アートと都市をつなぐ媒介者

アートと都市をつなぐ媒介者

アートディレクター、E-DESIGN|寺浦薫
2024.06.30
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大阪のアートシーンを語る上で、さまざまなオルタナティブな活動だけではなく、行政主導の政策がシーンに大きな影響を及ぼしていることは看過できない。近年では新世界アーツパーク事業(フェスティバルゲート) 、「大阪・アート・カレイドスコープ」、「水都大阪2009」、「おおさかカンヴァス推進事業」、大阪府立江之子島文化芸術創造センター(enoco)、大阪中之島美術館などがその例だろう。しかし、府民、市民、あるいはそれら利用者からは、その政策立案者の顔は見えにくい。その中で、長年、大阪府の学芸員として、それらの政策立案に携わり、同時に実務者としてかかわってきた、寺浦薫さんに今までの活動や現在行っていることについてうかがった。現在は大阪府を辞め、民間の立場でアートに携わっている。

寺浦薫さんの似顔絵(画:岩田友紀)

大阪府立美術館設立の中止と大阪府現代美術センターでの活動

もともとどのような関心があって、芸術分野に進んだのだろうか。


「中学生の頃からYMOが発信していた音楽だけではないサブカルや哲学的なことに関心があったことや、RCサクセションのライブに熱心に通ったりといったこともあって、数学のように答えがひとつしかない分野に進むのは絶対無理なのはわかっていたので(笑)、文化的なことをしようと思っていました。当時、大阪大学の文学部は木村重信先生が、美学・音楽・演劇・美術史などの学科をすべて横断して単位を取れるような仕組みを立ち上げていて、すごいと思って入学しました。西洋美術史を専攻してアール・デコの画家、タマラ・ド・レンピッカの研究をしていたんですが、食べるために絵を描き、社交界で貪欲に生きた彼女の社会的な背景も含めた画業を指導してくれる先生がいなくて、大学院ではセザンヌの研究をしました。

当時、勃興していたニュー・アート・ヒストリーに関心があって、ニューヨーク市立大学に行こうと建畠晢先生に推薦状をもらって合格もしていたんですが、親にニューヨークは危険だから止めてくれと懇願され、知り合いが住んでいたモントリオールのマギル大学院に進んでセザンヌの研究を続けました。その時点で、美術史の先進的動向をひっぱっている指導者のもとで学べないならば……と研究者の道はあきらめました。

マギル大学では、あなたは日本人だからジャポニスムをテーマにすべきね、と言われ(オリエンタリズムをこの身に浴びる経験でしたが、抗えず……)、セザンヌの《モン・サン・ヴィクトワール》と葛飾北斎の《富嶽三十六景》の関係を修士論文の主題にしました。浮世絵師お得意の遠景・中景・近景を自由自在に操る独自の遠近法は多くの印象派の画家たちに影響を与えたわけですが、セザンヌが大切にしていた故郷の山の象徴性をいかに描くかに腐心した際に、北斎の《神奈川沖浪裏》を参考にしたのでは、という内容の修論です。その論文はセザンヌ研究の第一人者の書籍にも参考文献のひとつして引用され、オリエンタリズムに翻弄された憂き目を浄化できたような気持ちになりました(笑)。」


当時の日本では海外での学位は重要視されておらず、就職するためには日本の大学院修了資格が必要だったため、休学していた大阪大学大学院に戻って修士号を取得する。その頃、木村重信は大阪府の顧問になっていた。その大きな理由は、大阪府の文化政策と、大阪府立の美術館の構想、現代芸術文化センター(仮称)の創設のためである。そのため、寺浦の先輩にあたる中塚宏行氏が、2年先行して大阪府に入庁し、寺浦も木村門下として大阪府の文化課に置かれた現代芸術文化センター準備室の職員になる。

しかし、寺浦が入庁したのは1994年。バブル経済が1991年にはじけ、その後、失われた30年・40年と言われるようになるがその頃はわからない。ただし、経済は回復しないまま徐々に雲行きは怪しくなる。最終的に現代芸術文化センター構想は、財政悪化のために頓挫するが、その間に、寺浦は以前からあった大阪府立現代美術センターの企画や文化政策の立案を進める。中之島にあった大阪府立現代美術センターは、2000年には大手前に移転し、寺浦はそこで意欲的な試みを幾つも行っている。 


「準備室の仕事がなくなりつつあったので、現美センターで継続されていた『今日の作家シリーズ』などを担当していました。中西信洋さん、牡丹靖佳さん、居城純子さん、国谷隆志さんなどの個展を企画、実施しました。また、新人発掘のための現代美術コンクールとして森村泰昌さんが若手作家を選んだ『出会い系サイトとしての美術』、ヤノベケンジさんがアートユニットAntenna【※1】を選んで合同で行った『森で会いましょう』などを開催しました。」

