現代美術の裏に彼らあり。 スーパーファクトリーの仕事<前編>

現代美術の裏に彼らあり。 スーパーファクトリーの仕事<前編>

スーパーファクトリー|佐野誠
2021.07.10
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「インストーラー」や「展示設営業者」という職業をご存知だろうか。作品が制作され、展覧会場などに設置されるまでのあいだに介在する多くの人々の中に彼らは存在し、場合によっては作品がかたちになる前のアイデアの段階から関わることもある。アート作品は、1から10までアーティストだけの手によって作り出されるわけではないのだ。

 展覧会カタログや会場の展示パネルをよく見ると、「協力」「設計」「施工」などと記されているのが彼らだが、その働きを鑑賞者であるわたしたちが実際に目にしたり、どのように作品に関わっているのかを想像するのは難しい。しかし彼らの存在は、アーティストが思い描いた作品を理想の形にするために、決して欠くことのできない要素なのだ。

 今回お話を伺ったのは、主に現代美術の分野でアーティストの作品制作や美術展の展示設営に携わるスーパーファクトリーの代表、佐野誠氏。スーパーファクトリーは1998年の設立以来23年にわたり、金沢21世紀美術館や東京都現代美術館、横浜トリエンナーレ、恵比寿映像祭などの展示設営やインストールを行い、日本の現代アートシーンに深く関わってきた。

 主な展示設営業者には、1970年代から美術展の展示設営に携わっている東京スタデオや丹青社(丹青ディスプレイ)などがある。両者とスーパーファクトリーの大きな違いは、その働き方にある。スーパーファクトリーで働くスタッフは社員という雇用形態としてではなく、業務委託というかたちで現場ごとにスタッフが集まり、チームとなって作品制作や展示設営を行うというスタイルをとっている。スタッフのほとんどはアーティストや空間デザイナーなどのクリエイターであり、同時に美術施工の現場で働いているのだ。

 インタビュー前編ではスーパーファクトリーの成り立ちと変遷をたどり、アーティストや作品、鑑賞者を結ぶ不可欠の存在でありながら、ほとんど表舞台に出ることのない彼らの仕事を明らかにしていきたい。

スーパーファクトリー代表 佐野氏とエルネスト・ネト photo by スーパーファクトリー

1998年、アーティスト・曽根裕と広島の山奥に建てたプレハブから始まった

ーースーパーファクトリーは1998年、佐野さんが43歳のときに設立され、2021年で23年になりますが、まずはどういう経緯で展示設営を行う会社を立ち上げたのか教えてください。

佐野:僕は広島出身で、1955年、戦後10年の年に5人きょうだいの末っ子として生まれ、工業高校を卒業したあと地元のゼネコンに就職し、トンネル工事の現場監督を20年ほどしていました。勉強ができたほうだったので大学に進学したかったんだけど、きょうだいが多かったし、当時はみんなおしなべて貧乏な時代で、大学進学は今と比べ物にならないくらい高い壁だったから、難しくて。
 就職後はダイナマイトで山を切り崩したり、ぶち抜いて作るような大規模なトンネル工事に携わりました。当時のトンネル工事は専門の職人が各地にいて、仕事となれば集結し、朝番、夜番の2交代制で昼夜問わず掘り続けるというハードなものでした。もちろん危険もつきもので、労働基準法から外れるんじゃないかというくらい。しかも自然が相手なので、いつ何が起こるか予測できません。でも、もし何かが起こったらその場にある限られた道具や人手を使い、工夫して危機に対応しなくてはならない。道路や橋を作るような決まった手順はないのですが、そういった突発的な問題を工夫してクリアしていくところにやりがいを感じていました。現代美術の現場でもさまざまな問題に適応することが必要ですが、それはこのときに鍛えられた力かもしれません。

ーーそれに、仕事ごとにスタッフが各地から集結するというところも、まるで今のスーパーファクトリーのスタイルと同じですね。

佐野:言われてみるとそうですね(笑)。時代が変わって、いつしかトンネル工事がおもしろくなくなってしまって会社を辞めたあと、石彫をしている友人のスタジオで一緒にやることになりました。僕はそこでゼネコン時代に身につけた技術を使って設計などをしていたのですが、その頃、曽根裕さんやある美術館の学芸員に出会い、作品設計の相談を受けました。その当時は、作りたいものを業者に発注してもなかなか希望通りに作ってくれないこともあったので、曽根さんたちと話しているうちに、自分でスタジオをやろうかなと夢物語を描き始めたんです。同じ頃に曽根さんは、作品の生まれる場所で展覧会をしたいと考えていました。その企画書を作って文化庁に助成金を申請したら通ってしまって、じゃあ、佐野さん作ってよと言われて(笑)。それがきっかけでした。

 そのスタジオは、友人の持つ敷地の一角を借りて建てたプレハブ。たしか24万円でした。バスも通っていないような山の上で、タクシーでなければ来られないような不便なところで。そこに曽根さんの《アルペン・アタック》という自転車の作品を展示したのが1998年。スーパーファクトリーの最初の仕事です。

