「人をつなぎ、居場所をつくる本屋」ブックカフェ店主、石川あき子さんに聞く。

「人をつなぎ、居場所をつくる本屋」ブックカフェ店主、石川あき子さんに聞く。

ブックカフェ店主|石川あき子
2025.06.30
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近年、書店が次々と廃業するなか、大阪の都心で20年以上、創業からユニークな品揃えにギャラリーとカフェを併設する、近年流行している形態をいち早くとっている独立書店がCalo Bookshop & Cafeだ

雑誌の廃刊や書店の廃業が続き、出版冬の時代と言われて久しいが、長く続けてこられた秘訣はどのようなものだろうか? 店主の石川あき子さんに今までの歩みと、SNSで誰もが情報を取得し、交流ができる時代の書店の可能性についておうかがいした。

20周年記念シンポジウムで司会をする石川あき子さん(撮影:西川善康)

分野横断型の知識と写真への関心

10代の頃はどのようなことに関心があったのだろうか?


「愛知県豊田市で育ちました。小・中は地元の公立。自治体としての知名度は高いですが、豊田市美術館に来られた方が驚くように、なかなかの田舎です。今につながるような芸術的なことに接する機会はほぼありませんでしたが、中学のときには、ラジオで坂本龍一を知り、そこから歌謡曲以外の音楽の世界を知るようになり、坂本龍一と村上龍が文化人をゲストに迎えた対談集『EV. Café : 超進化論』(講談社文庫、1989年)などを通して、人文科学に興味を持っていきました。高校は、通学に片道2時間弱かかる岡崎高校に進学。毎日通る名鉄豊田市駅の下にあった精文館書店(愛知のローカルチェーン)で『STUDIO VOICE』などの雑誌と出会い、サブカルチャーから現代美術までを知っていくことになります。小さな店でしたが文脈を踏まえた棚のお店でした。1989年には、名古屋パルコがオープンし、パルコギャラリーやパルコブックセンター、タワーレコードに行きはじめます。名古屋市立美術館もパルコとセットで行っていました。高校では演劇部に足を突っ込んだりもしましたが、基本は一人で『ぴあ』など雑誌の情報を頼りに出かけていたと思います。」


地方は、東京と違って先端の情報に触れる機会が少ない。しかし、取次のおかげで雑誌は全国的に流通するため、貴重な情報源だった。だから地方出身者は、雑誌文化に影響を受けた人が多く石川もその一人であろう。


「1990年に豊田市で日本文化デザイン会議【※1】といういわゆる文化人が大勢来て、連日朝から晩までさまざまなトークセッションをするというイベントがあり、学校をさぼって参加しました。中沢新一さんや榎本了壱さんなど、今振り返ってもすごいメンバーで、大企業の傘の下にある町では衝撃的なイベントでした。トークの内容はもうあまり憶えていないんですけど、中沢さんから「豊田の高校生ってどこで遊ぶの?」と言われたのは今でも憶えています(笑)。」


1980年代から90年代初頭にかけては、ニューアカデミズムと称される学会ではない、商業誌やメディアを舞台に領域横断的な知識人が活躍していた。その代表例が浅田彰や中沢新一であり、坂本龍一や村上龍といった知的好奇心のあるクリエイターと積極的に交流が行われていた。東京であれば講演会などで会える機会は多かったかもしれないが、地方では珍しかった。しかし、メディアの中心地である東京には行かずに大阪大学人間科学部に進学する。


「私の通っていた岡崎高校は国公立大志向だったんですが、私は東京へ行くほどの学力はなかったのと、人間科学部がすごく自分に合っているように思えたんですね。今となっては似た感じの学部はたくさんありますが、当時は心理学、行動学、人類学、社会学、哲学といった分野を横断的に扱う学部は他にありませんでした。この後の分野横断・学際人生の始まりですね(笑)。実際、同級生は人間科学部にいきたかったという人がほとんどで、当時の男女比は半々、とても快適な環境でした。同級生とは一緒にシネマ・ヴェリテ(堂山町にあったミニシアター)に『裸のランチ』を見に行ったり。やっとひとりじゃなくなる(笑)。人間科学部では学芸員資格も取得できたのですが、文学部で履修する演習が必要でした。東洋美術史演習では近畿圏の博物館美術館だけでなく、神社仏閣にも多く訪れ、教科書でしか見たことのなかった国宝に簡単にアクセスできる環境に驚きました。」


