アーティストの連帯が街に浸透する C.A.P.(芸術と計画会議)の試み <前編>

アーティストの連帯が街に浸透する C.A.P.(芸術と計画会議)の試み<前編>

C.A.P.(芸術と計画会議)
2023.02.22.
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近年、アーティストコレクティブに注目が集まっている。特に、ドクメンタ15の芸術監督に就任したインドネシアのコレクティブ、ルアンルパが代表格であるが、ルアルンパの呼びかけに応じて世界中から集まった無数のコレクティブが示すように、ひとつの世界的な潮流といってよいだろう。

コレクティブの定義は曖昧であるが、グループのようなひとつの団体としての表現よりも、個々が活動をしながら、プロジェクトによって形や編成を変えるゆるやかなコミュニティを築いているのが特徴といえるかもしれない。関西では具体美術協会(具体)がアーティストグループとして著名だが、その後、「動向」とされるもの派を経て、コレクティブ的な活動が増えてきた。ダムタイプはその先駆的存在であろう。ダムタイプのような集団での表現はしないが、長い歴史を持つということでいえば、1994年に神戸で設立されたC.A.P.(芸術と計画会議)もユニークな活動を行ってきた。

アーティスト・イン・レジデンス、共同スタジオ、展覧会、イベントなど多く手掛けてきた、C.A.P.の歴史と現在、そして今後の方向性について、代表である下田展久(しもだのぶひさ)氏と現在、C.A.P.のメンバーであり、スタジオアーティストの山下和也(やましたかずや)氏にお話をお伺いしたので、前半後半にわたってお送りしたい。前半は下田氏に立ち上げからの経緯をお聞きした。

C.A.P.の事務所がある海外移住と文化の交流センター。
JR元町駅から、徒歩10分強。神戸の街並みが一望できる丘の上にある

「これからの美術館」阪神・淡路大震災

C.A.P.の現在の代表は下田だが、当初はアーティストの杉山知子を発起人とする任意団体だった。どのような経緯で設立されたのだろうか?

当時聞いた話だと、政令指定都市の中で市立の美術館を持っていないのは神戸市だけだったんです。それで、神戸市が委員会のようなものを作って、美術館についてミーティングをしていたそうです。そこに杉山知子さんが別の用事で神戸市に呼ばれてたまたま来ていて。仕事後に、そのミーティングに誘われたそうなんです。

ただそこで話している内容が、杉山さんの思っているものではなかったそうで。建物のことばかりで、コレクションのことや、その中のプログラムをどうするとか、そういう話が欠落していたらしいのです。たぶん美術の専門家がいない状態だったと思うんですけど。それで傍聴の予定が、いろいろ発言されたみたいで。その後(知り合いのアーティストに声をかけて話し合いをした時)、文句を言って力尽きたら何も起きずに終わるっていうことに気がついて、自分たちで提案書を作ろうとなったそうです。

その時設立されたのが、C.A.P.(芸術と計画会議)で、11名からなるアーティストの集団だった。赤松玉女、石原友明、江見洋一、杉山知子、田辺克己、椿昇、砥綿正之、藤本由紀夫、マスダマキコ、松井智恵、松尾直樹の連盟による「これからの美術館」という提案書が現在でもウェブサイトで見ることができる【※1】。それはすでに評価の定まったアートの収集や展示をする、いわゆるハコモノの美術館ではなく、現在生きている作家と共につくり上げるソフト面を重視した美術館で、展示だけではなく、ラーニングシステム、地域連携、工房、アーティスト・イン・レジデンス、アーカイブなど、現在の日本のアートセンターでようやく実現してきているような内容が織り込まれた先進的な提案であった。

それぞれ活躍していたアーティストだったんで、ひとりで制作してひとりで発表していくっていうのが毎日の仕事だったんですけど、不満に思っていたことはそれぞれあって。それを一緒に話して、何か解決に向けて活動するのは商店街組合みたいな活動ですけど、やった方がいいだろうってことに気がついたようです。それで任意団体をつくって、みんなが思っていたことを神戸市に提案したようです。

