「挑戦する人を育くむための「環境の器」をつくる」 ランドスケープデザイナー、忽那裕樹さんに聞く。 (後編)

「挑戦する人を育くむための「環境の器」をつくる」ランドスケープデザイナー、忽那裕樹さんに聞く。(後編)

ランドスケープデザイナー|忽那裕樹
2025.09.10
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前編に引き続き、ランドスケープデザイナー忽那裕樹(くつな ひろき)さんの活動をご紹介していく。後編は2025年9月現在、連日多くの人が訪れる大阪・関西万博について、裏話も含めてお話を伺った(編集部)。

 E-DESIGNの設立と水都大阪

1999年、鳳コンサルタント環境デザイン研究所に10年間つとめた忽那と、一緒に仕事をしていた長濵伸貴が退職して独立。2000年、共同でE-DESIGNを設立する。


「独立後、1年間プロポに出して全滅だったんです。佐々木さんと仕事をしていたので通る方法、コツはわかっていたんですが、歴史に残る案を出して、鳴り物入りのプロポで認めさせてデビューするんじゃ!と言ってやってたんですけど、ことごとく落ちまして(笑)。もうこれで通らなかったら他のコンサルの下請けの営業をすることを決めて、最後に出したのが堺自然ふれあいの森【※1】のプロポでした。切っ先とがった案ではなく、形のデザインに加えて、市民参画のプランも出したことで通ったんです。そこから連戦連勝でした。10個プロポを出して、9個取れましたからね。」


 並行して、ランドスケープデザインの新たな在り方を模索する。


「増田先生が造園学会の学会長になる前に、企画部門の委員長みたいなものをやっておられて、震災以降、関西が元気がないということで、1998年に若手活性化プロジェクトをやると言ったんですね。ですが、出てきた提案がしょうもなかったので(笑)、若手自身がつくる提案で進めたいけども、僕がそれを造園学会が支える形に変更してほしいと頼んで、最初に西宮にリサーチに入りました。若手の僕が仕切って、学生と一緒に5チームをつくってフィールドワークをするというのをやったんですが、その時に山崎亮さんが僕のチームにいたんです。当時は彼はまだ大学院修士課程の2年生だったんですけど、その後、僕らのチームの連中が今度はチューターになって、生態チームや生活チームというのをつくって、山崎はリーダーになって堺のフィールドワークに関わることになりました。その時に山崎のチームは「生活スタジオ」という名前でやっていたのですが、それがその後のstudio-L【※2】になるわけです。その時に僕らも別のチームをつくって、サディスティックにデザインするんじゃなくて、いろんなものを引き受けたマゾヒスティックな引きの美学によって獲得した風景をつくっていかないといけないと考えて、マゾヒスティック・ランドスケープという概念をつくったんです。」


当時、日本では若手建築家が不況下で建築を建てられなくなったこともあって、デザイン・サーベイが盛んに行われるようになり、アトリエ・ワンの著書『メイド・イン・トーキョー』(1996年)に代表されるように、ある意味で計画から外れた自然発生的な都市の形態や、使い方に関心が向けられていた。忽那らが上梓した『マゾヒスティック・ランドスケープ』(2006年)【※3】は、ランドスケープ側からの応答といってよい。そこから山崎亮の「コミュニティ・デザイン」【※4】なども派生していく。

いっぽうで、ランドスケープデザインを中心に地域活性化の様々な試みをしていた忽那に、2009年に中之島を中心に開催される官民一体の博覧会「水都大阪2009」の話が持ち込まれる。大阪府と市が連携して水の都大阪再生構想を実践していく象徴的なイベントだった。しかし、大阪府と大阪市、民間は、それぞれ3億円出す予定だった予算を、府知事になった橋下徹が一から見直して、大阪府が独自で案を出すと表明。これを受けて、当時、文化課の担当をしていた大阪府の寺浦薫(現・E-DESIGN)【※5】から、コンサルタントとして忽那に依頼があった。


「大阪府や市の扱いが酷いので、僕自身は絶対関わらん!と思っていたんですけど(笑)、橋下さんがこれまでの水都大阪のプランを破棄するという、いわゆる「ちゃぶ台返し」をして、大阪府独自のプランをつくることになったわけですが、それを主導していたのが、大阪府の都市整備部河川室、つまり土木の部局でした。だから最初は彼らが発注しているコンサルが新しいプランづくりを仕切ってたんです。いっぽう僕は文化課のコンサルとしてプランづくりに参画したわけです。そこで僕は、橋下さんが掲げる政策の一丁目一番地が規制緩和にある。だから規制緩和をしたら、いろんなチャンスが生まれて都市の未来はこうなるという企画書を2週間で描くから、それを橋下さんにプレゼンさせてほしいと主張しました(笑)。そのために今、β本町橋を運営している杉本容子さんや、アートアンドクラフトの中谷ノボルさんなど、いろんな方にヒアリングして2週間で企画書にまとめて提出したんです。そこには水辺の未来像とか都市のありうべき姿を盛り込みました。土木の行政の人たちはいろんな事情があって、なかなか大胆な中長期の絵姿をはっきりと示すことは難しいのですが、今回の新しいプランづくりを通じて、その後はいろいろと協働する関係を築いていくことができるようになりました。」