大阪大学は、豊中と吹田に校舎があるが、石川は大学の近くに下宿することはなかった。


「両親が心配して、大学からは遠い南森町の、当時は珍しかったオートロック付きの学生マンションに住むことになったんです。下宿しているのに通学に1時間以上もかかった(笑)。でも梅田を経由するので、梅田ロフトにあったリブロや、扇町ミュージアムスクエア【※2】に立ち寄るようになりました。南森町は中小の広告代理店やデザイン事務所が多く、デジタル化の初期で写植屋さんから変わりつつあった“出力センター”もあちこちにありました。駅前の西日本書店は南森町で働く人のための雑誌が充実していて、創刊号だけしか出ないような(笑)チャレンジングな雑誌にも出会いました。そして大学に入るときに買ってもらったコンパクトカメラ(オリンパスμ)で写真を撮り始めるんです。荒木経惟の影響でビッグミニが流行った頃でした。」


そこではまた雑誌から情報を得て新たな出会いがある。


「雑誌『Olive』で「写真図書館」が南森町にあることを知り、出入りするようになります。併設の大阪国際写真センター(OICP)の写真表現大学(元・リバティ表現大学【※3】)で、カメラの使い方だけでなく、暗室、額装や保存、写真史などを学びました。綾智佳(現・The Third Gallery Ayaオーナー)さんは当時OICPのスタッフで、ここで初めて会いました。社会人向けの講座だったので、いろいろなバックグラウンド・世代の人たちと一緒に受講したのも、多様な生き方・働き方を知るきっかけになりました。」


当時、写真家の畑祥雄は編集者の中川繁雄の蔵書の寄託を受け、1992年に写真集を集めた日本最初の「写真図書館」の開設、大阪国際写真センター(OICP)を設立して、写真講座や写真表現大学【※4】を実施するなど、写真文化に関する幅広い活動を行っていた。東松照明、荒木経惟、森山大道らが開講していた1970年代の「ワークショップ写真学校」などに通じるオルナティブな写真学校の関西の主導者的な位置づけであったといえる。そして90年代前半はデジタル化が進み、急激に写真を取り巻く環境も変化する時代だった。


「成安造形大学の設備を使い、当時最先端だったKodakのPhotoCDをつくる講座がOICPであり参加しました。その翌日に阪神・淡路大震災が起こったんです。夜遅くまでかかって完成させ一緒に大阪に戻った参加者の一人から、そのたった数時間後、地震でCDが割れ見れなくなったという話を聞き、デジタルと紙の違いを思い知らされました。被災した芦屋市立美術博物館からレスキューされたガラス乾板のアーカイブ作業を手伝ったり、サントリーミュージアム天保山(1994年オープン)で監視員のバイトをしたり、大学は遠いので結局あまり行かなくて(笑)、いろいろな場所に出入りしていました。ただどれも深くのめりこんだりはせず、作品として発表したりすることもありませんでした。」


豊田市で雑誌を通して見ていた広い世界は、大阪に出てきてことで均質な空間から開放され、自由な選択による具体的な人との出会いや経験となっていった。

デジタル時代のバウハウス「インターメディウム研究所(IMI)」の講師との交流

1995年は阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件が起きた時代の転換期ともいえるが、同時にWindows95が発売され、今日のデジタル文化、インターネット時代の幕開けであったともいえる。しかし、バブル経済崩壊後の経済的低迷はますます深刻になっていった。 


「就職氷河期のはじまりの年でした。内定は1社しか取れず、両親に勧められ公務員試験を受けたら豊田市役所に受かってしまった。市役所では仕事量の多い保育園の事務をする部署に配属され、市内すべての保育園からまわってくる膨大な伝票の支払いと、臨時職員の保育士の手配をしていました。何らかの事情を抱える人も多く訪れる途中入園の受付窓口もあり、日系ブラジル人の親子も多かったです。このときの仕事で、就職・離職にともなう社会保険の手続きなどを知ったのは、その後の自分の転職や自営になって人を雇う立場になったときに役立ちました。でもこういうことって本当は義務教育で、せめて高校で教わるべきことですよね。」


