前編に引き続き、美術史家、富井玲子さんのインタビューを紹介する。
「JAPANESE ART AFTER 1945」展の開催は、美術史の大きな変革とともに、富井の人生も大きく変えていく。
「1994年の12月に、クイーンズ美術館【※1】の主任キュレーターだったジェーン・ファーヴァー(Jane Farver)さんから連絡があったんです。「Global Conceptualism: Points of Origin, 1950s – 1980s(グローバル・コンセプチュアリズム)」展を主導した三人組キュレーターのひとりです。「日本のことも取りあげたいから、誰かいいキュレーターを知っているか?」と手紙で聞いてきたんです。ご存知だと思いますけど、私はコンセプチュアル・アートが大好きなんですよね(笑)。日本のコンセプチュアル・アートがこんなにすごいということを世界に知らせないといけないと思っていた。それを証明しないといけない。展覧会というのは証明するための場所でしょう。作品を見せて勝負するわけだから。」
1999年に開催された「グローバル・コンセプチュアリズム」展【※2】は、世界10地域(日・中・韓は国)のコンセプチュアル・アートの動向を取り上げる野心的な試みで、クイーンズ美術館のキュレーターのほかに、各地域からゲスト・キュレーターを招聘することが計画されていたのだ。アフリカ地域では、のちにヨーロッパ出身者以外で初めてドクメンタの監督、アフリカ出身者として初めてヴェネチア・ビエンナーレのキュレーターとなる、ナイジェリア出身のオクウィ・エンヴェゾーが選ばれた。
「他の人にさせるわけにはいかない、私がしたいと思った(笑)。積極的に私がしたいと立候補したのはそのときが本当に初めてですね。それで私がやるんだったら、こういうアイディアがあると打って出たんです。一応それで反応がありました。ただ、私のアイディアは作家論の集積というよりは「作家による展覧会企画」をコンセプチュアリズムの表出と考えてくみたてていたので、もうすこし分かりやすくして、例えばヨーコ・オノは入れてほしいなどの注文がありました。」
そして、富井はもうひとつ考えていることがあった。
「私はこれが日本に巡回できればいいなと思ったんです。そのためには日本にいるキュレーターの人が入ってくれる方がいい。それともうひとつは、私のキュレーターとしての初仕事だったので、誰か一緒に仕事をしてくれる人を日本で探したいと打診したんです。それで千葉成夫さんに声をかけてもらいました。当時、千葉さんは東京国立近代美術館におられたし、千葉さんが書かれた『現代美術逸脱史』は、モンローと一緒に仕事をしたときの教科書でした。」
そして、日本の担当は、富井玲子と千葉成夫という二人体制となった。クイーンズ美術館では、1995年に柳幸典の個展、1997年に蔡国強のアメリカ初個展を開催している。それ以外にも、欧米以外の地域のアーティストの展覧会を積極的に開催していた。
「企画したジェーン・ファーヴァーは、非西洋の美術には目利きだった。だから「グローバル・コンセプチュアリズム」展を始める前から、柳幸典や蔡国強を、クイーンズ美術館や他の美術館でも取り上げている。それほど彼女は先見的だった。非西洋と非白人、そういうマイナーな部分への目配りが非常に行き届いていた。実は私がCICAにいたとき、彼女がCICAを訪問して、1回話をしています。ライブラリーで話をしましたが、私が集めた本がどんと置いてあったので、その時から私のことを勝手に評価してくれていたみたいです。だから、私が自分でしたいと言った時もわりと好意的だった。」
「グローバル・コンセプチュアリズム」展は、日本に巡回することは叶わなかったが、アメリカ国内を巡回し大きな反響を得た。
「これもすごく評判になった。現代美術の重要な展覧会を集めた本、イェンス・ホフマン(Jens Hoffman)『Show Time: The 50 most Influential Exhibitions of Contemporary Art(ショータイム:最も影響力のある現代美術の展覧会50選)』(Distributed Art Pub、2014年)にも選ばれています。私としては展覧会企画は最初だったけども、したいことはかなりできました。」
「グローバル・コンセプチュアリズム」展は、欧米がリードしてきたとされる現代美術、特にそのもっとも先鋭的なコンセプチュアル・アートが世界同時多発的なものであるとともに、地域性を持つものであることを示す展覧会として画期的なものであった。そして、それは富井がテーマにしていた「国際的同時性」を体現するものでもあったのだ。
