美術家だけでなく、様々な顔を持ち活動する矢津吉隆が、いま気になるアートネイバーを訪ねて語る「隣人と語ろう」。前回に引き続き、アーティスト・コレクティブAntennaの今までの活動とこれからを紹介する。
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前編の冒頭で、2000年から2020年の20年間は後に「芸術祭の時代」と言われるだろうと記した。確かに2000年に越後妻有(新潟県)で第1回目の大地の芸術祭が始まり、その影響もあって日本各地でさまざまな地域アートプロジェクトや芸術祭が行われるようになった。最初は発表機会の少なかった若いアーティストの新しい表現の場として歓迎されたが、それは同時にさまざまな問題を浮かび上がらせることにもなった。
田中「滞在先のアートプロジェクトでは地域の人と、密にコミュニケーションをとり、アート作品と土地との接続に全力で向き合っているものの、自分たちのアトリエ周辺では全く作品を見せることもなく、アートを通じた地域との関わりを何も持っていない事に違和感を感じ始めていました。 」
そこで、地域の人々にも見てもらえるように桂のスタジオを改装する。それが2008年から2010年まで運営をしていた、Antenna Alternative Art Space(後にAntenna Art Space[AAS])【※1】である。それは、「祭り」から「日常」、「地域」から「地元」への回帰ともいえる。
田中「面白いアーティストに出会ったら、うちで展示しようよと話して、持ち出しでやっていたと思います。自分たちで企画して、京造(当時・京都造形芸術大学)と市芸(京都市立芸術大学)出身のアーティストに展示してもらう機会は多かったですが、そうではない作家、例えば淺井裕介くんにワークショップと展示をやってもらったり、色々なアーティストとの交流がありました。学生たちも巻き込み、展覧会のマネジメントをやっていました。」
市村「この頃は、田中のスペースに対しての欲求が強かった気がします。」
そして、この時期から京都でもアーティストのスタジオが増加し、オープンスタジオの気運も高まってくる。
市村「あるスタジオの先輩から、連携してオープンスタジオしようという話が来て、最初4軒くらいでやりました。僕らはどうせやるんだったら、ちゃんとパッケージ化して、4軒を1個のものとして見せた方が効果的だし、それぞれに来るお客さんを他のスタジオに流すとか、ひとつのイベントとして見せられると思っていたんですけど、他の人たちは1年目で情報を集約したり、歩調を合わすのに疲弊したこともあって翌からは合同でやるのを止めましょうということになったんです。」
しかし、それは多くの人に知ってもらう機会としてもったいないという想いが勝り、Antennaが主導する形でオープンスタジオ「KYOTO OPEN STUDIO」【※2】が行われるようになる。
Antennaはその後も、多くの人を巻き込むイベントに積極的に参加する。2009年に大分県の別府市で開催された、「別府現代芸術フェスティバル2009」【※3】に参加したことも大きいという。「別府現代芸術フェスティバル」はNPO法人 BEPPU PROJECT【※4】が2005年から主宰する芸術祭だが、その年は「混浴温泉世界」と題され、アデル・アブデスメッド、ホセイン・ゴルバ、マイケル・リンら海外から招聘されたアーティストを含め、なんと170組のアーティストが参加した。
田中「混浴温泉世界は「ここに住む人も旅する人も、男も女も、服を脱ぎ、湯につかり、国籍も宗教も関係なく、武器も持たずに丸裸で、それぞれの人生のある時を共有する」。総合ディレクター芹沢高志さんの言葉ですが、多文化共生のコンセプトが込められていました。そのコンセプトには我々も強く共感していましたし、プロジェクトへの参加を通じて大きな影響を受けています。特にアーティストの遠藤一郎くんと出会い、彼が声をかけた沢山のアーティスト達と別府に集まり、共同生活しながら会場を作り、作品を作り、展示した事もかなり影響があったと思います。Anntenaはさらに、カテゴリーに捉われずもっと暴力的にクリエイティブの全てを並列に繋げるような方向に進んでいきました。」
市村「もともと僕らは集団で活動していたから、どこまでいっても自分の作品だけど、自分の作品じゃない、みたいなことがあった気がします。だから余計混ぜやすいという。」
