GAKUBI 49 狭間から視る世界〜ウリハッキョから美術を通して〜 <後編>

GAKUBI 49 狭間から視る世界〜ウリハッキョから美術を通して〜 <後編>

在日朝鮮学生美術展覧会
2023.02.06
36

2022年に第49回を迎えた学美の今をとらえる本記事。後編では学美の歴史と変化、そして学美を支えながらアーティストとしても活動を続ける美術教師たちについて言及しながら、これからの同展覧会のありかた、美術教育についても考えていきたい。

第49回学美大阪展のチラシ。各会場ごとに生徒の作品をもとにしたチラシが作成されている

朝鮮美術と学美のあゆみ

学美を考えるにあたり、学美が生まれる以前の、在日朝鮮人美術家の軌跡についても簡単に触れておきたい。
在日朝鮮人美術家が戦後の日本社会で生きていく上で、彼らの中に常にあったのは、作家個人としてどう表現をしていくのかに加え、在日朝鮮人という集団のひとりとして何を表現すべきかという問いであった。事実終戦後、50年代に突入してすぐに在日朝鮮人の本格的な美術家グループ「在日朝鮮美術会」が生まれ、集団としての美術活動が広がっていく。在日朝鮮人美術史の研究家である、白凛(ペク・ルン)氏は、著書『在日朝鮮人美術史1945-1962 美術家たちの表現活動の記録』【※1】の中で、在日朝鮮人が何を描くべきかという討論が50年代後半から激化していき、「民族美術の創造と普及」が始まると述べている。同著によれば、在日朝鮮美術会の中心的人物であり協会の会長でもあった金昌洛(キム・チャンラク)は、「あくまでも自民族のための民族芸術でなければならない」という言葉を残しているという。これは一度失ったアイデンティティを、美術の側面で再構築しようとする美術家たちの挑戦であった。

20世紀の在日朝鮮美術を理解する上で重要なキーワードとなるのは「社会主義リアリズム」である。社会主義リアリズムとは、旧ソ連で前衛芸術に反するものとして生み出された美術様式であり、労働者や貧しい人々の生活に即した題材を「写実的に」描くことが重要視されていた。社会主義リアリズムの名のものとに描かれる作品は、民衆としての理想像を提示する、プロパガンダ的な要素がある。例えば労働者であれば「理想の労働者像」として、時に誇張した描かれ方がなされていた。

一方で在日朝鮮人のそれは、先のような側面を持ちつつ、その理想像を逆に問うような一面もあった。彼らは、日本で暮らす在日朝鮮人としてのリアリズムと、海を超えた先の見えざる祖国の中にあるリアリズムのはざまで制作を行っていた。つまり目に見える民族性と、自分たちにも見えない民族性、それらを重ね合わせ、独自のリアリズムを形成していたと思われる。【※2】

社会主義リアリズムの追求と共に、学美が始まる70年代当時の学生たちが描いていたのは、学校生活を主題とするものはもちろん、在日朝鮮人の帰国事業を描いたものや、出入国法案の反対運動など、在日朝鮮人の具体的な活動に主眼が置かれる作品が多かったという。


ミョンファ先生:学美が始まる前の美術については、昔の図録を見ても、帰国船や、在日朝鮮人の少年団のデモ、本国から送られてきた剥製など、いわゆる朝鮮らしいものがよく作品としてあがっています。私が生徒だった80年代くらいまではずっとそんな感じやったんです。今でもそれは多少あるんですけど、比較すると全然違う感じですね。


70年に学美が生まれた経緯としては、朝鮮美術の文脈からなのだろうか、それとも教育的側面からなのだろうか。


ミョンファ先生:多分両方やったんやと思います。創始者というか、こういうコンクールを自分たちでやっていこうと始めた先生が、金漢文(キム・ハンムン)先生という方で、自分でも制作されていた作家だったんですが、在日朝鮮の子どもにも表現というものを教えたいという思いがあったようで。その先生を中心に確か「美術教育は心を育成する」という理念で始まったんだと思います。そしてそれを普及していこうという意図があって、展覧会という形になったんだと記憶しています。