大阪府立現代美術センターでの「中西信洋」展チラシ(2006)
ヤノベケンジ✕Antenna「森で会いましょう」(2007)

さらに、ヨーロッパと大阪で交互にアーティストを派遣するアーティスト・イン・レジデンス事業である芸術家交流事業プログラム「ART-EX」も担当し、ドイツ、ベルギー、フランス、英国の4か国と大阪で現代アーティストを相互に派遣し、滞在・制作・展示までを支援した。1995年から2007年までの間にヨーロッパから14組のアーティストを受け入れ、日本からは大島成己、大崎のぶゆき、高橋匡太、稲垣智子等、8名の作家を各国へ派遣した。

特に現在でも問題となっているのは、1990年から2001年にかけて開催された国際公募展「大阪トリエンナーレ」である。国際現代造形コンクールとして、絵画・版画・彫刻の3部門を毎年分野を変えて行ってきた。受賞作品は賞金で買い取り、将来、現代芸術文化センター(仮称)のコレクションとなる予定だった。

「木村重信先生の肝入りで始まったもので、欧米だけではない世界の多様な作家の作品を公募によって集め、第一人者が選べば、素晴らしいコレクションができるという信念のもとに実施されていました。毎回、MoMA(ニューヨーク近代美術館)のキュレーターやMET(メトロポリタン美術館)の版画部長など、欧米の著名な美術館から審査員が招聘されていたのですが、私は彼らの通訳兼アテンドを任されました。時に辛辣な指摘もありましたが、彼らから世界のアートの実情を聞くことができたのはいい経験でした。」

スライドによる1次審査を経た2次審査は、実際の作品を巨大物流倉庫に展示して実施した。寺浦は、大阪南港にあった保税倉庫で作品を展示し、そこで審査を行うという作業も担ったが、特に巨大な作品が多かった彫刻部門の展示は、クレーン等の重機による組み立てを指揮する作業が数か月も続く過酷なものだったという。しかし、2001年に大阪トリエンナーレは財政難もあって終了し、絵画や版画作品に加え、巨大な彫刻作品もあとに残された。それらはコレクションの活用を名目として、大阪モノレールの駅構内などで展示されていることを目にした方もいるかもしれない。

「大阪・アート・カレイドスコープ」から「水都大阪2009」へ

中之島から大手前へ移転した大阪府立現代美術センターでは、小規模な芸術祭「大阪・アート・カレイドスコープ」が2004年から始まる。美術評論家の加藤義夫氏をディレクターに迎えた1回目と2回目(2004、2005年)、そして市内の文化系NPO7団体が結集したのが3回目(2006年)。その後の寺浦にとって転機となったのは4回目だ。

アートディレクターの北川フラムが大阪府・市と経済界の官民協働で“アートと市民参加”をテーマに開催されるイベント「水都大阪2009」の芸術監督として打ち合わせのために時折来阪していることを知った寺浦は、以前から「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」【※2】など北川の仕事に関心があったため、北川が水都の打ち合わせ後、建物から出てタクシーに乗り込むまでのタイミングに狙いをさだめ、北川を呼び止めて「大阪・アート・カレイドスコープ」の芸術監督をしてくれないかと直談判をする。北川は話は聞いてくれたが、最初は妻有のようなことを大阪でやるのは難しいのではないかと思っていたという。

「実はそれまで私は大阪の近代建築や街の多様なリソースについてほとんど知らなかったんです。でも、近代建築など市内の歴史的な場所をフラムさんと回り、そこで「大阪・アート・カレイドスコープ」展を企画・実施するうちに、大阪の街の可能性に気付くようになりました。私が大阪の街そのものと関わるようになったのはそれが最初なんです」

「大阪・アート・カレイドスコープ2007 大大阪にあいたい。」ロゴマーク。作品展示の舞台となった近代建築を図像化している。
「大阪・アート・カレイドスコープ2007 大大阪にあいたい。」
フェリチェ・ヴァリーニ《螺旋状の21本の直線》(2007) 
大阪府庁舎での展示。設定されたヴュー・ポイントからのみ渦巻き状の図像が見える。
「大阪・アート・カレイドスコープ 2008 大阪時間。」
松井紫朗《The Inside's outside》(2008)
大阪証券取引所ビルでの展示。