「国際的同時性ということは、針生一郎も言っていたし、宮川淳も言っていました。国際的同時性がないと宮川さんの『アンフォルメル以後』という批評は成り立たないんです。最初に日本語で日本美術について同時的視野で書いたのは、宮川さんなんです。アメリカにくる以前、まだ日本にいたときにも現代美術はちょこちょこと見ていました。現在形で制作している作家の仕事を見ながら「現代美術」とはこういうものだという認識はある程度ありました。でもアメリカに来たら、現代美術、つまりコンテンポラリーアートとは誰も言ってなくて、アヴァンギャルドと言っていたんです。そのとき私はこの人たち古いと思ったんです(笑)。」
もちろん西洋美術においてアヴァンギャルドは連綿と続くある種の歴史があったわけだが、日本ですでに60年代にはそのような言説は少なくなり、新たな時代感覚が芽生えてきたのは確かだろう。そもそも対抗する制度が、西洋ほど厚くなかったというのもあるかもしれない。
「アヴァンギャルドの歴史が、第二次世界大戦前まで遡っていくというのはわかるけども、今日現在に繋がってくるかっていうと、そんなに繋がってくるように思えなかった。日本ではそう考えていなかったから、私自身もそういう考え方を不思議だとは思っていなかったわけです。ところが、どういうわけか1990年代の終わり、2000年前後ぐらいになると、英語でcontemporaryってみんなが語りだすようになっている。学会をしたり、シンポジウムをしたり、本が出始めたりしている。だからちょうど「大地の魔術師たち」展から10年経って、そういう話に意識が向いてきた。私はだから、この人たち追いついてきたっていうのが、最初に感じたことです。ただ、うかうかしていてはいけない。ここでこっちも出ていかないと負けると思ったんです。だから負けないようにと思ったんです。」
ここで勝負を挑むところが富井らしいといえる。おそらく日本の美術史家で、そのような世界の「勝負」に勝つという気持ちで仕事をした人物は、それほど多くはないだろう。
「私が変わっているっていうのは最初から強調しているでしょう?(笑)。だから(単なる)学者じゃないのかもしれない。大学のような制度的な美術史の中で、伝統的に考えると、勝つとか負けるとか、そういうふうには普通ならないから……。ただ、美術史の方向性が変わってきていたというのはあって、ニュー・アート・ヒストリーくらいから歴史の理論を考えるようになっていたし、中心と周縁の問題、異文化交流の問題、あるいはポストモダンも美術史の学問の枠組みに入ってきている。そういう流れの中で、理論的な体系づくりが少しずつ進んでいたから、それに乗り遅れないようにしないといけないと思った。もうひとつは、誰も日本のことはそんなに言っていない、特に日本の現代美術のことは言ってないわけで、そこは私が言えることだなということは思いましたね。」
富井はある意味でその勝負に勝ったといえる。「グローバル・コンセプチュアリズム」展において、日本のコンセプチュアル・アートが展覧会の骨子を占めるような大きな位置付けになったからだ。
「私は調査したことをベースに書く方針だから、一応それで作品を選んで、テキストも書いたんです。ジェーン・ファーヴァーは、脱西洋化、脱西洋中心主義というのを、当然考えている。私は日本ってすごいよ、同時代的に並行する形で地域性のあることが起こっているよって提示したわけです。「JAPANESE ART AFTER 1945」展のときは、全体的にユニークだよという話ですが、コンセプチュアリズムに限って言っても、かなり先鋭的なことが起っているということを私は語ったわけです。それをファーヴァ―がうまく展覧会の空間に反映してくれたんです。」
クイーンズ美術館は、2回にわたるニューヨーク万国博覧会(ワールドフェア)が開催された跡地にあり、移民の国アメリカにおいても、多様な地域の人たちが集まる場所としても知られている。クイーンズ美術館の建物は、1939-40年のニューヨーク万博の際、ニューヨーク市館として建設されており、その後1964-65年の万博でも再び活用されている。クイーンズ美術館は建物を再利用し1972年に開館した。有名なニューヨーク市の巨大模型「Panorama of the City of New York」は、1964-65年の万博の際につくられたものだ。だから美術館として少し特殊な形態をしており、決して使い勝手がいいとはいえなかったという。
