戦後日本の現代美術史において、2000年代から東日本大震災を挟んだ、2020年のコロナ禍までの約20年間は、後に地域アートプロジェクト、地域芸術祭が隆盛した芸術祭の時代と言われるようになるかもしれない。そこで初めて現代美術家は、美術館やギャラリー、いわゆる「ホワイトキューブ」に来る美術関係者だけではない、外部の人々と接触するようになる。もちろん、ハプニングやイベントのような突発的な形式で、街中でパフォーマンスをすることはあったが、見る人は限定されていた。ここまで日本各地で、ほとんど鑑賞されたことがない現代アートが展開されるようになったのは初めてのことだろう。
その中で今回、取材するAntenna(アンテナ)はその最初期に活躍した最も若い世代のアーティスト・コレクティブであった。当時最先端であったCGを駆使した映像作品やインスタレーション、アーティストランのスペースの開設、NPO法人の設立などその活動は幅広い。Antennaとはどのような団体だったのか?
今回の「隣人と語ろう」では、現在もそれぞれのスタイル、地域で独自のアート活動を続けるAntenna創設者の田中英行(美術家/Qe to Hare Inc. 代表)と市村恵介(美術家)に、元Antennaのメンバーでもある矢津吉隆(美術家/kumagusuku代表)が話をうかがった。
そもそもAntennaはどのような形で結成されたのか?
田中「まず、僕たちは京都市立芸術大学出身なのですが、1年の時に総合基礎実技という授業が前期にあったんです。美術、工芸、デザインなどの専攻は関係なく、いろんな先生が、芸術の根源となる基礎を教えてくれました。その総合基礎のあと、学生は各専攻に分かれ素材や技法などを学び自己探求を始めます。僕はデザイン専攻でしたが、総合基礎実技が終わってデザイン基礎の授業が始まったら、また受験時代に戻ったような課題が課されるようになり、本当はもっと今学ぶべきことがあるんじゃないか、という問題意識を持つようになりました。そして僕と同じような意識を持ったメンバーが集まったと記憶しています。」
京都市立芸術大学の総合基礎実技は、戦前のドイツに出来た造形学校バウハウスの教育システムに影響を受けていた。バウハウスはそれぞれの工房に分かれる前に、共通の予備課程(基礎課程)があり、そこですべての制作に関わる「形態教育」が行われていたのだ。
田中「それで、なんか違うよな、もっと面白いことをしたいなって当時のメンバーたちと度々話していました。それに加えて僕は映像をやりたかった。当時miniDVカメラにFireWireケーブルをつないで、誰でも簡単に動画がMacで編集できるようになった頃で、みんな動画編集をやっていたんです。ショートショートとか、短い映像で面白いことをやるクリエイターが沢山出てきてました。」
京都市立芸術大学の卒業生の上世代には、ダムタイプやキュピキュピといった、構想設計専攻出身者で、映像に身体表現やオブジェなどを組み合わせたアーティスト・コレクティヴがいたことも、イメージの中にあったという。
田中「2年生の時に、メンバーと絵コンテを書いて撮影して、かなり作り込んだコメディー映画を作りました。それを大学で展示しようとして学内ギャラリーを借りたんです。当初、映像をプロジェクターで投影さえすればいいだろうと思っていたのですが、大学の大ギャラリーが想像以上に広かったこともあって、手前のスペースが余るので映像に関するコンテンツやグッズ、彫刻作品を展示してナンセンスでユーモアのある空間をつくろうということで映像を軸にしたインスタレーション空間を展示しました。」
それが2002年に発表された短編映画『カミーユ』である。その時、たまたま当時国立国際美術館に務めていた、中井康之が講義に来ていた。そして、展覧会を見て高く評価し、翌年の2003年春、大阪の南港にある海岸通ギャラリーCASOで開催される展覧会「NEW-GENERATION 3」に出品しないかともちかけられたという。そして、Antennaは、ベテランのアーティストも多い中、弱冠20歳の頃、大学3年生でデビューすることになる。
