったりしました。2007年の2回目は、近代建築の屋上に注目して、都市広場に見立てるイベントを開催し、都市計画よりの視点が入ります。3回目からは「まちのコモンズ」と名称が変わって、そこから嘉名光市先生が加わり、よりまちづくり的側面が強くなって、建築に限らず、船場のあらゆるコンテンツとスペースを使ってイベントをやるというふうに変わっていきました。」
2006年には、アオリのテクニックでジオラマ風の写真を撮影して注目され、木村伊兵衛賞を受賞した本城直季が髙岡の案内で近代建築を撮影し、2007年には同じく木村伊兵衛賞を受賞した写真家で、誰もいない都市の風景や都市の窓からの風景を撮影した中野正貴が、近代建築の屋上や水路からの風景を撮影し、展覧会を開催するなど、写真家とのコラボレーションも行われている。さらに2007年には、髙岡らが協力し、北川フラムが近代建築を舞台に「大阪・アート・カレイドスコープ2007 ~大大阪にあいたい~」をプロデュースするなど、さまざまな大阪の都市とアートの可能性が引き出された時期でもあった。ちょうど2007年には、髙岡らが編著した『大大阪モダン建築』(青幻舎)が出版され、芝川ビルの屋上は、戦後に増築されていた部分を、竣工当時の写真を参考に、復原するという画期的な工事を行ったことも、大大阪時代の建築を見直すきっかけになった。
その後は船場のまちづくりはどうなっていくのだろうか?
「今でもやっていますが、「船場博覧会」【※1】という名前に変わって、料亭の𠮷兆さんに餅つきをやってもらって振る舞うとか、ビルの公開空地でライブイベントをするとか、船場の地域資源を使って街の魅力を発信していて、近代建築はその中の1コンテンツという形になっていきます。」
髙岡は同時に、以前から注目していた高度経済成長期に建てられた名もなきビルの評価を岩田雅希らと始めるようになる。それがビルマニアカフェ(BMC)【※2】だ。BMCが、自分たちで1冊まるごと1件のビルを特集した雑誌『月刊ビル』を発行したり、それが発展して今でこそ再注目されている日本橋の総合レジャービル「味園ビル」内の「ユニバース」で、「トロピカルビルパラダイス」というイベントを主催したりするなど、ビルを舞台に新しいムーブメントをつくりだしたといってよい。特に「トロピカルビルパラダイス」では、恒例となった河内屋菊水丸による盆踊りや、細野晴臣の単独ライブを実現するなど、小さな任意団体とは思えないプロデュースを行ってきた。
船場を中心としたまちづくりのイベントと、BMCの活動は、髙岡の中でどのように分かれているのだろうか?
「僕としては分かれてないですね。あんまり明確な線引きはなくて、ビルマニアカフェも大バンをやっていた頃から、何となくあたためていた企画で、本当は戦後の建築が好きなんやけどなっていうところから始まっているので(笑)。」
ビルマニアカフェ(BMC)は、『いいビルの写真集 WEST』や『いい階段の写真集』(パイ インターナショナル )などを通して、戦後のあまり注目されていなかったモダニズム建築の魅力を発信し、さらに1冊まるごと国立京都国際会館だけを取り上げた『特薦いいビル 国立京都国際会館 (別冊月刊ビル)』(大福書林)によって、幾何学的、機能的、冷たい、画一的というような戦後のビルのイメージを覆している。現在では、Art Collaboration Kyoto(ACK)は国立京都国際会館が、アート大阪は大阪市中央公会堂が舞台となるなど、都市における建築とアートを結び付ける下地をつくったともいえる。
特に近代建築は、誰も評価してない古ビルから、人口日本一となり輝いていた、大大阪時代の街並みを形成していた、大阪が誇る近代建築というように、大きく認識が変わったといえる。そのターニングポイントは何だろうか?
