ビデオグラファーの記憶術:場所・もの・人を記録する 〈前編〉

ビデオグラファーの記憶術:場所・もの・人を記録する〈前編〉

Ufer! Art Documentary代表・映像家|岸本康
2024.04.17
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「アートドキュメンタリー」という言葉を聞くようになって久しい。現代美術においてもアーカイブの重要性が取り沙汰され、非対面での鑑賞・対話を余儀なくされたコロナ禍を経て、ますますその重要性が高まっているといえる。

京都に事務所をかまえるUfer! Art Documentaryの代表で映像家の岸本康(きしもとやすし)は、「アートドキュメンタリー」という語が日本にまだ普及していなかった1990年代から現代美術の記録映像に携わってきた、その道の第一人者である。京都市内のギャラリーの展示風景を映像に収めた「Kyoto Art Today」シリーズ(1992-1998)をはじめ、森村泰昌、束芋、杉本博司ら、日本を代表する美術作家らの技術面でのサポートを務めるなど、彼が美術界で一手で担ってきた仕事は幅広い。2021年には、原美術館の閉館に際して過去20年間の記録映像をまとめた『OUR ART MUSEUM −品川にあった 原美術館の記憶−』を制作・公開し、「美術館」という箱そのものの記録も手掛けている。

前編では、岸本がどのようにして現代美術やアートドキュメンタリーと出会い、現在の職に至ったのか、その経緯について伺った。

香港M+で発表する作品を京都で作るためにMacStudioを買ったピピロッティ・リスト〔右〕と岸本〔左〕(2023年撮影)

美術/美術館との出会いと映像制作のきっかけ

1990年代から現代美術の現場で活動してきた岸本であるが、キャリアの始めから美術界に身をおいていたわけではなく、大学卒業後はメーカーに就いている。岸本は、どのようにして美術や記録機材と出会い、現職に至ったのであろうか。


「祖母の妹が美術の先生だったんです、絵を描いててね。二紀会の会員で、「二紀展(にきてん)」【※1】っていう団体展があるんですけど、その巡回展が京都市美術館(現:京都市京セラ美術館)に毎年来てたので、その時は見に行ったりしてました。小学校に入るか入らないかくらいだったと思うんですけど、それが美術/美術館との出会いのきっかけだったと思います。」


親に連れられ美術館に赴いていたという岸本は、当時から工作が好きで、少年時代は近所の絵画教室に通っていた。この絵画教室を営んでいたのは、1949年に結成された前衛美術グループ「パンリアル美術協会」の創立メンバーで、日本画家の不動茂弥夫妻であった。不動夫妻のご息女は、姫路市美術館の現館長の不動美里で、京都市美術館とパリ市立近代美術館の歴史をひもといた映像作品『OUR MUSEUM』(2002)【※2】の公開をきっかけに、同級生でもあった彼女から連絡がきたという後日談つきだ。しかし、大学進学の段階になり、岸本は進路の決断に迫られる。


「大学に行くときに、芸術の方に行くか、ちょっと悩んでたんです。彫刻とか工芸とかが好きだったので、そっちの方に行くのもいいかなと思ってたんですけど、それで食べていくのは大変だと思って。それで、僕は機械の設計も好きなので、工学部の機械設計の方に進んだんです。」


大学卒業後はSONY(当時:ソニーマグネスケール(株))に就職し、6年間のサラリーマン生活を続ける。ここで、芸術/美術とは別のキャリアに進むも、カメラをはじめとする記録機材に関心はなかったのであろうか。


「大学生の頃にビデオカメラが出てきたんですけど、なんで出会ったかというと、その時にウィンド・サーフィンというスポーツをしていて、社会人になってからもしてたんです。社会人になった頃に、ようやく8mmビデオが出てきて、それが1988年くらい。当時SONYに勤めていたので、社販があって、SONYの製品が安く買えるんですよ(笑)。それで買って、自分でも撮ってみようかなと思ったのがきっかけで、最初はウィンド・サーフィンをやってたので撮られる側だったんです。撮ってくれた人に機材を借りてちょっと撮ってみたら、簡単に撮れるわけですよ。それで、おもしろいなと思って。」