しかし、石川が豊田市役所で働いたのはわずか1年だった。


「大学4年(1996年)の3月、豊田に戻る前に時間があったので1週間ほどアルバイトで手伝ったのが、OICPが成安造形大などと連携して4月から始めようとしていた、インターメディウム研究所(IMI)【※5】でした。でもどう考えてもここに4月から学校ができると思えない状態で...…。「どうなったのかな?」と思って5月の連休に様子を見に行ったら、辞めるスタッフがいるので事務局で働かないかと声を掛けられました。講師陣は魅力でしかなかったので、1年は市役所で働いて次の4月まで待ってもらえるのなら、という条件で引き受けたんです。その間、豊田で働きながら月に1~2回週末に大阪に行きIMIを手伝いました。その後、ただでさえオルタナティブなゆるい現場の立ち上げ期の混乱を収めていくような仕事が続くことになって、コンサバティブな公務員経験が意外に役立つことになりました。」


地下鉄中津駅近くへ移転した写真図書館や写真表現大学と同じビルに、1996年に開校したインターメディウム研究所(IMI)は、美術史家の伊藤俊治を講座統括ディレクターに迎えて、「デジタル時代のバウハウス」を目指した社会人向けの週末を中心とした学校だった。伊藤俊治、港千尋、畠山直哉、椹木野衣、上野俊哉、野々村文宏、ヲノサトル、有馬純寿、椿昇、関口敦仁といった錚々たるメンバーが集って、関西では知ることのできない分野横断的なユニークな内容の授業を行っていた。同年に開校した岐阜の情報科学芸術大学院大学[IAMAS]【※6】と講師陣が重なっていたり、翌年に創設に伊藤が関わったNTTインターコミュニケーションセンター(ICC)【※7】が開設されるなど、マルチメディアやメディアアートといった表現が台頭した時期だった。


「1997年の春からIMIの教務掛的なポジションで働き始めました。それまで雑誌で知っていたような人たちと身近に接することになりましたが、まだ30代も多かった先生方とは、すぐに仕事のあと飲みに行ったりと親しく付き合うようになりました。ここでも学生としての関わりではないので、深く学ぶわけではなく浅くではありましたが、先端的な実践についても知ることができました。IMIでは美術系大学の出身者と初めて接して、とにかく体を動かして形にしていく様子に刺激を受けました。一般の大学の出身者は頭で考えるところからなかなか進めず、自分もそうでしたから。週替わりでやってくる講師の要望に合わせ準備して講義やワークショップをするのは、毎週イベントをやるようなもので、このあともイベントは普通にできるようになります。IMIに関わっていた人はみんなそうなっていると思いますが(笑)」


東京からの講師陣は、本務校の授業のない週末に泊りがけで来阪し講義・ワークショップを行ったため、夜の飲み会も含め、第一線で活躍する講師陣に直接話が聞ける貴重な機会となっていたのだ。


「本当に頭がよくて仕事もできる人というのは、どのくらいどういうふうにできるのか、ということを目の当たりにしました。さらに、それだけではダメで最終的には体力で勝っていくのだ、ということも先生たちを見て学びました。朝まで飲んでも潰れないとか(笑)。20代の前半でそういう人たちの仕事を見れたのは、自分の能力を客観視することにもなったのでラッキーだったと思います。もうひとつは、自分の専門分野を軽やかに乗り越える仕事をしている先生たちは、はちゃめちゃに人生を楽しんでいるように見えたこと。この二つは特に伊藤俊治さんからの影響が大きいです。」


IMIは、IAMASなどと違って認可校ではなく、私立のオルタナティブな学校で、創設の時期は機材や設備が脆弱な側面があった。今ならPCやスマホ1台でできることが、まだまだ巨大なPCやハードディスクがなければ実行できないことも多かった。運営基盤が弱く校舎の移転も繰り返した。中津の校舎は2年で移転し、3年目は現在、大阪府咲洲庁舎となっている大阪ワールドトレードセンタービルディング(WTC)に移転、さらに万博記念公園内に移転する。石川はWTCに移転後、IMIを退職する。