当時、大阪では船場にあった近代建築の解体をきっかけに、近代建築の再評価や利活用の運動が始まっていた。同時に、近代建築が数多く建てられ、市域が拡張して、人口が日本一となった大正から昭和初期の「大大阪」と称された時代が注目されていた。そして2007年、「大阪・アート・カレイドスコープ」は、北川フラムを芸術監督に迎え、「大大阪に会いたい。」をテーマに、大阪市内の近代建築を舞台に展覧会を開催して好評を得る。翌年も近いテーマで実施されることになる。


「フラムさんは、「大阪・アート・カレイドスコープ」をきっかけに、大阪の魅力を発見し、都心部でアートを展開する可能性も感じてくれたようです。それで、「水都大阪2009」のプロデューサーのポストについても、寺浦が自分の右腕としてアートチームのトップになるならやるが、そうじゃないならやらない、とまで事務局に言ってくださり、大阪府・市・企業が参画した事務局に出向することになりました。」


しかし、2008年に橋下府知事(当時)が就任し、さまざまな計画が見直されていく。北川フラムがプロデューサーとして携わる「水都大阪2009」も、計画発表のための記者会見前日に橋下知事が見直しをかけると主張。大阪府独自の水都大阪案を提示すると記者会見で打ち上げたという。


「いわゆる“ちゃぶ台返し”と新聞に書かれた“事件”ですね(笑)。私は「水都大阪2009」のチームから大阪府に戻されて、急遽、大阪府の河川室、企画室と一緒に1か月ほどの期間に大阪府案をまとめるというチームのメンバーになりました。それぞれがコンサルタントを呼んでくることになったんですが、河川室と企画室は懇意にしているコンサルタントがすでに任命されており、文化課も呼んでくるように言われたんですけど、文化課ではコンサルをつけるような予算規模の事業をやったこともないので、「コンサルって何をする人ですか?」というような状況でした。それで「水都大阪2009」のマネージャーに任命されていた(株)iop都市文化創造研究所の永田宏和さんから、この難局を救えるのは(株)E-DESIGN【※3】の忽那(くつな)裕樹さんしかいないと言われて、その場で彼の事務所に連れていっていただいたんです。」


忽那は、ランドスケープデザイナーだが、単なる公園などのデザインだけでなく、市民協働による都市再生までを含んだ、ユニークな提案や実践をすることで知られていた。そして、大阪府の河川室、企画室、文化課とそれぞれが呼んだコンサルタントが毎夜集まって計画を仕上げることになった。一時的な祭りだけに終わるようなものは駄目だという橋下知事の指示があったこともあり、忽那は水辺の再生に取り組んでいた仲間からヒアリングを重ね、水辺活用の中長期的計画を組み込んだ都市再生を目指す計画を提案することになる。

「水都大阪2009としては、大阪府案がすべて受け入れられたわけではないですが、事務局と折衝しながら、元々の案も府の案も折込みながら再編していくことになりました。」

「水都大阪2009」
会場のひとつ「水辺の文化座」。供用開始前の中之島公園にて、芦澤竜一設計の7棟の仮設建築物を舞台に170組を超えるアーティストによるワークショップや展示が52日間にわたって繰り広げられた。
「水都大阪2009」
藤浩志の「かえっこ屋」と「かえる工房」
生活廃材を地域の活動のツールにかえる活動等を実践しているアーティストの拠点として、おもちゃの交換市場や、廃材をもとに新しい飾りをつくる活動が展開された。
「水都大阪2009」
ヤノベケンジ《ラッキードラゴン》(2009)
大学や技術者たちの知恵や技術も結集させ、まるで生きているかのようなアート船が炎と水を拭き上げて水の回廊を航行した。

北川フラムもそれを受けて、海外からアーティストを招聘することを止め、日本の作家に絞り、さらに展示型ではなく、ワークショップを中心に市民参加型のイベントにすることに大きく方針を転換する。橋下府政のラディカルな改革は、文化面にも大きな影響を及ぼしたが、寺浦にとっては自分の中で都市とアートの関係を見直すことになったという。


「52日間、共用開始前の中之島公園で実施された「水都大阪2009」は、その後の大阪のアートやまちづくりにとって大きな成果を残すものになりました。藤浩志さんやKOSUGE1−16さんたちが常駐して作品づくりをしたり、毎日、日替わりでワークショップをするなど、徹底的な参加型アートの展開によって、日常に根付くアートの実感を多くの人にもらたすことができたと思います。運営はめちゃくちゃ大変でしたが(笑)。北浜テラスの社会実験が始まったのも「2009」ですし、水都としてまちの設えも「2009」で前進するなど、まちづくりにとっても大きな意味がありました。「2009」でつながった人のリソースがいまだに機能し続けています。

「水都大阪2009」でのアートプログラム
左)会場で試行錯誤しながら巨大な紐タワーを出現させたwah
右上)しでかすおともだちのダンスパフォーマンス
右下)淀川から拾った廃材でつくられた淀川テクニック《金チヌ》(2009)

