ともに学び、遊び、働くことで人と人を編む <前編>

ともに学び、遊び、働くことで人と人を編む <前編>

多田智美(編集者/MUESUM代表)
2024.05.01
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メディアや産業が集中する東京と地方とでは、アートを取り巻く生態系も自ずと異なってくる。それ以外の地方と比べて、関西ではまだメディアや美術館、あるいは芸術大学が多いが、それでも小さな展覧会やプロジェクトはほとんど注目されないままに過ぎていく。それだけにセルフプロデュースや情報発信は欠かせない。

大阪を拠点に、アートプロジェクトやイベント、展覧会のオーガナイズ、メディアの運営や書籍の出版、美術館や文化施設の広報、デザイン学校の運営など、ありとあらゆる方法で、アートやクリエイターと人々をつないでいるのが多田智美が率いる編集事務所MUESUM(ムエスム)【※1】だ。その活動は、アーティストや建築家、デザイナーなどさまざまなタイプのクリエイターが、居住している地域、障がいのあるなしに関わらず協働しているのが大きな特徴だろう。

日本のほとんどが地方であり、地方の可能性を見出すことは日本全体の可能性を見出すことでもある。昨年、「第18回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展」の共同キュレーターにもなった多田がどのような経緯でこれだけバラエティに富んだ活動をするようになったのか。その軌跡を辿ることは、アート関係者だけではなく、多くの地方に住むメディア発信者にも役に立つだろう。今回、改めて多田にオンラインと事務所で2度のインタビューを行った。長年、多田と親交のある筆者の視点で、多田とMUESUMの今日の役割とその歩みを紹介したい。

多田智美(編集者/MUESUM代表)

関西のアートメディアとMUESUM(ムエスム)の役割

アートを含む関西の文化発信は、1971年に大阪で創刊され、日本で初と言われた情報誌『プレイガイドジャーナル』を端緒とし、1977年に創刊された『Lmagazine』、1972年に刊行され、1985年に関西版が刊行された『ぴあ』、1994年に創刊された『関西ウォーカー』、1999年に創刊された『KANSAI1週間』など、幾つかの地域情報誌が担っていた。しかし、インターネットが普及して2000年代になると、ほとんどが廃刊となり、いずれも雑誌メディアとして定期刊行されることはなくなってしまった。一部は、ウェブメディアに変わっているが、以前ほど重要な情報源でなくなっていることは確かだろう。付け加えると、『大阪人』(大阪都市協会・大阪市都市工学情報センター、1947年~2012年)やフリーペーパー『C/P(CulturePocket)』(大阪市文化振興事業実行委員会、1999年~2004年)が関西の文化人に与えた影響も大きい。

1990年代当時、個展のような小さな告知が、『ぴあ』に掲載されることはアーティストの目標だった。その中でもダムタイプや維新派のようなグループは当時から大きく注目のパフォーマンスとして取り上げられていた。地域情報誌の廃刊後、展覧会情報のチェックは、美術館や美術館の依頼を受けたプロモーション会社からの情報提供か、大日本印刷株式会社(DNP)が提供している老舗のアート情報サイト『artscape』(1995年~)、網羅的ではないがウェブ版『美術手帖』などになるかもしれない。『Tokyo Art Beat』(2004年~)は運営母体が代わり、リニューアルされてコンテンツも充実しているが、残念ながら『Kansai Art Beat』は、2018年3月にサービスが停止されている。

後は、X(旧ツイッター)やFacebook、Instagramなどから流れてくる口コミだろうか。特に、個人が開催する展覧会は埋もれがちであるが、おおさか創造千島財団が運営しているウェブメディア『paperC』(2019年~、おおさか創造千島財団)【※2】は、個人を含む小規模な展覧会を紹介している貴重な媒体だろう。

大阪の多様な”つくる”文化を伝え、耕すWebメディア『paperC』(おおさか創造千島財団、2019年~)
フリーペーパー『paperC』(おおさか創造千島財団、2012~2019年)
[Photo : Natsumi Kinugasa]