SONYからカメラ一体型8ミリビデオの1号機「CCD-V8」が発売されたのが1985年、同じくSONYより当時は世界最小・最軽量で、パスポートサイズのハンディカムで知られる「CCD-TR55」が発売されたのが1989年のことである【※3】。昭和から平成へと、新しい時代が幕を開けたその頃、誰もが片手で容易に映像を撮れるという技術的な転換も起こっていた。岸本はビデオカメラを手に入れ、「撮られる側」から「撮る側」になるも、最初から美術作品を撮影対象にしていたわけではない。


「その頃、ちょうどMTVっていうミュージックビデオを流すチャンネルが流行っていて、それの真似事ができるかなと思って。友達にバンドをやってる人が何人かいたので、その人たちがライブハウスで演奏する映像を撮りにいったりしていました。それが最初の制作のきっかけです。拾得(じっとく)とか、RAGとか、京都のライブハウスには結構いきましたね。ブルースのバンドが多いんですけど、今も当時の映像は残っています。」


その後、現代美術の記録映像を手掛けるようになるも、そのまま音楽の映像制作を続けようとは思わなかったのだろうか。


「音楽を映像にするのも、それはそれで面白いんですけど、基本的に音楽に合わせた「画」をつくることになるんですね。そうすると、最初と最後も決まっていて、長さも決まっているので、あんまり面白くないんですよ(笑)。最初のうちは面白いんですけど、それよりも被写体としては、美術の方が色んなタイプのものがあって、現代美術のプロジェクトとかになるとすごく変わってますよね。そういうものを記録した方が、世のためにもなるかなと思って。」

ボードセイリングのために冬場の週末は毎週静岡の御前崎に通っていたという(1990年頃撮影)
岸本が映像制作を趣味で始めた頃に撮ったライブハウスの1コマ(1990年撮影)

Ufer! Art Documentaryの設立と「NewYork Art Today」の始動

映像制作に面白さを見出したのと同時に、6年間のサラリーマン生活にも飽きが訪れる。当時は年功序列が今よりも激しく、旧態依然の体制に疑問を感じ、自身がやりたかった本来の姿と現状の働き方との間に乖離が生じ始めた。そんな折、またも岸本のもとに「きっかけ」がやってくる。


「芸術系の仕事をしたいなと思ってるときに、家業で使っている社屋を建て替えて、一個フロアを設けてそこでギャラリーみたいなことをできればと漠然と考えていて。「脱サラ」というかたちで、現代美術のギャラリーを始めるのが元々の方針だったんです。その頃に、映像で美術を記録することも始めました。なんでそれを始めたかというと、ギャラリーを準備しているときに何回かニューヨークに遊びに行ってたんですけど、当時はVHSのビデオだったんですけどね、「Art Today」というニューヨークのギャラリーとか美術館で開催される展覧会をアーカイブした1時間くらいのビデオがあって。多分7、8本出てたかな。あとから聞いた話では、個人の人がネットワークを使ってつくっていたみたいですね。」

「Art Today」のVHSパッケージ

「Art Today」が取り上げるのは、有名なギャラリーばかりであったという。インターネットもない時代、ニューヨークのギャラリーの情報を知るには、『美術手帖』や『ATELIER』といった雑誌によるしかなく、紙面での文字情報や小さな図版としてしか享受できなかった。それが「映像」で見れることに、岸本は感激を受ける。そこで、「Art Today」から着想を得た「Kyoto Art Today」【※4】を始めるに至る。SONYを退職し、Ufer! Art Documentaryを設立したタイミングでもある。


「こういうのを京都でやってみたら、おもしろいのちゃうかと思って。現代美術のギャラリーの人に声をかけてみたら、『そんなんできるんやったらやって』となったんです。それで始めたのが1992年、30歳のときです。」