田中「我々はメンバー個々の創造性を最大限に混ぜ合わせ、ひとつのアート作品を作るスタイルだったので、例えメンバーでなくとも誰が関わったとしても面白くなればそれで良いという考え方になっていきましたね。」
市村「田中の方がそこへの順応が早かった気がする。今まで自分たちの中でその状態だったけど、このとき自分たちのアウトラインの外側とも混ざるみたいなことが起きてきました。」
田中「京都市立芸術大学のギャラリー、通称@KCUA(アクア)こけら落としの展覧会『きょう・せい』展では全てが混ざり合うコンセプトの展覧会を矢津を含めた同世代のアーティスト達と作り上げましたね。その後も多様な表現を掛け合わせる方向のプロジェクトはさらに増えました。」
「別府現代芸術フェスティバル2009 混浴温泉世界」の国内展として開催された「わくわく混浴アパートメント」をきっかけに、Antennaと遠藤一郎が牽引する形で千葉県柏市で「わくわくJOBAN-KASHIWAプロジェクト」が開催され、2010年3月には、再び大分県別府市にて「わくわく別府タワー」が開催される。加えて2010年8月には、「わくわく京都プロジェクト」が企画される。
Antennaは京都の地域性を重視し、「わくわく京都プロジェクト」だけでなく、オープンスタジオやギャラリーツアー、お寺巡り、夏祭りなど、より枠を広げた「京都藝術 Kyoto Arts 2010」を0000(オーフォー)【※5】の緑川雄太郎らと企画。2010年8月の1か月間、京都各所で展覧会やイベントを開催したり、広報誌『Kyoto Arts File 2010』を発行して、その期間に京都で行われる展覧会やイベントを告知したり、トークイベントやギャラリーツアーをしたりすることで、ジャンルや世代をまたいで京都の芸術活動を連携させ、より一望的に立体的に見せることを試みた。
展覧会は、元立誠小学校や京都芸術センターなど複数箇所で開催され、なんと約90組のアーティストが参加する一大イベントになった。ただし、それを実施するための協賛金などを集めるとき、「アーティストがなぜそのようなことをやるのか?」、「アーティストは作品をつくっていればいい」、というような指摘もあり、既存のアートやアーティストの枠組みの限界も感じるようになる。
田中、市村、そして矢津も、アーティストとしての活動と、それ以外の活動も含むプラットフォームづくりのような活動にも手を広げていくようになる。
まず、Antennaを離れて個人で作家活動を5年続けた矢津は、悩みながらも実績を積み、ロンドンへの留学を検討していた。日本のマーケットでの広がりの無さを感じていた一方、いつの間にか自分がAntenna時代とは全く異なるアートの本流みたいなところに入っていこうとしていることに強い違和感を覚え、最終的に日本に残る決意をする。
そして矢津は2013年、瀬戸内国際芸術祭のアートプロジェクトとして、滞在型アートスペース「kumagusuku」を立ち上げ、法人化し、芸術祭の運営やアートプロジェクトの立ち上げ、アートスクールの設立など、アーティストとして特異なポジションを確立していく。
矢津「振り返って考えると、自分がやってきたことは大体先にAntennaがやっていたイメージがあります。スペースを作り、法人格を作り、コミュニティ形成や別のジャンルとのシナジーを作ったり。僕も気づかずに意識しているところもあったのかもしれません。自分だったらこうするというような、対抗意識ではないけど、アンサー的なものがあったのかもと思います。」
さかのぼって2011年当時、0000 gallery(オーフォーギャラリー)が京都の五条でオープンし、京都市立芸術大学在学中の塩谷舞(文筆家)が創刊したアートマガジン『SHAKE ART!』で特集されるなど話題になっていた。しかし、そのスペースは1年足らずでなくなり、その後、そこをAntennaが使用し、アート活動だけではないさまざまな創造活動に拡張する場所にしていく。それがアンテナメディアである。
市村「桂のスタジオを引っ越すときに話をしたんですが、プロジェクト単位でもある程度できるかなと思ったけど、場所がないと、本当に活動がなくなっていくんです。だけど場所があると用事がなくても集まるし、場所って大事よねって話をしてアンテナメディアのスペースをつくることになったんです。」
同時期に、アート業界でもユニットやグループといった呼称より、メンバーの出入りや個人活動などが離散的で自由度の高い「コレクティヴ」といった言葉も流行し始め、Antennaもコレクティヴとして認識されていく。その理由は何だろうか?
