WEBメディアが実空間で「問い」を共有し、集まった人たちと対話を通して、言論空間を創造する、+5メディアプログラム。2024年7月に開催したvol. 2では「音の書きかた」と題し、音楽領域のアートネイバーと共に聴覚から入ってくる情報をどう形づくり、言語に落とし込めるのかという問いを、参加者と共有しながら対話を重ねた。
今回は当日のゲストでもあり、音楽ライターの桒田萌(くわだもえ)さんに、日常感じている疑問や考えなどと共に、同プログラムを振り返っていただいた。
(+5編集部)
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たとえば、ある音楽を聴いて、「これはいいぞ」と感じる。もしくは、ある音を聴いて、耳にこびりついて離れない。反射的かつ本能的に心が揺さぶられ、一旦時間を置いて、その感動や刺激を振り返りながら、理性的に「どうして心が揺さぶられたのか」「どうしていいと思ったのか」を言葉にしようとする人は多いのではないだろうか。
その音や音楽の特性や、それに触れた自分の感情を言葉で形容することで、自分の心が震えた理由が見つかるかもしれないからだ。しかし、そう簡単にピッタリあてはまる言葉は見つからない。「きれい」「切ない」「悲しい」などの簡易的な表現は浮かぶが、本当にその言葉が合致しているのか、その言葉にこの大きな感動や刺激を小さく落とし込んでもいいのか、迷ってしまう。
一方で、自分がしっくり合う言葉を見つけることができたときの喜びも大きい。なぜなら、言葉にすることでその音や音楽に対して抱いた感情を温存させることができ、さらに音が言語に置き換わることで、新たな味わいも生まれる。言語に変換することは、音から得た感動を増幅する可能性を秘めている。だから、言葉探しはやめられない。
私は「音楽ライター」という肩書きを名乗って久しいけれども、いまだに言葉を探すアプローチには迷いが尽きないし、現在進行形でその方法を試行錯誤し続けている。原稿を書いてギャランティをもらっている立場でありながら、プロになる前から「本当にこの言葉でいいのだろうか」という悩みは変わらず持ち続けているわけだ。
そんなとき、+5 メディアプログラム vol. 2 「音の書きかた」への登壇のご依頼を受けた。「あの音って、何だったんだろう。それを言葉にする方法を、参加者の皆さんと一緒に探したい」。そんなふうにご依頼を受け、快くお話を引き受けた。何より私も、これまでの試行錯誤してきた経験を棚卸しし、そして参加者の皆さんからいただく新たな視点で、言葉にする方法を新たに得ることができるのではないか――そう思ったから。
今回、一緒に登壇をしたのは、チェロ奏者の鈴木知聖さん。音楽を言葉にすることが主たる営みである私とは違い、私が言葉で形容したいと思う音楽そのものを生み出し、奏でる立場だ。そんな演奏者が、音や言葉についてどんなふうに考えているのか。まったく異なる立場から、+5編集長・桐惇史さんのナビゲートで話を展開していった。
トークプログラムでは、まず桐さんからイベントの概要と、音とは何かという抽象的かつ学術的なイントロダクションが入り、その後、鈴木さんと私の自己紹介からトークが始まった。
鈴木さんは、大阪音楽大学を卒業後、現在はクラシックだけでなく、ジャズやポップスなどのジャンルで、舞台やレコーディング、音楽番組などで幅広く活躍している。「チェロ=クラシック音楽」と思う人も多いであろうし、実際にチェリストの中にはクラシックの舞台を中心に音楽活動を行なっている人はたくさんいるため、鈴木さんのようにジャンルレスに演奏を行なっているアーティストは貴重である。
さらに鈴木さんが稀有なのが、即興演奏も得意としている点。そもそもクラシック音楽は、アドリブ勝負であるジャズとは違い、何十年〜何百年も前に作曲家が残した楽譜があることが前提であり、それを忠実に演奏する音楽スタイルともいえる。そのため、演奏者全員が作曲をしたり、即興的に演奏したりできるわけではない。特定のテーマやコンセプトに沿って、音を頭の中で思い描く。そのプロセスにおいて、思考や言葉を抽出する作業が必要であることは言うまでもない。それは、演奏者誰しもが簡単にできることではないのだ。
一方で私は、音楽ライターを名乗っている。元々は音楽系の高校と大学でクラシック音楽を専攻し、かつてはピアノを専門としていた時期もあり、おこがましくもかつては鈴木さんと同じく「音を生み出す側」の人間だった。しかし、思い描いた音を出せないもどかしさを覚えると同時に、音楽を言葉で表現する楽しさを知ったことで、音楽ライターを目指すように。現在では、出版社やレコード会社などが発行している雑誌やWebメディア、関西の音楽ホールが制作している広報誌などで、アーティストにインタビューしたり、コラムを書いたりしている。
