文化系シンクタンクの先駆的企業である株式会社生活環境文化研究所・文化農場を皮切りに、早稲田大学、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター(CSCD)、大阪音楽大学、そして福山大学など長いキャリアを持つ久保田テツは、「メディア」と「コミュニケーション」を軸に一貫して展開してきた。
大阪大学時代には、京阪電鉄・なにわ橋駅の遊休スペースを舞台にした「アートエリアB1」【※1】の立ち上げと運営にも深く関わった。
2023年からは愛媛県今治市の大島に生活の拠点を移し、家族とともに里親として複数の子どもを育てながら、福山大学で教鞭をとり、NPO法人remo(記録と表現とメディアのための組織)の代表理事も務めている。幼少期から現在の暮らしに至るまで、その広範囲なキャリアについておうかがいした。

久保田は京都市左京区岩倉の出身である。子どもの頃に大きな影響を受けたのは、アニメとYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)であったという。
「小学生の頃は、まさにアニメとYMOで育ったんです。特に宮崎駿監督の『未来少年コナン』からの影響は絶大でした。アニメーションの映像とともに、現代音楽家・池辺晋一郎さんが手掛けたシンセサイザーなどの電子音が深く心に刻まれて、後に電子音に惹かれていく大きな理由になったんだと思います。」
学校生活そのものも、アニメを中心に回っていたと振り返る。
「クラブ活動はサッカー部に入っていたんですけど、アニメが見たくて(笑)。家に帰らないといけないから、あんまり熱心にはなれなかったですね。」
ピアノは小学5年から習い始め、中学3年まで数年続けたというが、その動機もいささか変則的であった。
「『未来少年コナン』や『ガンダム』など一通りのアニメと出会った後、小学校5年からピアノをちょっとだけやりました。始めるのは遅かったんですが、自分でやりたいと言い出したのはYMOになりたかったからだと思います。全然練習しなかったので進歩はありませんでしたけど、鍵盤に親しむきっかけにはなりました。」
さらに、音楽以上に大きな影響を与えたのが、YMOの周辺にいた文化人や現代アーティストたちであった。
「住んでいた岩倉は文化圏に恵まれていましたが、当時はまだ美術全般に興味があったわけではありませんでした。むしろYMOの影響で、周辺にいたニューアカデミズムの浅田彰さんや、ジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイクといった存在に中学生の頃から惹かれていったんです。当時はテレビでもパイクの《バイバイ・キプリング》や、浅田さんが出演していた『TVエボリューション』、『事故の博物館』(NHK)などが放送されていて、録画したビデオテープをいまだに持っているくらい夢中で見ていました。『シネマだいすき!』でタルコフスキーの映画なども見て、映像や思想の領域へ一気に引き込まれていったんです。文化の繋がりに身を浸す感覚が楽しかった。」
こうした少年時代に受けた影響は、久保田の中で今も生き続けているという。また、同時期に台頭したロック文化やポップカルチャーも彼の思春期を形作った。
「親友の影響でポリスやクイーンなどのロックを聴き始め、小中学校でそいつとバンドを作ってキーボードを担当して、音源をSONYに送ったりもしました。親友がオリジナル曲を量産するので、ミニアルバムぐらいのボリュームになって。まぁ結局通らなかったんですけどね(笑)。シンセサイザーも買って、YMOやニューウェーブ音楽の世界観に没頭していったんです。」
高校2年の際、父の仕事の都合で京都から神戸へ転居。この引っ越しが、後に神戸芸術工科大学へ進学する大きな伏線となった。
大学進学に際し、思いがけない巡り合わせに恵まれる。
「ナム・ジュン・パイクに憧れて映像学科のある大学を探していたんですが、ちょうど神戸に引っ越した後、家から歩いて3分ほどのところに神戸芸術工科大学ができたんです。これは自分を呼んでいるんじゃないかという感覚がありましたね。」