おおさかカンヴァス推進事業と大阪府立江之子島文化芸術創造センター(enoco)

「水都大阪2009」の成果を見て、橋下も都市におけるアートの役割を認めるようになる。そして、大阪の街をカンヴァスに見立てて、ウォールペインティングの場所としてアーティストに提供する事業を実施しようと発案する。それが「おおさかカンヴァス推進事業」【※4】構想のもとになった。


「ウォールペインティングで街中を埋め尽くそうというのがもともとの知事のアイデアだったのですが、ウォールペインティングが効果的な場所もあれば、そうでない環境もあります。しかも都市に有効なアートはウォールペインティングだけではない、多様な表現がある。そこで、都市間競争の時代に勝ち抜き、大阪にしかない都市の魅力を発信するために、アーティストたちの様々なアイディアを活かし、大阪の街に多様なアート作品を展開する事業を提案したんです。」


参考にしたのは、北川フラムが芸術監督を務める「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」に加えて、アントニー・ゴームリーの巨大パブリックアート《エンジェル・オブ・ザ・ノース》(1998)の設置を嚆矢として、文化の力によって街を再生させたイギリスのニューキャッスル・ゲーツヘッドの試みなどだという。ニューキャッスル・ゲーツヘッドは、造船・炭鉱で栄えた街であったが、産業構造の転換に伴って重工業が衰退、失業率も25%を超え、ヨーロッパの中でも住みたくない街に選ばれるほど酷い状態だった。しかし、都市を象徴する小高い丘に造船技術を活かした《エンジェル・オブ・ザ・ノース》をつくり、街が培ってきた歴史と文化の誇りの象徴として設置することで機運が変わり、アートセンターの建設、またニューキャッスルとゲーツヘッドを結ぶ橋(船の通行時には桁ごと回転する機能と美しい意匠で高い評価を受けている)などもできて、住みたい街の上位に入るようにもなった。


 「彼らは毎年、綿密なアンケートをとっていたんです。就労人数のような定量的なものだけでなく、文化によって人々の意識がどう変わったかという定性的なものについても綿密な調査を重ねて、文化というのは我々のクオリティオブライフにとってはなくてはならないものだと結論づける報告書までつくっています。文化の力で都市を再興する、そういうことを大阪でやろう、と。「大阪・カレイドスコープ」や「水都大阪2009」をやるなかで、それが大阪でできるという確信もありました。」

おおさかカンヴァス 作品募集ポスター
企画: 株式会社 人間
選定されれば、作品をつくる材料の提供や技術支援・許可申請のサポートが受けられるという公募型の事業。


「おおさかカンヴァス」は、橋下府政の方針で、何事も広く門戸を広げて公募で募集しなければならないこと、公共空間で発表することでアーティストの認知度が上がるので謝礼は支払わないことなどが決められていた。その代わり、行政は警察などとの協議や交渉、技術的アドバイスや材料提供などを支援している。ただし、事業開始の頃は行政にも経験がなく、アーティストは計画段階でネジ1本まで事前申請しなければならないという厳しいものだったという。しかし、街に巨大な作品を置けること、材料が提供されるということもあって、毎回多くの作家が応募し、そこから大きな話題になった作品もたくさん生まれた。いっぽうでアーティストではない団体や個人からの応募も受け入れ、既存のアートプロジェクトとは違ったものでもあった。


「都市を面白くするアイディアがあるならアーティストじゃなくて誰でも登用するということにあえてしました。そのために、審査員も多様な方々を招聘しました。建畠晢さんやヤノベケンジさんといったアートの専門家に加え、都市の法律や制約を熟知している忽那裕樹さん、当時は街の情報誌『関西ウォーカー』の編集長だった玉置泰紀さん、若き社会起業家の塩山諒さんなど、それぞれの切り口で都市と対峙している専門家に審査を担っていただくことで、「都市×アート」の可能性をできるだけ引き出したいと考えました。しかし、彼らはその任務に忠実なあまり(笑)、警察などに絶対拒否されるような作品もたくさん選ぶので、設置許可を得るための行政協議は本当に苦難の連続でした。