「水都大阪2009」
「水都大阪2009」

その際、「水都大阪2009」のプロデューサーであった北川フラムも、方針を変え、国際的なアーティストの招聘や設置されるタイプの作品を止め、藤浩志やヤノベケンジなどワークショップや人を巻き込むタイプの作家に切り替える。忽那も会場デザインに加えて、様々な市民参加のイベントやワークショップの企画の企画を行った。


「「水都大阪2009」には、文化課の寺浦さんを通じて関わることになったので、寺浦さんが担っていたアート作品の配置に関することや、会場計画などを担当しました。今まで知らなかったアーティストに出会わせてもらったり、いい経験になりました。「水都大阪2009」後の中之島公園の展開については、市民活動もそうだけど、商売もしてアートもあって、と、いろんなフックのある公園にしたかったんです。」


その成功を経て、翌年の2010年には「水都大阪フェス」として、「水都大阪2009」で生まれたネットワークやまちづくりのノウハウを継承し、新たなネットワークを築き、大阪の水辺や街なかの楽しみ方を創出する協働型のフェスティバルが企画される。しかし、予算を1/10に減らされため、忽那らも関わることはなかった。


「2011年、「水都大阪フェス」を僕らにもう1回頼みたいと大阪府から依頼があったので、僕とハートビートプランの泉英明さん、山崎亮さんで2011年、2012年やることになったんですけど(永田さんはKIITOで神戸に行っていました)、その時に単年度でやるのではなく、2年間の複数年度で委託を出してほしいという点と、イベントをやるだけではなく、中間支援組織的な仕組みをつくるなど、今後どうやって継続・展開していくかの議論の場もつくりたいという点を主張しました。」


2011年から2年間、都市プランナーの泉英明、コミュニティ・デザイナーの山崎亮と共にプロデューサーに就任し、「水都大阪フェス」を実施し、大阪の約2000団体に声をかけて、活動している人と困っている人をマッチングしたり、活動日を合わせたりするなどの街全体を盛り上げる仕組みをつくった。


「水都大阪の活動が拡充するなか、中間支援的な組織の必要性についても議論を続けていたところ、府市経済界のトップで構成される「水と光のまちづくり推進会議」が、民主導で水都大阪を推進するための組織「水都大阪パートナーズ」を公募することになって、高梨日出夫さん、佐井秀樹さん、泉さんたちと組んで応募したところ、選定されました。水都大阪フェスの際に実行委員会に出向してくれていた関電さん、京阪さん、大阪ガスさんなどにも参画していただき、一般社団法人水都大阪パートナーズとして活動することになりました。」


まちづくりを進めるにあたっては、行政・民間・市民の三者の関係性を超えて調整するトライセクターリーダーとしての中間支援組織が必要であるというのが忽那の提案だ。また、同時に大阪の街を使った大阪府主催のパブリックアート事業「おおさかカンヴァス」が始まり、大阪府立江之子島文化芸術創造センター(enoco)の開館と運営にも携わることになる。

大阪府立江之子島文化芸術創造センター(enoco)

「「水都大阪2009」の際、船で橋下さんが大阪の河川を回ったときに、護岸の壁面にウォールペインティングが描かれていたのを見て、大阪の街のいろんな壁に絵を描くプロジェクトをしよう、という話が持ち上がりました。担当だった寺浦さんはすでに北川フラムさんと組んで、都市空間でパブリックアートを展開していたので、壁画より、もっと多様なアートを本質的に都市に実装する方法を実現したいと思っていて、僕にも相談してくれました。府の都市整備と文化、それぞれの部局が組んで、公共空間にドラスティックにアートを展開するモデルをつくるというアイディアを話して、それを寺浦さんが文化課の事業として位置付けて、「おおさかカンヴァス」【※6】が始まるんです。

また、同時期に、寺浦さんは江之子島にアートセンター(今のenoco)を立ち上げる計画も進めており、僕はその検討委員会の委員も務めました。僕は地域の問題をクリエイティブに解決する機能もアートセンターに持たせるべきだと提言し、その意図を汲んだアートセンターの立ち上げが決まり、指定管理者を選ぶコンペが出されました。もともと、このアートセンターは同じエリア内に高層マンション等を立てる開発の一貫として構想されており、長谷工コーポレーションとアーバンコーポレーションが主導していたのですが、アーバンが潰れてしまったんです。アーバンからは自分たちがやりかったことを実現してほしい、と僕に依頼があり、僕は長谷工とも仕事をしたことがあったので、あのエリア一帯の絵を描けるのであればいいのでは……とアートセンターの指定管理の公募に参加することを決めました。委員会の一員としてアートセンター構想を検討していた身分でもあったので、その僕がプロポを出していいのかどうかのリーガルチェックはちゃんと受けていますよ。」