「Kyoto Art Today」シリーズはおよそ7年間続き、全29巻で、のべ500人以上の作家が参加した。ギャラリー16やギャラリーマロニエをはじめ、現在では閉廊してしまった、アートスペース虹やギャラリーココ、ギャラリーすずき、ギャラリーそわかなど、京都市内のギャラリーで行われた展示の様子が収められた、今となっては貴重な映像群である。当時は、美術を記録した映像を手掛けるメディアといえばNHKのTV番組『日曜美術館』くらいであり、個人で手掛ける者は皆無に近かった。そんな中、岸本はどのように制作手法を習得していったのだろうか。


「その時京都造形芸術大学(現:京都芸術大学)の教授を務められていた、映像作家の松本俊夫さんにも色々アドバイスをもらいました。機材は、社会人で貯めたお金を全部つぎ込んで揃えました(笑)。映像技術はほとんど独学ですが、当時はメーカーが講習会をやっていて、SONYとかは無料でやってましたね。それだけ、やる人が少なかったですから。今と違って、撮影も編集も大変でした。」


当初から構想していた現代美術のギャラリーUfer! Galleryを同時期に開廊させるも、徐々に関心の重きは映像制作の方にシフトしていく。岸本が「Kyoto Art Today」で心がけていたのは、「ニュートラル」に記録することだったという。


「「Kyoto Art Today」は、ギャラリーが選んだ展覧会を記録することになっていたので、僕のチョイスではないんです。ギャラリーの人が推薦してくれて、作家の人も納得してくれて参加するというかたちで。参加する人たちにもVHSを一本ずつ買ってもらうのが、一応の設定条件だったんです。基本的にアーカイブなので、そこには僕の意思を入れずに、ニュートラルに記録していました。」

The Ufer! Galleryで開催した松本俊夫の個展「ナラトロジーの罠」(1992)
「Kyoto Art Today」のVHSパッケージ。その後DVD化し、現在はVimeo on demandで公開されている。
「Kyoto Art Today Vol.1」

ニュートラルなアーカイブから「アートドキュメンタリー」へ

「ニュートラル」な「アーカイブ」としての記録映像から、初めて岸本が自身の「意思」を入れて作品化したものが、現代美術作家の中川佳宣の作家活動の最初の10年を振り返った『中川佳宣 1984-1994』(1994)【※5】である。同作品を、パリのポンピドゥセンター主催の公募式の映画祭、第4回ポンピドゥーセンター国際芸術映像ビエンナーレへ出品すると、コンペ部門の入選を果たす。国際交流基金から旅費を得て、パリに赴き、そこで初めて「アートドキュメンタリー」というジャンルを知る。


「当時、「アートドキュメンタリー」という言葉は、日本ではほとんど使われていませんでした。こういうジャンルがあるんやったら、日本でも将来的にはできるんちゃうかなと、いわば勘違いしてしまったのが、美術の記録映像に足をつっこんでしまったきっかけでした(笑)。」


その後も、映画祭への出品は、岸本のキャリアを支えることとなる。1998年にポンピドゥーの映画祭が終わると、1996年から10回ほど参加したというモントリオールの国際芸術映画祭が活動の中心となった。同映画祭は毎年3月のおよそ10日間開催され、芸術に関する映画や人が一堂に集結する世界最大のものである。


「モントリオール市内の映画館や美術館5軒くらいで上映があり、興味のあるものをハシゴしながら見るような映画祭です。参加者はパーティーなどで交流の機会もあって、そこで知りあった監督から、マシュー・バーニー【※6】や杉本博司のドキュメンタリーの輸入に繋がったこともありました。毎回行くと30本くらいは見ていたので勉強に行くような感じでしたが、現地にも友人が出来ました。」

出品作の主役、中川佳宣〔左〕と岸本〔右〕(1994年撮影)
ポンピドゥセンター大劇場にて。
モントリオール国際芸術映画祭の創始者ロネ・ロゾン〔右〕と岸本〔左〕(2009年撮影)
オープニングの行われたモントリオール近代美術館のホールにて。
モントリオール近代美術館での舞台挨拶(2016年撮影)