田中「アーティスト活動を拡張していく中で、社会とアートの接続にはもっと多様な可能性があると考えていました。僕と市村でアーティスト・コレクティブとは別の活動体がいるねと話していて、作品をさらに拡張するイメージです。名前もAntennaのアートとその媒介という意味を込めて、Mediumを複数形にしAntenna Mediaとしました。」
そこには、深井史郎というキーパーソンもいたという。深井は当時、阪急百貨店のスポーツ部門で働きながら、若いアーティストの支援をしていた。深井は0000の活動も支援していたという。アンテナメディアは後にNPO法人になる。
市村「震災の後くらいに、こういう動きになって。田中が美大を卒業しながらフリーランスとして活動していた若い世代のクリエイター達に声をかけてメンバーを集めました。1年間くらいは任意団体だったんです。チームはできて、夏くらいまで改装をしてスペースもできました。」
アンテナメディアのスペースは、現代アートだけではなく、さまざまな展示に使用された。2013年には、西野達プロデュースによる、京阪電車なにわ橋駅「アートエリアB1」【※6】を中心に開催された「鉄道芸術祭」の一会場になる。しかし、なぜNPO法人にしたのだろうか?
市村「どの法人格にすればいいかって話をミーティングでいろいろ話したと思います。ただ、特に京都なので、株式会社にすると、自分たちが儲けようとしているんじゃないかと思われる懸念がありました。NPOであれば、内容的にも公共的なイメージなんじゃないかということでそうなったんだと思います。」
NPOの事業や運営はどのようにしていたのだろうか?
田中「アート、デザイン、建築、展覧会企画、その他事業でもメンバーのスキルを生かせるものは全てやろうとしていました。ただ資金調達、経営に関する知識がほぼ無かったので、収益性なく持ち出しでやっているプロジェクトも多かったです。あとは『パラソフィア京都国際芸術祭』【※7】の開催に合わせた取り組み『ART GRID KYOTO』【※8】では僕は副実行委員長になり、他のメンバーが運営チームとして関わりました。京都市内の芸術文化に関わる方々と連携し、コミュニティの活性化に取り組んだのは大きな仕事のひとつでした。あとは保育園の設計や、美術館でのワークショップなどもやりましたね。」
市村「個々の仕事の受け皿なんだけど、個人ではできないことを法人という枠組みを使って、例えば行政や企業と一緒に何かやるみたいなことができたらと思っていました。今だったらもうちょっと色々できると思いますが、理想のイメージとしては、そう思って動いていましたね。」
田中「市村は、オープンスタジオのツアーで、バスを貸し切ったスタジオツアーをコーディネートしていて、かなりしっかりやっていましたね。通常のアーティスト活動や、展覧会の立て付けではできない動き方を意識して、とにかく思いついたことはできる限りプロジェクト化していました。」
アートスペースとしての機能もしっかり果たしていた。特に現在、アーティストとして一線で活躍している久門剛史の個人の作家活動を始めるきっかけにもなった企画展が行われたのもアンテナメディアだ。久門は、Antennaのひとつ下の年代で、SHINCHIKAという映像を使ったアーティストユニットを組んで活躍していたが卒業後は就職。震災後、個人でアーティスト活動を始めた。
田中「久門くんが『展覧会をすることで、自身の作家性を考えるいいきっかけになった』と言ってくれていましたね、嬉しい瞬間でした。」
