「挑戦する人を育くむための「環境の器」をつくる」 ランドスケープデザイナー、忽那裕樹さんに聞く。 (前編)

「挑戦する人を育くむための「環境の器」をつくる」ランドスケープデザイナー、忽那裕樹さんに聞く。(前編)

ランドスケープデザイナー|忽那裕樹
2025.09.09
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大阪、関西在住の人でさえ、開催する意義に疑念を抱き、その成功を危ぶんでいた「大阪・関西万博」。多くの問題をはらみながらも、開幕前にはなんとか準備が整い、開幕後は多くの人で賑わっている。SNS時代で多くのクリエイターが批判を受けながらも発信し、状況を好転させてきた。その屋台骨を支えてきたのが、ランドスケープデザイナーの忽那裕樹(くつな ひろき:E-DESIGN代表取締役)【※1】さんだ。

「大屋根リング」が注目されているが、「静けさの森」を含む会場全体のランドスケープデザインや、それまでの体制づくりを主導してきた。大阪のまちづくりに長く関わり、「水都大阪2009」や大阪府江之子島芸術創造センター(enoco)【※2】などの運営の経験やそこで培った人間関係が、結果的に「大阪・関西万博」に生かされていく。また、「大阪・関西万博」は、同じく忽那さんも深く関わった歩行者空間に生まれ変わった「なんば広場」【※3】や御堂筋の緑地公園化など、大阪の都市の再編とも連動している。

まちづくりには、デザイン(形)だけではなく、「しくみ」や「うごき」が必要であると説く忽那さんのキャリアと、これからの街とアートの可能性についておうかがいした。

忽那裕樹(くつな ひろき)さん

スポーツと自然の中で育った少年時代

どのような学生時代を過ごしたのだろうか?


「父親が堺泉北工業地帯の石油会社に勤めていたので、堺市の新金岡団地の近くの社宅で育ったんです。第二次ベビーブームの真っただ中にいたので、金岡中学は日本一のマンモス校と言われていて一学年32クラスもあったんですよ(笑)。もともと運動神経だけで生きてきたようなスポーツ系で、小学生の時は野球をやっていて、全国大会に行くような少年野球チームでした。凄くスパルタでしたが……。さらには毎日のように学校が終わってから、南海ホークスの応援に行っていましたね。でも、小学6年生の時に父親が阪南市に一軒家を建てて引っ越ししたら、1学年3クラスしかいない中学だったんですね(笑)。海そく山の環境で、海で思いっきり泳いで、モリをつくって魚を刺して焼いて食べるとか、山を駆けずり回るとか、ものすごく新鮮でした。取り放題のカブトムシをとって、都会の天王寺の歩道橋でみんなで売りに行ったり(笑)。」


堺泉北工業地帯は、戦後の阪神工業地域の中核となるエリアで、大阪府堺市から高石市にかけて広がる臨海部の工業地域で、石油化学コンビナートを中心に、鉄鋼、金属などの大工場が立地していた。その周辺地域は日本住宅公団(現・UR)の第一号公団である金岡団地やニュータウンを中心に膨大な数の子供が住んでいた。


「引っ越した阪南市の中学は野球が弱かったので、バスケットボール部に入りました。監督は全国大会で清風中学を優勝させるような先生で、はじめはベタ褒めしてくれるんですけど、夏休みになったら豹変してスパルタになって休みも年に2回くらいしかなくなってしまうのですが(笑)、大阪全体ではベスト4に入って、私自身もトップ5の優秀選手に選ばれました。高校大学一貫校の高校からスポーツ推薦で特待生に、と誘われたり、バックにいる企業が来て、親の家を建ててやるから東京に来いとか言われたり(笑)。でも、先輩を見ていたら、ケガをした途端に特待生が取り消されるとか、いろいろ見てきたので、結局、公立高校に行って、弱小のバスケットボール部を強くするみたいなストーリーをつくりたいなと思って(笑)。でもそこでもベスト8くらいまでいきました。」