時を同じくして、その他にも転機が訪れ、岸本は「作家」に焦点を当てた映像の制作を手掛けるようになる。森村泰昌と岡部あおみとの出会いである。


「僕がこういう仕事をしてることも、作品を見て知ってくれたりして。当時はネットも無かったから口コミですよ(笑)。それで広がっていって、話を持ってきたのが森村泰昌さんです。1995年くらいかな、一緒に仕事をするようになったのは。あと、岡部あおみさんという美術評論家が、アートドキュメンタリー映画祭の審査員をされていた関係で、映画祭のシンポジウムのパネリストとして出てたんですよ。そこで岡部さんとも知り合って。『岡部さんは何か自分でも作品をつくりたいことはないんですか』と聞いたら、『実はつくりたいと思ってて、田中敦子さんを取り上げたい』と。それも1995年くらいに制作を始めることになりました。その頃から作家に焦点を当てたものをつくるようになりました。」


後者のプロジェクトは、岡部が監督を務め、岸本が撮影・編集を行い、『田中敦子 もうひとつの具体』(1998)【※7】として完成を見る。田中の制作風景を映した映像や、「具体」を田中とともに牽引した金山明や白髪一雄をはじめ、「具体」の国際的な評価に貢献した、アメリカの美術家アラン・カプローのインタビューなども含まれる。同映像の制作については、Ufer! Art Documentaryのホームページに掲載の岡部および岸本による制作記に詳しい【※8】。一方で、森村とは現在に至るまで制作をともに行う関係性となる。


「 『岸本くん、僕いまこんなんやってんねんけど』とか。僕のとこにやってきて、プレゼンやりだすんですよ、急に。この人は一体、何が言いたいんかなって(笑)。最後の方に、『実は一緒にやってもらえたらなあって思ってんねんけど』みたいなことがあって、そこからスタートしたんです。それからもう25年以上の付き合いになりますけど、森村さんも当時は映像作品をほとんど作っていなくて、実験的なものはありましたけど。2000年くらいにフリーダ・カーロをテーマにした映像作品【※9】を森村さんが作ることになって、その頃から映像作品を作ることや、インスタレーションでそれを美術館にどうやって展示するかという技術的な問題ですよね。機材の選び方とか、その辺も含めて一緒にやっていくことになったんです。」

美術評論家の岡部あおみ〔右〕と岸本〔左〕(1994年撮影)
『田中敦子 もうひとつの具体』に登場するMoMA所蔵の作品、田中敦子《無題》(1964)
原美術館での森村泰昌の個展「私の中のフリーダ : 森村泰昌のセルフポートレイト」で初めて発表された《自分との対話(出会い)3》(2001)

作家と美術館の伴走者として

森村との出会いによって、単に作品や展示風景・制作風景を映像で記録することから、映像制作の技術的なサポートを行ったり、展示にあたってのインストーラーとしての役割も担うようになる。2000年代の岸本は、森村泰昌、束芋、杉本博司の3人の作家が彼の仕事の軸となっていた。


「束芋に出会ったのは、神戸アートビレッジセンター(現:新開地アートひろば)で、今は大阪大学にいる木ノ下智恵子さんがアートビレッジセンターに勤めてました。彼女が「Kyoto Art Today」のことも知ってたので、『私らもこんなんやりたい』と言ってくれて。そこでは、毎年10人くらいの若手の作家を芸術系の大学から選抜してもらって、グループ展をやってたんですよ。そのグループ展の出展作家を紹介する映像をつくりたい、と。それで、展覧会前に作家のアトリエや制作現場に行って、どういう作家かをインタビューする映像をつくりました。その中に束芋がいたんです。」


神戸アートビレッジセンターで開催されていた若手作家を招聘するグループ展とは、開館の1995年から2015年までの10年間に行われていた「神戸アートアニュアル」展のことである。束芋が参加したのは、1999年開催の「私⇔」をテーマに束芋を含む8名の作家が参加した展覧会で【※10】、束芋は映像インスタレーション《にっぽんの横断歩道》を発表した。


