宮本典子さんは、活動の初期の頃から日本で最も歴史のあるアートフェア、ART OSAKA【※1】の事務局でマネージメントを務め、さらに障がいを持たれている人のアート作品を発表、販売する支援を行う「Capacious(カペイシャス)」【※2】、Art Collaboration Kyoto(ACK)【※3】の立ち上げなど、アート販売、アートフェアに関するプロデュース事業を行っている。現在のように、アート市場が活況を呈してない頃から、アートフェアに関わり、事務局を運営したり組織化してきた宮本さんに今までの活動と現在進めている取り組み、そしてアートの仕事と子育てについてお聞きした。
もともとどのようなことに関心があったのだろうか?
「もともと美術に対する漠然とした憧れ、絵に没頭している時間の豊かさに対する憧れはあったんですね。よくある話なんですが、高校時代に進学校に行って落ちこぼれるんです。高校の雰囲気が、東大に何人入った、医学部に何人入ったという偏差値重視すぎて……。その人たちとは違う価値観で評価されたかったのかもしれませんが(笑)、美術の受験をしようと美大受験用の画塾に通い始めたんです。ただ、自分が住んでいた茨城県土浦市から、画塾のある取手までは片道40分くらいかかるので、1か月程度で辞めてしまったんです。
そこまでの熱量はなかったんでしょうね。それで美術センスも求められ、もう少し進学校の特性を活かせるのが建築なんじゃないと思って、建築学科に進もうと思ったんです。でも、建築学科は工学部にあることが多いので、理系にいかないといけない。高三から分かれていたんですが、化学や地理は好きだったんですけど数学ができなかった。だから、文系でも建築が学べる東京の大学に行こうと思っていました。でも、センター試験ができなくて、浪人はしたくなく、探したのが京都府立大学の環境デザイン学科でした。」
宮本はそれまで関西に行こうとは思ってなかったという。しかし、結果的には建築とアートにまたがった領域を勉強できることになる。
「京都府立大学の環境デザイン学科では、住宅から公共建築、ランドスケープデザイン、ファッションなど多くのことを少人数制で幅広く勉強することができました。私の恩師は、河西立雄先生という作家性の強い先生で、京都工芸繊維大学から筑波大学大学院を修了して、美術家的な仕事をしていた方でした。大学では、ジョン・ヘイダックのようなアンビルドの建築家や、バーナード・チュミのラビレット公園、ピーター・ズントーの聖ベネディクト教会など、絵画的だったり彫刻的な建築事例を多く学びました。その影響は美術に向かうのに大きかったと思いますね。
卒業制作では、ひとつのアート作品に対して、ひとつの空間を設計し、小さい建築群が点在する美術館を設計しました。参考事例はドイツのインゼル・ホンブロイッヒ美術館です。それで取り上げる作品を選ぶのに、空間との関係性の高い作品として、リチャード・セラやドナルド・ジャッド、抽象表現主義的なオールオーヴァー絵画などを取り上げました。その時、美術史に関連する本を集中して読んだことも今につながっていると思います。」
京都の芸術系の大学生は、積極的に交流し、学生時代から誰がどのような活動をしているのか共有しているものだが、京都のアートシーンには関心はなかったのだろうか?
「小さい大学で本当に狭い世界で生きていて、ダムタイプやヴォイスギャラリーといった名前や存在は聞いたことありましたが、その程度です(笑)。私が京都にいたのは1999〜2002年ですが、同時代の動きをリアルに知らないという、今思えば大変勿体ない時間を過ごしました。現代美術の企画ギャラリーの存在やその役割も全くわかっていませんでした。 私が現代美術に出会ったのは本の中や美術館で、京都国立近代美術館でのミニマルマキシマル展や痕跡展は見た記憶があります。」
当時、影響を受けた建築家は誰だろうか?
