近年、美術館や展覧会では、多くのグッズが制作され、販売されるようになった。展覧会の最後には巨大なグッズコーナーができていることも珍しくはない。その背景として、美術愛好家の高齢化と、コロナ禍にともない入場者数の減少に伴う収益減を補填する意味もあると言われている。
しかし、国際的なキャラクタービジネスの盛り上がりも無関係ではないだろう。アートにおけるグッズも、そのようなグッズビジネスの拡大とも連動している。そのなかで、山本正大(少年企画)は、個人で企画・デザインから、製造、商流まで行ってきた。
山本は、13年以上前からヤノベケンジをはじめとするアーティストのグッズ製造を行っている。その仕事はどのようにして生まれ、現在どのような可能性があるのか。これまでのキャリアと現在の取り組みについてお聞きした。

幼少期、どのような文化体験をしていたのだろうか。
「漫画がとても好きでした。保育園の頃から『ドラゴンボール』の漫画・アニメもありましたし、特撮・戦隊ものも大好きで、おもちゃも買ってもらってました。そういうものが、クリエイティブというか、アートとか、そういうものが好きになった要因だと思います。母は音楽の先生をやっていて、父は土木関係でトンネルをつくったりとかしている人でした。でも母に聞いたら父もピアノが上手だったそうです。そういう部分では意外と、アートとか文化的なものに対して抵抗がない。親に小さい頃にコンサートにも連れて行ってもらったり、それこそ『ドラゴンボール』の曲のオーケストラコンサートにも、連れて行ってもらった記憶はあります。」
ただ、音楽よりも、手を動かすことの方が向いていた。
「絵を描くとか、小さい頃から紙工作でロボットをつくっていました。その根源にあるのはプラモデルや合体するおもちゃでした。『BB戦士』っていうガンダムの二頭身のプラモデルがあったんですよ。パーツが全部共通しているので、オリジナルの『ガンダム』をつくるみたいなことをしていました。これが主人公で勝つ、みたいな遊びをずっと一人でやっていました(笑)。」
パーツを組み合わせて自分だけのロボットを作り、それが主人公になって戦う物語を一人で妄想しながら遊ぶ。この「自分でゼロからものを作って、誰かのキャラクターに命を吹き込む」という行為は、後のグッズ制作の原形と言えるかもしれない。小学生の頃には絵で表彰してもらった経験もある。
また、母方の田舎で毎年夏休みを過ごし、従兄弟と遊びまわった記憶も原体験としては、深く残っている。
「鳥取の米子なんですけど、当時は夜になったら街灯もないところでした。いとこも絵が好きだったので、ずっと一緒に遊んで、都会じゃない楽しみ方を味わいました。」
高校になると、バスケ部に入ったが怪我をしたこともあって、絵を描くことへの関心はむしろ強まっていった。高校二年生頃から美大受験に向けて画塾に通い始める。
「画塾の先生がデザイン系の女性の方で、色彩構成の受験科目があったので、色彩の表現の参考に、『美術手帖』も見せてもらったりしました。その時にちょうど漫画やアニメを参照した村上隆さんみたいな作品が取り上げられるようになってきていたんです。」
その頃、村上隆は『美術手帖』の表紙を飾るなど大々的に掲載されていた。
「高校の時に村上さんが凄く注目されていました。画塾の先生も勉強の参考にしてはどうか、みたいな感じで教えてもらいました。ただ、それ以前のコンセプチュアルなアートにはあまり触れてませんでした。印象派の展覧会を見に行ったりとか、親にクロード・モネの画集を買ってきてもらったりとかはありました。」
その後、大阪芸術大学短期大学部(デザイン美術学科)に進学。短大時代は、西天満にある老舗のギャラリー、番画廊やギャラリー白に毎週のように通いつめ、先生や先輩たちの展示を見て歩いた。また、若手を積極的に取り上げていたGALLERY wks.での展示も経験する。
「西天満辺りのギャラリーは、短大の先生方の発表の場になっていたんです。その中のひとつのGALLERY wks.さんは若手作家への貸しギャラリーもされていたので、先輩方もそこで展示されていました。そのギャラリーも毎週入れ替わるたびに見に行っていました。展示している作家がすごく若いから、みんなで面白がっている雰囲気で、ベテランにはないものが見れたのもよかったです。GALLERY wks.は普通の11階建てのマンションの一室で、片山和彦さんというギャラリストの方がやっておられて、そこで展示をやらせてもらいました。当時を思い返すと、すごく刺激的な時代だったなと思いますね。」
短大卒業直前には、画塾の先生に連れられてニューヨークへ行き、ホイットニー美術館やMoMAを訪れ、ブロードウェイやオフ・ブロードウェイも体験した。
「先生がニューヨークが好きで毎年行っておられて、安い時期も知っていたので、連れて行ってくれたんです。美術館やギャラリーはかなり回りました。カンディンスキーやサイ・トゥオンブリーを見て刺激を受けたり、SOHOのギャラリーでは、村上さんの作品がバーって床に置かれている状態を見たりとか。短大時代ではその時の経験がすごく強烈でしたね。」
この経験が、その後の選択肢を大きく広げることになる。
短大から京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)に三年次編入し、情報デザイン学科/先端アートコースの第一期生となる。1999年に東京藝術大学に、先端芸術表現科が新設されたことを皮切りに、先端技術を用いた芸術表現が美術大学でも組み込まれる時期だった。
「当時、サウンド・アーティストの藤本由紀夫さんが、カメラ・オブスクラ(カメラの原型の暗箱)やマルセル・デュシャンの話とか、丁寧に学術的なことを教えてくれる講義がめちゃくちゃ人気だったんです。受講が難しかったんですが何とか受講できました。実習には、大西伸明さんや金田勝一さんをはじめ、アーティストの方々が非常勤で教えに来てくれていました。そういう影響を受けて学生はみんなコンセプチュアルについての造詣がとても深くなり、講評ではそういう作品が多かったように思います。」
講評では、学生同士が互いに批評し合ったという。先生は後ろで見守るだけというスタイルだった。周囲はアートにどっぷりと向き合ってきた学生ばかりで、山本は自分の立ち位置を探り続けた。
「バリバリの(コンセプチュアル)アートでは全然太刀打ちできない(笑)。それでアイデンティティを探られた時に、幼少期にやっていたことを掘り返されて、誰もできないことを自分なりにしないといけないことに気づきました。それで幼少期から好きだったペーパークラフトをするようになるんです。ブルーノ・ムナーリとかも大好きだったんです。だからアートとデザインの境界って何なんやろうって思いながらつくっていたんですよね。だからペーパークラフトでデザインをするのも好きでした。」
ちょうどそのころ、ヤノベケンジが京都造形芸術大学に着任する。山本はヤノベの作品のキャラクターを使ったペーパークラフトを動画で発表し、目に留まることになった。