都市には本当にさまざまな制約やルールがありますので、設置許可を得る協議の過程で、アーティストは当初提案したプランを臨機応変に変えていく必要があります。アーティストの最初のアイディアを大切にして、それをなにがなんでも実現するというスタンスだと都市の中ではできないことが多すぎるんです。私たちはもちろん作品の実現を望んではいますが、アート至上主義ではなく、どこをどう変えれば実現できるのか、都市はどこまでアートを受け入れるのかということを、都市と作家の両方に対して協議、交渉する立場だということをはっきりと自覚していました。制約が多すぎることを理由に作家が展示を諦めるんだったら、それはそれでしょうがないという考え方です。法規的に乗り越えられない壁もあれば、内規の柔軟な運用で可能になることもある。なので、例えば西野達さんのように、それまで都市とガッツリ付き合って、時には譲ることも主張することも、駆け引きしながらやってきた作家でないと、展示にたどり着くのが難しい事業でもありました。」

「おおさかカンヴァス2010」
Yotta《イッテキマスNIPPON シリーズ“花子”》(2010)
「おおさかカンヴァス2012」
西野達《中之島ホテル》(2012)


さまざまなプランを実現するためには、警察や消防、管轄の役所等、様々な当局の許諾が必要になるが、そのために法律の解釈の読み替え、一時的な緩和などのさまざまな交渉を必要としたという。


「中之島公園にある公衆トイレを増築し、女子トイレの一部も占有してホテルにするという西野達さんの作品の場合、抵触しそうな法律が5つ以上あって、誰に聞いても実現は絶対に不可能だと言われました。例えば、本来だったら増築する建物に対してコンクリートで基礎を打たないといけないというのが建築基準法上の規定になるんですけれど、増築しようとした部分は大規模な改修工事でもしない限り、基礎を打つ工法は無理でした。そこで大阪府の建築関係の専門家に相談し、一時休憩所扱いにすることで基礎を打たずに済むようにできるのでは……ということで交渉し、申請を受けつけてもらいました。

また西野さんには作品のコンセプトとして、このホテルに泊まる人には必ず宿泊費を払ってもらうことが前提条件だと言われたのですが、大阪府がホテル運営をするとなると旅館業法に抵触するので、ストレートに実現することは無理でした。そこでこのホテル特製のバスローブをつくって、そのバスローブを買い取る形で宿泊代金を支払ってもらうことにしました。Yottaのこけしの作品の場合は、当時の公園における高さ制限の内規は3.5mだったんですが、この作品を実現したことで今は13mまでルールが緩和されています。また公園が風致地区にあるため、こけし作品に使える色彩は高速道路の橋脚の色、つまり灰色か薄緑色しか使えないと最初は言われましたが、一時的な展示であることなどを粘り強く交渉して認めてもらったりしました。」


そういう経験をするなかで、寺浦は都市の中で普通に過ごしていたら見えない法規やルールに対してアートが介入することで見えてくるものがある、と実感できるようになったという。


「都市にアートを放り込んでみると、その都市のそのときの状況の一断面がよく見えてきます。規制したい人と自由にしたい人、都市に住まう人のなかでその許容度の度合いがどういうグラデーションになっているのかがおぼろげながら見えてきます。アートにも原理主義的なものと、実利的なものがあって、私は別にどちらに与しようということではないんですが、都市にアートを掛け合わせることで、今、その都市が自由ということについてどのあたりにいるのかの一断面が見えてくるのが面白かったです。ただ、私としては都市の可能性を拓いていく作家と一緒にやりたいというのがありますし、都市計画も睨みながら、アートが経済の流れの中で回っていくとはどういうことか、そちらの道を探りたいというのはありますね。」

大阪府立江之子島文化芸術創造センター(enoco)

また、大阪府現代美術センターは、2008年に大阪維新によって提案された財政再建プログラムで廃止が提案されて2012年に閉館したが、1930年に竣工した近代建築、大阪府工業奨励館附属工業会館を改修して、同じ年に開館した大阪府立江之子島文化芸術創造センター(enoco)【※5】に一部の業務が継承された。


「最初はあの建物は潰して、売り払う計画だったんです。それを覆すプレゼンを当時の橋下知事にやらせてもらうことになって。知事に『水都大阪2009』のとき、いろんなアーティストが大阪に集まってきて、大勢の子どもたちがたくさんワークショップを楽しみましたよね。彼らが集まるアートセンターにしませんか? ただ、アーティストが好き勝手やるわけじゃなく、市町村の課題解決にもアイディアを提供して協働するようなアートセンターにしたいんです、お願いします!と訴えました。人生で一番緊張したプレゼンでしたね。これに失敗したら近代建築が一軒なくなるので必死でした。」


そうして無事、建物は守られ、新しいアートセンターが誕生する。いっぽうで大阪府の長年の懸案事項であった現代芸術文化センター(仮称)構想が完全になくなったこともあり、enocoはそのために集めた膨大なコレクションの保管場所にもなった。美術品を維持するための機能を備えた倉庫代の費用がかかるため、コストカットが求められていたからだ。しかし、立体作品を収蔵できるほどenocoは大きくないため、空調が整った収蔵庫には絵画や版画の平面作品のみが収蔵された。そのため立体作品は外部の倉庫を転々として、最終的に大阪府咲洲庁舎の駐車場に一部保管されたという。enocoの業務では、大阪府の方針によって、美術館のために集められた作品の活用として、貸出事業が託されることになった。