「当時も注目されていましたが、でも今ほど国際的になる前の、妹島和世や隈研吾、内藤廣の建築は良く見て回っていました。そしてそのような建築家の事務所、アトリエ系と呼ばれるところに行くなら、大学院に行って留学しないといけない、みたいな漠然としたイメージはありました。ただ、建築の実務家を目指していたかと言われると、公共建築みたいなものをつくるより、小さな存在だけど何か場に力を与えるような小建築をつくれる職業はないかと思っていたりしました。そんな職業ないかな? いやアーティストはそうですね(笑)。」
その後、河西立雄先生の勧めもあって筑波大学大学院に行くことになる。
「卒業設計を通じて、作家の思想を読み解く面白さなどに触れ、言葉の方にも興味が向いたりして、モラトリアムで行けるところまで好きなことさせてもらおうと思いました。大学の恩師が筑波大学だったことや、4回生の時に応募した建築アイディアコンペで賞金をもらえて学費の目処はたったこと、実家から通えることもあって、筑波大学大学院に入学することにしたんです。」
そこでジュゼッペ・テラーニのようなイタリア合理主義、イタリア未来派建築などの研究者としても知られる鵜沢隆研究室で学ぶようになる。
「大学院では制作をせずに「風景試論」という、自然風景の中に点在する土木建築物や農業の営みの痕跡を人工物・彫刻として捉えて、人間が認識する際の風景論を論じたように記憶しています。 ダムや鉄橋などを撮影している柴田敏雄の写真集がきっかけでした。
余談ですが、大学院を修了する頃、たった2年前の学部を卒業する頃より、就職環境がぐっと良くなっている世の中を体感し、自分の能力とは関係ないところで社会は評価するし、サラリーも決まるものなのだと悟ったりもしました。ただそのときも就職しようと思わなかった。まだモラトリアムの気持ちが勝っていました(笑)。
筑波大学の研究室は研究者志望の方が多く、そして留学する人も多くて、しかも自費ではなく給付奨学金を取得しているんですね。みんな優秀な方でしたので、当たり前にはいかないけど、できるのであれば挑戦してみたいと欲が出て、ロータリークラブの奨学金が頂けたので、1年間フィンランドのヘルシンキ工科大学【※4】に留学することにしました。」
フィンランドでの経験は、建築デザインだけに留まらない、本質的な価値や社会構造についても学んだ。
「何故フィンランドだったかというと、結局は感覚的でしかなかった(笑)。修論で風景論について考えていたら、日本人の自然観についても考えるようになって、何となく厳しく、美しい自然に身を置いてみたかった、とかそういうレベルです。1年間のインターナショナルプログラムに籍を置いたのですが、学位を取るプレッシャーはなかったので、結構自由な時間でした。
行ってみたら、まだアアルト一色なんですよ。モダニズムの建築家なので留学当時でもすでに60年前くらい前に活躍した巨匠なのですが、その巨匠の影響力は大きかった。そして当時も、おそらく今でも、ヒューマンスケールの居心地のよい公共空間であり続けている偉大な建築家でした。JKMMなどの若手の建築家も活躍していて、現代的な木造建築の教会なども見て回りました。
ここでも悟るのですが、住宅とか人間の基本的な生活に関わる部分の心地良さなどは、時代が流れても、そんなに変わらないんだなと感じました。言葉で説明したり、表層をこねくり回すのではなく、コアの部分とか本質を評価するのがこの国の精神なのかなと感じました。
それと建築や美術とは直接関係ないのですが、女性がすごく活躍していることを目のあたりにしました。当時の大統領も女性でしたし、大学の教授も3人子供を抱えながら教えている。それと北欧のイメージは、個人や家族の時間を大切にして、バカンスもあるし夕方以降仕事をしないイメージがありますが、夏に休む代わりに、冬は朝暗い7時くらいから働いているんですよ。そういう生活を目のあたりにしたことも、今の生活に影響を与えていると思います。」