「理想を語ってばかりで現実がついてこない運営体制に不満がたまっていきましたが、まだ自分の経験も浅いので変えることもできず。当時はブラック企業という言葉もまだなかったかもしれませんが、この時の経験から、今でも学校ビジネスやインターンには批判的です。公務員を辞めて転職したわりには2年ちょっとしかもちませんでした。ただこの時に知り合った先生方や学生で来ていた人たちとは25年以上たった今も繋がりがあり、それには本当に感謝しています。Caloのロゴや看板を作ってくれたnakabanやこのインタビューをしてくれている三木さんなどたくさんの出会いがありました。辞めた後に、西天満の大江ビルヂングにあったThe Third Gallery Ayaで三木さんたちの写真展があり見に行ったところ、綾さんから地下に書店ができるからアルバイトを募集していると言われて、本屋さんならやってみたい、ということで働くことになりました。」


大江ビルヂングは、大正時代に建てられた近代建築で、大阪のオフィスビルの先駆けだった。大阪高等・地方・簡易裁判所の近隣にあり、弁護士事務所などが数多く入居しているが、同時に西天満の老松通りは古くから骨董屋が集積しており、ギャラリー白(2024年閉廊)など、現代美術のギャラリーなども多かった。当時、1階には老舗画廊の番画廊やThe Third Gallery Ayaが入居しており、その地下に美術書店ができる予定になっていたのだ。

ブックカフェの源流 book celler amus(ブックセラーアムズ)

book celler amus 店舗内 カフェとデザイン書・洋書のコーナー

それがbook celler amus(ブックセラーアムズ)だった。アムズは、大阪の照明器具会社が立ち上げた書店で、それ以前からインターフォームというプロジェクト名でポストカードやカレンダー、プロダクトデザイナーによる建築金物の企画・販売などアートに関連する事業を行っていた。写真ギャラリーを運営していたこともある。


「アムズは1999年の秋にオープンしました。地下でもドライエリアから外の光が入る部屋で、飲み物だけのカフェと物入れのスペースを改装した小さなギャラリーもありました。オーナーは、もともとアートが好きで、アートブックの出版やミュージアムショップのような店をやりたいと考えていたようです。その年の春に倒産した京都書院の在庫の豪華本を買い取ったりもしていました。店長も京都書院の編集者だった人で、本以外にもオーナーのコレクションのアート作品を展示・販売していました。スタッフには私以外にもIMI出身者がいたため、自然に展示や作家を呼んでのトークイベントを企画するようになりました。」

book celler amus 店舗内  奥にギャラリーコーナーがある。



カフェやギャラリーの併設、書店でのトークイベントの開催は、今だと当たり前だが当時から考えるとかなり先駆的である。


「その時は戦略的にというより、自分たちの経験や興味からできそうなこと、楽しくなりそうなことをやっていたという感じです。カフェも経営上の観点ではなくオーナーのサロン的な位置づけだったと思います。とにかく趣味のお店としてスタートした本屋でした。私たちはあたりまえのようにイベントをしていたように思うのですが、当時注目され始めていた花森安治時代の『暮しの手帖』の展示にあわせて海月書林の市川慎子さんとライターの近代ナリコさんのトークをしたときは、暮しの手帖社の方が東京からわざわざ見に来られたほどでした。」

amus のトークイベントチラシ 
「未来のカフェ-イメージをめぐって」港千尋・伊藤俊治
「暮らしの手帖と花森安治」市川慎子・近代ナリコ

不況とデジタル化が浸透する時期であり、書店や取次(流通)も過渡期を迎えつつあった。


「和書に関しても、最初は柳原書店という小さな取次を通していたんですが店のオープンから数か月で廃業してしまい、それなら出版社から直接卸してもらおうと交渉し、何社もと直取引で本を仕入れていました。これも当時としては珍しかったと思います。今は直取引を希望する小さな書店が増えたので、ほとんどの出版社で直取引について決められた条件がありますが、当時はまずその条件から考えるような版元の対応もおおらかな時代でした。」


