2019年6月、「京都に100年つづく小劇場を!」という思いを掲げて、東九条に開館した民間の小劇場THEATRE E9 KYOTO(以下「E9」)。演劇やダンスに加え、音楽、美術の展覧会など、さまざまなジャンルの実験的な表現の発表場所となってきた。約100席ほどの空間だが、開館年度からKYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭の会場のひとつにもなり、京都の芸術文化を支える重要な施設である。
一方、劇場の開館の経緯には、2015年から2017年にかけて、所有者の高齢化による土地・建物の売却や建物の老朽化のため、京都の5つの小劇場が相次いで閉鎖したことがある。その中には、長年京都の舞台芸術シーンを支えてきたアトリエ劇研(1984年に「アートスペース無門館」として開館)の閉鎖もあった。アトリエ劇研の最後の3年間のディレクター(芸術監督)を務めた劇作家・演出家のあごうさとしら、危機感を抱いた舞台芸術関係者が劇場建設に向けて動き、資金集めや行政・企業・地域住民とのやり取りを重ね、元倉庫をリノベーションした劇場がオープンした。運営は一般社団法人アーツシード京都。
東九条は、2017年に京都市が「京都駅東南部エリア活性化方針」として「文化芸術と若者を基軸とした街づくり」を打ち出した地域である。隣接する崇仁地域には2023年秋に京都市立芸術大学のキャンパスが移転し、東九条には2024年度にチームラボの常設展示を含む複合施設の開業が予定されているなど、大きな変化のただ中にある。また、コロナ禍は劇場運営に大きな打撃を与えたが、ライブハウスやミニシアターなど京都市内の民間の芸術創造拠点(E9、kumagusuku、DELTA / KYOTOGRAPHIE Permanent Space、CLUB METRO、出町座、両足院)と京都信用金庫が一般社団法人「BASE(Bank for Art Support Encounters)」を立ち上げ、社会人向けの芸術学校「BASE ART CAMP」を開校【※1】するなど、危機的状況に柔軟に対応してきた。また、コロナ禍が作品発表のブランクの期間をもたらしたことを受け、近年は、劇場として若手支援のプログラムを積極的に打ち出している。劇場の立ち上げからともに関わった、あごうさとし氏(E9芸術監督)と蔭山陽太氏(支配人)の2人に、民間劇場としての取り組みや使命、課題についてうかがった。(本文中は敬称略)
まず、2人が出会ったきっかけと、劇場立ち上げの経緯についてうかがった。
蔭山:私は2010年から支配人としてKAAT神奈川芸術劇場の立ち上げの仕事に携わっていました。2011年1月のオープン直後に震災があり、しばらく事業が中止になったのですが、2011年11月に主催事業として、現代美術家のやなぎみわさんとあごうさんが一緒につくった作品を上演しました。それが最初の出会いです。
あごう:日本初の近代劇場、築地小劇場の立ち上げを題材にした『1924海戦』【※2】という作品です。
蔭山:その後に、あごうさんと一緒に本当に劇場をつくることになるとは思ってもいなかった(笑)。思えば実に運命的な出会いですね。
あごうさんがディレクターをされていたアトリエ劇研は、前身のアートスペース無門館の時代からよく知っていました。20代半ばに東京の民間劇場に就職して、毎月のように京都に通って京都の小劇場を見て回って、面白い劇団がいたら声をかけて私のいる東京の劇場でやってもらったりしました。当時の京都の小劇場界は、東京からも注目されていて、ダムタイプなど若いカンパニーがすごく活躍して、東京にはない面白い作品がどんどん出てきていました。その中心的な場所がアートスペース無門館でした。
その後しばらくたって2013年に老朽化した京都会館をリノベーションして新劇場(その後ロームシアター京都と命名)をオープンさせるために京都に来ることになりました。
そのときに「これで京都の舞台芸術に関わる創造インフラが大・中・小とそろって完成するな」と思ったんです。木ノ下歌舞伎や杉原邦生くんなど【※3】、京都からコンスタントに若い才能が出ていましたが、小劇場はあっても次のステップの場所がなかなかないという状況だったので。