 しかし、その時まではまだ将来のことは考えていなかった。


「何も勉強していなかったので、全校生徒460名中450番くらいで(笑)。でも理系とか物理がすごく好きで、救急車の音が変わることを証明してくれる物理の先生がいて感動して……。理系に行きたいと言ったら、お前の成績で行けるか!と言われたんですけど、そこから半年死ぬほど勉強したら、460名中20番くらいになったんです(笑)。それで理系のクラスに行けて、すごくいい先生が担任に当たって、成績で大学を選ぶんじゃなくて、やりたいものを見つける場所が大学だから、何やりたいねん?と言われたんです。」


 そこでまちづくりを研究している大学があることを知る。


「中学生のときは学校が荒れていたこともあって、当時の僕はやんちゃ系で、公権力やスパルタの先生みたいなものが凄く嫌いで、学校も権力で押さえつけるもんだと思っていたんですよね(笑)。だから反抗しまくっていて、思い切って言うとパブリックというのは破壊の対象だったんですよ(笑)。でも、先生に大学の研究室がどんなことをやっているかという一覧を見せてもらったら、大阪府立大学や千葉大学に、まちづくりをやっている、みんなのものをデザインしているという研究室があったんです。僕はやんちゃはしていたけど、地域のことは大切にしていました。いっぽう、権力は嫌いで、破壊の対象だと思っていたので、それがデザインされているものだとか、誰かが愛情を込めていたものだなんて想像もしなかったんですよ。あの時の感覚を一番覚えているけど、みんなが愛して設計したり、まちづくりをしていることを知ってから、外を出て歩いたら、気持ち悪いくらい風景が全然違って見えたんです。それがランドスケープに近づく原体験ですね。」

ランドスケープデザインとマジックとの出会い

 そこで大阪府立大学(現・大阪公立大学)の研究室に出会う。


「大阪府立大学、千葉大学、東京農大に加えて、京大なんかにも公共的なことを扱っている研究室はあったんですけど、まちづくり感がしなかったんですよね(笑)。その中で緑地計画をやっている府大にすごく興味を持ちました。それと府内に住んでいる学生は学費が年30万円で安かったのもあって、府大の農学部の緑地計画工学科に入学しました。」


もともと緑地計画工学科は、久保貞という北海道大学出身の造園家・作庭家・ランドスケープアーキテクトがつくったコースで、久保は海外で多くの日本庭園を作庭しており、カリフォルニア大学バークレー校の教授であったガレット・エクボとの交流も深かった。エクボは、ランドスケープデザインの近代化を推し進めたランドスケープアーキテクトで、久保とエクボの縁もあって大阪府立大学では、カリフォルニア大学バークレー校との交換留学制度も設けられていた。


 「緑地計画は緑を扱うということで農学部の中につくられたんですが、農学部の他の研究室では気象学を学んだり、農業機械をつくったり、環境調節学としてビニールハウスの環境をつくったりしていました。いっぽうで、久保さんは都市計画に近い緑地計画を位置付けることを目指していた方で、僕らもその流れの中にいるんです。久保さんはランドスケープの近代化を求めていて、都市に食い込むランドスケープデザインとしての緑地計画を進めていたわけです。造園とは違う方向性を打ち立てて、緑地計画の大切さを分かる人材を役所やゼネコンにどんどん輩出していきました。」


当時、ランドスケープデザインの最も大きなニーズは、堺や千里のような郊外の団地間に広がる空間にあったという。いっぽう、京都では造園家や作庭家が都市公園の設計や緑地計画を牽引していた。また、行政の方も内部の営繕課が担当するのではなく、外部のコンサルタントに委託する「造園コンサルタント」という概念、職能が誕生していく。そして、久保らが日本庭園の専門家とともに、団地間の空間を近代化し、緑を主体にしたオープンスペースの型をつくっていった。


