アートを見る機会の中でも展覧会は、もっとも一般的なフォーマットであるが、展覧会図録は、アートをより深く知るためには不可欠なものとして存在している。しかし、展覧会図録がどのようにしてできているのか、その内情を知る人は少ないだろう。今回、図録制作を構成するデザイナー、キュレーター、印刷会社という3者に、もうひとつの展覧会とも言うべき図録の魅力や制作者の関係性をそれぞれの視点から語っていただく。
最初は、デザイナーの中でも、アートブック全般のデザインに長く携わり、展覧会図録のデザインにおいても多くの美術関係者から信頼と評価を受ける、大西 正一(おおにし まさかず)氏である。アート系の印刷物のデザインの中でも、図録の価値は作品集と肩を並べるくらい高い。当然難易度も高い。だいたいフライヤーやポスターなど1枚もののデザインから始まり、ハンドアウトやリーフレットなどの小冊子を手掛けることになるが、展覧会や書店で販売される図録や作品集に携わるためにはデザインセンス以上に、知識と経験が必要だ。特に図録や作品集は文字やページ数が多く、文字組みの豊富な知識、持ちやすさ、読みやすさなどを含めた造本設計が必要となるが、出版社の少ない関西では機会が少ないという課題もある。
個性的でありながら、読みやすさもしっかり担保している大西氏は、どのようなキャリアを積んできたのか?さらに、その奥に流れる思想を解き明かしていきたい。
「僕はもともと写真家として活動をしていたのですが、京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)の工房のスタッフになった後、佐藤淳先生と知り合いました。佐藤先生は、西洋タイポグラフィの研究と実践をされている方で、とても良くしてくださいました。それで佐藤先生に自分の写真集をつくりたいから、デザインを教えて欲しいと軽い気持ちでお願いしたら怒られてしまって(笑)」
佐藤淳は、タイポグラフィー研究でよく知られており、関西でタイポグラフィーを体系的に教えられる数少ないデザイナーのひとりである。大西だけではなく、佐藤の教え子で活躍しているデザイナーは多い。佐藤は、当時南港にある近代建築、商船三井築港ビルで、夫人である故・佐藤啓子氏(木津川アート創設者)とデザイン事務所を構えていた。
「佐藤先生が、ちょうど私塾(アカンサス・タイポグラフィ・スクール)を立ち上げられるタイミングで、通ったらどうかとお話をいただいたのです。それで毎週日曜日に、6時間くらいの講義を約半年受けました。それは「文字」に関して活字が生まれる前の根源的な話から、グーテンベルク以降、活字がどのように形を変えて現代まで繋がってきたのかを知る体系的かつ実践的な講義でした。とてもスリリングで楽しかったのをよく覚えていますし、アカンサスは今も自分にとって立ち返る場としてあり続けています。アカンサスと出会ったのがデザインを近くに感じる大きなきっかけでした」
「一度もデザイナーを目指したことはない」という大西は、そこから友人のDMなどを作り始める。「技術を学ぶことで、実際に使ってみたくなったんです」と大西は言う。そして、ひとりで作業することが好きだったこともあり、気が付けばデザイナーになっていたという。図録を制作するようになって自分が撮影できるので、撮影しながらページ構成も考えることができるので効率が非常に良いということに気付く。
写真を撮影してデザインをするというデザイナーには、関西では豊永政史氏(京都精華大学教授)がいる。豊永は、京都市立芸術大学でヤノベケンジと出会い、ヤノベの初期の作品《アトムスーツプロジェクト》(1997-2003)の撮影を行い、作品集『YANOBE KENJI 1969-2005』(青幻舎、2005年)などもデザインするようになった。豊永の教え子に、写真家として表恒匡、デザイナーとして見増勇介らがいる。それぞれ活躍しているが、両方できるタイプは珍しい。「写真とデザインを切り分けて考えられなくなるので、良いこともあれば悪いこともある」と大西は言う。そして、規模が大きくなれば後輩に振ったりしていった。
「そこから徐々にデザインに入っていくようになりました。入っていくとやっぱり深く知らないとできなくなってくる。タイポグラフィ、デザインの実践だけでなく、印刷そのものも知る必要がありました」
