WEBメディアが実空間で「問い」を共有し、リアルな対話を通して言論空間を創造する+5メディアプログラム。vol. 7となる今回は、「ダンスと対話のあわい——身体がある場所について」と題し、演出家・ダンサーの倉田翠(くらたみどり)さんと振付家のきたまりさんをゲストに迎えた。「身体をどこに置き、誰と、何をつくるか」。ナビゲーターとして京都国際ダンスワークショップフェスティバル(通称「京都の暑い夏」) のプログラム・ディレクターを務める八木志菜(やぎゆきな)さんと共に、二人のキャリアをたどりながら、身体表現をめぐる問いに向き合った約2時間のイベントレポートをお届けする。

表現媒体を身体とするとき、その選択はどのように生まれるのか。トークの前半では倉田さん、きたさんがダンスと関わるきっかけについて話がなされた。
倉田さんは三重県の山間部で生まれた。コンビニもファミレスもないような地域だったという。バレエを始めたのは3歳くらいのときで、バレエ講師が地域に引っ越してきたことがきっかけだ。姉が習い始め、「姉のすることは何でもやりたかった」という倉田さんも後を追った。バレエを続けられた理由として倉田さんは、「先生が面白かった」と振り返る。小学3、4年生のころから本格的に取り組むようになり、18歳まで続けることになった。
クラシックバレエを取り巻く環境について、倉田さんは「残酷さがある」という。レオタード一枚で鏡の前に立ち続け、最初に向き合わされたのは自分の体型だった。鏡の中の身体が「自分」になっていく過程には、自らに向ける視線だけでなく、他者からのそれもある。常に誰かの目に身体が晒されている。その経験は身体に向き合う原体験として倉田さんの中に強く残っているそうだ。
大学進学の時期、動物好きだった倉田さんは獣医を志し、理系の勉強を続けていた。教員の両親を持ち、「親より偉い職業に就こう」と思っていたという。そんなとき、ダンスが学べる大学もあると知り、物珍しさで京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)と大阪芸術大学のサマープログラムに参加した。大阪芸大がテクニック重視だったのに対し、京都造形で見た作品は「意味がわからない」ものだった。それでも、「そこには自分の知らない世界がある」と感じ、本能的に京都造形への進学を決めた。クラスメイトに芸大受験を内緒にしたまま、京都に来ることになった。今も「あのまま進んでいたら開業獣医になっていたかもしれない」と倉田さんは言う。

一方のきたさんは、ダンスを始めたきっかけについて「重複しすぎていて説明が難しい」と笑いながら話してくれた。さまざまな要因が積み重なって、気づけばその方向に進んでいたのが正直なところとのことだ(しかし社会人ならいざしらず、当時10代のきたさんがすでに「さまざまな要因」が積み重なるほどの選択をアクティブにとっていたことが、筆者にとっては新鮮な驚きだった)。
高校生のころ、ファッションの専門学校に通いながらPL学園の通信制高校に籍を置いていたきたさんは、絵や写真といった美術系の表現に関心を持つ一方、体を動かすことにはまったく興味がなかったという。タイとネパールへの渡航を経て【※1】、帰国した後たまたま手にしていたアート系のチラシの中にボランティアスタッフの募集を見つけたのが転機となった。それが当時、大阪・難波の廃校を改装した精華小劇場コトハジメで活動していたDance Box【※2】との出会いである。
