各地域でアートネイバーが繋いできたアートの活動や関係性、そして歴史を多視点で記録する、「LOCAL ART +(ローカルアートプラス)」。本企画では地域を、芸術祭やイベントなど催事の観点だけではなく、「人」の視点で再読しようと考えています。立場の異なるアートネイバー数名から話を伺い、該当地域に関連のある記録者がレポーターとして記事を担当。2回目となる今回は、独自の歴史とアートの生態系を有する広島県を、同県のアートメディア「ひろしまアートシーン」と連携して掘り下げていきます。執筆はアートスペース「タメンタイギャラリー鶴見町ラボ」で多様な活動を実施する山本功(やまもといさお)さんにお願いしました。
なお今回は主に2000年代以降の広島のアートシーンを振り返りながら話を進めたましたが、特に戦後から2000年までの話も、シーンの理解には当然不可欠であり、そこは「ひろしまアートシーン」で特集を組む形で連携していきます。最後にリサーチ段階から取材まで、丁寧にご対応、ご協力してくださった広島の皆さんに、改めてお礼を申し上げます。
(+5編集長|桐惇史)
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地方のアートシーンと一言でいえど、シーンの特色は地域ごとに異なる。筆者の美術への関心はこの点から始まっている。もともとは人文地理学を専攻し、人間と場所の関係を文化から考えることをしていた。そこから地域に入り込んで仕事をしたいと香川県直島の財団に就職し、美術と関わり始めた。2018年に地元広島に戻り、アートマネジメントに携わってきた。2021年からは「タメンタイギャラリー鶴見町ラボ」というスペースも構え、地域のシーンを支えるための活動にも微力ながら携わっている。手前味噌ながら、いまの広島のシーンは面白い状況にあると思う。特徴的な空間を生かした個性的なアートスペースが次々に誕生し、それぞれがさまざまな交流を仕掛けている。
はじめに広島地域の文化芸術シーンを概観しておこう。広島県立美術館は中国地方初の公立美術館として1968年に開館しており、1978年設立のひろしま美術館など充実したコレクションをもつ私立美術館も少なくない。このように多様な主体がそれぞれの役割を果たしながら形成しているのが、いまの広島の現代美術シーンだが、なかでも同時代の表現を支える存在として欠かせないのが、日本初の公立の現代美術館である広島市現代美術館と、芸術学部を有する広島市立大学と尾道市立大学といったところだろうか。両者が設置されたのは平成に入ってからのことであるが、広島ではそれ以前から同時代的な表現活動が活発に行われてきた。
それにあたり、被爆都市としての文脈にも触れねばなるまい。広島市は戦後「国際平和文化都市」を基本理念として掲げ、文化を尊重する姿勢を全面にしてきた【※1】。広島市現代美術館や広島市立大学への芸術学部設置もこの方針と無関係ではない。
ここで留意すべきは、戦前から続く市民の表現活動の文脈と、戦後の文化政策の延長としての現代美術への取り組みは、一朝一夕に接続されたわけではないということである。とはいえ若輩者の筆者の断片的な見識では、地域の美術史を現代の取り組みと接続することは身に余る。そこで、広島市現代美術館の松岡剛さん、アートギャラリーミヤウチの今井みはるさん、尾道市立大学教授の小野環さん、アーティストの黒田大スケさんという4名の「先輩」に、主に2000年代以降の地域のアートシーンの変遷について、それぞれの立場とキャリアに照らし合わせながら振り返ってもらった。4名の話を通して、さまざまなバックグラウンドをもつ多様なアクターが地域の資源と関与することで、現代美術の動向とこの街の文脈が互いに影響を与えあってきたということがわかるだろう。
まず、今回お話を伺った4名が広島のアートシーンと関わりを持ち始めた2000年以前の状況を確認しておこう。広島市現代美術館は1989年に開館、広島市立大学は1994年に開学した。
松岡:1990年代、広島の文化シーンはひとつのピークを迎えていたように思います。広島市現代美術館がオープンした1989年には海と島の博覧会があり、その後も1994年にアジア競技大会が開かれました。また1995年は被爆50周年を迎え、さまざまな記念企画が展開されるなど、大きなイベントが続きました。加えて、広島大学が市内中心部から東広島市へと移転したのもこの頃でした【※2】。もしかすると文化の担い手が交代するタイミングとも重なっていたのかもしれません。