そして、大西は2008年にデザイナーとして活動を始める。当時はちょうどツイッターなどが登場しはじめ、情報の主流はインターネットになることはわかっていた。だから紙媒体ならではのことを考えざるを得なかったという時代の流れもある。当時のように、ウェブなんか紙なのか、という二者択一の議論はもうないが、「紙を使うときは、その特性を使った方が面白くなるし、もうひとつレイヤーを付け加えられる」と工夫するようになったという。
いちばん最初に手掛けた図録に近いものは、小出楢重(こいでならしげ)の地図だという。小出楢重は、戦前に活躍した洋画家だが、谷崎潤一郎の小説の挿絵を描いたり、随筆を書いたり、多方面に活躍した。その地図は、古地図を使って小出楢重に足跡をたどるものだが、そこに年表が入れられている。
「地図は、天から地を見下ろしてそれぞれの位置を測るものですよね。ここからここまでの距離はどれぐらいだろうと、縮尺を考えたりするものなのですが、小出楢重さんがどのように大阪の街で過ごされていたのかがわかる年表を入れることによって奥行きを与えられないかということをキュレーターの井須さんとともに考えました」
つまり、空間の中に、時間軸を加えて、空間上に動きを与える4次元的な表現を試みている。さらに裏面には、小出の絵が、どの場所からどこを向いて描かれた風景なのか、記号で示されているという。この頃から何かひとつ意味を加えたいという志向は一貫している。
そして、現代美術を中心としたアートの世界の印刷物やカタログをつくってきたが、赤々舎が京都に移転したタイミングで、写真集も手掛けるようになったという。赤々舎は、多数の写真集を刊行する出版社として著名だが、もともと青幻舎の編集長であった姫野希美氏が、独立して立ち上げたものだ。そこで最初にデザインしたのが『自然の鉛筆』である。
『自然の鉛筆』は、1843年から46年にかけて出版された、世界最古、最初の写真集で、ウィリアム・ヘンリー・フォックス・トルボットが自身の発明したカロタイプで撮影したことで知られている。トルボットは、当時、イギリスで、自然科学全般の知識を有した多くの貴族階級のひとりであった。1839年にフランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲールがダゲレオタイプという、銀板写真法による実用的な写真技術を発明したとされるが、トルボットはすでに1835年の時点でネガ・ポジ法による、複製可能な写真技術を発明していた。『自然の鉛筆』はそれを証明する意味合いもあったのだ。
「青山勝さん(現・大阪芸術大学教授)という写真の研究者がいまして、僕にとっては兄のような方です。彼が個人的に翻訳していて書籍にしたいという相談を受けていたんです。それで姫野さんに相談したら作ろうということになったのですが、かなり古い本なので、単に翻訳しても今の人にはかなり遠く感じるかもしれないので、トルボットに関係のある現在の研究者や写真家に参加してもらった方が良いのではないかという提案を、おふたりにしました。」
そこで現在の研究者として、青山勝、マイケル グレイ、金井直、アーティストとして写真家の畠山直哉、彫刻家のジョゼッペ・ペノーネの論考が挿入されることになる。マイケル・グレイは、元トルボット・ミュージアムの館長であり、トルボット研究の第一人者である。マイケル・グレイの参加により、『自然の鉛筆』の美しい画像が手に入ることになった。一方畠山は、トルボットの住んでいたレイコック・アビーで展覧会のためにレジデンスをしたことがあり、トルボットに詳しく、マイケル・グレイとも旧知の仲ということもあり、『自然の鉛筆』を今日の視点から評価する最高の布陣となった。
赤々舎から刊行された『自然の鉛筆』は、両面が表紙となっており、左開きがトルボットの 「自然の鉛筆」の写真が並び、右開きは、青山らの論考が縦書きで並んでいる。大西は「この仕事は、「歴史」に対してデザインでどのように向き合うのかを考えるきっかけになりました」と述べる。写真集をつくるためにデザインを学んだ大西は、結果的に世界最古、最初のもっとも著名な写真集を手掛けるようになったことが興味深い。
ただ、印刷物で新しいことをするためには、紙や印刷の知識だけではなく、発注者の理解や印刷会社の協力が不可欠だ。大西は、2013年頃から、千葉真智子(現・豊田市美術館学芸員)と出会ったり、ライブアートブックスの川村佳之氏の協力を得て、様々な印刷の方法を考えていくことになる。
「テーマに合わせて印刷物の姿を変えるっていうのが僕の最初期のイメージしたデザインのありよう」だという。例えば、チラシのサイズがなぜA4なのか、という当たり前とされることも、最初から考えることから始めた。