ボランティアとして運営を手伝いながら、暗がりの中でゆっくりと動く大人たちのワークショップを横目で眺める中で、「何をしているんだろう」という純粋な興味はあったそうだ。やがてスタッフに「若いから体を動かしてみたら」と声をかけられてワークショップに参加。その講師が、舞踏家の竹之内淳志【※3】だった。初めて舞踏のワークショップを受けたとき、感動というよりも「枠が外れたら周りが喜ぶ」感覚を肉体的に覚えたという。日常生活では許されない「枠が外れた状態」が、この場では受け入れられる。そのことがきたさんの記憶に残った。その後、舞踏家の由良部正美が出演【※4】の公演にスタッフとして携わる機会があり、より本格的にダンスの世界へと足を踏み入れていく。以前よりダンスボックスでは、出演者のキャンセルを穴埋めするかたちでボランティアスタッフ向けのWS参加メンバーから舞踏カンパニー「千日前青空ダンス倶楽部」【※5】が結成されていた。きたさんも最初はメンバーではなかったが、ワークショップに通い続けるうちにいつのまにか加わり、気づけば白塗りで舞台に立っていたそうだ。「千日前青空ダンス倶楽部」は若い女性のみで構成されており、当時そうした舞踏カンパニーは珍しかったこともあって、出演の機会が増えていった。
大学に進む転機は、京都造形芸術大学の大階段で踊ったとき。観客を見ると、同世代の学生たちがいて「なぜ自分は同じ年ごろなのにこんなアングラなことをしているのか。このままで大人になれるのか」という思いが湧き上がり、大学に行こうと決めた。身体表現の実技で入学できることを知り、京都造形芸術大学へ進むことになる。【※6】。

在学中に、きたさんは「KIKIKIKIKIKI」、倉田さんは「akakilike」と、共にカンパニーを立ち上げているが、作品をつくれば自然と人が集まり、団体となったそうだ。なぜダンスを続けてこられたかという問いに対して、きたさんは周囲の大人たちの存在、その人たちとの気持ちや表現のぶつかりあいがあったことを挙げた。八木さんは今の若い世代のダンスとの関わり方についてこう話した。
八木:私の周囲では習い事でダンスをしている中でコンテンポラリーダンスに出会う方もいますが、大学をきっかけに、演劇や舞台に関わってダンスに興味を持ち始める方が多い印象です。ダンサーと振付家は別物ですが、お二人は作品をつくる人という側面が強いと思います。お二人が「つくる人」になっていく過程に注目すると、それぞれの探究や葛藤に特異さがあり、それらは今の実践にもつながっているんじゃないかと思います。

イベントでは、お二人のダンスの原体験を探った後、どのような制作に取り組み始めたか、それぞれの活動の変遷を追っていった。
きたさんは、自分の活動をひとくくりに、あるいは意味づけて説明することを「難しい」と言うが、一貫しているとすれば「前衛的な身体表現」への関心だという。大学を卒業した2000年代、コンテンポラリーダンスという言葉を社会に浸透させようとする機運があった。きたさん自身はそのジャンルをやろうと意識したわけではなく、身体表現に興味があって始めていたら、いつのまにかそう分類されていた。「どうやら私はコンテンポラリーダンスというジャンルらしい」という感覚は持っていたものの、自らその言葉を使うことはほとんどなかった【※9】。振付家という肩書きも、身体表現をつくる人をそう呼ぶらしいからそう名乗った、という経緯だという。
ダンスという行為についても、それが何かという根本的な問いを持ち続け、「自分が踊っている時もよくわからない」という。けれども、言葉よりも、身体の方が理解し合えることが多々あるという漠然とした感覚がきたさんの中にはあり、身体を通して、音楽、身振り、声、地域、古典——さまざまな文脈を横断してきたのも、その問いへのアプローチの多様さから来ている。
きたまり:私は新しい言語を作ろうとはしてると思います。そのために身体が必要っていうことなんだろうな。
トークの中では、学生時代にきたさんが制作した『サカリバ』が共有された。「人生の3分の1を占める睡眠時間」に着目した作品であり、身体で時間という概念を語ろうとした意欲的な作品である。2023年には20代のメンバーによるリバイバル上演も行われた【※10】。