1989年、視覚情報デザイン学科の一期生として入学する。
「当時はビジュアル、プロダクト、建築、ファッションといった領域があって、僕は視覚情報デザイン学科を選びました。映画評論家の岡田晋さんや、映像作家の森下明彦さん、出版社・編集プロダクションのペヨトル工房の編集を手伝っていた橋本英治さんらがいて非常に刺激的な環境でした。」
時代はマルチメディアやデジタルアートが台頭し始めた時期であり、久保田もメディアアートの潮流へ深く引き込まれていった。当時、学科助手を務めていた美術家のマスダマキコさんとの日常的な交流や、ダムタイプの《S/N》のサマーキャンプへの参加なども大きなインスピレーションとなった。さらに、音楽への関心を通じて出会ったのが、現代美術家・音楽家のクリスチャン・マークレーであった。
「森下明彦さんに教えてもらう中でマークレーの作品を知り、実際に来日した際にお会いする機会もありました。特に彼が提示していた「レコードの物質性」というテーマがすごく響いたんです。映像やデジタルメディアと言いながらも、すごくアナログなレコードというモノの持っている感覚で作品を作っていました。レコードを割ってもその断片から音が鳴るという考え方にすごく引き込まれたんです。」

卒業制作も、その延長線上で構想された。
「自分の日常にレコードが溢れているという設定で、レコードで作った服を着て三宮の街を歩いたり、レコードのお風呂に入ったり、レコードの皿でパスタを食べたりする日常を映像で撮りました。ひたすらレコードまみれの日常をテーマにした作品です。」
同じ頃、サンプリング手法を駆使したハウスミュージックに出会い、神戸のクラブシーンにものめり込んでいった。
「サンプリングという概念が80年代以降に出てきて、ハウスミュージックに出会った時は「他人の楽曲を使って自分の曲を作っていいんだ、しかもかっこいい」と衝撃を受けました。当時、浅田彰さんがそれを「脱構築」と表現していましたが、まさに音楽の脱構築が始まったタイミングだったんです。当時はディスコからクラブへ移っていく時期で、バブルの熱気も残る中でKING&QUEENやマハラジャとクラブが並走していて、大学時代はクラブに行きまくっていましたね。」
1993年に大学を卒業したものの、映画やテレビといった従来の映像業界やデザイン会社への就職にはしっくりこず、卒業後2年ほどは進路を定めずに過ごすこととなった。
「いざ就職しろって言われた時に、自分はパイクに憧れているからいわゆる“映像業界”じゃないじゃないですか。映画とかテレビじゃないし、かといってデザイン会社も1つ受けたんですけど、試験の内容でとてもくだらない質問をされて、あ、こういうところで自分は生きていくのは無理だと思って。2年ぐらいフラフラ過ごしていました。」
キャリアの転機となったのは、卒業から2年ほど経った頃の恩師からの紹介であった。
「1994年に、マスダマキコさんから「美術が好きなボスがいて、パソコンが触れる男性を探しているよ」と連絡があったんです。目標があったわけでもなかったので、文化的な人が周りにいるなら居心地は悪くないと思って、1994年末に株式会社生活環境文化研究所・文化農場にアルバイトとして行き始めました。」
その後、正式入社を控えた時期に、久保田を予期せぬ大病が襲う。
「指定難病の「ギラン・バレー症候群」という身体が麻痺する病気になってしまったんです。自分の抗体が暴走して、末梢神経を食べだしてしまう病気で、明確な原因は不明なのですが、食中毒のカンピロバクターなどがきっかけになっている可能性が高いそうで。10万人に1人ぐらいの割合で起こる病気で、特に遺伝とかは関係ないんです。人によっては足だけとか部位が限られるような麻痺があるんですが、自分の場合は全身、しかも肺が麻痺して重度でした。」
病状は深刻で、呼吸筋の麻痺により人工呼吸器を装着した寝たきりの状態が長期間続いた。
