文化は、その定義自体、非常に抽象的なものである。アメリカの教育学者であり、哲学者であるジョン・デューイは著書『行動の論理学 探求の理論』の中で、「文化は言語の条件であり、同時に、その産物である。」と述べている。言語の数だけ文化があると言い換えるのであれば、言語圏の生活の数だけ多様性があるとも言える。言うまでもないが、文化はそれ自体が非常に多義的なものなのである。
私たちはある種無自覚に、自分たちの文化について理解をしているが、自らの文化圏以外のものに触れる時、その多義性を改めて感じる中で、その見方は途端にぎこちなく、頼りないものになってしまう。
そもそも文化とは何だろう?そして文化の産物であるアートとは一体何なのか?その問いをジャーナリズムの中で考え、メディアを通して私たちに提起してきたのは、ジャーナリストであり、アートプロデューサーでもある小崎哲哉(おざきてつや)さんである。今回は小崎さんのキャリア形成と思考から、文化へのアクセス方法とその広げ方について考えていきたい。
前後編となる本記事の前編では、小崎さんが都市体験から得たものと、小崎さんが立ち上げられた3つのメディアとそのあり方を見ながら、私たちの文化を広げるためのヒントを探っていく。
都市体験から文化を広げる
ーーまず小崎さんのルーツが気になります。どのような幼少期、10代を過ごされたのですか?
小崎:子供時代は漫画が大好きでしたね。僕の世代だと少年マガジン、少年サンデーに育てられるんですよ。中学の終わりくらいからはロックに興味が芽生えて、中学から高校の後半くらいまで、バンドを組んでいました。
一方で仲のよい友人に映画好きが何人かいて、10代から映画にもはまっていました。高校生の時はそんなに見ていなかったけれど、だんだん興味が高まってきて。学生時代はかなり映画を見てたと思います。
ーー大学の時には渡仏されていますよね。現地でも映画をたくさん見られたと以前別のインタビューでお答えされていました。
小崎:大学2年の時に失恋をして、日本にいたくないって思ってフランスに行ったんです(笑)。パリにはシネマテーク[1]っていう映画のメッカみたいな場所があって、そこに通いつめました。300円くらいで世界中の名作が見られるんですよ。アンリ・ラングロワっていうシネフィルの間では有名なディレクターというか、シネマテークを作った人がいて、彼が数万本のコレクションを集めたんですね。そこで、古い西部劇から、日本を含む各国の名作をたくさん見ました。黒澤明、小津安二郎、成瀬巳喜男などは、日本でよりもフランスで多く見たかもしれない。一方で、難解なジャン=リュック・ゴダールなんかの作品も背伸びして見ていました。
ーーそのころからアートにも触れられていたのでしょうか。
小崎:当時、ポンピドゥー・センターができるころだったので、ちらちらアートは見ていました。でも、まだそのころはアートってよくわかっていませんでした。むしろパリでは映画ばっかり見ていたかな。ただアートへの入り口は映画がきっかけでした。
数年前に他界した、ベルナルド・ベルトルッチという映画監督の『ラストタンゴ・イン・パリ』っていう作品です。その映画を見たとき、結構心に迫るものがあったんです。1つはガトー・バルビエリの音楽がとても素敵だったことと、もう1つは、冒頭に小さなへんてこりんな絵が出てくるんですが、それがフランシス・ベーコンだったこと。意識してベーコンの絵を見たのってその時が初めてで、それからベーコンについて色々調べました。帰国してから東京でも回顧展があって、そのあたりからさまざまなアートを見て回るようになりました。
ーーフランスで美術への興味が高まったのだと思っていましたが、美術というより、小崎さんの文化が全体的に広がったという感じなんでしょうね。大学を卒業されたあとは、そのまま就職されたのでしょうか?
小崎:いえ、当時の言葉でいうとモラトリアムっていうのかな。働きたくなくてバイトをして、やっぱり映画を見たり友人と飲んだりしていましたね。
バイトをしていた飲食店で知り合った方が、残間里江子[2]さんを紹介してくださって。彼女の原宿の事務所で働くようになりました。そこで芸能人の本の校閲や、ファンクラブの会報の編集などをしたのが、最初の仕事です。
ーーでは図らずも最初からメディア系のお仕事をされていたんですね。新潮に行かれたのはそのすぐあとくらいでしょうか?