欧米の大学院の修了は6月になるので、日本の就職活動とずれた時期に帰国することになる。長く学生生活を過ごしたこともあり社会に出る気持ちになったが、設計事務所に応募するが採用されなかったという。そこで、インターンを募集していた、大阪にあったギャラリーヤマグチ(現・ギャラリーヤマグチ クンストバウ)【※5】で働くことになる。ギャラリーヤマグチは、初期からドナルド・ジャッドやカール・アンドレなどのミニマル・アートを積極的に紹介していた老舗のギャラリーである。
「当時プライベートな事情で、関西の建築設計事務所での就職を希望していたんです。就職活動の時期がずれているし、7月末に帰国後、翌4月からの就職を目指して就職活動をしていたのですが、その間をどう過ごすか考えた時に、卒業設計で取り上げたドナルド・ジャッドを扱っているギャラリーヤマグチでインターンの募集が出ていた。憧れながら実情を知らない美術の世界を垣間見るにはいい機会だと思い、インターンとして働きました。最初は期間限定のつもりでしたが、大学や大学院の同期から見ると3~5年遅れて社会に出たこともあり、今から同じ道を進むより、アートの世界に進んだ方が、建築とアートの間の仕事ができるかもしれないとシンプルに考えました。そんな時に、ギャラリーヤマグチのオーナーである山口さんから「仕事を持ってきたぞ」と言われたのが、ART in DOJIMAというアートフェアだったんです。このフェアは、ギャラリーヤマグチが発起人だったこともあり、ヤマグチのスタッフが事務局をやっていたんです。始まりは、2002年に大阪港にあるCASOでART in CASOになるのですが、2007年に堂島ホテルで開催するようになってART in DOJIMAになり、私は堂島ホテルになって2回目の2008年から事務局として働くことになりました。ART OSAKAと名前が変わったのも2008年です。」
ART OSAKAの前身であるART in CASOが始まる2000年代初頭は、名和晃平のような若手作家が注目され、売れ始めるようになった時期でもあった。2008年頃はすでに40軒ほどのギャラリーが参加していて、野村仁や三島喜美代、中原浩大などから、田中朝子や三宅砂織なども出品されていたという。しかし、今でこそアートフェアは日本中で開催されているが、ART OSAKAは、アート・バーゼルやフリーズといった巨大資本ではなく、大阪のギャラリーが集まって、ボトムアップ的に始めたもので、規模は小さいながらも、個性のあるギャラリーの地に足のついた連携がひとつの特徴となっている。その際、ギャラリーヤマグチの作品だけではなく、多くのコンテンポラリーアートを見るようになる。それについてはどういう見方をしていたのだろうか?
「ギャラリーやアートフェアの仕事をし始めた当初は、まずは同時代の作家をよく知らないといけないと思い、出展ギャラリーを中心に、主に土日などをつかって展覧会を見に行くようにしました。あとは当時ギャラリーヤマグチではArt Campという美術大学生や若手を対象にした夏休みの公募制グループ展もしていたので、そこで展示してくれた作家などもできるだけ追いかけるようにしました。私は、現代美術を学ぶという意味では自己流でありアウトサイダーですし、自ら作品をつくることができなかった人間なので、作家が表現することに対しては基本、尊敬の念があります。
そして、直接的、間接的にでも関わらせていただいた作家の中から、この追求の仕方は別格だとか、コンセプトと作品の関係性が明瞭だとかを肌で感じながら、その後活躍していく姿を見ていたりします。でも一方で、一流の仕事をしていても、時代によっては注目されないことがあることも垣間見ました。モラトリアム時代に悟ったように、自分(作者)の能力とは別のところで、時代背景によって評価が変わることを改めて感じたりしました。作家やギャラリストは、強い信念がないと続けられない人種だと感じました。
あとは、美術のアウトサイダーなりに、何か軸を持って考えた方がいいのではとも考え、同世代のアーティストの思考や、自分が研究していた風景にまつわる作品はできるだけ見ようと意識してきました。 その軸を持ったほうがいいのではという思考も、その後取り組む、障がいのある人のアート作品を見ることへも繋がっていったのだと思います。」
その後、ART OSAKAは規模を拡大していくが、運営体制はどうなっているのだろうか?