ほかにも、1996年に広島県立美術館がリニューアルするなど、この頃に広島市の文化芸術はひとつ転換期を迎えていたことがわかる。また、1990年代にかけて広島市では都市開発に積極的な投資がなされたが、これがその後の財政難につながり、2003年には財政非常事態宣言を発出するに至っている。この影響もあり、広島市現代美術館も2001年から長きにわたって購入予算はゼロが続いた。そんななかで、広島市現代美術館は開館以来、隔年で公募展「広島の美術」【※3】を開催し、地元のアーティストの活動を現代美術の文脈と引き合わせることを続けていた。
松岡:「広島の美術」では、当時の応募者は若手というよりも30-40代が中心で、教員など、別の仕事をしながら制作活動をつづける人たちがほとんどでした。
この頃、後に広島市立大学に赴任する現代美術作家の柳幸典【※4】は広島市現代美術館で個展を開催している。それまで広島とは地縁がなかった作家による個展は、市内ではまだ珍しく、その後の美術館の作家選定方針にも影響を与えるきっかけにもなったそうだ。
松岡:2000年から翌年にかけて柳さんの個展を広島市現代美術館で開催しているんですけど、それまで美術館で個展を開催するのは、特に国内の作家の場合は広島との縁を求められていた時代でした。柳さんの個展は出原さん【※5】の企画で、美術館に入って間もない私はお手伝いくらいだったんですけど、ローカリティの要素を取り払って、見せるべき作家だと展覧会を構成したことは当時としては珍しいことでした。しかしそれが特に問題にならずに開催できたことで、美術館にとってもひとつの転換点となった部分はあると思います。
さて2000年前後の状況としては、1994年に開学した広島市立大学は最初の卒業生や修了生を世に送り出しはじめた頃である。尾道では2001年に短期大学を改組した尾道大学(2012年に公立大学法人へ移行し尾道市立大学に改称)が設置された。
この頃、美術館以外で、現代美術の表現場所として機能していたのが「ヒロシマ・アート・ドキュメント」【※6】とその会場となった旧日本銀行広島支店である。「ヒロシマ・アート・ドキュメント」はフリーキュレーターの伊藤由紀子が中心となって1994年から手掛ける国際展である。自身の海外経験のなかで蓄積した独自のネットワークを通じた企画は現在まで続いており、この頃は旧日本銀行広島支店を会場としていた。
旧日本銀行広島支店は1936年竣工の被爆建物である。1992年まで日本銀行の広島支店として利用された後、支店の移転に伴い2000年に広島市に無償貸与され、2001年からは文化活動のためのスペースとして暫定利用されている【※7】。小野さんは2003年、2008年と「ヒロシマ・アート・ドキュメント」に作家として出展している。
小野:広島のシーンの第一印象は伊藤由紀子さんを通してでした。初めて参加した2001年の「ヒロシマ・アート・ドキュメント」には中堅やベテランの作家も多く参加していて、伊藤さんの紹介で仲良くなりました。伊藤さんは当時そのほかにも「ヒロシマ 都市×芸術」【※8】などさまざまな展覧会を企画しており、その多くは旧日本銀行広島支店を会場にしていました。よく自分を誘ってくれていたので、その多くに参加していましたね。松岡さんと初めて出会ったのも、その頃のレセプションの場だったのではないかと思います。
このように、広島市内では以前からインディペンデントな企画を通じたアーティストの交流があったことがわかる。そんななか、広島市立大学も都市との関わり方を模索していた。2001年に都心部の地下街「紙屋町シャレオ」などを舞台に開催された「アートクロッシング広島プロジェクト」【※9】はその一例だろう。
今井:2001年に広島市立大学芸術学部デザイン工芸学科に入学した時に、学内で「アートクロッシング・広島プロジェクト2001スプリング」の告知を見たのを覚えています。ただ当時は見に行った記憶がありません。残されたカタログをあとから眺めて、県外からゲストアーティストが多数呼ばれていたことを知りました。