矢津「僕は美術科彫刻専攻だったのですが、同学年のデザイン科を中心としたAntennaが、現代アートのギャラリーでデビューしたことに驚きましたし、搬入を手伝いに行ったこともあって、悔しい思いをしていましたね。」
田中「当時の関西のアートシーンではコンセプチュアルアートが主流でミニマルで難解な表現の作品が多かった中、僕らの作品はすごく異質で全然ウケなかったですね。宇宙人のコスプレと、銀色、白のスーツでガスマスクとタンクを背負った人々が宇宙人を連行するパフォーマンスとか、ピンク色の宇宙人の排泄物を床に撒いたり、やりたい放題のような作風で、周囲との温度差がすごかった(笑)。」
Antennaという名前は、その時の宇宙人や見えないものと交信するようなイメージから取られている。展覧会終了後、田中らは中井に、「自分たちはデザインやアートという枠を関係なしに創造しようとしているけどもアートって何でしょうか」と聞くと、『君がアートと思えばそれがアートだし、アートと思わなければアートじゃないんだよ』と言われたという。
田中「僕は中井さんの言葉にかなり大きな影響を受けました。当時、現代アートのあり方に違和感がありましたが、自分が思うアートのあり方を探求して良いのだと確信した瞬間かもしれません。この時から「アートとは?」という大きな問いがはじまり今に続いています。学生時代の我々も何かしら新しい可能性、ジャンルを探求したい!という強い欲求もあり、アートとデザインなどのジャンルを越えた人間の創造性みたいなことに興味があったんです。だからデザイン科だけど、アートを超えたものを表現したいと思っていました。」
大学2年生の頃、矢津と田中は、学園祭のエントランスのデコレーションセットを一緒につくる機会があり、そこでお互い満足がいく結果であったこともあってよく話すようになる。当時、矢津も映像制作をしたり、漫画を描いたり、既存の彫刻に対して疑問を持っていた。そして矢津も、同じく既存のデザインからはみ出して映像制作や空間表現をしているAntennaに加わることになる。しかし、そのまま順風満帆にいくわけではない。
田中「最初の段階、映像をつくって学内で展示するまではよくある話ですけど、3年生の時に結構重要な展覧会が決まり、就活の大切な時期に展覧会に人生の全てを捧げるか⁉と、決断を迫られた気がしました。そんな状況の中で就職したいからとメンバーは半分以上が去りました。」
そして、2作目にとりかかる。それがAntennaの初期の代表作となる『囿圜 yu-en』だ。
田中「考えられない規模の映画をつくろうという話になり、例えば『ロード・オブ・ザ・リング』のような、当時学生ができる規模やクオリティーをはるかに超えるものをつくってやると、それぐらいの意気込みがありましたね。だからもっとメンバーが必要だということで、たくさんの人に声をかけていました。目標設定が高すぎて完成しないままもう20年ぐらい経過してますね……。」
しかし、芸術大学に入って来た学生は、全員個性があってそれぞれやりたいこともある。だから、そのような大きな作品をつくるには、メンバー全員が共感出来る明確な軸やコンセプトを決める必要が出てくる。そこで日本をテーマにすることになった。
田中「日本とは何か?ということについて、むちゃくちゃリサーチした記憶があります。国、宗教、歴史、民族とは?我々が当たり前のように受け取っている「日本」というものをもう1回ちゃんと紐解いてみようと。歴史の中で神道や仏教がこういう風に出来上がったとか、神話、古神道、山岳信仰とか、そういう日本のオリジンをリサーチしていました。京都で学び、拠点にしていたのも大きな理由ですね。本当にいろんなものを調べて資料を集め、それをベースに映像化しようとしました。」
そして、矢津が脚本のベースを書くことになる。それは日本そのものをテーマにした架空のテーマパークを舞台にしたものだった。そこでは、各地で消えゆく日本の歴史文化が、保存のために一か所にまとめてつくられ、各時代の生活をする住民もいる一大遊園地で、地表の隆起のため外界と遮断されることになったが、そのままその生活をし続けているという設定らしい。
矢津「テーマパークのキャラクターを設定しようということになって。『囿圜 yu-en』という作品の舞台がテーマパークなので、そのキャラクターは絶対いるはずだと。それが廃墟になるという200年後ぐらいの世界観では、それが神様になっているんじゃないかっていう想定をしたよね。」
