XR時代のアーカイブが 拓く身体性とは? <後編>

XR時代のアーカイブが拓く身体性とは? <後編>

京都市立芸術大学芸術資源研究センター|佐藤知久
2020.12.21
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これからのアートアーカイブを見据えるヒントを探る、文化人類学者・佐藤知久さんと、ART360°ディレクター・辻勇樹の対話。前半では、デジタル空間が領域を拡大する中でのアーカイブのあり方や、何をどう記録していくのかが語られた。後半では、そもそも人はなぜアーカイブを行うのか、これからのアーカイブのあり方の根源に話が及ぶ。


360度VR映像で展覧会を撮影する様子。こうしてART360°のアーカイブデータがつくられている。


アーカイブデータはどのように保管する?



辻:デジタル化が進むことで、アーカイブされる情報量は膨大に増えています。データはどのように収集・保管されていくことが望ましいと考えますか?


佐藤:昔は、紙媒体を残している公文書館だと、選別せざるを得ないわけですよね。そうしないと紙で地球が埋まってしまう。一方、デジタルアーカイブはとりあえず広そうだということで、情報をジャンジャン放り込めるから、選別しなくてもいいという考え方もあると思います。ですが、実際は、デジタルデータを保管しておくために、コストが発生している。デジタル空間は全く無限ではありません。その意味で、今のデジタルアーカイブは、少し変な喩えですけれども、核開発サイクルと似ているところがあるような気がします。保管の問題はいつか、どこかで誰かが解決してくれるだろう、整理方法もいつかAIがなんとかしてくれるだろうと思っているけれど、それは問題の先送りで、保管コストの問題があまり論じられていません。


辻:甲骨文字だって、石版だって、外部記憶するためには物凄い労力が必要だったわけですよね。そのコストがデジタル化で劇的に下がりました。


佐藤:記録に残すということは、残す容れ物を残すということでもあると思うんです。その部分は物理的な容れ物なので、実は長期保管がとても大変です。記録をつくることだけではなくて、デジタルな記録を物理的に保管して維持していくのが大変なんです。たとえばWebサイトをつくるにしても、それを200年間キープするとしたら、誰がどうやって担保するのか。公文書館などは、国家が容れ物の役割を果たしています。ただ、国家にとって不要な情報はたとえデジタルでもそこには入らないし、都合の悪いこととか、重要な関心事ではないとされることは、そもそも消去され、あったことすらチェックできない可能性もある。だから変更できないデジタルデータのメディウムについての研究や、公共性が高いと同時に人も入れ替わり、かつ第三者的なチェックも働きやすいような容れ物、たとえば公立大学や地方自治体というのは大切だと思っています。


辻:持続性にはART360°でも問題意識を持っていて、アーカイブする「箱」としてのART360°をどうアップデートしていくかは重要と考えています。少なくとも30年続けよう、と。30年後の世界は正直わかりませんが、30年間アップデートし続けていく前提で、ソフトウェアとか、アプリケーションをつくっている。それを持続的にどう行っていくのかを考えています。

佐藤:もちろん現実的には、自分たちの手の届く範囲にある公共性に残す以外の選択肢として、デジタルデータを「最終的」に、「Google Arts & Culture」のような巨大企業に残してしまう、ということも考えられるかもしれません。サーバも強力で、世界中の人に知ってもらうには利便性が高いですし。でも、長期的な安定性を考えると、最初はフリーでも、ある日突然、課金されるかもしれないんですよね。当然経費がかかってるはずだから、「入館料」をいつとったって不思議ではない。


辻:確かにGAFA[1]のような巨大企業は、あくまで営利企業です。


佐藤:日本の「ジャパンサーチ」も、ヨーロッパの「ヨーロピアナ」も、アメリカの「デジタル・パブリック・ライブラリー・オブ・アメリカ」も、いつそうした課金モデルになるかもしれないし、ブロック経済ではないけれども、自分たちの文化圏の中での利便性を高める方向にシフトするかもしれない。今は、文化的な資源を誰が集約していくか、そのプラットフォーム争いをしている状況だと思います。全世界の人が共通して使える共有資源を無料で提供しますという顔をしながら、いわば文化資源の分捕り合戦が起きている。今は覇権争いの段階だから無料だけど、今後どうなるかわからないと思います。文化資源のブロック化が起きるかもしれません。