「もちろん、先行世代、先輩の皆さんも実践されてきたことだと承知の上で、僕の方でも考えざるを得ないと思いました。それが図録の場合、単純な本の形でいいのか、ということになり、テーマにエッジが効いてれば効いているほど、図録も形が変わると思うようになりました。それで、2013年ぐらいから明確に造本設計【1】という言葉を意識するようになったんです」
その当時に作られたのが、キュレーターである千葉との最初の仕事だ。2013年に岡崎市美術博物館で千葉が企画・キュレーションした「ユーモアと飛躍そこにふれる」展には、八木良太や小林耕平、池田晶紀ら7組のアーティストが招聘され、その図録を大西が担当することになる。
ちょうど2013年は、建築評論家の五十嵐太郎氏が芸術監督を務め、2回目のあいちトリエンナーレが開催された年であった。五十嵐が出したテーマは、「揺れる大地―われわれはどこに立ってるのか:場所、記憶、そして復活」であり、2011年に起こった東日本大震災・福島第一原発事故を多分に意識した内容になっていた。「ユーモアと飛躍そこにふれる」展はその関連企画という位置づけであった。社会全体も震災がもたらした衝撃的な出来事の影響をひきずっていたし、キュレーターやアーティストもそれに対応するような状況だったという。
しかし、千葉は一度、アートの鑑賞体験の原点に戻り、「作品と出会うときの面白さは、そのユーモアに触れたときに、思考が飛躍することではないか」という一見ライトに見えて、ラディカルな企画を立てたという。そこに形を与えるために、図録も工夫することになった。
図録の問題点として、展覧会が開催されてからでないと展示風景が撮影できないので、会場で購入できるのは会期終盤のギリギリになってしまうことがある。それを解決するために、大西は千葉と話し合いコンセプトブックを展覧会前に発行し、会期中にビジュアルブックを発行して、最終的に2冊組みにすることにした。そして、コンセプトブックを先に購入した方には、ビジュアルブックが後で郵送されたという。
「この2冊をつくるのであれば、特別な関係性を、何か込められないかと考えました。思考の飛躍というコンセプトと結びつくようなデザインのアイデアとして、製本方法やサイズ、紙がバラバラなのですが、2冊の本の「重さ」を一緒にしました。本の重さを普段意識することはほんとんどないと思うので、手にとった2冊の重さが一緒だと知った瞬間に驚きや飛躍が起きないかなと考えたんです。ただ、印刷・製本はとても難しく、その仕事をきっかけにより印刷そのものや印刷に関わる方々と向き合うことになっていきました。」
では、図録というプロジェクトはどこから始まるのだろうか?一般の書籍とは異なり、判型やページ数などが予め決まっているわけじゃなく、デザイナーの提案や創造性の割合が大きい。さらにデザイナーは、依頼するキュレーター、参加するアーティスト、実現する印刷会社などの複数の意向を調整する必要がある。
「僕の場合、企画の初期段階の頃からお声掛けいただくことが多いように思います。その後の経過もお伝えいただくので、どういうふうにキュレーターの方の考えが変わっていったかなどを知ることができます。その過程でどういうことが大事なのかが、僕の中でも蓄積されていきます。どういうデザインがいいか、形にはまだしていないのですが、頭の中でずっと考えています。並行して一緒に考えている、そのような感覚です」
ひとりでいることが好きだと大西は言うが、強調するのはデザインという実際の手作業の前に、時間をかけて関係者と話し合い、考え続けることだ。
「キュレーターの方と話し合っていく中で積み上げていく。それはアーティストの方々も、その他の仕事でも一緒です。新たに関わる方でも、話していくなかで深く理解していく方が、よりデザインに反映されやすいと考えています」
大西が指摘するのは、キュレーターやアーティストの思考を時間をかけて探り、そこに的確な形を与えるということだろう。ウェブのような運用が重視されるデザインでは、特に運営者の行動を調査する「民族誌的アプローチ」が注目されるようになったが、大西の方法もそれに近い。
「例えば、ある作家さんが8年かけて作った作品を、2ヶ月で本にしなければならない時、その8年の実践や体験を2ヶ月に圧縮して自分自身が感じることができるかと言ったら、そもそも限界がある。だからこちらもできる限りの時間をかけながらどういうところを見られているのか、何を大事にされているのかを掴む必要があると感じています」
では、写真や文字のレイアウトは当然のことながら、図録に関して、具体的にはどのような部分まで担当しているのだろうか?