「その時束芋は大学を卒業したてだったんですけど、既にとてもクオリティの高いものを作っていたので、「とんでもない人がでてきたな」と思って。でも、彼女は自分のインスタレーション作品をちゃんと記録してなかったんですよ。それはちょっともったいないからと、たまたま翌年の2000年に開催されたギャラリー16での束芋の個展のときに、『これ記録してあげるわ』と言って(笑)。そしたら、彼女の方から『技術的なことでどうもわからないことがあるので、一緒にやってもらえませんか』と話があって、以後十数年くらい一緒に制作するようになりました。」

ギャラリー16での束芋《にっぽんの横断歩道》の展示のようす(1999年撮影)

ギャラリー16での展示で発表されたのは、アートビレッジセンターでの展示と同じく《にっぽんの横断歩道》で、岸本の制作した記録映像『初芋:束芋 1999-2000』(2001)【※11】でその様子を見ることができる。その後、ギャラリー小柳という束芋と所属するギャラリーを同じくする杉本博司とも出会うことになる。


「束芋はニューヨークのジェームス・コーハンというギャラリーで展覧会をしてますけど、そのギャラリーの向かいに杉本スタジオがあったんですよ。《にっぽんの湯屋》というね、お風呂場をテーマにした作品を束芋がはじめてニューヨークで展示することになって。その作品には引き戸がついているんですけど、引き戸の手をかけるところがついてなかったんです、大工さんが忘れてて。それで現地で彫らなあかんとなったときに、向こうのカーペンターで鑿を持ってる人がなかなかいないんです。どうしようかと話をしてたら、『なんか杉本さんが持ってるみたいやで』とうわさが流れてきて(笑)。そしたら杉本さんが来てくれはって、なんと宮大工のセットを持ってるんですよ。貸してくれはるんかなと思ったら、『俺がやるよ』と。『これは貸せないんだ』って(笑)。」


ジェームス・コーハンで束芋の個展が行われたのが2005年の3月から4月にかけてであるが【※12】、数年後、岸本は杉本の記録映像も手掛けるようになる。


「 「歴史の歴史」という金沢21世紀美術館で開催された杉本さんの大規模な展覧会があって、それに至る色んな制作とか、展覧会のメイキングも含めて携わりました【※13】。その頃の5年間くらいは杉本さんを追いかけてました。その時、森村さんや束芋の仕事もやっていたんですが、彼らが展示をしているときに、たまたま杉本さんが近くで制作をしていたりとかが何回かあって。ヴェネチアに行ったら、3人ともヴェネチアにいるみたいな(笑)。そういう状況が結構続いて、上手い具合に「一石三鳥」くらいでやってたんです。」


作品のインストールのあとに撮影があったりと、仕事としてはかなりハードであったという。しかし3人の作家の他に、美術館からの依頼も受け、国内外の数々の作家とも共に仕事をするようになる。


「僕が映像技術もやっているということを知って、色んなところからそういった仕事の声がかかるようになりました。2000年代ですけど、その中に原美術館もあったんですね。それも森村さんがきっかけなんですが、「美術のことがある程度わかっていて、映像のこともわかっている」人というのが、当時は少なかったんです。海外からこだわりの強い作家が来たときなどに、「彼らがやりたいことをひも解いて、それを施工者に伝えることができる」というのは、キュレーターでもなかなか難しいんです。技術的なことにも関わるので。それで、原美術館にピピロッティ・リスト【※14】やヤン・フードン【※15】が来るってなったときに、京都からわざわざ行って、一週間か十日くらいかな、一緒に仕事をしたりなどしました。金沢21世紀美術館でも、本当に色んな作家さんとお仕事しましたね。」

原美術館での「ピピロッティ・リスト:からから」展の設営のようす(2007年撮影)
金沢21世紀美術館で2013年の4月から9月にかけて開催された展覧会「内臓感覚―遠クテ近イ生ノ声」に出品されたピピロッティ・リスト《肺葉(金沢のまわりを飛び交って)》(2009/2013)の設置は、作家本人が会場に来られなかったため、岸本が代役で行った(2013年撮影)