「ファーヴァーに、日本の展示を入口に置きたいって言われたんです。それだけじゃなく、左に西ヨーロッパがあって、右に日本があるっていう形にしたいって言われたんです。これにはびっくりした。ということは西ヨーロッパと同等だと思ってくれたんだな、と。展覧会という場で、平行関係が物理的に生じるわけです。前後じゃなくて物理的に左右になるというのは、これは全体を統括するキュレーターとして素晴らしい発想だと思いました。日本とヨーロッパを見た後で、アメリカの部屋があるようになっていたんです。だから日本のコンセプチュアリズムへの評価は高かった。」
この「グローバル・コンセプチュアリズム」展でのキュレーターとしての参加によって、再び富井に声がかかるようになる。
「クイーンズ美術館に、テート・モダン【※3】から電話がかかってきたんです。日本のセクションを担当したキュレーターを紹介しろということで。テート・モダンの最初の企画展で「Century City: Art and Culture in the Modern Metropolis(センチュリー・シティ)」展【※4】というのをするから参加しませんか、という依頼だったんです。」
テート・モダンは、テート・ギャラリー(テート・ブリテン)の展示・収蔵スペースの不足に対応するために、バンクサイド発電所を改装した現代美術館で、当時新進気鋭の建築家ユニット、ヘルツォーク&ド・ムーロンによって設計され、2000年に開館した。お披露目として、テート・モダンのコレクション展が開催された後、最初の企画展が「センチュリー・シティ」展だったのだ。
「 「グローバル・コンセプチュアリズム」展のように、世界9都市を選ぶんですが、国や地域ではなく都市に焦点を絞るのが企画テーマでした。大阪でもいいかなと思ったんですけど(笑)、世界的に言ったらやっぱり東京なので東京を選びました。それから、アートだけではなく、ということだったので、写真、演劇はアングラ系のポスター、建築なども展示しました。それが2001年の春です。ふたつの美術館が同じような考え方で展覧会をしたわけですが、テート・モダンの方は、それぞれの土地に異なるモダニズムの展開があるから、都市を舞台にして、モダニズムの発火点を考えるというコンセプトだったんです。これも脱中心化の発想で、私としても大賛成だから参加しました。このふたつがキュレーターとしては最初になりますね。ちなみに、「センチュリー・シティ」展も、重要展覧会50選のひとつに選ばれています。」
草間彌生の調査から始まった展覧会への参加はキュレーターとしての経験につながった。その後、コンテンポラリーアートの理論化と日本の位置付けを本格的にする必要が出てくる。
「 『ポジションズ』(デューク大学出版局)【※5】という学術誌があるんですが、そこでアジアのコンテンポラリーアートを特集するから、日本をテーマに何か書いてくれないかと、ジョアン・キー(Joan Kee、当時ミシガン大学アン・アーバー校教授、現在はニューヨーク大学美術研究所のアカデミック・ディレクター)から打診されました。そこで本当に書きたいことは何かなと思ったら、日本が「現代美術」で進んでいることを書きたいと思ったんです。1960年代にすでに現代美術の話をしているので、歴史的に見たら日本って面白い場所のはずだと思った。しかも、私が言うんじゃなくて、針生一郎とか宮川淳とか、当時の批評家が言ってくれているので。」
しかし調べてみると、芸術において「現代」という言葉は明治時代にはすでに使用されており、大正時代にも出てくることがわかった。
「それで、始まりを考えるよりも、どこで定着したのかを見る方が議論が具体的だと思いました。そうすると東京ビエンナーレとか、宮川さんが現代をポジティブに成立したい、近代とは違う形で現代を独自に見ていきたいみたいなことを「アンフォルメル以後」で書いている。そういう言説の後押しがあった。だから、モンローの本で言説(評論集)の章を作業していたことはずいぶん役に立ちました。刀根康尚と彦坂尚嘉が編集した『美術手帖』の特集「年表:現代美術の50年」【※6】もあるし、李禹煥は、現代っていう言葉が重要だと言われているけども、それはどういう意味なんだろうか、みたいな形で文章を書き始めたりしているから実際のアーティストの意識の中でも「現代」という意識が根付いていた。それを「コンテンポラリーアートを歴史化する」という形で論考にまとめたんです。欧米では2000年代の頭にコンテンポラリーアートっていうのがかなり使われ始めるようになったんです。講演とかで「欧米は遅れているやん」みたいなことを言うとどっと笑ってくれるけど、私はマジにそう思った。そういう感じ方を私がキープしたことが重要なんだと思う。だって普通はそういうふうに考えちゃ駄目だと思って一生懸命、前衛論を勉強したりしてしまう。だから東海岸で勉強していたらそういうことになっていたかもしれない。」