小崎:その前に、筑紫哲也さん[3]の手伝いをしていました。残間さんと仲がよくてそのご縁で。筑紫さんはすごいスター記者で、魅力的な方でした。先見の明があって、学生運動華やかなりしころに隆盛を極めた朝日ジャーナル[4]に、現在進行形のカルチャーを取り入れた方です。僕がお手伝いしたのは、そのカルチャーにフォーカスする編集長インタビューのコーナー「若者たちの神々」。人気連載でした。初回は浅田彰。『構造と力 - 記号論を超えて』がベストセラーになったころです。そのあとビートたけしとか坂本龍一、野田秀樹や忌野清志郎といった人たちがどんどん出てきた連載だったんです。批判もあったけれど、あの時代、あのようなカルチャーを、硬派と言われていた雑誌がフィーチャーしたことは面白かったですね。その後、朝日新聞社が連載を単行本化した。それを新潮社が文庫化したいと申し出て。そこで、僕があいだに立って編集も含めて手伝いを進めていたら、うちで働かないかと引き抜かれたわけです。当時の新潮はカルチャー路線を走っていて、若者雑誌を作るというプランがあったんです。その立ち上げスタッフの候補として入りました。
ーーすごいお話ですね。そのころニューヨークにも行かれていますが、これはお仕事ですか?
小崎:いや、残間さんの会社での仕事が一段落ついて、新潮に入社する前のタイミングで行きました。ずっと行ってみたかったので。
ーーニューヨークで印象に残っていることはありますか。
小崎:まずはヴィレッジ・ヴォイス[5]ですね。無料のタウン誌ですが、ジョナス・メカスの映画批評とか、そうそうたるメンバーが地元を取材して書いているんです。地元って言ってもニューヨークだからすごい。ヴィレッジ・ヴォイスのような媒体ができたらいいなと思っていたところに、若者雑誌を作りたいという話があったから、こういうのどうでしょうと提案したんです。
あと最も思い出に残っているのは、BAM(ブルックリン・アカデミー・オヴ・ミュージック)での体験。これはアメリカにおける、とんがった舞台芸術の中心的劇場なんですよ。ニューヨークの友人たちに、これは絶対行った方がいいよと言われて、それがピナ・バウシュの公演でした。コンテンポラリーダンスはヨーロッパに行った時にも見ていなくて、生まれて初めて見たんです。ものすごい衝撃で、毎日通い詰めました。ある日公演が終わって、劇場の警備員に教えてもらったバスに乗ったら、それがクルーバスで。見たことあるおばちゃんが乗ってきたなと思ったらピナ・バウシュ本人でした(笑)。事情を説明したら乗せてくれてね。
ーーそんなことがあるんですね(笑)。ニューヨークでも芸術への興味を拡張されていたんですね。
トランスカルチャーマガジン『03』とそれが紡ぐもの
ーー若者雑誌を立ち上げるきっかけをニューヨークから得られたようですが、小崎さんとしても、当時の日本社会に対する、もっとこうなった方がいいという思いや考えも、雑誌の立ち上げに際してあったのでしょうか。
小崎:やはり、ヴィレッジ・ヴォイス的なものがあればいいなという思いがありました。日本では当時『ぴあ』が出て、『シティロード』っていう雑誌も出て。関西では『プレイガイドジャーナル』とかね。プガジャは格好よかったんだけれど、僕は東京にいたし、読む必然性もなかったんですよ。だからもう少し厚みがあるもので、かつ見聞きした文化の情報を伝達しつつ、あとでみんなで感想も共有できるような、そんな媒体があるとよいなと思い、みんなで『03』[6]を作りました。コンセプトもほとんどそんな感じ。トランスカルチャーマガジンって名乗りました。僕は12号作って辞めたんだれけど、全部で24号続きました。僕がやっている間は都市特集をやろうと決めて、1989年の冬に出した創刊号がニューヨークで、2号目が香港かな。3号目がロンドン、4号目がパリという風にね。国じゃなくて都市を特集していました。
ーー都市を切り取りながら、その時タイムリーに息づいているカルチャーを雑誌として取り上げていくと。
小崎:そうですね。例えば1号目のニューヨーク特集では、当時はナイトカルチャーが最先端だったから、現地のクラブシーンについて山田詠美さんや、いとうせいこうさんに取材をしていただき、記事を書いてもらいました。
ーー『03』の中でもアートを取り上げられていたんですか?