「やっぱり2007年の芝川ビルが大きいのかなとは思いますね。屋上のプレハブを撤去して、テラスを復元したことと、当時入居していた古い事務所から、お客さんを呼べる店舗に入れ替えていったので、あの動きが一番インパクトが大きかったと思います。あの動きが起こった直接のきっかけは、まさに芝川ビルの屋上で開催した「近代建築オーナーサミット」だったと思います。」
髙岡の活動は、いわゆるまちづくりの範囲に留まらない。ある意味で、リブランディングであり、雑誌や書籍、イベントなどのさまざまなメディアやアクションを通した、人々のイメージ自体を変えるようなダイナミズムがあるといえる。それは意図的に行っているのだろうか?
「あんまり計画的な人間ではないので、その時々の流れでこうなったというのが正直なところですが、市民の認識や街のイメージを変えるところからやっていかないと何も動かない、というのはつくづく思います。」
船場博覧会の経験は、現在の「生きた建築ミュージアムフェスティバル大阪」【※3】につながっているという。どのような経緯で始まったのだろうか?
「2012年に、橋下徹さんが大阪市長をやっていた頃ですが、府市がグレートリセットといって、大々的に大阪の再生ビジョンを掲げて、報告書がつくられるんですけど、その中に、いくつかの具体的なプロジェクトが列記されていて、本当に小さいんですけど、御堂筋を軸に船場の近代建築を活用して云々……という項目が書き込まれるんですね。それがもとになって、2013年度に大阪市の事業として正式に動き出して、生きた建築ミュージアム事業が始まるんです。」
それは大阪市内の現存する近現代建築を「生きた建築」であると、同時に「ミュージアム」として見立てて認定するものだった。この事業では「生きた建築ミュージアム・大阪セレクション」【※4】として50件が選定された(2023年に47件を追加し現在97件)。そこからさらに積極的に公開イベントの形になるきっかけは何だろうか?
「2013年に主要なメンバーで、ロンドンで開催されている「オープン・ハウス・ロンドン」【※5】を視察したんです。20人近くで行ったと思うんですけど、それでこれはすごい、大阪でもやろうという機運が盛り上がりました。」
「オープン・ハウス・ロンドン」は、1992年に編集者であるヴィクトリア・ソーントンが創立した建築公開「オープンハウス」イベントだ。毎年9月末の週末2日間開催され、2013年の時点で、750件以上の建築が公開され、25万人以上が訪れるという世界最大の建築公開イベントに成長していた。
「本当に街中オープンハウスイベントに染まっている感じでした。特にロンドンの中心部は。主だった建物の前には大体行列ができていました。こんなに建築に関心持ってる人たちがいるんだっていうことに驚いたし、すごく熱心に見ているんですよ。それが2014年の第1回目のイケフェス大阪につながるんです。」
特に印象的な光景があるという。
「建物側の人たちが、一生懸命解説とか案内とかしているんです。ロイズの本社(リチャード・ロジャース設計)も公開されていて、保険会社の制服着た人が見学に来た人をもてなしている風景があったり、軍の騎馬隊の詰め所が公開されてて、若手の軍の男の子がカンペ片手に解説している風景があったりとか、プロじゃなくて、その建物を使ってる人たちが解説してる様子を見たりとかして、これはいいなと思ったんですね。今思い返せば、それはオーナーサミットにも繋がると思うんですけど、実際使っている人たちの話が面白いということを改めて感じたんです。」
そこにあるのは街との新たな結びつきであるという。
「街との接点が、そこで生まれるというか、単なる見学ではない。観光・見学に来ましたというのとは違う。市民と建築との繋がり方っていうのがあると思いましたね。」
こうして第1回目の2014年、再び船場の近代建築を中心に、一斉建築公開イベント、「生きた建築ミュージアムフェスティバル大阪」の開催を企画する。その時点で成功する見通しはあったのだろうか?
「それは確実にあって、それまでのプロセスで船場の近代建築のオーナーさんとは信頼関係が構築できていたので、少なくとも船場という範囲で始めれば、何かできるっていう自信はありました。船場を中心でやっていって、あとは徐々に広げていけばいいと。」
その後、イケフェス大阪は回数を重ね、現在は170件以上の建物が参加している。どのように参加建物が増えていったのだろうか?