人はなぜアーカイブするのか


辻:そもそも人がアーカイブをする動機はどこにあると思いますか? 僕はアーカイブの動機は、そもそもは一人称的なもので、自分の生きた証をどう残すかという生物としての欲求があるのではないかと思っています。シンプルには人間が死ぬからではないか、と。一方で、アーカイブが組織になると、何かを収集することが目的化して三人称的に、つまりパーソナルな感情や物語を介さないアーカイブを行うようになると考えています。


佐藤:いくつかの、全く違うタイプの動機があると思います。世界中のものを知りたい、集めたいという博物学的な欲望、グーグル的な欲望といってもいいですけど、物凄く貪欲な知識欲が、ひとつの流れとして連綿とあります。国がやっていることの権威付けもそうですが、行政手続きをチェックするための民主的・共和国的なアーカイブも、この流れに近いかもしれません。その一方で、全く別の動機から発生しているアーカイブもあると思うんですよ。それがコミュニティ・アーカイブだと思うんですけど、公の記録には残らないようなことだけど、大事なことだから記録しよう、残そうとする。


辻:たとえば、どんなものがありますか?


佐藤:沖縄の伊江島に「ヌチドゥタカラの家」というすばらしいコミュニティ・アーカイブがあります。伊江島の土地はその多くが、第二次世界大戦後、米軍に半分騙されるような形で接収されてしまうんです。その返還運動の中心にいた阿波根昌鴻さんは、運動を進めるだけでなくその記録を残したいとカメラを買って、抗議活動に並行して、その様子を記録していきます。そしてこうした記録を現在もつづく活動の様子とともに伝える施設として、「ヌチドゥタカラの家」があるんです。ここにははっきりとした政治的な要求があり、文化的な意味も歴史的な状況も自覚されている。これは全部を知るためのアーカイブとは別のモチベーションです。自分たちがやっていることの範囲内で、明確に記録を残していくものです。伊江島のことを多くの人たちに伝えたいと願って運営されているんですね。

「ヌチドゥタカラの家」をつくった阿波根昌鴻による沖縄・伊江島土地闘争の写真記録集。『人間の住んでいる島』(阿波根 昌鴻著)

辻:何を残し、後世に伝えたいのかがはっきりしていますね。



佐藤:最後に、辻さんもおっしゃるような個人的な動機ももちろんある。それまで写真にもビデオにも関心がなかったんだけど、子どもを育てることになった瞬間に一眼レフを買っちゃいました、というような素朴な動機。この瞬間の子どもの顔をとっておきたい、という気持ちと、どこかでアーカイブはつながっていると思います。自分以外は誰も見ていなくても、今この瞬間の凄さをとっておきたいという気持ちが、素朴かつ切実なものとしてあると思うんです。「此性(これせい)」[2]というか……。



文化とアーカイブ



辻:アーカイブという行為には、文化的な差もあるように思いますが、いかがでしょう。人間はどうあるべきで、記憶をどう継承していくのか、文化圏や社会集団による思想的な背景の差がアーカイブにも現れると思うんです。たとえば、デジタルアーカイブは欧米が主導していますが、アルファベットが記述しやすく、プログラミング言語も英語が母語の国が圧倒的に強い。日本を含むアジアの文化圏がこの分野で後発なのは、文字の数が圧倒的に多くて、デジタルにするとか、アーカイブにするときのコストが膨大だからだと考えています。アーカイブしやすい言語を持つ国にデジタルアーカイブは優位だという現実があります。


佐藤:図書館情報学が専門の東京藝術大学の桂英史さんは、アーカイブとか、図書館を考えるうえで、キリスト教的な思想について触れることを避けて通れないとおっしゃっています。キリスト教的な思想を抽象化すると、スピノザ的な〈世界=神〉こそが唯一のリアリティであって、その〈世界=神〉が動く様を、ひとつずつ理解していくことが知識を獲得していくことだ、ということになります。それがキリスト教文化圏における神の意志を知ることであり、その認識が人間にとっての完成にも近づいていく。