「ケースバイケースですが、ページネーションに関しては、こちらが組んでみるところから始まることが多いです。もちろん、台割りをキッチリ組まれている場合もあります。どちらが良いというわけではなくて、意図がしっかり伝わることが重要だと考えています。もっと自由に組んで欲しいと言われる場合ももちろんあったりします」
また、図録の判型なども決めているという。
「僕の場合はそうですね。予算との兼ね合いが大きく関係していたりします。話し合ううちにイメージが膨らんでどんどん大きくなりますけど、予算というものがあるからどうしても絞られていく。アイディアをどの辺で線引きできるか凄く大事だと思っています。予算が潤沢でないならないでやり方はありますし。それは本当にアイデアひとつかなと思います」
自身のデザインの在り方について大西は、「翻訳に近い」と端的かつ深みのある言葉で表している。
「このデザインが本当にそのテーマに対して合っているのか、姿形を探っていく、「形」に翻訳していく作業に近いと思っています。だから僕の場合は、テーマに合わせてデザインそのものを変えていくので、自分自身のわかりやすい「型」のようなものはないかもしれません」
たしかに、大西のデザインの特徴というのは一見してわからない。ただし、特徴的であったり、印象に残るものが大西のデザインした図録や本ということはよくあるのだ。
「例えば、文字だけで組むものがあったり、イメージの力を使っていたり、ある時代のデザインの組み方とか、すでに様々な実践が積み重ねられています。その全てを確認することなど到底不可能なのですが、自分が興味を持ったデザインの考え方や構築の仕方は学んでいきました。それが今の自分自身の引き出しになっています」
図録がキュレーターの思考を色濃く表現するものだとしたら、アーティストの作品集はさらにそうかもしれない。その場合はどのように取り組むのだろうか?
「アーティストの方々ともよく話し合います。例えば、新井卓さんというダゲレオタイプという古い写真技法を使うアーティストがいらっしゃるのですが、ある日、作品集をつくりたいとう相談を受けました。彼は震災以降、放射能や核の問題に焦点を当てた作品を作られており、同時にそれだけではなく日々の何気ない風景や身近な人たちのポートレートも撮っておられて、それらをまとめた1冊の本を作りたいという依頼でした。難易度の高い仕事だなと感じたことを、よく覚えています。内容だけでなく、そもそもダゲレオタイプの写真は銀板なので、写真自体が反射しますし、解像度が高いので、どうやって印刷で表現するのかというところから考える必要がありました」
それが、第41回木村伊兵衛写真賞受賞のきっかけとなった新井卓の『MONUMENTS』(フォト・ギャラリー・インターナショナル、2015年)だ。新井は震災以降、光によって物質的は変化を遂げる銀板写真という特性に、放射線とのアナロジーを見出し、福島だけではなく、広島、長崎とアメリカ各地の核のモニュメントを巡る旅に出ている。
最初に手掛けた写真集が、トルボットの『自然の鉛筆』で、ダゲレオタイプの写真集も手掛けているデザイナーは、世界でも大西しかいないだろう。トルボットのカロタイプと比較して、ダゲレオタイプは銀メッキをした銅板に直接感光させるので、解像度は極めて高いが複製できない。その物質的で高解像の写真は、質量をもたず、オリジナルがわからない、デジタル画像とは対極的な独特な質感をもたらしている。その銀板写真がまとっている「アウラ」を維持したままで写真集にするのは極めて難しい。
「ページの構成も、複数のシリーズを、わかりやすく分けるわけではなくて、日々の仕事とともに、淡々と連ねるという内容になりました。新井さんも自分の旅の記録的なことをテキストにしています。写真には、核のモニュメントが写っていたりするのですが、ダゲレオタイプそのものもまたモニュメンタルな存在として新井さんは捉えていらして、それらが重なって時代を超越したある種「お墓」のようなイメージを作ってモニュメントにできないか、それを真っ黒な箱で表現したらどうだろうと考えました。このように継ぎ目のない技法を使って、重量を感じるものにして、逆に開けるとホワイトアウトのような真っ白な本が出てくるデザインしようと思ったんです」