「最初の頃は、こちらから少し範囲とか時代とかを広げつつ、参加してもらいたいなっていう建築に対してアプローチして説明して、賛同いただいて参加してもらっていました。1回目だと先方もいったいどういうことが行われるのか全く想像がつかないですけど、2回3回と繰り返せば、大体こういうことなんだなっていうこともわかってもらいやすい。その時、大阪市の事業として始まっていることも大きかったですね。2回目までは大阪市の主催ですので。行政の人が説明に行けば、どんな人でも一応話は聞いてくれる。これが任意団体のような誰かわからない人がやってきて建物を開けてください、というのとでは、理解のされ方がずいぶんと違うと思います。そういう意味では行政の事業としてスタートしたのは、すごくいいやり方だったと思います。」
そして回数を重ねると認知も広がっており反応も変わってくる。
「コロナがあけてリアル開催を復活させた頃から、建物側から参加させてほしいというアプローチが確実に増えました。あるいは参加してくれている建物が他の建物を紹介してくれたりとか、そういう広がりが重なって、今回で174件まで広がりました。」
しかし、大阪市の事業は3年で一区切りなので、イケフェス大阪として独立しなくてはならなかった。
「市の事業としてこれ以上の延長はないということで、当初から公開に参加してくれた竹中工務店とか大林組、大阪ガスやダイビル、千島土地(芝川ビル)などの人たちに声かけて実行委員会を設立して、3回目からは実行委員会の主催です。ただし、大阪市さんのサポートが全くなくなったわけじゃなくて、お金は出ないけども、人的な支援はやっていただいていたので、何とかできたわけです。去年一般社団法人を設立して、今は大阪市都市整備局は、オブザーバーという立場でサポートしていただいています。」
2019年には、日本の都市で初となる、オープンハウスイベントを開催する世界中の都市で構成される「オープンハウスワールドワイド」【※6】に加盟、2023年には法人化し、一般社団法人 生きた建築ミュージアム大阪を設立した。法人にした理由は何だろうか?
「いくつか理由はあるんですけど、実行委員会形式だと任意団体なので色々不安定ですし、お金を受け取るにしても出すにしても、法人格を持っていた方が何かとやりやすい。長期的に考えれば、実行委員会形式でやり続けるより、ちゃんと法人格を持った方がいいとなったのが一番大きいですね。しかし内部の実態としては、ほぼ何も変わってないです。」
組織化されたことによって、髙岡の負担は軽減されたのだろうか?
「負担は増えていますね(苦笑)。法人になったので大阪市さんも、少しずつ実務からはフェードアウトして手伝ってくれる比率は減らしていっているので、その分誰かやるの?と言えば、僕がやるしかないので。そろそろ事業の継承といったことも考えないといけないのですが、どうやって引き継いでいくのかはこれからの課題です。すでにみんな10歳年を重ねてますからね……。」
とはいえ、参加する建物は主体的にいろんなプログラムを作っている点が特徴にもなっている。特に毎年、建設会社や設計事務所のプレゼンテーションやワークショップが充実しており、街をつくっている人たちが、住人や関心を持っている人たちに直接触れ合う今までにない機会を生み出している。
「イケフェス大阪のやり方としては、何といっても主催組織が脆弱なんで、各建物でそれぞれ自由にやってください、というやり方しかできないんです。その中で、特に建設会社さんとか設計事務所さんが、それぞれが自主的に考えてもらった結果なんですね。特に各会社が言うのは若年層、もっというと子どもたちに建築に関心を持ってもらわないと、業界の将来ないよねっていうことはやっぱり強く意識されてますよね。竹中工務店なんかが、子供向けのワークショップに力を入れているのも、その辺の問題意識というか危機意識が働いていると思いますね。イケフェス自体は、やりたいことをやるためのプラットフォームだと思ってもらえればいいと思っています。」