大阪府立江之子島文化芸術創造センター(enoco)は、展覧会場を貸したり、自主企画をしたり、文化事業者にスタジオや事務所を貸したり、大阪府が持っている美術品の管理や貸出などのアートセンターとしての機能もあるが、大阪府下の自治体の地域課題をクリエイターと協働してクリエイティブに解決していく「プラットフォーム形成支援事業」などのコンサルティング業務などもあるユニークな組織になった。


「enocoの指定管理者を2期10年やって面白かったのは、「プラットフォーム形成支援事業」です。様々な課題をクリエイティブに解決したいと希望する府域の市町村に応募してもらって、その中から、抱える課題に普遍性があるとか、主体的に取り組む意志がある、といった基準でヒアリングをもとに審査をして、プラットフォーム形成支援事業として協働する市町村を決定します。ただ、年度当初にはプラットフォーム形成支援事業の大枠の予算額が決まっているだけで、審査後に各市町村に再度ヒアリングをして、どの市町村にいくらの予算をつけるかを決めるという、行政としてはものすごくドラスティックな予算執行の仕方をしている事業だったんです。

そして、この事業は我々が単にコンサルとして解決策を提案するだけじゃなく、各自治体に大阪府の担当と僕たちenocoのメンバーが一緒に乗り込んで、市町村側に受け皿となるプラットフォームをつくってもらうことで実効性を高めていきました。市町村の担当課だけでなく、できれば全部局に集まってもらって、市民も参画した協議体をつくることをお願いしました。ときには市長や各部局長など幹部メンバーにもプラットフォームに関わってもらい、課題をクリエイティブに解決するための体制づくりや市民協働などの具体的な支援をかなり実践しました。この事業を通して、多くの自治体と連携して、タクティカルな方法で多様な課題に取り組めたことは今の資産になっていますね。」


なかでも、「木津川遊歩空間整備事業」は、河川整備のコンペに実績のないデザイナーでも参加できるようにした画期的な事業となり、建築家の岩瀬諒子のデザインによる木津川遊歩空間(愛称:トコトコダンダン )が実現した。

木津川遊歩空間(愛称:トコトコダンダン ) (c)Shingo Kanagawa

「プロポは人とか会社、組織を選ぶ仕組みなんですけど、通常はまず実績が問われるんですね。僕たちも駆け出しの頃は苦労したんですけど、独立した当初は実績など何もないわけで、常に実績を問われるプロポプロポに、じゃあどうやって通るのか?という非常に難しい状況がありました。でも本当に問われるべきなのは実績ではなくアイディアであって、その人なり、会社なりをきちんと支援する仕組みさえあれば、実績がなくてもプロポに通ってアイディアを実現できるはすで、そういう社会をつくりたいというのがenocoのテーマでもあったし、僕のテーマでもありました。だからトコトコダンダンの時は属性がなんだろうが実績がなかろうが、アイディアそのものをしっかりと判断できる、見る目を持っている人を審査員として依頼して、レベルの高い審査会をつくりました。そういう経緯もあって、実績のなかった20代の女性の建築家、岩瀬諒子さんが審査で選ばれ、大阪府の土木(河川部局)及び文化課と組んでトコトコダンダンをつくりました。この事業を担ったことが彼女が建築家として飛躍していくきっかけになったのは、仕組みのデザインが実現した成果かなと思います。」

御堂筋の未来ビジョンとなんば広場

大阪府・大阪市下での忽那らの取組みは、さらに大阪の未来ビジョンへとつながっていく。


「僕らが何かやるときは、常にプロジェクト主義でチームビルディングから始めます。御堂筋に関してもそうです。御堂筋・長堀21世紀の会【※7】という、まちづくりのNPOとしては最古参ともいえる、40年くらい前からある団体が僕らの水都大阪の取り組みなどを見ていて、「御堂筋の未来についての提案をしたいから、御堂筋・長堀21世紀の会に入ってくれ」と言われて、僕はそのNPOの理事として関わることになりました。まず御堂筋を公園にするという未来像のスケッチを描くところから始めて、コネクションがあった国交省や経済界にも少しずつ声をかけ始めました。もちろん大阪市はすでに動き始めていましたので、御堂筋80周年を機会に、御堂筋まちづくりネットワーク【※8】、ミナミまち育てネットワーク【※9】、そして我々御堂筋・長堀21世紀の会という、御堂筋のまちづくり3団体から大阪市に提案を出す、ということにしました。

大阪ガスさんや南海電鉄さん等と一緒に、経済団体のトップにも未来像のスケッチパースを見せて意見交換しながら、御堂筋の歩行者ゾーンを増やす「パーク・ストリート構想」を仕上げていきました。それまで御堂筋のまちづくり3団体は交流があまりなかったんですが、これを機会にひとつにまとまって3団体としてのビジョンを出すことになったので、経済同友会の会長、国交省近畿地方整備局長、吉村市長も登壇するシンポジウムを僕が仕切って実施しました。これを機に3団体(現在は4団体)が初めて一緒になって「御堂筋パーク・ストリート推進会議」をつくったんです。」