そうして始まった学美は、80年代に地方の巡回展が始まる。80年代初頭は特別展示施設がなく、美術教師たちがトラックで作品と展示するパネルを各学校に運んでいたが、88年、第17回開催からは、公共のスペースでの展示が始まり、日本人にも開かれた展示となっていく。地方に波及した学美は、開催を重ねながら変化していったという。


ミョンファ先生:学美はほんと、だいぶ変わりました。私が生徒だったときは、見られ方によっては、ちょっとプロパガンダ的な側面もあったんです。もちろん「美術教育は人間教育だ」という理念のもとで開催されていたんですけれども、思想教育的な面も当時は強くて、どちらかといえば堅い印象があったんですけれど、ちょうど阪神大震災以降、ガラッと変わって。

1999年にアルン展という展覧会が始まり、それがひとつの契機になったと思います【※3】。アルン展はそれぞれの場で活躍している在日コリアンの美術家が集い、それが起点となり始まった展覧会で、京都で計3回くらい開催しました。かなり大規模なものだったんですけど、学美の運営に関わる美術教員たちもこれに参加して、自らの表現だけではなく子どもの表現についても思索を深めていきました。アルン展の準備を進めていたちょうどその頃、1995年の阪神淡路大震災がありました。震災の翌年から被災経験を表現した作品群が学美にたくさん出品されて。壮絶な経験を描いたその作品たちは、従来の「見たままを上手く描いた写実表現」ではなく、自らの辛い経験を心を動かして描いた「心の動きをとらえた写実表現」でした。それらがボンと学生美術展の審査の時に出てきて。これらの作品たちとの出会いは教員たちにとっても衝撃的な出来事だったんです。
これまでの作品と、全く比べられないんです。すごく抽象的だったし。だけど、この絵を評価できない美術教育なんて美術教育ちゃうやろと、みんなで討論なって。そこから子どもの心象にもっと寄り添ったというか、子どものリアリズムがそこに出ているものを選ぶ感じになって。そこからぐっと変わっていったんですよね。


そこから、朝鮮学校の美術教育自体も大きく変わったと捉えていいのだろうか。


ミョンファ先生:そうですね。その時の私たちが変わっていったというのもあると思うんです。ちょうどその時は、まだ3世の子も生徒として混じっていたし、先生も2世と3世が混在する感じだったんです。生徒は3世から4世で。そのくらいの時もちょっと過渡期で、昔の歴史はちゃんと学んではいるけれど、今この日本社会で自分たちが民族の誇りを持ちながら、同時に日本に根ざして生きていくっていう、「場所」に対する捉え方にも変化があって、絵がどんどん変わっていったのかもしれません。

学美は21世紀になろうとする時に、在日朝鮮人としての考え方の変化に合わせて変わっていったというが、それはなだらかな変化ではなかったという。

ヒョン先生:学美の審査会場では、かなり長い間、何を評価すべきか、これからの表現とは何なのか、絶えず議論がありました。今に至る過程には、先生同士の意見の衝突もあったんですよ。 

ユンシル先生:私はその時まだ学生だったから、それを知らないんですよ。変化の中の時に、まさに学美生。ちょうど小中生でしたし。でもそういう先生たちの動きは、なんとなく感じていました。

ヒョン先生:議論の中で、私たちのリアルに対する理解が、ちょっとアップデートされたんです。社会主義リアリズムや、目に見えるものに対する写実的な正確性を求めるのではなくて、子供の側から見えるもの、子供自身が紡ぎ出したもの、つまり子供たちの心の中から純粋に出てきたもの、そういうのを一括りにして、学美では「心象リアリズム」と呼び、大切にしています。

中央審査会の様子 授業作品のプレゼン中



生徒たちの心象を理解し、作品に反映させるために、先生たちは何度も生徒たちと向き合い、制作とは何か、ひいては自分の心の中にあるそれは何かを問い続けているという。


ミョンファ先生:言われた通りにやる方が子どもにとっても楽やと思います。でも表現とか制作っていうのはそうじゃないよって。「本当にこれでいいの?」みたいな、自分や社会にとっての異物を作品へ投入する。人に問うじゃないけど、そういうことをやってこそ表現なんだよってことを何度もやり取りしていて。「自由」とかに逃げてしまわないやり方が、たまたま学美っていうコンクールの形式にはまっているというか。だから私たちの美術教育の中で、学美は大きな部分を占めていますね。それは私だけじゃなくて、他の先生にとってもそうだと思います。