それが日本において富井のスタンスが異質に見える理由かもしれない。
「普通は自己矯正するんだけど私はしなかった(笑)。ここまでこのインタビューでお話ししていることを聞いていただいても分かると思いますが、私の人生はほとんど自己矯正してないでしょう? 直観というのはみんなあると思う。ただ、その裏付けを取れるか取れないかで変わる。だから私の場合は、直観といっても実際に作家がしゃべっていることを日本で聞いていたから、私はそれを信用した。言葉っていうのは上からくるもんじゃなくて下から来る。しゃべっている人から来るから、理屈じゃない。だから私はアーティストの言葉は大切だと思うし、批評家が書く言葉、特に同時代的に反応して書いたり、しゃべったりする言葉は非常に大切だと思う。なんだかんだ言っても、作家も批評家も時代認識が鋭いです。」
富井のこの論考も評判となり、その時、責任編集を行ったジョアン・キーに若い人がたくさん読んでいると告げられたという。
「その当時、喫緊の課題として考えていたことの基本的なモチベーションに相当することを文章にしましたからね。それをまたモチベーションにしてくれる若い人たちがいるっていうのは非常に嬉しいですね。現在でも売れ筋の論考のようです。」
欧米の流行思想を元に批評を行うケースが多いなかで、富井は実証主義的な方法を貫いてきた。
「勉強が嫌いだからかもしれませんよ(笑)。哲学はちょっと苦手なのよね。ただ、一時セオリー(ポストモダンや構造主義などの思想)を主体とした美術史が主流だったのが、より実証的な美術史になってきているというのが最近の変化ですね。ここ10年、20年ともいえる変化で、私の仕事はアーカイブ主体ですが、それが現場の方法論として有効であることを、若い人が参考にしてくれているようです。それから、時代がだいぶ経ちましたから、60年代、またそれ以前もそうですが、アーカイブや資料が使える状況になってきているということもあります。何しろ、資料やアーカイブの歴史的裏付けを充実させていかないと作家や作品が消えてしまいかねないので。」
アーカイブ主体の仕事での傾向はどのようなことだろうか?
「例えば、今まで60年代、70年代の女性作家はあまり認められていなかったのが、最近光が当たるようになっているのは、やっぱりアーカイブ系の資料を使っているからですね。その当時の評価だけではなく、新しい評価の方向を作るための土台として、単に作品だけではなく資料の裏打ちをつくっていかないと実際には戦えない。周縁で仕事をしているとそうなります。証拠となるものがほぼ唯一の武器になるから。それが実際に実を結んで60年代70年代の女性作家たちの美術館初個展や回顧展が開催されている。そういうことを実際にそれぞれにいろんな人たちが地道に作業してくださってきているからこそです。非常にありがたいことだと思います。だから私の場合は日本が研究の対象で、その中でそういう発掘できる資料を使いながら、紹介してきたっていうことはあります。」
特に地方の作家を取り上げる理由は何だろうか?
「私の性分としては、例えば、李禹煥とか関根伸夫、菅木志雄などは、他の人がやっているから私がする必要はないと思うんです。具体やもの派を私がしなくてもいいという見極めですね。ただ、私が全然しなくてもよいかというと、そうではなくて、基本は押さえておかなくてはならないし、私が構築している歴史の枠組みのなかでの位置づけを落とすことは出来ません。ただ、単純に好き嫌いの問題で言うなら、コンセプチュアル・アートの方が好きだと思うわけですね。それは言葉が好きとか、論理が好きとか、構造が好きと言うのと関係しているんだと思う。あと、地方の作家は、やはり東京では知られてないことが多いわけです。私も大阪出身で大阪も地方ですからね。東京を斜めから見ているというのはありますね(笑)。私は東京を経由しないでテキサスに行ってしまったので(笑)。」
地方在住の作家の活動も、同じ時代精神、国際的同時性を共有していたということになる。
「 「コンテンポラリーアートを歴史化する」ことの根本は「国際的同時性」なんですが、その当時は、言葉はあるけれども、私自身も、すべてがはっきり見えていたわけではない。だから、仕事の方向性としても、もうすこし前に押し出して書かないといけないということは感じていた。それに、積極的に国際的な舞台へ出て発言するようにしないといけない、ニューヨークに閉じこもっていても駄目だと思ったんです。」