この編集を担当しているのが多田智美が率いる株式会社MUESUM(ムエスム)だ。MUESUMは、2012年から2019年まで、おおさか創造千島財団の設立に合わせて定期刊行物『paperC』を刊行し、 毎回大阪で向き合うテーマを掲げ、巻頭に異なる専門分野を持った人々の対談を掲載してきた。2019年秋からは、間口を広げ大阪の文化を掘り起こすというコンセプトを元に、ウェブサイトにして広く情報を発信するようになった。MUESUMでは、それ以外にも、神戸アートビレッジセンター(KAVC、現・新開地アートひろば)の広報誌や京都市京セラ美術館の会報誌を開館に合わせてリニューアルして準備号から8号まで担当するなど、ある種の関西文化のメディエイターの役割を果たしている(その他にも、2025年に開館する鳥取県立美術館ができるまでを発信する定期刊行物や、世田谷区の生活工房のアニュアルレポートなど、文化施設のパブリケーションは広域にわたっている)。

京都市京セラ美術館の会報誌『Members News』(京都市京セラ美術館、2020〜2022年)
[Photo : Natsumi Kinugasa]
新設される鳥取県立美術館が開館するまでの出来事を、県民に知らせる広報誌。つないでいけば、年表にもなる。(鳥取県立美術館、2019年〜)デザイン:うかぶLLC(現・MAA)
[Photo : Natsumi Kinugasa]
※その他の紙媒体のデザイン・ウェブのアートディレクションは、すべてUMA/design farm。

それだけではない。2023年に移転した「京都市立芸術大学及び京都市立銅駝美術工芸高等学校移転整備事業」のチームに入り、プロポーザルに参加。機運醸成・リサーチチームとしてプロジェクトに伴走した。さらに、前コンペの共同チームだった建築家、大西麻貴(一級建築士事務所大西麻貴+百田有希/o+h 共同主宰)がキュレーターを務めた2023年の「第18回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展」では共同キュレーターとして、コンセプトを組み立てるところからリサーチ、展示編集、ハンドアウトをつくるなどして、来場者とのコミュニケーション空間をつくった。多田は、その意味では単なるメディエイターではなく、アーティストや建築、デザイナーなどさまざまなクリエイターと協働し、積極的に関与する編集者であるといえるだろう。MUESUMのテーマとしても、「出来事の生まれる現場からアーカイブまで」を掲げており、人と人のつながりとそれによる創造の物語の中で、脚本家や演出家、あるいは役者、あるいは記録係といった複数の役割をこなしているように思える。なぜそのようなユニークな編集者になったのだろうか。

 

遊びと学び、仕事をゆるやかにつなぐ。出来事を起こすことから編集し、記録することまで

大阪市港区で育った多田は、高校卒業後の浪人時代からクラブイベントにのめり込み、自身でも東心斎橋などでDJをしていた。現場にいるお客さんの反応を見ながら、どのようにレコードをつないでフロアを盛り上げたり、落ち着かせたりするか試行錯誤したという。つまり、さまざまな音楽を組み合わせて、時間を編集することが多田の原点にある。

幼少期から生徒の状況を把握する、思いやりのある先生と出会い、先生の仕事に惹かれていたという。また当時『24人のビリー・ミリガン』(早川書房 、1992)や『ソフィーの世界』(NHK出版、1995)、心理学者、河合隼雄による著書が流行しており、人間のこころの動きに興味を持っていたこともあって、龍谷大学に入学し、哲学科教育心理学を専攻する。クラブには続けて通っていたが、次第に日中のイベントも企画したり、自身がプレイすることからオーガナイズすることに関心が移っていった。大学の授業では中央アジアの仏教の伝来を研究した大谷探検隊の活動やインド哲学、民俗学に関心を持ち、美術館よりも博物館、特に国立民族学博物館に通った。当時は「民博」に就職することが夢だったという。しかし挑戦したものの難しく、進路に迷っているときに、先述の『C/P(CulturePocket)』を手に取った。