ほかにも、「歴史的建造物と芸術の共振」【※10】などの例もありました。全国的にも、1999年に東京藝術大学が取手キャンパスに先端芸術表現科を新設したり、「取手アートプロジェクト」【※11】を展開した例など、大学が学外で展開するプロジェクトが一種の流行となった時期でもありました。
今井さんと同世代だが、東京で数年間浪人したのちに広島市立大学に入学した黒田大スケさんも、美術が都市へと展開していく流れを横目に学生時代を過ごしていた。しかしその教育方針は、すべての学科に一貫していたものではなかったという。
黒田:当時の彫刻科はクラシックな教育方針で、なかば強制的に人体彫刻を作らされるばかりで面白くありませんでした。ぼくはもともと街や都市に興味があったのもあり、学外の活動によるつながりが広がっていました。NPO法人セトラひろしま【※12】に関わったり、演劇活動に精を出したり、あとはgallery Gでアルバイトもしていました。
一方尾道では、2001年に芸術文化学部を有する尾道大学(現在の尾道市立大学)が設置され、広島市とは異なる道筋を辿ってアートが都市に展開していた。
小野:「尾道帆布展」が始まったのがこの頃でした。当時武蔵野美術大学テキスタイルコースの学生だった新里カオリさん【※13】と重森亜紀さんという2人がローカルなプロジェクトとしてはじめたもので、各地の若いアーティストを尾道に呼んで、尾道の帆布を素材に滞在制作をしてもらい発表するという、アーティスト・イン・レジデンスのような企画でした。
尾道はいまでこそたくさんの観光客で賑わっていますが、当時はあまり元気がなく、商店街も空き店舗だらけでした。大学の一学年後輩で、2005年に尾道に移住していた三上清仁くん【※14】が尾道帆布展に参加するというので2000年に初めて尾道を訪れました。
そこから自分も尾道で教員になったことでこのプロジェクトに関わるようになり、活動を手伝うようになりました。百島や商店街など、会場を変えながら展開していたのですが、自分は特に空き店舗に興味があり、シャッターの奥がどんなふうになっているんだろうという好奇心もあって、商店街の空き店舗を舞台になにかをしたいイメージを強くしていました。それが後のNPOの活動やAIR ONOMICHI(後編を参照)にもつながっていくことになります。
尾道での活動のかたわら、アーティストとして広島のシーンに関わっていた小野さんから見ると、広島市で国際的なシーンとの接続を図るインディペンデントキュレーターによる動きは印象に残っていたそうだ。
小野:尾道を拠点にしていながら、個人的に当時の発表の場はほとんど広島市、なかでも旧日本銀行広島支店でした。広島では伊藤由紀子さんのようなインディペンデントなキュレーターがいて、ドミニク・ゴンザレス=フォスターやダグラス・ゴードンなど、海外の錚々たるアーティストが参加するとがった企画が展開されていたのを覚えています。旧広島陸軍被服支廠や旧日本銀行広島支店を舞台に、広島ではなにかが動いていることを認知していました。
ところで、当時のシーンを物語る発表の場として、美術館やギャラリーではなく被爆建物や地下街のような一見展示に不向きな場ばかりが登場することが、少し奇妙に映るかもしれない。こうした点について、自身も各所で展示を企画していた黒田さんは次のように語る。
黒田:当時の広島にもギャラリーはいくつかあったのですが、商業的なバックグラウンドをもつところが多く、たとえば学生が自由に展示できるような場はほとんどありませんでした。大学も山の上で、市内中心部から離れたところだったので、なにか企画をするとなれば、必然的に選択肢としてどこか空いている場を検討することになります。広島で条件にあう空間となると、市民の文化活動に開放されていた旧日本銀行広島支店のような被爆建物が多く、自然と原爆と表現について考えざるを得ない状況はあったかと思います。
2000年前後から広島市立大学の卒業生の活動が見られるようになり、この頃を境に、企画を動かす人間関係の力学に変化が生じ、それまでとは異なる広島のアートシーンが生まれたのではないか、と黒田さんは言う。