インタビューをしたり、誰かアーティストの音楽を記事として言語化したりするのは、難しい営みでもある。アーティストが創造力をこめて生み出す音を、簡単に言葉に落とし込むことに対してナンセンスさを覚えることすらある。それでも、書き手である私だけでなく、その音を知りたい・近づきたいと思う読者や聴き手が、記事の向こうにはいる。だからこそ、自分のナンセンスさを痛感しながらも書くことを諦めないのだ。そしてそこを乗り越え、読者とアーティストがリンクする瞬間に、音楽ライターとしてのやりがいを感じている。
自己紹介後、まず桐さんから私に、「ライターとしていつも、音をどのように捉えようとしているか。またそのための下調べをする場合、どんなことを行なっているか」という問いが投げかけられた。
音を言葉にするには、ただ心の内から湧き上がってきた感情だけを道標にするのはいささか頼りない。音楽に限らず、多くのライターは取材や原稿執筆の前に下調べを行うはずであり、演奏家も同じく作品を演奏したり生み出したりする際に、音に出力するための情報を得る必要があるだろう。私は、自身が言語化するまでのプロセスを思い出しながら、以下のように答えた。
「たとえば、とあるアーティストについて記事を書く場合、まずは過去に残してきた音源を聴くだけでなく、彼・彼女がどんなことをおこなってきたのかを調べます。経歴に加え、どんなレコーディングをしてきて、どんなジャンルの作曲家や作品を中心に取り組んできたのか【※1】、どんなアーティストとコラボレーションをしてきたのか。しかしこれらは、記録としての事実に過ぎず、アーティストの考えていることを探るために、過去のインタビューや発言、文章などには基本すべて目を通します。また、演奏作品の詳細情報も手がかりになるので、それに関する書籍を読むこともします。
それらをすべて自分の中に落とし込み、言葉にできるという確信を付けてから、改めて言語化の作業に入っていきます。取材で実際にアーティストに話を聞ける場合、下調べの時点で腑に落ちなかった部分をクリアにできる時間こそがインタビューになります。そうして素材を集めることから、徐々に言葉にしていきます」
つまり、拾える情報はすべて拾った上でアーティストの全貌を知ってから、取材や執筆に取り掛かっていく。どんなパターンでも、まずは頭と耳を使いながらその人と音楽を噛み砕くことが、テキストにするために必要なことだと考える。
一方で、自ら即興演奏をしたり、音づくりを行う鈴木さんは、音を作るプロセスとしてどのようなことを行っているのか、桐さんから同様に質問が投げかけられた。
鈴木「音をつくる前に、まずはごちゃごちゃと自分の中で考えてみたり、その企画のディレクター的な立場の人とコミュニケーションを取ったりすることが多いです。音を作った後になんとか自分で説明づけるということはなく、すべて演奏や作曲の前に自分の中で方向性を固めていきます」
クラシックだけでなく、さまざまなジャンルに精通しているのが鈴木さんの強みでもある。その豊かな土壌はどんなインプットから育まれたのかと桐さんが聞くと、鈴木さんは以下のように回答していた。
鈴木「元々、クラシックだけを聴いてきたわけではなく、ジャズやポップス、洋楽も、たくさん聴いてきたのが大きいです。ジャンルという枠組みではなく、きっと自分の中で好きになる共通点があるんだと思います。そうやって聴いたり触れたり演奏していると、自ずと自分のやりたい音楽が集まってくるイメージですね。その経験が、いまの音楽活動をかたちづくっているとも思います」
とはいえ、音楽をかたちにしたり、言葉にしたりするには、情報を集めるだけではなく、本来の自分が持っている感性や感覚を育てる作業も必要になる。
桐さんは普段、自分の感性を広げるために、外出先や旅先でサウンドレコーディングをしているそう。レコーダーを持ち歩き、カフェテリアや川沿い、列車の中などで音を録る習慣をつけることで、常に聴覚を鋭敏にする。
また鈴木さんも、自分の感覚を育てるべく、「騒音のある場所にあえて行かないようにする」と話していた。自分の耳をよい状態に保つために、普段の日常では静かな場所にいることを心がけているそう。
鈴木「エアコンや電車など、騒音に溢れる場所にいるよりも、できるだけ静かな場所に身を置きたいなと思っていて。たとえば、スピーカーの音をすごく大きくしなければ細部まで音を捉えられないのではなく、自然な状態で繊細な音や小さな音色もキャッチできる耳を保ちたい。静かな状態で自然と聴こえてくる音こそ、自分にとって心地の良い音なんです」