そこでアートプロデューサー、木ノ下智恵子(当時・神戸アートビレッジセンター・キュレーター)のコラムに出会う。木ノ下は、自身のことを美術館やギャラリーを回り若いアーティストを発掘し、展覧会をプロデュースする「ずっと働いているようで、ずっと遊んでいるような生き方」と記していた。その言葉に感銘を受け、多田は卒業後、木ノ下も教えていたインターメディウム研究所(IMI)【※3】に進学する。インターメディウム研究所(IMI)は、マルチメディア時代のバウハウスを標榜し、1996年に大阪で創設された社会人向けのアートスクールで、当時「民博」もある万博記念公園の記念協会ビルに入居していた。

多田は、IMIで木ノ下の教えていたアートマネジメントコースを受講し、KAVCが毎年開催していた「神戸アートアニュアル」のマネジメントなどをサポートする。「神戸アートアニュアル」は、当時、関西の若手アーティストの登竜門的な存在になっており、久門剛史や小橋陽介、金沢寿美、大庭大介、飯川雄大など現在も一線で活躍するアーティストと交流することになる。

また、ちょうど同じくIMIの講師をしていた現代美術作家、ヤノベケンジが2003年に国立国際美術館(2004年に解体後、中之島に移転)で大規模な展覧会「メガロマニア」展をした後、2004年に金沢21世紀美術館の開館に合わせて、半年の滞在制作プロジェクト「子供都市計画」を開始した時期だった。国立国際美術館のヤノベの展覧会を手伝った多くのIMIのメンバーがヤノベの滞在制作に帯同し、多田もそこに参加する。滞在制作とはいっても、単なるアーティスト・イン・レジデンスではなく、市民にひらかれたプログラムを毎月のように実施しており、多田もそこでさまざまな企画からマネジメントまでを担当した。

「マフラヴ・プロジェクト」(2005年)子供たちが編んだマフラーをつないだ巨大マフラーによって、金沢21世紀美術館を温めるプロジェクト。

なかでも、円形の金沢21世紀美術館を、マフラーでつないで取り囲むプロジェクトなどは、テレビでも取り上げられた。それ以外にも、ヤノベの作品「トらやん」をモチーフにした着ぐるみをつくったり、後にデザイナーとなる、原田祐馬とともにフリーペーパーを発行したり、地域住民を巻き込む多くのイベントを行った。多田がやったことは、今で言えば、アートラーニングプログラムに近いが、当時はほとんどなかった試みだった。

プロジェクトに参加したメンバーをヤノベケンジが撮影した集合写真。この写真が本をつくるきっかけとなった。実は大西麻貴もこの本を愛読していたという。

そこで多田は夢のような時間を過ごしたが、「この出来事を忘れられたくない」と強く思ったという。そこで原田とともに「子供都市計画」のドキュメントブックの企画書をつくり、出版の道を探った。そこで美術出版社を紹介してもらい、資金集めに奔走し、自分たちで編集やデザインを試行錯誤して出版にこぎつける。それが『ヤノベケンジ:ドキュメント子供都市計画』(美術出版社、2005年)である。右も左も知らない多田らの挑戦には、ヤノベの所属ギャラリーである山本現代(現・ANOMALY)の山本裕子が伴走し、惜しみないサポートやアドバイスがあったという。

『ヤノベケンジ:ドキュメント子供都市計画』(美術出版社、2005年)

それが多田にとっても、原田にとっても、初めての市販流通する商業出版物になった。そこで多田は、初めて編集費を得て、自分の活動が報酬となるという経験になった。この経験が、「編集者」として“遊び”と“仕事”に加えて、“学び”がゆるやかにつながっていく生き方の糸口になる。この頃から原田が2007年に設立するUMA/design farm【※4】と多田が設立するMUESUMの協働が始まる。