杉山知子は、京都市立芸術大学出身のアーティストで、近年再評価が高まる「関西ニューウェイブ」の作家として知られ、抑制的な傾向のあるもの派とは対極の表現主義的で豊かな色彩、空間を覆うインスタレーション作品で注目された【※2】。吉澤美香や松井智惠とともに、『美術手帖』(1986年8月号)の特集「美術の超少女たち」に取上げられたこともある。バブル景気に至る好景気の中で、私的で華やかな表現が花開いた。1994年というのは、1988年の昭和の終わり、1989年の冷戦終結とベルリンの壁崩壊、1991年のソビエト崩壊、バブル景気の崩壊の後の混乱と小康期にあたり、未来に対して漠然とした不安が漂っていた。

神戸の旧居留地にスタジオを構えていた杉山と、いわゆる「関西ニューウェイブ」に位置付けられる京都市立芸術大学出身の作家は、80年代はコレクティブのような活動はしていないが、90年代に入り今まで距離のあった行政に対して提案をする活動を始めたことになる。それが1994年の10月のことだ。

そしたら翌年、震災がやってきて、神戸市の美術館のプランとか予算とか全部なくなってC.A.P.っていう団体が残ったんです。だからよく震災でできた団体とか言われるときがあるんですけど逆なんですよね。

僕が参加したのは震災が起きた年の5月か6月ぐらいだったんですけど、そのときは旧居留地ミュージアム構想っていうのをみんなで話していましたよ。C.A.P.に集まった人たちは震災をチャンスだと思ったんですよね。普通だったらできないことが、世の中のパラダイムを変えていくようなことができるんじゃないかと。

「これからの美術館」ではまだ理念を中心としたものだったが、震災を経た1995年、C.A.P.は、より具体的な提案である「旧居留地ミュージアム構想」【※3】を企画し、兵庫県、神戸市、旧居留地協議会などへ提案する。それは、「街全体が美術館」という副題が掲げられているように、旧居留地芸術センターを拠点に、居留地全体でさまざまなライブやシンポジウム、レクチャー、上映会などが行われる構想で、さらに国内外の美術館や大学とネットワークを組むという広がりをもったものだった。それはドイツのクンストハレやロンドンのICAのような存命している作家の紹介を中心にしたアートセンターで、ギャラリー、劇場、映画館、カフェなど複合的な機能を街全体に持つというイメージであろう。

旧居留地のブランドロイヤリティを保っていきたい、上げていきたいと思っている企業の人たちと、そこで美術の活動を先駆的に展開していくっていう自分たちの行為が結び付く。自分たちにはアイディアとかネットワークがあると。企業には持っている土地と建物、あと財力がある。一緒にやったらできるんじゃないかっていう、復興とは直接関係ないんですけど、こういうときじゃないと話を聞いてもらえないからチャンスだと思ったんですよね。それでびっくりして僕も入ることにしたんですけど。

杉山知子さん(2006年CAP HOUSEに設置された窯場にて)

アクト・コウベとCAPARTYの始まり

下田がC.A.P.に参加したことが、将来的なC.A.P.の活動に大きく関わることになる。

僕はポートアイランドのジーベックホールで働いていて、そこでは音楽よりも音そのものにフォーカスしたプログラムをずっとやっていました。できた当初から藤本由紀夫さんにずいぶん関わってもらって、展覧会を企画してもらったり、パフォーマンスだったりとかレクチャーやってもらったり、いろいろお付き合いがあったんです。

1989年に設立されたジーベックは、音響会社、TOAのグループ会社で、ポートアイランドに音のショールームというコンセプトで、1990年代に勃興するサウンド・アートのムーブメントを牽引する拠点になっていた。開館の年にブライアン・イーノの展覧会を開催し、1991年には、砥綿正之+松本泰章の伝説的な体験型インスタレーション《DIVINA COMMEDIA》や鈴木昭男のサウンド・パフォーマンスなど、多くの話題となる展覧会やコンサートを手掛けていた。TOAはこれらの活動により、1995年に企業メセナ協議会のメセナ大賞を受賞している。つまり、企業メセナという日本ではまだ少なかった文化の先駆例にもなっていた。下田はジーベックでプロデューサーとして勤務しており、国内外のアーティストと親交があった。

震災があったときに、フランスのマルセイユのアーティストたちが被災した神戸のアーティストたちに自分たちはお前たちのことを考えているという連帯の気持ちを伝えたいということでアクト・コウベっていう活動をしたんですね。それが150人ぐらい集まって、震災のあった年の4月から6月まで大体延べ2か月ぐらいマルセイユでずっとイベントをやったんです。