そこから出版業は雑誌の廃刊が続く時代になる。


「出版社の倒産も多かった時代でした。そうした出版社から自身の本を引き取っていたアーティストから本を仕入れることもありました。バブル時代の出版にノスタルジーを抱く年上の世代と仕事をすると、初めての業界とはいえ自分が思う商売の常識と違いすぎて、自分がおかしいのかと思ったほどです(苦笑)。しかし、消えつつあったデジタル化以前の出版現場の話を聞くことができた最後の世代かもしれません。また洋書の世界もインターネットとAmazonの登場(日本進出は2000年)により、この頃から急激に縮小していきます。日本の洋書業界のことを知る最後の世代だろうなとも思っています。」


アムズは、出版事業も行うようになり、石川は畠山直哉の代表作で木村伊兵衛賞の受賞作でもある『LIME WORKS』の復刊に携わる。『LIME WORKS』は、1996年にシナジー幾何学という、CD-ROMやマルチメディアコンテンツを販売している会社から出版されたが、出版後に倒産し絶版になっていたため、復刻が望まれていた。


「復刊ではありましたが、畠山さんの本づくりに対する真摯な姿勢からはたくさんのことを学びました。アムズでは、書店としての仕入・販売だけでなく出版社としての本づくりや卸、世界中の出版社が集まるフランクフルトブックフェアでの海外仕入・卸も経験して、そのすべてが今も役に立っています。ただオーナーはわずか4年でこの店を閉店させ出版からも撤退してしまいます。しかし、その間に出会った出版社、編集者、作家、そして書店員の方々に面白い人たちが多く、彼らともう少し一緒に仕事をしてみたいと考えるようになりました。私は経費の支払いも担当していたので、この間に得たデータを元に、持続可能な書店の形を考えていきました。」

 

書店、ギャラリー、カフェ「三位一体」のCalo Bookshop & Cafeの立ち上げ

オープン当時のCalo Bookshop & Cafe(展示:久家靖秀、写真:市川かおり)

そして現在も入居している肥後橋の若狭ビルの5階で立ち上げたのが、Calo Bookshop & Cafeだ。現在2階と4階はThe Third Gallery Aya、3階はYoshimi Artsが入居しており、1階以外はギャラリーが集積するビルとなった。


「京町堀に柳々堂書店という建築書を中心としたお店があり、アムズ時代からお付き合いがあったので、このあたりにはデザイナーなどの事務所が多いことも分かっていました。当時、国立国際美術館の中之島への移転も決まっていたので、淀屋橋からも近い、肥後橋周辺で物件を探すことにしました。綾さんも同じビルでの移転を目指して、2部屋空いていた若狭ビルに決めました。大阪は東京や京都に比べて本が売れにくく、美術書となるとさらに売れにくい。本だけで生き残るのは大変です。書店として生き残るためには、他に何をどれぐらいすべきか深く考えました。当時はそこまで明確に意識していなかったものの、ソーシャルメディアがまだなかった当時、イベントがコミュニティをつくる手段のひとつだったように思います。イベントができる場所を自前で持つためには家賃が高くなります。想定していたよりも少し広くて不安がありましたが、柳々堂さんの紹介で出会ったデザイナーの柳原照弘さんと相談しながら、書店とカフェ、ギャラリーのバランスを考えて、現在のようなレイアウトになりました。レイアウトは2004年4月のオープン当初から変わっていません。オープン当初はIMI出身のアムズの同僚が手伝ってくれました。」

「書店員ナイト」2004年
10周年記念のnakaban展で、Caloのロゴやショップカードについてのトーク(2014年)
Calo Bookshop & Cafe10周年記念シンポジウム「統合する力へ アートと学びの場の未来」2014年3月15日(土)芝川ビル モダンテラス

お店の名前は港千尋に依頼し、世界で初めて写真集を制作したフォックス・トルボットの発明した写真技法カロタイプから命名された。初年には、アムズでの企画をフリーの編集者として引き継いだ『ペナント・ジャパン』(PARCO出版)の出版記念も合わせて、著者の谷本研、寄稿者の三木学、近代ナリコ、ゲストの橋爪紳也(建築史家)によるトークイベントを開催し、ギャラリーにはペナントを展示した。その後も書店員の集まり「書店員ナイト」を開催したり、畠山直哉のドキュメンタリー映画の上映会「未来をなぞる」をしたりするなど、さまざまな交流の場を提供してきた。10周年記念では芝川ビル【※8】のモダンテラスを借りて、伊藤俊治と畠山直哉、港千尋によるシンポジウムを開催し【※9】、20周年目も同じメンバーでCaloと3階のYoshimi Arts【※10】を会場にトークイベントを行った。