黒田:なんとなくのイメージですが、1990年代や2000年代頃までは、アーティストどうしがゆるやかなコミュニティをつくりながらイベントを動かしていたところがありました。コレクティブとまでは言わないまでも、それに準ずるような協働をしていた人たちが、この頃それぞれに活動するようになっていきました。同時に大学のつながりによる動きが出てきたように思います。
こうした背景とあわせて、全国的に表現のメディアと発表の場が多様化していく流れもあった。そうして2000年代の中盤以降、各所で同時多発的にプロジェクトが展開していく。たとえば長崎県南島原市では、広島市立大学の彫刻学科関係者を中心としたアートプロジェクト「北村西望生誕地現代彫刻プロジェクト」が2004年と2006年の2回にわたって開催された【※15】。黒田さんはこうした先輩の企画を手伝うところから、ノウハウを吸収していったという。
黒田:長崎県の南有馬(現在の南島原市)のプロジェクトは、博士課程の先輩方が企画されたものと聞いています。ぼくは広島市立大学の10期生で、ちょうど初期に入学した彫刻家の和田拓治郎さんなどが博士課程を終え、助手になり始めていた頃でした。木村東吾さんら先輩方が各地でプロジェクトを企画されており、学生として手伝いにいっていました。そこで、展覧会の作り方を見聞きしたり、助成金の申請書を書いてみたりと、諸先輩がたに教えていただきながら、自分も見様見真似で吸収していきました。
こうして、黒田さんは2006年から連続企画「ヒロシマ・オー」をスタートする。
黒田:当時、友人と演劇のようなこともしていて、共同制作の難しさを感じていた時期でした。並行して、gallery Gの木村さんの運営されていたgallery HAPで展示する作家を探すお手伝いもしていました。共同制作に比べて個人的な表現活動の集まりである展覧会は、自主企画でもそれほど難しくないだろうと思ったんです。ただ当時は無名の学生だったので、まずはいろいろな人を集めて展覧会を作っていこうとはじめたのが「ヒロシマ・オー」でした。
今井:旧日本銀行広島支店や、ときには河川敷なども舞台にしながら、作家として経験を積んだアーティストだけでなく、いろいろな専攻の学生も含めて数年間にわたって毎年開催された企画として、ヒロシマ・オーは大きな動きだったと思っています。これが学内外の横のつながりにもなっていったのではないでしょうか。
またこの時期、広島市立大学はいくつかの変化を迎える。2005年に国際的なアーティストとして活躍する柳幸典が芸術学部に准教授として赴任した。また、デザイン工芸学科の中でも現代美術の表現を学びながら美術作品の制作にも取り組んでいた空間造形専攻が2006年に現代表現領域と改組したほか、2007年に社会連携センターが設置されるなど、大学が社会と接点を持つことへの要請に応える組織改革も行われた。
今井:柳さんが大学に来た翌年に現代表現領域(Contemporary Art and Theory)へ改組され、コースの特徴としてアーティストだけでなくマネジメント側の育成も始まり、私はその過渡期の学生のひとりでした。コーディネーターやマネージャーは黒子になりがちな存在ですが、後ろに回らず意見やアイデアを積極的に出すようにとずっと言われていたのを覚えています。それは、柳さんがアーティストとしてだけでなくキュレーションやディレクションを手掛けるようになったことから、アーティストとキュレーターやコーディネーターがそれぞれ意見を出し合うことの意義を伝えたかったのではないかと思います。
そして2007年には、柳がアートディレクターを務めた「広島アートプロジェクト」がスタートした。今井さんはこのプロジェクトのスタッフをしていた。
今井:広島市の古いゴミ処理工場(旧中工場)を実験的なアートを生み出す工場として、そして旧日本銀行広島支店を広島でのアート活動の発信拠点とする「アートセンター構想」を指標として始まったプロジェクトです。初年度となる2007年は「旧中工場アートプロジェクト」として、2008年から「広島アートプロジェクト」という名称に統一して展開しました。私は2007年のプロジェクトを準備をしている当時大学院生で、会場となる旧中工場と旧日本銀行広島支店の間の吉島地区一帯で展開する企画を担当していました。
国際舞台で活躍するアーティストがディレクションを一手に引き受けた企画は、地域のシーンにも刺激を与えるものだった。