完成した写真集は黒い箱に入っていて、ダゲレオタイプにふさわしい重厚さを感じるものだ。しかし、中を開けると白い表紙のシンプルな構成になる。確かに、ダゲレオタイプのつくるイメージが、現在のデジタル写真よりも強く感じるのは、銀板という物質性に加えて、露光時間が長いために、止まった被写体しか写らないということもあるだろう。墓やモニュメントのアナロジーは正鵠を得たものに思える。「新井さんとよく話し合って作りました。ページネーションをお任せいただいたので、よりよく知らないといけなかった。もちろん、新井さんが気になった点は修正しながら」と大西は言う。
ページネーションを任せられているため、作家だけの表現を超えている部分がある。それは一流の小説家が、翻訳者を選ぶのに似ている。その意味では、アーティストの作品の場合の方が、より共同作業の意味合いが強いのかもしれない。
「展覧会の図録はキュレーターの方が整理されているので、テーマに合わせてアーティストの方々を選択されていて、その選択にも意図が含まれているのである意味では考えやすいです。もちろん人によって考え方や進め方は違ってきます」
では、図録は展覧会の前にすでにデザインが始まっているが、展覧会を実際に鑑賞すれば、その体験はどのように反映されるのだろうか?
「一概に言えないから難しいですけれど、見たことによって理解が深まるのは当然なのですが、あらかじめ想像していたものと近い場合もあります。ただ当然のことながら、作品はやはり展覧会で実際に見て体験することに勝るものはないと思っています」
そこにこそ展覧会と展覧会図録との分岐点があると示唆する。
「展覧会は生で見る面白さがあり、作品の実際の質感やスケール、投げかけてくる情報量の豊かさがありますよね。また、どのような空間でどのように展示されているかもとても重要だったりします。展覧会図録はまた別の考え方、どのような考えでこの展覧会が作られたのかといった思考の方を受け止めていく側面が強いと思います。そして、どのようなテーマで展覧会が構成されたかという写真を含めたアーカイブとしての機能があります」
大西の言うように、展覧会という体験を展覧会図録で味わうことは基本的にできない。ただし、展覧会と関係を持ちながら、展覧会がつくられたコンセプトや背景を強く表すメディアということがいえるだろう。そこにどういう形を与えるのかは、答えはないが、それだけに試行錯誤が続くのだろう。
「図録をデザインするとき、その展覧会が何に根差し、どのような広がりを持っているのかを注意深く理解することがとても重要だと感じています」
一方で、展覧会は短期で終了するが、展覧会図録は残るメディアであり、アーカイブとしての価値がある。その点はどうだろか?
「図録は展覧会のアーカイブとしての機能は常にありますが、よりアーカイブの側面に踏み込んだものもあったりします(これまでにも様々な素晴らしい実践があります)。僕の仕事のなかでアーカイブの側面を強く意識して取り組んだ仕事に山沢栄子さんの図録があります。それは、展覧会のアーカイブというよりも資料が少なく全貌を掴みづらかった山沢栄子さんの仕事そのものをしっかりと残そうとするものでした」
山沢栄子は、大阪を拠点に活動した写真家で、近年、再評価が世界的に進んでいる。日本の女性写真家の草分けと言われており、戦前の1926年にアメリカに留学して写真を学び、帰国後の1929年に帰国、1931年には堂島ビルヂング内で最初の個人スタジオを構えた。肖像写真を専門としていたが、70年代以降、幾何学的な色彩と形態を構成した、抽象的な作品を撮り始めた。
2019年、西宮市大谷記念美術館と東京都写真美術館で巡回展示された「山沢栄子 私の現代」展は、当時、西宮市大谷記念美術館の学芸員であった池上司氏が、7年~8年かけて研究し、展覧会にまで仕上げたものだという。ただし、山沢は、写真集として自身の作品をまとめていたが、掲載されたプリントは捨ててしまっていたらしく、資料がほとんど残っていないので、調査は困難を極めたという。
「池上さんは凄く丁寧にひとつひとつを拾い上げていって、山沢栄子の足跡をたどりに1年間アメリカに行かれたり、時間をかけて調査されてきたものなので、その研究に根差したまとめ方をしようと話し合いました」
一方で、図録のデザインは、山沢栄子というパイオニアの新鮮なイメージがよく伝わってくる。