「千里や泉北の堺のニュータウンのランドスケープデザインを手掛けた市浦都市開発建築コンサルタンツ(現・市浦ハウジング&プランニング)という会社があるんですが、そこに府大を卒業して勤めていた増田昇先生が助手として府大に戻って来た時期に、僕が研究室に入るんです。僕の2人の師匠のうちのひとりが増田先生で、泉北ニュータウンのランドスケープデザインを全部担当するなど、学問だけじゃなく、実質の都市計画を社会でちゃんとやってきた人で、僕はすごく好きな先生でした。都市計画学会、土木学会、造園学会に全部入っていて、のちに造園学会長も務められました。ただ、当時の僕は増田先生にもたてついていて、卒業設計の論文に先生に赤を入れられたら、そこに青で書き直したりして反抗していましたね(笑)。」


いっぽうで大学では新しい活動も始める。


「大学に入って、高校時代の実績があったからバスケットボール部から誘いは来てたんですけど、レベルが低いので関心がなかったんです。それで小さな頃からピアノも習っていたので、文化連合会館に行って文化部も見に行ったんですよ。そうしたら奇術部というのがあって、不思議な手品を見せられたんです。ただ、部員が3人くらいで消滅しかかってるって言うので、俺が集めたるって言って、新入生なのに勧誘した結果、すぐに20名もの新入部員を入れたんです(笑)。」

奇術部時代の忽那
奇術部で公演をする忽那

それが忽那も想像していなかった出会いとなった。 


「最初はコンパ芸を学んで目立とうというくらいの動機だったんです。当時、近畿大学と関大、阪大にも奇術部があって、各大学が集まって連盟をつくって、学外発表会もやっていたんです。僕らはカードやボール、ハトを出して、その都度、暗転するみたいな学芸会のノリのマジックだったんですけど、阪大がすごくて完全に舞台仕立てなんですよ。ワインバーの設定で、舞台上のマジシャンがビリヤードをやっていて、それを突いたらボールが消えてなくなって、その後に、ワイングラスをマジックで取り出して乾杯するなど演劇になっているんですね。先生の指導がついていたりしていて、レベルの高さに驚きまくったんです。

上回生は3人しかいなかったので、20人の1回生だけで集まって、軟派なクラブにするか、阪大に勝てるクラブにするかみんなで話し合ったら、みんな阪大に勝ちたいと言い出して(笑)。それでみんなに推されて部長になったんです。クラブ活動をビシバシやるという体育会系の感じはわかっているので、それを奇術部でもやったらいいということで(笑)。ただ、それをやるには部員がめちゃくちゃいるので、2回生、3回生の時にまた20人ずつ入れて、4回生の時には100人近くになっていました。関西奇術連盟の委員長もやっていたので、その時が一番有名でしたね(笑)。舞台セットも勉強したかったので、ステージの照明などを扱う共立という会社でバイトもしていました。」


 それが後にランドスケープデザインにおいて貴重な経験となる。


「ランドスケープを学んでいると、演習もあるんですけど、実際に空間はつくれないですよね。でも舞台って自分がデザインしたら、インスタレーション的ではあるけれど、空間デザインとして実現できる。人がどうやったら美しく見えるかとか、照明のホリゾントとかを実地で学べる機会はとても楽しかったし、舞台の裏手で必死にロープを引っ張っているような裏方の仕事もすごく好きなんですよね。だから、先日、僕がデザインして完成したなんば広場も、ひとつの劇場のようにデザインするのがコンセプトで、人が美しく見える風景をつくりたかったんです。だから僕にとって劇場はもう一つの原点なんです。」