田中「日本の伝統も考えつつ、現代人の資本主義的な生き方が、空気みたいに当たり前になっている気持ち悪さを表現したいと話し合っていたと思います。人生の意味や幸福も映像作品を通じて問いたかった。テーマパークやキャラクターに酔いしれる熱狂的な空気、あの感覚は別にテーマパークがなくてもこの現代、消費社会にも発生しているんじゃないかと。だから設定の中にキャラクターを持ってきたら我々のコンセプトを表現できるのではないかと思ったんですね。」
そこで日本の神々やシンボルを研究し、生まれたキャラクターがネズミに似た黄色い肌をした「ジャッピー」というわけだ。さらに、演技が得意なメンバーが俳優となるなど、本格的な映画製作をしていった。
田中「結構大きなモブシーンも撮りました。20人ぐらいに鎧着せて槍でワーッてグランドを全力で走るのを撮影したり、多くの人の協力が必要でしたし、小さい大学なのでAntennaは何か面白いことやっているなという空気が大学全体にあったと思います。スケールを超えて面白いことをやることで関わりたい人がどんどん現れました。そして協力してくれる仲間が仲間を呼んで、みんなで燃え上がるように創作に全エネルギーを注ぐみたいなことが起こっていました。」
さらに、滋賀県内の映像制作を支援している「滋賀ロケーションオフィス」の協力を得て、彦根城で撮影したり、キャンプ場を借りてキャンプファイヤーの周りで何十人もの人々に日本の祭りをアレンジした奇妙な踊りをしてもらうなどをした。何人もの仲間や後輩に手伝ってもらうことにより、メンバーのプロジェクトマネジメント能力が飛躍的に向上したという。
矢津「3回生の冬に大学外にスペースを構えたのも大きな決断だったよね。そういう場所があると、学生の特性上、人が集まってくるんで。僕らは作業が多かったんで、ひたすら手伝ってくれる人たちが必要だから、後輩とか同級生とか放課後に集まってきてくれて一緒に作業してつくるのを本当に昼夜問わずやっていましたね。」
それはさながらスタートアップのような熱気だったが、異なるのは全く金銭的リターンが得られないことだった。だからこそ純粋なエネルギーでものをつくれたともいえるが、壮大な構想の映画であったがゆえに、完成しないまま卒業を迎えることになる。田中は大学院に進んだが、矢津は進学せずにアルバイトをしていて、先が見えなかった。その中でAntennaとしては映像制作の仕事を請け負うようになる。
田中「自分達の世界観を深め、満足のいく良いものを作りたい、アートだけに世界を閉じていてはいけないという思いもあり、そういう中でクライアントワークの仕事もしていたのは、未来に繋がる可能性のあるものはなんでもやるという貪欲な気持ちや熱量がメンバー内にあったのだと思います。」
先の見えない長編映画の編集作業に限界が来ていたのもあるという。そこで2004年、劇団「衛星第五長谷ビルのコックピット」に参加し、そこに出演していた俳優からの依頼で、ROSE RECORD所属「RAYMOND TEAM」のミュージッククリップを2本制作した。それらの作品を、当時NHKBS2で放送されていたデジタルアートのアーティストを発掘する番組『デジタル・スタジアム』【※1】に応募し、出演することになる。その時、プロデューサーであった株式会社ピクスの寺井弘典など、東京の制作会社やクリエイターとつながり、当時主流であったSNS、mixi(ミクシィ)を通して交流を重ねることで、クライアントワークを増やすようになった。
その後も田中は、公募には出し続け、そこで選ばれたのが大阪府現代美術センターが主催し、現代美術作家のヤノベケンジが審査員を担当した第2回現代美術コンクール「ヤノベケンジ 森で会いましょう」だった【※2】。
田中「その頃、手当たり次第、いろんな公募やコンクールに大量に応募していました。年間100本くらいあったのではないかと思います。」
