選択するコラボレーション 出会いの循環作用から考えるアートフェア 前編

選択するコラボレーション 出会いの循環作用から考えるアートフェア 前編

アートディレクター|金島隆弘
2022.03.18
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アート市場の活性化に大きく寄与するアートフェア。そこは作品売買のためだけの場所ではなく、自国のアートを国内外にアピールする場でもあり、業界のホットな情報を得る場でもあり、多くの繋がりが生まれる場所でもある。

コロナ禍に入り、人との繋がりに対して再考する機会が増えたが、それまで繋がりを意識的に作っていくことに、我々は日々、どれだけ敏感になれていただろうか。「出会えてしまう」現代の中で、繋がりの数を増やすことそれ自体は難しくなくなったが、その太さや強度は随分頼りないものになってしまっているのかもしれない。

そういった繋がりを意識的に作り、アート市場に広げてきたのは、多くのアートフェアのディレクターを歴任してきた、金島 隆弘(かねしま たかひろ)さんである。

今回の記事では金島さんがどのような考えでアートフェアを作ってこられたのかを見ながら、アートと人の出会いや繋がりについて考えていきたい。

前後編となる本記事の前編では、金島さんの北京、東京での就業経験からアートフェアとその作り方について紹介していく。

金島 隆弘さん


北京|アートの循環の中へ

――金島さんがアートに関わるようになったきっかけから教えていただけますか?

金島:昔からアートには興味があったのですが、きっかけは私が大学院(慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス)にいた頃、南條史生さんが授業を持たれていたときがありました。この授業に限らず、講義でアーティストがキャンパスにくる機会が結構多くあった時期で。当時、南條さんは横浜トリエンナーレの第1回目のキュレーターのひとりだったんですが、学生ボランティアを募集していたので応募して、南條チームにボランティアで入ることができました。だから南條さんと横浜トリエンナーレが、現代アートと関わることになった大きなきっかけですね。2001年当時、まだ国際展が日本でもほとんどないときに、かなり大きな予算規模で準備されていて、国際展を初めて肌で感じることができました。


――金島さんはボランティアとして、どのようなことを担当されていたのですか?

金島:私は海外アーティストの作品の設営、特に技術面でのサポートを担当しました。その頃ちょうどPCやプロジェクターがちょっとずつ出始めていたんですが、アート系の人たちは基本機械音痴でしたから、私は大学での知識を活かしながら、テクニカルの部分から海外アーティストのサポートをしていました。


――貴重な経験だったんですね。金島さんはその後一般企業に就職されましたが、アート方面に最初から行こうとは思わなかったんですか?

金島:はい。実際に横浜トリエンナーレに参加したのはとても良い経験でしたが、大学院を修了したときに、アートの仕事で食べていくリアリティがなかなか湧かなくて。日本の企業に就職することになりました。大学院時代、フィンランドのタンペレという街で、NOKIA社のインターンシッププログラムに参加していたのですが、そのときに現地で縁あってお会いした唯一の日本人が東芝の方で、帰国して連絡したら面接してくださったんですよ。それでそのまま(笑)。だから就職先としては東芝が最初ですね。


――それはすごい縁ですね。東芝ではどんなことをされていたんでしょう。

金島:東芝では海外市場向けノートPCの商品企画を担当していました。東芝に入って3年ほど働いて、自分が担当したPCが世に出て、評価もいただきました。やりがいもあったのですが、そこで長く働くイメージが湧かず、アートにもずっと興味があったので退職しました。その後、実は半年間、NOKIAでアルバイトをしていて、そのまま就職するという話もあったんですけど、ポジションの関係で半年くらい待機していたタイミングで、東京画廊+BTAPを紹介いただきました。


――ご紹介はどなたから?

金島:よしだ ぎょうこさんです。大学院のとき、実験的に行われた美術系の授業に講師でいらしていたんです。東京画廊+BTAPに所属されているアーティストで、今は金沢美術工芸大学で教鞭をとられています。

それでアルバイトとして入ったのですが、北京のギャラリーをオープンされた田畑 幸人さんに「今北京が面白いから」って言われて連れて行ってもらい、北京のスケール感に圧倒されました。


――では本格的に社員としてご就職されるときは北京でされたんですか?