御堂筋将来ビジョン

そこでは、御堂筋の歩道を増やして、巨大な緑地公園をつくる画期的なビジョン「御堂筋将来ビジョン」が示された。1案目は完全に車道をなくす。2案目は中央に車道を残す。3案目は中央を公園にして、両サイドに2車線を残すという案だ。もともと御堂筋は、淀屋橋から難波まで6m程度の幅員しかなかった。それを助役から大阪市長になった関一により、梅田駅から難波駅まで全長4km、幅員44mに拡幅したのが御堂筋で、1937年に全面開通した。その際は、飛行場をつくる気かと揶揄されたが、自動車時代を予見したものとして高く評価されている。それを大きく転換するビジョンだった。


「80周年シンポジウムのときに、公園化には20年はかかるけど絶対にできると言ってたんですね。御堂筋を公園にするためということではなくても、すでに交通量は微減しているんです。将来的にはもっと減るだろうということは言われていまして、心斎橋から南はもっと下がるんです。御堂筋は1970年の時に交通渋滞が原因で南向きの一方通行になりましたが、それまでは両通行だったんです。堺筋と四ツ橋筋を北行きと南行きにして整理するという大構造をしたんです。今後のビジョンとしては、御堂筋はセントラルパークのようなウォーカブルな街を目指します。その時は、堺筋と四ツ橋筋を両通行に戻すんです。そうすれば、御堂筋を通らなくても、東西道路はそのまま残っているので、御堂筋の中心に公園を設置して、外側からアクセスするというラドバーン【※10】の巨大版のようなイメージで展開できることになります。」


 それはまさに都市の中心に巨大な公園と広場をつくるような計画だ。


「僕は都市に広場をつくっていきたいとずっと思っていたんですよね。広場は民主主義の根幹で、それがないことは思想をすることが都市で禁じられているようなものだと思っていたので。先進国の中で広場という概念が都市計画上、色塗りされていないのは日本だけなんですよ。これにはいろいろな説がありますが、広場に武装蜂起した人たちが集まったら駄目だからと、GHQに取り上げられたという説があったり。ただ、広場を持たない限り、表現の場としてのアートの展開や人々が集まるアゴラの実現といったことは本当の意味では達成できません。広場がもぎとられたまま、都市の本当の民主主義が位置づけられないまま、戦後75年(当時)だましだましやってきたので、今こそ広場という概念をちゃんと位置付けたかったんです。」


そして、忽那は現・香川県知事で当時、道路交通局長をしていた池田豊人などとも都市における広場の位置付けについて議論し、道路法(第48条の8)が改正された。


「僕は河川法や公園法の改正にも関わってきたんですが、Park-PFI制度によって商業的な建築を公園に建てて、20年間民間占用できるようになりました。道路が一番ややこしかったんですけど、それができるようになったのが3年前で、歩行者利便増進道路制度(通称:ほこみち)です。そのほこみちの運用を一番最初にパイロット事業として実施したのが、難波、姫路、神戸なんです。」


御堂筋は、淀屋橋交差点(北浜3丁目)から難波西口交差点(難波5丁目)まで、2021年2月、全国で初めて「ほこみち」に指定された。ほこみち指定された道路上では、民間事業者と管理者が協定を結ぶことで、キッチンカーやオープンカフェ、アート作品の設置などの継続的運営が可能になるが、その前に歩道に滞留空間をつくるうえでの安全性や、滞留空間の利活用について社会実験を行い、道路として確保すべき幅等を決定する必要がある。そうした社会実験を経て、「歩行者利便増進誘導区域」が定められてはじめてカフェ等の運用が可能になる。御堂筋では「御堂筋チャレンジ」という一連の社会実験が行われてきており、すでに「歩行者利便増進誘導区域」が指定されている部分と、これから社会実験を続けて区域指定をおこなっていく部分がある。さらに、2023年11月に正式オープンした南海なんば駅前の歩行者広場「なんば広場」も「ほこみち」に指定されており、「歩行者利便増進誘導区域」指定に向けての動きが進められている。

なんば広場


「なんば広場の広場化については、最初はなんさん通り商店街が言い出したことなんですよね。高島屋の東側の出口から出てきた人が商店街のある「裏難波」に行ってほしいから、その時は車道をなくすとまでは言ってなかったんですけど、裏難波までの歩道を拡幅したいと言っていたんです。それが15年前で、泉さんが関わり始めて議論していたんですが、まだ北からの一方通行が残っていました。以降、高島屋への大量の搬入車をさばく難問を解決するためのハートビートさんによる気の遠くなるような調査や社会実験を繰り返し、ようやく地域の合意形成や警察との協議等が整いました。」


そして、全面車両通行止めの駅前広場が誕生した。南海難波駅の駅前は、御堂筋の交通量が多く、危険だからと地下道と地下商店街ができた経緯がある。それが80年後、車道がなくなり広場になるとは考えられなかっただろう。旅行者を含めて、多くの人が無料でベンチに座ってくつろげる画期的な場所に変貌している。