「最初はギャラリーヤマグチのアルバイトとして始まり、その次にオフィスNという屋号で個人事業主として事務局を運営していました。徐々に規模が大きくなって、少しずつ人が増えて、2018年には一般社団法人日本現代美術振興協会(APCA)【※6】として運営するようになりました。それによってずいぶん労働環境が整えられて、現在私やアルバイトを含めて6人が働いています。」
ART OSAKAは、堂島ホテルの後は、JR大阪駅と直結しているホテルグランヴィア大阪でしばらく開催され、コロナ禍のなか2021年には大阪市中央公会堂で開催するようになった。
「大阪市中央公会堂【※7】は、市民の手によってつくられたものだし、大阪の人はすごく誇りを持っているんです。だからあの空間に入るだけで特別な印象があります。ホテルでやっているときは、ギャラリーが各部屋で展示するので小さい作品が中心でしたし、自宅で飾った時をイメージしやすいことをフェアの特徴としていました。大阪市中央公会堂では、大きな作品も飾ることができるので、必然的に価格帯も上がり、結果として売上も伸びてきました。もちろん現代美術のコレクションが少しずつ一般化しているよい傾向だと思います。」
さらに2022年からは、大阪市住之江区の木津川河口域沿岸にあるクリエイティブセンター大阪(CCO)【※8】で、大型作品も扱うExpandedセクションも開催されることになる。それはもともとアート・バーゼルの大型作品部門を参考にしたものだという。
「今、ART OSAKAを特徴付けているのは、Expandedセクションが大きいと思っています。大型作品なので、簡単に売れるわけではないですが、美術館や芸術祭レベルの大きい作品を見せられる場所は多くないですし、ギャラリスト主導で、作家の力量を押し出せる機会になっています。実際、幾つか美術館からコレクションにしたいという問い合わせもあるようです。また今年は、小山登美夫ギャラリーがカンボジアのアーティストを、gallerychosunが自国韓国の作家を紹介したり、アジアで活躍している作家を日本の美術関係者に紹介する機会としてのポテンシャルも見えてきました。日本や日本に関わる同時代の彫刻、インスタレーションが、ここに来たら見られるみたいな場所になり、海外の美術館や芸術祭へ繋がっていくような動きになればいいなと思っていますし、そういうことが起きるように海外のゲストを招聘することも始めています。」
特に若手アーティストだけではなく、小清水漸の《表面から表面へ》(1971)や西山美な子《♡あこがれのシンデレラステージ♡》(1996)など著名な作家のインスタレーションなどが展示されることも目玉となっている。また、同じく千島土地株式会社が運営する元家具屋を改装した展示会場、カグー(kagoo)でもART OSAKAのほか大阪・ハンブルク友好都市35周年記念展としてドイツ・ハンブルク在住の3名のアーティストの展覧会「すべては水であらわれる」が行われたり、共同スタジオSuper Studio Kitakagaya(SSK)【※9】のオープンスタジオ、大型アート作品収蔵庫のMASK[MEGA ART STORAGE KITAKAGAYA]のオープンストレージ、モリムラ@ミュージアムの展覧会なども同時開催されたりしており、周辺エリアの周遊も相乗効果になっている。さらに遠方からの来客のために、北加賀屋にあるクリエイティブセンター大阪(CCO)と大阪市中央公会堂が無料シャトルバスで結ばれており、両方楽しめるような工夫もされている。
さらに宮本は、大阪の、障がいがある人が制作しているアート作品を紹介したり、販売したりするプロジェクト、Capacious(カペイシャス)も開始することになる。それはどのようなきっかけだったのだろうか?
「Capaciousは、現在大阪府福祉部の事業なんですが、大阪府福祉部の文化芸術委員をしていたギャラリーヤマグチの山口さんが、ちょうど私が独立した頃に行く先を心配してか(笑)「障がいのある人の作品をマーケットに紹介する事業の公募が出ているぞ」と教えてくれたんです。全くの受け身ですね(笑)。自分が学んできたことが活かせるのならという思いと、私自身が美術のアウトサイダーであるから未開拓の方へ進んでみようという、これも単純な思考です。公募で採択された後、大阪府内の福祉施設で、アートの現場をほぼ初めて、20くらい見て回らせていただきました。そうして見て回っていると、面白いと思える作品をいくつか見出すことができました。特に平野喜靖さんの作品には衝撃を受けました。」
平野喜靖は、雑誌や新聞などの文字を写して、紙面いっぱいに埋めていく作品を制作している。どこに一番惹かれたのだろうか。