ユンシル先生:自分と生徒も当然違う人間やし、理解するために聞き側に回ること、子供たちが安心して表現できる場所を自分たちが作ることが大事やなとよく思います。
そうして子供たちが私たちと向き合ってくれて、毎年作品をたくさん出してくれるんですけど、心象リアリズムを基準にしていると評価しにくい作品も結構出ます。こっち側が評価しやすいとなると、こっちの価値観だけで選べますけど、でもそれだと美術じゃないし、表現じゃないよねと。やっぱり子供たちの方に表現の自由性を置いているので、審査会場でも毎年すごい議論が巻き起こります。だから毎年、評価は難しいんですけど、面白いです。



学美に出品される作品は全て、毎年東京で開催される中央審査会にて決定される。審査に加わるのは、全国の朝鮮学校から集った美術教師たちであり、彼らは約1週間、泊まり込みで作品の選定を行っている。教師たちがそれほど時間をかけるのは、地方審査からあがってきた作品はどれも、生徒の心象が詰まっているからであろう。作品審査についての教師の心境が、朝鮮新報で連載中の「学美の世界」で紹介されていたので、その一部をご紹介する。

“私は学生たちの美術作品を審査をするのがとても苦手だった。審査とは一般的に「査定すること」であるが、自分の物差しでその優劣や等級などを決めていいものかと葛藤と不安で押しつぶされそうになっていた。更に一般的に審査するうえで、「秩序」や「法」に触れるのではとビクビクしてしまっていたのだ。
(中略)
学美の審査では具現化した児童たちの「声」を美術教員たちが耳を傾け、受け止めることから始まる。不器用で刹那的ではあるが立派に表現された作品を「教員それぞれの感性で読み取り共感し推薦する」のだ。学美の審査ではウリハッキョの児童たちの「声」に教員が耳を傾け受けとめることであり、それがさらに教員たちの新しい「声」になるのだ。”
(朝鮮新報〈学美の世界45〉より、「具現化した「声」に耳を傾けて/李民花(在日朝鮮学生美術展中央審査委員・西神戸初級 図工講師)」)

作品は地方審査でふるいにかけられ、約1万点ほどが、中央審査会へあがってくるという。元々は、中央審査委員というキャリアの長い教師数名が選考委員として審査をしていたそうだが、美術教師たち全員の目を養っていくためにも、審査の目を広げたそうだ。


ミョンファ先生:作品を見る目を養うには、鍛錬も必要なので、最初は教師同士のプレゼン大会みたいなものをやっていましたね。

全ての先生が審査に関わるっていう時期で、また学美もガラッと変わったという印象があります。作品ってついつい好みに偏ってしまいますが、他の先生の視点が、自分の見る目を変えることもあって。私たちの成長は、学美の成長にも繋がっていると思います。

中央審査会の様子 美術部作品について議論中


アーティストとしての美術教師たち

学美は、全国のウリハッキョに務める教師たちの、見えざる努力によって成り立っているところが大きい。そしてその美術教師たちのほとんどは、今も現役のアーティストとして活動を行っているという。今回の取材対象者である3人の先生も同様だ。


ミョンファ先生:朝鮮大学校の教育学部に美術科っていうのがあるんですけど、私は元々そこの出身で、作品を作りながらずっと教師をやっています。元々の専攻は絵画なんですが、最近描いてるのはアクリル絵画と、あとは土偶作ったりしてます。

子供たちは生活でもすごく悩みがあるのに、制作するってなったらもっと悩むじゃないですか。子どもたちが悩んでるのに、その悩みを先生側が知らんとあかんやんと、私はもういっかい制作するようになったんですけど、その時にちょうど土偶に出会いまして。私、元々原始美術っていうか、そういうのがすごい好きで興味があったんです。それで土偶制作を始めてみて。朝鮮には、実は土偶っていうのはそんなにないんですよ。あったとしても、もうちょっと新しいもの?埴輪くらいの。土偶の呪術的な魅力にも取り憑かれて、朝鮮人だけれど、ここ(日本)に生まれたから土偶と会ったし、いいと思ったら作るしかないやんと思って、始めました。