目的はお金集めではなかったが、結果的にいくらかの義援金が集まった。しかし、それをどこに送ればいいかわかなかった。そこで発起人のコントラバス奏者、バール・フィリップスが3月に来日し、まだ電車も動いていないなか、誰に渡せばいいのか確認しにきたという。

一緒に市役所に行って話を聞いたりとかしたんですけど、書道連盟の名簿が出てきたりしてどうも違う。ジーベックで受け取るのもどうかと思っているときに、藤本さんから面白い人たちがミーティングをしているから来ませんかと電話があったんです。

その時C.A.P.は、旧居留地ミュージアム構想を、兵庫県や神戸市に提案しているだけだったので、一般の市民に聞いてもらう機会をつくるのに使ったらどうですか?受け取ってくれませんかっていう相談をしたんです。

そして、ジーベックホールでC.A.P.のアートパーティ、CAPARTY【※4】が1995年10月28日に開催された。

フランスからだけでは足りなかったので他にも義援金を集めて、C.A.P.の旧居留地ミュージアム構想を土台にアートセンターって何だろうというシンポジウムをやったんです。その時のシンポジウムは、杉山知子さん、加藤種男さん、黄金町(エリアマネジメントセンター)をやっている山野真悟さん、メセナ協議会の荻原康子さん、井上明彦さん、芹沢高志さん、原久子さんが参加しました。

イベントはすごい手応えがあって、やっぱりみんな、提案書を書くだけじゃつまんないと。震災で電車も動いてないのに400人ぐらい集まったんですよね。これは続けていった方がいいのではないかとなったんですけどお金がない。居留地の企業に助けてくれませんかっていうことになって、それでサポーティングメンバーシップっていう寄付の制度ができたんですよね。

東日本大震災後もそうであるが、当初は自粛されていた文化芸術活動も、時間が経つにつれて飢えてくる。その現象が神戸でも見られていたのだ。

第1回目のCAPARTY:ジーベックホールにて

“CAPARTY vol.1 の締めくくりは 大倉流小鼓方 久田舜一郎氏の三番叟で祝った

CAP HOUSEの誕生

そこから、C.A.P.は毎年11月3日、CAPARTYを開催し、それ以外にも旧居留地にある杉山のアトリエに集まってミーティングを重ねていく。

ミーティングの後に毎回サロンがあって、毎回誰かひとりC.A.P.の他のメンバーが知らない面白い人、友達を連れてくるんです。あるとき竹中工務店の企画部の方が、神戸市が古いビルをデベロッパー計画を作って活用したいって言っていて、いま自分が企画で担当しているんだけど、アート関係で何かできないかということで相談に来られたんです。

それが現在もC.A.P.が一部運営を担っている海外移住と文化の交流センターの活用の話だったという。海外移住と文化の交流センターは、1928年に国立移民収容所として設立され、神戸移住センターなどに名称を変えて、南米、特にブラジル移住の中心となった。戦時中は軍に徴用されていたが、戦後は1994年まで看護婦の養成機関として使用されていた。翌年震災が起き、一時的に神戸海洋気象台の仮庁舎として使われていたが1999年に出払うことが決まっていたという。

当時の神戸市の市長が、日本で唯一現存している移住関係の歴史的に重要な建物なんで、何とか残して再利用できないかということで、ゼネコンとかいろいろなところに聞いていたらしいんです。それでいろんな案が出てきたけれど、神戸市が震災で破産していて、予算的に全部無理だった。

その中で手を挙げたのがC.A.P.だったというわけである。

1年間話をした中で、C.A.P.が寄付していただいて貯めていたお金を全部使って、半年間だけCAP HOUSE【※5】という実験をやりたいと言ったんですね。そのCAP HOUSEがスタートするとき、美術家だけじゃなくてアクト・コウベで出会った日本の音楽家とかダンサーとかいろんな人がいるんですけど、その人たちも一緒にCAP HOUSEの話をしたんですね。その頃から僕も割と本格的に関わりだして、CAP HOUSEをスタートする時はもう結構がっつり関わっていた感じですね。そして1999年の11月3日に、CAPARTYとして100人の大掃除を企画しまして、135人が参加しました。