「意識ははっきりしているのに身体がまったく動かないという状態が長くて、本当に不安で怖かったですね。胃潰瘍になる人も多いらしいんですよ。悪夢ばかり見ますし、自分は治らないんじゃないかと打ちひしがれました。寝たきりが半年以上続くと「もう終わった」という気にもなりましたし、いろいろなことを考える一つの大きなきっかけになりました。幸い細かい末梢神経の麻痺は多少残ったものの、日常生活には全然支障のないレベルまで戻ることができました。」
この経験は、後のアウトリーチ活動にも関係してくる。回復を果たした久保田は、1996年、株式会社生活環境文化研究所・文化農場に正式に入社する。同社は、行政などをクライアントとする文化系のシンクタンクであった。また、代表の橋本敏子が、後述するインターメディウム研究所(IMI)のゼネラルマネージャーであった畑祥雄と知己であったことから、久保田は研修生としてIMIに1年間通うことになる。
「代表の橋本敏子さんはもともと建築や町づくりのコンサル出身で、ウーマンリブの動きに合わせて女性が社会進出するためのシンクタンクとして立ち上げた会社だったんです。創設期には上野千鶴子さんも関わっていたという面白い組織で、自治体が美術館を作る際の調査研究などを手掛けていました。主なクライアントは行政、当時の住宅・都市整備公団(現UR:以下公団)、それにサントリーの不易流行研究所などでしたね。」
ここでの経験が、久保田の「作品制作」に対する考え方を大きく広げることとなる。
「いわゆる「個人の作品をつくる」という情熱とは違う形で、美術館の企画やワークショップルームの創出といった設計が、自分のプロジェクトづくりと繋がっていったんです。だから不平不満もなく自然に移行できました。それ以外の発散はクラブに行くことでやっていた、という感じでしたね。」



当時手掛けた代表的な仕事の一つが、企業のメセナ資金を集めて社会派アートプロジェクトを支援する「DOCUMENT 2000 PROJECT」である。
「アサヒビール、資生堂、日産自動車、マクドナルドといった企業から資金を集めて、社会との関わりについて意識の高いアートプロジェクトに助成するプログラムを始めました。加藤種男さんや熊倉純子さん、森司さんらが関わる中、僕は事務局のメイン担当として新幹線の予約から議事録作成、チラシ作りまで何でもやって、いわゆるロジスティック全般をやりながら、そこで社会経験を積んだ感じですね。」


また、阪神・淡路大震災の復興住宅事業(芦屋市・南芦屋浜)におけるコミュニティ支援事業も大きな経験となった。
「建築家の宮本佳明さんや、アーティストの田甫律子さん、小山田徹さん、藤本由紀夫さんらが参加してくれました。田甫さんは高齢者のコミュニティが分解するのを防ぐために「畑をつくる」と言い出したんです。実際に、復興団地の完成を機に孤立や健康悪化のために自死する高齢者も増えた時期でした。畑については作物の所有権をめぐって公団と議論になりましたが、最終的に実現できて、公共性やコミュニティについて深く学ぶ機会になりました。」
震災の仮設住宅で培われたコミュニティが、新しい住宅の中で失われてしまうことへの危機感が、この「畑」の発想の背景にあったという。
「震災で生まれた仮設住宅の中で培われた濃密なコミュニティが、復興住宅を作ることでまた分解されてしまう。だから畑を作って、もう一度そこを再構築するという田甫さんの発想だったんです。収穫物の所有権が誰のものかわからないという理由で、公団に一度ストップをかけられたのが、公共性の奥深さを感じた出来事でしたね。実際に復興団地には農作業に詳しい高齢者が多く、サツマイモを育てて芋掘りなども行われましたし、その頃には公団側も前のめりになっていた印象です。」
2002年、プロジェクトの企画書を書く作業がリアルに感じられなくなった久保田は、知人からの誘いを受けて東京へ移ることを決める。
「企画書を書くのが辛くなっていったんです。“こんなに有意義ですよ”、とアピールする資料が企画書じゃないですか。自分にとって、そこに書く言葉がリアルじゃなくなってきた。ちょうどそのタイミングで、友達から早稲田大学で非常勤の話があるけど来ないか、と誘われたんです。そろそろ次のステップにいく時期かも、と思ったタイミングが全部重なって、東京に行くことにしました。」