金島:はい。最初銀座で3ヶ月くらい働いた後に北京での勤務がスタートしました。「就職できるのであれば、北京で働かせてもらいたい」って。中国語、喋れないのにね(笑)。NOKIAへの就職も頭をよぎりましたが、アートが好きだったし、北京にもかなり興味が湧いていたので、北京にいく道を選択しました。


――当時はちょうど、中国のアート市場が盛り上がってきている頃ですよね。

金島:そうですね。ちょうど北京オリンピックの2~3年前なんですよ。今でも僕の知り合いの中国人の方の多くに、あの頃の北京がいちばん面白かったって言われます。当時北京はいろんな意味で話題になっていて、都市全体が盛り上がっていて、いろんな人が北京に来ました。アート関係者ももちろん数多くいらしたんですが、アートの仕事をしている日本人がほとんどいなかったので、私が北京を案内する機会も多くて。そんなことを3年ほど続けて、今のアートの仕事に関わるネットワークの基礎ができたんです。今でも親交のある小崎 哲哉さんともそのときにお会いしていますし、森ビルの故森 稔社長や南條 史生さん、片岡 真美さんや建畠 晢さんなど、今日のアート業界の重鎮の方々が続々と北京にいらっしゃったんです。

金島さんが当時働かれていた、798芸術地区にある東京画廊+BTAP


――すごいですね。当時、中国のアートマーケットはどのような感じだったんでしょう。

金島:もうとにかく作品の値段がどんどん上がっていて。1年で倍とか、数年で桁が大きく変わるとか、そういうことが普通に起こっていました。自分はサラリーマン出身でしたから、アート業界のそういう状況がよくわかっていませんでした。日本でもバブルの頃はそういうものがあったみたいですけれど、その経験もないですし。だからマーケットのことはともかく、目の前にいる人たちとの交流を楽しみながら仕事をさせてもらっていました。

東京画廊+BTAPとして、アジアだけではなくヨーロッパやオーストラリアなど、世界中のアートフェアにも出展しましたね。そういった中でアートのダイナミズムというものを、社長に教えてもらいました。フェア中もブースを案内してもらっていろいろ教えてもらいましたし、現場でアートのいろいろなことを指導いただきましたね。


――グローバルな環境でアートの素養を身につけたというのは、金島さんの中で大きなことだったんでしょうね。中国と日本のマーケットの違いみたいなものはありますか?

金島:中国は人口も日本の10倍で、規模も違いますから大きな傾向というのは一概に言い難いんですけど、まず違うなと思うのは、アーティストが若手の作品を積極的に買うことです。要は現代アートの中で先輩が後輩を支えるという意識が強いんです。そこにコレクターも入って、マーケットを自分たちで作っていく。関わる人や買う人が増えていくとマーケットも醸成され、アートの価値が生まれてきますが、その価値をみんなで作ろうとしているのを感じていました。

私たちも海外により認知してもらうためには、こういった商人精神のようなものも必要なのかもしれません。もちろんいやらしい部分もあるんですけれど、生きていくということはこういうことだと、中国で実感できました。


――マーケットの中の人たちが皆、大きい循環の中にいるっていう意識を持っているんですね。

金島:そうですね。本当に極端に言えば、アーティストはお金がなくても、制作できる環境があれば良いから、その中で支えあうという意識は強かったです。みんなで集まってご飯を食べて、絵を描いて、売れた作家は若いこれからの作家を支える。今はだいぶ変わっているかもしれないですが、僕がいたときはそういう傾向が強かった気がします。



東京|アートフェアを作ること

――東京画廊+BTAPでのご経験のあと、フリーで活動することを決断されたのはどうしてですか?

金島:ちょうどオリンピックが終わって、日本に戻ることになったのですが、自分としては北京でようやくいろんなことがわかってきたところだったので、もう少し中国にいたいという心残りがありました。悩みましたがフリーになる道を選んだんです。当時まだ20代後半だったんですけど、飢え死にしなければ良いという気持ちで。北京で知り合ったアート関係の方々に連絡をとりながら仕事をさせてもらい、東京画廊+BTAPを離れてすぐは、美麗新世界【1】という国際交流基金が北京で実施した展覧会のお手伝いをしました。

北京以外の仕事では、韓国での国際展の設営サポートをしたり、台湾で友人が立ち上げたギャラリーでの展覧会の企画などをしていましたね。アジアといっても北京しか知らなかったので、北京以外のアジアにも積極的に足を運んで、実際の活動を通じて現地を理解しようとしました。その後、実家のある横浜のZAIMというところに小さな事務所を構えたのですが、正式にはそこがフリーになっての最初の拠点です。

アート北京でのパプリックアートプログラムで実現した金氏徹平の大型作品の前で


――その時、肩書きとしてはどのように名乗っておられたんですか?