CAP HOUSEは、CAPARTY Vol.8、「190日間の芸術的実験」と銘打たれ、1999年11月3日から2000年5月10日までの約半年間、参加者全員が清掃するところからスタートし、制作活動やオープンスタジオのほか、ブラジル移民センターメモリアルルームの開設、CAPギャラリー、イブニング・アートパーティー、ミニコンサート、映画上映会、図書室、カフェなど、「旧居留地ミュージアム構想」のアイディアも多数盛り込まれた。

190日間の芸術的実験って書いてあるように完全に実験で、空っぽのボロボロになっているビルにアーティストが入ると一体どんなことが起きるんだろうという実験だったんですね。だから、どんなことが起きたかを最後に発表しようっていうこと以外はほぼ何も決めなかったんです。何か予定があってそれに即して事業を進めるっていうやり方ではなくて、毎日大きいことを見つめて次の日が続いていくっていう。本当にそういう実験だったんですけど、それがすごくいろんなことを教えてくれた。

これは近年のプロジェクト主義、計画主義とは真逆の考え方である。目的や計画を決めることで、到達点や評価ははっきりするが、見えない可能性や偶発性を失うこともある。

まず大掃除したときにいろんな人が参加してくれて、これから190日間、実験しますよ、楽しみにしてくださいって言ったらどんどん人が来て、この部屋はアトリエにしようとか、この辺は綺麗にしてギャラリーを作ってみようとか、1階でカフェをやってもいいかなとか、いろんなことが次々起きて、人も増えて、建物の中が綺麗になっていったのはもちろんなんですけど、いろんな機能が備わって、それが有機的に動くようになっていって。そういうことを進めていくプロセスによって、人同士の関係もどんどんデザインされていった。新しく来る人はもうほぼ誰も拒まないし、出ていった人もまた戻ってきたりとか。その辺もすごくオープンで組織化しないっていう感じで、それがすごくよくて。いろいろなことが起こり続けたっていう感じですかね。

しかし、190日間が過ぎてもCAP HOUSEは終わらなかった。

その間に神戸市の副市長だった前野さんが、姉妹都市のブラジルのリオデジャネイロに行って、日系人の団体の人たちに会うんです。その人たちのお父さん、おじいちゃん、おばあちゃんのほとんどが実はこの建物からブラジルに出航している。ここから19万人の人たちが出ていて、ブラジルでも同じ船に乗って行った人たちのコミュニティがあるんです。世界で一番大きな日系人コミュニティのルーツはここだということで、潰さずに国立の移民ミュージアムにしてくれないかと副市長に頼んだんですよね。わかりました、という記事が神戸新聞の一面に出ちゃいまして。

しかし、5月にC.A.P.が出ると廃ビルになってしまっては困るということで、その間に神戸市から国に働きかけ、一部ミュージアムの準備として神戸市が資料展示も用意するということで、運営をしながら事業を続けて欲しいと依頼を受けたという。結局、神戸21世紀復興記念事業(復興記念事業をC.A.P.で請負、その事務所を建物内に設置する、という形で内々に使わせてもらっていた。玄関は時々開けて催しなど行った)としてCAP HOUSEは継続し、CAPARTYも継続して開催されていった。

CAPHOUSE内部 ミーティングの様子

NPO法人設立とCAP HOUSE プロジェクト

再び転機が訪れたのは2002年である。

2002年から資料の展示を神戸市がやるということが決まりまして、契約して管理をしてもらいたいと。契約するのに法人になる必要があるので、NPOになってくれませんか?という相談を受けたんです。当初C.A.P.のメンバーは全員反対だったんですけど、資金や継続運用のためにもしょうがないと、これしかないだろうっていうんで、NPOになっちゃたんです。

参加したメンバーが全員反対するにはそれなりの理由があるだろう。もともとC.A.P.の目的が組織自体を運営することではなく、外に提案し開いていくための団体だった。

NPOは、社会のために活動するという、公益性が高いから、特別な法人格が用意されているんですけど、C.A.P.の場合は自分たちのために活動しているっていうだけで誰か人にサービスするっていう気は誰も持ってなかった。ただ、活動を公開しているので誰でも入ってこられるし、皆さんにとってもすごく楽しかったと思うんですけど、人のためにサービスの仕組みを作っていくとか、資金を調達するとか、そういう考えは皆無だったんで、あんまりNPOはそぐわないんですけどね。

その後は、CAP HOUSEプロジェクトとして、旧神戸移住センターの活動を続けていく。そこから誰が舵取りをしていったのだろうか?