《土偶》金 明和(2017年)

朝鮮学校の美術教師兼作家のほとんどは、ギャラリーを通してではなく、個人や、仲間同士のグループ展などで活動をしているという。彼らは、そのほとんどが朝鮮大学校の美術科出身である。日本では出身の美術・芸術大学ごとにまずはコミュニティが形成され、すでに美術業界で活躍する先輩の団体や各ギャラリーと繋がって活動が広がっていくが、在日朝鮮人の作家の多くは、日本の現代美術の文脈に乗りにくいのが現状だ。同胞社会のコミュニティは繋がりが強い一方、どうしてもそのコミュニティだけで固まってしまう側面もあり、作家としても生きる先生たちの制作発表の場が少ないことは課題としてあげられるだろう。

美術部顧問のユンシル先生は、朝鮮大学校ではなく京都精華大学に進学し、油絵を学んだという。


ユンシル先生:美大への進学については、高校までずっといた在日コミュニティの外に、いちど出たいと思ったのがひとつです。それはコミュニティが嫌だからというよりは、新しい場所で自分を試したいというような思いや、外からしか見えないことがあるのではと確かめたかったことがあります。それと、関西の美術シーンが面白そうで興味がありました。同じ美術部卒の尊敬する先輩たちも関西にいたので、そのことも含めて自分が面白いと思う場所にいたかったというのはあります。


例えばユンシル先生の先輩には、シルクスクリーンの技法を応用し、パラフィン・ワックスによってパネルにイメージを定着させて作品を制作することで知られる、金光男(きむ・みつお)がいる【※4】。金光男は、在日3世としての社会的葛藤を作品に投影する。彼をはじめ、同胞アーティストからの影響も大きかったのだろう。

ユンシル先生は現在、講師の仕事をしながら、サイアノタイプという鉄塩の科学反応を利用してできる写真、いわゆる青写真と呼ばれていたものをベースとした作品制作を続けている。

《応答のblue,忘却のyellow》金 潤実(2022年中大阪アートイベント2022にて展示)

大阪朝鮮中高級学校の美術教員で、学美大阪実行委員会の代表も務めるヒョン先生は、大学時代は朝鮮画を学び、卒業後は水墨を中心に書画を制作しながら大阪で30年以上、美術教師を務めている。ヒョン先生の上の世代には、朝鮮画家で伝統的な水墨画からの脱却をめざして活躍した、李應魯(イ・ウンノ)などがいる。ヒョン先生は、1世や2世時代の民族美術を体系的に学び、その経験を大切にしながら作品制作と教師を続けているが、ひとつの場所で長く活動を続けることの大変さもあるという。

《声よ集まれ歌となれ》玄 明淑(2019年。作品サイズ:185㎝×145㎝)


ヒョン先生:私はずっと中級部で教師をしているんですけど、子育てのタイミングでは色々考えましたね。ずっと専従で30数年続けるっていうのは、ちょっと本当にしんどいときもあって。親戚にも言われたんです。なんでそんなしんどいのに続けるんって。給料も全然低いですし割に合わへんって(笑)。そう言われてから感じたのは、それでもやっぱ教員好きやねんなって。


ヒョン先生によると、朝鮮大学校を出た人は、同胞社会のために働こうとする人が多いという。同胞社会とは、広く在日朝鮮人の人々が生きる現代社会、あるいは純粋にコミュニティをさすが、それは在日朝鮮の人々が日本で生き抜くための「連帯」でもある。そういった同胞社会のために、なんらかの貢献ができないかと思う人が多いようだ。


ヒョン先生:教師の多くは、できるだけ貢献したいと思っていますし、それがなかったら続けられません。日本社会でも学校現場の多忙さ、教員の残業や働き方について問題になってますよね?朝鮮学校はさらに人員不足もあるので、一人何役も重複して仕事してます。それに報酬も充分ではないのでほんまに大変です(笑)。でも、これに勝る好きなことは無いし、楽しいこと、満足感は、朝鮮学校で教えているからやなぁって。


とはいえ朝鮮学校の経営状況は厳しい。少子化だけではなく、日朝外交関係の悪化や、無償化問題など、様々な要因で学校経営は厳しく、統廃合を繰り返している。朝鮮学校の教師たち全体に、十分な給料がはらわれていないのが現状だ。