一見どう読んでいいかわからない「MUESUM(ムエスム)」は、MUSEUM(ミュージアム)のアナグラムになっている。MUESUMは、原田と多田が2005年に展覧会やトークイベントのための器として、同じくIMIの現代美術コースの講師であった椿昇と小沢剛を呼んだトークイベントを企画した際につくった屋号であるという。そこには「MUSEUMはかたちのあるものを収集・保存・提供するけど、私たちはその場で集めないと消えてしまうようなかたちのないもの(声や話など)を収集・保存・提供しよう」という意味が込められている。その後、多田が屋号を引き継ぐことになる。

事務所の窓からは中之島の東端である剣先が見える。春になると、大川の対岸にはいっせいに桜が咲くという。


多田はIMIに2年在籍し修了間際で、ヤノベがキュレーションしたKPOキリンプラザ大阪(2007年に閉館、翌年に解体)での榎忠の展覧会「その男、榎忠」をサポートする。榎忠は、本格的な美術教育を受けていない作家であったが、鴨井玲らと洋画研究所を開設。1977年には、頭髪から髭、陰毛まで半分剃ってハンガリーを訪問する《ハンガリー国へハンガリ(半刈り)で行く》などで知られた伝説的なアーティストだったが長らく忘れられていたといってよい。その後、再び脚光を浴び、多田らは2007年、森美術館でのグループ展「六本木クロッシング2007」や豊田市美術館で開催された篠原有司男との2人展「ギュウとチュウー篠原有司男と榎忠」の作品制作や設営、マネジメント、図録を制作し、榎忠の再評価に大きな役割を果たす(実はこの間、美術評論家・椹木野衣が榎忠をキュレーションした案で参加したヴェネチア・ビエンナーレのコンペに、多田と後述のarchventerとして活動していた原田と増井辰一郎もサポートしていたが残念ながら落選している)。

豊田市美術館「ギュウとチュウー篠原有司男と榎忠」展カタログ(Akio Nagasawa Publishing、2007年)

IMI修了後は、京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)に新設されたアートプロデュース学科内に併設された芸術編集研究センターに研究員として在籍し、編集者・クリエイティブ・ディレクターである後藤繁雄のもとで2年間勤務。広報誌の編集や展覧会のマネジメント、授業運営、学生が企画運営するギャラリーのサポートなどを担う。並行して前述の榎忠らの展覧会にも参加していた。その後、後藤の紹介で、後藤が編集者となるきっかけを与えた、光村推古書院の会長、サンリードの社長などの経営者であった古澤秀朗氏と出会う。

当時、多田は他から仕事の誘いもあったが、自分のやりたいこととの両立が難しいと考え、断っていた。古澤は、「やってみたいことあるんやったら、すぐにでもやってみい」と背中を後押しし、古澤と月に1回会って話すこと、光村推古書院に書籍の企画を提案すること以外は自由に活動できることを条件に就職。その間、古澤に自然な形で出版も含めた経営的な視点についても教わることができたという。

ヤノベケンジ『トらやんの世界 ラッキードラゴンのおはなし』(サンリード、2009年)

そこで編集事務所「Licht/alt」を構え、自身に依頼された編集の仕事をメインにしながら、光村推古書院の第三編集室として2年間、書籍企画を行い、山口晃の図録やヤノベケンジの絵本を編集した。多田は、古澤や後藤といった、京都の美術出版の文化を、身をもって継承したといってよいだろう。その後、大阪でデザイン事務所、UMA/design farmを立ち上げていた原田と拠点をともにし、編集事務所、MUESUMを本格的に始動する。

同じくIMIを修了し、大学時代は建築を専攻していた原田は、増井辰一郎(現・コダマシーン、キュレーター金澤韻と設立)と、archventer(アーキベンタ)というユニットを組み、建築とイベントを融合させた活動を行っていたが、徐々に自身の得意なデザインに力を入れるようになる。特に、原田の最も特徴的な点は、自ら出来事を起こすことができることだろう。「archventer」という名称も、物理的な建築ではなく、事をアーキテクチャするという意味が込められているが、その精神は継承されている。出来事を待つのではなく、自分たちで起こし、それを編集して、記録する。次第にそのような仕事のスタイルが出来上がっていった。