ところが、やなぎさんやあごうさんから「アトリエ劇研がなくなる」と聞いて、とても危機感を感じました。京都の同世代の演劇人たちが活躍することで、私も一緒に仕事が広がっていった、とても恩のある場所ですし、スタートアップの場所がなくなると、やっと整ったインフラがまた崩れてしまう。それで「できることはなんでもします」と言ったんです。ロームシアター京都に勤めながら「できること」という意味だったんですけど、それがだんだんそうではなくなってきて(笑)。
あごう:まず場所探しが難航しましたね。私が1年間探し回って、1件だけあった候補もやっぱりだめで、ギリギリのタイミングで不動産会社「八清」の社長がここの倉庫はどうですかと。2016年の夏でした。当時は、テクニカルスタッフに150万くらい渡したら、壁が黒くなって劇場が完成するだろうと、なんとなく考えていたんです。その後、行政との相談が始まり、150万では無理だと分かってきた(笑)。劇場をつくるってハードルが高いんですよ。規制が多くて、コストがかかる。ライブハウスの場合は、法律上は飲食店なので、コスパはいいんですが。
蔭山:倉庫のある場所が、法律的には劇場を建てられない地域(第一種住居専用地域)だったので、京都市の「建築審査会」への特例申請をして、住民説明会を開いて了承を得る必要があると分かりました。そして、少なくとも8500万円はかかると。
あごう:結局2億円かかりました。地域住民への説明、資金集め、法律上の課題の解決が、立ち上げの3つの課題でした。現場の最前線にいるのは常に私たち2人でした。資金の方面、特に法人からの寄付は蔭山さんが大きな成果を出してくださって、住民とのやり取りは私の方が多かったと思います。
蔭山:結果的にロームシアター京都を辞めることにしたのは、複雑な葛藤もありました。でも、相当な賭けでしたが、劇場を立ち上げる意義や、やるべきだという思いの方が勝ったので。私はこれまで公立劇場での仕事が多かったのですが、その経験をどう活かせるか。自分が今あるのは小劇場があるからこそなので、できるだけ恩返しをすることが人生そのものに関わっていると思います。
開館後は、あごうが「芸術監督」、蔭山が「支配人」という肩書きだが、どのように役割分担しているのか。
あごう:開館後も、基本的な運営に関しては常に2人で相談して、スタッフや理事と話し合っています。明確な役割分担としては分けにくいのですが、大きくは、全体のマネジメントを蔭山さんが、劇場のプログラムや日常の事務局の運営は私が受け持っています。
蔭山:公立劇場でも芸術監督に有名な演出家が就任しているところが多いです。ただ、芸術監督が全責任を取っているわけではないんです。多くの場合、自分が上演する作品を決めているだけで、組織上も上に立っているわけではなくて、運営組織の外側にいる。本来、運営面のマネジメントも芸術面のプログラムも両方できないと芸術監督になれないわけですが、実際はマネジメントの経験も知識もほぼない人が芸術監督をやっている。そのため組織的にマネジメントして補うわけですが、そこが非常に曖昧で、うまくいかない場合が多い。私自身も何度か経験しているので、芸術監督をどう考えるかはずっとテーマでした。だからロームシアター京都を立ち上げたときは、芸術監督を置かないでプロデューサー制にしたんです。
その点、あごうさんは、いろんなアーティストと仕事をしていて、日本では数少ない、マネジメントのセンスと能力がある芸術家です。だから一緒にやれているんだと思います。ここが例えば、「私がマネジメント担当で、あごうさんは芸術監督なので自分の作品をつくる」ってスッパリ分かれたら、上手くいってないと思います。税金に支えられている公立劇場は倒産しないという保証があるので、芸術監督が交代しながらやっていけますが、そもそも公的支援がない民間の劇場だと、芸術監督が経営もできないと、すぐつぶれてしまう。
元々あごうさんの持っている資質もあると思いますが、アトリエ劇研で最後の3年間のディレクターをされた経験も大きいと思います。非常に厳しい状況のなか、これから新しい小劇場の価値をつくっていくために新しいプロジェクトを立ち上げて、そのために経営的な面から考えて実行されていた。その経験が、E9をつくるときに活かされていると思います。そういう人がどんどん出てきてほしいです。
補足すると、あごうはアトリエ劇研のディレクターに就任した2014年からの3年間、集客数や稼働率とともに劇場の価値を高めるために、さまざまな制度を導入した。劇場使用料の減免の代わりに年1回の劇場使用を契約する「アソシエイトアーティスト」、公募による若手劇団を対象にした「創造サポートカンパニー」、支援会員制度だ。後編でも取り上げるが、こうした制度はE9にも引き継がれている。