今井:旧日本銀行広島支店はいまでこそ被爆建物としての印象が強いですが、そもそもは国有銀行の支店機能を持つ場所でした。そこを舞台に、「国家と貨幣」というテーマを掲げ、国内外のアーティストを招いて企画を展開するさまは刺激的でした。
当時、大学の外の人たちとつながる機会が少なかったことが印象に残っています。そんななか、このプロジェクトには総勢70名くらいのアーティストが参加しており、私にとっては大学以外のアーティストと関わるほとんど初めての機会でした。また当時広島市現代美術館の学芸員の神谷さんも確か2008年から実行委員のおひとりだったので、美術館の方とのつながりもそこで初めて生まれました。
松岡:旧ゴミ工場を舞台に、地域の文化資源を展覧会によって活性化していくやりかたは、美術館にはできないオルタナティブな見せ方だったと思います。柳さんはあらゆる意味でグローバルスタンダードを広島というローカルな場所に持ち込んだ人だという印象が強いです。
一方尾道では、広島市内とは違ったかたちでオルナタティブな展示空間が開発されていった。
小野:2007年からアーティスト・イン・レジデンスを始めたのですが、これにともなって尾道市内での活動範囲が広がっていきました。尾道帆布展に関わり始めた当初の活動範囲は商店街の周辺が中心でしたが、斜面地の空き家や廃墟を整備する活動にも取り組むようになりました。
拠点スペースでいうと、尾道には光明寺會館という場所があります。2009年にリノベーションして、2011年からはカフェもオープンし、展示や交流のためのプロジェクトスペースとして現在も続いています。
また2000年代の広島市内では、その他にも市民発の動きがあった。一例として、ひろしまアートシーンでインタビューする木村成代さん【※16】の周辺の動きを紹介しておく。木村さんは、1988年に広島市中区鶴見町でギャラリーバトームーシュ(-1995)を開いて以来、Art Space HAP(1995-2013)、gallery G(2004-)の運営に携わり、地域のなかでさまざまな役割を果たしてきた。gallery Gは、当時広島で最も高いビルだったアーバンビューグランドタワーの公開空地に2004年にオープンしたギャラリーで、木村さんは自身が代表を務めたArt Space HAPの傍らで、gallery Gの企画運営にもオープン当初から携わっていた。当初は大規模な予算をもとにしたプロジェクトが動いていたgallery Gだったが【※17】、タワーの運営会社が2008年に破綻したことにともない、木村さんがgallery Gの運営も引き継ぐことになる。
スペースの運営だけでなく、地域の関係者を巻き込んだ動きのハブとなる役割も果たしてきたNPO法人セトラひろしまなどとともに、いくつもの市民団体を結成しその事務局機能を担った。岡本太郎壁画誘致運動(2005-2008)や、広島市現代美術館や旧日本銀行広島支店を会場に2005年に開催された「岡部昌生展 シンクロニシティ(同時生起)」【※18】に向けた「ヒロシマを擦りとる1万人のワークショップ」等を展開した「岡部昌生展広島市民サポーター会議」などがその例である。
こうした市民と美術の関わりの広がりは、美術館にも影響を及ぼした【※19】。広島市現代美術館では開館以来継続してきた公募「広島の美術」の役割を見直す議論が交わされた。
松岡:ちょうどこのころ、美術館として公募展の役割を見直すべきではないかという議論があったのを覚えています。背景にはやはり旧日本銀行広島支店のような場での企画の盛り上がりがありました。市民の発表の場としての公募展は役割を終えつつあるのではないか、美術館としてもうすこしべつのかたちを考えなければならないのではないかと、盛んに議論が行われていました。
こうして公募「広島の美術」は2003年の第8回を最後に終了し、2007年から新たな公募企画がスタートするに至る【※20】。