小崎:はい。でもアートに特化したコーナーがあるわけではありませんでした。ローリー・アンダーソンや三上晴子を取り上げたのは記憶に残っていますね。当時はインターネットがなかったけれど、KDDが東京とニューヨークをつなぐ専用回線を持っていたんです。それをPRで使わせてくれと交渉して、創刊準備号でニューヨークのローリー・アンダーソンと、こちらは浅田彰さんにTV電話で話してもらいました。今だったらズームやスカイプがあるけれど、当時はまだなかったから。向こうでローリーが踊ってくれたりして楽しかったですよ。
ーー『03』を1年で辞められたのは?
小崎:基本的な問題として、売れなかったんです。ニーズがなかったんでしょうね。海外カルチャーに強い興味関心のある人がまだまだ少なかったのかもしれない。それと編集部内で対立があったのも要因のひとつです。僕は雑誌の趣旨に合った特集や連載を組んでいきたかったのですが、雑誌の方向性と合わない、いわば「売るための連載」が勝手に決まっていた。そういうこともあって辞めました。
ーー辞められてからは何をされていたのですか?
小崎:遊んでいました(笑)。それまでほとんど休まずに働いていたので、少し休息のつもりで。逗子に行き、一人暮らしを始めて、海岸でビールでも飲んだりして暮らそうかと思って。実際は風が強くてそんなことできないんだけれど(笑)。35歳くらいだったかな。本読んだり、飲んだりして過ごしていました。そしたらそこに、以前に知り合っていた、講談社の名編集長だった内田勝[7]さんから連絡があってね。「今度新しいプロジェクトやるから、手伝ってくれない?」って。本当にすごい人で革命的な編集者でした。徹底的なリサーチをして、データに基づいて本を作るということを本気でやっておられた。
内田さんは当時、なにか新しいことをやりたいという思いがあったようです。当時、講談社に情報誌がまだなかったという背景から、その一本の柱を作りたいというお話でした。
ーー情報誌ですか。そこでは執筆もされていたのですか?
小崎:いえ、結局プロジェクトが頓挫してしまったから、成果物はありません。自分のことで言えば、電子出版物を作ろうという話もあったので、そのために生まれて初めてマッキントッシュなるものを買ってね。当時のことだから100万円以上して。で、プロジェクトが頓挫して残ったのが1台のMac PCと100万円を超えるローン(笑)。そこで、さてどうしようと考えたわけです。
ーーこの時に事務所も設立されているのは、それも関係あるのでしょうか?
小崎:はい。まず、マルチメディアプロダクツを作るのが理にかなっていると考えました。当時のマルチメディアの定義って、テキストと静止画像と動画と音声を1つのプラットフォームで同時に扱うことができて、さらに検索機能も備えていること。これに向いているものをやるなら、百科事典的なものがよいんじゃないかと考えました。最初は映画やオペラも検討したんですが、権利関係が錯綜している。そこで思いついたのが歌舞伎です。歌舞伎の権利は松竹の一元管理だし、映像はNHKが良いものを持っている。松竹とNHKに乗ってもらえればうまくいくなと。それで一介の個人だと相手にしてくれないだろうから、法人を立ち上げました。
ーー94年に事務所立ち上げられて、『Realtokyo』[8]に行き着くまで、ずっと歌舞伎をやられていたんですか?