朝鮮学校の美術教師は、基本的には各校にひとりずつである。中高一貫の場合は中学と高校を担当し、学校の美術の授業方針は、美術教師に一任される。ある種自分のやりたいように授業ができるわけだが、各学校の教師たちにとって、毎年の重要な起点となるのが学美中央審査会での、他教師との交流であるという。作品に対する評価方法、考え方を共有し、泊まり込みで美術教育に対して激論を交わした経験を、担当学校の美術教育に還元する。そうして教師たちの作品制作における重要な動機や、アイデアにも繋がっていくのかもしれない。

学美を中心として、ウリハッキョの美術も、学美生も、学美教師も、大きな循環を作りながら成長していっているのだろう。このような循環と成長が、厳しい状況下でも教師たちを長く勤務させる要因になっているのかもしれない。

今回インタビューにご協力くださった(左から)ユンシル先生、ヒョン先生、ミョンファ先生

学美が広げる、学美で広がる

近年、学美生の取り組みは、学外へも積極的に広がっているという。その一翼を大きく担うのは、ウリハッキョの美術部だ。


ユンシル先生:美術部は、大阪もそうやし全国的にも、朝鮮学校同士の美術部の繋がりも強いんです。毎年夏には、全国合宿があって。全国の朝鮮学校美術部が集まって、教員も入れると多い時では100人近くになることもあるんですよ。自然豊かなところで制作合宿をして、交流をしてっていうことを毎年やっていたんですよね。
また美術部は、学外との交流も多くあって、依頼を受けて制作することもあるんです。同胞社会もですが、日本人のみなさんとの交流も多かったんです。ただコロナ禍で3年間、今までできていた交流ができていないことももあり、それがとても辛いです。

全国美術部夏合宿2019in淡路島 最終合評会の様子

ただ2022年は、北海道の朱鞠内(しゅまりない)にある笹の墓標展示館という博物館【※5】から、強制連行の史実を伝える巡回展の、展示館と朱鞠内の風景画を美術部に描いてくれませんか?という依頼が大阪の中高にきたんです。幅4.5mの巨大な作品を、中高みんなでそれを2週間で作って【※6】。久々に外と交流して、やっぱりやっていきたいなと。

普段は自己表現を探求する学生たちにとっても、自分たちのためではなく、誰かのために、美術の力で関われるっていうのがすごくいい体験なんです。制作自体は期間も短くて大変やったんですけど、巡回展の会場に行って、いろんな人に声をかけてもらって。そういう経験ができたことは大きかったなと。美術部同士の繋がりと、学外との関わりを増やしたいなと思っています。本当は動ける部活なんで。

中高美術部での共同制作の様子
笹の墓標展示館巡回展 大阪展での美術部の作品解説トーク


今回は他にも、山陰地域で初めての試みがあったという。


ヒョン先生:今回の学美で、山陰の島根県立松江工業高等学の美術部との交流があったんです。山陰地域で学美をやってるんですけど、そこは朝鮮学校が統廃合でなくなった地域なんですよ。でもそこにいらっしゃる日本人の先生はじめ、熱い方がたくさんいて、途切れることなく10年以上続いてます!凄いことですよね~。今回初めて地域の定時制高校から出品があって。一種のコラボみたいな感じで展示をしました。本来ならば、学校間で生徒同士の交流も交えて地道に、関係性を積み上げながら作品も交流できたり、展示できたりしたらいいなと。


山陰地域では学美が、2010年からはや10年開催されている。朝鮮学校のない地域で学美が始まったのは、鳥取にある湯梨浜町立羽合小学校の教諭、三谷昇氏の尽力があったという。


ミョンファ先生:三谷先生は神奈川に仕事で行かれた時に、美術展がやってるから入ってみようかと、偶然学美の会場に入られたそうなんです。そこで図工の先生としてすごい衝撃を受けたんですって。こんな美術教育のコンクールがあるんだって。それで色々調べてくださったあと、山陰地域に朝鮮学校はもうなくなっているけれど、ぜひ自分たちの場所で見せたいっていう先生の熱意があり、あれよあれよという間にそこに招致されました。