そして、国際的同時性において、日本はむしろ先行していたということをより多くの人に知ってもらう必要があると考えるようになる。それで2012年にオーストラリアで開催された国際美術史学会(CIHA)に応募し、発表することにした。その時、オーストラリアでの受け皿となってくれたのは、「グローバル・コンセプチュアリズム」展のオーストラリア部門を担当した美術史家、テリー・スミス(Terry Smith)だった。
「国際的同時性の話をするときに、当時『芸術新潮』で日本の現代美術は模倣の栄光であるみたいな記事がありました。その中には関根伸夫さんの《位相ー大地》(1968)は(クレス・)オルデンバーグの作品の模倣であるみたいな批評もありました。西洋中心主義が原則になっていて、同じようなものがあったら問答無用に模倣と思ってしまう。その記事を見せた後に、日本は穴掘り王国で、具体(美術協会)のときから穴掘りをしていて、九州派の宮崎凖之助がやって、グループ〈位〉がやって、関根伸夫がやってということを穴掘り年表を見せて紹介したんです。そうすると、『芸術新潮』が「穴掘りの元祖」としてもちあげているオルデンバーグは、ちょうど下から2番目なんですね(笑)。そうしたら100人くらいは入っていたと思うんですけど、会場が大爆笑になってね。私も大阪人なので講演でも笑いは取るように工夫しているんですが、それ以後そんな大笑いはなかったからよっぽど可笑しかったんでしょうね。」
その時の経験を経て、「国際的同時性」を伝えるためにはやはりまとまった本が必要だと考えるようになる。
「この内容も、本格的に書物にしないとやっぱり認めてもらえないな、と一念発起しました。最初は、もっと比較美術史論みたいに本当に比べる形でつくろうと思っていたんですけど、具体にせよ、宮川淳にせよ、書き出すとどんどん深みにはまっていく。今大阪大学にいる池上裕子(教授)さんなどが原稿を読んで助言してくれたんですけど、しんどくて読めないと言われて(笑)。先生業だからひとまず読んではくれるけど、他の人だったら途中で絶対に辞めてしまうからよくないなと自分でも分かって。ふたりで話している中で、表紙はもうGUNの《雪のイメージを変えるイベント》(1970)に決めているということを言ったんですが、本の中でGUNの項目は立てていなかったんですよ(笑)。それは駄目ですよ、と言われて、一生懸命考えて章立てができた。それで書きたいものが何かと思ったら松澤宥とTHE PLAYだったわけ。「荒野」という言葉は、松澤さんの章ですでに出ていたんですけど、よく考えたらみんな「荒野」だなと思って。それで「荒野のラジカリズム」という言葉が浮かんだ瞬間に本ができたと思った(笑)。これは売れる、少なくとも読みたい人にはインパクトがあると思った。国際的同時性というのは入れないといけないからサブタイトルにして、60年代の日本美術も入れないとわからないから、それでタイトルが決まったんです。最初の1年をグダグダと書いて無駄にしたかもしれないけど、その次の1年で書きあげました。」
そしてマサチューセッツ工科大学出版局(MITPress)から2016年に出版されたのが、『荒野のラジカリズム:国際的同時性と日本の1960年代美術』である。本書は、2017年度、美術におけるモダンアートの優れた功績に対して贈られるロバート・マザーウェル出版賞を受賞することになる。2012年度にはミン・ティアンポの書いた『Gutai: Decentering Modernism』(邦訳『GUTAI: 周縁からの挑戦』三元社、2016年)が佳作に入っているが、非西洋、アジアのアートをテーマにした本で受賞したのは初めてのことだったという。
「それはもらって嬉しかったですね。国際的同時性について書いた理論的な内容が第1章で、グローバル美術史の方法論をいろいろ提唱しているから、それでもらえたと思う。その後に書かれているのは、欧米ではあまり知られていないアーティストだけど、非常に面白いし、手堅くまとめてあるということもあったでしょう。例えば大学の美術史の講義などで読書リストに入れるんだったら本全体ではなく第一章が重要になると思います。」
そしてこの『荒野のラジカリズム:国際的同時性と日本の1960年代美術』をもとに、ジャパン・ソサエティーで展覧会「荒野のラジカリズム:グローバル1960年代の日本のアーティスト」が2019年に開催されることになる。