久保田が研修生として通ったインターメディウム研究所(IMI)は、写真家・映像プロデューサーの畑祥雄がゼネラルマネージャー、美術史家の伊藤俊治が講座ディレクターを務め、「デジタル時代のバウハウス」を目指して1996年に大阪・中津に設立された教育機関である。港千尋、上野俊哉、椹木野衣といった一線で活躍する批評家や、椿昇、畠山直哉、関口敦仁といったアーティストが参画していた。
社会人向けの大学院相当の講座という名目であったが、就職氷河期が訪れる中、大学を卒業したばかりの学生から中堅の社会人まで、幅広いスキルと経験を持った人材が集まり、宿泊施設もあったため講師も含めて深い交流の場を形成した。しかし、IMIでの久保田の立場は、研修生としてのものだった。
「研修生だったので、週1回IMIに行って、残りは会社で仕事をしているような身分だったので、そこまでコミットはできなかったんです。それでも、いろんな人が来て話してくれるのはすごく面白かったですね。」
SNSがないなか、関西圏では会うことがなかなかできない関東のメディアで活躍している批評家が毎週のように来校するのは刺激的なことだったのだ。
「上野俊哉さんが授業で、オタクはスペック主義者と定義できる、と言っていたんです。子どもの頃『宇宙戦艦ヤマト』を見ていて、毎回顔が違うことに気づいたことがあって。それが作画監督の交代による違いだと知って、なるほど自分はスペックをよく見るからオタクなんだ、と得心した記憶があります(笑)。」
また、フランスのメディアアーティスト、ジャン=ルイ・ボワシエ(Jean-Louis Boissier)の作品との出会いも大きなものであった。
「ボワシエさんの美しいCD-ROM作品やインタラクションに魅了されて、自分でもMacromediaDirector(後にAdobe Director)を使ってプログラミングを書いていました。マウスを動かすと景色がわっと動くようなインターフェイスを作ったりして、ボワシエさんとの出会いは本当に大きかったですね。」
2002年に上京した久保田は、早稲田大学の非常勤講師としてWEB制作(HTML)を教え始める。同時に、友人からの紹介で映像や音楽制作の仕事が広がっていった。
「MTVやスペースシャワーTVの番組ジングルやオープニング音楽を作る仕事を手掛けるようになりました。中目黒の空きビルで友人たちと暮らし、近所の空き工場を共同アトリエにして音楽を制作するという、東京らしい食べていき方でしたね。」
早稲田での講師生活には、思いがけないエピソードもあったという。
「ちょうどその頃、広末涼子さんが早稲田大学に在籍していたんですよ。ファンだったので、内心ちょっと期待していたんですけど、結局教育学部の隣にいただけで会えませんでしたが(笑)。」
また、「 Central East Tokyo(CET)」【※2】などのアートプロジェクトにも出会う。そこには、後に結婚することになる妻の父と、小説家の原田マハ氏をつなぐ不思議な縁もあった。
「義父は森ビルで、六本木ヒルズの資材や美術館の入居条件などを考えるような部署にいて、原田マハさんが森美術館の立ち上げメンバーとして一緒に働いていたんです。そんな縁で、マハさんの最初の著書の出版記念パーティーの映像をつくらせてもらったこともありました。」
2005年、後に大阪大学の総長となる哲学者・鷲田清一からの誘いを受け、久保田は大阪大学コミュニケーションデザイン・センター(CSCD)の特任教員として大阪へ戻る。神戸芸術工科大学の1年後輩で長年の盟友でもある、キュレーターの木ノ下智恵子も文化政策、アートマネジメントの担当として就任する。
「CSCDはCOE【※3】予算を背景に、10年継続する前提で動いていた組織でした。劇作家の平田オリザさんらもいて、大学院生に向けた授業を提供するセクションで、大阪大学は偏差値の高い教育研究機関なんですが、鷲田さんら主要メンバーは、いわゆる専門領域におけるジャーゴンで育ったエリートが社会を動かす人になっていくことに対して危機感を持っていて。だから、専門領域を超えて、専門用語が通じない者同士が社会的課題に向き合う場を作ることが目的だったんです。」