三谷先生と、あと鳥取大学地域学部の教授、仲野誠先生の尽力も大きいです。お亡くなりになられたんですけど、仲野先生は社会学の文脈で、学美に対していろんなキーワードをくださったんです。私たち教員も、ちゃんと言葉で残していくことが必要だなと感じて、「学美の世界」に分担して寄稿するようになりました。


仲野氏は生前、学美への寄稿文『交響する魂ー「おれももうちょっとちゃんと生きよう」という収穫ー』の中で、学美に関心をもったきっかけを、学美コミュニティが創出しているつながりやネットワークのあり方、そして信頼という機能に関心を抱いているからだと述べている【※7】。なぜ学美コミュニティの機能を考えるのか。その意味性について、仲野氏はこう続ける。


“〜(略)それは「わたしたちの社会」の行方を考えるための貴重な糧や示唆を内包している「宝の山」にわたしには見えるからです。ここで申し上げている「わたしたち」というのは「在日社会 vs. 日本社会」という単純な二項対立で考えた場合の「日本社会」のことではなく、「在日」も、(いわゆる)「日本人」も含めた、この社会に生きている/どうしたってこの社会に生きなければならない、この社会のありとあらゆるメンバー全員のことです。”
(学美HP「心の空白」によせて−この時代に在日朝鮮学生美術展に出会うということ 仲野誠先生追悼論集『交響する魂ー「おれももうちょっとちゃんと生きよう」という収穫ー』より)


仲野氏は自分の発言について、これは単純なヒューマニズム的発想ではないと続ける。氏も指摘する通り、能天気なヒューマニズムやチャリティー的発想、そして内実を伴わない多文化主義は、自分とは異なる「他者」を深く知らずとも、無条件で相手を受け入れようとするある種の暴力性も内包する。目に見える差別や排斥主義はともかく、多文化共生という枠内に組み込むことが先行し、自分の中にある違和感や疑問をそのままにすると、他者を理解しようとする思考すら停止させてしまう。はたしてそれは、本当の多分化主義なのだろうか。

学美には、日韓・日朝友好の名の下に訪れる人も多いという。わざわざ足を運んでくれる人々を歓迎する一方、先生たちにとって、複雑な心境もあるという。


ミョンファ先生:例えば日朝友好とか言われると、そりゃ微妙な気持ちになります。作品それ自体を見て欲しいと、ほんまに思います。でも朝鮮学校のためにと思って言ってくれてはると思いますし、その人たちが来て、面白いと思ってファンになってくれるんだったらありがたいし。事実、毎年きてくださる方もいるんです。それは本当に嬉しい。けれども、本当は表面的なところでない、作品そのものの面白さにちゃんと目を向けて欲しいといつも思っています。


美術記事である本記事では大きく触れないが、朝鮮学校、在日朝鮮人を語るとき、避けては通れないのは朝鮮民主主義人民共和国の存在である。在日朝鮮人は、そのほとんどが今の韓国をルーツとしながらも、共和国を祖国とし、ウリナラと呼ぶ。ウリナラは共和国単体というよりは、朝鮮半島全体を指す言葉として使われているが、我々日本人が朝鮮と聞いて想像するのは、毎月どこかで必ず報道される北朝鮮像である。愛知県立大学教授で、在日朝鮮人社会の研究者でもある山本かほり氏は、「北朝鮮嫌悪」という言葉を使用し、知らず知らず私たちの中にあるその感情が、思考を停止させると述べている【※8】。「北朝鮮」という言葉を聞いただけで、それに関わる全てのものが否定的にうつり、ともすれば排斥の対象になると。

言わずもがな全ての日本人がそうではない。そうではないが、否定的な人も肯定的な人も、そして無関心な人でさえ、「在日朝鮮人」という言葉を目にした時、その目には、何かそれぞれのフィルターがかかっていないだろうか。

朝鮮学校の教師たちも、生徒たちも、日本で暮らす限り、それらの視線と向き合わないといけないと理解をしている。だからなるべく穏やかに、洗脳教育と言われないように、学校をひらき、授業を公開し、地域の人たちと交流を深めるべくイベントを各校が数多く行っている。美術の側面でも、学美生や美術部の作品をできるだけ多く見てもらうためにと様々な取り組みをしているが、それらは非常に手探りで、難しさもあるという。