「2~3年続けられればいいと思っていたんですけど、いつの間にか20年も経ってしまいました(笑)。書店として見たら、大阪の中心部なので大きな本屋はたくさんある。だから取次を通っていない本やZINEが主力です。それでもこのジャンルなら全部揃っているという店でもない。カフェにしてもギャラリーにしても特化しているわけじゃない。どれをとっても中途半端なんですけど、だからこそ持続できたかなとも思います。3人分の仕事をやっているようなもので効率は悪いのですが、どれかが駄目になっても補えるところがある。コロナ禍が始まってもう5年くらい経ちますけど、その時カフェは当然売上ゼロになり、今でもカフェの売上はコロナ前の半分くらいです。でもオンラインショップに力を入れ、本だけでなく作品も購入できるようにしたり、ギャラリー展示もウェブサイトで展示風景が見れるようにしました。いまでは5年分の展示アーカイブができていますので、その成果か、ギャラリーで展示したいという作家のレベルもぐっと上がり、面白い作家と出会えるようになってきました。」

中嶋佑一 「タッチ」展 2020年
尾柳佳枝「Rest and Digest」2023年
尾崎和美 「green mood」2024年
榎忠作品集『Freedom』出版記念企画 「Freedom+」(企画:池内美絵)2024年

最近ではインドネシアのZINEや出版物を輸入して、ブックフェアなどでも販売しているという。


「インドネシアに初めて行ったのは1999年、IMIを辞めたあと伊藤俊治さんの影響でバリに通い始めました。1998年のジャカルタ暴動の直後でその後も長くジャワは危ないというイメージでしたが、2013年にようやく初めてジャカルタに行き、2017年には独立書店POSTを見つけて「わ~ここに私と同じことをしている人たちがいる!」と。それまでインドネシアで本を仕入れることは考えたこともなかったのですが、彼らからいろいろな出版社を紹介してもらって少しずつつながりが増えていき、グラフィック系の本を中心に紹介しています。」

2023年の「KITAKAGAYA FLEA」に出店した際に販売したインドネシアのZINE(写真右側)

インドネシアはルアンルパも含めてアートコレクティブが盛んな地域としても注目されている。クリエイティブが活性化する土壌があるのかもしれない。


「インドネシアのクリエイターは色のセンスが素晴らしくて、ミニマルの国から行くと衝撃的です。今のインドネシアのクリエイティブ業界は、日本の70年代〜80年代に似ていて上の世代が少なく、若手がよい仕事をどんどんやっていて活気があります。団塊ジュニア・就職氷河期が体験できなかった空気を彼らに分けてもらっている感じ(笑)。日本ではまだ東南アジアの国を下に見る人が少なくないように思いますし、特にインドネシアは伝統芸能や工芸のイメージが強いですが、同時代の実践として当然にリスペクトできる、こんなカッコいいものをつくっている人たちがいるよ、というのを日本でも知らせたい。日本と比べると、流通、書店、紙などいろんなものが整っていないどころかほぼないような状態なんですけど、その制約の中で工夫を凝らして本を作っています。そもそも出版の歴史を考えたら、日本の現在の取次の仕組みは戦時下に始まったもので、「整い過ぎているのでは?」とも思います。彼らの実践が日本でもヒントになることがあるかもしれません。」


これから書店をやりたい人に対して伝えたいことは何だろうか?


 「20年前と違い、個人で小さな書店を始める人は増え続けていて、そういう個人書店にむけた取次の仕組みも今はできてきていますが、利益の少なさから本だけでやっていくのが難しいのは変わっていません。じゃあ何を組み合わせるかというと、私の場合はもともと本屋を目指していたわけでもなく、お金をもらって働きながら、運良く自分の働き方を作れたのが今の状態です。だからどんな経験やスキルでも、あるものを生かすことをまず考えてみてください。これはアートスペースだったり、アーティストが自分の活動を持続させるときも同じだと思います。場所を持つということは家賃というリスクはありますがメリットも大きくて、人や情報が集まる上で自前の場所があることは大きなアドバンテージになります。」