卒業後の活動で、きたさんが「大きな仕事」と語ったのが「Dance Fanfare Kyoto」【※11】だ。2012年2月に元・立誠小学校で開催された「We dance 京都2012」でプログラムディレクターを務めたきたさんが、その経験を足がかりに発起人となり、2013年から2015年まで3年間にわたって開催したプロジェクトである。ダンスと演劇・音楽・美術など異なるジャンルのアーティストを出会わせ、共同で作品を制作する実験の場として、延べ100名以上のアーティストがジャンルや世代を越えて参加した。
倉田:きたさんが興したDance Fanfare Kyotoは、京都の舞台芸術シーンを変えたと思っています。ダンスはダンス、演劇は演劇となりがちだったところを地続きにした。
倉田さん自身もこのプロジェクトを通じて演劇の演出家の村川拓也や筒井潤など、後に代表作に出演するダンサーとの縁もここから生まれたと語った。


その後の2018年に、きたさんはカンパニーをプロジェクトユニット制へと移行している。実質的にはカンパニーの解散に近いものだったという。学生の時に立ち上げ、10年以上運営してきたカンパニーだったが、十数年間ともに活動してきたメンバーたちのライフステージの変化や、その他様々な理由が重なり決断したとのことだ。きたさんは、義理と人情から「辞めたいと言えない関係になっていた」と率直に言う。そのタイミングで、きたさんの方から区切りをつけることを決め、昨年度はカンパニー名そのものも使うことをやめ、現在は肩書きにも記していない。
またここ10年ほどは、伝統芸能との関わりが多くなってきているきたさんだが、民族芸能、伝統芸能を見て回ることは、きたさんの「生きがい」だという。劇作家・太田省吾の戯曲をダンス化するシリーズ(2021年『老花夜想(ノクターン)』、2022年『棲家』、2024年『小町風伝』)では、太田自身が能に強く影響を受けていたことから、能舞台を模した空間で上演し、最終的には実際の能楽堂・大江能楽堂での上演に至った。嵯峨大念佛狂言との共演もその文脈にある。
きたまり:当時の最先端の前衛が、今も形を変えて残っている。コンテンポラリーダンスという言葉は使いたくないですが、昔のコンテンポラリーがそこにある気がするんです。
一方の倉田さんは、卒業後の活動を振り返りながら「自分の踊りとは何か」という問いについて話をした。それは答えを見つけたと思ってもまた見失う、更新し続ける問いだと倉田さんは言う。
倉田さんは、ダンサーや俳優などいわゆる「プロ」以外の人とも作品を多く制作しているが、その根底には、学生時代に自分の中の「支配欲」のようなものに気づいた体験がある。若いがゆえの誇りや驕りを自身で強く感じ、「このままでは狭い世界の女王様みたいになってしまう」という恐れから、完全振付をやめ、その人の動きからダンスを立ち上げるスタイルに移行した。またダンサー以外の人と作品を作る方向へ早い段階で転換したという。
その最初のきっかけとなったのが、2016年初演の『家族写真』だ。この作品には、写真家、俳優、一般の子供、ダンサーと、立場も背景も異なる人々が出演する。9年以上にわたって再演を重ねており、初演時に小学2年生だった子供が今は大学生になっているように、演者たち自身の時の流れも作品に刻まれている点は見どころの一つである。もう一つの代表作『捌く』では、ダンサー、俳優、演出助手、ポッピンの踊り手、現代アートの作家など、様々なジャンルの人々が出演している。多様な背景と能力を持った演者たちがいたが、倉田さんはあえて物語化せず、彼らの身体のみでその存在を語った。
また倉田さんは同じ地域、場所と何度も関わりを持ちながら作品を制作している。そのひとつとして、京都市からの依頼で東九条に関わったことを紹介してくれた。
在日コリアンをはじめ多様な背景を持つ住民が暮らすこの地域で依頼されたのは、老人ホーム「故郷の家」での作品制作だった。特異な歴史を持つその地域について「足を踏み入れることも、人と関わることも最初は緊張感があった」と倉田さんは話す。しかし繰り返し通い、身体を通した対話を個々人と重ねる中で、作品『はじめまして こんにちは、今私は誰ですか?』になった【※12】。
