滋賀県大津市にある元・保養所を再活用し、レンタルスタジオ・アトリエ、アーティスト・イン・レジデンス、相談所などを内包したアーティスト・プラットフォーム施設として、2019年にオープンした「芸術準備室ハイセン」。期間利用者が値段を決める「任意料金制」という独特のシステムを取り入れている点も大きな特徴だ。ハイセンを立ち上げようと思ったきっかけ、手探りしながらの運営、今後の展望について、発起人の神谷俊貴氏を中心に、オブザーバーとして参加していたメンバーの岩木すず氏にもお話を伺った。
―まず、ハイセンができるまでの経緯について、神谷さんの大学時代の経験やキャリアとあわせてお伺いします。
神谷:昔は漫画や小説をかいていたのですが、ひとりではできない映像の制作を学びたいと思い、地元の静岡から、京都精華大学芸術学部メディア造形学科映像コースに進学しました。映像制作にも役立つと思い、「劇的集団忘却曲線」という大学の演劇部に所属しました。だんだん演劇の方が楽しくなって、京都の小劇場にのめりこんでいきましたね。
―演劇の魅力的だったところは?
神谷:映像はカメラで切り取ったフレームの中を突き詰めるメディアですが、演劇は舞台に出てくる人間が主役のメディアだなと実感しました。人間が出てこないと成立しない。集団創作も初めてで、深夜までみんなで大道具を作ったり、大変な経験もしつつ、最後はお客さんから拍手をもらえて、直接その場で反応が伝わってくるライブ感も演劇でないと味わえないので、やみつきになっていきました。
劇的集団忘却曲線は、90年代から今も続く老舗の学生劇団で、いろんな演劇人を輩出しています。最初は照明と音響スタッフをやりたかったのですが、頼まれたら役者もやり、気づいたら大道具スタッフをずっとやっていました。でも、手が足りない部署をみんなで手伝う関係なので、「これが中心」という感じはありませんでした。
―演劇関係に進む進路を考えていたのでしょうか?
神谷:演劇で食っていくのは全然考えられなくて。バイトをしながら小劇場に関わる先輩たちを見ていたので、自分もそうなるのかなとぼんやり思いながら、大学4回生の秋まで金髪で大道具をやっていて、全然就職する気がありませんでした。冬頃、たまたま大学の求人で、SPAC(Shizuoka Performing Arts Center:公益財団法人静岡県舞台芸術センター)【※1】の創作・技術部の募集を見つけました。出身の静岡にそういう劇場があることを知らなかったのですが、ホームページを見るとすごくおもしろそうだったので、とりあえず応募したら合格したので、4月から働き始めました。
―それまでとは違うスケールの場所で、入ってからギャップもあったと思いますが、SPACでの経験についてお聞かせください。
神谷:SPACは県立の劇場兼劇団で、唯一無二のすごい施設です。専用の稽古場で自由に創作できて、設備も本格的で。それまで経験してきたものとはスケールが違う作品を作れますが、中身は小劇場スピリッツが受け継がれている点がすごく自分に合っていました。2代目の芸術総監督の宮城聡さんが東大の小劇場出身ということもあり、自由度が高く、退館時間もなくて24時間使える劇場だったので、ギリギリまで煮詰めて稽古して、良いものをお客さんに届けようというスタンスでした。自分がそれまでやってきたことをスケールアップして挑戦できる環境でしたね。
ひとつ違いを感じたとすれば、アマチュアとプロの違いです。それまで関わった京都の小劇場では、自分たちが好きなことを発表して、チケット料金でトントンに回収できればいいねというスタンスでした。でもSPACは税金で運営されているので、それに応えるべく社会的な目標を設定していて、すごく勉強させていただきました。SPACの二大事業に、国際的な演劇祭「ふじのくに⇄せかい演劇祭」【※2】と、中高生の鑑賞教育事業があります。静岡にいても、世界のトップレベルのクオリティの作品が見られる場所を用意する。加えて、学生にも一流の作品を届ける取り組みをしている。アマチュアとプロの違いは、お金やクオリティではなく、社会的な意義をきちんと持っているかどうかだと実感しました。