また、enocoは単なる芸術センターだけではなく、「おおさかカンヴァス」で行われているような、公共空間の利活用、地域の活性化、街づくりなどクリエイティブな方法を実践するための、官民共同の体制づくりを支援する「プラットフォーム形成支援事業」が盛り込まれたことも大きな特徴だろう。そこにE-DESIGNと長谷工コミュニティに加えて、enocoも含む江之子島の再開発のチームにもともと参加していた甲賀雅章も加わったJV共同企業体(ジョイント・ベンチャー)が応募し、enocoの指定管理者業者として1期、2期の運営を担った。

アートと都市をつないでいくために

その間、寺浦はどのようなことをしていたのだろうか?


「enocoでの展覧会などアート事業は、高坂玲子さんをはじめとするenoco専任のアート・ディレクターたちが担当してくれましたので、私は橋下さんに約束したもうひとつの柱、行政課題をクリエイティブに解決する「プラットフォーム形成支援事業」をenocoと一緒に進めていました。これは行政の中でもあまり例のない事業で、大阪府域の市町村が抱えるまちづくりや教育、福祉、環境など多様な分野の課題を公募し、その中から選定した課題について、アーティストやデザイナーを活用し、クリエイティブに解決するための支援を行うものです。

ただ大きな特徴は、こちらが支援するのは課題解決に必要なプラットフォームづくりであって、課題解決そのものを支援するのではない、という点です。行政、住民、企業等の多様なステークホルダーが協働して課題解決に取り組むための仕組みづくりをサポートし、そのプラットフォームを使っての課題解決は各市町村が主導して進めます。我々がいつまでもサポートを続けることは無理なので、徐々に自立してもらうための方策でした。大切なのは各市町村が本気かどうか。多様な主体が協働するプラットフォームを経験したことがない行政も多いので、従来のやり方を乗り越えてまで課題解決にチャレンジする気持ちがないと成果を出すのは難しいんです。」

「プラットフォーム形成支援事業」のメソッドや事例をまとめた冊子

この「プラットフォーム形成支援事業」は府の委託事業として実施した2012年からの6年間に30を超える課題に取り組み、現在も市町村で継続されているものもあるという。


「おおさかカンヴァスの市町村版をつくって地域への愛着を醸成しようと始まった交野市の「かたのカンヴァス」は市民大学など地域の活動をさらに活発にしたり、工事が進むダム周辺のコミュニティづくりを支援することでエリアの活性化を目指した事業は『ダムパークいばきた』【※6】(茨木市)のオープンにつながったり。トコトコダンダン【※7】という大阪市内の遊歩道を府の河川室と協働で整備した事業では、経験のないデザイナーを公募で選ぶしくみも含め土木学会デザイン賞やGOOD DESIGN金賞も受賞しました。」


つまり、寺浦は大阪府域の地方自治体のための、街づくりコンサルタントとして、大阪府中を駆け回っていたということになる。これは大阪府と市区町村が連携した、画期的な事業であったが、1年ごとの予算申請と、一定以上続けて成果が出たら終了になる行政の考え方もあり、6年間で終了する。「おおさかカンヴァス」も同様の理由により2016年には事業を終えていた。enocoも2期を終えて、3期目の指定管理料が非常に厳しいものとなったこともあって、E-DESIGN+長谷工コミュニティのJVは3期目のenocoの指定管理公募には応募しなかった。


「大阪府の仕事が一区切りついたことと、以前から故・河崎晃一さん(元芦屋市立美術博物館学芸課長、兵庫県立美術館館長補佐、当時、甲南女子大学文学部メディア表現学科教授)に長らく誘っていただいていたこともあって、2019年に大阪府を辞め、甲南女子大学文学部メディア表現学科の准教授職に応募して採用されました。3年間、美術史と博物館学を教えました。ただ、私が大学に入る直前に河崎さんが急逝され、一緒に教えることができませんでした。また大学での仕事に加えて、E-DESIGNでもアルバイトをさせてもらっていて、そちらの方が忙しくなったのと、教育よりも現場で実践をする方が楽しかったので、大学は3年で辞め、E-DESIGNのスタッフとして雇用してもらうことになりました。」


そこで寺浦は、行政職員という立場ではなくなったが、都市とアートを結び付ける仕事を継続していくことになる。2023年には、大阪府の事業として、「オオサカアートフェスティバル」【※8】を民間事業者の立場で取りまとめることになる。