地域とグローバルをつなぐ、アーティストとデザイナーとの協働制作

原田と多田が、次に事を起こし、話題になったのは「DESIGNEAST」である。「DESIGNEAST」は、原田や多田に加えて、家成俊勝(dot architects共同主宰)、柳原照弘(TERUHIRO YANAGIHARA STUDIO代表)、水野大二郎(現・京都工芸繊維大学未来デザイン・工学機構教授)の5名によって企画・運営されたデザインイベントである。元々は原田、家成、柳原による私的な勉強会だったが、多田、水野を加えて、外に開いていくことを企図したものとなった。当時の彼らの問題意識は、大阪に事務所を構えながら、仕事はあまりなく、活動の多くが府外あるいは海外だったこと、大阪で世界の動向にも目を向けながら活動する意識のある仲間が少ないと感じていたことだった。だから、大阪で世界レベルの「デザインする状況をデザインする」ということをテーマにまずは、国際的な基準を知ることから始めようということで、世界的なデザイナーを招聘する事を試みた。「DESIGNEAST」と名付けたのは、大阪を東京から見た「関西」ではなく、国際的には「極東」に当たるからだ。そして、シンポジウムやワークショップ、マルシェ等を実施し、建築家やデザイナーが交流し、議論を深める事の場をデザインした。

CCOクリエイティブセンター大阪での「DESIGNEAST01」エンツォ・マーリのトーク(2010年)
[Photo:Takumi Ota]


2009年に開催された、第1回目(DESIGNEAST00)は、中之島BANKSの一角(後に中之島デザインミュージアム 「de sign de」が開館)で開催されたが、第2回目(DESIGNEAST01)【※5】以降は、おおさか創造千島財団が運営する、木津川河口域にあるCCOクリエイティブセンター大阪(旧・名村造船所跡地)で開催。世界的なデザイナー、エンツォ・マーリをはじめ、ナサニエル・コラム、ガブリエレ・ペッツィーニ、ジェセオク・イ(ジェスキ)など国際的な建築家、デザイナーを数多く招聘し大きな話題となった。その後、造船所のドックや木津川沿岸を望む旧製図棟でのさまざまイベントは、秋の風物詩となるくらい成長した。2016年には、その年、ターナー賞を受賞したアセンブル(Assemble)のメンバーを招聘している。

小さな勉強会から始まったイベントが、国際的に開かれると同時に、多くの学生ボランティアが参加し、若いデザイナーにも大きな影響を与えたことは特筆すべきだろう。5年目以降からは、3日のイベントを開催するための定期的なミーティングにも元学生ボランティアスタッフだった若者たちも参加しており、多田によると、それも含めて「みんなで学ぶ場であり運動体」であった。そして、DESIGNEASTに参加することは、若手デザイナーの目標にもなっていた。「DESIGNEAST」は、「10年ひと昔」という言葉から、10年続けて終了する期間限定のプロジェクトとして計画された。メンバーの私的な事情もあり8回で止まっているがすでに十分な成果が出ている。ただし、もう一度開催したいという想いもあるという。

『建築新人:建築新人戦オフィシャルブック』(建築新人戦実行委員会、2010〜2013)
[Photo : Natsumi Kinugasa]

「DESIGNEAST」は、多田や原田に多くの同世代の建築家やデザイナーとの出会いをもたらした。2010年には、その後、盟友となる建築家の大西麻貴と出会っている。当時、大西は、大阪アジア太平洋トレードセンター(ATC)で開催されていた、30歳以下の若手建築家7組による建築の展覧会「U-30」に出品しており、「DESIGNEAST」に遊びに来ていたのだ。その後、IMIの建築コースの講師でもあった竹山聖や遠藤秀平らも実行委員会になっている「建築新人戦実行委員会」の槻橋修(神戸大学)から依頼があり、『建築新人001:建築新人戦オフィシャルブック2010』(建築新人戦実行委員会 、2010年)を、多田と原田が制作を担当する。002号で、大西にインタビューすることをきっかけに関係が深まり、その後多くのプロジェクトを共同で手掛けるようになる。