一方、あごうから見て、蔭山はどういう存在なのだろうか。
あごう:私と蔭山さんはちょうど一回り年が違うのですが、私たち後輩世代が動ける環境を、後ろからつくってくださっていると思います。端的な例ですと、劇場のネーミングライツの件があります。「寺田倉庫」さんからは工事費に加え、ネーミングライツとして毎年300万円の運営費をいただいています。これは劇場の開館後も、一定の大きな財源です。その準備や更新を蔭山さんが担ってくれています。あとは、地域住民や地元の企業との付き合い、これまでの芸術関係のさまざまなコネクション。陰に陽にこの劇場を支えてくださる人、お金、情報をもたらしていただいている。
蔭山:私は、演劇の経験がないままこの業界に入ったんです。学生時代もとくに演劇好きでもなかった。劇団の制作の仕事をやるなかで、アートマネジメントとは何なのかをずっと考えさせられました。文学座という老舗劇団で看板女優の杉村春子さんが亡くなってつぶれそうになったとき、やっぱりアーティストが安定的に創造できる場を確保するのがマネジメントの仕事だと、はっきり自覚したんです。そのためには、企業や大学とつながるなど、社会化していかないといけない。俳優や演出家という資源が公演以外でもっと活かされるべきだと思いました。
当時は既に新聞の影響力が下がっていて、劇評がもう評論ではなくて紹介記事みたいになっていました。でも、日経新聞の文化欄は、毎朝会社員が出勤するときに読んでいるので、影響力がある。だから広報も、日経新聞へのアピールをミッションとしてやりました。企業と連携したプロジェクトや支援会員制度のスタートなど、経営的なことが注目されて載ったんです。
そうした部分がこの業界は弱いなと思いました。昔は「制作」と言うと雑用係だったんですよ。それが、「アートマネジメント」という言葉が90年代に入ってきて、横文字のかっこいい仕事みたいに思われて、「アートマネジメントって何だろう」というのが自分にとって課題でした。でも、自分自身がやっている目の前の経営がそうだった。あごうさんがおっしゃった「アーティストが動ける環境をつくる」というのは、まさにマネジメントの仕事だなと思います。だからお互いにうまく噛み合っている。
基本的な考え方の軸が「このE9を100年続けよう」というミッションで、そこから今何をやるべきかを常に考えているので、どうしても意見が合わないことはない。100年スパンで考えるというのは、4代続けるということ。もう自分たちがいない未来を考える話なので、そうすると考えが自ずと近くなります。
あごう:100年後の未来像は正直分からないんですけど、その可能性が高まる方向を選ぶということです。
蔭山:最初は劇場からまちを見ていたのが、今は劇場が100年続いている状況を外から、まちから見ている感じです。一方で、あごうさんの作品がまさにそうですが、誰にでも分かりやすいものをつくるわけではないです。分かりやすいものをつくって芸術的に妥協するのでは、劇場をつくった意味がないので。もちろん何をやってもいいんですけど、小劇場の存在価値は、絶えず実験的なことにチャレンジしたり、スタートアップの場所にあると思います。
小劇場の役割を果たして発展させながら、なおかつ地域の人にどう理解して受け入れてもらえるのかが重要だと思います。劇場をつくるときに、地域の人に「どういう場所なの?」「大衆演劇?」と聞かれて、「よく分からないものをやります」と最初に言ったので。小劇場という存在そのものをどう地域と共生できるかは、非常に大きなテーマです。
E9というひとつの小劇場をこえて、もっと広く、芸術はどうあるべきか、どう社会と共生していくのかと同じ問いです。分かりやすいもの、ウケるものばかりをやっていくと、芸術の本質的な部分が失われてしまう。だから、この劇場をやっていくこと自体が、ひとつの社会実験だと思っています。
社会との共生を試みるひとつの事例が、ビジネスパーソンと演劇をつくる「E9アートカレッジ」の取り組みである。劇場の建物の2階には、コワーキングスペース(会員制シェアオフィス)である「Collabo Earth E9」が入居している。そのメンバーが出演し、あごうの演出で演劇作品を上演する。2020年1月に第0期公演を実施し、2023年12月には第5回を迎えた。