それは杉山さんですね。CAP HOUSEは、杉山さんの作品と言ってもいいんじゃないかと思います。

しかし、計画主義とは反対の実験的な活動や、誰もがオープンな体制はどうやって維持されたのだろうか?

芸術と計画会議というぐらいでしょっちゅう会議をやっていまして、ミーティング中でこんなことやりたいとか、あんなことしたらどうだとか、そんな話がずっと出て、言ったそばから誰かがやっていくっていう、そんな連続でしたね。

そのCAP HOUSE プロジェクトも2007年に転機を迎える。

CAP HOUSEプロジェクトの終了と新施設のオープン

2008年は、日本の移住政策100周年にあたるが、国立の移民ミュージアムはできなかった。そこで神戸市は市立として開館することを決定する。旧神戸移住センターも1年間の大改修に入る。

その間、建物を誰も使えなくなっちゃったんで、神戸市の人が新港第四突堤というポートアイランドの橋桁になっている上屋Q2号というところを使いませんかって言ってくれたんです。

それが「STUDIO Q2【※6】」である。そこは大きな部屋があって、東と西が全部窓になっており、個々がスタジオを持って活動するということには向いていなかったが、大規模のパーティやパフォーマンス、ミーティングには向いていた。近隣に住宅はなく、夜中に大音響で鳴らしても問題なく、よくオールナイトのコンサートが開催された。朝を迎えると、六甲アイランドの方の海から朝日が昇るという最高のロケーションだったという。

2009年の6月に、旧神戸移住センターの改修工事が終わって、指定管理者で戻ってきたんですけど、神戸市の人はてっきりそれで、STUDIO Q2も手放してこっちに移動すると思っていた。僕らも最初そう思っていたんですけど、やっぱり両方やろうということになって、両方を運営するっていう時期が2009年から始まります。

STUDIO Q2

神戸市立海外移住と文化の交流センターの開設と指定管理者の受任

2009年6月、旧神戸移住センターの建物は改修工事を経て、条例施設として神戸市立海外移住と文化の交流センターが開設される。C.A.P.は指定管理者の一員として建物に戻ることになる。そこではC.A.P.の運営するアートプロジェクトとして、アーティストがスタジオで制作しながら、活動を公開して広報したり、ワークショップや展覧会などのプログラムを組む「CAP STUDIO Y3」 (2009-2014の名称。現在はKOBE STUDIO Y3)【※7】が始まった。また、1階ではカフェ「CAP CAFE & SHOP y3」を開店し、アーティストグッズの販売や展覧会、イベントの開催を行うようになった。

上屋Q2号でのプロジェクトは、「CAP STUDIO Q2」から「CAP CLUB Q2」に変更された。

指定管理のモデルがCAP HOUSEなんですよ。つまり自分たちがやってきたようなことを指定管理料をもらってやることになった。周りの人には当然すごく羨ましがられたんですけどね。ただ、実際はやることが段々ルーティン化していきました。また、神戸市立になったことで、新しく参加してくれる人にとっては神戸市がやっている割と安いスタジオが使える変わった施設みたいな印象になっていたと思います。

そこで当初のメンバーと新しく来るメンバーの間に、意識のずれが生じたという。当初のメンバーはルーティンに飽きているし、新しいメンバーはスタジオを使いたいだけなのに、やらなければいけない他の業務が多くなっていた。

2009年から4、5年経った頃に、もうC.A.P.やめようかって話になりました。最初に考えた「これからの美術館」、つまり今、この地域で活動しているアーティストが何しようとしているのかがわかる場所を美術館と言ってもいいんじゃないかということを、神戸市立の施設として実現させてしまった。20年もアーティストなりにこういうことをやってきたのでもう飽きた。それでC.A.P.をもう解散して、この仕事もやめようみたいな話が2014年の1年間ずっと続いたんですよね。

初期メンバーの引退と新しい連帯へ

さらに、スタッフが増えているわけではなく、「CAP CLUB Q2」のプロジェクトも継続していたことも負担になっていた。「CAP CLUB Q2」はオールナイトでライブがあって、その後に、「CAP STUDIO Y3」の仕事をするということもあったという。しかし、下田はジーベックから移籍し、NPO法人の指定管理の仕事を専任にして生活をしていたので辞めるわけにはいかなかったという。