現在では、近代建築から新しい建築まで広く参加している。
「まずは、広く建築に関心を持ってもらうってことですよね。古い建物に限らず、自分の暮らす街にこれだけ魅力ある建物が建っているというところからスタートして、そういう人が増えていけば、古い建物は長く使っていこうって思うだろうし。新しい建築に対しての関心も、いやいやあんな建物は駄目でしょっていう意識が出てくれば、街が良くなっていくことに繋がっていくだろうと思いますので。」
実際、イケフェス大阪以降、新しい建築に関しても、大阪の街のアイデンティティや街並み、歴史性を意識した建築が顕著に増えているのはその成果だといえるだろう。今や建築公開イベントは、イケフェス大阪にも関係している人たちが中心になって、日本中に広がってきている。そのことについてはどう思っているのだろうか。
「びっくりしてるっていうのがまず一番率直なところです。こんな立て続けに京都、神戸、東京って広がっていくとは思ってなかったし、あとは他の地方都市でもちょこちょこ建築公開イベントが生まれてきていますね。それってここ4、5年の話ですね。日本で急激にそういう建築公開イベントが広がりを見せているのは驚いていますが、イケフェス大阪がひとつのきっかけをつくったっていう自負はあるので、本当にいいことだなと。もっとどんどんやってくれと思っています。倉方俊輔(建築史家、大阪公立大学教授)さんとも昔、東京では都市の規模が桁違いに大きいし、移動も大変だし、無理でしょうと話をしていたんですけど、倉方さん自身が実行委員長になって「東京建築祭」をやっちゃいましたね(笑)。」
髙岡はイケフェス大阪の事務局長である一方で建築家でもある。そのバランスをどのように考えているのだろうか?
「細々とではありますけど、そういう近代建築なんかを中心したリノベーション設計はずっとやっています。一方ではイケフェス大阪もやっていて、でもお互い両輪っていうか、イケフェスやっているから、設計の依頼が来てるっていうところもあるし、自分の中ではシームレスです。ただ、作業量としてはイケフェスの方が圧倒的に比率が高くなっていて、設計いつやるんだ、となっていてそれはまずいなと(笑)。」
しかし、髙岡は人々のイケフェス大阪などによる人々の意識の変化を通じて、都市自体を設計しているともいえるのではないだろうか。
「設計していると言いすぎですが、その自覚はあります。もちろんこれからも設計は続けていきたいんだけど、ひとりの建築家が手がけられる建築の数って限られるじゃないですか。よっぽどのスター建築家を除けば。自分が設計した作品で、社会的に与えられる影響なんて微々たるものなんで、それよりはるかにイケフェスの取り組みの方が、社会や都市に与えるインパクトは大きいと思うんですよ。こういうイケフェスなんかを通じて建築に関心を持つ人が増えれば、逆に自分だけじゃなく、建築家の能力を発揮する機会も自ずと増えてくるんじゃないかと思っています。時間のかかる気の長い話ですが。」
さらに髙岡は、2012年に新設された大阪府立江之子島文化芸術創造センター(enoco)【※7】で、6年間チーフディレクターとして活動している。アートと建築、都市の関係でどのようなことをやっていたのだろうか?
「主に何をやっていたかというと、それもやっぱり裏方なんですけど、アーティストを含めたクリエイターと社会課題を出会わせる。社会課題解決型のプロジェクトを主に担当していました。だから、行政とアーティストの協働をコーディネートするとか、そういうことを主にやってました。建築を真正面に取り組んだのは、「維新派」の大阪公演をサポートしたときくらいですかね。」
アートと建築、都市の関係はどのような関係にあると思うのだろうか?