大阪府立現代美術センターの現代美術コンクールは、現代美術界で活躍するアーティスト1名を審査員に迎え、単独審査によって新しい才能を発掘することを目的としたもので、入賞作家は、審査員アーティストとのコミュニケーションを通して、作家としての思考力や技術力を鍛錬するプロセスに参加し、その成果を展覧会にて発表するという趣向になっていた。第1回目は森村泰昌の審査によって選ばれた作家の展覧会が開催され、第2回目はヤノベケンジが審査員を担当。そして、「未来の物語」をテーマにした作品プランが審査の結果、見事入賞したのだった。
田中「選ばれたから一度会いましょうとなり、ヤノベさんと初めてのミーティングをしたところ、提出してもらっているプランではまだまだ不十分だと告げられました。当時のヤノベさんは、極限まで追い込んだ先に見える表現の可能性を探求されていたのだと思います。『作品プランそれで良いと思ってる?本当に良いと思える展示をもう一度考えてくれる?』等、プランの甘さや、イメージの弱さ、作品の強度の足りなさなど鋭い質問やコメントを沢山受け取りました。」
ヤノベは、その後、京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)に勤務し、共通造形工房ウルトラファクトリーのディレクターに就任。ウルトラアワードを創設し、学生のプランに対して審査し、制作指導をして展覧会をつくるという方式を取り入れるが、原点にはこのコンクールがある。田中らは、受賞したにも関わらず、採用されないかもしれないと思い、対応を迫られる。
田中「焦った我々は沢山話し合って、プランを練り直し映像の世界観やコンセプトをもっとリアルに展開しようと、大規模な祭りや神輿を作るアイディアを出しました。そして、プランを持っていくと、ヤノベさんも温めているアイディアがあったようで、『これや!』と、アイディア対決みたいになりました。『森をつくって《トらやん》と闘うんや!』と一緒に展示空間を作る計画になっていきました(笑)。」
ヤノベは、田中らにブラッシュアップを求めるだけではなく、自分もアイディアを出して、実質的な二人展を企画したのだ。このコンクールの趣旨としては、制作のアドバイスまでは入っていたが、共同の展覧会をするところまでは求められていなかった。しかし、ヤノベは自分が出ることによって、Antennaの価値も高まると思い、そのためにはそれが成立するレベルを求めてきたのだった。
田中「ヤノベさんのアイディアと我々のアイディアを混ぜることになり、ヤノベさんも万博とか祝祭的な場にすごい想いがあって、我々も日本の歴史や祝祭性、神聖、人々の熱狂などその世界観との共鳴がある中で、アイディアはどんどん飛躍し、でっかい山車みたいな構造物をつくろうということになりました。それで木で何かをつくるなら、市村に相談しようという話になりました。」
当時の映像を主体としたAntennaの案では、彫刻としての存在感や完成度がヤノベの作品と対峙したときに弱いという指摘があったのだ。
矢津「それで、ガチでつくるんだったら、僕ひとりじゃ無理だってなったんです。それで今まで、撮影のセットなどの制作を手伝ってもらうなかで精度の高いものをつくってくれていた市村をメンバーに加えたらいいんじゃないかとなって、会いにいったんです。」
市村「僕はその時、大学は卒業していて、2年間岐阜県の高山にある木工の学校に通っていました。家具の勉強をしていたんですけど、まずは技術の勉強がしたくて、意識は彫刻の延長線上で家具を捉えていました。」
市村とは離れていていたこともあるが、その間も何度か会っていたという。
田中「20年も経ってまだうまく言語化できないけど、カテゴリーを超えた人間の創造性とその可能性において、何か信じているものがあり、それを市村とは当時から共有していた記憶です。それで『100万円の予算で作品が作れるから、一緒にやろうぜ!』みたいな(笑)。このときは飛騨まで車を飛ばして会いに行って結構熱く語り合った記憶ですね。」
ちょうどいいことに、飛騨高山には祭り屋台があった。
市村「高山祭というものが春と秋にあるんですけど、祇園祭の山鉾みたいなものが、向こうでは屋台という名前で町を練り歩くんです。それがちょうどプランニングしている作品のイメージに合ってたんです。」
そして、映画でつくっていた世界観を、現実の場にもってくるということで、木の彫刻や装飾、追加の映像や編集などのチーム分けをして制作が開始された。それがとにかく大変だったという。