また2019年には、薬物依存リハビリ施設の「京都ダルク」のメンバーとの協働による作品『眠るのがもったいない〜晴天のように』を発表した。ダルクの施設では1日3回、円卓を囲んで自分の話をする「言いっぱなし、聞きっぱなし」の時間がある。見学した倉田は、すでに舞台表現のようなものができていると思ったという。しかし稽古で難しかったのは、「いつもみたいにやって」と求めることだった。舞台の上でいつも通りにいることは、実際には高度な演出によって支えられている。そのバランスをなんとか取りながら作品を作り上げ、今でもダルクとの関係性は続いているとのことだが、本作を通して倉田さんは表現をつくることそのものについて以下のように語った。
倉田:どんなに素晴らしい舞台ができても、彼らが一生懸命頑張っても、だからといって舞台で薬は止まらないし、何かができるとは思わないという態度であり続けなければいけないと思うんです。彼らの為に、という態度では芸術が上から目線になってしまう。どういう姿勢で作品を作るか、学んだ経験でした。
また直近は、松本少年刑務所でクラブ活動の講師を務め、その経験から生まれた作品『娑婆身体表現クラブ』を発表している。本作の出演者はすべて俳優だ。この作品を作る際に、改めて当事者が舞台に立つことの強度に頼っていた部分があったかもしれない、と倉田さんは振り返り、必ずしもそれが重要ではないと理解した作品でもあると語った。
なぜ他者の「世界」に入ろうとするのか。「人の心はわからない」と倉田さん。そのわからなさへの強烈な興味が、作品づくりの根底にある。わからないからこそ、身体に付随するものからその人を把握しようとする。倉田さんはそれを「生まれたときからしているトレーニング」と表現する。

松本少年刑務所での取り組みについて語る倉田さん
きたまり:普通、ダンスは解放に向かうためにあるんだけど、みどりちゃん(倉田さん)のダンスは抑圧に始まって抑圧で終わる。一切解放されない。そういうのを制作するみどりちゃんは毒側の人なんだけど、それが意外と薬にもなるし面白いよね。
ただ、「誰とつくるか」という背景だけが注目されてしまうと、作品の本質が見えなくなる。そこじゃないんですよね、たぶん大事なのは。
倉田:そうですね。私の作品は、「良い活動」みたいなものに回収されやすいので、そことは戦っていきたいと思っています。いかに悪い人になれるかじゃないんですけど、やっぱり自分にとって分からないこととかを作品にするっていうことが、私にとってのクリエイションなので。これからも身体を介して、自分の独断と偏見、興味関心に向かい合って正直にやりたいですね。
きたさんはコロナ禍以降京都から北海道へ居を移し、倉田さんも2024年からまつもと市民芸術館の芸術監督になった兼ね合いで松本市との二拠点生活を行なっている。トークの最後には、どこで表現をするのかという場所性についての議論が交わされた。
きたさんが北海道に移住したのは、コロナ禍がきっかけの一つだったが、それ以前から兆しはあった。東南アジアの辺鄙な地域や中国の山奥へのレジデンスを経験する中で、自然の強い場所にいると「地球に住んでいる感じがする」という感覚を覚えたそうだ。久しぶりに訪れた札幌がその感覚に近かった。加えて、海外で、日本のダンスシーンについて聞かれるたびに、東京と京都のことしか答えられない自分に気づいていた。
きたまり:京都って地方都市なのかもしれないけれど、劇場もあって、ダンサーや俳優も多くて、すごく特殊な場所なんですよね。京都にいる頃、「京都は舞台芸術においては地方都市ではない」と言われたことがあります。いる間はそういうものに気づけませんでしたが、日本のほとんどの「地方都市」はそういう土地じゃないんです。