3年目に、シアタースクールという夏休みの子供向けの演劇教室の企画で、舞台監督も経験しました。ゴールデンウィークの演劇祭では、山の中にある野外劇場の担当がメインでした。演劇祭前半が終わると、後半は駿府城公園という街中の大きい公園にある野外特設ステージのヘルプに回りました。基本ずっと野外にいるみたいな(笑)。秋・冬では三つの屋内劇場の本公演や県内外の出張公演などに出向き、年間通して、いろんな演目に関わらせていただきました。
―SPACには4年間勤めて、2018年でフリーランスになられました。SPACを辞めて独立しようと思われた経緯について教えてください。
神谷:SPACのスタッフは、年間契約と期間契約があります。僕は年間契約で毎年更新して、通年で所属していましたが、他のスタッフや俳優には期間契約の人もいて、流動的なんです。ずっと同じ人とつくるわけではなくて、外部のゲストがちょくちょく入ってきて刺激になっておもしろいものをつくっていく。外部の人たちと交流するなかで、日本にはもっと他に劇場や劇団があって、それぞれが地域で面白い取り組みをしていると知って、おもしろそうだなと思っていました。
京都時代の仲間から、瀬戸内の島で公演をやるから手伝ってと誘われ、スケジュールが合わなくて、面白そうなのに残念だなと思うこともあったり。演劇を続けるかどうかも悩んでいた時期で、さらにヘルニアになって腰の手術をして、労働環境についても入院中に考え直しました。一回ここで区切りをつけようと、4回目の演劇祭の後にSPACを辞めました。
辞める直前、愛知県芸術劇場との共同の仕事を担当したとき、「実は辞めるんです」とこぼしたら、すごいギラギラした目で「次の仕事、良いのあるんだけど、どう?」と誘われたり(笑)。SPACにいたら全然気づかなかったんですが、この業界は常に人手不足で、特に舞台監督や裏方スタッフが不足しているんです。SPACは通年でスタッフを確保していてすごいと思いますが、他の劇場は、小屋管理の人はいても、創作現場に立ち会えるスタッフの数が少ない。需要があるなら、演劇のスタッフを続けながら、自分のやりたいこともやれるかなと思いました。そう決めたら、年間のスケジュールが大きい仕事が埋まっていって、空いている期間でやりたいことをやろうと思って、城崎国際アートセンター【※3】のインターンに応募したり、その合間に京都に行って仲間内の自主企画をこなしたり。SPACから期間契約の依頼もあったので、静岡を拠点にしつつ、新しいスタートが始まりました。
―地方の現場で働いている方との接点もこの時期にできたと思います。そのなかで課題や印象に残っていることがあれば。
神谷:改めてSPACは特殊だったんだと感じました。他の劇場は基本貸館なので、出来上がったものを受け入れて上演するしかないんです。あと、劇場の中の設備も全然違う。例えば、SPACには、衣裳をつくる衣裳室という専門の場所がありますが、他の劇場にはないので、衣裳スタッフさんが楽屋で修正作業をするしかないとか、大道具制作をする広い作業環境が整っていないとか。ここ10年くらいは、自主企画で主催事業を起こして、劇場発信の舞台公演をやる創造型劇場が増えてきましたが、その多くが設備が追いついていないしスタッフも小屋管理の経験しかない。僕がSPAC以外の劇場から仕事で呼ばれた理由も、創作現場に関わるスタッフが不足しているからなんです。
―城崎国際アートセンターでのインターンでは、どのような経験をされましたか?