さらに京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)のゼミなどでも使われ、大学ではできない思い切った展示が行われている。そこから活躍していったアーティストも多い。
市村「既存の場所でできないことをここでやったらいい、みたいな気持ちはあったような気がします。うちでたまに子供たちのアート教室をしているんですけど、そこでも同じようなことを思っていて、例えば絵の具を山盛り出すみたいな学校でも家でも怒られるけど、どうしてもやりたければやらしてあげられる場所があるって大事やなって思いますね。」
さらに食のイベントなども多数行っているが、まさにアンテナメディアはそのようなアートだけではない受け皿として機能していた部分はあるだろう。当時、アンテナメディアが掲げていた事業は、アート、建築、デザイン、ランドスケープデザイン、編集、公共空間のマネージメント、展覧会やイベントのプロデュース、出版・ブランディング、ワークショップ、ソーシャルデザイン、共同農場など幅広い事業の例が挙げられる。
田中「メンバーだった木村日出夫は建築家だったのでプランニングが得意でした。 メンバーで話し合いながら、我々にとって社会を豊かにする活動って何だろうか?と散々話し合った中で出てきたアイディアを形にしていきました。農業のプランに関しては不完全燃焼に終わりましたが、それ以外のアイディアは全て事業として実施出来たと思いますよ。」
NPOとして法人化し、活動の幅が広がっていくAntennaを、当時の矢津はどう見ていたのだろう?
矢津「田中が『Antennaはアーティストとして見られなくなっている』と言っていましたが、僕もそう思っていました。そしてそれに対して理解できるところもそうじゃないところもあって。やっぱりアーティストとして王道では勝負しないのかとか、まだそんなことを思ったりしていましたね。けれどもそこにこだわらずに色々やってみる姿勢に、影響を受けていたのは事実です。でもそれがアートとしてどうなのかっていうのは、自分の中で消化しきれず、もやもやした気持ちはありました。周囲に迎合せずに自分たちで道を確立していく姿に、嫉妬も正直あったと思います。」
アンテナメディアは、スペース運営を中心に維持できていたが、2016年頃、管理会社が変わったことにより立ち退きを迫られ活動は次第に縮小していく。
そのころ、アーティストとしてのAntennaとアンテナメディアはどのような分け方をしていたのだろうか?
市村「それぞれが別の取り組みをするチームであり場所であって、別人格という意識はすごく強いと思います。なので、アンテナメディアに関しては、他の人たちも巻き込んでいるし、より社会とどう接続していくかっていう部分がポイントになるような内容だったので、NPOとかそういう選択肢が出たんだと思います。」
その頃から、アーティストの活動もより社会と溶け込んでいくようになっていく。
市村「京都藝術の時に、協賛金の話を色んなところにしに行ったら、『アーティストが何してんねん』と言われた経験があると矢津が言っていましたが、全体でいい感じにしようとしているだけなのに、それを言われるっていう。その京都の状況とかも含めてだとは思うけど、じゃあアーティストじゃない形でやる方が動きやすいよね、と考えることが多くなりました。」
2016年頃を境にAntennaとしてのアート活動はほとんどなくなっていくが、その理由は何だろうか?