「ヤノベさんが面白がってくれてたこともあって、ちょうどヤノベさんが霧島アートの森で展覧会「ヤノベケンジ展 トらやんの世界」をする時期で、つくったペーパークラフトを、大学の助成金を取って、美術館で販売させてもらったんです。ただ、店頭販売をすればぎりぎり売れるけど、ほったらかしたら売れなかったですね。商品を作らせて頂いた経験をほったらかして終わるのは嫌だなという気持ちもあって、大学院に行きました。」
大学院(京都造形芸術大学大学院)に進学し、ヤノベが大学内に立ち上げた共通工房ウルトラファクトリーの発足にも関わった。ウルトラファクトリーが主導するプロジェクトの中で、デザイナーの原田祐馬、水野大二郎らが運営していた「クリティカルデザインラボ」の一期生としても活動した。
山本の仕事観を決定的に変えた体験がある。大学四年生のとき、奈良美智とクリエイティブユニット・graf(decorative mode no.3)による展覧会「A to Z」(弘前れんが倉庫美術館)を見るため、友人と車で京都から下道で3日間をかけて青森に赴いたことである。
「美術館でもない、ギャラリーでもない集団が、アーティストと一緒に何かをやっているっていうことにすごく衝撃を受けたんですよね。しかもヒエラルキーがなくて、奈良美智さんとgrafが併記されている。どういうことなんだろう?grafって何だろう?と思いました。調べてみたら豊島秀樹さんという方がいたり(当時)。その経験と、今僕がやっていることは繋がっていると思います。」
アーティストと並走するデザイナー、制作者。そのイメージが山本の中に深く刻まれた。その後、大学院修了後の年に、grafが個人としてではなく、会社として大学での授業を持つタイミングで、山本は授業のティーチングアシスタントを任され、授業のサポート終了後も、そのままgrafに入り浸るようになる。
「授業が終わったのになぜか僕はgrafの事務所にいるみたいなことやっていました。履歴書を出してとかじゃなく、ここで働きたいですみたいな感じで、ずっとその後もいたんですよ。grafの先輩が今のままじゃ駄目だから、どうするか上と話して決めようと言ってもらって、そのままいさせてもらうようになったんです。」
企画担当のバイトとして働くことになったが、一年半ほどで「企画スタッフとして採用し続けるのは難しい」という状況に直面し、grafを離れることになった。
「企画だけの仕事はないし、今考えたら僕が出しているのは普通のアイディアだったので、しょうがないなと思います。ただ、grafで働かせてもらった経験は、その後の糧になっています。」
grafを離れた後、山本に転機が訪れる。ヤノベケンジが東日本震災後のモニュメントとして制作した作品《サン・チャイルド》を茨木市に設置するプロジェクトへの参加依頼だった。そのプロジェクトを経て、2013年の「あいちトリエンナーレ2013」【※1】でヤノベの作品がメインビジュアルとなったこともあり、高島屋の企画でグッズが制作されることになった。それを担当するデザイナーとしてヤノベから一任されたのだ。