神谷:城崎国際アートセンターは、アーティスト・イン・レジデンスとして創作に特化した施設ですが、実際の公演にも携わらせていただきました。行政とアートが密接に関わり合って、お互いのメリットを活かしながら運営している点がすごく参考になり、そのDNAがハイセンにも受け継がれていると思います。
一般的に行政の側では、発表する場所さえ用意すれば自然とアーティストがやってきて、勝手に盛り上がるだろうと考えがちです。でも、城崎国際アートセンターは、平田オリザさんがアドバイザーになったことも大きくて、「作る場所を用意しよう」という発想です。先ほど話したように、全国の劇場に創作のための設備や人材が不足していることを実感していたので、すごく共感しました。発表する場所を用意しても、準備する場所が手薄なのは、アーティスト側への負担が大きいという課題をうまく掬い上げたなと。それは、ハイセンのコンセプトにもつながっています。
あと、城崎国際アートセンターでは、滞在制作したアーティストにワークショップやアウトリーチ活動をお願いしていて、アーティストが地域と完全に隔絶されないように運営している点も、うまくやっているなと思いました。
―実際に立ち上げるにあたり、滋賀の湖西を選ばれた理由や、メンバーの方を集めた経緯について教えてください。
神谷:SPACを辞める前頃から、大学時代の仲間うちで、自分たちのアトリエが欲しいという妄想をしていました。秘密基地みたいな拠点がほしいなって。昔は、卒業生が後輩の学生を通じて学内を間借りさせてもらえましたが、だんだん大学の管理が厳しくなってきて。ハイセンのメンバーで僕の師匠でもある吉村聡浩さんは、京都の小劇場ででかい大道具を作っているうちのひとりですが、作業場所に困り始めていると聞きました。京都の小劇場で、大掛かりな舞台美術の公演が減っている現状は話に聞いていて、創作の場所をみんなほしがっていると。
城崎に行ったのがきっかけで、廃校など運用停止した公共施設は魅力的だなと思って、物件サイトを調べていましたが、車が必要な過疎地域だったり、教育委員会への説明が必要だったり、いきなり取り組むにはハードルが高かったんです。倉庫などの物件も探しましたが、条件がなかなか合致しませんでした。アクセスが良くて電車で通える場所、稽古や作業ができる広いスペース、家賃が安いこと。この3つの条件が重なる物件を、京都で探しましたが、なかなかなくて。特に価格に関しては僕や周りのアーティストが出せる額じゃないと運営できないだろうと。
用事で滋賀に行ったときに、京都から通えると気づいて、滋賀を中心に探したところ、偶然、今のハイセンの物件が出ていました。家賃も京都でアパートを借りるのと同じくらいで。そのときは仕事で瀬戸内の島にいて、次に愛知に向かう道中に寄って見学しました。不動産会社の人にも「他の人も狙ってますよ」と急かされて、すぐに妻を説得しました。妻も同じ精華大の演劇部出身で、やりたいことを分かってくれて、すぐ契約して、数か月後にはハイセンに引っ越して準備を始めるというスピーディーな流れでした。滋賀という場所よりは、良い物件とタイミングが合って、この場所に決まりました。
―元の建物は保養所と、少し変わった物件ですね。
神谷:家主さんから、元々は大正銀行の保養所だったと説明されました。銀行から売却された後に家主さんのお父さまが収集した古美術のための倉庫として使われていました。お父さまが亡くなられて、何か活用できないかと思って物件を募集に出したそうです。民泊など商業的な利用を考えていた人もいたのですが、家主さんとの面談の際に、僕がアトリエ的な構想を持ちかけたら、家主さん自身も福祉の事業をやっている方で、「公益性の高い人に使ってほしい」ということで採用していただけました。
―ハイセンのコンセプトは最初から決めていたのですか?
神谷:SPACなどでの経験を踏まえてまとめた草案を、吉村さんや大学時代の知り合いにラインのチャットグループで投げてみて、反応を返してもらって、ふくらませていきました。そのときに自分も意欲的に参加したいと思った人たちが今のメンバーになっていきました。最初の行事として、ハイセンでキックオフミーティング【※4】をやって、興味がある人に実際に来てもらって、どんなことができるか話し合いました。とりあえず使ってもらって、ルールや問題点を探り当てていこうというノリで運営を始めました。
―「アーティスト・プラットフォーム」という名称も、皆さんのアイデアから出てきたのでしょうか?