田中「Antennaでは作品を通じ社会に向けてメッセージを発信しようとしてました、ただ作品鑑賞という形式での鑑賞者との関わり方はあまりに無力だと感じていましたし、震災の心理的影響も大きかったのではないかと思います。既存のフォーマットでは何も変えられない、本当にやるべきことは何だろう?と考えていました。あとはアトリエを失ったことも大きかった。同時に海外での作家活動の可能性も考えていた頃で、数か月ベルリンの友人アーティスト達に会いに行ったり、東京都のアーティスト派遣でバーゼルに滞在制作したり。人生の方向性を色々と探っていましたね。」
市村「むしろアンテナメディアでやるプロジェクトの方が効果が出るというか、対象がもっと大人数になるので。アート業界の中でやると、ちょっと閉鎖的な感じになるし、結局関係している人口の少なさ、ある程度限られた人数の中でぐるぐる回っているだけやなっていうのをすごく感じていて、業界内にいつまでも働きかけたって、世界が平和にならないというか。そうじゃなくて、そこを歩いてるおっちゃんとか、家族連れとかに何か伝えて、彼らがハッピーになるような仕掛けを作った方がいいじゃないかと。」
矢津「僕は中にいたわけじゃないからわからないけれど、Antennaの言う共同体でやることの限界が来たんじゃないかなと外から見ていて思いました。アンテナメディアの力もあって、Antennaじゃなくてもできることが増えてきて、同時に、自分たち自身が作家としてどう生きていくか、このタイミングでふたりも考えたんじゃないかな」
その頃からAntenna、そして田中や市村の活動は、アートシーンから外れたと思われるようになった。それとは逆に、世界的には社会との関与を深めるソーリャリー・エンゲイジド・アートが台頭し、2016年にはイギリスの建築デザイン集団アッセンブルがターナー賞を受賞したり、2023年にはドクメンタのディレクターにインドネシアのアーティスト・コレクティヴ「ルアンルパ」が就任するなど、実践的で社会改良的な取り組みをする集団が、アートシーンの中で認められるようになっていく。その意味では、Antennaは日本で最も先行していたともいえる。その意識はどうだったのだろうか?
田中「アートにカテゴライズされる作法というか、文法のようなものがあり、その文法や作法の範疇で作品構築をしようとすると、どうしても表現が表層的になる感覚がありました。リレーショナルアートの作品から受けた影響も相当ありました。ニコラ・ブリオーやパッタイの話もよくしていて、もちろん社会彫刻も、宮沢賢治の農民芸術概論綱要も共通した概念があり本当に好きです。頭の中では『インスタレーションで組み合わせている要素が複雑化し、人、場、物、事に入れ替わるだけで、軸となっているメッセージや構造は同じだ!もっと出来ることがあるはずだ!』と突き進んでいました。「ルアンルパ」にも東京で会い、ドクメンタ15も見に行きましたよ。彼らの考え方には共感しかないですよね。」
市村「僕は、アートっていう言葉がなくなるのが理想だと思います。全員でアートをやっていれば、わざわざアートと呼ぶ必要がなくなるんじゃないかなって思うので。」
地域でのアートプロジェクトや芸術祭は、観光プログラムとして成功した場所もあるだろう。しかし、戦後、初めて出会ったともいえる地域とアートは、さまざまな課題を浮かび上がらせ、「地域の活性化」という共通の目的の中で、有効ではないフォーマットとなる場合もあった。
現在、自身の住んでいる地域、地元の中で、アーティストとして、見えない「アート」を社会実装する意味を最後にお聞きした。
田中「アートの可能性は強く信じています。少し大袈裟な言い方になりますが、人類を進化させうる重要な要素だと思っています。アートが生み出す新しい価値は人間の認知構造を書き換えるところにあると思っていて。ただアート周辺の制度に対しては、10数年関わってきて違和感をたくさん感じてきました。なのでそれらの違和感を取り払い、自分が信じているアートの可能性をいかにして社会に展開するか?ということを元メンバーの皆がそれぞれ考えていて、各々のスタイルで実践しているのではないかと思います。