市村「僕も学校ではできないので、さぼれる授業はさぼって学校に行かず、先生の工場を借りて朝から晩まで作業をしていました。」
京都の事務所のスペースも足りなくなり、隣の工場の二階も借りて作業にあたった。これらの一連の制作や経験が転機となる。
田中「展覧会をつくりながら、ヤノベさんのアーティストとしての生き方、哲学、プロジェクトマネジメントなどを実践的に学びました。プロのアーティストならこうあるべき、これをやった方がいいといったような。」
それはかなり具体的で細かいもので、プレスリリースにのせる作品写真やアーティスト写真の重要性、プレスリリースの書き方、メディアに対する対応など、ヤノベが培ってきた具体的なノウハウにまで及んだという。その間、ヤノベのスタジオで作業したり、ヤノベもAntennaのスタジオで作業したりするなど、まさにコラボレーションの展覧会となっていく。また、大阪府現代美術センターのキュレーターであった寺浦薫をはじめ、スタッフが全員でサポートしていった。Antennaはそれに応えるべく、開幕ギリギリまで制作を続けていたという。そして、2006年3月4日〜3月18日まで、「Antenna + ヤノベケンジ 森で会いましょう」が開催される。今までの実写とCGを組み合わせた映像だけではない、お社やおみくじなどの仕掛けもついた、大掛かりなインスタレーション作品となった。
矢津「僕らは『森で会いましょう』をやったことによって、ちゃんと美術業界にデビューするような形になりました。作品がそこで売れたりすることもあったし、その後、コマーシャルギャラリーに所属することにもなりました。」
そこで、大学卒業後の映像制作プロダクションのような活動から、Antennaは、現代アートのフィールドを主戦場にして表現を行っていくことになる。
「森で会いましょう」展が開催された2006年の秋、茨城県取手市を中心に、1999年から市民と取手市(行政)、東京藝術大学(大学)の三者の共同で行われている、取手アートプロジェクト(TAP)【※3】が開催される。その年は、ゲスト・プロデューサーとして、野村誠(作曲家)、藤本由紀夫(サウンド・アーティスト)、ヤノベケンジ(現代美術作家)の3人が選ばれて、企画が公募されることになった。テーマは、「一人前のいたずら―仕掛けられた取手」【※4】である。
ヤノベは、旧・戸頭終末処理場(下水処理場)を舞台に、新しく創造物を生み出す「仕掛けられた終末処理場―終末処理場プロジェクト」を企画し、若手のアーティストを選出した。そこには淺井裕介、淀川テクニック、カワイオカムラ、國府理、archventer(原田祐馬+増井辰一郎)などに加えて、Antennaも選ばれる。
田中「ヤノベさんとの二人展では、アーティストとして我々はどうあるべきか教わった気がするし、地域の芸術祭として長い歴史を持つ取手アートプロジェクト(TAP)では、TAPに関わる地域の人たちと対話する中で、地域とアートが交わる面白さに気づきました。特に自分たちは祭りや現代社会を反映させるものをテーマにしたいので、映像やホワイトキューブでやっていたことが街に飛び出す面白さもありました。」
市村「それまで映像の中だけで実在しないものを、『森で会いましょう』のときに、本当にあるようなお社をつくって、それまで架空だったものと現実とをつなぎました。あくまでそのギャラリー空間の中で存在していたのが、次はそのギャラリー空間の壁を越えて、現実世界の街の中に出ていきました。フェーズが変わっていったのかなっていう感じはします。」
矢津「取手アートプロジェクトに関して言うと、僕は、ふたりよりは地域を意識してなかったかもしれません。実は作家の尾崎泰弘さん【※5】とAntennaのコラボレーションで、特設ステージを制作したんですけど、その担当を僕がしていて、正直尾崎さんに合わせていくのに必死で。自分の未熟さも感じていましたし、尾崎さんの制作への熱量、姿勢をみて、30歳が目前に迫った当時、自分がこれからどうしていくのか、制作とそのことで頭がいっぱいでした。でもそういう葛藤も含めて、Antennaも自分も、この取手でさらに一歩、進んだ気はします」