ピンときた音をレコーディングしたり、もしくはあえて感覚を研ぎ澄ませる場所にいたりすることで、自分にとって本当に大切な音がわかる。一方で私は、「あまり良いと思わない音も、あえて聴く」ことが自分の感性を広げる方法だと答えた。たとえば、あるクラシックの作品をさまざまな音楽家の演奏で聴きたいと思ったとき、お手本となる演奏や、そのジャンルの王道とされるレコーディングを聴くだけでなく、あえて固定観念から外れているものや、「どうしてそうなるの?」と疑問に思うものを聴くのである。
自分が「ん?」と感じる演奏ほど、いきなりそれを「ありえない」と決めつけるのはエゴであり断罪的だと思っている。自分はどうして疑問を抱いたのか、どうしてそのアーティストはそのアプローチで演奏せざるを得なかったのか、自分の中で考えを深めるだけでなく、文献や録音など、そのアーティストがこれまで行ってきた演奏方法を探る。すると新たな発見があり、思考の引き出しが増えてまだ見ぬ「言葉」につながるかもしれないと思っている。
自分が気になる音を記録に残したり、むしろ静かな空間に身を置くことで大切な音が見えてきたり、自分にとって未知の音をあえて探しにいったり……。三者三様のアプローチが見えてきたが、それもまた、音を言語にするための「取材」であるともいえる。
音を言葉にするための基本について語らったところで、この日の目玉である鈴木さんの即興演奏が始まろうとしていた。鈴木さんがその場限りでインプロヴィゼーション的に生み出した音楽に対して、参加者たちがそれぞれに言葉にしていく時間だ。
その前に、桐さんはまずはウォーミングアップとして、名前を伏せてある曲を聴かせた。
5分ほど音楽を聴いた後、「どんな音楽に聴こえたか」と問いを投げられた参加者からは、「下降しているよりも、上昇しているイメージ」「まるで軍隊のよう」「戦果を上げたときの音楽に聴こえる」「アフリカにあるような大自然を想像した。トランペットが鮮やかな太陽のように聴こえる」といった言葉が並んだ。
ここでネタばらしをすると、流されたのは、ヤナーチェク作曲の《シンフォニエッタ》より第一楽章〈ファンファーレ〉だった。この作品は、金管楽器を中心とした編成で演奏されていて、ヤナーチェクが陸軍に捧げたファンファーレ作品である。前情報なしで言語化してみると、それぞれの解釈や言葉が作品のもつ意図と遠くないことがわかる。
桐さんがこの音楽を選んだのは、村上春樹が自著『1Q84』の冒頭でこれを引用しており、主人公の思考を通して音が言語化されていたからだ。小説家は主人公の現在の思考、音を聞いている環境、歴史など様々なものと音の情報を繋げて言語化していた。実際に該当する文章を引用しながら、参加者が音楽と言葉をリンクさせる感覚を味わうというウォーミングアップを行った。
鈴木さんの即興演奏について触れる前に、彼女が扱うチェロとはどんな楽器なのかを簡単に説明しよう。
チェロは、楽器本体に弦が張られ、それが摩擦されることによって音の出る「弦楽器」だ。ギターやハープのように指などで弦を弾く「撥弦楽器(はつげんがっき)」ではなく、弓を用いで弦を擦ることで音が鳴る。弦楽器には、たとえばオーケストラの中でも主役を張ることの多いヴァイオリンや、もう少し低い音域であるヴィオラ、また最低音を奏でるコントラバスなどがある。その中でもチェロは中低音を担い、オーケストラになれば合奏全体を低音から支えることもあり、「ここぞ」というときに美しいメロディで主役を担うことも多く、聴きどころの多い楽器だ。
音楽に親しむ人々の間ではよく言われていることではあるが、チェロは人の歌声に似ている。音域も人の声と重なるし、弓の伸びやかなコントロールによって有機的に歌うことができるから、表情を作り出しやすい。
鈴木さんの即興演奏では、テーマはあえて設けず、連作として2曲を演奏してくれた(ちなみに、本来は1曲のみの演奏のはずだった。が、1曲目の演奏を終えた後、桐さんの機転の利いたリクエストで、「続きも演奏できますか」と急遽もう1曲が追加されたのだった)。私を含めて参加者は、音楽を聴きながら鉛筆を持ち、事前に配られた白い紙に感じた事柄や、浮かんできた言葉を書き出す。演奏を終えてしばらくして、桐さんから話を向けられた参加者たちが言葉を発表する、という流れだった。
実際にどんな演奏だったのか――それは、参加者たちが音楽に対してつけた実際の「言葉」から想像してもらいたい。
「まるで、夕方の雨のよう」「いや、自分は夕日の色を想像した」「1曲目はナーバスなイメージで、2曲目はより内省的に聴こえた」「すごく歌うんだな、と思った。音が時間を司っている印象。後半は内面的な葛藤がグッと出てきたようだった」等々。