神谷:やりたいことの共通認識はあるんですけど、良い名前がなくて、悩んだすえに「芸術準備室」という名前を思いつきました。まあ、今も「(仮)」が付いたままなんですけど(笑)。最初は「アーティスト・イン・レジデンス」と言っていましたが、滞在制作ができるからそう名乗っただけで、日帰りで利用してもいいし、成果発表やワークショップは別に求めていません。「アーティスト・イン・レジデンス」という名前も、だんだん乖離してる感じが出てきたんです。立ち上げの際、セゾン文化財団の創造環境イノベーション事業に助成金を申請するときも、担当者から「アーティスト・イン・レジデンスは、プログラム作りが重要ですよ」と指摘されて、「いや、そういうことがしたいわけじゃないけど」とギャップに戸惑ったこともあります。
3年くらい、いろんな人を受け入れながら運営していくなかで、たまたまラジオで「プラットフォーム」という言葉を聞いて、ストンときたんです。DJさんが「音楽ってこういうプラットフォームがあるからいいよね」って話していて。日本語にすると「基礎」「土台」という言葉ですが、もっとくだけた言い方をすると、「アーティストにとっての実家」みたいな感覚です。帰ってきたらとりあえず飯は食わせてくれるし、余った荷物も受け入れてくれる。そんな安心感のある場所にしたかったんです。今まで受け入れてきたアーティストも、制作場所に困っている人もいれば、稽古したい人もいるし、ただ何となく滞在したい人もいる。こちらも審査したり成果を求めたりもないので、ポートフォリオの提出も必要ないし、疲れたからちょっと休みたいというのも全然ありで。人生に悩める若者がいれば、話を聞いて、人や情報を紹介したりもしました。そういう相談所的な意味合いもあるし、複合的で包括的な施設でありたいという思いが、「プラットフォーム」という言葉に当てはまると思ったんです。僕としては、その言葉に落ち着いて、ハイセンの軸がようやく一本見えた感じですね。
―プラットフォームという言葉は、生態系を生み出しているイメージがありますね。ちなみに、「ハイセン」という名前も想像をかきたてますが、発想はどこから?
神谷:僕が元々「ハイセン」という言葉が好きで、「廃れた船」とも、つなげる線の「配線」とも読める。この二重の意味でカタカナにしました。「ハイセンスから取ってるの?」と聞く人もいましたが、ハイセンスではないです(笑)。あと、知り合いの翻訳者から、ドイツ語で「~という名前である」という動詞「heißen」だよと教えられて、良いなと思ったので、それは採用してます(笑)。みんなでいいようにとらえてもらえればと思います。
―メンバーの岩木さんは、どういう経緯で立ち上げを知ったのでしょうか?
岩木:私は神谷さんの精華大の劇団の後輩で、学外で作業場が欲しくない?という声かけを神谷さんが以前からしていたんですが、決定的な物件が見つかったという連絡があり、そこから続報をもらうようになりました。
―ご自分も深く関わっていこうと思われた理由は?
岩木:学生時代から、神谷さんが何か面白いことをやってくれるだろうという確信があったので、そのときが来たなという感じです。私自身は、演劇企画のマネジメントを担う「制作」の仕事を卒業後もやっていました。その仕事の一端として、劇団の主宰の方と公演場所や稽古場、作業場などを相談するのですが場所に困っている人もいましたし、大きいものをつくれる場所がなくなるという話も聞いていました。演出の方向性としてはそれぞれ好きな作風を自由にやればいいと思っていますが、つくる場所がなくなって、大掛かりな作品という選択肢自体がジャンルごとなくなることで失われるものって大きいんじゃないかと危惧しています。舞台芸術の継承って、大人がやっているのを見て、かっこいいと憧れた若者たちが大人の現場を手伝わせてもらっているうちに自分たちでもやれるようになる、っていう受け継ぎ方が多いように感じているので。でも、先導者がいなくなると、後進の若者も続かないし、そういうジャンルの演劇を見たいと思うお客さんもいなくなる状況をすごく苦々しく思っていたので、その課題解決を一緒にしたいという思いがいちばん強かったです。
―ハイセンのメンバーは京都精華大学の関係者が多いですね。役割分担などはあるのでしょうか?
神谷:ラインのグループで雑談しているメンバーなんですけど、基本的なハイセンの管理や連絡業務は僕がやっていて、草刈りや利用者とのトラブルなど、自分ひとりでは対応できないときにチャットで相談を投げています。コロナの時は特に、これからどうしようか相談しました。手伝いにいける、備品を貸し出せる、助成金の情報提供といった形でメンバーに協力してもらうスタンスで活動しています。ずっと見守っているだけの人もいますけど、僕は全然それでかまわなくて、できる範囲で関わってもらえればと。ハイセンを始めるときに、無理になったらやめようと自分に課しているので、これくらいのスタンスが良いのかなと思います。メンバーにお金を払っているわけでもないので、業務を押し付けるのも違うなと。本当に、性善説で成り立っている、何もかもが人の優しさを信じているハイセンですね。
―ハイセンは2019年の3月にスタートしました。最初の利用者は?
