
2026年3月7日。ペナン島のジョージタウンに、アジア各地からおよそ20組の参加者たちが集まりはじめていた。
インドネシア、タイ、フィリピン、台湾、ネパール、韓国、中国、ベトナム、マレーシア、そして日本。そこにいたのは、オルタナティブ・スペースやアーティスト・コレクティブの運営者、キュレーター、ライター、アーティストたちだった。小規模な展示やレジデンスのスペースから、企業が運営する教育プログラム、あるいは固定的な場を持たない活動まで、その実践のあり方はさまざまだった。だが、それらは明確な境界を欠いたまま、ひとつの場をかたちづくっていた。
ここはマレーシア北部にある港町で、世界遺産にも登録されている。イギリス植民地時代の建物が残る通りのあいだに、マレー系、中華系、インド系の文化や宗教が隣り合っている。いくつもの歴史が同時にそこにあることを感じさせる場所だ。
すでに気温の高い朝のなか、英語を中心に、ときおり母語が混じるよそゆきの声が行き交っていた。首に下げられた名札に目を落としながら、まだ互いの距離を測り合うような仕草も、そこにあった。これから始まるかもしれない対話や共鳴、あるいは行き違いやすれ違いも含めて、その機会をどこかに感じ取りながら、まずは軽く挨拶をし、笑い合う。
けれど、この朝の空気は「これから何かが始まる」という期待だけではなかった。マレーシアのアーティスト、活動家、そして映画監督でもあったチ・トゥーの訃報が届いていた。44歳という、あまりにも早い別れ。多くの人々に深く愛され、敬意を寄せられてきたひとりの作家の喪失として、その知らせは現地のコミュニティのあいだにひそやかに広がっていた。
祝祭の予感と、弔いの気配。互いを打ち消さぬまま、同じ時間のなかに漂っていた。
本稿で取り上げたいのは、そんな空気のなかで始まった二日間の集まりである。これは日本・滋賀を拠点に活動する共同スタジオ・山中suplexと、ジョージタウンのギャラリースペースであるBlank Canvasとの協働によって企画・運営された。制度的な枠組みから距離を取りながら、地域をまたぐ実践を持ち寄り、何を分かち合えるのか、どのような対話が生まれるのかを探る試みである。

山中suplexが続けてきたこの「シェアミーティング」は、これまで日本国内で二度開かれている。インディペンデントやオルタナティヴ、非営利のスペースやコレクティブ、プロジェクトなどが集まり、活動内容を共有し、サステナビリティ(持続可能性)をどう確保するか、その方法や工夫を持ち寄る場だ。
2024年の初回には、国内から8組が参加し、主に運営や継続をめぐる話が交わされた。翌2025年には、国内外から同じく8組ほどが集まり、タイからの参加や、インドネシアに拠点を持つ日本のプロジェクトも加わった。場の広がりには、まだ限定的ではあるものの、国境をまたぐつながりの兆しが見えはじめていた。
今回ペナン島で行われた集まりは、初めて「国外」で開かれるという点で、性質の変化を伴うものでもあった。開催地としてペナン島が選ばれた背景には、単なる地理的な条件だけではなく、首都に集中しがちな構造から軸足をずらしながら、小規模で展開されるペナンのアートエコシステムに身を置くことに意味を見いだそうとする意図もあった。参加したコレクティブやスペースのほとんどは、地方都市を拠点としている。
加えてマレーシアは、第二次世界大戦中、日本軍に占領された歴史を持ち、ペナン島もその初期に占領された地域のひとつだった。戦後はマハティール政権の「ルックイースト政策」を通じて、日本との経済的な関係を強めてきた。ひとつの物語では説明しきれない、異なる時代感覚が同居する場所だ。そうした場所性を、日本からの参加者たちにも体験してほしいという思いもあったのだろう。
会場となっていたのは、マレーシアの都市デザイン機関Think Cityのオフィス内にある多目的スペースだった。天井が高く開放的なつくりで、展示やイベントなど多様な用途に対応できる設計になっている。子連れの参加者の姿も見られ、主催側の配慮として小さなキッズ・スペースも設けられており、そのことが場にほどよい賑わいをもたらしていた。