これらは、その場にいた参加者を含め、全員がそれぞれの耳で鈴木さんの演奏を聴いたことだと思う。特定のテーマやコンセプトを設けずに生まれた即興演奏だったということもあり、言葉をする上で厳密なルールや正解があるわけではない。一案として、私が言葉にするために注目したポイントを紹介しておきたい。
・キー(メジャーなのか、マイナーなのか)
・テンポ(速いのか、ゆっくりなのか、もしくは中庸なのか)
・旋律や演奏のニュアンスから、どんな表情が垣間見られるか
・音楽は全体的にどんなふうに展開したのか
・それによって音楽がどんな意味を持つのか
・それに伴い、自分がどう感じたのか
後に、鈴木さんは演奏時に意識していたことについて、「特に何かを考えているわけではなかった」ことを踏まえた上で、「でも、チェロの良さが伝わるように、すべての弦をまんべんなく弾けるような音楽にした」とのことだった。おもむろにコードを鳴らすわけでもなく、何か特定の事柄を強く意識するわけでもなく、思うがままに旋律を紡いでいくイメージ。また、鈴木さん自身のリアルタイムの緊張が、音楽をより感情的な形に出力されていたのかもしれない、とも本人は語っていた。
鈴木さんの生まれた音楽に真摯に向き合う参加者の姿勢からは、音楽を言葉にすることに対して強いアンテナを持つ人々が集まったのだ、と感じさせられた。それぞれの言葉に嘘がなく、ためらわずに言語化していく。音楽に向き合い、誠実に言葉にする。それこそが、音楽や音を言葉にする上で大切な姿勢であり力なのではないかと、改めて考えさせられるのであった。
このイベントには、鈴木さんのような演奏者や、私のような音楽ライターに限らず、実際に仕事の観点から音楽に関わっている人や、普段から音楽を愛していて純粋に言葉にすることを模索したいと思う人が多く集まっていた。
実際に演奏を聴きながら、言葉にする参加者の皆さんを目の当たりにし、実際に言葉に触れることで、私の「音の書きかた」はさらに試行錯誤の段階に入ったと思う。しかし、だからといってさらに混迷状態になってしまったわけではなく、新たな視点を得ることで、自分の中の言語化へのヒントや柱を得られた気すらしている。
「音の書きかた」に、正解はない。ただし、何かを書くために、対象となる音や音楽を「知りたい」と思う欲を全開にし、常に自分の感性を育て続けることが大切であろう。書きかたに迷いが生じるのもまた、言葉にしていくために欠かせないプロセスであり、そんな中でも真摯に音や音楽に向き合っていくことが、書き手に必要な力なのだと考えさせられた。これからも、あらゆる音や筆の担い手とともに、迷いに迷いながら言葉を紡いでいきたいと思う。
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メディアをひらく
+5(plus five)メディアプログラム とは、WEBメディアが実空間で「問い」を共有し、リアルな対話を通して、言論空間を創造するプログラムです。パネルディスカッションやワークショップ形式で、年に2回、開催しています。メディアの抱える問いを、アートネイバー、参加者と共に対話をしながら考え直していきます。地域で活動する人々や未来のアートネイバーはもちろん、普段は顔の見えない+5の読者を集め、イベントを起点に新たな対話が広がることを目的とします。
関連情報
鈴木知聖(すずき ちさと)
チェロ奏者としてクラシックをベースにポップス、現代音楽、舞台芸術への参加など、様式にとらわれない音楽活動を行う。オーケストラ客員をはじめ、スタジオミュージシャンとしての活動や、様々なアーティストとのコラボレーションでチェロの可能性を探求している。
+5メディアプログラムvol. 1のレポートは以下。
『どこまでも考え続ける行為――+5 メディアプログラム vol. 1 「編集のスキマ」レポート』
注釈
【※1】クラシックの場合、「ここ数年はバッハのソナタに注力していて、レコーディングやコンサートもそれ一式」「数年後のショパンコンクールに向けて、ショパンばっかり取り組んでいる」といったように、どの作曲家や作品に注力しているかを確かめることで、近年の活動を追うことができ、且つ演奏家の注力ポイントを探ることができる。
音楽ライター
大阪生まれの編集者/ライター。夕陽丘高校音楽科ピアノ専攻、京都市立芸術大学音楽学専攻を卒業。在学中にクラシック音楽のジャンルで取材・執筆を開始。現在は企業オウンドメディアの編集・制作を行いながら、音楽雑誌や音楽系Webメディア、音楽ホールの広報誌などで、アーティストインタビューやコラムの執筆を行っている。