「ジャパン・ソサエティーのギャラリー・ディレクターに神谷幸江さん(元・広島市現代美術館チーフ・キュレーター)が就任したので、自分としては、作品候補リストは全部できているつもりだったので、わりとストレートにできると思って、興味があるかどうか打診したんです。それで神谷さんも興味を持ってウォーホル財団から助成金をとってくれて、いろいろと大変でしたが彼女が一生懸命頑張ってくれてオープンにこぎつけました。ただ、コンセプチュアリズムが基にあるので、敷居が少々高くて、お客さんはそれほど来たわけじゃなかったです。でも、リピーターが多かったらしく、響いた人には響いたようです。」
本展は、西洋でも、美術館という制度の下でもない、日本の地方「荒野」で、松澤のようにギルバート&ジョージや草間彌生などと直接交流のある場合もあるが、見知らぬ世界のアーティストと響き合い、共鳴しながら同時多発的に、あるいは先行する形でコンセプチュアル・アートが実践されていたということを力強く証明することになった。
それを受けて日本でも翻訳本ができないかという打診があった。
「翻訳なので肉体労働になるし、割の合わないプロジェクトだから辞めた方がいいと断ったんです。私がやるとしたら報酬が出ないとちょっとただ働きはできないし、予算的に無理だった。日本では若い研究者に所属大学が出版助成をしてくれることもあるけれど、私にはそういうメリットもない。一応それで編集者も納得してくれたんです。ただ、ニューヨークに帰ってきてから、編集者の穂原俊二さん(イースト・プレス)が何冊か編集した本を送ってくれて、それで思い直して、次のプロジェクトで「オペレーション」を考えていたところだから、先行して日本語で書けないこともないなと思ったんです。」
それが『オペレーションの思想:戦後日本美術史における見えない手』である。これは、戦後日本美術の中の表現そのものよりも、その外延にあたる観客に届ける手法を「オペレーション」として総合的に捉えた内容になっており、今までまとまって論じられてこなかった団体展やグループ、コレクティブといった集団活動、メディアを使った記録・伝達手法などが取り上げられている。なぜこのようなテーマに関心ができたのだろうか?
「それはカリアさんの宿題に戻るんです。団体展とは何かという問題。団体展のように、日本は集団化したコレクティビズムっていうのは最初からあった。それがエンジンになってモダニズム、近代絵画、近代美術が成立してきた。そのこと自体、私は歴史的に重要だと思っている。それをまず考えないといけないと思って、アメリカの美術史学会(CAA)の分科会で日本のコレクティビズムを由本みどりさんと一緒に企画し、その成果をアジアの文化評論学術誌『ポジションズ』に特集号の責任編集として出してもらえることになりました。私は分科会では発表していないんですけど、前書きを書くという責任編集の役割がある。分科会でのトピックは具体、実験工房、その前の国画創作協会や戦時中の団体などもあり、その背景が理解されていないといけないと思った。集団活動は戦後に突然出てくるわけではない。戦前に戻ったら文展(文部省美術展覧会)にからんだいろんな団体展の流れがあるので。個々でやると大変なことになるから、枠組みとして捉えたらどうなるかという発想が持てるようになっていた。
ちょうどウォーホル財団の第1回のライターズ・グラント(執筆助成)の応募があったので、短い前書きではなく、長い入門的論考を書くという構想で助成金をもらった。ただし、難航に難航を重ねて私は2、3年毎日コンピューターの前に座って半分鬱状態で大変だった。他の方はすでに口頭発表しているから論文は発表原稿を基に改訂すればいいので提出原稿はもうできている。けれども、私の前書き的論考が出来ないと企画の号を出版できないから、皆さんを長い間お待たせしてしまい申し訳ないことをしました。ただ、ある日、「オペレーション」という言葉を思いついて、それがきっかけで書けるようになりました。つまり、美術史の縛りというのは、作品本位というところにあります。それは、つまり「表現」の問題で、いまでは様式論だけで研究をする美術史家はいないでしょうが、作品以外のことを考えるのは結構枠の外の話です。たとえばセオリー系の美術史でも、それは作品についてのセオリー的理解を提示するのが主な眼目となる。そのときに作家についても「オペレーション」をしっかり考えないといけないことがわかった。しかも、団体展の歴史からも明らかなように、作家がオペレーションを必要に迫られてではあるにしても、一生懸命やっていたことをはっきりと言葉にしなくてはならないなと思いました。」
