2023年末、『アートライティングとアートライターの仕事の行方』という記事を当メディアで公開した。これはアートメディアである+5が、記事の書き手でもあるアートライターのためのメディアとしても、ちゃんと機能すべきなのではないだろうかという問題意識をレビュアーの三木学さんに相談し、実験的に1本書いてもらったものだ。
予想に反して、2023年度の記事の閲覧数の多さでは上位7位に入り、嬉しいことに、特にライティングを生業とする方々から様々なご意見・感想をいただいた。その多くが、アートライティングというものの系譜や情報がウェブ上でもほとんどなく困っていたということ、そしてそのような情報があればまた発信してほしいというものだった。
そのため本企画を、様々な視点で不定期に配信していき、ライターがアートライティングについて多視点で向き合うきっかけをこれからも作れればと考えている。
近年、アート関係の記事を書くことを、「アートライティング」と称することが増えている。しかし、アートをライティングするからには、「アート」とは何かをある程度定義する必要がある。ただここでいうところの「アート」とは、たいていの場合、「現代アート」のような、狭義のアートのことであり、明治以降の近代美術やそれ以前の江戸絵画のようなものを書くとき、アートライティングとはあまり言わないだろう。
しかし、その「現代アート」においても定義するのは極めて難しい。かつてのように、絵画や彫刻といった形式で定義できない。マルセル・デュシャンの登場以降、既製品を使ったり、反芸術といった、芸術制度や形式を批判的に表現したりするアートも多い。あるいは、「リレーショナル・アート」(ニコラ・ブリオー)【※1】のように、物はあるけども、そこに人と人が関係性を持つことを重視したり、近年の「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」のように、造形物はあくまで社会や地域住民を結ぶ道具に過ぎず、完成した作品は存在しなかったりするようなアートも生まれている。ある意味で「何でもあり」であるし、更新し続けるから定義できないというわけだ。
しかし、大衆文化と比較したら、アートの輪郭はもう少しクリアに見えてくるのではないだろうか。もちろんこの区分けは、美術評論家クレメント・グリーンバーグの「アヴァンギャルドとキッチュ」【※2】以来、図式化されているだろう。それに対して批判もあるが、その内容ではなく、受容される形式や流通形態、価格や価値形成のプロセスの違いとして考えたい。その上で、エンターテインメントやポップカルチャーである、漫画やアニメ、音楽、映画、ゲームといったものの特徴を考えたとき、できるだけ多くの人に廉価で商品を売ることでマーケットが成立していることがわかる。需要者には富裕層も含まれるが、それを享受している層はかなり広いし、その分影響力も大きい。
それに対して、アートに触れる機会は極めて限定的である。限定的にすることによって、価値を高めるというのが基本的に今日の「アートの性質」といってよい。
大量生産であれば、価格は安くなる。希少品ならその分、価格は高くなる。多くの人が買うことによってその商品を支えるか、ごく一部の人で支えるか、ということであり、高額商品を支える少数の人間はたいてい富裕層ということになる。もちろん国公立の美術館のように、税金によって高額なアート作品を購入し、安価な入場料でそれを公開するという場合もある。しかし商品自体が高いことは変わらないし、限定的であるということも変わらない。これは作品形態が違えど同じことである。
例えば今日の現代アートでよく見られる、社会問題、政治問題をテーマにした批評的な作品で、映像や写真、既製品、その他の素材、多くの資料などといった複数のメディウムからなるインスタレーションなどは、美術館が購入する場合はあるかもしれないが、個人購入は難しい。また、サイトスペシフィックと言われるその場所や地域に特化した作品や特定の時間に特化した作品、ハプニングやイベント、パフォーマンスといった公開する時間の限られた身体的なアクションによる作品、さらに地域住民と協働しながら制作する作品なども、資本や価格に還元されないかもしれないが、限定的であるということとは同じである。
また、アートを読み解くには、美術史やさまざまな社会問題、異文化、思想哲学の知識が不可欠であり、アートが難解と言われる所以だ。そしてそれがまた大衆ではなく、高度な知識を保有している人に受容層を限定しているといえる。総じてアートは「量や機会、理解できる人数を限定的にし、価値や価格を向上させた表現」といえるのではないか。近年の現代アートの潮流である調査をもとにした「リサーチ・ベースド・アート」は、美術史家クレア・ビショップが指摘しているように過剰な情報量が特徴である【※3】。しかし、その情報量が多ければ多いほど、逆説的に作品を理解できる人を限定していると言える。NFTアートも、本来、無限に複製可能なデジタル作品を分散型の「デジタル台帳」に記入することで限定的にしている。
これらのアート作品を購入したり公開したりできる人も少数である。つまり、大衆の人気投票のようなものではなく、一部の人間、つまり作品を購入できるコレクターか、それを売るギャラリスト、美術館にコレクションしたり展覧会したりする権限を持つキュレーターが価格や価値を付与する重要な人々ということになる。では、キュレーターやギャラリスト、コレクターが認めなければ価値はないのか?というともちろんそんなことはない。しかし、アートを消費する人口が少なく、限られた人しかそこに価値を付与する力はないので、彼らに認められなければアーティストとしての活動を継続するのが難しくなるのは間違いない。もちろんアーティスト自身がスポンサーとなって表現行為に投資し続けたり、直接販売するような原始的な形態はこれからも存在するし、多くの人はその状態から抜け出せないのが実態だろう。