「作風がちょっとずつ変化しているんですけど、最初の頃は細くて丁寧にタイポグラフィが強調される作品を描いていましたね。文字の造形的な美しさに惹かれるのですが、新聞や雑誌などの時事的な情報の文字が用いられていることも、何か別の意味を感じさせる。また彼自身言葉をあまり話さないので、最初は言葉の意味がわかっているかどうかも判別つかなかったのですが、きれいな文章の区切りで抽出しているので、きっと言葉の意味や世の中の情報としてもインプットされているんだろうと感じるようになりました。また文字の上に文字を重ねることで、言葉遊びのような現象も生じて、全く見飽きないんです。色々なことを感じさせ、いろんな角度から楽しめる豊かさがあると思って、好きなんです。
また、数字の記憶力が非常に高い人がいることは聞いていましたが、日頃から大学ノートなどに数字を描き留めていく柴田龍平さんにも驚きました。もしかして、柴田さんにとっては、日本語よりも数字の方が強い意味を持つし、数字で世界を把握しているかもしれないと思ったんです。言葉で伝える、整理することが自然だと思っていた世界が覆されたひとりです。」
Capaciousは活動のベースとなる費用は大阪府の委託費でカバーされている一方、売上のほとんどは福祉施設や作者に還元されているという。近年ではART OSAKAでもCapaciousのブースを設置している。
「美術の専門家・愛好家に見てもらいたい、批評につなげてもらいたいとの思いから、現代美術のイベントに出ることにしています。同じ土俵に乗っているという、こちら側のスタンス表明は間違ってないと思います。 一方、いいことをしていますねと言われることも多く、わかりやすい社会貢献活動として捉えられて終わってしまう、もどかしさも感じています。親御さんや関係者から喜んでもらえるのは素直にやりがいになるのですが、目指すところは平野さんや柴田さんのような作家が、現代アートとして評価され、私と同じような驚きを感じてほしいと思います。私は、彼らの作品に出会ったことで新しい視野を見せてもらい、色々な経験をさせてもらっていると感じています。」
近年では提携している作家のかつのぶが、小山登美夫ギャラリーで展覧会が行われ、大きな話題となった。その際、Capaciousはどのような役割をしているのだろうか。
「福祉施設とやり取りするには時間がかかる場合があるんですね。大きな施設で慣れているところなら直接やれなくもないですけど、福祉施設側からも遠慮なく気になることを相談できる関係性を築くには時間がかかることが多いように思います。美術と福祉の双方の状況を理解しながら、健康的なコミュニケーションをとるためには、私達のような立場は役に立っているのではないかと思っています。ギャラリーからの思いなども福祉施設にお伝えしながら、その逆もまたしかりで、今後の展開など同じ方向性をもって歩むことの大切さを感じています。」
Capacious(カペイシャス)の活動は、現在のところ成果が認められ、継続して事業が進められており、宮本とは別のもうひとりの非常勤スタッフがいる。そちらはAPCAではなくオフィスNで業務を受けているという。
さらに、Art Collaboration Kyoto(ACK)の立ち上げにも参加した。それはどのような経緯だろうか?
「京都府の方から、大阪のAPCA (一般社団法人 日本現代美術振興協会)や東京のCADAN(一般社団法人 日本現代美術商協会)【※11】に、美術・芸術大学の集積している京都で、作家のキャリア形成が可視化できるような、国際的なアートフェアをやれないか相談がありました。どういうフェアならあり得るか、デザイナーも含めた関係者間で活発なアイディア交換を経て、コラボレーションをテーマとしたアートフェアが生まれました。当時のAPCAはホテルフェアの長年の経験で、ギャラリーリレーションを中心としたフェア全体の運営ノウハウがあり、またプライマリーギャラリーと同じ問題意識や方向性を共有できる強みがありました。関西ベースでフェア運営をしてきたAPCAが事務局を担う形で、京都の比較的若い多才なスタッフと、そこに現代アートインダストリーの知見を持った協賛・VIPリレーションができる専門家、アート広報の第一線で動いている方など東京ベースの人材が加わり、チームができあがりました。私はジェネラルマネジャーとして組織マネジメントを担い、3回目までコアスタッフでやってきました。」
「コロナ禍を経て、回を重ねるごとに急速に国際化され、とてもユニークなものとして海外にも知られるほどになった現在、事業規模やスタッフの人数も当初想像していたものを超えてきましたので、APCAが事務局を受けるというよりは、ACKとして独立、組織化した方が健全だということになり、一般財団法人エーシーケーが立ち上がって、今はそこが運営事務局を担っています。