「公共空間における最初のベースとなる仕事は、座るところをいっぱいつくることだと思っているのですが、ヨーロッパなどに行くと、公園がいっぱいあって、ちゃんとデザインされたベンチが置かれている。なのに、なぜそれが日本でできないのか、というのが僕がランドスケープデザインをやっていくうえでの課題だったんです。なんば広場をデザインする際、法律上は道路なので、ベンチはつくっていいけれども、舞台はつくっては駄目ということになっているんですが、イベントなどを運用するためにもどうしても舞台がつくりたかったんですね。そこで、植栽帯はつくっていいことになっているので、もともとあった樹木周りに植栽帯をつくることとして、その植栽帯の意匠を合わせて次々とつなげていくと、最終的に大きなベンチになりました、という説明をしたわけですが、その大きなベンチは舞台としても使える?ということですね(笑)。

もう一つ工夫した点は、広場全体はもともといろいろと高低差があったのですが、中央部分だけ高さを揃えて、真っ平に見えるようにしています。側溝に囲まれた大きな四角い部分です。そこに視線が集まるようにデザインしているので、すごく象徴的に見える場所となっています。なので、そこにいる人も美しく見えるわけです。

大きなベンチは、上に「シビックプライドサイン」(NAMBAというような文字の看板)を置くとか、人がまっすぐに座るとか、並んで座るとか、向かい合わせに座るとか、高さが違う段にそれぞれ座るとか、寝転がるとか、ありとあらゆる座り方が実現することを考えてデザインしています。また、ベンチのベースは彫刻の台座のようにちゃんと基壇をつくってあるので、植栽帯の緑とともにトリミングされるというフレーミング効果によって、そこにいる人が舞台空間にいるかのような美しさを持つんです。床材の滑り抵抗もギリギリまで磨きをかけて、周りの光がリフレクションで映り込むようにしているので、そこにいる人もふっと浮かび上がって見えるんです。」


御堂筋の緑地化やなんば広場を見て、19世紀パリを大改造したジョルジュ=ウジェーヌ・オスマンと比較して、忽那を「現代のオスマン」、あるいはルーヴル美術館のI.M.ペイによるガラスのピラミッドに匹敵すると評価する業界関係者もいるという。民主主義の根幹である広場をつくったということも含めて、非常に高い評価を得ている。


「歩行者が空間を謳歌して、自分たち自身を表現できて、イベントもできて、座っているだけでも自己表現になっているような、そういう場所を共有したいんですね。若い人なんて座り方がめっちゃうまいですからね。そういう場所を「環境の器」と僕はいつも言っているんですけど、上に載る人やものを引き受けるお皿のデザインをしているつもりです。万博もお皿としてのランドスケープのデザインをしています。バラバラの建築が載ろうが、いろんな人がたたずもうが、どんな料理が載っても構成が美しく見えるお皿のデザインをしているんです。」

大阪・関西万博のランドスケープデザイン

 忽那の都市における様々な取り組みが、大阪・関西万博へとつながっていく。


「水都大阪2009の時に、東京大学の講師だった太田浩史さんが東京ピクニッククラブという活動をされていて、大阪でもおおさかカンヴァスに参加してもらったりして、街の使いこなしについていろいろ議論していたんですね。その時、広場の議論もしたんですが、新宿(西口広場)や原宿の竹の子族が盛んだった広場とか、歴史的なことも含めて、太田さんはすごく調べているんです。で、大阪は「忽那が規制緩和とともに空間再編をたくさん手掛けていて、東京でやろうと思ってもできなかったことを全部やっている」と太田さんに言われてね(笑)。太田さんは、万博の総合プロデューサーをやることになった藤本壮介さんと同期なんですが、大阪でやるんやったら、絶対に忽那に会った方がいいということで藤本さんをうちの事務所に連れてこられたんですよ。」


 当時、大阪でもほとんど「大阪・関西万博」に期待している人はいなかった。もっといえば、始まるまでネガティブ・キャンペーンに近い報道が続いていたといってもよい。


「本当は僕は万博には関わりたくないと言っていたんです。会期のあるものに興味ないし。次の仕組みを変えていくきっかけとしてのイベントならやるんですけど、イベントのためのイベントならやりたくないって言ってました。万博誘致の時、経産省が万博のあり方について僕にもヒアリングに来ていたんですが、檻の中でやるんじゃなくて、街なかでやれ、と提案しました。御堂筋を会場にして、近代建築をすべてパビリオンだと言い切って、全面展開したらいいし、今なら課金のシステムもできる、と。昔は都市を拡大するために必要なインフラを整備するきっかけとして万博を利用してきましたが、今は逆に先進国では都市のシュリンク(縮小、衰退)が問題になっていて、都市そのものを畳んでいかないといけないわけだから、万博も都市の真ん中で開催して、衰退している都市を活性化する方向で万博を実施すべきだと提案しました。」