アートとしてのランドスケープデザイン

「僕が鴻池組に入社したのは1990年で、バブルがはじける直前だったので、まだバブルの勢いがあって、教授に推薦してもらったら採用されました。今、E-DESIGNで番頭をやってもらっている山田匡が大学の同期で、彼が研究室では一番優秀で、優秀な生徒はゼネコンにいけるということになっていました。だから山田は鴻池組に推薦をもらっていたんですけど、バイトでバーテンダーをやっていて、ある時、某放送会社のアナウンサーが来て、君は声がいいから絶対アナウンサーにならしてあげるからと言われて、その放送会社を受験したんですけど落ちるんですね(笑)。それで鴻池組に推薦してやったのに何してるねん、と先生が怒って山田の推薦が取り消されて、代わりに僕が推薦されたんです(笑)。それで山田は別の造園コンサルに行って、僕が鴻池組に行って、で、今は一緒に会社をやっているんです(笑)。」


その頃、鴻池組に佐々木葉二がいた。会社の留学制度で、1988年、カリフォルニア大学バークレー校で客員研究員となり、1989年にハーバード大学デザイン大学院の客員研究員となって帰国していた。当時、バークレーではランドルフ・へスターがランドスケープにおける市民参画のまちづくりを実践していて、ハーバードではピーター・ウォーカーなどがアートとしてのランドスケープを展開していた。佐々木は東海岸と西海岸の二つの潮流を学んで帰国したのだった。そして社内独立のような位置付けで、鳳コンサルタント環境デザイン研究所を設立する。


「佐々木さんは僕が入社する半年前に帰国していて、入社した時に「お前、あいつのところに入れ」と言われたんですね。入社式が4月1日だったんですけど、2日に佐々木さんの凱旋帰国の講演会があるというので綿業会館に聞きに行ったんです。そうしたら、マーサ・シュワルツの金色のカエルを並べたランドスケープ(リオ・ショッピングセンター/アトランタ、アメリカ)とか見せられて、何やねんそれ、と思いながら聞いてました(笑)。ロバート・スミッソンとか、ナンシー・ホルトとか、環境芸術みたいなものを原点にして、アートとしてのランドスケープをやっているというピーター・ウォーカーの話も聞きました。ミニマリズムとか、繰り返しストライプを使うことをフランク・ステラから学んで空間に転写するとか、そういうものを徹底的にやっていた。その時は頭がおかしいと思っていました(笑)。」


そこから忽那はアートとランドスケープデザインの関係を知ることになる。


「入社してすぐに現場研修があるんですが、1週間、現場に泊り込んで、また会社に帰ってきてというのを繰り返すんです。その時に佐々木さんの席の後ろの書棚に、ミニマリズムからのランドアートの系譜、その後のアートとしてのランドスケープの展開についての本がいっぱいあったんで、毎日、夜はそれをバサーッと広げて読んだんです。佐々木さんが何をしようとしているのかわけがわからなかったので(笑)。」


そして、佐々木と一緒にランドスケープデザインにアートを導入していった。


「当初、佐々木さんは現場をそこまで知らなかったので、具体的なことは実施設計をする事務所に教えてもらいながら実際には僕がやっていたんです。彼が帰国して一番最初に手掛けたコンペは、北海道のながぬまマオイオートランド【※4】というキャンプ場でした。そこで舞台をつくったり、オートキャンプ場をつくったり、生態環境も生かしながら、ストライプなどで対比を見せるようなデザインに関わったんですね。その時は、僕が書いた図面通りに縁石が並んでいるだけで感動して、図面通りつくってくれてありがとう、みたいな感じで(笑)。手品でもそうなんですけど、タネがわかっていても誰か違う人がやっているのを見ると、僕はびっくりするんですよね。だから自分が描いた図面通りに現場ができていて、誰かがそこを使っているのを見ると、もうドキドキワクワクしまくるんですよ。だから感動が大切で、仕事やと思ってやっていると続かないと思います。」