小崎:歌舞伎は2年くらいやっていました。後に直木賞作家になった松井今朝子さんに監修していただき、アスキーから出してもらって、有難いことに色々賞もいただいた。ただ結局のところ、ビジネスとしてはあまり伸びなかったんです。
そんなころ、ある日渋谷の本屋に入っていったら、雑誌をやっていたころに知り合いになった、僕より10歳くらい下の、電通のプロデューサー連中がいたんです。とても優秀な連中なんですが、話してみると「ちょうどよいところで小崎さんと会った。ちょっとこれ引き受けてくれませんか」と言う。それがインターネット・ワールド・エキスポ[9]の企画でした。アメリカと日本が主導する、結構国家的なプロジェクトだったんですね。日本はもちろんNTT、大日本印刷やパナソニックが加わっていました。要はバーチャル空間にいろんなパビリオンを作るのですが、ジャパン・パビリオンを作るにあたり、交通整理できる人がいないからエディトリアルディレクターをやってくれと言われたんです。俺でいいの?って感じだったんだけど、それがすごく面白くて。自分にとっては大きな転機でしたね。ただ、1995年11月に頼まれたんだけれど、立ち上げが96年の1月1日。大晦日というか元旦の朝まで、よく働きました(笑)。
ーーエディトリアルディレクターとはどのような仕事なのでしょうか。
小崎:やっぱり編集ですね。WEBマガジンの編集長って感じです。コンテンツを決めて、発注して、集稿して、校正して、デザインして、アップする。しばらくそれをやっていたんですが、前に雑誌をやっていた時の思いはずっと残っているから、ぴあ的なことをネットでやったらどうかと考えました。当時、今の経産省が通産省っていう名前で、まさにマルチメディア振興事業というのをやっていたんです。巨額の助成金があって、P3[10]っていう芹沢高志さんの会社が東京にあるんだけど、一緒に助成金を取ろうとなって申請書を一生懸命作りました。それがめでたく取れて、すごい潤沢な予算で作ったのが『Realtokyo』です。
世界を意識するメディアのあり方|『Realtokyo』と『ART iT』
ーー『Realtokyo』を作られた時の思いや、コンセプトについて聞かせてください。
小崎:まずはバイリンガルにしたかった。お金も減っていって、最終的にはフルバイリンガルにはならなかったんですけれど、バイリンガルのメディアへの思いは強かった。東京もグローバリゼーションの波に乗って外国人が増えてきていたし、海外からの観光客や、『03』のころに仲よくなった友人たちが日本に来た時、これを見て東京のリアルなカルチャーシーンに触れてもらえるといいなと思っていました。
言説に携っている立場からは、国内のメディアと書き手に緊張感と広がりを与えたかった。日本語って、日本以外ではほぼ話されず読まれない言語だから、この国の中で完結してしまうんです。日本語で話されたり書かれたりしたことは、言語の壁がある以上、何を言っても世界には届かない。そういったどこか内向きなメンタリティが今でもまだ残っているから、「失言」もいっぱい生まれるわけです。だから『Realtokyo』は、世界を意識したメディアにしたかった。
ーー国際化の波が高まっていた段階で、すでにそのような考えをお持ちだったんですね。それは『03』のころから世界を見られてきた小崎さんだからこその観点のように感じます。ちなみにカルチャーへのアクセスというところから、アートへのアクセスというのは、どのように流れていったんですか?