大阪を知り尽くした忽那ですら、夢洲の万博は否定的で、やるとしても、都市中心部をうまく使って開催するべきと主張していた。


「ただ、夢洲での万博が決まってしまったので、どうせやるなら頑張ってほしい、ということで、大阪のキーマン、橋爪紳也さんや嘉名光市さんとか、泉さんとかいつものメンバーと、行政とか大商(大阪商工会議所)とか、いろんな分野の人を飲み会の場に集めて藤本さんに紹介しまくったわけです。落下傘的に東京から人が来るのをいやがる人もいるので、僕は藤本さんが大阪の人たちと円滑に関係が築けるよう、飲み会担当として機能するつもりだったんです(笑)。それに万博のことを何も知らないのも嫌だし、藤本さんからいろいろ情報を聞けるなあとも思ってたので。ただ、僕にとって一番大きなことは閉幕後どうするのか、アフター万博に興味があったのですが、それについては会場をすべて更地に戻して、植えた木も切り倒すという計画だということを聞いて、それは命輝く万博になってないんじゃないか、と義憤にかられて大反対したんですね。

それと当時、藤本さんは孤軍奮闘状態で、プロデューサーなのに単年度契約だったんですよ。そんなやり方もおかしいと思いました。万博協会には水都大阪で一緒に関わった府市のメンバーが出向していたり、安藤忠雄さんからも藤本さんを助けてやれ、みたいなことを言われたので、万博協会に、まず藤本さんを複数年契約にするようにということと、藤本さんの下には東海林さんという照明の専門家が付かれていたんですが、建築と照明だけじゃなくて、ランドスケープやアート、都市計画の専門家も入れた、プロデューサーのチームをつくるように提言したんですね。そうじゃないとプロデューサーの力を発揮できないし、せっかくのアイディアも実現もできなくなってしまうので。そういう経緯があって、僕がランドスケープデザインディレクターに就任することになったんです。ただ、僕としては、プロデューサー・チームとしては5人(建築、照明、ランドスケープ、アート、都市計画)でやるべきと主張していましたが、結果的には建築、照明、ランドスケープだけでスタートしました。アートの専門家の必要性も提案し続けていたんですけど、協会そのものにアートの予算がないから付けられません、ということでした。とにかく万博に間に合わせないといけなかったので、3人のプロデューサー・チームでスタートし、アートについては、1年遅れて、寺浦さんを協会のアート・コーディネーターとして位置づけることができました。」

「大阪・関西万博」会場

その当時は、ランドスケープデザインもまったく決まっていなかった。


「大屋根リングを設置し、その中央に静けさの森を配置するということは藤本さんが提案されていたんですけど、静けさの森の具体的なデザインは何もされていなかったんですね。また会場全体のランドスケープも、僕の言う「環境の器」的なデザインにはなっていなかったので、会場全体を瀬戸内海に見立て、そこに点在する植栽帯を島に見立て、瀬戸内のしまなみの風景を作ろうとしました。静けさの森は一番大きな大島として見立てたわけです。夢洲はゴミの島だという否定的な面ばかり取り上げられるのですが、大阪は安土桃山の昔から東から西に向かって街をつくってきた歴史があって、大阪の西にはいつも最先端の街がある、それが今は夢洲なんだということを認識してもらいたいと思っていました。さらに瀬戸内海を通じて大陸の文化も入って来たし、海の幸も山の幸もすべて大阪に集まって来ていました。瀬戸内海には日本の島国の豊かさ、アジアの植生の豊かさがある。だからこそ、海上に設置された万博会場全体を海に見立てるというコンセプトのもとにランドスケープデザインをしたわけです。

万博の敷地は土の厚みが70cmしかないので、植栽帯をつくるためには盛土をしないといけないんですね。そこに樹木を植えていくことで、会場全体における樹木の密度を高めていくようにしました。そうは言っても、万博会場としては敷地そのものが狭いんですよね。水面の部分もありますし。そこに大量に人が来ると、人混みだけが目立つ風景になってしまうので、緑越しに人が見える、緑の向こうにキッチンカーがある、緑のフィルターの背後にパビリオンがある、というシークエンスで風景を構成していきました。バラバラの建築が並ぶのが万博の宿命ですが、すべての構造物や人や行為が緑を介して見えるような風景をどうつくれるか、シミュレーションしまくってデザインしました。ガチガチに固めて変更がきかないデザインで仕上げてしまうと、あとでVIPがこう言ったとか、エラい人がこうしろと言っているとか、修正が必要な要素が出てきた場合に対応が難しくなるし、そうなるだろうことは予想できていたので、植栽帯の島をあとでちょっと大きくしたり、歪めて形を変えても、全体のデザインコンセプトには影響しないように設計しました。日本庭園の枯山水のように会場を海に見立てて、自然との接点をもちながらデザインする、というコンセプトも含めて提案したわけです。」

「静けさの森」 
撮影:高橋海
「静けさの森」 
撮影:高橋海

いったん「大屋根リング」の中に入ると、迷路のように広く感じるのは忽那の設計によるところが大きい。


「70年万博の跡地は緑の森になっているんですけど、予算がないから間伐できておらず、放置された木が倒れて子供が怪我をしたりとかしてたので、万博を機会に間伐してあげて、その間伐した樹木を万博会場に植える、ということをしました。そうすることで万博記念公園の森も良好な状態にすることができます。間伐される予定だった樹木は、形は少し悪いかもしれないけど、それらを再構成して夢洲の新たな森の中で命をつなぐことができます。万博公園以外の府営公園からも間伐すべき木を持ってきて、全国から新たに購入した木と合わせ、すべてを調和させる多様な森をつくる、これこそが命のリレーなんじゃないかと思っています。