これらの動きは、現代美術の表現文法が日本でも広がっていく過程とも符合する。伝統的な素材だけでなく「ミクストメディア」と呼ばれるような素材の組み合わせた表現が広がった。また、広島市立大学の初期の卒業生が後進を育成する立場となった時期でもある。海外留学なども経験した彼らは、さまざまな引き合いも受けながら各所で自らプロジェクトを企画していった。こうして広島で現代美術の発表をする場と作家を育てる環境が少しずつ整備されていった。加えて、原爆投下から時間が経ち、空間の文脈が変化し、少しずつ多様な扱い方が可能になってきたことも無関係ではないだろう。これらが被爆建物や空き家などの役目を終えた空間と出会うことで、独自の文化資産が蓄積されていった。
ここまでで培われた人的ネットワークや企画ノウハウの蓄積は、2010年代以降に本格化する新たなスペースの勃興や国際的なシーンとの独自の接続につながっていくのである。
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広島のアートシーンに関しては「ひろしまアートシーン」のARTICLE欄でも断片的に紹介がなされている。+5では今回、主に2000年代以降のアートシーンを紹介したが、「ひろしまアートシーン」では、木村成代さんへのインタビューを通して2000年代以前の広島のアートシーンについて市民目線で掘り下げる予定である。ぜひご覧いただきたい。
【※1】「国際平和文化都市」の理念とは裏腹に、特に近年の広島市の文化行政は全国的に見て積極的とはいい難い。広島市は政令指定都市のうち文化芸術推進計画等を策定していない唯一の自治体であり、芸術文化事業費も政令指定都市のなかでは最低レベルで推移している。詳しくは下記も参照されたい。
山本功「国際平和文化都市広島における新たなアニメーションのイベント『ひろしまアニメーション2022』が残した足跡」ひろしまアートシーン、2022
(URL最終確認:2025年4月29日)
【※2】 広島大学は、広島市中区の本部(現在の東千田キャンパス)から約35km離れた東広島市に1995年3月に移転完了した。
【※3】公募「広島の美術」は、広島市現代美術館が開館以来開催していた公募展。2003年の第8回まで隔年で開催された。広島県(第1回のみ広島市)の出身・在住・在勤・在学者を出品資格とした市民参加型の展覧会が目指された。
松岡剛「『公募』の変遷」『美術館の七燈』 松岡剛・角奈緒子編、広島市現代美術館、156-157頁、 2019。
【※4】柳幸典(やなぎゆきのり)
1959年福岡県生まれ。武蔵野美術大学大学院造形研究科卒業、イエール大学大学院美術学部彫刻科修了。広島市立大学芸術学部准教授を務めた(2005-2015年)。2012年からは広島県尾道市の離島である百島で「ART BASE 百島」を展開する。
【※5】出原均(ではらひとし)
1958年徳島県生まれ。1986年広島大学地域研究科修士課程修了。同年広島市現代美術館の準備室に入室し、1989年の開館から2005年まで同館学芸員。現在はアーツ前橋館長を務める。
【※6】ヒロシマ・アート・ドキュメント
インディペンデントキュレーターの伊藤由紀子が結成したクリエイティヴ・ユニオン・ヒロシマが1994年からはじめた現代美術展。旧陸軍被服支廠や旧日本銀行広島支店などの被爆建物を舞台に、海外からもアーティストを招いた企画展を毎年開催してきた。近年は半べえ茶室を会場に、現在に至るまで活動を継続している。
(URL最終確認:2025年4月29日)
【※7】旧日本銀行広島支店
日本銀行は、旧日本銀行広島支店が国の重要文化財に指定された場合は広島市に贈与する方針であり、それまでは維持管理費用を広島市が負担することによる無償貸与という扱いになっている。
(URL最終確認:2025年4月29日)
【※8】「ヒロシマ 都市×芸術」
美術家の佐古昭典、原仲裕三、建築家の小川晋一や広島市立大学の教員グループ(大井健地、鰕澤達夫、吉田幸弘、笠原浩)が参加。海外作家や音楽家もいた。
【※9】「アートクロッシング広島プロジェクト」
学内スタッフや学生、国内外のアーティスト、総勢33名によって「旧日本銀行広島支店」「紙屋町地下街シャレオ」「アストラムライン」「広島市立大学芸術資料館・オープンエアスペース」といった5つの会場で開催された。