「DESIGNEAST」の活動は、さまざまな形で波及していく。第2回目(DESIGNEAST01)に登壇した椿昇からは、京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)でともに教えていたこともあり声をかけられ、2013年には、瀬戸内国際芸術祭に参加することになる。実は、東日本大震災後、椿は小豆島町からサイン計画の相談を受け、多田や原田を誘って視察に行っており、リサーチの結果、「小豆島未来構想」という、小豆島自体をクリエイティブの力で、島の内外の人々を結び付けるプランを提案している。その後、瀬戸内国際芸術祭のディレクターである北川フラムから、椿が地域ディレクターとして依頼されたことを受け、「小豆島未来構想」を部分的に実現する形で、醤油の名産地「醤の郷」や坂手港を舞台に、「瀬戸内国際芸術祭2013 小豆島 醤の郷+坂手港プロジェクト」【※6】を実施する。多田や原田は、企画やマネジメント、アーティストやクリエイターの選定など全面的に参加した。

『Relational Tourism Photo Archives 2013.3.20 – 11.4』(小豆島町、2014年)

「観光から関係へーRelational Tourism」をテーマに、アート作品を探すスタンプラリーのような旅ではなく、その場所自体が、何度も通いたくなる目的地になることを目指して、ヤノベケンジのようなアーティストに加え、『わが星』で第54回岸田國士戯曲賞を受賞した劇団ままごと、設計だけではなく、施工や運営もDIYによって手掛けるドットアーキテクツ(dot architects)、衣食住をデザインする大阪のデザイン集団、graf、コンパクトデジカメIXYなども手掛けたプロダクトデザイナーの清水久和、ハコモノありきではない地域課題を住民と一緒に解決する「コミュニティ・デザイン」の概念を提唱した元ランドスケープ・デザイナーの山崎亮など多様な人材を招聘した。驚くことに、多くの参加者が10年が経過した今も、なんらかのかたちで小豆島との関わりがあり、当初の理念が実現されている。

同時に、UMA/design farmとMUESUMも旧農協の建物を改装し、作曲家やデザイナー、建築家、イラストレーターなど10組のクリエイターのための滞在制作スタジオ、クリエイターズ・イン・レジデンス「ei」を運営した。ここで重要なのは、短期的な滞在制作ではなく、できるだけ多くの視点を持つクリエイターを呼び、未来につながる地域の資源を発見してもらうことだった。彼らのプロジェクトは、地方芸術祭やコミュニティデザインの枠に収まらない、多様なクリエイターと住民、地域との協働と関係性の構築という点で新しいビジョンを提示している。それは金沢での滞在や「DESIGNEAST」での対話が活かされているだろう。このプロジェクトは、2013年度のグッドデザイン賞を受賞している。さらに、ここで行われた多くの出来事を記録し、『小豆島にみる日本の未来のつくり方』(誠文堂新光社、2015年)【※7】としてまとめた。まさに、「出来事からアーカイブまで」である。

『小豆島にみる日本の未来のつくり方』(誠文堂新光社、2015年)

瀬戸内国際芸術祭は3年に一度だが、2014年、2015年も小豆島町と引き続いてプロジェクトを実施し、3年後の「瀬戸内国際芸術祭2016」では、UMA/design farm + MUESUMメンバーが小豆島を見つめ直すために、春、夏、秋の会期中にパートナーを招聘し、滞在制作を行った。ここで注目すべきは「関係」が、人間だけではない生態系、環境にまで広がっていることだろう。特に春期では、山口情報芸術センター(YCAM)のバイオラボチームを招いて、地域の花や実、こけ、土などを採取し、酵母を培養するほか、食と微生物の関係について住民などに聞き取り調査を行った。夏会期には、建築グループdot architectsをパートナーに迎え、「海へのふるまい」をテーマに住民と海との関係を築き直す試みを行う。また、秋会期には、山伏の坂本大三郎を招聘し、山の持つ霊性をたどるため、残された物やフィールドワーク、文献調査を行い、山との関係を築き直す展示を行った。つまり、微生物、山、海といったミクロとマクロの複眼によって小豆島や人間の環境を編み直したのだ。