ユンシル先生:美術部も実は部展っていうのをやっていて、そこでは近隣の学校とかにご案内を送るんですよ。でもあんまり反応はなくて。個人的にきてくださることはあるんですけど。

ヒョン先生:この学美(学美大阪展)も東大阪周辺の日本の学校全部に案内状を送っていた時が3~4年くらいあったんです。でも一件も、来場がなかったのでやめてしまったんですけど。それがなんでなんかは分からないんですけどね。

ユンシル先生:なんかね。そこがうまくいかなくて。

現代アートには、レイヤー(層)というものが存在する。視覚で得られる作品の情報というものは限定的で、その作品の背景には何層にも重なる作家の意図があり、それをレイヤーと呼ぶ。現代アートを鑑賞するとき、私たちは作品を「見る」ことではなく、その層を「読む」ことを求められている。この行為こそ、現代アートの面白さであり、特殊性であり、奥深さであるが、熟練の鑑賞者であっても、作品と相対するときはいつも新しく、すぐに理解できることは少ない。作品の背景に幾重にも重なる層の狭間には、現代社会、政治、歴史、ジェンダー問題などが時に組み込まれ、こちらにも多くの視座が求められる。何度も鑑賞してようやく分かる時もあれば、何度鑑賞しても分からないこともある。いずれにせよ単純に、「考えずに、まずは感じればいい」という視点だけでは理解できないのが事実である。そして現代アートのこのような特殊性が、しばしば「アートは難しい」と言わしめさせる。

しかしながら私たちは、「わかろうとする姿勢」や「すぐにわからないものを時間をかけて楽しむ」ことなど、現代アートの鑑賞法から、相対するものとの対話の仕方を学ぶことはできるのではないだろうか。ちなみに現代アートでは「誤読」も受容されている。間違ってもいいから、まずは読んでみないかと。

学美は2023年、50回目を迎える。約3年ぶりに中央審査会も開かれ、ウリハッキョの美術教師たちが集って美術について深く議論を重ねる予定だ。節目となる第50回目を皮切りに、近隣の学美会場を訪れてみてはいかがだろう。作品は幼児のものから高校生のものまで年齢によってもかなり幅はあるが、まずは気になる作品と、じっくり向き合ってみてほしい。学美は比較的絵画作品が多い傾向にあるが、視覚だけではなく、「読みもの」としても鑑賞することをおすすめする。そしてウリハッキョの今の子供たちが、どう社会を見つめているのか、どう生きていこうとしているのか、さまざまな狭間から世界を視る彼らの目線と、今・あるいは10代の頃の自分の目線を、時間をかけて重ねてみてほしい。

2022年11月に開催された山陰展(島根展) 会場の様子。学美の中で唯一、朝鮮学校がない地域で開催されている。

関連記事『GAKUBI 49 私たちの作品へ』

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注釈

【※1】『在日朝鮮人美術史1945-1962 美術家たちの表現活動の記録』明石書店 (2021/5/24)

本書では主に、1950年代の在日朝鮮人美術家の活動とその作品について論じ、在日朝鮮人という集合体の中にある美術家たちの活動を解明しようとしている。著者は美術史を中心としながら、関係者へのインタビューなどを通して多角的に歴史にアプローチしており、在日朝鮮美術を多様な側面で理解することができる。白氏が研究に取り組むきっかけは、本記事の後半に出てくる「アルン展」である。

【※2】その要素を形成するのにあたり、日本人美術家たちとの交流も重要になっていたことも記しておきたい。在日挑戦美術協会に所属していた多くの朝鮮人美術家たちは行動美術協会をはじめとした日本の美術団体にも所属しており、戦後すぐに生まれ、現在も続く「日本アンデパンダン展」(日本美術会)では、個人としても団体としても何度も出品をしている。
日本美術会と日本アンデパンダン展の略歴

(2023年2月6日19時00分最終閲覧)

【※3】アルン展

1999年〜2004年まで開催。在日朝鮮人の美術家たちが中心となってはじまった。当時、日本からも韓国からも疎外されがちであった在日朝鮮人の美術を再考し、展覧会を通して問題提起を促した。在日朝鮮人はどの角度で語ったとしても社会的な側面から切り離して考えることはできないが、社会的な側面「だけ」で見ると見えないことも多い。本展では美術と社会、両方の側面をそれぞれの視点で往復しながら再考した展覧会であったようだ。2002年に第2回が開催されたが、その時に在日・在米のコリアン、沖縄からも100名以上が参加した。