そこではすべてのことを現場をやりながら学ぶことになる。


「北海道にずっと住み込まないといけない現場があったので、毎日、夜中の1時、2時まで仕事をして、その後にすすきのに飲みに行って、2、3時間寝てまた仕事するみたいな生活でした(笑)。めちゃくちゃでしたけど、面白かったです。現場の施工管理もやったこともないのに、やれと言われるので、山田とか、いろんなコンサルに電話をかけて、施工管理を知ってるやつを紹介してくれ、飲み会の時にそのやり方を教えてくれたら俺が全部おごるから、とか言って、いろんな人に聞きながらやってました(笑)。」


 また、鴻池組に所属していたことで、多くの技能を得ていく。


「鳳コンサルは、デザイン事務所なんですけど、最初は鴻池組の社内独立的な組織として立ち上げられたので、予算を湯水のように使えたんです。コンサル業としては儲けていなくて、ゼネコン業で給料が決まっているので、プロポのための模型スタディも模型屋さんに頼むんですけど、何回つくるかわからないぐらい作らせたり、パースも20枚、30枚書いてもらったなかから3枚だけ選ぶとか。1回のプロポに2000万円くらいかけていて、それで失敗しても給料は変わらないので、何でもできますよね。当時はデジタルカメラがなくて、アナログ撮影なのでフィルム代がすごくかかりましたけど、カメラマンに同行して、同じようなアングルから写真を撮って、プロの写真とどこが違うか確認したりして、それで写真のことがわかるようになったり。バブルの勢いが残っている時代のプロポでは、ゼネコンが出してくる提案はすごかったので、いろんなことができましたね。」


さらに、公園や造園を超えた分野に進出していく。


「結局、佐々木さんの下に10年いたんです。普通、造園コンサルは、公園や緑地の造園しかしないんですけど、佐々木さんはアメリカン・ランドスケープをしたかったので、駅前の広場から何から、公園以外にも手を出しまくっていたんですね。公共だけではなく、集合住宅とか、民間からも仕事をとっていたし、公園以外、道路、河川のデザインなどいろんな分野を手掛けていました。領域関係なしにすべてがデザインの対象だと思えたのは学びだったなと思います。」


阪神・淡路大震災と「しくみ」「うごき」のデザイン

デザイン中心だったランドスケープデザインが、大きく変わったのが1995年に起こった阪神・淡路大震災だ。


「HAT神戸全域をデザインしたのが鳳コンサルで、僕らはリサーチから始めて半年であそこを全部デザインしたんです。そのいっぽうで、僕らはボランティアで若い人を集めて、パートナーシップ研究会というのをやっていて、震災の後も提案をしまくっていたんです。それが大日6丁目の商店街の活性化でした。大きな部分では会社としてHAT神戸住宅街区のトータルデザインや脇の浜住宅など、安藤忠雄さんがやってた計画の外構も含めてやっていましたが、自分たち自身で小さい商店街のこともやっていたんです。」


 そのきっかけになったのは、行政との関わりだった。


「神戸市の都市計画に面白い人がいて、行政のことをいろいろ教えてもらいました。当時、僕たちの研究会がプロポに呼ばれて提案なんかもしたんですけど、研究会が組織として位置付けられてないので、採用もされずに可哀そうだからということで、その行政の方に商業活性化の指名コンペに選んでもらったんです。都市計画の大手とか商業計画の大手が5社並んでいるなか、僕らもプレゼンの場をもらったんですが、審査委員や理事長が「お前らは何をやってくれるんや?」みたいなことを言うので頭にきて、「動くのはお前らや。コンサルに頼んで紙の計画書ばっかりつくってもらって、自分らは何も動かんのに、なんで商業が活性化するねん! 300万円の予算があったら俺やったらこんなことしたるわ!」みたいなことをコンペで言ってしまったんですよ(笑)。」