僕の中で命ってなんだ?と言われたらリレーだと思っているんですよ。命の本質はリレーすることだと思っていて、どうせやるんだったら、1970年から2025年へのバトンタッチをしたい。それが樹木に象徴されるのも面白いと思ったんです。その具体的な方法ですが、すべての樹木の情報をデータ化し、自然な森の風景になる要素や、木陰が多くなる配置検討をコンピューター上でシミュレーションする手法を日建設計さんが開発し、そこに僕自身が美しいと感じる植樹についての感覚も入れ込んでもらいながら、樹木全体の配置検討を進めました。風がちゃんと吹き抜けるようにもしているので、冷えた風が通り抜けるようにもなっています。動線計画についても、森を近道として使用しないようにデザインしていて、森に入ると人口密度がスッと下がって、森に行きたい人だけが目的地としてやってくるという、混雑しない密度感をシミュレーションしているんです。人の密度が少なくて、緑があって、中央の池の水の上を走った風にあたると当然涼しく感じるわけで、温度的には4度から5度くらい違います。」

「静けさの森」外周の水たまりで遊ぶ子供たち 
撮影:高橋海

 

「大屋根リング」と中央の「静けさの森」は、近年でも一際暑い夏の中で自然の素材で涼しさをつくりだすことに成功している。しかし、森は涼しさの演出だけではない。


「最近の農作物は、実から種をとっても、その種からは次の世代が育たないように栽培されているんですね。本来なら農作物は実なり花なりができたら、その種を取って、それを植えることで栽培していくんですが。静けさの森では、そういった園芸種のようなものも使っていますが、ちゃんと種を取って、それを植えて次の世代をつくるということもやっています。準備に時間がないとはいえ、2年半はあったので、種苗会社に関西の野草とか、大阪の野草、郷土種と言われるものを徹底的に集めてもらって、万博記念公園に実験のためのフィールドをつくって、どれくらいの割合で植えればバランスよく調和するのか、実際に実験した結果を見たうえで、静けさの森に反映させました。生態学の先生も、1年でよくここまでつくったなと手放しで喜んでくれたのは嬉しかったですね。」


「大阪・関西万博」は、東京オリンピック後の余波で、ノウハウを持った大手広告代理店が参画できなくなったり、コロナ禍によって人が集まることが難しくなったり、ロシアのウクライナへの軍事侵攻などによって、建築資材や人件費が高騰し、間に合わないと思われるなか、蓋を開けてみれば地元を中心に大きな評判となった。それは水都大阪で信頼を得て来た忽那らのチームが支え、藤本らクリエイターが批判を浴びながらも、積極的に発信してきたからでもある。


「市民参画、ボトムアップだけでまちづくりができるとは思ってないんですけど、それがすごく大切で、上からのトップダウンと合わせて挟み撃ちにして、市民、行政、企業等のトライセクターがプラットフォームを共有して進めていくことは、小さなプログラムも大きなプログラムも一緒で、とても重要だと言い続けてきました。水都大阪でも橋下知事のトップダウンや府・市・経済3団体幹部による意見交換会(通称:5者懇)で進めていくのと、企業や市民を集めて実行していくことの挟み撃ちでやっていくことでうまく行ったのですが、その時のメンバーが万博にも参加していて、水都大阪での試みがある意味で万博の練習になっていた、という三木さん(本稿取材者)の指摘は、なるほどと思いましたね。」


忽那は、これからのプロジェクトは、かつてのような大きな企業が独占するのではなく、小さなものも大きなものも、大きな組織ではなく、個人や小さな組織が、プロジェクトごとに結び付いて、形にしていく時代であるという。図らずも「大阪・関西万博」は新しい時代のプロジェクトの象徴となった。そして忽那の目は、すでに万博の後に向いている。


「夢洲だけでなく、街なかでも万博をもりあげていこうという「まちごと万博」という活動があります。もともと大阪の若いクリエイターたちが、万博を自分ごとにして万博もまちも活性化しようということでdemo!expoという団体をつくって何年も前から活動していたんですね。万博の期間は大阪のキタとミナミでEXPO酒場という交流場所を運営したり、全国でイベントなど様々な展開をしているんですが、彼らの活動を5者懇で正式に位置づけてもらうように働きかけた結果、「大阪まちごと万博協創プラットフォーム」という形で成立させることができました。

運営団体としては、大阪府・大阪市万博推進局、大阪商工会議所、関西経済連合会、関西経済同友会が名を連ねる形で正式な仕組みにすることができたんです。demo!expoはその協働団体として、今も活発に活動していて、海外パビリオンのまちなかでのPRをサポートしたり、全国の万博関連の市民や企業活動と連携したりしています。今回の万博のレガシーとは何か?ということは、万博が終わった瞬間に各方面から問われるので、まちごと万博などの活動を通して、万博とは何か、レガシーとは何か、未来にとってどういう意味があるか、どう実践していくのか、といったことについて話し合う場をつくりたいと思っているんです。水都大阪パートナーズのように、道路、公園、河川を全部扱える団体をつくるのもひとつだし、中間支援組織のデザインをしないといけないと思っています。」