辻:まさにデジタルアーカイブの主流はキリスト教的な思想でつくられていると感じます。


佐藤:こうしたところに思想的根幹があるとすると、アーカイブも先ほど述べたような、博物学的なもの、全能的なものに向かっていって当然ですよね。その事業は事実上一人ではできないので、分業して、自分の持ち分を知るしかありません。それが神様が自分に対して呼びかけるものとしての「職業」であり、みんながその職業を通じた役割を果たせば、最終的には神様の意向によって人間も全能的な神の状態に接近していくと考える。キリスト教的な文脈から言えばアーカイブとは、その接近のプロセスに関する壮大な記録だとも言えるかもしれません。このビジョンの中では、全体を目指すアーカイブと、小さなコミュニティ・アーカイブも、それぞれに補完しあってひとつひとつの巨大なアーカイブを構成してしまうことになる。でもそれでいいのかな。


辻:日本的なアーカイブの可能性は考えられますか?


佐藤:世界は分解されて再構築され、また無に帰していく、という仏教的な思想も、ある意味ではサイエンティフィックな考え方だと個人的には思います。身近なところで言えば、たとえば田舎に行くと(田舎ではなくてもありますが)、なんだかよくわからない石碑とか、お地蔵さんが路傍に立っていたりしますよね。誰も管理してない、碑文も読めなくなっているような。そうした石碑であっても、最初につくった人はとても力を入れていたと思うんです。当時、最も持続可能なメディウムにがっつり彫り込んで、文言も考えに考え抜いて書いている。にもかかわらず、100年、200年経つと誰も読めなくなってしまう。


辻:確かに、生活の中で碑文は目に止まりません。


佐藤:でも時々、読み返す人が出てくるわけです。目立つ場所にどーんと置いてあったりするので。そしてそのとき、読めないながらに理解したい、自分の身体感覚にも通じるものとして解読したいという奇特な人が出てくる、あるいは、出てくるかもしれない。出てきてほしい。そうやって再生されて、もちろん誤解もあるだろうけれども、蘇る。そういったアーカイブの形もあるのではないかと思います。昔の人は思いっきり未来に向けて投げていて、実際、僕たちに届いているんだけど、意味がわからない、じゃあ考えようという。そういうあり方も面白いですよね。


辻:古代の石碑などはまさにそうして解読されてきました。


佐藤:誤読どころか、未来の人が解読すらできなくなることを込みで、要所要所でリカバーできるようにアーカイブをつくっておくことが必要だということでしょうか。要所要所で、オリジナルは置いておくけど、目につくものはつくり替えましょうとか。そういう動機を100年後、200年後の人たちに発生させるくらいのものを今から意図して仕込んでおくのがいいのだと思います。もちろん、外れる可能性もありますが。でも、そうでもしないと、未来の人が解読できずに悩んだり、アーカイブだらけで困ってしまうと思うんですよ。今は何でも残せるからこそ、何のために、誰に向けて残すのかが問われると思います。


辻:ART360°でもその点は考え続けていきたいと思います。


未来へ記憶をどう継承するか


辻:佐藤さんは、研究だけでなく、アーカイブづくりを実践されています。現在は、京都市立芸術大学の移転に伴い新たな図書館づくりに関わっているそうですね。


佐藤:教員の一人として、関わっています。建築的な意味では、図書館は新しいキャンパスのひとつのポイントなのですが、中身については、学内でまだ十分議論が深まっていないんです。図書館はアーカイブと同様に、学校としてつくる「記憶機関」のひとつなので、未来の学生にとって使いやすい図書館とは何かとか、芸術大学における面白い図書館とは何かとか、そういうことを考えています。


辻:文化人類学者が図書館をつくることに意外性を感じます。


佐藤:僕が京都市立芸術大学に着任した時に、「京都芸大を人類学者の目でフィールドワークしてください」とも言われたんですね。この大学を人類学者の目で見てほしい、と。この大学には、実技以外の教員については、もともと基礎論というか、原理的・普遍的なところを掘っている人を採用する方針が伝統的にあるそうなんです。自分の専門性をただ提供するのとは違う、ある意味で人類文化全体を見渡すような広い視点を持って、この現場に関わるようなあり方を求められているのでは、と勝手に思っています。


辻:どんなところに可能性を感じていますか?