金島:FEC(Far East Contemporaries)という個人事業の屋号で活動していましたが、仕事はプロジェクトごとに色々なので、決まった肩書きはありませんでした。立ち上げの頃、ちょうど横浜市が北京市との現代アートによる交流事業を始めたので、中国人アーティストを横浜に招聘するアーティストインレジデンスのプログラムを毎年担当させてもらいました。他にはアジアのいろいろな都市に行って、プロジェクト単位で仕事をさせてもらったり。あのときは先のことをあまり考えず、とにかくやりたいことがあるところに飛び込んで行きましたね。20代でうまくいかなければ30代で考えようって感じでした。


――そのままいくと中国で働かれるのかなという感じを受けますが、どうして日本のマーケットで活動することにされたんでしょうか。

金島:当時はFECの仕事と、小崎 哲哉さんにお世話になりながら、ART iTの中国部門を担当して計2年ほど続けていたのですが、事務所を移転するタイミングで突然、辛 美沙さんから連絡を受けました。私が担当する前のアートフェア東京のディレクターです。次のアートフェア東京のディレクターを探しておられて、声をかけてくださったんです。

私はアートフェアの経験も全然ないし、どちらかというとアーティスト側に立って仕事をすることに興味があったんですが、アートをマーケットの側面から理解できる良い機会かと思い、引き受けました。それが2010年ですね。


――実際に関わられてみてどうでした?

金島:大変でしたね、特に最初は。2010年からディレクターとなって、1回目の開催が2011年の3月だったんですが、東日本大震災が直前に起こってしまって。初めての開催でよくわからない中で震災が起こったので、動揺しながらも必死だったことを覚えています。結局会場が避難場所に指定されたため、2011年の開催は夏に延期となりました。次の年からはまた3月開催に戻ったので、1年で3回フェアをやったようなものだと言われました。大変でしたが、よほどのことがないかぎり怖くなくなったというか。事務局もたくましくなって、良いチームができて。


――当時はまだお若いですよね。一緒に仕事をしている人は逆にベテランの人たちだったんじゃないですか。

金島:そうですね、私はディレクターだったんですが、まだ33、4歳くらいだったので、コミッティは年上ばかりでベテランの方がメンバーでした。皆さんに支えていただきながら、自分は自分なりにできることを考え、やりたいことを少しずつ実験しながら業務をさせてもらう感じでした。

アートフェア東京は、NICAF【2】という現代アートのフェアが前身です。横浜で開催されていたんですが、当時のマーケットの状況など、様々な理由で続けることが困難になって、古美術や近代美術などにも出展いただくことでアートフェア東京として続いています。なので本当にいろんなジャンルの作品を観ることができますが、ある種東京という街を表すフェアだと捉えて、東京でないとできないことは何かをずっと考えながら、毎年新しいセクションをひとつずつ増やしていったんです。あとは海外の方にコミッティとして入っていただいたりとか。


――金島さんの作るアートフェアの中身は、実験的なものも多いように思います。

金島:やらなければいけないことだけをやっていると、自分が何のためにやっているかわからなくなりますから。そういった意識を持ちながら、アートフェア東京のときも様々な挑戦をさせてもらいました。例えば1年目はアーティスティック・プラクティス【3】というアーティストが実験するというセクションを設けて、アーティストの高嶺 格さんと篠田 太郎さんの作品を展示したりとか、2年目はアジアの現代アートを日本に紹介していこうという観点で、中国や韓国、台湾のギャラリーが出展するディスカバー・アジア【4】というゾーンを提案したり。3年目からは、工芸やジュエリーなどの応用美術をアートの文脈で見せるというトウキョウ・リミテッド【5】というセクションを作ったりとかですね。東京でないとできないことを積極的に少しずつ取り入れながら、気がつくと6年経っていました。また、私が入った1回目のタイミングからドイツ銀行にメインスポンサーとして支援をいただいたこともあり、2年目からは今のアートフェア東京の面積まで、約2倍にスペースを広げることができました。その中で現代アートと古美術、近代のセクションをゾーニングしたり、多様なアートをわかりやすく、そして体系的にアクセスできるよう工夫をしました。


――それまでは対アーティスト、対顧客というように1:1の視点でアートに関わられていたと思います。それがアートフェアを通して一気に多視点へと広がったと思いますが、そこでの違和感や当時感じられたことなどありますか?

金島:まずアート関係者以外の人とのコミュニケーションが増えました。その方々の多くは、アートフェアはもちろん、現代アートをこれから知ろうとされる方々ですので、現代アートはまだ理解されていないものだという視点でコミュニケーションをするようになりましたね。それは自分にとってはとても新鮮で良い経験で、社会においてアートはまだまだ規模の小さな産業のひとつであるという感覚を持ったことを覚えています。


――アートフェアの役割みたいなものを、金島さんはどのようにお考えですか?