【※10】歴史的建造物と芸術の共振は、広島市立大学特定研究として行われたプロジェクトで、1995年から1998年まで3回にわたって開催された。「広島市に残された歴史的建造物を会場として芸術展示を行い、歴史と向かい合いながら独自の芸術表現を築く」ことを研究目的に、実験展示とコンサートを開催した。広島大学学校教育学部附属旧図書館、日本通運広島海運支店倉庫、サントリー広島工場跡地などが会場となった。
前川義春ほか「都市の成熟と芸術の役割り:歴史的建造物と芸術の共振」広島市立大学芸術学部紀要 3:60-65頁、1997;前川義春ほか「都市の成熟と芸術の役割:歴史的建造物と芸術の共振 No. 2」広島市立大学芸術学部紀要 4:72-81頁、1999;前川義春ほか「都市の成熟と芸術の役割 : 歴史的建造物と芸術の共振 No. 3」広島市立大学芸術学部紀要 3:70-73頁、2001。
【※11】取手アートプロジェクト
(URL最終確認:2025年4月29日)
【※12】NPO法人セトラひろしま
商店街と市民が連携したまちづくり団体。2003年の設立以来、現在に至るまでさまざまなイベント企画等を展開している。
(URL最終確認:2025年4月29日)
【※13】新里カオリ
(URL最終確認:2025年4月29日)
【※14】三上清仁
1973年鹿児島県生まれ。1999年東京藝術大学大学院美術研究科壁画専攻修了。小野さんとアーティストユニット「もうひとり」を結成し活動。光明寺會館代表。なかた美術館ディレクター。
【※15】北村西望生誕地現代彫刻プロジェクト
長崎平和祈念像を制作した彫刻家北村西望の生誕地である長崎県南高来郡南有馬町(2006年に周辺8町と合併し南島原市となる)で2004年と2006年に開催されたアートプロジェクト。2004年は他にも、広島市立大学芸術学部の博士課程のチームで「音戸アートスケープ」を音戸町(2005年3月20日に廃止。呉市に編入された)で開催していた。詳細はこちら:『「音戸アートスケープ ゲニウスロキ2004」展』artscape
(URL最終確認:2025年4月29日)
【※15】木村成代
1962年広島市生まれ。詳しくは、ひろしまアートシーンで公開するインタビュー記事を参照のこと。
【※16】ル・コルビュジエにまつわる建築展や、岡本太郎壁画誘致運動の関連展示など、自主企画の展示も盛んに開催していた。
【※17】岡本太郎壁画誘致運動
長い間行方不明となっていた岡本太郎の巨大壁画「明日の神話」が2003年にメキシコで発見されたことを受け、壁画を広島に誘致する運動が起こった。市民団体「岡本太郎『明日の神話』広島誘致会」の運営委員には木村さんも名を連ね、署名や募金活動に加えてgallery Gで岡本太郎関連展示を企画するなど、キャンペーンの中心的な役割をになった。しかし最終的に壁画は東京都渋谷区に恒久展示されることとなり、誘致会も2008年に解散した。
竹澤雄三「岡本太郎『明日の神話』広島誘致顛末記(一九五四〜二〇〇九)」藝術研究、21・22:1-19頁、2009。
(URL最終確認:2025年4月29日)
【※18】岡部昌生展 シンクロニシティ(同時生起)
広島市現代美術館や旧日本銀行広島支店を会場に2005年に開催された。同展は、港千尋がコミッショナーを務めた2007年のヴェネチア・ビエンナーレ日本館の展示のベースとなった。
【※19】広島県では広島市現代美術館による公募のほかに、広島県教育委員会が主催する広島県美術展が広島県立美術館を会場に開催されてきた。1949年に始まったものだが、次第に審査の公正さをめぐる疑念や応募数の減少といった課題を抱えるようになった。そこで2013年より「新県美展」としてリニューアルされ、現在に至っている。
【※20】「新・公募展」は、それまでの公募「広島の美術」をリニューアルし、2005年にスタートしたもの。募集対象を広島県内だけでなく全国に広げ、形式も大幅に刷新した。2007年の第2回「新・公募展」では、Chim↑Pomが大賞となる広島市現代美術館賞を受賞したが、これを受けて翌年開催される予定だった個展の準備期間中に広島市上空に飛行機雲で「ピカッ」と書いた行為が批判を浴び、展覧会も中止された。翌2007年からはこの「新・公募展」に代わって「ゲンビどこでも企画公募」が始まり、作品の優劣だけでなくユニークな場所の捉え方を受け入れる企画公募が2020年まで毎年開催された。