すでに「大屋根リング」の保存も含めて、万博のレガシーをどう考えて行くかも課題になっている。


「万博の跡地に、静けさの森を残すことはほぼ決定したんですけど、次の開発がエンターテイメント事業が中心になるのか何になるのかは置いておいて、跡地の真ん中に緑を存置し、万博のレガシーのベースを森、自然に置いたうえで未来の都市再生の在り方を考えていきたいんです。大阪の自然、緑のネットワーク、水のネットワークを中心にして、歩行者中心の街に大阪をつくり変えていこうという未来像が共有されたのが万博だった、ということにしたいんですよね。グラングリーン大阪を矢の先端に見立て、東の大阪城公園と西の万博会場、その真ん中にある中之島公園、縦を貫く御堂筋、ロの字の水の回廊を結べば、弓矢のような形になるので、大阪の緑地のオープンスペースを結ぶ「グリーンアロー計画」というのを考えているんです。」


 これから大阪の街がどのようになっていってほしいのだろうか?


「今、行政にせよ、企業にせよ、失敗してもいいからチャレンジするという気持ちがなくなっています。地域が持っている現代的課題に向き合わず、過去にうまくいった処方箋ばかりをなぞって、だから失敗はしていないですよね?と確認しながらものごとを進めている現状こそが一番失敗していると思うんですよね。若い人がなりたいものが見つかる街にする、というのが僕の中の一番の目標で、「社会とこんなふうに関わっている大人になりたい」と思ってもらえるよう、チャレンジし続けることが重要だと思っています。それが次の世代に命をリレーしていくということだと思っていて、僕らがつくった価値をええなぁと思ってもらって、また違う価値をその上に乗っけて次の世代に送っていこう、という気持ちになる人が生まれる都市になってほしいと思っています。」


街においてアートに期待する役割とは何だろうか?


「自分の中でアートというのは、ちょっと抽象的ですけど、可能性と不可能性を同時に提供する概念だと思っているんです。何かに挑戦しているということが直観的、体感的に伝わる、言葉を超えるものという感じがすごいするんですよね。街の可能性を引き出してくれる可能性があるし、違う見え方をするきっかけにもなりますし、見えなかった価値をあぶりだしてくれることもある。なので価値の発見行為みたいなのがアートだとも言えるし、アートが発見したものを定着させるのがデザインだ、というふう思うんですけど、そのためにまずはなにごとにもチャレンジしないと始まらないと思うんです。」

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注釈

【※1】堺自然ふれあいの森
【※2】studio-L
【※3】『 マゾヒスティック・ランドスケープ:獲得される場所をめざして』学芸出版社、2006年。
【※4】コミュニティ・デザイン
studio-Lでは「デザインの力を使って、コミュニティが持つ課題解決力を高めるよう支援すること」と定義している。建築やランドスケープデザインのように、恒久的に形になるデザインは行わず、コミュニティに介入し、動きを変えることで、課題の解決や活性化を行う。
【※5】過去+5でもインタビューを行なっているので、こちらもぜひご参照にされたい。
アートと都市をつなぐ媒介者 アートディレクター
【※6】おおさかカンヴァス 
【※7】御堂筋長堀21世紀の会
【※8】御堂筋まちづくりネットワーク
【※9】ミナミまち育てネットワーク
【※10】ラドバーン
アメリカ・ニュージャージー州にある都市、ラドバーンで最初に採用された、歩行者と自動車の分離(歩車分離)を基本とした都市計画手法。住宅地をスーパーブロックで区切り、歩行者専用の緑道と自動車専用の道路を設けることで、安全で快適な住環境を目指したもの。ラドバーン方式と称される。

(上記URL最終確認2025年9月9日)

INTERVIEWEE|忽那裕樹(くつな ひろき

ランドスケープデザイナー
株式会社E-DESIGN 代表取締役公園、広場、道路、河川の景観・環境デザイン、およびその空間の使いこなしと、その持続的マネジメント・しくみづくりを同時に企画・実施するという手法を駆使することによって、新しい公共を実現し、魅力的なパブリックスペースの創出を目指している。また、大学、病院、学校、商業、住宅のランドスケープデザインについては、国内外をフィールドに活動中。現在、大阪・関西万博のランドスケープデザインディレクターを務めている。共編著に『図解 パブリックスペースのつくり方』(2021年)。
主な作品に「大東市公民連携北条まちづくりプロジェクト morineki」(2024年 建築学会賞共同受賞、2025年 公共建築賞近畿地区優秀賞)、「シーパスパーク」(2024年 都市公園等コンクール 国土交通省都市局長賞/土地活用モデル大賞 国土交通大臣賞)

INTERVIEWER|三木 学(みき まなぶ)

文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人。独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。