僕がカフェ(no-mu)とかホテル(6ishiki)【※9】を運営するのは芸術祭に対する違和感がきっかけになっています。芸術祭では予算を年度内に消化して終わってしまいます。しかしカフェや、ホテルは365日いつまでも人々の関係と行動を繋いでその地域に小さな変化を継続的に生み出します。カフェは距離の近い人々に、ホテルは距離の遠い人々に届けたい価値や、土地での新しい出会いを作ります。」
田中「仮に僕が届けようとしている価値や出会いをアートの制度に合わせたフォーマットに落とし込んだとしたら、今のように地域の中で自然に馴染んでいくあり方は難しいだろうと思っています。ある種のアートらしさを感じさせる派手で祝祭的な手法が有効な場合もありますが、地方の日常には馴染まない。自分はアーティストとして作品を提示するが、お客さん達はアートとして感じてない状況下でローカルに影響を与えていく。ここに新しい面白さを見い出してます。
その他に、矢津と『アーティストの作品制作に至る思考プロセスをもっと活用出来る場があるはずだよね?』と2018年あたりから度々話していました。そんな中でアート思考に関するプログラムも一緒に立ち上げましたね。このアート思考はその後自分でもスクールを立ち上げ、書籍を出したりしました。ここ数年は京都大学のアントレプレナーシップ教育「京大異能開発プログラム」の設計をしたり、株式会社サイバーエージェントでの人材育成プログラムを企画したりと、アート思考に関連した活動はさらに広がっています。
Antennaの初期では資本主義の構造を外から批判的に捉えていましたが、今では内側から人々に変革を起こすような活動にシフトしています。経済活動の中で自分の表現をし、社会に大きな変化と成長をもたらす起業家達のマインドはアーティスト達とほぼ同じだと感じます。この発見も越境する中で見つけた面白い共通点でした。市村が『アートという言葉が消えるようなあり方』が良いと先ほど言っていましたが、見えない「アート」を社会実装する意味は、特にこの日本の社会では『自分達の信じる価値を届け、人々の意識に変化を生み出すことを最大限可能にする』ことだと考えています。僕にはその「アート」はしっかり見えています。
先に話した(前編参照)、アーティスト活動をスタートさせるきっかけにもなった、中井康之さんの『君がアートと思えばそれがアートだし、アートと思わなければアートじゃないんだよ』という言葉は、今も意識の深いところに問いとして存在し、自分が思うアートの形を作り続けているのだと思います。」
市村「地域活動系に関しては、流れに身を任せた結果そうなっているという部分もあります。ただ、僕は横浜で生まれて10歳までいて京都に越してきて、その後、大学を出て高山に2年間行って、帰ってきたら滋賀県民になっていてみたいな。引っ越しを何回かして、いわゆる自分の地元みたいなものがないんですね。
別に地元が欲しいというわけじゃないんですけど、自分の住んでいるエリアに対しての接続の方法がわからないっていうか、それがすごく根っこにあるのかなっていう気はしていて、そこに自分よりも活動的にこの地域をもう少しよい場所にしてみましょうよとかっていう人がたまたま近くにいたりして、確かにそうかもなって。自分だけだと地域にどう接続していいかわからないけど、そういう形を使えば自分でも接続する、かつ自分がその持っている技術を、アートという技術を含めて使えるんじゃないかと。それを使った結果、そこに住んでいる人だったり地域だったり、社会を今より3ミリぐらいよくできるみたいなことかなと思ってやっています。
今、一般社団法人シガーシガ【※10】を立ち上げて、大津市の北部の方で活動してるんですけど、それも本当たまたま美術家である僕と建築家、写真家、福祉家の4人で立ち上げて、行政とも関わったりしながら、細々やっているんですけれど、そこでも例えばイベントとかがいわゆるアートじゃなくても、精度が高いとその景色を見ることで、ちょっとずつかもしれないけど、視覚的だったり、空間的だったり、アーティストの意識を少しずつ渡せるような気がしています。
僕は表だっていわゆるアート活動はしてないけれど、例えば「就労継続支援B型作業所 蓬莱の家」【※11】っていう作業所の隣のスペースが空き地、荒れ地だったんですが、そこを綺麗にしてシェアファームをつくって、福祉と福祉目的以外の人が関われる機会と場所、さらに人を呼び込むためにマルシェを立ち上げたんです。」