あごう:同じ館のなかにコワーキングスペースがあるので、アーティストよりもビジネスパーソンと日常的に会うわけです。でも分野が違うので、「最も遠い隣人」ともいえる関係なんです。でも、その「隣人と向き合う」ということが、とても大事だと最近特に思います。この劇場ができる前は、演劇や芸術の話ができる人としか付き合ってなかった。でも、「誰に対して作品をつくっているのか」ということを、この劇場をつくる過程のなかで改めて気づかされたんです。それまでの私は、「演劇」という概念に対して呼応する部分だけで作品をつくっていた。でも今は、近所の人とか、日常的に会うビジネスパーソンの皆とか、リアルに人の顔を思うわけです。同じ日本語話者だけど、言葉が違う。なぜ違うのか、どこが違うのかを見ていくこと自体がある種面白い。そこから、作品に結びつくことがあったり、作品の主題の輪郭がより強くなるかもしれない。「演劇や劇場は皆のものです」とお題目としては言っているわけですが、実体としてそういうものが立ち上がっていくかもしれないという希望を込めてやっています。特に、ここに通うビジネスパーソンとの取り組みを毎年何らかの形でやろうと決めて、継続しています。
私の作品はここ10年間くらい、異言語話者と演劇をつくっているんです。ダンサーや他のジャンルの芸術家だったり、犬だったり、誰もいなかったり、とにかく言語体系が違う存在と一緒にやって、その関係性のなかで生まれる共通言語を探ってきた。その点でビジネスパーソンは、より分かりやすいかもしれません。
あごうは別のインタビューで「すべてのビジネスパーソンを芸術家にしたい」と語っている【※4】。その動機や展望はどこから生まれてきたのか。
あごう:やっぱり、コワーキングスペースを運営している株式会社「La Himawari」の若い経営者、高坂尚平さんと高野安代さんの存在が大きいと思います。「せっかく1階と2階で一緒になるんだから、ソフトの面でご一緒できませんか」という相談を、劇場をつくる前からしていました。高坂さんがおっしゃったのが、「ここには自分で事業を起こす企業家が多い。新規のビジネスを自ら立ち上げるときに、ビジネスの内容と、『私』という個がつながっていなければいけない。つまり自分のやりたいことが何かをきちんと理解して、自分と向き合っていなければいけない。そこをおろそかにして、儲かるからとか、ハウツーでとか、流行だからとかでやると、うまくいかないし、幸せにならないだろう。自己と向き合うことは大事ですが、見落とされがちです」と。
それを聞いて、「あ、演劇やったらいいかも」と思ったんです。演劇に限らず、どの分野の芸術でも自己と向き合うことが前提なので。受注仕事ではないので、問題意識や何かを探求したいとか、根拠がないと、役者だって指示しても一歩も動かないですから。私は演劇の分野の人間なので、「自分と向き合ったガチの演劇をやってもいいですか」と言ったら、「いいですね」と。それで背中を押してもらってスタートしました。やってみたら、いろんなフィードバックをいただけて、私もエネルギーをもらって、また次もやっていくという形になりました。さきほど未来像を問われましたが、ビジネスパーソンから劇作家や演出家が出てきて、劇団をつくったらいいなと希望しています。
蔭山:ビジネスパーソンとやり取りしていて、「ビジネスも演劇も、自己表現という点では共通してるよね」ということがストンと腑に落ちたんです。市民向けの演劇は昔からよくありますが、演劇をプロでない人に教えるとかちょっと体験してもらうという感覚ではなく、お互いが表現者として同じというところを出発点にしている。だからちゃんと演劇作品として成立するんです。あごうさんは「これは仕事としてやっています」という言い訳をしない姿勢が潔いし、だからこそ作品が面白くなる。「誰もが表現者だ」と口で言うのは簡単ですが、引き出す作業はなかなか簡単ではないんです。その意味で、とてもすぐれた演出家だと思います。それは、異言語話者と一緒につくる意識が強い、あごうさんの演出家としての方向性だからこそできると思います。
蔭山:俳優と向き合って演劇が好きな人だけに見せるのは、それはそれで成立すると思います。でも、劇場というパブリックな場をどう続けるかとか、どういう存在にしていくかという視野をもつことが、演出にも影響していると思います。もし公立劇場だったら、あまり考えなかったかもしれない。市や県が建設費を出して、毎年補助金が出て、用意された枠組みのなかでやるので、根本的に運営が危うくはならない。でも、ここは常に根本的に揺らいでいますから。