神谷:ベビー・ピー【※5】という京都の劇団です。全国をまわる公演で、しかも野外にテントを建てて、アングラなお芝居をやりたい劇団でした。旅公演に出る前に実際にテントを建てて実験や調整ができないと、準備不足になる状況が迫っているなか、どんぴしゃでハイセンの契約が決まって、広い駐車場(空き地)を使ってもらいました。いきなり謎のテントが建ち始めて、京都のよくわからない人たちがうろうろし始めて、近所の人たちが「何するの?」ってそわそわし始めたところからハイセンがスタートしました(笑)。
賃貸契約などの準備を始めたのが3月頃で、入居したのが5月です。キックオフミーティングと同時にベビー・ピーの準備作業も始まって、当時は、僕と妻がハイセンに住んでライフラインを整備しながら、彼らと訳がわからないまま共同生活が始まりました(笑)。
深夜にいきなり「作業したい」とやって来て、戸惑ったり。でも、最初からあれこれ決めるより、最低限、「人に迷惑をかけない、後片付けはちゃんとする、近所の人に挨拶する」という三原則以外に関しては、個別的な事情を考慮して、グラデーション的な付き合い方でやっています。
―近所の人たちは、大きな保養施設が突然、芸術関係の施設に変わって、謎のテントが作られ始めて、びっくりしたと思います。どのように交流を深めて、理解を得たのでしょうか?
神谷:入居の契約後、挨拶周りに伺いました。昔からの住人は少なくて、定年後のセカンドライフの人や別荘地で週末だけ来る人もいるので、拒絶感はなく受け入れられました。他のケースで聞く地域に移住してアートプロジェクトを始めた人のような苦労はなかったです。地域の人と距離感が縮まった出来事は、ゴミ回収ボックス作りです。カラスの被害がひどくて、鉄製のゴミボックスだと10万円くらいするので、余った廃材で僕たちが作りました。その後、「ありがとう」というお礼から、地域の人が通りかかるたびに話しかけてくれたり、展覧会や試演会に顔を出してくれるようになりました。ハイセンとしては負担でも苦労でもなく、一緒に地域で生活している場所として、貢献できたなと思いました。
―すばらしいですね。立ち上げ当初の想定と、実際にアーティストに使ってもらうなかでのギャップや課題はありましたか?
神谷:最初は、街中の公民館くらいの距離感で交流があるかなとイメージしていました。ただ、京都から通うのは大変だなと、後で思い知りました。結果的に、合宿のように1、2か月滞在しながら作る短期集中型の利用が中心になっています。あと、「裏方の作業場」としての活用が多くなるかと思ってましたが、裏方が本業の人は作業場所をなんとか確保していて、むしろ俳優やダンサーが集まって作品をつくる稽古場としての利用がメインになっています。また、裏方を学びたい人には、照明や音響の機材の使い方のレクチャーをしたり、当初は見えていなかった利用方法も出てきました。
―そうした相談所的な機能もあるのでしょうか?
神谷:具体的に相談したいから来るというより、ハイセンで運営メンバーや知人が集まってよくバーベキューをやるので、雑談がてら、悩みを聞いたり、情報提供や人の紹介をしたりしています。作業や稽古場所の提供だけではなく、焚き火を見て落ち着きながら話せる環境でサポートできているのかなと思います。
―貸館やレンタルスペースは場所の利用だけですが、ハイセンは利用者のニーズに合わせて柔軟に提供できる施設になっているんですね。具体的なスペースやリノベーションについてもお伺いします。畳の和室が3つと、演劇やダンスの稽古に使える28畳の広い部屋がありますね。
神谷:自由にDIYできる条件で貸してもらったので、一番広い部屋は床にダンス用のリノリウムシートを敷いて、防音のために二重窓にして、天井をぶち抜いて照明を吊るバトンを取り付けたり、なるべく本番に近い環境を作りました。この点は、SPACや城崎国際アートセンターの創作環境を参考にしています。本番に近い環境を提供することが、アーティストにとって手助けになると。助成金で照明・音響機材も取り揃えたので、試演会では本番に近い公演もできたり、再現性のあるスタジオになっています。