『オペレーションの思想』には、特にDIY精神に富んだアーティストのさまざまな「オペレーション」の実践を、具体からハイレッド・センター、自主アンデパンダン、貸画廊、GUN【※7】、THE PLAY、美共闘、松澤宥、彦坂尚嘉まで60年代、70年代の現代美術を網羅的に記述している。富井の美術史観としては、この時期の日本の現代美術の試みは、今日の世界のコレクティブの活動を予見しているということだ。
「今のグローバル・コンテンポラリーアートの状況を考えても、アーティストが自分で立ち上げて、自分が必要だと思うプラットフォームで、自分が出していきたい表現を発表できる場を自分でつくっていくということが、やっぱり究極のアートではないかと思います。もちろん美術館の役割も大切だし、大学も制度も全部大切なんだけど、新しいものが出てくるときというのは、やっぱりクリエイティブに仕事をする人からそういうものが出てくる部分が大きくて、非常に感動します。」
制度的なものに従うわけでもなく、単に反対するわけでもなく、そこからはみ出した表現をしようと思えば、アーティストは新しい観客への届け方、オペレーションを考えざるを得ない。
「それを強化していくっていうか、それが面白いと思えないとオペレーション論は面白くない。そういった定義、オペレーション的なものも含めて、全部アートであるという見方は意外に定着していると思いますね。ただ、なぜそれがアーティストの仕事になっていくかという点自体は、明確にこれまで定義されてこなかった。アーティストならではのオペレーションというのは、結局それ自体がアートになっていくっていう見方が私のコンテンポラリーアート観ですね。」
すでに次の構想にも動き始めている。近年は、取り上げられてこなかった女性作家の歴史化も視野に入れているという。
「基本的には英語で「オペレーション」をテーマに本にしないといけない。そのときに中谷芙二子さんや久保田成子さんなどの活動も取り上げたい。久保田さんの場合は、アンソロジーアーカイブでの企画などを通して新しい映像表現を紹介するとともに、日本の前衛的な仕事の紹介をニューヨークでもしている。そういう人たちを取り上げると、女性への目配りもできるんですけど、ニューメディア系やビデオアート系はちょっと私は苦手なのでどこまでできるかわからないですが……。英語の本では、そうした読者が面白いと思ってくれるエピソードを重点的に繋いでいくのが一番いいだろうと思っていいます。それを次に頑張ってやらないといけないんです。」
日本のコレクティビズムに関しては自身の研究活動にも影響を与えているという。それが富井玲子と手塚美和子によって2003年に創設された「ポンジャ現懇」(Post-Nineteen forty five Japanese Art Discussion Group / 現代美術懇談会の略)【※8】だ。
「これだけコレクティビズムでお勉強させていただいたので、アーティストがしていることを真似したらどうかと思ったんですね。他の人が誰もしてくれなかったら自分でするしかない、という決断がまずあって、そうしたらコレクティビズムでいくしかない。アレクサンドラ・モンローの展覧会のお蔭で、戦後日本美術を大学院で研究すること自体は認められるようになりましたが、まだまだ横につながってなかった。新しい人たちが出てきているようだし、繋げていかないと力にならないし、連帯できるところはしていけばいいだろうと思い、「ポンジャ現懇」を立ち上げました。だから基本的には任意団体なんですよね。会費はないし、予算はないので、予算のある美術館や研究機関と組んで、コンファレンスやシンポジウムを断続的に企画していくという事業形態ですね。」
2003年からメーリングリストを中心に活動し、世界中の研究者・学生からなる200名以上の会員がいる。すでに若い人材も多数育ってきているという。
「やはり若い研究者に出てきてもらいたい。それと同時に、若い研究者の人たちに、アーティストの言葉に耳を傾けてもらいたいという想いがある。だから、ポンジャ現懇が組織するシンポジウムには可能な限りアーティストを招待して話をしたりパフォーマンスをしたりしてもらっている。やっぱり作家が美術史の基本ですからね。」
海外を拠点にし、日本の戦後美術をここまで歴史化したキュレーター、美術史家はほとんどいない。海外を拠点に文化背景の異なる日本の美術を伝えることの価値や手応え、難しさはどのようなものだろうか?