「DOCUMENT Artist in Residence Project at the Soy Sauce Warehouse」(小豆島町、2014年)

多田は、小豆島町のプロジェクトの継続や、山形県東根市にできる美術館と図書館の設計や20年の運営計画のプロポーザルに関わることをきっかけに、各地域の行政の委託でPFI事業や要求水準書の作成に関わることが増え、MUESUMの法人化に踏み切る。すでに9期(取材時)になり、片腕といってもよい永江大、鈴木瑠理子など、優秀な人材も育っている。興味深いのはいろんな機会を通じて、人材がMUESUMに集まっていることだ。それもまた事の編集といえるかもしれない。2010年代は、地方創生の機運も高まり、各地域での情報発信事業が増加しており、多田と原田はそのニーズをうまく掬い取っていくことになる。

後編に続く

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注釈

【※1】MUESUM 
(URL最終閲覧:2024年5月2日7時30分)

【※2】『paperC』 
(URL最終閲覧:2024年5月2日7時30分)

【※3】インターメディウム研究所(IMI) 
1996年にデジタル時代のバウハウスを目指して大阪・中津で創設された社会人向けのアートスクール。その後、南港、万博記念公園に移転。写真表現大学を主催していた写真家の畑祥雄が設立し、講座統括ディレクターに美術史家の伊藤俊治が就任。当時、新進気鋭であった椹木野衣、港千尋、畠山直哉、椿昇、ヤノベケンジら内外から評論家やアーティストが講師に集った。現在は、映像表現のアートスクール「Eスクール」として継承されている。

【※4】UMA / design farm 
(URL最終閲覧:2024年5月2日7時30分)

【※5】「DESIGNEAST01」 
(URL最終閲覧:2024年5月2日7時30分)

【※6】2013 グッドデザイン賞「瀬戸内国際芸術祭2013 小豆島 醤の郷+坂手港プロジェクト-観光から関係へ-
(URL最終閲覧:2024年5月2日7時30分)

【※7】椿昇・多田智美・原田祐馬編著『小豆島にみる日本の未来のつくり方 瀬戸内国際芸術祭2013 小豆島 醤の郷+坂手港プロジェクト「観光から関係へ」ドキュメント』(誠文堂新光社、2015)
 (URL最終閲覧:2024年5月2日7時30分)

INTERVIEWEE|多田智美(ただ ともみ)

編集者。株式会社MUESUM代表。株式会社どく社共同代表。1980年生まれ。龍谷大学文学部哲学科教育心理学専攻卒業後、彩都IMI大学院スクール修了。2004年編集事務所・MUESUM設立(2014年に法人化)、2021年に出版社・株式会社どく社設立。「出来事の創出からアーカイブまで」をテーマに、アートやデザイン、建築、福祉、地域にまつわるプロジェクトに携わり、紙やウェブの制作はもちろん、建築設計や企業理念構築、学びのプログラムづくりなど、多分野でのメディアづくりを手がける。京都精華大学非常勤講師。「瀬戸内国際芸術祭2013 小豆島 醤の郷+坂手港プロジェクトー-観光から関係へー-」の共同ディレクター(グッドデザイン賞受賞)、「第18回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展」の共同ディレクターを務めた。共著に『小豆島にみる日本の未来のつくり方』(誠文堂新光社、2014年)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社、2018年)など。

INTERVIEWER|三木 学(みき まなぶ)

文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。
アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人。
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。
美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。