音響・照明込みで実験したいという団体は、実際には多くないのですが、プランをつくる前にすごく参考になったという意見はいただいています。あと、大道具込みでないと練習できないパフォーマンスもあります。例えば、舞踏家・振付家の目黑大路さんの『妖怪ショー‼』は、自分ひとりで音響・照明・大道具の仕掛け操作をやるという作品です。以前は鳥取の体育館をひとりで使い放題だったそうですが、拠点を京都に移して、稽古場所を探しておられました。公民館だと毎日撤去する必要がありますが、ハイセンでは、一か月くらい舞台装置を置きっぱなしで練習していただけます。そういうクオリティの作品が、創作場所を変えても維持されているのは、大事だなと思います。
利用は演劇関係者が多いんですが、美術作家の利用者もいます。工具を揃えた半地下のコンクリスペース(アトリエ)では本格的な木工作業や塗装も可能です。滞在向けの和室にブルーシートを敷いて絵を描く利用者もいたり、電動自転車も1台貸し出せるので、山と湖に挟まれた地域を探索して写真や映像を撮る方もいます。美術に関しては、具体的に何かに特化してできる環境ではないのですが、逆にあるものは自由に使っていいので、なんでもやってくださいという感じで受け入れています。
昨年は、京都市立芸術大学が移転する夏休みの間、大学のアトリエが使えないので、大学の方から油絵の学生にハイセンを紹介していただきました。まさに「アーティスト・プラットフォーム」の役割として、普段使っている場所が使えないときに、一時的な避難所として使っていただきました。
―大学から紹介があったということは、かなり認知されてるんですね。
岩木:私たちが思っているよりも認知されてるんだなと、特にここ1年くらい強く感じます。利用者に「ハイセンを知ったきっかけは?」と尋ねたら、全然知らない人の名前が出てきたり。少し変わった運営方式であることをSNSや口コミで把握している人が多いことが実感できて、嬉しいです。
―その独特の運営方式についてお尋ねします。ホームページには、「定額利用」の組合員と、「任意料金制」の期間的な利用者との2種類があると書かれています。特に、利用者が値段を決める「任意料金制」のシステムは独特だと思います。このシステムにしようと思った理由は?
神谷:単純に、僕たちがすごい貧乏経験をしてきたので、民間のスタジオやアトリエを借りたくても、値段が大きなハードルになって、選択肢が狭まることがありました。逆に、公共施設は無料か、すごく安くても、審査があってビギナーやアマチュアにはハードルが高かったりします。ハイセンをやるからにはその部分もクリアしたいと思ったので、審査は設けてなくて、基本的に予約の先着順です。相部屋でよければ、同じ期間で一緒に使ってもらってもいいです。
あと、小劇場界隈の人から、すごい借金をして演劇を続けていたり、働きづめで体を壊したりというのを自慢話のように聞くんですけど、僕は「そういうのを自慢話で終わらせるのはもうやめようよ」という気持ちもありました。実家が裕福とか、在学中にデビューして活動が安泰に乗り始めた人ばかりが優遇されがちになる状況も危惧していて、熟したあとに作品が評価される作家もいますし、お金がきっかけであきらめてもまた再開してほしい気持ちもあります。多様であってほしいんです。なので、受け入れ口に関しては、一律の料金制にはしていません。無料にすると運営が苦しくなるので、基本はきちんと金銭をお支払いいただきますが、高額は難しいけれど作りたいという人には「払える分だけ払ってもらえればいい」という設定にしています。リサーチもしたのですが、昔、メトロポリタン美術館が「何円以上、自由にお支払いください」というカンパ制で運営していたことも参考にしています。
「任意料金」というなじみのない言葉なので、戸惑う人も多いんですけど、学生なら1日500円でもいいよみたいな。逆に、プロやセミプロの人たちは助成金を取っているので、ちょうどいい数字で設定してもらっています。とはいえ維持費は厳しくて、僕のお小遣いから持ち出してるんですけど(笑)。お金が原因で創作をあきらめてほしくないという気持ちでやってるので、この制度をなんとか維持したいです。
あと、定期的に利用する人は組合員として毎月1万円を払ってもらっています。他にも「マンスリーサポーター」といって、直接利用しないけど、月500円から寄付してくれる方も、10人弱います。そういうお金の基盤でなんとか運営維持できています。
―ハイセンを運営するなかで、印象に残っている利用者や経験があれば教えてください。