「古巣の大阪府さんがアートフェスティバル事業を立ち上げられるとのことで、構想段階で相談を受けていました。当初はアートマーケットの拡大を目的にアートフェアを主体にした案でしたが、大阪府には「おおさかカンヴァス」の実績があるので、公共空間をアートで活用するプログラムをぜひ取り入れたほうがいいというアドバイスをさせていただきました。E-DESIGNで働くなか、大阪が道路や水辺といった公共空間活用でいかに先進的であるかがわかってきたので、大阪が文化で他の都市に抜きん出るには、公共空間の利活用をアートで推し進めるのが最適だと確信していたんです。」

「オオサカアートフェスティバル」(主催:大阪府、2023年)
西野達《永遠に続くわけがない》(2023)撮影:麥生田兵吾

寺浦は大阪府が公募した「オオサカアートフェスティバル」事業に対し、カンヴァスの実績を活かしたパブリックアート事業を柱のひとつとした提案で採択され、西野達の新作を大阪市中央公会堂前で展示するなど大きな話題となった。


「オオサカアートフェスティバルではアートフェアの実施も必須条件となっていましたので、現在実施されているアートフェアで最も長い歴史を持つART OSAKA【※9】さんにご協力いただきました。ART OSAKAは関西を中心に活躍している実績あるギャラリーが中心となって実施しているフェアで、近年では北加賀屋のサテライト会場でインスタレーションを中心とした展示をされるなど都市的な視点で新しいフェアに取り組んでおられます。今回は公募も含めた若手アーティスト中心のフェアをenocoで実施していただきました。」


アートフェアと公共空間展示を盛り込んだオオサカアートフェスティバルは、実は経済産業省の「アーティスト等と連携した地域ブランドの確立に係る実証事業」とも合体する形で実施された。その経緯は、経済産業省が現在進めている、アートやクリエイティブの力で地方創生を目指そうという「パーセント・フォー・アート」的な施策を全国的に支援するための『×ART スタートアップガイドライン』【※10】をつくるプロポーザルに寺浦が応募し採択され、その制作を担ったことと関連する。


「ある土木関係の懇親会の場で、たまたま経済産業省の方に会ったんですが、その前日にちょうどパーセント・フォー・アート的施策を進めるという経済産業省のプレス発表を目にしていたので、「おおさかカンヴァス」の事例を紹介したところ、それは今、まさしく経済産業省が目指している方向に合うものだと関心をもっていただいて、そういった動きを全国的に支援するためのガイドラインをつくるコンペを実施するのでぜひ応募してほしいと言われて手を挙げたところ、採択されました。アーティストや地域団体、自治体が公共空間などをアートで活用するためのルールや制度解説、アーティストと協働するイロハなどをまとめたガイドラインです。パブリックアートや芸術祭等の実績豊富なArtTank【※11】の小平悦子さんと組んで制作しました。道路・河川・公園は規制緩和がほぼ終わっていて、実はアートでもいろいろと活用可能な状況になっているんですが、なんせルールや手続きが複雑なので、そのあたりもわかりやすく解説したつもりです。」

「オオサカアートフェスティバル」(2023)
御堂筋のほこみち空間での展示の様子 撮影:麥生田兵吾


このガイドラインのプロポに少し遅れて募集されたのが、「アーティスト等と連携した地域ブランドの確立に係る実証事業」であった。経済産業省としてはガイドラインを作成しつつ、全国各所で実例を積み重ねることで、施策の有効性を実証する狙いがあった。こちらにも寺浦は応募して採択され、オオサカアートフェスティバルと連動して実施することになったのである。


「歩行者利便増進道路(通称:ほこみち)という制度が導入され、道路に常設のカフェやアート作品などが長期間設置できるようになりました。大阪では全国レベルでも早い段階で御堂筋の一定区域がほこみち指定されましたので、御堂筋のほこみち区域で大規模なアート作品展示のイベントを実施することで、大阪の都市としての先進性をアピールしたかったんです。大阪府と経済産業省の事業をひとつのイベントとして実施するのは予算執行の面でも本当に大変でしたが、ふたつを連動させて相乗効果を狙いつつ、ほこみちの可能性も問うことができたのでやりがいがありました。実施にあたっては御堂筋の道路協力団体のひとつ、ミナミ御堂筋の会さんに協力いただくことで実現できたのですが、道路をアートに開いていくことの課題もいろいろと見えて勉強になりました。」

「✕アート スタートアップガイドライン」表紙(経済産業省による発行)