「表紙に山沢さんのやっていることをまずビジュアルで閉じ込められないかと思ったのです。山沢さんは、《What I Am Doing No.1》(1976)を制作した後に、そのプリントを丸めて、《What I Am Doing No.8》(1980)を作られました。それを布とプリントの質感に近い紙に階層を変えて表紙の中で1枚にしています。これも池上さんの研究あってこそのアイデアでした。アメリカで学んだ即物的に撮る写真からや抽象的なものに至る、山沢さんの自由な態度をひとつに表したかった。70年代に撮られたものだけど、色褪せない力強さを感じて、その積み上げられた実験精神を形として表現したかったんです」
それだけではなく、本の構成にも多数仕掛けをほどこしている。この図録の構成の特徴は、古い時代ではなく、新しい時代から先に紹介していることだろう。
「4章に分かれているのですが、それぞれ組み方を変えました。1章は、『私の現代』という作品をまとめているのですが、まさに現代的な写真表現に通じていると感じたので、ソリッドな印刷にしたのです。色が綺麗に反映されて、今見ても時代が古びてないというところを見せたくて。2章は、山沢さんが組んだ写真集『遠近』を収録しているのですが、その写真集とほぼ同じ構成にしています。1章の『私の現代』(1976)に繋がる凄く重要な作品なので、紙の質感などもなるべく寄せています。3章は、山沢さんとアメリカの関係を探る章で、山沢さんが受けたであろう衝撃を表すためにリズミカルに組むことにしました。4章は、『遠近』以前の写真家としての仕事をまとめたものなので写真が目にすっと入ってくるようにマージンを広めにとっています」
山沢栄子は、自身の仕事をプリントやネガではほとんど残さなかったが、写真集という形で表現を残した。70年代~80年代の写真は、現代写真にも通じる抽象性やコンセプチュアルな試みになっているが、山沢が戦前に大阪の新興写真から影響を受けていた可能性もある。図録、過去を継承しつつ、現代にも通じる新鮮な表現を試みた山沢の再評価を進める貴重な資料であると同時に、「写真集の写真集」という意味合いもあり、新たな価値を帯びている。
大西の話を聞くことで、キュレーターやアーティストとの時間をかけた関係性が見えてきた。それでは、印刷会社とはどのような関係を築いているのだろうか?一説では、大西の要望を考えるチームが印刷会社にあるという。
「仕事を重ねていくなかでお互いの理解が深まっていたりするので、大きな方向性だけお伝えして、逆に紙などをオススメいただくこともあったりしますし、造本方法の相談もしたりします。様々な印刷所ともお仕事をご一緒しますが、ライブアートブックスの川村さんには大事な場面で助けられていて、刺激をもらうことも多々あります」
そのやりとりは、発注者・受注者を超えた創造的なものだ。
「こういうことをしたいのだけど可能ですか?予算はこの程度です、みたいなところから始まって、そのときに実際にどうすれば落とし込めるのかアイディアが向こうからも出てくることが多々あります。逆に印刷の限界、ここが形になるところだよと教えてもらったものに、さらにデザインを当ていくということもあります。双方でボールを投げ合うキャッチボールの中で形が決まっていくみたいなところが凄く面白いんです。」
それは、ライブアートブックスで特別に見られる関係なのだろうか?
「もちろん、ライブアートブックスだけじゃなくて色々な印刷所さんともお仕事をご一緒しているので、そこだけで特別というわけではありません。ただ、全ての仕事に言えることだと思うのですが、フロントが全てと言いますか、前に立っている人がとても重要です。特に難しいことにも付き合ってくれる人なのかどうかという点でも、川村さんとの関係性は、とても大事に思っています」
ただ、担当が最終的に印刷会社に泊まり込んで仕上げるみたいな話を、武勇伝としてよく聞く。
「僕の場合は、なるべく先回りして、早め早めで意見をもらって、どこで集中力を高めて仕事に向き合っていただくかというポイントをお伝えします。時間的に無理をしてしまうと完成度に関わってくるのでなるべく避けたいと思っています」
たしかに、大西のデザインする印刷は、変型が多く、紙の種類も閉じ方も多様で、様々な特徴のある技法が使われている。そこのこだわりはどこにあるのだろうか?