久保田は、東京での生活に少し疲れを感じていたタイミングでの誘いだったと振り返る。
「東京の、放っておいても物事がどんどん流れていってしまう感じに、ちょっと疲れていたタイミングだったんです。別に自分が歯車にならなくてもいいかな、と思って大阪に戻ることにしました。」
久保田は全学の大学院生を対象とした副専攻プログラムを担当し、現場に複数台のカメラを持ち込んで学生に手渡し、撮影された映像を全員で見て対話する「映像人類学」的な手法を実践した。
「法学部や医学部、工学部の学生が集まって企画を立てたりしていました。また臨床哲学の授業で鷲田さんとワークショップをしたり、ケアの研究者たちと一緒にさまざまな現場へ行き、パナソニックの小型カメラを15台ほど買って学生に持たせ、フィールドワークのツールとして映像を活用していました。人によって撮影する視点は異なるので、それを相互に見て話し合ったりしました。プログラムを考える際、図らずも病気で長期入院していた経験が生きたと思います。」
履修する学生の多くが、単位のためではなく強い関心から副専攻を選んでいたことも、久保田にとって印象的だったという。その中には批評家として活躍する福尾匠や、ラッパーのMoment Joonもいたという。
「わざわざ副専攻でこんなものを取るだけの、文化的な興味や関心、単位的な余裕、そして社会という大きなものを捉えようとする知識欲を持った人たちが履修していたので、授業としてはすごく楽しかったですね。」
こうした大学内の知や表現を社会へひらく拠点として構想されたのが「アートエリアB1」である。その起点は、開館の2年前にまでさかのぼる。2006年、京阪電鉄・中之島新線(建設中の仮称)の建設工事の最中、京阪電気鉄道、大阪大学、そしてNPO法人ダンスボックス(2007年にフェスティバルゲート閉鎖に伴い、後に神戸へ移転)の三者が協働し、工事現場を舞台に都市における駅の可能性を模索する社会実験「中之島コミュニケーションカフェ」を実施している。この社会実験の中で、地下鉄工事の様子を巨大な野外スクリーンで上映したり、シアタープロダクツによるファッションショーや、ダンスボックスが招いたダンサーたちによる工事現場でのダンスイベントなどが行われた。
「なにわ橋駅の地下店舗スペースが使われていないという京阪側の課題と、アウトリーチの場を求めていた阪大、そしてダンスボックスなどのNPOが連携して立ち上げたのがB1なんです。」

2008年10月、中之島線の開業とともに、なにわ橋駅地下1階コンコースに「アートエリアB1」が正式開館。翌2009年には三者による運営委員会が設置され、常時オープンの体制が整った。開館直後には、水都大阪2009連携事業としてヤノベケンジによる「トらやんの大冒険〜サヴァイヴァル・システム・トレイン〜」が開催され、同年、アートエリアB1の取り組みが『メセナアワード2009』で文化庁長官賞を受賞するなど、早い段階から社会的な評価を得ている。


久保田は実務の中心として、木ノ下智恵子らとともに運営やプログラムの企画を担った。
「CSCDでそういう実務的な動きや企画を立てるとなると、なんとなく「木ノ下、久保田やろ」みたいな感じでしたね(笑)。それで毎週の「ラボカフェ」や「サイエンスカフェ」に加え、写真家のホンマタカシさんや松岡正剛さんらを迎えた「鉄道芸術祭」(2010〜2021年)や、研究者とアーティストが実験を行う「Search & Create(サーチプロジェクト)」を、ダンスボックスの文さん、コンタクトゴンゾの塚原悠也さんやドットアーキテクツの家成俊勝さんらと協働で企画を進めていました。」
B1で企画されたプログラムは膨大なものである。しかも、美術家だけではなく写真家や音楽家、ダンサー、科学者、哲学者といった理系文系の学者を組み合わせて、一つの展覧会やイベントにしていく試みは、日本でもほとんど例がないだろう。しかし、自分たちがすべてを作り上げたわけではなく、場を開いて他の担い手に手渡していくことが、B1の運営の基本にあったという。