現地では1か月くらい民家に寝泊まりしながら、出品アーティストや市民、プロジェクト運営スタッフと寝食をともにすることで、地域とアートが結び付いたときのダイナミズムを知ることになる。また、長年課題であった未完成の『囿圜 yu-en』について、ヤノベから「未完の大作でもかっこいいんじゃないか」と言われ、現代アートのシーンにおいては映画のようなパッケージで見せなくてもよいことに気付く。
ヤノベと開催した展覧会「森で会いましょう」で制作していた、『囿圜 yu-en』の紹介映像が思わぬ形で波及効果を及ぼしたりもした。
田中「『森で会いましょう』のときに、『囿圜 yu-en』のエッセンスを抽出して、その世界観を表現したショートムービーをつくっていました。それが海外の上映会でどんどん上映されることが起きました。」
それは『森で会いましょう』で撮影した5種類くらいのジャッピーが登場する儀式的パフォーマンスをまとめた映像作品で、ドイツのボンで開催されている大規模なビデオフェスティバル「VIDEONALE 11」【※6】に選出される。それだけではなく、図録の表紙になり、メインビジュアルもインビテーションカードも全部『囿圜 yu-en』になるという快挙となった。
田中「『VIDEONALE』は当時、世界的にも大規模なヴィデオアートの展覧会で、そこのメインビジュアルになったことで、憧れだった美術館で上映されたり、他にもヨーロッパやインド、アジア各地で上映されました。同時期に別のミュージックビデオも制作していましたが、そちらもロンドンや韓国等、フィルムフェスティバルで上映されその年の『映像作家100人』にも掲載されました。」
2007年には、若手の登竜門的存在であった「第10回 岡本太郎現代芸術賞展」【※7】にも入選。そのような自分たちが考えたコンセプトが、アートシーンで評価されたという達成感と、「未完のプロジェクト」として『囿圜 yu-en』をリアルな現場で展開するのもひとつの方法であるとヤノベに示唆されたこと、取手アートプロジェクトで得た地域での手応えもあって、より地域の芸術祭に深く入り込んでいくことになる。
一方で2007年から矢津は、Antennaを脱退して個人での活動を開始していた。
矢津「取手アートプロジェクトでは、次世代で活躍するような同年代のアーティストが数多く参加していたんです。尾崎さんと一緒に働いた影響もありますが、周囲のアーティストがひとりで力のある作品を作っているのを見て、焦りや葛藤がありました。自分は「Antenna」のひとりとして卒業後もやっていたのですが、その名前がなかったら、自分は何ができるんだろうって。」
取手アートプロジェクトの終了時期に始まった、takuro someya contemporary artでのAntennaの個展「アンテナ|ジャッピー来臨」【※8】の影響も大きかったという。
矢津「取手で色々悩んでいる時に、コマーシャルギャラリーでの展示があって、そこにはアーティストとして生きていく王道の道もあるんだと再認識させられて。ますます自分ひとりでもやっていけるようにならないとと思う気持ちが強まり、2006年末で脱退を決めました。」
Antennaを離れた矢津は、個人の活動を開始。アイデンティティや作品のテーマを模索しながら、個人の活動を続けていく。矢津は改めて個人で活動しながら、その大変さを感じる一方で、自分がAntennaを抜けることには意味もあったのかもしれないと回想する。
矢津「グループにいるしんどさも正直あったと思います。僕がいた頃は、田中と僕が企画を考えることが多かったんですけど、もちろん意見がぶつかることもあって。特に当時の僕は、作品としてのクオリティとかをもっと追求して、いわゆるアーティストとして、王道のところで勝負していきたいという気持ちもありました。一方で田中はもっと広がりを求めていたように思いますし。そのあたりの考えのズレはありましたし、田中も同じようなことを思っていたんじゃないかなと。だからこそ逆に自分が抜けて、Antennaはさらに僕の知らない方向に加速していったんじゃないかな。」
田中と市村は、矢津の脱退後、海外も含めて、地域の芸術祭やアートプロジェクトを飛び回る日々を送ることになる。