売り言葉に買い言葉であったが、それが却って商店街の人たちの心をつかみ、結果的にコンペで選ばれることになる。


「日中は会社で働いているので、早くても19時以降しか打ち合わせができないと伝えたら、商店街のシャッターがしまってからの方が都合がいいっていうことで、シャッターが閉まったお店の前に机を出して会議をするんです(笑)。でも、会議だけするのももったないから、会議もイベントにしようと言って、帰宅中の女子高生を呼び止めたり、それ自体をイベント化していくんですね(笑)。」


それは、忽那にとっても転機となる出来事だった。ランドスケープデザインは、デザイン中心の仕事が多かった。まちづくりのための広場の設計も手掛け、ハードだけではなく、ソフト面を活かしていかないといけないという議論はしていたが、市民参加のまちづくりの実践にまでは至っていなかった。

大日6丁目の商店街に掲げられた「1文字フラッグ」

「商店街のアーケードを立て替えるのに5億かかるんですけど、当初は、2億5千万円、国から補助がでるから、そのデザインをしてくれって言われたんですよ。でも、どう考えてもそれで商店街が復興すると思えないし、そんなことに商店街で積み立ててきたお金を使うんなら、もっと違うところに使えって言ったんです。それで「1文字フラッグ」というプロジェクトを企画したんですが、アーティストと一緒に子供たちが商店街や商店街周辺エリアを表す文字を考えてもらって、その中から11個の文字を商店街の人が選んで、フラッグひとつひとつにその文字を描いて商店街に飾るというものです。フラッグひとつにつき5万円出してもらって制作したので、5億円かかるはずが55万円でできたやないかって(笑)。自分が考えた文字が選ばれた子供は親御さんと見に来るので、その時に商店街の人たちが「俺が選んだから豆腐の一丁でも買え」とか言ってね。さらにチャレンジショップやちょっとした広場をつくって活動したりしていると、だんだんPTAを含めた学校の人たちが集まって、放課後の見守りをやりましょうと言ってくれて活動が広がっていきました。HAT神戸では独居老人がお亡くなりになることが多かったので、一人暮らしのお年寄りの家の玄関のピンポン(インターホン)を押しまくって、「商店街のお店をお盆を持って回って、一品ずつおかずをもらって、お昼ご飯をつくって、一緒に広場で食べましょう」という運動をしたり。」


それは街の活性化の根幹である、コミュニティの再編に関わるものだった。


「神戸の震災では、仮設から本設のURに入るのに、個人個人で入居するので、全然エリアが違う人が同じ建物に入ってしまうことになって、周りの人とコミュニケーションがとれない独居老人がどんどん亡くなっていくんです。当時はコミュニティエリアという考え方がなかったんですね。それで高齢者の住まいのピンポンを押して、商店街に出張市場をつくったことを伝えて、HAT神戸から歩いて出てきてもらうとか、特養(特別養護老人ホーム)もあったので、ケアマネジャーさんも巻き込んで、老人を外に連れ出してもらって、お花を植えたり、商店街でお買い物をしてもらうとか、そういう活動を商店街の協力も得ながらやったんです。」


その実践がランドスケープデザインにとって「しくみ」や「うごき」を総合的にデザインする重要性を感じるきっかけとなった。


「震災の時に子供たちとワークショップをしたり、地域の人たちと大きな絵を描いたりするなかで、形だけのデザインではなく、仕組みや動きについても同時に展開してデザインしなければ復興はないと実感したんです。その中でいろんな法律や条令の遵守を短期的に見逃してもらったり、目をつむってもらったり、逆に新しく商店街のルールをつくったりしたんですね。新しいことのチャレンジばかりで商店街の人たちとは毎晩、喧嘩してましたが、この前久しぶりに立ち寄ったら、当時のお店が残っていて、一緒に活動していたお店の人に「万博やってるらしいな」とか言われて抱きしめ合いました(笑)。本気でやるから喧嘩にもなるけれど、最後に抱きしめ合うのが僕の流儀なんで(笑)。」