市村「そのマルシェを立ち上げた目的としては、地域にあんまり人が寄れる場所がなかったので、月1回なんですけど、月1回絶対やっていて、そこに行けば誰かと出会えると。3回目ぐらいでそれを地域の若手の独立した農家の方に渡して、地元の若い農家が運営しているマルシェっていう形に最終的にしました。地元の人たちとか成安造形大学が比較的近いんで、そこの学生が関わって、毎月のマルシェを運営している。それ自体も自分たちの作品だといえるのかなと思っています。
マルシェを作るに当たり、その農家とミーティングして、本人も忘れていたような大切なことを言語化していったんですけど、作品のコンセプトを考えるのと一緒やなと思って。ただ地元農家がやっているマルシェですで終わるところに、そもそもどういう人がやっていてどういう場なのかっていうちゃんと意味を与える作業がアーティストとしてできたのかなと。こういうのは、僕的にアート活動の延長ではあって、全然表には見えないけど、その地域と関わることで、自分の表現が地域に入っている気がします。」
矢津「ふたりともそれぞれにあった面白い活動を今もしてるよね。僕が思ってることを言わせてもらえるなら、今ってちょっと大袈裟に言えば、時代がAntennaに追いついてきた気がするんですよね。
初期から新しいことをずっとやってきたけど、なかなかアート業界の人たちから受け入れられてなくて、結局ずっとオルタナティブだったような気がするし、そのまま本流への戻り方や乗り方がわからなかったから、活動が止まってしまった側面もあると思ってて。もちろんそれがあって、今のふたりの活動に繋がっているとは思うし、それでいいとも思う。
ただ今であれば、あの時できなかったこととか、色々とひっくり返せるんじゃないかなって思っています。だからそういうAntennaを僕は見てみたいですね。僕も個人で色々やってパワーアップしたし、ドイツで作家をやっている、おかひろしとか、ハリウッドVFXを作っている大喜多智裕、あと伊東豊雄さんのNPOで働いていた古川きくみとか、昔のメンバーも呼んで、なんか面白いことやって欲しいなって思います。」
田中がデザイン専攻であったということもあって、Antennaは活動当初から、「アート」という枠を超えた創造性について探求してきたコレクティブであった。これまでのさまざまな活動に一貫して流れるものは、「共同体による創造性の追求」であったともいえる。
だからこそ、アートやデザイン、映像、工芸、家具などさまざまな技能を持つアーティストと協働してきた。しかし、それを地域の中に組み込むときに、ちゃんと「機能しない」、「ワークしない」ということに気付いたともいえる。つまり、「共同体による創造性の追求」に加えて、「地域共同体による創造性の追求」へと移行したとき、それが「アート」のような形式をとることでかえって地域住民が疎外され、障害になることの方が多いと実感したのだ。
それは地域アートプロジェクトの理論的な背景でもあった、「リレーショナル・アート」やその後の「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」といった観客関与から社会関与へと踏み込む流れと同期するともいえる。また見方を変えれば近代以降、日本にあったさまざまな伝統工芸が、西洋のファインアートを美術に翻訳したことで、一部だけ抜き出されて失われていた、工芸的に機能することの美を、地域での実践、実装の中で展開しているともいえるのではないか。それは「罰としての労働」ではなく、「囿圜 yuen」以来、日本の歴史を追求し、地域で活動する中で実感した「はたらき」そのものに神聖なものを見出す日本的な価値観の反映ともいえるだろう。
だからこそ一見、「アート」のように見えない現在の田中、市村、矢津の活動も、近代以降の矛盾を解消し、日本の地域社会において、アーティストやアートの居場所や機能する形を見い出す最前線の活動だといえるのではないだろか。
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関連情報
Antenna(アンテナ)2002年結成、京都を拠点に活動するアーティスト・コレクティブ。日本の歴史と文化より着想し、多様なメディアを用いて創作活動を行う。結成からメンバーは入れ替わりながら現在は、コアメンバーの市村恵介と田中英行、他に絵師・小鐵裕子らによって構成される。主な展覧会に、「Power, Where Does the Beauty Lie」(SOMA美術館、ソウル、2013)、「文化庁メディア芸術祭香港展2012 “PARADE”」(香港、2012)、「六本木アートナイト2012」(東京、2012)等がある。