田中「学生時代は友人たちを巻き込んでいましたが、我々としてはいかに周辺の人々を巻き込むかや、リアルの場で地域の人たちと関わることに意義を感じていました。アートの限界を超えたいという思いが初期からずっとあるので、地域の芸術祭ならそれが可能なんじゃないかっていう期待に加え、楽しさや面白さがありました。」
しかし、あまりに地域の芸術祭が乱立し、費用も非常勤講師や助手で得たお金を持ち出すような日々で、体力的にも金銭的にも疲弊していく。もともと大地の芸術祭や瀬戸内国際芸術祭、あるいは横浜トリエンナーレやあいちトリエンナーレ(現・国際芸術祭あいち)などの国際的な芸術祭を開催できるような潤沢な予算がある地域は少なく、アーティストの労働力や金銭的な持ち出しによって成立している側面は指摘されていた。その問題が徐々に参加しているアーティストにも圧し掛かっていく時期でもあっただろう。
市村「僕たちが疲弊したこともあるし、地域のアートプロジェクトというけど、この関わり方だと、地域に何も残らないと思うようになっていきました。」
アートによる地域創生や経済活性化が叫ばれ、行政がアートにお金を投じるようになったことは大きいが、それが実効性のあるものであったかは難しい。
田中「僕らはアートを通じて社会や地域と向き合うことの限界を、いろんなプロジェクトに関わる中で感じ始めていました。」
また、地域で自分たちのアートを表現するにあたり、『囿圜 yu-en』の世界観をベースに、地域の歴史を組み合すような方法がとられていたが、特定の地域を批評するような、今日ホワイトキューブで行われるような方法はとれないという問題も起こる。
田中「ジャッピーというキャラクターの説明も、ジャップの造語のことは言わずジャパン×ハッピーとだけ伝える場面が多かったです。批判的でセンシティブな表現は地域にフィットしないことが多いので、地域の方々と話す中でポジティブな価値の発見を、地域の人たちと一緒に目指したいなと市村とは話していました。」
当時、アートプロジェクトに参加していた他のアーティストはどうだったんだろうか?
市村「僕らはチームで動いているから、ちょっと引いてみることができる。ほとんどのアーティストは、個人で参加しているので、期間中に作品をつくって完成して帰らないといけないから、その点では常に自分以外の視点があるから俯瞰的に捉えやすかったのかもしれません」
田中「それから、元々アートをただ盲信することには疑いがあって、信じたいが疑いもあるみたいな状態でアーティスト活動をしていたと思うし、どこかしら芸術祭の構造ってこれで良いのか?とか、アートワールドの違和感などを結構頻繁にチーム内で議論していました。」
矢津「オルタナティブ性みたいなものも含めて、Antennaは今思えばだけど、珍しい動き方をしていましたよね。自分たちで全部つくらず、その都度、必要な人の手を借りてつくっていくような体制の敷き方とか。そういうのがもしかしたら地域ではまっていったのかもしれません。」
2011年には東日本大震災が起き、地域アートプロジェクトや芸術祭の形も少しずつ変わる。Antennaも、一過性ではなく、既存の社会システムの中でアートを組み込んでいくような方向に進んでいくことになる。
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関連情報
Antenna(アンテナ)
2002年結成、京都を拠点に活動するアーティスト・コレクティブ。日本の歴史と文化より着想し、多様なメディアを用いて創作活動を行う。結成からメンバーは入れ替わりながら現在は、コアメンバーの市村恵介と田中英行、他に絵師・小鐵裕子らによって構成される。主な展覧会に、「Power, Where Does the Beauty Lie」SOMA美術館(ソウル、2013)、2012「文化庁メディア芸術祭香港展2012 “PARADE”」(香港、2012)、「六本木アートナイト2012」(東京、2012)等がある。
詳細な活動歴はこちら。
(URL最終確認2024年6月21日)
株式会社Qe to Hare
田中が代表を務める企業。クリエイティブおよびアートを軸に事業展開している。