これらのアートに関するプレイヤーは、美術史家アーサー・ダントーのいう「アートワールド」の一員として、相互にアート作品の価値や価格の形成を担っている。
では、そのような構造の中において、記者や批評家、美術史家の役割とは何だろうか? 彼らは基本的にアート作品を言説化することによってその価値を発見したり、担保したりする人達ということになるだろう。あえて役割を分けるとするならば、最初に記者あるいは批評家が言説化し、歴史的に体系化するのが美術史家といってよいだろう。そして、批評家や美術史家が解釈して価値づけることによって価格にも反映され、キュレーターやギャラリスト、コレクターの動向にも影響を与える。
昨今のアートシーンでは、美術館に所属しないインディペンデント・キュレーターも増えており、キュレーションも批評行為の一環として認められたり、批評家としても活動したりするキュレーターも多い。彼らはある種のディレクター(演出家)であり、アーティストや作品を役者のように選択し、空間的に配置することで、展覧会や芸術祭というひとつの大きな作品を制作しているともいえる。その際、アーティストや彼らの作品をキャプションや、展覧会のカタログで解説する。全体として創作であると同時に、批評的な行為でもある。つまり、展覧会もまたひとつの表現形式であり、それ自体、価値づけられる対象でもある。それも誰かが批評しない限り、評価対象にならない。なぜなら展覧会や芸術祭はどんなに長くても3か月程度のことであり、ほとんどの人は見られないからだ。
「ほとんどの人」というのは、極端に言えば、展覧会終了後に生まれた人も含まれる。展覧会図録は残るかもしれないが、展覧会自体の影響や評価を知るには、他のメディアが必要になる。動員数というのは価値のひとつの目安かもしれないが、その換算の仕方はエンターテインメントと変わらないので、アートの指標としては不十分だろう。
そもそも、現代アートは、一義的でわかりやすく伝える表現ではなく、多義的であったり、抽象的であったり、幾つもの解釈ができるような表現形式である。多くの人が作品を鑑賞するだけでは理解するのは難しく、誰かの解釈を必ず必要とするため、作品単体では成立することはできない。その意味では、批評家を中心とした、言説化する人は今日においても不可欠であるといってよいだろう。
批評家と美術史家、記者・ジャーナリストが担う、大きく、批評(クリティシズム)、アカデミズム、ジャーナリズムが、主に言説化、ライティングを担う三角形といってよい。これらはアカデミックライティングやニュースライティング、批評理論などライティングの技法にそれぞれ特徴がある。
この3つの関係はある程度の緊張関係をはらむが、重なる場合もある。そして大きく発表する媒体で分けることができるといってよい。アカデミズムは学会誌・ジャーナルといった学術誌である。ジャーナリズムは新聞や雑誌が主となる。批評は専門誌や書籍が主である。専門性の高さで言うと、アカデミズム、批評、ジャーナリズムの順番になるだろう。逆に即時性で言うとその反対になる。新聞や学術誌に批評が載る場合もあるが、学術誌に報道記事が載ることはほぼない。その意味では、批評はアカデミズムとジャーナリズムの中間的な形態といえなくもない。また、主観を重視するのは、おおよそ批評、ジャーナリズム、アカデミズムといった順番になる(多少の入れ替えはある)。
ただし、芸術批評においては、キュレターがカタログに掲載するような事前に行う批評と、批評家のレビューのような事後に行う批評があるため、三角形を向かい合わせにした菱形ともいえる。
まとめると、言説化には、キュレーション(事前の批評)、クリティシズム(事後の批評)、アカデミズム、ジャーナリズムの4つの大きな分野に加えて、大きく専門的・即時的/主観的・客観的の軸がつくれることになる。
さらに雑誌には、大衆誌のような側面もあるので、そこに載るものは報道記事に加えて、専門性の高い批評ではなく、より初学者向けに平たく概要を紹介するものか、より主観的なコラムやエッセイが掲載されることが多い。ただし今日、多くの雑誌媒体が廃刊し、それを代替するウェブメディアの量も多くはない。そのような中で、ブログやnoteといったパーソナルメディアやオウンドメディア、さらにXやFacebook、Instagtramなどのソーシャルメディアがマスメディアから漏れ落ちたものを発信する場となっている。
それらのパーソナルなウェブメディアと、学会誌や新聞、雑誌、書籍と異なるのは、編集部、編集者、さらに学会や版元(出版社)がいるかいないか、ということだ。さらに、学会誌やジャーナルの場合は査読者や閲読者がいて、掲載するためには査読者や閲読者の審査を必要とする。その媒体に掲載するということは、媒体の方針に合い、内容に関しても責任を取るということなので、大きなハードルがある。だから責任体系から考えても、媒体があるかないかには大きな違いがある。
学会誌やジャーナルは、会費や投稿料がいるので、むしろライティングによって収益が得られる場ではない。学術的なキャリアを積むことが目的であるといえる。雑誌は原稿料、書籍は印税という収益が出るが、生活ができるほど稼ぐにはかなりの量をこなし、売れる必要もある。今日においては、多くの雑誌媒体が消滅し、SNSやブログ、noteのような個人発信の影響が大きくなっているが、課題としては、編集者や査読者、校正者、校閲者がいないという原稿の品質に加えて、媒体からの原稿料ではなく、それ自体で収益を挙げなければならないことだろう。