「私は日本の戦後美術は世界一面白いと思い込んで仕事をしてきました。それが相手に伝わっているかどうかというのは、最初の頃はなかなかわからなかったです。一応面白いとは言ってはもらっているけども、面白かったらあなたの授業でも取り上げてくれますか、と踏み込んで聞きたくなる(笑)。そうすると、西洋美術の専門家としては、ちょっとよくわからないからみたいなこともある。だから、こちらから提供できるものはどんどん提供していかないといけない。ちっとも取り上げてくれないという見方もありますけど、こういうものがありますから取り上げてください、と提供しなければ相手方には実際に分からないことがすくなくない。だからこっちから出せるものはどんどん出していかないといけない。それはようやく最近繋がってきて、若い研究者の人も頑張ってくれているので、手応えはあります。でも、難しいのはそうした成果を将来に繋げていくことでしょうね。」
富井のように、海外で活躍したい人たちも多いだろう。最後にその人たちに向けてアドバイスをお願いした。
「偉い人の言葉を鵜呑みにしたらいけないっていうのがあります(笑)。例えばフランスの思想から借用をするとかいう形で私たちはずいぶん西洋中心主義を内面化してるわけですよね。それは私だってそうで、最初はアメリカ美術が好きで、今でも好きですし、評価してますけども、比べたら日本の方は素晴らしいと思ってる。日本の研究をするために偉い先生や思想家の言葉を引用していくのは学問の基本ではあるわけですね。それが王道だという言い方もあるけども、でもそれを理解して、ちゃんと吟味しなければいけない。吟味という意味は、それ自体が概念として正しいかどうかではないんですよ。
思想がそれ自体で正しいということは思想の前提条件みたいなところがありますね。思想の自律性みたいなところがあるじゃないですか。だからそれだけで見ていれば正当なわけです。ただその考えを日本に当てはめてみたとき、その理論で日本の作品がしゃべれるかどうかが問題で、私にとっては吟味していかなきゃいけないわけですね。吟味するための道具、材料としては作品そのものもあるし、歴史というものもあるし、あとはやっぱり作家の言葉、それともうひとつは私たちの直観。「それ本当?」みたいな直観というか反応があるじゃないですか。それは一応大事にしといた方がいいですね。直観で駄目なこともあるわけですよ。でも実証されて、裏打ちがあれば、それは正当な意見になりうるわけなので。こういうことは大事にしておいた方がいいと思います。」
ーーーーーーーーーーーーーーー
【※1】クイーンズ美術館
(URL最終確認2025年3月4日)
【※2】「Global Conceptualism: Points of Origin, 1950s – 1980s」展
(URL最終確認2025年3月4日)
【※3】テート・モダン
(URL最終確認2025年3月4日)
【※4】「Century City: Art and Culture in the Modern Metropolis」展
(URL最終確認2025年3月4日)
【※5】『ポジションズ』
デューク大学出版局から出版されている、アジア研究のジャーナル。理論的、哲学的、歴史的、批判的アプローチで、学術論文、論評、詩、視覚芸術、政治哲学的議論などの幅広いテーマを扱っている。
(URL最終確認2025年3月4日)
【※6】原田裕規「プレイバック!美術手帖 1972年4・5月号・特集「年表:現代美術の50年」『美術手帖』2022年10月号(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)
(URL最終確認2025年3月4日)
【※7】新潟現代美術家集団 GUN(Group Ultra Niigata)
1967年に新潟で結成。市橋哲夫、前山忠、堀川紀夫が中心メンバーだった。ハプニングやイベント、シンポジウムなどを行い、1970年2月には、信濃川河川敷に降り積もる雪にさまざまな色の顔料を噴射し、その印象を一変させる《雪のイメージを変えるイベント》を実施。その幻想的なイメージは、富井の単著『荒野のラジカリズム:国際的同時性と日本の1960年代美術』、『オペレーションの思想:戦後日本美術史における見えない手』の表紙に採用されている。
【※8】Post-Nineteen forty five Japanese Art Discussion Group (現代美術懇談会、略称:ポンジャ現懇)
(URL最終確認2025年3月4日)
美術史家、インディペンデント・キュレーター。ニューヨーク在住、国際現代美術センター(CICA)の上級研究員を経て1992年より無所属、グローバル美術史における日本の1960年代美術を中心に研究。「ポンジャ現懇」(ponja-genkon.net)を2003年に設立、主宰。出版多数。近著に『オペレーションの思想:戦後日本美術史における見えない手』(イースト・プレス、2024年刊)。2017年度ロバート・マザーウェル出版賞、令和2年度文化庁長官表彰(文化発信・国際交流-日本美術研究)などを受賞。
文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人。独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。