忽那のやっていることは、行政や自治体からの大きな都市計画ではなく、住民による規模の小さなコミュニティが、一時的な法規制の緩和の下に、様々なトライアルをし、将来性があるか実践してみるという「タクティカル・アーバニズム」に先行するものだといってよい。それが震災の中で、自然に実践された例だろう。


「僕はコミュニティの中で経営したり、ものをつくったり、買ったりする人に対してすごく意識があったんです。僕自身はインテリアもやったりするから、商店街のいらないもの、倉庫に眠っているようなものを集めてきて店舗の内装を制作したりとか、子供たちとワークショップやったりとか、いろいろ知恵を出して工夫して、自分も地域に関わることがものすごく好きだったんです。例えば「1店1品運動」をやりましょう!という提案をしたんですが、それはその店が一番推しているものを僕らが食べて、もう少しこうしたら良くなりますよ、とかアドバイスする商業コンサル的なことをやったりとかね。1店1品の食べものを集めてランチメニューをつくったりしていると、商店街のみんながやり始めたり、どんどん変わっていくんですよね。」


 DIY的なボトムアップ的な動きと、行政や都市計画のことを知って絵を描くことができることが忽那の大きな強みだろう。


「先ほどお話ししたコンペお話ししたコンペでは年間300万円つけてくれたので、空き地に広場をつくったり、さらにお金を集めてきたり、いらないと言って切られそうになっている樹木をみんなで運んで広場に植え直したり、地域通貨をつくったり、鎮魂の火という、震災犠牲者の追悼イベントををやったり。そういうことをしていると、いろんなことができると思えてくる。ランドスケープデザイナーだからこれしかできないというのが嫌だったんです。今KIITO(デザイン・クリエイティブセンター神戸)【※5】のセンター長をやっているNPO法人プラス・アーツの永田宏和さんたちと一緒に地域に入ったので、都市計画にアーティストのアイディアを組みこんで一緒にやったらどうかとか、環境芸術芸術的なものをやってみたらどうかとか話し合ったり。E-DESIGNを一緒に立ち上げた長濱もメンバーだったので、アイディアを出しまくって、商店街のおっさんたちとも議論して、喧嘩もするんですけども、みんなすごく積極的でした。100店舗あったのが28店舗くらいに減って、壊滅的状況と言われていたんですけど、60店舗くらいまで回復したんですね。その時は商業コンサル的にまちづくりに関わっていたわけですが、行政による規制や法制度が妨げになったことがいくつもあって、規制緩和の仕組みづくりをしないと、やるべきことができないと、その時、痛感しました。」

後編に続く

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注釈
【※1】E-DESIGN
【※2】大阪府立江之子島芸術創造センター(enoco) 
※現在は、別の指定管理者による運営となっている
【※3】なんば広場改造計画
【※4】マオイオートランド
【※5】KIITO(デザイン・クリエイティブセンター神戸)

(上記URL最終確認2025年9月9日)

INTERVIEWEE|忽那裕樹(くつな ひろき

ランドスケープデザイナー
株式会社E-DESIGN 代表取締役公園、広場、道路、河川の景観・環境デザイン、およびその空間の使いこなしと、その持続的マネジメント・しくみづくりを同時に企画・実施するという手法を駆使することによって、新しい公共を実現し、魅力的なパブリックスペースの創出を目指している。また、大学、病院、学校、商業、住宅のランドスケープデザインについては、国内外をフィールドに活動中。現在、大阪・関西万博のランドスケープデザインディレクターを務めている。共編著に『図解 パブリックスペースのつくり方』(2021年)。
主な作品に「大東市公民連携北条まちづくりプロジェクト morineki」(2024年 建築学会賞共同受賞、2025年 公共建築賞近畿地区優秀賞)、「シーパスパーク」(2024年 都市公園等コンクール 国土交通省都市局長賞/土地活用モデル大賞 国土交通大臣賞)

INTERVIEWER|三木 学(みき まなぶ)

文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人。独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。