松岡剛「『公募』の変遷」『美術館の七燈』 松岡剛・角奈緒子編、広島市現代美術館、2019、 156-157頁。
Chim↑Pom・阿部謙一編『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』無人島プロダクション、2009。
アートギャラリーミヤウチ学芸員。広島県東広島市生まれ。2007年広島市立大学大学院芸術学研究科修士課程現代表現領域修了。2007年より広島アートプロジェクト、アートベース百島などで展示コーディネートや地域連携を担い、2012年よりギャラリーの開館準備と共に現職。アーティストとの共同企画の展覧会や、体験プログラムの企画を中心に、実験的な場と学びのきっかけが生まれる場を目指す。その他、2023年より広島県のアートスペースの周遊を目指すHiroshima Art Galleries Weekを共同運営。
1982年京都府生まれ。広島市立大学大学院博士後期課程修了。大学進学を機に広島に移住。2020年、新進芸術家海外研修制度で滞在していたテキサスから帰国するも、すぐにコロナ禍となり、そのまま関西に移住。現在は京都を拠点に活動。社会の中に佇む幽霊のような忘れられた存在に注目し作品を制作している。最近は彫刻に関するリサーチを基に、近代以降の彫刻家やその制作行為をモチーフとした映像作品を制作展開している。最近の展覧会に「art resonance vol. 01 時代の解凍」(芦屋市立美術博物館、2023)、「コレクション・ハイライト+コレクション・リレーションズ[村上友重+黒田大スケ:広島を視る]」(広島市現代美術館、2023)、「湖底から帆」(なら歴史芸術文化村、2023)「DOMANI・明日展 2022-23」(国立新美術館)、「あいち2022」(常滑青木製陶所跡)などがある。
広島市現代美術館・主任学芸員。1998年より広島市現代美術館に勤務。近年の主な企画に、「赤瀬川原平の芸術原論展」(2015年、千葉市美術館、大分市美術館との共同企画)、「殿敷侃:逆流の生まれるところ」(2017年)、「開館30周年記念特別展『美術館の七燈』」(2019年)、「ヒスロム:現場サテライト」(休館中長期プログラム、2020-23年))、「新生タイポ・プロジェクト」(休館中長期プログラム、2022-23年)など。現在、2025年6月から開催する被爆80周年記念展を準備中。
1973年北海道函館市生まれ。広島県尾道市在住。美術家。1998年東京藝術大学大学院美術研究科修士課程絵画(油画)専攻修了。絵画とインスタレーションを軸に、日常の事物や場所の来歴に注目した作品を制作。並行して、アーティスト・イン・レジデンスの運営や空き家再生活動を起点に、様々な領域の専門家とコラボレーションしつつ活動を展開。2006年よりアーティストユニット「もうひとり」としても活動。2007年よりAIR Onomichiの企画運営を行う。主な展覧会に「いにしによるー断片たちの囁きに、耳をー」(瀬戸内海歴史民俗資料館、2022年)、「Re-edit再編」(光明寺會舘、2022年)、「ONLY CONNECT OSAKA」(CCO クリエイティブセンター大阪、2019年)、「複数形の世界にはじまりに」(東京都美術館、2018年) 「VOCA展2004 現代美術の展望―新しい平面の作家たち」(上野の森美術館、2004年)など。キュレーションに「未完の和作」(小林和作旧居、2024年)「NEW LANDSKAP シュシ・スライマン展」(尾道市立美術館ほか、2023年)などがある。2021年第24回岡本太郎現代美術賞 特別賞受賞。現在、尾道市立大学芸術文化学部美術学科教授、AIR Onomichi実行委員会代表、NPO法人尾道空き家再生プロジェクト副代表理事。
ひろしまアートシーン編集部(松波、平石、山本)、+5編集部(桐)
1992年広島市生まれ。京都大学文学部を卒業後、(公財)福武財団にて直島コメづくりプロジェクトを担当。その後、2018年より地元広島に拠点を移し、アートマネジメント事業や調査事業等を手掛ける。2021年からは「タメンタイギャラリー鶴見町ラボ」を運営し、美術だからこそのやり方で場所性、空間性へのアプローチを行う企画を中心に、実験的、挑戦的な展示を定期的に開催している。タメンタイ合同会社代表社員。