小崎:90年代前半から、東京のアートシーンが面白くなってきて、そのころからアートへのアクセスが増えてきたんです。ワコウ・ワークス・オブ・アート、スカイザバスハウス、ミヅマアートギャラリー、タカ・イシギャラリー、ギャラリー小柳、小山登美夫ギャラリー、シュウゴアーツなど、今、日本を代表するような現代アートのギャラリーがどんどん開設されていました。もうひとつ大きかったのは、レントゲン藝術研究所[11]かな。そこで椹木野衣さんがキュレーションし、中原浩大、村上隆、ヤノベケンジ、伊藤ガビンたちが出展した展覧会を観にいって、すごいことが起こってるなと思ったわけです。もちろんその後、『Realtokyo』でも紹介していきましたけれど、当時は純粋にアートシーンが活気付いているのを感じました。そして、これにフォーカスしていければいいなと思ったんです。
ーーなるほど。それが『ART iT』[12]を立ち上げる動機となったんですね。
小崎:立ち上げの動機にはいくつか要因があります。ひとつは市場の問題。90年代初頭は、まだまだアートマーケットが小さくて、今、日本を代表するようなポジションにいる人たちがまだ若かった。そして若いからこそ、刺激的で実験的なことをやろうとしていました。それが90年代終わりくらいになると、みんな売れるようになってきて、僕には少しエッジが鈍くなったように見えたんです。市場ウケするアートも大切かもしれないけれど、それで本当にいいのか。もっと真っ当なアートを、真っ当に紹介できる媒体があってもよいんじゃないか。そういう思いが強くなってきました。
展覧会のレビューや作家インタビューがもっとあればいいなとも思っていました。『ぴあ』も多少は載せていたけれど十分じゃなかったし、美術手帖も当時は、特集の組み方が流行りを追っているだけのように見えました。日本のアートって80年代終わりくらいから、サブカルと近くなっていたんです。それ自体は悪いことじゃないし、サブカルにインスパイアされる人が多くてもいいんだけれど、そこに開き直りすぎてないかと。美術手帖もストレートにサブカルを特集したりしていて、疑問に感じていました。出版業界全体のエコバランスの中で、ニッチな領域を埋めようとするのはわかるんですが、実質的に日本唯一のアート雑誌が、これではまずいんじゃないのっていう疑問です。そういうのも立ち上げの背景にあったと思います。
最後の要因は、先ほどもあげたバイリンガルです。日本のアートが結局一番持てはやされたのが90年代。よく言われる「アートは経済にリンク」するってやつなんですが、当時はバブルのしっぽみたいなものがまだあり、日本に元気があって、海外に注目されて、日本のアートの人気が高まって……と、良いスパイラル、良いフィードバックができていたんです。ところが経済がだめになるに連れて、負のスパイラルへ移行していきます。作品は売れなくなり、注目されなくなる。そうすると国内のドメスティックなアートシーンが、さらに内向きになっていく。それはまだ続いていますが、海外のことをもっと知って、海外の人にもっと知ってもらうという流れを、お金以外に作っていくしかないと考えたんです。
ーー『ART iT』立ち上げまでに、かなり多くの思いがあったんですね。立ち上げてからはいかがでしたか?
小崎:自分が言い出しっぺで、自分でお金を出して始めたのですが、途中8号目くらいで資金が尽きたんです。もちろん思いをこめて真剣に作っていたのですが、売れ行きは芳しくなく、毎号赤字でした。スタッフや寄稿家や印刷所への支払いを計算すると、誰にも迷惑を掛けないようにするならこれで最後だなぁって。周囲にも「終わります」と伝えていたら、途中から発行人になってくれた今福英治郎がもったいないから続けようと言って、制作費を負担してくれたんです。
ーー当時、美術手帖しかない時代に『ART iT』が出て、やはり衝撃でした。新進気鋭のアーティストがどんどん乗るし、アーティストが載りたいメディアとしてあったように思います。アート雑誌はこうあるものというのを示しているような感じで、すごく印象的で残って欲しい雑誌でしたね。あの当時、雑誌でアートシーンを得られる機会は少なかったですし、現在と違い、WEBメディアでもなかった印象がありました。世界のアートシーンを包括的に得られる唯一のメディアであったように記憶しています。
小崎:僕の中で『ART iT』は批評誌ではなくて情報誌だったんです。批評はいくつか載せていたけれど、ガッツリは載せられていなかった。それはこれから『REALKYOTO FORUM』[13]で実現させたいと思っていることです。
ーー『Realtokyo』と『ART iT』で、メディアへの向き合い方は違ったのでしょうか