「コンセプトを形にするときに、やりたいことを増やしてしまうと伝わらなかったりするので、僕はだいたい1冊の本にひとつ、テーマが表れやすいポイントを探します。特徴的な本に感じていただいているのだとすれば、ポイントとした点が特徴としてしっかり伝わっているのかもしれません。図録の場合はコンセプトを形にすることに重きを置きますが、本の場合は流通を含めた全体的な視点で考えます」
大西の話から、デザイナーはキュレーターやアーティストの思想や表現を伝えるための翻訳者であると同時に、印刷会社と連携して的確な方法で形を与える建築家的な側面も見えてくる。いずれにせよ、多くの人の中間に立ち、情報を豊かに整理している。
デザイナーにとってキュレーターとは?
では改めて、大西にとって図録制作を共にするキュレーターとはどのような存在なのだろうか?
「自分が知らないことを教えてくれる存在で、彼らは明確なビジョンや考えを持って展覧会を構築されています。デザイナーとしては、そこを大事に受け取って一緒に歩いていきたいと思っています。知らないこと、普段考えないこと、こういう見方もあるということをキュレーターの方々が教えてくれる。僕にとっては、自分が変化していくチャンスにもなっていますし、新しい言語を獲得して、仕事を超えて自分の成長に繋がっているので、大事な存在です。また、何度か仕事を重ねると自然と親しくなっていきます。親しくなっていくとその人の特性や何を大事にしているのかが伝わってきたりもするので、デザインに反映されやすくなる。それはアーティストの方々も同じです。新たに関わる方も、どういうことを考えているのか知るところから始まります。その方がより正しくデザインとして翻訳できるのではないかと考えています」
最後に図録というメディアとはどのようなものと考えているか、図録の魅力について伺った。
「アート作品は、美術館に収蔵されると形を変えながら、何度も復活するものだと思います。文脈によって見え方が新しくなることもあれば、制作当時のものに紐付けられることもある。切り口次第で見え方が変わりながら、いろいろなことを教えてくれる大事なものだと思います。一方で、展覧会図録の場合は、今、2022年につくったものの考えや技術、時代性が閉じ込められているカプセルみたいなものだと思います。そこが図録の面白いところでもあり、その時代を留める手紙みたいなものだと思っています」
その手紙は、内容を伝えるだけではなく、デザインという意匠と構造も、時代を伝える大きな役割を果しているといえるだろう。さらに大西は、より時間をかけていることとして、文字と文字の間を調整する、スペーシングを挙げていた。大西の図録の特徴としてひとつひとつの図録は、エッジの効いた工夫を凝らしているように見えるが、読みやすさ、可読性が失われていないことがある。印刷物としての個性に加えて、印象が残りやすいのはその点にもあるのだろう。その努力は目に見えにくいが、確実にある。翻訳は、直訳では伝わらない。創造的な要素はあるが、その創造性は伝えるためにある、ということが大西のデザインの根底に流れているものだといえるだろう。
※記事に使用した図録写真は全て、大西さんが自ら撮影、記録したものである。HPには、図録以外の仕事も多く掲載されている(HPはこちら)
注釈
【1】造本設計
本は通常、企画の段階で「どのような本にするのか」は決められているが、出来上がった原稿の量や内容に応じて、実際の出来上がりのイメージを作っていく最終設計のことを造本設計という。
ここで本のサイズや製本の体裁、デザインや紙質など最適な選択肢を選び出す。造本設計がしっかりと作られていると、見積もりも精度の高いものが出てくる。
INTERVIEWEE|大西 正一(おおにし まさかず)
1980年 京都府生まれ。2003年 神戸芸術工科大学視覚情報デザイン学科卒業。2006年 アカンサス・タイポグラフィ・スクール第一期 修了。タイポグラフィを主軸に置きながら、「質感」や「透過性」、「重さ」や「重なり」、「動き」や「時間」など、テーマに合わせてあらゆる要素を取り入れ、コンセプトを立体的に実現するデザインを展開している。アートブックや展覧会図録以外にもロゴタイプや広告、食品に関わるデザインなど幅広く仕事を実践している。
INTERVIEWER|+5編集部
WRITER|三木 学(みき まなぶ)
文筆家、編集者、色彩研究者、ソフトウェアプランナーほか。アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人:https://etoki.art/about独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。