北海道に移ってみると、劇場文化がいかに小さな文化圏の中で成立しているかが見えてきた。そしてきたさんは札幌から、人口2600人弱の町へと拠点を移そうとしている。劇場も美術館もないような場所でも、歌と踊りは必ずある。身体で表現する行為がなくならないのはなぜか。その問いを掘り下げていくうちに、「共同体を作るため」という答えに近づいてきたという。
その背景には、きたさんがギリシャ劇のリサーチを約一年続けてきたことがある。そこで注目したのが「コロス」という存在だ。コロスは「コーラス」の語源でもあり、劇中では状況説明や登場人物への助言などを行い、観客を物語へ導く重要な役割を持つものだが、元は俳優でなく市民がその役をこなしていたそうだ。またコロスという言葉はコレオグラフィー、すなわち振付の語源でもある。
きたまり:コロスをテーマにした作品を作るなら、劇場文化の文脈を知らない人たちと作らなければいけないと思ったんです。
一方の倉田さんは、現実的に自分が作品をつくり続けるために、できることは「なんでもやる」というスタンスで仕事をしている。まつもと市民芸術館での芸術監督の仕事も、はじめからやりたかったわけではない。まつもと市民芸術館では、木ノ下歌舞伎を主宰する木ノ下裕一が芸術監督団団長(演劇部門)、ミュージカル俳優の石丸幹二がゼネラルアートアドバイザー、倉田さんが舞踊部門の芸術監督を務める芸術監督団を組織し、就任3年目を迎えている。赴任当初、松本にはコンテンポラリーダンスの客層が少なかったそうだ。喫煙所で会ったおじさんにチラシを渡し、近くの飲食店に声をかける。そうやって知り合いになった人たちが少しずつ来てくれるようになり、直近の公演では満席になったそうだ。
倉田:別に悪いことじゃないんですが、京都や東京では客席が埋まっても、来てくれる人が誰なのかよくわかりませんでした。でも松本では、増えている数や、この人が来てくれているというのがわかります。そういうことを実感していると、もう一度初心に帰る感じがしますね。
京都で活動を続けている八木さんは、二人の動きと自身の活動を重ねてこうコメントした。
八木:京都国際ダンスワークショップフェスティバル【※13】には全国各地から参加者が来るんです。ダンサーはもちろん、普段ダンスをしていない人も多く、身体に興味があり、興味関心を共有したいという理由で来る方もいます。だからか、ダンスに限らずもっと大きな共通項をもった人たちが集まっているように感じます。同時に、京都はほかの地方に比べて比較的ダンスなど芸術に触れやすい環境です。でも中央ではない。その特異な環境で、各地からはるばる参加する人は自分や他者の身体に向き合うことになるし、ふだん京都で活動するダンサーたちは外から来た人の身体や空気と出会うことになる。フェス以外にも多様な人が行きかう京都は汽水域のような場所になっていると思います。これからも人が出たり入ったりするところで、踊りやダンスが生まれかけたり、生まれたりすることを楽しみにしています。

当日会場からはいくつか質問が上がったが、その中でも二人が回答していたものとして印象的だったのが、「鑑賞者」についてだった。「チケットを買って劇場に来てくれる観客に対してどう考えているか」という質問に二人は以下のように回答していた。
倉田:舞台作品は観客がいて完成するものだと認識しています。特に松本での経験から、見慣れた観客だけでなく、まったくダンスを知らずに来た人、斜に構えてやって来た人、そういう多様な層に向けて、つくるということを意識するようになりましたね。「わけわからんかったけどおもろかった」となってくれれば今は十分です。
きたまり:「ちゃんと祭りにしないといけない」と最近思います。見るだけのことじゃなくて、場の空気ごと参加するものとして設計する。劇場が少なくなっている中で、劇場でやることへの固定観念を問い直す時期に来ていると思うんです。ただ舞台芸術がなくなることはない、という確信もあるので、それは信じてやるというか。
倉田:でも「流行る」というのも難しいですよね。その言葉に回収されちゃうものもあるから。