今までの活動歴はこちら。
(URL最終確認2024年6月21日)
注釈
【※1】Antenna Alternative Art Space
(URL最終確認:2024年6月19日)
【※2】「KYOTO OPEN STUDIO」
(URL最終確認:2024年6月19日)
【※3】別府現代芸術フェスティバル2009「混浴温泉世界」
(URL最終確認:2024年6月19日)
(URL最終確認:2024年6月19日)
【※5】0000(オーフォー)
緑川雄太郎、Nam HyoJun、谷口創、Kim okkoの4名によるユニットで、0000 galleryの運営、展覧会やアートイベントを開催した。
「速報『京都藝術』京都の文化の全体像を見渡すための試み」『Ameet』2010年6月24日。
【※6】アートエリアB1
(URL最終確認:2024年6月19日)
(URL最終確認:2024年6月19日)
(URL最終確認:2024年6月19日)
【※9】6ishiki
(URL最終確認:2024年6月19日)
【※10】一般社団法人シガーシガ
(URL最終確認:2024年6月19日)
【※11】蓬莱の家(就労継続支援B型作業所)
(URL最終確認:2024年6月19日)
Qe to Hare Inc. 代表取締役/美術家。1981年京都生まれ。2007年京都市立芸術大学大学院にてMFAを取得。2002年よりAntennaとしてアーティスト活動をスタート、世界12ヶ国45都市、60以上の美術館、ギャラリー、芸術祭などに作品を出展、2017年TOKAS二国間交流事業バーゼル派遣、2019年Qe to Hare Inc. 設立、アーティストの視点から独自の事業を展開しており、現在は地元京都府亀岡市にてホテル・カフェを経営しながら、地方創生に関する様々な事業にも携わっている。近年の主な仕事に、京都大学IMS教育プログラム設計、株式会社サイバーエージェント アートプログラム企画、ヴェネチアビエンナーレ建築展 伊東豊雄 インスタレーション制作など、著書に『L.L.A. BOOK-アート思考を獲得するための10のレッスン-』(emu library、2021)がある
美術家。1979年神奈川生まれ。
京都市立芸術大学彫刻専攻卒業後、飛騨高山で木工を学ぶ。
2005年よりAntennaに加入、多数の展覧会やプロジェクトに関わる中で、誰もがアーティストたり得るとの思いに至り、みんなが生きている活動そのものが美しくアートであると考え、地域活動やワークショップ、アトリエなどを主催している。
滋賀県大津市の北部に位置する「湖西」エリアにて地域団体「一般社団法人シガーシガ」を立ち上げ、ローカルにおける地域活動に取り組む他、市村美術として建築にも関わり、人が住み、生きる、場をつくる活動にも取り組む。
1980年大阪生まれ。京都市立芸術大学美術科彫刻専攻卒業。京都芸術大学専任講師。京都を拠点に美術家として活動。作家活動と並行してオルタナティブアートスペース「kumagusuku」のプロジェクトを開始し、瀬戸内国際芸術祭2013醤の郷+坂手港プロジェクトに参加。2017年からは美術家山田毅とアートの廃材を利活用するアートプロジェクト「副産物産店」を開始。主な展覧会に「青森EARTH 2016 根と路」青森県立美術館(2016)、「やんばるアートフェスティバル」沖縄(2019)、「かめおか霧の芸術祭」京都(2018~22)など。2022年からはビジネスパーソンを対象とした実践的アートワークショップ、「BASE ART CAMP」のプロジェクトディレクターを務める。
文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。
アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人。
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。
美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。