大学に属する教員や、美術館に属する学芸員、新聞社や出版社に属する新聞記者などの本職があれば、原稿料自体での費用対効果や生計を考える必要はないが、文筆業として生計を立てることを考えると大きな課題となる。いっぽうで大学教員や学芸員も有期雇用や指定管理者による限定的な契約が増えており、安定した雇用とは言い難い。その意味では、ライティングで収益を上げることは、これまで以上に重要になっているといえるかもしれない。その場合に必要なのは、誰のために、誰に向けて、どのような立場で書くのか、ということだ。それによって大きく書き方が変わるからだ。
ここ20年、デジタル化の進展によって、エンターテインメントやポップカルチャーのコンテンツにも異変が起きている。それはとりもなおさず、インターネットとSNSを中心としたプラットフォームの登場が大きい。AppleやAmazon、Google、FacebookのようなIT企業、彼らの提供するYouTube、Instagram、TikTok、Spotifyのようなプラットフォーム・サービスは、さまざまな業態から中間事業者を奪い、生産者と消費者を直接的に結び付けている。例えば、音楽産業の中でもっとも大きな利益を占めていたレコードビジネスは、音楽配信サービスの登場でCDが売れなくなり壊滅的な打撃を受けた。そしてレコード登場以前のような、ライブビジネスやグッズビジネスに戻っている。雑誌もまたウェブメディアの登場でほとんど売れなくなり、廃刊が続いている。レンタルビデオ店、レコード店、書店も消失していっている。
その結果、デジタルコンテンツは独立した商品ではなくなってきている。そしてすべてのコンテンツが、プラットフォームによって生産者と消費者を結び付けるファンクラブの付属品、グッズのようになっているのだ。そのような影響もあって、中間形態の多くの業種は消失していった。
すでに名のあるライターは、メールマガジンをやったり、会員サイトをやったり、今日ではnoteの課金モデルを使用したりしている。消費者が課金する理由は、ある意味で、書き手自身へのロイヤリティ(忠誠心)といってよいだろう。しかし、そうした場合、自身の経験や生活で感じたものを書くようなエッセイのスタイルか、見たものに対するレビューのような方法が求められてくる。いずれにせよ、ライティングを通して、ライター個人のパーソナリティーに対する信頼を得ることが必要となる。これをアートという分野で考えた場合、アートに対する個人的な価値観から見たエッセイか、もう少し客観的なレビューかということになるが、継続したり、課金したりしてくれるような読者をつくるのはかなり難しい道である。
エンターテインメントやポップカルチャーの商品が売れなくなるなか、まだまだ物質をメディウムとし、価格が高騰しているアート作品の方に、別ジャンルのアーティストが流入している。ただし、新規参入者も含めてほとんど言説化されていないのが実情である。言説化しなければ、価値や価格を上げるのは難しい。つまりアートライターの別の道として、アーティストを「一次生産者」として、彼らの作品や考え方を言説化するという役割、仕事もある。
そのようにアーティストをライティングでサポートしたり、協働していく道もあるだろう。それはクリティシズムやジャーナリズム、アカデミズム、あるいはエッセイとも違うが、言説化されていないアート作品が増加する中、発表の場や、アートマーケットが広がることによってますます必要となってくるのではないか。
今日ではアートマーケットの拡大に伴って、巨大化したメガ・ギャラリーが、美術館と同レベル、あるいはそれ以上の予算と規模でキュレータ―を雇って展覧会を開催したり、カタログを発行する場合もある。そして批評家に寄稿を依頼して言説化を行ったりする。かつて印象派を売り出したギャラリスト、ポール・デュラン=リュエルは自身で美術雑誌も発行した。価格の向上を狙ってギャラリーの主導による言説化も増加する可能性も高い。こちらもニュートラルな言説化とは言い難いが、商品解説としては不可欠である。
重要なことは、自分が「一次生産者」としてファンクラブを形成できるようなパーソナリティや創造性を宿してライティングに関わるか、あるいは、アーティストのような「一次生産者」をライティングでサポート、または対等な立場で協働することで、その創造性を拡張したり、それを販売するギャラリストの商行為をサポートしたりする役割が向いているのか、道はふたつではないが、どの役割・方向性で活動するのか、見極めなければならないということだろう。
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注釈
【※1】 ニコラ・ブリオー『関係性の美学』辻憲行訳、水声社、2023年。
【※2】クレメント・グリーンバーグ『グリーンバーグ批評選集』藤枝晃雄訳、勁草書房、2005年。
【※3】 クレア・ビショップ「情報オーバーロード」青木識至・原田遠訳、『Jodo Journal 5』浄土複合、2024年3月。
文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。
アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人。
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。
美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。