(URL最終確認2024年6月14日)
注釈
【※1】デジタル・スタジアム
(URL最終確認2024年6月14日)
【※2】Antenna × ヤノベケンジ “森で会いましょう”
3/4~3/18会場は大阪府立現代美術センター
以下、artscapeにアートマネージャー原久子の簡易レビューが掲載されている。
(URL最終確認2024年6月14日)
【※3】取手アートプロジェクト
(URL最終確認2024年6月14日)
【※4】取手アートプロジェクト2006「一人前のいたずら―仕掛けられた取手」
(URL最終確認2024年6月14日)
【※5】尾崎泰弘
1959年〜2015年。淡路島在住の現代美術作家。
(URL最終確認2024年6月14日)
【※6】Videonale 11: Festival of Contemporary Video
(URL最終確認2024年6月14日)
【※7】「第10回岡本太郎現代芸術賞」
(URL最終確認2024年6月14日)
【※8】「アンテナ|ジャッピー来臨」takuro someya contemporary art
2006年11月23日〜12月17日
(URL最終確認2024年6月14日)
Qe to Hare Inc. 代表取締役/美術家。1981年京都生まれ。2007年京都市立芸術大学大学院にてMFAを取得。2002年よりAntennaとしてアーティスト活動をスタート、世界12ヶ国45都市、60以上の美術館、ギャラリー、芸術祭などに作品を出展、2017年TOKAS二国間交流事業バーゼル派遣、2019年Qe to Hare Inc. 設立、アーティストの視点から独自の事業を展開しており、現在は地元京都府亀岡市にてホテル・カフェを経営しながら、地方創生に関する様々な事業にも携わっている。近年の主な仕事に、京都大学IMS教育プログラム設計、株式会社サイバーエージェント アートプログラム企画、ヴェネチアビエンナーレ建築展 伊東豊雄 インスタレーション制作など、著書に『L.L.A. BOOK-アート思考を獲得するための10のレッスン-』(emu library、2021)がある
美術家。1979年神奈川生まれ。
京都市立芸術大学彫刻専攻卒業後、飛騨高山で木工を学ぶ。
2005年よりAntennaに加入、多数の展覧会やプロジェクトに関わる中で、誰もがアーティストたり得るとの思いに至り、みんなが生きている活動そのものが美しくアートであると考え、地域活動やワークショップ、アトリエなどを主催している。
滋賀県大津市の北部に位置する「湖西」エリアにて地域団体「一般社団法人シガーシガ」を立ち上げ、ローカルにおける地域活動に取り組む他、市村美術として建築にも関わり、人が住み、生きる、場をつくる活動にも取り組む。
1980年大阪生まれ。京都市立芸術大学美術科彫刻専攻卒業。京都芸術大学専任講師。京都市立芸術大学芸術資源研究センター客員研究員。京都を拠点に美術家として活動。作家活動と並行してオルタナティブアートスペース「kumagusuku」のプロジェクトを開始し、瀬戸内国際芸術祭2013醤の郷+坂手港プロジェクトに参加。2017年からは美術家山田毅とアートの廃材を利活用するアートプロジェクト「副産物産店」を開始。主な展覧会に「青森EARTH 2016 根と路」青森県立美術館(2016)、「やんばるアートフェスティバル」沖縄(2019)、「アブソリュート・チェアーズ」埼玉県立近代美術館、愛知県美術館(2024)など。2022年からはビジネスパーソンを対象とした実践的アートワークショップ、「BASE ART CAMP」のプロジェクトディレクターを務める。
文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。
アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人。
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。
美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。