「民間劇場にとっての公共性は何か」は、E9をつくるときからテーマでした。それまでの小劇場には、その視点がなかった。つぶれるけど地元から存続運動が起こらない。100年続けるならそこをなんとかしないといけない。そこは未だに課題です。
我々だけで考えている範囲は狭いというか、それ以上にならないので、いろんな人と一緒にやってアイデアをもらったりしないと、そもそも公共性ってもたないですよね。その点を今後すごく考えていく必要があります。逆にE9という場所を面白がってくれて、「こういうことをしたらどう」という言葉が欲しいというか。そのためには、まず関係性がないとできない。今年10月にあごうさんが京都府・京都市・京都商工会議所からビジネス関係の賞(「KYOTO Next Award 2023」優秀賞を受賞)【※5】をいただきましたが、そういう縁をどう活かせるかが今後の課題ですね。
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関連情報
(URL最終確認:2024年3月30日)
注釈
【※1】「BASE ART CAMP」については下記の記事を参照
「京都だからこそ生まれた社会人向けの芸術学校 BASE ART CAMPの挑戦」
(URL最終確認:2024年3月30日)
【※2】『1924海戦』
(URL最終確認:2024年3月30日)
(URL最終確認:2024年3月30日)
【※4】地域・暮らし・経済・芸術がシームレスにつながる社会を目指す「アーツシード京都」
(URL最終確認:2024年3月30日)
【※5】「KYOTO Next Award 2023」優秀賞
(URL最終確認:2024年3月30日)
劇作家・演出家/THEATRE E9 KYOTO芸術監督/一般社団法人アーツシード京都 代表理事
大阪府出身。80年代後半から90年代にかけて香港で過ごす。同志社大学法学部卒業。広告会社でコピーライターとして勤務。退職して、2001年、WANDERING PARTY の旗揚げに参加。第3回公演以降、全ての作品の作・演出をつとめる。2011年劇団解散後は、法哲学者仲正昌樹と共に、「複製」「純粋言語」を主題に、 有人、無人の演劇作品を創作している。平田オリザ氏が手がけるロボット演劇のロボットオペレーターとしての活動も加わる。2014−2015年、文化庁新進芸術家海外研修制度研修員として、3ヶ月間、パリのジュヌヴィリエ国立演劇センターにおいて、演出・芸術監督研修を受ける。やなぎみわ、森村泰昌など美術作家との共作も多数。2017年1月、一般社団法人アーツシード京都を設立。2019年6月、同法人が運営するTHEATRE E9 KYOTO開館。芸術監督として劇場を運営する。
劇場プロデューサー/THEATRE E9 KYOTO支配人
大阪市立大学経済学部(中退)。在学中から3年間、札幌市内の日本料理店にて板前として働いた後、90年〜俳優座劇場/劇場部。96年〜文学座/企画事業部長。2006年〜まつもと市民芸術館/プロデューサー・支配人。10年〜KAAT 神奈川芸術劇場/支配人。13年〜18年ロームシアター京都/支配人・エグゼクティブディレクター。17年〜THEATRE E9 KYOTO/支配人。
京都芸術大学 芸術学部アートプロデュース学科/教授。(公財)高槻市文化振興事業団/顧問。(公財)愛知県文化振興事業団/理事。「新しい文化政策プロジェクト」メンバー。寺田倉庫/京都エリア担当プロデューサー・コーディネーター。98年、文化庁在外研修員(ロンドン)。
美術・舞台芸術批評。京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員。ウェブマガジン『artscape』と「京都新聞」にて美術評を連載。近刊の共著に『百瀬文 口を寄せる Momose Aya: Interpreter』(美術出版社 、2023)。「プッチーニ『蝶々夫人』の批評的解体と、〈声〉の主体の回復 ─ノイマルクト劇場 & 市原佐都子/Q『Madama Butterfly』」にて第27回シアターアーツ賞佳作受賞。論文に「アメリカ国立公文書館所蔵写真にみる、接収住宅と「占領」の眼差し」(『COMPOST』vol.03、2022)。共著に『不確かな変化の中で 村川拓也 2005-2020』(林立騎編、KANKARA Inc.、2020)、富田大介編『身体感覚の旅──舞踊家レジーヌ・ショピノとパシフィックメルティングポット』(大阪大学出版会、2017)。