小崎:どうでしょう。違いがあるとすれば、『ART iT』ではあまり自分の文章を載せなかったことかな。インタビュアーは結構務めたし、レビューも何度か短いのを書きましたが、個人的な思いを記したのは巻頭の編集長メッセージに書いた特集の意図くらいです。でも『Realtokyo』では「Out of Tokyo[14]」という連載記事を書いていました。ある面では補完し合う媒体だったかもしれません。とはいえ『ART iT』はアート雑誌で、『Realtokyo』はクロスカルチャーというか多ジャンルを取り扱うものだったから、違うことは違いますね。
ーー言説のチャネルを分けることで、それぞれのメディアの、あの深さや面白さがより出ていたんですね。よくわかりました。
注釈
[2]残間里江子
出版・映像・文化イベントなどのプロデューサー、アナウンサー、雑誌記者、編集者を経て、1980年に企画制作会社を設立。雑誌『Free』編集長、出版、映像、文化イベントなどを多数企画・開催。2005年「愛・地球博」誘致総合プロデューサー、2007年には「ユニバーサル技能五輪国際大会」プロデューサーなど実績多数。
[3]筑紫哲也
1935年〜2008年。日本のジャーナリスト、ニュースキャスター。朝日新聞社記者、朝日ジャーナル編集長を務めた。
東京政治部、沖縄特派員、ワシントン特派員、『朝日ジャーナル』編集長などを経て、89年に退社。ニュースキャスターに転じ、「筑紫哲也 NEWS23」メインキャスターに。
[4]朝日ジャーナル
1959年に創刊〜1992年に廃刊。「報道・解説・評論」を3本の柱として創刊され、特に安保闘争等の文化革命を背景とする1960年代、70年代に隆盛を極め、左翼思想を支持する当時の全共闘世代や団塊世代に愛読された。筑紫哲也氏が編集長になってからはカルチャー路線に舵を切り、批判を受けながらも部数を伸ばした。
[6]03
新潮社が発行していたサブカル雑誌。小崎氏が立ち上げ、副編集長を務めていた。正式名称は『TRANS-CULTURE MAGAZINE 03 TOKYO Calling』。
[7]内田勝
1935 - 2008年。1965年『週刊少年マガジン』(講談社)の第3代編集長に最年少30歳で就任。 『あしたのジョー』『天才バカボン』『タイガーマスク』など、日本を代表する漫画作品を次々と世に送り出した。
[8]RealTokyo
[9]インターネット1996ワールド・エキスポジション
インターネットというネットワークの中で行われた新しい形態の博覧会。仮想的な万国博覧会として1996年の1年間にわたって開催された。
[11]レントゲン藝術研究所
1991年から1995年の約5年間、東京都大田区大森東に存在したオルタナティブギャラリー。池内務がディレクターを務め、現代アートの黎明期を担う。当時都内では最大規模のギャラリーだった。
[12]ART iT
[13]REALKYOTO FORUM
[14]Out of Tokyo
上記のページから、今でも小崎さんの文章を見ることができる。
INTERVIEWEE|小崎 哲哉(おざきてつや)
ウェブマガジン『REALKYOTO FORUM』発行人兼編集長。京都芸術大学大学院芸術研究科教授。同大舞台芸術研究センター主任研究員。愛知県立芸術大学非常勤講師。同志社大学非常勤講師。2003年に和英バイリンガルの現代アート雑誌『ART iT』を創刊し、編集長を務める。2000年から2016年までウェブマガジン『Realtokyo』発行人兼編集長。展覧会のキュレーションも行い、あいちトリエンナーレ2013ではパフォーミングアーツ統括プロデューサーを担当。編著書に『百年の愚行』『続・百年の愚行』、著書に『現代アートとは何か』『現代アートを殺さないために——ソフトな恐怖政治』などがある。2019年にフランス共和国芸術文化勲章シュヴァリエを受章。
京都ではゲストハウス、レストランもご夫婦で運営されている:http://kyoto-yoshidaya.jp/
INTERVIEWER|桐 惇史(きり あつし)
ART360°プロジェクトマネージャー。+5編集長。
1988年京都府生まれ。京都外国語大学英米語学科卒業後、学習塾の運営に携わりながら、海外ボランティアプログラムを有する、NPO法人のプロジェクトリードに従事。その後、ルーマニアでジャーナリズムを学び、帰国後はフリーランスのライターとして経験を積むかたわら、大手人材紹介会社でコンサルティング営業、管理職として組織マネジメントなどに携わる。現在は360°映像を通した展覧会のデジタルアーカイブ事業「ART360°」の推進に関わる。