「声かけは僕らなんですけど、そこで例えば臨床哲学者のほんまなほさんが哲学カフェをやったり、サイエンスチームがサイエンスカフェをやったり。「こんな場所があるから、やりたい人募集」って言って、口火を切るのは僕らだとしても、実際に実務を担当するのは阪大の研究者だったりするんです。」
「鉄道芸術祭」は2010年のvol.0(電車を貸し切ってウォーリー木下が総合ディレクターを務めた電車公演「サーカストレイン」など)を皮切りに、2011年からは毎年秋から冬にかけて本格的な展覧会シリーズとして展開された。vol.1(2011年)は西野達、vol.2(2012年)はやなぎみわ、そして開館5周年にあたるvol.3(2013年)は松岡正剛プロデュースの「上方遊歩46景」と、回を重ねるごとに異なるプロデューサーを迎えて更新され続けた。


編集工学を提唱している博覧強記の松岡正剛をプロデューサーに迎えたvol.3の制作過程は、とりわけ密度の濃いものだったという。松岡とは京阪沿線のリサーチを実施し、その結果をもとに46の駅とその周辺のエリアをまさしく再編集するプロジェクトだった。
「松岡さんとは車で京阪沿線地域のリサーチに回ったりもしたんですよ。海洋堂に行ったりとか。大変でしたけど、道中で工作舎の話、『遊』の編集裏話などを聞いたりして、めちゃくちゃ楽しかったですね。」

開館5周年記念として、vol.3の内容と、アートエリアB1のそれまでの経緯をまとめた記録集『上方遊歩46景』(監修・松岡正剛、編集・木ノ下智恵子、A5判302ページ)は、当時の活動をまとめた貴重な記録となっている。「中之島コミュニケーションカフェ」を継承した「ラボカフェ」に加えて、2011年には「サーチプロジェクト」も始動し、以後、主催事業として毎春・毎週継続して行われた。
2015年には運営体制が一段と組織化され、一般社団法人アートエリアビーワンが設立された。同じ年の鉄道芸術祭vol.5はホンマタカシプロデュースによる「もうひとつの電車〜alternative train〜」で、こちらも記録冊子が刊行されている。



久保田はホンマタカシとのやり取りを、特に印象深いものとして語る。
「ゴンゾの塚原くんが繋がっていたことで実現しました。個人的には、ホンマさんに関して言うと、僕の中で広告世界におけるスターで基本的に紙面にいる人だったので、その人が実際に目の前に現れる、というのが印象的だったんです。展覧会ゲストの人選も、ホンマさんに相談したり。今一緒にやりたい人、面白いなと思う人は誰ですか、と単刀直入に聞いて決めていましたね。あと、ホンマさんが「小津安二郎の映画に出てくる鉄道シーンばかりを集めた映像作品をつくりたい」ということで、現存する小津全作品をチェックして抜き出し、年代順に並べて編集する作業を担当しました。勝手に共作気分になって嬉しかったです(笑)。」
さらに同年12月には、大阪国際会議場で大阪大学主催のシンポジウム「成熟する社会の生態系——クリエイティブアイランド中之島の共創に向けて」が開催され、京阪電気鉄道・朝日新聞・国立国際美術館・大阪大学という中之島の主要機関が一堂に会した。この場にアートエリアB1も制作協力として関わっており、中之島という島全体を文化芸術のハブとして捉え直す「クリエイティブアイランド中之島」構想にも参加している。
2015年に開催されたサーチプロジェクトvol.4「ニュー“コロニー/アイランド”〜都市空間における“島”のアート&サイエンスとその気配〜」では、上田昌宏(大阪大学理学研究科教授)や中垣俊之(北海道大学電子科学研究所教授)といった粘菌の研究者と、やんツーや稲福孝信といったアーティスト、dot architects(建築家集団)が協働して会期中、粘菌を育てるプロジェクトを行うなど、サイエンスとアートが交差する場面も生まれた。