佐藤:今インターネットで文化が標準化されている一方で、ローカリティがすごく大事にされてきていると思うんです。これまでにないいろんな可能性が開けているという意味で、デジタル空間は大航海時代ですが、他方で、生身の身体は物理的な空間の中にあるという現実があり、そこには生々しい経済や、地域の力学みたいなものが働いていたりする。デジタルの可能性を追求することと同時に、ローカルな、生身の文化が生きている個別状況において、芸術が創造されている。その全体がリアルであり、だからこそ記録に残りにくいローカルなことを記録しておくことが、すごく必要だと思っているんです。グローバルなものに対する反動というのではなく、ローカルなものの現実はこうでした、ということを、それこそ身体感覚を大事にしながらは伝えておいたほうが、未来の人も面白いと思うのではないでしょうか。


辻:どんな図書館を参考にしているのでしょうか?


佐藤:それを考えているところです(笑)。アメリカの大学などでは最近、「本がない図書館」ができています。知識の源泉としてアクセスしている資料体の90%がデジタル資料だからです。学術論文もそうだし、出版された本も図書館を通じて電子版を借りる。でも、たとえば理系の大学ならそれでいいのでしょうが、物質性や身体的なパフォーマンスを重視する芸術大学でも、同じことが言えるのか。他方で大学の図書館は、学内で学部や専攻の垣根を超えて唯一、人がたまさかすれ違っていくところなので、異なる学問間の交流をどう誘発するか。そういったことを考えて、図書館を再定義しようとしています。


辻:古代ギリシアのムセイオンのようですね。


佐藤:交流の場所、垣根を取り払った知の殿堂のようなものですね。そこに図書館もくっついている。そしてその図書館にある知識とか記録に触れるインターフェイスが、フルデジタルだけでいいのか、図書館から本や質感のあるものを取っ払っていいのか、そこが重要な問題です。人間の身体感覚を基盤にして発達してきた芸術という実践の記録を、避けることのできないデジタル技術と組み合わせたような、記録のシステムが必要だと思います。すごく大事な問題だと思っているんです。


辻:デジタルの情報だけで世界を解釈できてしまうと、その人の身体的な世界認識はすごく乏しくなってしまいます。僕もそこに危機感があり、できるだけデジタルと実体験のグラデーションを精細化していきたいと考えているんです。人が時間や空間を超えてより素晴らしい体験にアクセスして、その人にとって価値のある意思決定をして、未来に対して良き選択ができるようになる。いろんな取り組みを参考にしながら、そんなアーカイブのあり方を目指していきたいです。

京都市立芸術大学芸術資源研究センターでの取材風景。

[1] GAFA(ガーファ)とは、「google」「Apple」「Facebook」「Amazon」の頭文字を集めた呼称。

[2] 哲学用語。ドゥルーズ的な「此性」を単純化して言えば、暑さ、愛、何かの味、匂い、感情などが、「何かと比較してでなく」それ自体が「個体」であることをいう。



INTERVIEWEE|佐藤知久(さとう ともひさ)

1967年生まれ。京都大学文学部哲学科(哲学専攻)卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。京都文教大学人間学部文化人類学科専任講師、同総合社会学部総合社会学科准教授等を経て、2017年度より京都市立芸術大学芸術資源研究センター専任研究員。日本文化人類学会会員。


INTERVIEWER|辻勇樹(つじ ゆうき)

ACTUAL INC. 代表取締役 / ART360° ディレクター。京都精華大学卒業。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科エクス・デザインプログラムでは競技用義足のデザイン研究を行う。株式会社グランマにて発展途上国でのデザインリサーチに従事。渡米の後、2015年より京都を拠点に活動する。2017-18年 KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 プロジェクトマネージャーとしてTOILETPAPER MAGAZINE/JEAN-PAUL GOUDE などの展示マネジメントを担当。2018年より360°展覧会アーカイブ事業 ART360°ディレクター、2018年11月に ACTUAL INC. を設立。

Illustration | 矢津吉隆  Photo|+5編集部