美術についての知識と映像制作に関する技術を併せもつ岸本は、その後も現代美術をフィールドに仕事の幅を広げていく。近年の映像制作や、今後の国内のアートドキュメンタリーや美術館に期待する展望については、後編を参照されたい。


後編に進む

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関連情報

Ufer! Art Documentary
(URL最終確認2024年4月17日)

Ufer! Art Documentary  Youtubeチャンネル
(URL最終確認2024年4月17日)

注釈

【※1】美術団体の「二紀会(にきかい)」が、毎年秋に主催する公募展のこと。
(URL最終確認2024年4月17日)

【※2】岸本康監督『OUR MUSEUM』(2002)
(URL最終確認2024年4月17日)

【※3】ソニーグループ株式会社HP「ソニーグループについて:商品のあゆみ(ビデオカメラ)
(URL最終確認2024年4月17日)

【※4】「Kyoto Art Today Vol.1-29」(1992-98)
(URL最終確認2024年4月17日)

【※5】岸本康監督『中川佳宣 1984-1994』(1994)
(URL最終確認2024年4月17日)

【※6】アメリカの現代美術作家。Ufer! Art Documentaryでは、マシュー・バーニーの「クレマスター」シリーズ、展示準備の様子、作家のインタビューを収めた映像作品「マトリクスとしての身体 マシュー・バーニー:クレマスター サイクル」(2002)を制作している。
(URL最終確認2024年4月17日)

【※7】 岡部あおみ監督『田中敦子 もうひとつの具体』(1998)
(URL最終確認2024年4月17日)

【※8】岡部と岸本による制作記は、次のリンクよりご覧いただける。「田中敦子 もうひとつの具体」
(URL最終確認2024年4月17日)

【※9】原美術館で2001年に開催された展覧会「私の中のフリーダ : 森村泰昌のセルフポートレイト」で、最後に展示された映像作品《自分との対話(出会い)3》(2001)のこと。

【※10】原久子による同展のレビュー記事が、artscapeで公開されている。
原久子「若さがウリって素晴らしいです:神戸アートアニュアル99「私⇔」」artscape
(URL最終確認2024年4月17日)

【※11】岸本康監督『初芋:束芋 1999-2000』(2001)
(URL最終確認2024年4月17日)

【※12】“Tabaimo Video Installations: Japanese Bathhouse-Gents and hanabi-ra
(URL最終確認2024年4月17日)

【※13】金沢21世紀美術館で2008年11月から2009年3月にかけて開催された展覧会「杉本博司 歴史の歴史」展のこと。同展の様子は、岸本康監督『SUGIMOTO』(2014)に収録されている。

【※14】スイス出身のビデオ・アーティストであるピピロッティ・リストの日本での初個展で、原美術館で2007年11月から2008年2月にかけて開催された、「ピピロッティ・リスト:からから」展でのこと。

【※15】中国出身の映像作家ヤン・フードンの個展で、原美術館で2009年12月から2010年5月にかけて開催された、「ヤンフードン:将軍的微笑」展でのこと。

INTERVIEWEE|岸本 康(きしもと やすし)

Ufer! Art Documentary代表。1961年京都生まれ。大学卒業後、メーカーで6年間勤務。1992年に自営で現代美術のギャラリーを開始すると同時に現代芸術を被写体とする映像制作を始める。徐々に映像制作に重点が移り現在に至る。現代芸術の記録映像の制作、現代美術の映像作品を作る作家の技術サポートを行う。

INTERVIEWER |山際 美優(やまぎわ みゆう)

京都国立近代美術館研究補佐員。同志社大学大学院文学研究科美学芸術学専攻博士前期課程修了。アメリカの戦後の写真集、とりわけロバート・フランクやジョン・シャーカフスキーの作品を対象とし、広くイメージとテキストの関係について研究を行う。現在は+5編集部で校正を担当するほか、記事の執筆にも携わっている。