【※4】金光男(きむ・みつお)

1987年大阪市に生まれ。2012年に京都市立芸術大学大学院修了。
在学中から精力的に制作を続け、卒業後は「VOCA展2014」奨励賞、2016年に「京都市芸術新人賞」を受賞。2014年、金沢21世紀美術館での注目の若手アーティストを個展形式で紹介する企画「APERTO」では、第1回目のアーティストに抜擢される。

ART360°では、金が所属するグループ「MIKADO2」の展覧会をアーカイブしている。

MIKADO2|瑞雲庵
(2023年2月6日19時00分最終閲覧)

【※5】笹の墓標展示館
(2023年2月6日19時00分最終閲覧)

【※6】朝鮮新報記事「歴史と自分、どう関連づけるか/「笹の墓標展示館」大阪巡回展」
(2023年2月6日19時00分最終閲覧)

【※7】仲野誠先生追悼論集「こころの空白によせて」より
(2023年2月6日19時00分最終閲覧)

【※8】「排外主義の中の朝鮮学校―ヘイトスピーチを生み出すものを考える(山本かほり|愛知県立大学教授)」から参照
(2023年2月6日19時00分最終閲覧)

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INTERVIEWEE|
玄 明淑(ヒョン・ミョンスク|현명숙)

美術家、兵庫県生まれ、朝鮮大学校教育学部美術科卒。学美大阪実行委員会代表、文芸同大阪支部美術部長。
西神戸初中で8年間勤務・結婚を機に大阪に異動。中大阪初中級、東大阪中級を経て現在は大阪朝鮮中高級学校美術教員・中級部美術部顧問として27年間教壇に立っている。
作品は水墨を中心に、最近は書画制作を続けている。2019年8月、高麗書芸研究会結成30周年記念 東京国際交流展出品。
2018年3月、東大阪朝鮮中級学校の校舎移転に伴い、移転プロジェクトを立ち上げ、その際に全校生徒の風景画をまとめた「永遠のウリハッキョ(学び舎)」を発行(画集に掲載している一部の作品と文章はこちら)。


金 明和(キム・ミョンファ|김명화)
アーティスト/フェミニスト/北大阪朝鮮初中級学校、京都朝鮮初級学校 図工講師。ゲリラガールズ研究会所属。
朝鮮大学校教育学部美術科卒。大阪、京都で教鞭をとりながら、イラスト制作、土偶制作、児童絵画制作など、精力的に作家活動を行う。
2021年個展《context》開催、ヨコハマトリエンナーレ2020「AFTERGLOWー光の破片をつかまえる」クリエイター集団「刷音《SURE INN》」のメンバーとして参加
kim myong hwa/김명화 on Tumblr


金 潤実(キン・ユンシル|김윤실)
絵描き、大阪朝鮮中高級学校美術講師・高級部美術部顧問、南大阪朝鮮初級学校臨時図工講師。
京都精華大学芸術学部洋画コース卒。和歌山生まれ、大阪在住の在日朝鮮人3.5世。過去には兼業で日本の公立小学校で民族学級講師の経験あり。
作品制作は主に油絵(絵画)、最近はサイアノタイプを用いた作品も模索中。
2022年3月、講師をしていた中大阪朝鮮初級学校が統廃合になることを受けて、同校舎を利用したアートイベントを企画し、自身も作品を展示した。
・中大阪アートイベント


INTERVIEWER|桐 惇史(きり あつし)
+5 編集長、ART360°プロジェクトマネージャー。
1988年京都府生まれ。京都外国語大学英米語学科卒業後、学習塾の運営に携わりながら、海外ボランティアプログラムを有する、NPO法人のプロジェクトリードに従事。その後、ルーマニアでジャーナリズムを学び、帰国後はフリーランスのライターとして経験を積むかたわら、大手人材紹介会社でコンサルティング営業、管理職として組織マネジメントなどに携わる。現在は360°映像を通した展覧会のデジタルアーカイブ事業「ART360°」の推進に関わる。