イベントのタイトルは「地震、雷、火事、親父、病原菌から生まれ出る美術」。日本のことわざに「病原菌」を加え、複数の恐れを並べ直している。
それは、危険を個別に切り分けるのではなく、複数のリスクが同時に存在する状況に目を向けるものでもある。自然災害、核の脅威、ネット上での炎上、家父長制、パンデミックといった現代的な問題群として読み替えられ、その分類のあり方自体がわずかに揺さぶられている。
このイベントでは、そうした問題を抽象的な理論としてまとめるのではなく、それぞれの現場での経験や実践を通して考えようとしていた。対話や共有という手法を取りながら、こうした力が美術の言葉や制度、制作の条件、そして活動を続けていくことに、どのように入り込んでいるのかを見ようとしていた。
さらにここでは、「アジアとは何か」という問いも、あらためて浮かび上がってくる。コロナ以後の状況や、制度に収まらない活動のかたち、地域ごとに異なる運営の仕方が、「アジア」という言葉でひとつに括ること自体の難しさを示している【※】。
また、この集まりが開かれていた2026年3月当時には、イスラエルとアメリカによるイランへの攻撃が報じられていた。会場でそのことが直接語られることはほとんどなかった。しかし、異なる国や地域から集まった参加者たちの実践に耳を傾けていると、目の前の小さな活動を世界情勢から切り離して捉えることにも違和感があった。戦争や政治的緊張が続く世界のなかで、文化的実践もまた存在している。その事実が、どこかで意識され続けていた。

このイベントの見え方に関わるもうひとつの背景として、筆者自身の観察する立場について触れておきたい。それは経歴の説明というよりも、複数の制度や地域を移動するなかで、その都度更新を迫られてきた視点のあり方に近い。
これまで筆者は長らくヨーロッパのアートシーンに関わってきた。そこでは、美術館やコマーシャル・ギャラリー、「ヴェネチア・ビエンナーレ」をはじめとする国際展といった制度、あるいは資本主義の論理のもとで肥大化していくアートマーケットのなかで、競争と評価を前提とする大きな物語に組み込まれていた。
その構造に対する批判意識は以前からあったものの、それを体系的に言葉へと開いていくことはなかった。そうした曖昧な感覚を改めて強く自覚させたのが、2022年の「ドクメンタ15」である。インドネシアのアーティスト・コレクティブ、ルアンルパが芸術監督を務めたこの国際展は、グローバル・サウスの複数の実践を提示すると同時に、それに対する西洋中心主義的な批判や反応も噴出させ、制度・歴史・政治的文脈が複雑に絡み合う場として展開していた。
その後、筆者がヨーロッパからマレーシアへと拠点を移したことも、単純な地理的移動ではない。むしろ、制度の中心から距離を取ろうとする視点が、別の制度的配置の中に再び取り込まれていく過程でもあった。
東南アジアの実践に触れるとき、それらを安易に代替的な場として読み替えてしまう危うさにも直面することになる。そこには、異なる規範や選別の構造、そして見えにくい中心性が、別のかたちで確かに作用している。
つまり問題は、ヨーロッパからアジアへと視点が移ったかどうかではない。むしろ問われているのは、自分自身の見方や立ち位置が、その都度どのように変化し、あるいは変化しきれないまま残っているのかという点である。
今回のジョージタウンでも、その立ち位置のまま現場に身を置いていた。そこで感じられた認識のずれは、この場に固有のものというより、より広いレベルで反復しているものでもあった。
例えば「コレクティブ」という語をめぐる理解にも、その差異は表れていた。筆者自身、2018年に『美術手帖』の特集「ART COLLECTIVE アート・コレクティブが時代を拓く」に寄稿し、ベルリンを拠点とする実践を担当したことがある。その際、ドイツの事例は必ずしも今日的な意味での「コレクティブ」として一枚岩に把握できるものではなく、政治的介入や知覚実験を含む実践の束として、個別に記述するほかなかった。
振り返ればそこには、アジアの文脈で見られるような、生活や地域制度に深く接続した「コレクティブ」の像とは、前提となる語の位置づけ自体に隔たりがあったとも言える。同じ語を用いながらも、それが指し示す実践の密度や機能は、地域的な条件によって異なる輪郭を帯びている。
とりわけ今回ジョージタウンで出会ったアジア各地の実践は、その違いをより具体的なかたちで浮かび上がらせていた。日本ではスペースやプロジェクトが比較的明確な単位として成立しやすいのに対し、東南アジアや南アジアの一部の実践では、教育、地域インフラといった機能が重なり合いながら、その活動は常に流動的に保たれている。生活基盤や地域制度とより直接に接続しながら、複合的な活動体として機能しているように思われた。
シェアミーティング3の会期中にも、同様の差異は別のかたちで現れていた。「助成金」や「コミュニティ」といった語が指す実感の密度は一様ではなく、しばしば小さな食い違いが残る。その食い違いは解消されるべきものというよりも、むしろそのまま共有され続けていた。
こうした差異も手がかりにしながら、二日間のイベントをたどっていく。