神谷:本当にいろんな方に使っていただいているのですが、札幌から若いイラストレーターの子が来てくれたことがありました。札幌の芸術界隈に閉塞感を感じていて、次の拠点探しで、関西に滞在してリサーチしたいということでした。彼がぽつりと「僕が疲れていることがわかりました」と言ってて、心配したのですが、ハイセンの滞在中に英気を養ってくれて、関西では結局良い場所は見つからなくて旅立っていったのですが、そういう人生のターニングポイントに立ち会えたのは良かったです。ハイセンの周囲のロケーションや施設の雰囲気が補助になってくれて、やってて良かったなと思えました。
岩木:私は最近きた学生さんの話ですかね。成安造形大で写真をやっている学生が、仮設の暗室を作りたいと言ってやって来ました。完全遮光にするにはどの部屋がいいかをメンバー間で話して、遮光に慣れている人が施工を整えてくれました。暗室に必要な引き伸ばし機は、学生さんが知り合いからもらう予定だったのですが、結局間に合わなくてハイセンでは暗室は実現しませんでした。ただ、その学生さんに、「臨時滞在する場所で暗室を仮設でつくるのは、フィルムカメラ界隈ではよくあるんですか?」と尋ねたら、「身の回りで前例は無くて、初めてです」と答えたんです。20歳でそういうことをやろうと思う彼女自身のポテンシャルもすごいですが、これに対応できる施設もうちくらいだろうなと(笑)。こっちが思いもよらないハイセンの対応力を、利用者からの要望で初めて気づかされて、嬉しかったです。
―今後の展望は?
神谷:僕自身は、場所は用意したから、一件落着かなと思っています。逆にこの場所を使って、それぞれが抱えている課題を解決してほしい。ハイセンを使って、意欲的に次の活動を続けてくれるアーティストがいるのは純粋に嬉しいですし、そういう活動をこれからも応援していきたいです。アーティスト・プラットフォームとして、土台としてしっかりあり続けたいと思っています。
資金繰りは厳しいですが、余裕が出てくれば、近くに空き家も多いので、ツテで安く買うか借りるかして、2号店的な使い方ができればと思っています。ドリームプランですけど、滋賀芸術村みたいな妄想があります。そういうことを考えつつ、「とりあえずハイセンがあるよ」という認識がみんなにできたら、冥利に尽きますね。
―非常に地に足が着いていると思います。資金繰りの話が出ましたが、ハイセンの立ち上げのときは、助成金を取ってリノベーションされたと聞きましたが、その後は、民間の財団や公的な助成金はなしで運営しているのでしょうか?
神谷:そうですね、ハイセンを始める前に他の施設の話をいろいろ聞いたのですが、「助成金が今年で打ち切られるので来年どうしよう」という話も聞いて、そういう体質になってしまうとしんどいなと事前に知っていたので、ランニングコストは助成金頼みにしない運営体制にすると決めていました。
あと、文化芸術系の助成金って発表ありきというか、こういうプロジェクトをするために、これだけのお金がかかるので支援してくださいという形ですよね。ハイセンは企画もしますが、助成金をもらうために企画をするのは違う気がしていて、基本的な運営維持はやって、企画は利用者がすればいいと考えています。以前、ハイセン主催で展覧会をやったときに、地元の自治体の助成金を取ったのですが、助成金の性格が「地域活性化」「地域にどれだけ貢献したか」という特色が強くて、結果としてハイセンの趣向に合わなかったなと感じました。僕が勝手に苦手意識をもっているのかもしれませんが、助成金の方向性によって自分たちの活動の方向もズレていくのは違うなと思います。
―文化芸術の助成金は、基本的にアーティストや団体が支援対象で、展覧会や公演という目標に対して期間を区切って助成が下りる形が多いです。ただ、その創作活動を支えるハイセンのようなプラットフォームを支える助成は少ないです。創作活動の基盤自体を、公共的なものとしてどうやって社会で支えていくかについてきちんと議論すべきですが、そこに対する意識が薄いと思います。逆に、個人でこういうプラットフォームが立ち上げられているのはすごく意義があると思いますし、地域活性化のような縛りがない公的助成金がこういうところにこそ投入されるべきだと思います。最後に、おふたりから読者に呼びかけがあれば。
神谷:利用者はどんどん募集しています。審査もないし、超使いやすいです。あとハイセンは、来年、水道工事を予定していて、支援を募集しています【※6】。