きたまり:そう。わかりやすいものばかりになると想像力が失われるよね。それをわかろうとする努力が必要で、劇場というメディアはそれに向いていると思います。携帯を切って、その時間を拘束されて、面白くないシーンも飛ばせずに見るしかない環境に置かれること。そこに可能性を見出しているって感じはする。

「ダンスと対話のあわい」というタイトルを本イベントには名付けたが、この夜はダンスそのものを語るというよりも、ダンスと対話のあいだにある何かを、二人のキャリアを通して照らし出す時間となった。二人ともダンスを自明のものとして捉えていない。何年も身体表現を続けてきたからこその「わからなさ」と、そこへの誠実さが、二人の実践の共通する核にあることがよくわかった。
またふたりのスタンスの違いも興味深い。倉田さんは公共制度の内側でその立場を使いながら作家性を更新し続け、きたさんは劇場という制度の外側に出て、小さな町で町民劇を作ろうとしている。この対照は二項対立ではなく、それぞれが自身の実践の論理に従って選んだ経路の違いである。しかしどちらも「制度に慣れた身体」の外に問いを立てているという点では一致している。
ダンスと対話のあわいとは何か。この夜の二人の言葉を振り返ると、それは「わかること」と「わからないこと」のあいだに生まれるものだったように思う。言葉では届かないものを身体で立ち上げようとするきたさんと、他者のわからなさに向かって身体で近づこうとする倉田さん。二人のアプローチは異なるが、共にそのあわいに居続けることを選んでいる。対話とはその場所に一緒に立つことであり、この夜はその実践でもあったような気がする。

【※1】10代のきたまりさんは海外で貧富の差など「世界」を目の当たりにし、「人に良いことがしたい」というのが、エネルギー源になっていたようだ。以下のインタビューでも一部語られている。
intvw.jp「ダンサー、のきたまりさんにインタビュー 」
【※2】 NPO法人Dance Box
現在は神戸新長田を拠点にしている。
【※3】 竹之内淳志舞踏歴・プロフィール
【※4】由良部正美ブログ
【※5】2000年に大阪で紅玉(あかだま)振付・演出を中心に結成したネオ舞踏カンパニー。〈身体〉を予め用意されたイメージを表現するための媒体と考えるのではなく、〈身体〉それ自体に記憶されている風景や歴史を引き出すことにより作品を創作し、国内外で上演を重ねた。
【※6】お二人が在籍していたのは、芸術学部 映像・舞台芸術学科(2013年で廃止され、現在は芸術学部 舞台芸術学科)。
【※7】 KIKIKIKIKIKI
【※8】 akakilike
【※9】以下のインタビューの中できたさんはコンテンポラリーダンスという言葉について語っている。
ステージナタリー「東京芸術祭2021」特集インタビュー(2021年)
【※10】 リバイバル公演に出演した出演者たちのレポートが以下にまとまっている。
「Enjoy Dance Festival 2023」きたまり「サカリバ」出演者レポート
【※11】Dance Fanfare Kyoto
【※12】 イベントでは時間の関係上、詳細には語られなかったが、以下の劇評に情報がまとまっているので参照されたい。
高嶋慈「劇評 誠実さと残酷さ」ロームシアター京都 コラム&アーカイヴ
【※13】 第30回京都国際ダンスワークショップフェスティバル
春に初夏編があり、8月1日からは真夏編が始まる。初心者から経験者まで身体表現を楽しめるプログラムが多数ある。
申し込みはこちら
(全URL最終確認2026年7月27日)
+5(plusfive)編集長
NPOでの国際協力活動、教育業界での経験を基軸にライター・編集者として経験を積む。近年はアートを通した言論空間の拡張をキーワードに様々なプロジェクトを実践し、現代社会におけるメディアの役割を再考している。
・ICA Kyoto Journal:Editorial Director
・dialogue point:Director