先にも触れたように、会場にはアジア10カ国から、18組の参加者が集まっていた。1日目のプレゼンテーションは午前と午後の二部に分かれ、主催者の2組から始まり、16組の参加者が実践や問題意識について発表を行った。残る2組は翌日、別のシェアリング・セッションと、オブザーバーとしての全体の振り返りを、それぞれ担った。
1日目の各発表は8分ほどで、その後にはQRコードを通じて会場から匿名で質問を送ることができる仕組みもあり、発言のハードルを下げながら、できるだけ多くのやり取りが生じるように仕込まれていた。
発表前、参加者が一人ずつ軽く挨拶していく場面では、フィリピンから参加していたSpare Bedroomのアリス・サルミエントが、「私は一番最後だから、その頃にはみんな寝てないといいけど」と冗談まじりに話し、会場に笑いが起きていた。実際、その冗談もまったく的外れというわけではなかった。
二日間を通して感じたのは、やはりこの参加数の多さだった。ひとつひとつの実践にはそれぞれ固有の事情や切実さがあり、活動のかたちも異なっている。短いプレゼンテーションのなかにも、地域の状況や運営の苦労、制度との距離感が滲み出ていた。
しかし同時に、18組という数は、限られた時間のなかで受け止めるにはあまりにも多かったとも思う。筆者自身、二日間会場に居続けながら、すべての参加者と十分に話すことはできなかったし、後半になるにつれて、次々と流れ込んでくる情報に頭が追いつかなくなっていく感覚もあった。
主催者側が詰め込みすぎていたという事態だけではないのかもしれない。むしろ、異なる土地や状況から持ち込まれた実践を、短い時間のなかで理解し合おうとすること自体が、あらかじめ無理を含んだ構造だったようにも思える。もしくは、五日間ほどの合宿のような形式であれば、互いの実践の背景にある時間や状況にも、もう少しゆっくり触れることができたのかもしれない。
ここまで周辺の状況を追ってきたが、実際の二日間で起こっていたことに目を向けていきたい。ただそれは、地理的な広がりや彼らの実践の現場へと移るというよりも、すでに重なり合っている文脈の上に、さらに別の言葉や時間が重ねられていくようなものだ。
理解の流れが用意されていたというより、むしろ理解に向かうたびに別の話題や時間感覚が差し挟まれ、その都度わずかに軌道がずれていく。その結果として残るのは、ひとつの答えではなく、ときに接続されながらも定まりきらない断片であった。理解されることと、理解されないまま共有されていくことのあいだで、言葉は行き来していた。
その断片は、互いに無関係に散らばっていたわけではない。地方都市でのスペース運営、制度の外側からの教育実践、未完成性や小規模性を引き受ける実践、アーカイブを通じた歴史の掘り起こし、そして制度や地域とのあいだで関係性を編み直していく試み–––そうした実践は完全には一致しないまま響き合い、この二日間を貫くいくつかの問いを立ち上げていた。次の章からは、そうした問いがどのように語られていたのかを見ていきたい。

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・山中suplex
シェアミーティング3「地震、雷、火事、親父、病原菌から生まれ出る美術」 in マレーシア・ペナン [ジョージタウン]
上記に今回のイベント概要と各参加団体の情報が掲載されている。
過去のシェアミーティングとレビューについては以下の通り
シェアミーティング「一人で行くか早く辿り着くか遠くを目指すかみんな全滅するか」
『共同体と共同体の出会いから生まれるシナジー』AMeeT
シェアミーティング2「つぎつぎに (あつまっては) なりゆくいきほひ」
シェアミーティング2「つぎつぎに(あつまっては)なりゆくいきほひ」
ルポ
・ <前編:1日目>
・ <後編:2日目>
(全URL最終確認:2026年6月18日)
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【※】 第1回目のシェアミーティングから、山中suplex共同ディレクターの堤、池田は「シェア」の範囲を国内に限定するのではなく、アジアという広さで何をどう伝え合えるのか、考え続けている(編集注)。
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芸術文化研究者。ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジで20世紀美術史を学び、修士号取得。約20年間ベルリンを拠点に欧州各地のアートシーンを取材し、文化庁新進芸術家海外研修員(美術評論)としても活動。『美術手帖』『芸術新潮』『ART iT』などに寄稿するほか、書籍や展覧会カタログの執筆・編集、展覧会コーディネートを通じてヨーロッパの現代アートを日本に紹介してきた。現在はマレーシアを拠点に、研究・執筆に加え、展覧会やワークショップの企画に携わる。国際美術評論家連盟(AICA)ドイツ支部会員。