「クリエイターとかアーティストと関わらせてもらって、強く感じたのは街や日常の見え方を変えてくれるというか、日常に違う視点を持ち込んでくれる存在。特にenocoでは最終的なアウトプットのクオリティよりは、そこに至るまでに共有される色んなものの見方であったりとか、特に行政とのコラボでは、彼らの常識とは全く違う角度で切り込んでいってくれたりとか。僕なんかは、割と行政の人たちとの仕事が長いから、彼らの考えていることを内面化してしまっているんですけど、そんなこととは全然違うアプローチをストレートに提示してくれて、それを感度の高い行政マンであれば、なるほどそういうことかと、プロジェクトがうまくいくこともいくつかありました。
それは行政課題に限らず、enocoに来てくれる一般市民にとっても、日常生活の見え方が変わるというか、実態は何も変化してないんだけど、意識の変化だけで日々の生活が変わって見えてくるっていう、そういう触媒になってくれるような存在っていうのが、都市にとってのアートっていう意味でいうと、そのあたりがやっぱり強いなと個人的には思います。」
しかし、建物を操作せず意識を変える触媒という意味においては、髙岡の活動とも共通点があるだろう。髙岡は仕事を続けながら博士号をとり、現在では近畿大学で教鞭もとっている。現在、大学ではどのような研究をしているのだろうか。
「建築・都市コモンズ研究室って名前で、街中に立っている建築物を市民あるいは社会でどう共有できるかみたいなことが、ひとつ大きなテーマにはなってて、特に民間の建築って、当然その所有者の所有物なわけですけど、さらに市民の共有財産という側面もあると思うので、それを所有者の人たち、あるいは一般市民の人たちの中で、そういう意識をどう構築していけるか考えています。それはまさにイケフェス大阪が目指しているところなんです。今、建築公開イベントの建築ガイドなどで、建築が市民に向けてどう語られているかを研究している院生がいて、建築家や建築史家、所有者によって語られる内容は当然違っていて、それを分析した人はいないので興味深いと思っています。アートの世界は対話型鑑賞というのがありますけど、建築はまだまだ一方通行ですので。」
建築と社会、人々を結び付ける「アーキネイバー」の可能性はどうだろうか?
「アートの世界だとコーディネーターって言ったりとか、キュレーターとかそういう職能があって確立されていると思うんですけど、建築の場合これが仕事になっているかっていうと、全然仕事にはなってない。イケフェスで僕がやってることも、建築と人を結ぶコーディネーターの役割だと思うんだけど、全く無償でやってるから、「仕事」にはなっていないんですよね。だから建築の世界でも、こういう役割を職能として確立していくのは、僕よりもその次の世代の人たちが取り組まないといけないことなんだろうなと思っているんです。」
最後に髙岡が、イケフェス大阪などを通じて、コーディネーターとして、建築家として大切にしていることについて聞いた。
「建築って本当にいろんな人が関わるし、社会的な要素も経済やら法律やら、あらゆることが絡んでくるんですよね。こういうことをやってて思うのは、ウェットな話になるかもしれないけど、やっぱり人の存在が一番大きいなっていうのを改めて感じています。設計する側の人間ではなくて、そこを実際使っていたり、暮らしてたりする、そこで生活をして生きてきて今に至ってる人の存在っていうのが、一番大きいです。その人たちと建築をセットでどう捉えられるかっていう、その視点は外せない。建築家は、そういう人たちに寄り添う仕事だと思いますね。とても面倒な仕事です(笑)。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【※1】船場博覧会
(URL最終確認 2025年1月18日)
【※2】ビルマニアカフェ(BMC)
(URL最終確認 2025年1月18日)
【※3】生きた建築ミュージアムフェスティバル大阪
(URL最終確認 2025年1月18日)
【※4】生きた建築ミュージアム・大阪セレクション
(URL最終確認 2025年1月18日)
【※5】オープンハウスロンドン
(URL最終確認 2025年1月18日)
【※6】オープンハウスワールドワイド
(URL最終確認 2025年1月18日)
【※7】大阪府立江之子島文化芸術創造センター(enoco)
(URL最終確認 2025年1月18日)
建築家/近畿大学建築学部教授
大阪大学卒業、同大学院修了。1996年に大阪に本社を置く昭和設計に就職。2004年に独立して高岡伸一建築設計事務所を設立し、近年は主に大阪の近現代建築のリノベーションを手がける。平行して2006年から大阪市立大学都市研究プラザ(当時)の特任講師として、大阪の歴史的都心・船場に設けられたサテライトの企画・運営を担当。2012年からは新しく設立された大阪府立江之子島文化芸術創造センター(enoco)のチーフディレクターを務めた。その間に大阪市立大学大学院の後期博士課程を修了し、博士(工学)を取得。2018年からは近畿大学建築学部に着任、現在に至る。生きた建築ミュージアムフェスティバル大阪には当初から深く関わり、現在は一般社団法人生きた建築ミュージアム大阪の事務局長を務める。近年の著書としては、『新・大阪モダン建築』(青幻舎・共編著)など。
文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人。独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。