今年3月に発表された『×ART スタートアップガイドライン』には「おおさかカンヴァス」で実施したノウハウがふんだんに盛り込まれており、他にはないアートプロジェクトを立ち上げるためのガイドブックになっている。これから、各自治体が、河川、道路、公園などでアートを活用する事業を実施するために必須の資料になるだろう。

寺浦は今年から万博という舞台にも正式に関わることになった。E-DESIGN代表の忽那が2021年から会場全体のデザインディレクターを務めているが、寺浦は会場に持ち込まれるアートを担当するアート・コーディネーターとして万博協会から任命された。


「今回の万博は独自のアート予算を持たない万博なので、スポンサーがそれぞれにアート作品を協賛する形になっています。アートの統一的な方針がないなか、会場のランドスケープのコンセプトや個性的なパビリオン等といかに調和させ、効果的に配置するかという役割になります。二度とない機会なので、これまでの経験を活かして任務を果たしたいと思っています。」


また、寺浦や忽那らは、新たなクリエイティブと都市をつなぐための組織として、NPO法人「Be  Creative」【※12】を立ち上げている。


「アートを都市に実装する、ということをなんとか進めたいと思って立ち上げました。文化に関わることは、営利企業では受け皿になれない事業も多いので、NPOの利点を活かして事業化できればと考えています。理事メンバーにはアーティストもいれば、都市計画や建築の専門家もいる、という個性的なラインアップです。都市とアートのプロフェッショナルや関心を持つ人材を集めた組織で、アートを都市に実装するためのプラットフォームになれればと思っています。」


最後に、アートと社会や都市をつないでいくことについて、これからのアートネイバーにアドバイスをいただいた。


「都市の中でアートを実現しようと思うと、たくさんのルールや規制の壁にぶち当たります。アートをマネジメントする側は、それらのさまざまな制度や規制を知りつくすことがまずは第1歩で、そこから、それらを乗り越える、あるいは遵守しながらやりたいことを実現する方法を見つけていくことで、都市にとってもアートにとっても新しい可能性が開けていくのだと思います。またアート単体の実施では継続性が難しいので、その地域のエリアマネジメント組織等の中間支援組織やプラットフォームと連携して都市にアートが実装されることがとても重要だと考えています。それによって、その都市にしかない唯一無二の表現がたちあがってくる、と確信しています。」


都市に出たとき、美術館のような表現を守ってくれる組織や制度があるわけではない。美術館として守られる場所をつくるか、あるいはそうではない場所で、表現の領域を開拓していくか、さまざまな道があるだろう。寺浦が選んだ都市の中にダイレクトにアートを組み込む方法は難題も多いが、それだけに実現したときに、今までは見えなかった都市の顔やアートの可能性が見えてくるに違いない。

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注釈

【※1】Antenna(アンテナ) 
(URL最終確認2024年6月29日)

【※2】大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ
(URL最終確認2024年6月29日)

【※3】E-DESIGN
(URL最終確認2024年6月29日)

【※4】おおさかカンヴァス推進事業
(URL最終確認2024年6月29日)

【※5】大阪府立江之子島文化芸術創造センター(enoco)
(URL最終確認2024年6月29日)

【※6】ダムパークいばきた
(URL最終確認2024年6月29日)

【※7】トコトコダンダン
(URL最終確認2024年6月29日)

【※8】オオサカアートフェスティバル
(URL最終確認2024年6月29日)

【※9】 ART OSAKA
(URL最終確認2024年6月29日)

【※10】×ARTスタートアップガイドライン
(URL最終確認2024年6月29日)

【※11】ArtTank
(URL最終確認2024年6月29日)

【※12】Be  Creative
(URL最終確認2024年6月29日)

INTERVIEWEE|寺浦薫(てらうら・かおる)

(株)E-DESIGN アート&コミュニケーション部 ディレクター

大阪大学、同大学院 修士(美術史専攻)、カナダMcGill大学大学院 修士(美術史専攻)修了。1994年に大阪府に学芸員として入庁。文化施策や文化振興計画の企画・立案、府立江之子島文化芸術創造センター(enoco)の立ち上げ、「おおさかカンヴァス」等アートプロジェクトや展覧会企画運営、市町村とのコミュニティ・デザイン事業「プラットフォーム形成支援事業」、「水都大阪2009」チーフ・キュレーター、ヨーロッパ4か国とのアーティスト・イン・レジデンス事業「ART-EX」等の企画・運営に携わる。甲南女子大学 メディア表現学科 准教授(2019年〜2022年)を経て現職。株式会社E-DESIGN において、都市に対してさまざまなアートの実装を手掛けている。今年度から大阪・関西万博のアート・コーディネーターも担っている。


INTERVIEWER|三木 学(みき まなぶ)

文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。
アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人。
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。
美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。