ACKの仕事はAPCAとしては関わっていますが、私はコアメンバーとしては2024年3月で終えたんです。私のマネジメントの限界を感じたというのが正直なところですが(苦笑)、ACKの最初期に関わることができたことは、とても得難い経験でした。ART OSAKAは地道に背伸びせずできることを積み重ねていくタイプでしたが、ACKは初期に先行投資をすることで可能性を広げることができました。適切な時に経費をかけて、新しいこと、挑戦的なことをする大切さを学びました。このような規模で実験的なことができたのも、京都府や一般財団法人カルチャー・ヴィジョン・ジャパンなど、実行委員会の他の構成組織による総合的な力があると思います。」
実は、ART OSAKAとCapaciousが発展する時期に、宮本はふたりの子供を出産し、育児を行っている。
「実は結婚したのは20代なんです。2007年7月末に帰国して2008年8月に結婚したんですけど、2016年11月に子供を産むので、9年くらいは、お互いにやりたいことに邁進していました。夫は建築設計をしています。 昔はひとり事務局みたいなものだから、私が休んだらART OSAKAが回らないという状態で、それでは組織としてもどうかということで、コミッティのギャラリーの皆さんも心配してくれて、出産とかじゃなくても、倒れたら大変だよね、ということで少しずつチーム体制化していったんです。そろそろ30後半になって、産もうと思って産めるものじゃないし、第一子の時は一般社団法人にはなっていませんでしたが、優秀なアルバイトスタッフも増えてきたので、産むとしたら今しかないということで、みんなに迷惑をかけて協力してもらいながら産んだんです。ただ、まだ産休・育休のない個人事業主でしたから、働かないと収入は入ってこないので、出産前日まで働いていて、産後2か月で子供をおんぶしながら海外発送の箱をつくったり、テーブルの上に子供を転がしたりしながら、つまりまだ寝返りをする前ですね......仕事をしていました(笑)。」
アート業界で育児をしながら働いている人は、他の業界よりも少ない傾向にある。また、多くのイベントが子供の休みの土日祝日や夜に行われるため、両立は難しいのではないだろうか。
「特にひとり目の子育ては大変でした。ただ、自分としては、何でも貪欲にいくというのが、フィンランドで学んだことでもあります(笑)。私自身もあんまり外に向かって言わないですし、アート関係者で子育てしながら頑張っている人もあまり言わないですよね。私も子育てが大変だってことをもっと事前に教えてほしかったんですよ(笑)。そこは変えていってもいいかもしれないですね。2人目は法人として組織化されていたので、産休・育休があったのはすごくありがたかったです。
積極的に発信しない理由としては、子育てを理由に仕事を中途半端にしていると思われたくないというプライドもありながら、みんなが権利や保証を主張しすぎても成り立たない業界というのも感じるので。権利や保証がきちんとされていくべきという方向性は絶対間違ってないんだけど、どこかで無理しないと回らないだろうという気持ちもあって。アーティストやギャラリストの多くはフリーランス、個人事業主ですから、その上で成り立っているマネジメントの仕事であることも考えると、段階的になるだろうし、色々バランスが必要かなと。
政府の子育て支援策なんてもう悲しすぎます。 例えば確定申告してきたフリーランス、法人で代表を務める人も、出産する際に、例えば1年500万保証する政策をすれば、就職氷河期時代を生き抜いた働く女性は、産もうという動機になったのではないかなど思いますね。」
逆に子供ができたことで、アートの仕事にいい影響はあるのだろうか?
「直接的にというわけではないですが、子供の成長段階を見ることで、障がいのある人のなぜこれを描くのか、こだわりみたいなものが正しいかどうかはわからないですけど、類推できたり、こういう年齢の傾向なのかもしれないと仮説を立てたりには役立っていると思います。自分の小さい頃のことは忘れてしまっていますので。あとは、小さい頃、子供は展覧会に連れて行きすぎて、もう行くのを嫌がったり、すぐ出たがるのでゆっくり見られなかったりということはあるんですが、それでも子供が食いつく作品というのは力がある作家なんだなと子供のフィルターで感じることはあります。ただ、嫌いとはいえ、この段階から現代アートの同時代の傾向を垣間見ることは、私のように本から得ていた知識ではないので、アート関係の仕事につかなくても役に立つと信じています。」
最も関心をもっていること、取り組んでいることは何だろうか?