岩木:ぜひ。そしてとりあえずなんでも問い合わせしてみてください。こちらが思ってもみないことでも、意外と対応できるかもしれません。
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吉村聡浩
神谷さんの師匠。
様々な社会人経験(諸説あり)の後、京都精華大学に入学と同時に同大学演劇部劇的集団忘却曲線にて舞台活動を始める。舞台監督、技術監督、造形、相談役、俳優・暗黒舞踏の踊り手、用心棒などあらゆるジャンルで京都内外で大多数の舞台芸術(劇団火群、京都ロマンポップ、イッパイアンテナ、夕暮れ社 弱男ユニット、笑いの内閣、KUNIO、みやちゆうきのハレ学、月面クロワッサン、magnet button graph、吉田寮食堂大演劇、劇団ヘルベチカスタンダード、すごい劇団、劇団ミルクティ、劇団幻日、劇団天ツ風などなど)、美術、映画、イベントに参加。現在はベビー・ピー、とりふね舞踏舎/平安舞踏派、トイネスト・パークを軸に活動。様々な企画団体を傘下に置き相互補助としてまとめあげる龍渓下連合の総長を務める
【※1】SPAC(Shizuoka Performing Arts Center :公益財団法人静岡県舞台芸術センター)
(URL最終確認:2024年11月25日)
【※2】「ふじのくに⇄せかい演劇祭」
(URL最終確認:2024年11月25日)
【※3】城崎国際アートセンター
(URL最終確認:2024年11月25日)
【※4】ハイセンでキックオフミーティング
(URL最終確認:2024年11月25日)
【※5】ベビー・ピー
(URL最終確認:2024年11月25日)
【※6】芸術準備室ハイセン維持のための寄付ページ
取材後に水道工事費用の目標金額は無事に達成。ただ引き続き運営資金の支援は募集している。
(URL最終確認:2024年11月25日)
1991年生まれ
作家/演出部・大道具スタッフ(現在は一般会社員)/芸術準備室ハイセン発起人
京都精華大学芸術学部メディア造形学科映像コース中退
2010年より京都精華大学演劇部劇的集団忘却曲線やすごい劇団、龍渓下連合に所属しながら京都市内を中心に演出/脚本/舞台/映像/役者などで活動、2014年よりSPAC-静岡県舞台芸術センター創作・技術部に所属し大道具製作や演出部・舞台監督を経験、国内外のクリエーションに関わる。2018年よりフリーランスとなり、引き続きSPACに期間契約の他、城崎国際アートセンターへのインターン、愛知県芸術劇場の主催事業、鳥の劇場「鳥の演劇祭」の設営など全国各地へ赴く。小劇場界隈にも豊かな創作環境を実現させたく2019年より滋賀県大津市に「芸術準備室ハイセン」を発起する。
1994/05/01 京都市出身
京都精華大学 芸術学部メディア造形学科 2016年度卒業生。
版画を専攻し、木版画ゼミで主にコラグラフ作品を制作する。
大学入学と同時に精華大の演劇部「劇的集団忘却曲線」になんとなく入団し演劇に関わり始めた。
卒団後しばらくフリーの制作スタッフとして活動を続け、ジャンルを問わず多くの舞台作品に携わる。主に過去にベビー・ピー、とりふね舞踏舎、トイネスト・パークなどの公演に参加。現在は芸術準備室ハイセンで毎月クロッキー会「センにおどる」を主宰している。
Instagram・Facebook:treeandbell
美術・舞台芸術批評。京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員。ウェブマガジン『artscape』と「京都新聞」にて美術評を連載。近刊の共著に『百瀬文 口を寄せる Momose Aya: Interpreter』(美術出版社 、2023)。「プッチーニ『蝶々夫人』の批評的解体と、〈声〉の主体の回復 ─ノイマルクト劇場 & 市原佐都子/Q『Madama Butterfly』」にて第27回シアターアーツ賞佳作受賞。論文に「アメリカ国立公文書館所蔵写真にみる、接収住宅と「占領」の眼差し」(『COMPOST』vol.03、2022)。共著に『不確かな変化の中で 村川拓也 2005-2020』(林立騎編、KANKARA Inc.、2020)、富田大介編『身体感覚の旅──舞踊家レジーヌ・ショピノとパシフィックメルティングポット』(大阪大学出版会、2017)。
(取材:高嶋慈、+5桐惇史、構成:高嶋慈)