最後に続けていくことで得たこと、大事にしているものを聞いた。


「コマーシャルギャラリーや美術館で展示できるようなものすごく尖った才能でなくても、長く活動を続けていくことで、人も作品も成長していきます。Caloで展示している作家やZINE制作者も、さまざまな仕事を組み合わせながら活動を続けているうちに20年来の付き合いになっている人も多くいて、彼らのおかげで店も私も成長してきたと感じています。20年の間に作家のライフステージも変化して、最近は子育て中の女性作家や高齢の作家が発表を続けていくためにCaloでできることについてよく考えますが、展覧会ってやっぱりかなり大変で、サポートしていても大変なので、なかなか難しいなということも感じています。でも続けている人はやめなかった人なので、やめないためにどうするかが大事。私ももう50歳を超えたのでいつまでこの形のまま続くかわかりませんが、70歳になったらまたCaloで展示するって35歳のときに約束してくれた作家もいるので、そのときまでCaloがあるようにがんばりたいとは思っているのですが(笑)。独立書店は、美術や映画、ダンスなど他の芸術と同様、いつも見ているのとは違う方向から世界を見るための場所で、会社や学校で周りの見えない圧力で言えないことを言える場所、例えば政治や制度といった話などもここなら安心して話せる場所でもありたいなと思っています。」

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注釈

【※1】日本文化デザイン会議 
日本文化デザインフォーラムと開催地実行委員会が共催する一般参加型の文化イベント。1990年は、中沢新一が議長となり、「WAY? 道×楽 道を感じる・道を楽しむ」をテーマに150名の講師が集い、9月21日(金)、22日(土)、23日(日)の3日間、さまざまなトークセッションが実施された。日本文化デザインフォーラムは、1980年の設立以来、非営利の任意団体であったが、2011年に一般社団法人日本文化デザインフォーラムとなった。
(URL最終確認2025年6月30日)

【※2】扇町ミュージアムスクエア(OMS)
大阪ガスの遊休不動産活用事業として、1985年に大阪ガス支社ビルを改装して開業した小劇場。ミニシアター、ギャラリー、レストラン、雑貨店などが併設されており、文化の発信拠点となっていた。特に関西の小劇団の活動拠点となっており、劇団☆新感線、南河内万歳一座、リリパット・アーミーなどの著名な劇団の主な舞台となり、戯曲賞なども創設した。2003年に閉館。

【※3】リバティ写真表現大学写真講座
  1985年に、大阪人権歴史資料館として開館した大阪人権博物館(リバティおおさか)で開設していた写真講座。

【※4】写真表現大学
(URL最終確認2025年6月30日)

【※5】インターメディウム研究所(IMI)
1996年、大阪・中津に設立された社会人向けのマルチメディア講座。「デジタル時代のバウハウス」を理念に、アートとテクノロジー、メディア、社会思想などを横断するユニークなカリキュラムを組み、東京や海外からも講師を集め、美術・芸術大学の大学院が少ない時代に画期的な試みを行った。南港、万博記念公園など短い期間に移転をし、時代に応じて形態も変化していった。現在は映像を中心とした「Eスクール」として活動を継続している。アーティストやキュレーター、写真家、映像作家、編集者などを数多く輩出した。

【※6】情報科学芸術大学院大学[IAMAS]
(URL最終確認2025年6月30日)

【※7】 NTTインターコミュニケーションセンター(ICC)
(URL最終確認2025年6月30日)

【※8】芝川ビル
(URL最終確認2025年6月30日)

【※9】Calo Bookshop & Cafe10周年記念シンポジウム  「統合する力へ アートと学びの場の未来」
(URL最終確認2025年6月30日)

【※10】Yoshimi Arts
(URL最終確認2025年6月30日)

INTERVIEWEE|石川あき子(いしかわ あきこ)

1973年生まれ。2004年4月アートブックショップとギャラリー、カフェを一体として運営する、Calo Bookshop & Cafe / Calo Galleryを大阪・肥後橋にオープン。近年は、日本で唯一のインドネシアの独立系出版社/者が手掛けるビジュアルブックの取り扱い店として、インドネシアのアートブック関係者との関係を築いている。



INTERVIEWER|三木 学(みき まなぶ)

文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人。独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。