金島:まずアートをこれから知ろうとする人たちの入口として、重要な機会だと考えています。例えば最近、ビジネスパーソンでアートに興味を持つ人も増えていますが、時間のない彼らにとって、アートフェアは非常に有用です。1日で100軒以上のギャラリーを一気に見れますし、その中で気の合うギャラリストや作品と出会う機会もあります。一堂に多くの出会いの機会を作ることは、アートフェア特有の役割だと思います。また、アートが元々好きな人も、違う側面からアートを見る機会になり、経済的な側面でもそうですし、地域性という観点でも興味深いと思います。


――日本はもちろん、アジアのアートフェアのありようは、この10年で色々と変化してきたと思いますがいかがでしょうか。

金島:そうですね。私がアートフェア東京のディレクターを担当したときは、まだ香港のバーゼルもなかったんです。いちばん歴史が長いアートフェアはアート台北だったり、韓国のKiaf【6】も歴史がありますが、バーゼルが香港にきて、状況がガラッと変わったと思います。それまではアジア独自のフェアしかなく、グローバルの流れに乗る場合は、欧米に行かないといけない時代だったんですけれど、香港に行けば欧米に行かなくても、世界のアートシーンを知ることができる状況になったのはすごく大きくて。逆に言えばそういう状況の中で日本は、バーゼルにできないことをやるべきではないかと考えていました。日本は、海外と比べるとマーケットの規模は小さいので、必然的にその中で実行できるフェアという形にはなりますが、その規模だからこそ作れるフェアというものもあります。


――金島さんがアートフェアを作られる際に、意識されていることなどはありますか?

金島:私はとにかく良いチームを作ることを意識しています。ひとりだけの力では、良いフェアは絶対できません。どういう人がどう関わって、どういうシステムができて、どのようなフェアになり得るかということをまずは真剣に考えます。日本では欧米のようなダイナミックなフェアを作ることはまだ難しいのが現状かもしれません。ですが、欧米ではできない、より個性的なフェアを作りたいという人たちの気持ちが揃い、同じ方向を向いて頑張ることができるチームになれば、できるかもしれない。そのひとつの形がACKだったのかもしれません。

アート北京の入り口


前編に登場した、金島さんがディレクターを務めたアートフェア

アートフェア東京

ART BEIJING(アート北京)

注釈
【1】美麗新世界:当代日本視覚文化

【2】NICAF

正式名称は、「国際コンテンポラリー・アートフェアNICAF YOKOHAMA’92」。
1992年に横浜のパシフィコ横浜を会場に開催された、国内最初のアートフェア。海外16カ国41、国内51のギャラリーが参加し、約1500点の現代美術作品が展示された。第8回まで開催され、閉幕した。

【4】アーティスティック・プラクティス

2015年のArt Annual onlineのインタビュー記事で、金島さんが同プロジェクトについて語っている。

【4】ディスカバー・アジア

アートフェア東京2012から特別企画として打ち出された。東アジアの現代アートを紹介し、好評を博した。

【5】トウキョウ・リミテッド

アートフェア東京2013の特別企画として打ち出された。金島さんが記事内であげた工芸、ジュエリーに加え、ファッションやヴィンテージフォトグラフィーなど、これまでのファインアートには収まりきらなかったジャンルをフィーチャーした。それらの表現としての価値をアートの文脈で再考し、アートの新たな可能性を探るプログラムとなった。

【6】Kiaf

韓国最大級の国際アートフェアとして知られる。韓国で最初に生まれた国際アートフェアであり、2002年から約20年続いている。



INTERVIWEE|金島 隆弘(かねしま たかひろ)

東京画廊+BTAP、ART iTなどを経て2007年に横浜でFECを設立。現代美術や工芸の展覧会企画、交流事業のコーディネーション、アーティストの制作支援、東アジアの現代美術の調査研究などを手がける。2011年よりアートフェア東京エグゼクティブディレクター、2016年よりアート北京アートディレクター、2021年にはACKプログラムディレクターを歴任。担当した主な展覧会は、「平行的極東世界/Parallel Far East Worlds」(成都、2012)、「Asia Cruise:物体事件/Object Matters」(台北、2013)、「Object Matters:概念と素材をめぐる日本の現代表現」(多治見、2014)、「Find ASIA−横浜で出逢う、アジアの創造の担い手」(横浜、2014)、「KYOTOGRAPHIE 金氏徹平 Splash Factory」(京都、2019)、「やんばるアートフェスティバル」(沖縄北部、2017−2022)など。


INTERINTERVIEWER|桐 惇史(きり あつし)

ART360°プロジェクトマネージャー、+5 編集長。1988年京都府生まれ。京都外国語大学英米語学科卒業後、学習塾の運営に携わりながら、海外ボランティアプログラムを有する、NPO法人のプロジェクトリードに従事。その後、ルーマニアでジャーナリズムを学び、帰国後はフリーランスのライターとして経験を積むかたわら、大手人材紹介会社でコンサルティング営業、管理職として組織マネジメントなどに携わる。現在は360°映像を通した展覧会のデジタルアーカイブ事業「ART360°」の推進に関わる。

March 18, 2022