「ヤノベさんから「あいちトリエンナーレ2013」のグッズのデザイン全部やってみるかと言っていただいたのがグッズデザインのスタートですね。そこで多くの商品デザインをやらせてもらって、販売もされました。それがアーティストグッズをつくり始めた大きなきっかけです。その時はまだデザインだけで、企画や制作・販売は高島屋のグッズ担当の方が決められていたので、その時はただデザインでするだけでした。」
その時から山本はグッズデザインの美学を持つようになった。
「もともと、大人も持ちたくなるとか、持っていても変じゃないものにしたいとずっと考えていたんです。Tシャツに印刷したり、トートバッグを制作する時も、あまり写真そのものは使わないんですよ。シルエットにするとか、一色にするとか、当時から気にしてやっていました。美術館のショップにも行ったり、漫画とかアニメも好きなんですけど、「一番くじ」っていうコンビニのくじとかを見ながら研究していました。今ほどグッズブームではなかった時代だったんので。」
その考え方はどこで育まれたのだろうか?
「 『キングダムハーツ』というディズニーのキャラクターが出てくるスクウェア・エニックスとのゲームがあるんですけど、それがすごく大人向けな内容でオシャレだったんです。服やチャームみたいなものも、大人が持つには可愛すぎるとか、イメージが出すぎるものって持ちづらいとずっと思ってつくられていたと思います。ブルーノ・ムナーリとかも好きだったこともあって、抽象化されたり、削ぎ落とされた情報の方がみんな持ちやすい、身に着けやすいんじゃないかとは思っていました。」
茨木市でのアートプロジェクトや展示関連の仕事を経ながら、2017年に大きな転換点が訪れる。ヤノベが展覧会でグッズを卸した銀座 蔦屋書店の担当者との出会いをきっかけに、山本はデザインするだけではなく、自らグッズを企画・製造・商流することになった。

「ヤノベさんの展覧会に合わせて、在庫を抱えてつくることになりました。本当は製造費は回収できる見込みでいたんですけど、そんなに買い取れないという話になり、その後も数年かけてなんとか回収しました。当時作っていたものが一昨年から昨年にかけて急激に全部捌けたので、本当にありがたかったです。」
その期間、諦めずに各地の美術館を回り、置かせてもらえないかとプレゼンを続けた。
「在庫をなんとか売らないとやばいと思って、いろんな美術館に置かせてもらえないですか?とプレゼンしに行ったんです。京都だけじゃなく東京も回りました。ただ、考えると当たり前なんですが、美術館のショップって、その時、企画展示されている商品がメインなんです。常設展に出ていればぎりぎり展開しているくらいです。だから常設展示ってめちゃくちゃ強いんですよ。」
転機となったのは、大阪中之島美術館へのヤノベの《SHIP’S CAT(Muse)》(2021)の屋外の常設展示(恒久設置)だった。定期的な発注が生まれ、ようやく事業として継続できる見通しが立つようになった。

「定期的にちゃんと商品を発注いただける。年間でこれだけの売上が見込めると言えるようになったのが、3年前くらいからです。本当に感謝しかないです。」
2025年に大阪・北加賀屋の大型アート収蔵庫、MASK[MEGA ART STORAGE KITAKAGAYA]【※2】で開催された公開イベント「Open Storage 2025」 に伴ったヤノベケンジの展覧会「KENJI YANOBE LUCA:THE LANDING」では、期間限定のショップが開設された。会期中延べ2万人以上の人が訪れて、グッズを買うために早朝から長蛇の列が並ぶという現代アートではかつてない現象が生まれた。まさにグッズもアーティストと観客を結ぶ重要なメディアとなっている証拠であり、山本はまさにその展開を並走・協働してきたといえる。