「障がいのある人のアートが現代アートとしてどうすれば歴史の中に組み込めるかということです。障がいのある人のアートを現代アートとして、美術の歴史の中に位置付けていくのは、イコール評価だと思うんですけど、そのためにはどういうものが欠けていて、どういう障壁があって、どうすれば乗り越えることが可能なのかという問いに対して実践していくために「Art to Live」【※12】というプロジェクトを進めています。2024年11月30日には、京都市立芸術大学の講義室でトム・ディ・マリア(クリエイティブ・グロウス・アート・センター)さんや保坂健二朗 (滋賀県立美術館 ディレクター)さん、大内郁 (東京都渋谷公園通りギャラリー 学芸員)さん、山本浩貴 (文化研究者、実践女子大学 准教授)さん、小出由紀子 (小出由紀子事務所)さんらを呼んで、国際シンポジウムを開催する予定です。」
「Art to Live」は、「2025 大阪・関西万博に向けた障がいのあるアーティストによる現代アート発信事業」で、一般社団法人日本現代美術振興協会、Capacious(カペイシャス)が主体となった事業であるという。「クリエイティブ・グロウス・アート・センター」は、カリフォルニアで50年の歴史をもつ障がいがある人のための施設で、2023年にそこから作品114点が、サンフランシスコ近代美術館に購入されたという。そして、2024年4月から記念展覧会「Creative Growth: The House That Art Built」が開催されている。滋賀県立美術館は、「アール・ブリュット」を収蔵方針に掲げている唯一の日本の美術館である。
障がいのある作家を現代アートとして取り上げ、価値付けて、コレクションしたり展覧会を開催したりする動きは近年、世界的な潮流となっている。日本の作家も少しずつ注目され、国内的にも2018年6月に「障がいがある人による文化芸術活動の推進に関する法律」が施行され、それらを後押しする機運が高まっている。
宮本は、子育てをしながら、アートを通じてさまざまな垣根を取り払おうとしているともいえる。まさに生活とアートが地続きともいえる。さまざまな取り組みを行っている自身に肩書きをつけるとしたら何だろうか?
「ずっとアートマネージャーと言ってきたんですが、最近はプロデュースをしているのかなと思います。自分でこういうことをやるべきだ、やりたい、だからこれをやるんだみたいな意識が結構高くなってきた気がします。」
宮本の動きは、対立構造をつくって、権利を声高に主張するプロテストではなく、しなやかに共通課題を結び付け、融合させ、ともに解決すべき道筋をつけているように思える。それは少しずつ日本社会における新しいアートと共生の社会を創造しているのではないだろうか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
注釈
【※1】ART OSAKA
(URL最終確認:2024年11月11日)
【※2】Capacious(カペイシャス)
(URL最終確認:2024年11月11日)
【※3】Art Collaboration Kyoto(ACK)
(URL最終確認:2024年11月11日)
【※4】ヘルシンキ工科大学(現・アアルト大学)
(URL最終確認:2024年11月11日)
【※5】ギャラリーヤマグチ(現・ギャラリーヤマグチ クンストバウ)
(URL最終確認:2024年11月11日)
【※6】一般社団法人日本現代美術振興協会(APCA)
(URL最終確認:2024年11月11日)
【※7】大阪市中央公会堂
(URL最終確認:2024年11月11日)
【※8】クリエイティブセンター大阪(CCO)
(URL最終確認:2024年11月11日)
【※9】SSK(Super Studio Kitakagaya)
(URL最終確認:2024年11月11日)
【※10】MASK[MEGA ART STORAGE KITAKAGAYA]
(URL最終確認:2024年11月11日)
【※11】一般社団法人 日本現代美術商協会(CADAN)
(URL最終確認:2024年11月11日)
【※12】Art to Live
(URL最終確認:2024年11月11日)
1980年茨城県生まれ。京都府立大学環境デザイン学科卒業、筑波大学大学院芸術研究科修了、ヘルシンキ工科大学IAP修了。
留学から帰国後、大阪の現代美術ギャラリーで約6年間勤務し、展覧会の企画・運営を行う他、現代美術のアートフェア「ART OSAKA」の事務局も担当する。2011年独立後、ART OSAKA事務局を引き継ぐ他、2015年から大阪府の障がいのある人のアート作品をマーケットに紹介するプロジェクト「capacious」にも取り組む。近年の主なものに2019年「Exploring -共通するものからくる芸術のかけら」展(文化庁委託事業)、2024年「Art to Live - 2025 大阪・関西万博に向けた障がいのあるアーティストによる現代アート発信事業」総合プロデュース。
文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人。独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。