最初のメンバーがほとんど抜けて、14年から15年に切り替わるあたりに、大きな中身の変更があったんです。2009年以降、税金でやっている事業ですから、ここは指定管理料でやるべきだと。しかし、Q2とか1階のカフェは指定管理の仕事ではないので、寄付金でまわすと。すごいきっちりしたお金の出元と、やっている事業の振り分けをしたんですけど、それを維持するにはマンパワーが追いつかなくなるんです。

そして2014年末をもって、C.A.P.の初期メンバーが辞めると同時に、1階のカフェもQ2も返却して、最小限度の事務所機能を残して指定管理の事業に絞ることになった。

ずっと続いてきた寄付者の制度も一旦募集停止したんですね。そのときに何か次に新しく面白いことが見つかるまでは寄付の募集を休みました。これまでありがとうございましたみたいな手紙も添えて。

つまり、この時点で杉山知子とその仲間による「これからの美術館」の提案からスタートしたC.A.P.は、震災やCAP HOUSE、Q2、指定管理者の事業を経て一度終了したことになる。BankART1929やアーツ千代田3331など、現在でこそ、アートプロジェクトに端を発する常設のセンターは、さまざまな場所で開設されるようになったが、C.A.P.は初期の成功例といってもよい。しかし、アーティストが継続して施設の管理までに関わる必要もない。その意味で、C.A.P.は下田を中心として、新しい人材を育成したり、ネットワークを築いてく第2フェーズへと移行していく。

See Saw Seedsが出てきたのはその後なんですよね。なんか面白いことないかなと考えてたら、それまでも、最初にフランスの人たちと関わったりしてたので、その後もいろいろ海外に行って、そういう活動をしている人たちのところを訪ねていったら、すごく楽しいだろうなと。そこで、海外のグループと何かできないだろうかと思ってスタートしたのがSee Saw Seedsで、これは指定管理の仕事じゃなくなっちゃうんで、またお金が必要になって寄付制度の復活をそこでしました。

それは同時に、最初にフランスの人々からの連帯の意思から始まったC.A.P.の原点回帰ともいえるものだろう。そこから現在までの流れは次回紹介していきたい。

C.A.P.の過去について教えてくださった下田展久さん

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注釈

【※1】C.A.P. HPから|「これからの美術館」神戸市の美術館構想に対するアーティストからの提案
(最終閲覧:2023年2月22日14時00分)

【※2】80年代を再考する2021年の展覧会「関西の80年代」(兵庫県立美術館)に杉山さんも参加しており、そのアーカイブをART360°公式ウェブサイトで見ることができる。https://art360.place/exhibitions/kansai-contemporary-art-of-the-1980s/
(最終閲覧:2023年2月22日14時00分)

【※3】C.A.P. HPから|街全体が美術館「旧居留地ミュージアム構想」
(最終閲覧:2023年2月22日14時00分)

【※4】C.A.P. HPから|CAPARTY Vol. 1 (C.A.P.+Art+Party)
(最終閲覧:2023年2月22日14時00分)

【※5】C.A.P. HPから|CAP HOUSEについて
(最終閲覧:2023年2月22日14時00分)

【※6】C.A.P. HPから|STUDIO Q2について
(最終閲覧:2023年2月22日14時00分)

【※7】KOBE STUDIO Y3
(最終閲覧:2023年2月22日14時00分)

INTERVIEWEE|下田 展久(しもだ のぶひさ)

C.A.P.[芸術と計画会議]代表。
和光大学在学中にアルファレコードより「ムーンダンサー」リリース。エレキベースを演奏。1988年、神戸に移りジーベックホールで企画制作プロデュース。
1995年、阪神大震災の直後、フランスの音楽家から義援金の引渡し先について相談を受ける。藤本由紀夫さんの紹介でC.A.P.のミーティングに参加。C.A.P.はフランスからの義援金を利用してジーベックでCAPARTYを実施。C.A.P.に参加、2015年よりC.A.P.の代表となる。

INTERVIEWER|+5編集部

WRITER|三木 学(みきまなぶ)

文筆家、編集者、色彩研究者、ソフトウェアプランナーほか。
アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人:https://etoki.art/about
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。
美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。