企画やデザインを誰かに任せることは考えてないのだろうか?
「デザインはずっと自分がやってしまっているというのはありますが、ヤノベさんのテイストはあるので、それを守りながら、クオリティを崩さずにつくれるかと言われるとまだわからないですね。また、一番大変な部分は、商品毎にデザインのフォーマットが違うので、それらを理解してデザイン、そしてオペレーションをしていかないといけません。それらも含め、ヤノベさんのグッズでもまだまだ回していくのは課題としてあります。これまでは、ヤノベさんから、こういうグッズができないか?と言われても流れていたものがありましたが、最近はようやく打ち返せるようになってきたのではないかなと思ってます。」
グッズを定期的に購入してもらうためには新商品の開発が不可欠であるという。ファンも新商品がなければ足は遠のく。ただ、新商品の製造はすべて前払いの投資でもあるので、支払うために資金を確保しないといけない。販売代金の入金は3か月後になることもあるという。特に大阪中之島美術館で開催されている「驚異の部屋の私たち、消滅せよ。— 森村泰昌・ヤノベケンジ・やなぎみわ —」【※3】では数多くのグッズを制作して納品している。

「3か月は生き延びないといけないです(笑)。だから、最初に絶対に製造費を確保できるようにできるだけ買取でのお取引を交渉したりします。それ以外にも借入もしたりしています。これだけ売れる見込みがあるという根拠がある事業計画があって、貸してくださっているんで、そこは積極的にいける状態にしておきたいですね。」
一方で、地方自治体や百貨店、企業から依頼を受け、アートプロジェクトのディレクションや展示ディレクターも続けている。
「作家を紹介したり、展示をディレクションしたりする仕事は、商品の製造・販売とは全く違っています。それぞれの地域、人々の行動など状況を知るためには必要だしやっていきたいと思います。しかし最終的には補助金の事業とかは経済的な自立を求められたりするので、そこで収益性に繋がる事業を提案と実践による実績がつくれたらいいなと思っています。」
グッズはアートにとって、どのようなメディアなのだろうか。
「ファンの方だったら、写真とかイメージが伝わるものを買いたいとか、持ちたいっていうのはあるんです。でも、その他大勢の方は見たり行ったりした記念として、お土産として買うと思います。だからそこに向けた設計がいりますし、両方のことを想定してつくらないといけないですね。」
コロナ禍を経て、美術館の展覧会においても、グッズ需要が急激に高まった。それは行動制限で入場者数が減るなかで、新しい収益の軸をつくりたいという美術館運営の問題もある。
「高額な作品を買えない場合でも、幸福度を満たしてくれるものが、定期的に手に入ることに魅力を感じているんじゃないでしょうか。日本全体的に収入が右肩下がりになっているときに、安価でも幸福度が得られるものっていうものをみんなが買うようになったんじゃないかと思っています。それだけ潜在的な力があるんだと思いますし、実際、収益の柱としても見直されたのがグッズだったんだと思います。」
いっぽうで参入しやすいという。
「グッズって誰でもできるんですよね。ある程度デザインやイラストができればバッジとかつくれるし、そんなにハードルは高くないと思うんですよ。誰でもつくれるというか。ただ、やはり魅力ある作品やキャラクターを生み出せる作家の方が凄くて、その方々とどの様に出会うのか、そして製造資金をどのように工面するのかが大変かと思います。だから運営者やアーティストとも、お金も半分持ちますよとかいう契約をして、ちゃんと売れれば、信頼してもらえるかもしれませんね。」
今後どのような取り組みをしたいのかお聞きした。
「漫画・アニメとかでやっている人たちとも仕事がしたいと思っています。普通のグッズ屋さんじゃ提案できない、それこそアートピースみたいなものを提案できるかが肝かもしれないですね。例えば若い監督さんが脚本から全部自分で作って、YouTubeで全部上げるみたいな3Dアニメとか、そういう自分で投資もしてもらってつくっている人とかを早めに知り合っていきたいと思います。」
現代アートではどうだろうか。
「アーティストは、アートの世界の中だけで、アートをやっていてもなかなか難しいと思うので、好きなことを突き詰めて、どっかでアートと接点が生まれるくらいで良いかもしれないと考えています。アーティストにとっても持続するための武器になるかもしれないですし、美術館や自治体にとっても収益の柱になっていく可能性はあると思います。もしそのようなご相談があればお聞きしていければと思っています。」
【※1】「あいちトリエンナーレ2013」
【※2】MASK[MEGA ART STORAGE KITAKAGAYA]
【※3】「驚異の部屋の私たち、消滅せよ。— 森村泰昌・ヤノベケンジ・やなぎみわ —」大阪中之島美術館
(全URL最終確認2026年5月11日)
グッズデザイナー・製造。「少年企画」代表。京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)大学院修了。グラフィックデザイン事務所・grafでの経験を経て、アーティスト・ヤノベケンジのグッズ企画・制作に長年携わる。2013年の「あいちトリエンナーレ」を機に本格的にアーティストグッズの制作を開始。アーティストのグッズを、デザインから製造まで一貫して担い、独自性のある企画から市場で支持される商品まで展開し、企画・制作・流通を通じてその魅力を広げている。各種アートプロジェクトのディレクション・コーディネートにも関与する。
文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人。独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。