「粘菌がどうやったら死なずに繁殖していくかを研究者やアーティストらと話し合って展示を決定していきました。やんツーさんが自動水やり機を作ったり。粘菌を生かすための技術と、それをもとにした表現とが、あの場では本当に地続きになっていたんです。」
B1という場所そのものについて、久保田はこう振り返る。
「いろんなジャンルの人たちがそこで交わり合うような場っていうようなイメージでした。駅という場所に突如公共圏が現れるような先駆的な試みでしたし、何より水面下で現場を支え続けてくれた事務局の存在が大きかったですね。」
表舞台には出てこない事務局の働きについて、久保田は特に言葉を尽くして語っている。
「今なかなか言葉に出てこないんですけど、事務局の動きが本当に大きかったんです。僕らが発案してすべてを動かしていた訳ではありません。むしろ事務局がそれを実際の形にしてくれていた部分がとても大きかった。」
2018年の鉄道芸術祭vol.8「超・都市計画〜そうなろうとするCITY〜」は開館10周年記念事業として開催され、同年、文化庁の戦略的芸術文化創造推進事業「クリエイティブ・アイランド・ラボ 中之島」が実施された。これが後の「クリエイティブアイランド中之島実行委員会」【※4】(2019年設立、12機関参加)へとつながっていく。2019年には「メセナアワード2019」で優秀賞を受賞するなど、B1の実践は中之島全体の文化政策構想の中核へと位置づけられていった。
2022年には、12年の記録をもとにしたドキュメント展として、鉄道芸術祭vol.0〜10を振り返る「リ・クリエーション〜展覧会の記録をめぐる10の対話〜」が開催された。さらに2024年には、開館15周年記念として「リ・クリエーション2〜展覧会の記録からはじまる未来〜」が開催され、それまでの展示、トーク、電車公演のアーカイブ映像を編集して上映すると同時に、次世代を担う20代〜30代のキュレーターや批評家、研究者等をゲストに招いて、再考する試みが行われた。そして2024年、京阪・大阪大学・ダンスボックスによる運営委員会は解散し、京阪ホールディングス株式会社単独の運営体制へと移行している。
【※1】アートエリアB1
【※2】 Central East Tokyo (CET)
2003年頃から横山町、馬喰町、東日本橋を含む特徴的な三角形の街区界隈を「さんかく問屋街」と呼び、そのエリアを中心に開催されたアート・デザイン・建築の複合イベント。2010年「CET10 OPEN END」と題した活動を最後にプロジェクトは一旦終了した。
【※3】 21世紀COEプログラム・グローバルCOEプログラム。日本の文部科学省がかつて実施した、世界最高水準の研究教育拠点を形成するための重点支援事業。平成14年度(2002年度)から「21世紀COEプログラム」が開始。その後継として平成19年度(2007年度)頃から「グローバルCOEプログラム」へと発展。2014年3月末に終了した。
【※4】クリエイティブアイランド中之島
(全URL最終確認2026年9月24日)
福山大学人間文化学部メディア・映像学科准教授、NPO法人remo(記録と表現とメディアのための組織)代表理事。神戸芸術工科大学卒業後、株式会社生活環境文化研究所・文化農場、早稲田大学非常勤講師、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター(CSCD)特任教員、大阪音楽大学ミュージックコミュニケーション専攻を経て、2025年より現職。大阪大学在籍時には、京阪電鉄・なにわ橋駅の遊休スペースを活用した「アートエリアB1」の立ち上げに携わり、「鉄道芸術祭」「サーチプロジェクト」などのプログラムを企画した。2023年より愛媛県今治市・大島に生活拠点を移し、里親として複数の子どもを育てながら活動を続けている。
文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人。独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。