当時のスタジオ photo by スーパーファクトリー

転機は2001年。広島県外への広がりと人材との出会い

佐野:その後も広島をベースにやっていたのですが、2000年頃からギャラリー小柳や束芋の仕事に関わり始め、2001年には第1回の横浜トリエンナーレを手掛けました(以後継続)。その頃から広島以外の仕事を受注するようになります。
 2004年に開館した金沢21世紀美術館では技術的なアドバイザーとして関わり、学芸員と建築家など、違う言語を話す人たちの間に入って通訳のようなことをしていて、その流れで開館時に展示される作品をいくつか手掛けることになりました。レアンドロ・エルリッヒの《スイミング・プール》は、この作品がほとんどデビュー作と言ってもいいくらいだった20代のレアンドロと一緒に広島のスタジオで実験装置を作ったり、いろいろ相談しながら制作しましたね。今もメンテナンスを行っています。
 余談ですが、あの作品はご存知のとおり、天井にガラス板が使われています。実はそれまでの法律では、安全面の問題でガラスの中に網が入っていないとあのような使い方はできませんでした。でも、それでは美しくありませんよね。タイミングよく法律が変わり、網ではなくフィルムでもOKになったのであの作品は成立したのです。
 金沢21世紀美術館では、その後もマシュー・バーニーの日本初個展(2005年)をはじめ、継続して仕事をしています。そういった大きな展示に関わるようになったのがきっかけで、うちで働いてくれる人材が徐々に集まってきました。

ーー具体的にはどのように集まってきたのでしょうか。働いているスタッフの知り合いや、必要な技術を持っている人材に声をかけたりしたのでしょうか。

佐野:そうではなくて、当時は美術館やギャラリーの展示設営や作品制作にボランティアのような立場で関わっているフリーの人がたくさんいたんです。でも、仕事ではないからお金は稼げていないわけです。そういう人たちが集まってきましたね。
 今も、うちのスタッフの中で生粋の職人は1人か2人で、他はアーティストや空間デザイナーなど、うちで働きながら制作もしている人ばかりです。彼らは職人ではありませんが、ものを作る人間なので技術をどんどん吸収し、成長していきます。現場で覚えたことが自分の作品制作にフィードバックされることもあるでしょう。技術的なスキルだけでなく、作品を作るためにどう考えればいいのかという思考のスキルも上がるわけです。そして、お給料ももらえる、と(笑)。

ーーいいことしかありませんね(笑)。

佐野:現在は20代の若手から50代のベテランまで30〜40人のスタッフがいて、大抵は関東と関西のチームに分かれて動いています。うちを卒業して作家活動に専念する人も増えてきました。みな、それぞれに活躍しています。

スーパーファクトリー設立当時 photo by スーパーファクトリー

発展期 / スーパーファクトリーならではのクオリティ

佐野:金沢21世紀美術館の開館当時に、学芸課長だった長谷川祐子さんが東京都現代美術館のチーフ・キュレーターになり、そちらの仕事にも携わるようになりました。それ以降も、一緒に仕事をした学芸員が異動すると関わる館が増えていって。ありがたいことに、うちの仕事は依存性が高いようです。クオリティは当然いいに決まっていますし、値段もがんばるので安くなります。そうすると、もう普通の予算では組めなくなってしまうんですね(笑)。ただ、たくさん仕事が入ってもスタッフの人数は急に増やせないので大変です。短期集中して現場を仕上げなければならなくなります。

ーー「値段をがんばる」というのは、短期集中、つまり稼働する日数を抑えるということでしょうか。

佐野:一般的な会社だとバックオフィスの人間がたくさんいますが、スーパーファクトリーではそれは僕1人です。そういうシンプルな仕組みなので、会社としてのコストを下げることができます。また、スーパーファクトリーは安いからと仕事を依頼されることもありますが、そういうお付き合いは長く続きません。値段の安さはうちの売りではなく、クオリティの一つでしかないんです。

 美術館の仕事が増えてくると、スタッフをある程度抱えていないと仕事になりません。それに、資材や道具も持っていないといけないので倉庫も必要になり、現在は東京、神奈川、金沢、京都、大阪に加工場と倉庫機能をもつスペースを借りていて、金沢と大阪はスタッフの宿舎としても使っています。広島にはスタッフが2人常駐していて、鉄、塗装、樹脂系の作業をする加工場があります。

ーーバックオフィスは佐野さんお1人ということですが、現場以外の仕事は具体的にどういったものがありますか。

佐野:僕は仕事の受注や交渉をしたり、見積りを作ったり、図面を書いたり、現場の仕事が始まるまでの仕事をしています。昔は現場にも出ていましたが、今はスタッフが育ったので彼らにすべて任せていて、人が足りないとか、懸案事項がある場合以外はほとんど行くことはありませんね。

 あとは、アーティストから制作面の技術的な相談を受けることもあります。なかなか仕事にはなりにくいけれど、こちらから提案をしたり、逆に教えてもらうこともあるので、知識は増える一方ですね。


インストーラーであり、展示設営業者でもあるというスタンス

ーーここ数年、「インストーラー」という肩書で活動する人が増え、目にする機会も増えてきました。ただ、具体的にどういう仕事をする人を指すのかが曖昧なまま使われていて、現状では作品に関わる仕事をする人をかなり広い範囲でひとくくりにしてそう呼んでいる印象があります。
 直訳してしまうと「作品をインストール(設置)する人」となりますが、その意味ではスーパーファクトリーもインストーラーではあります。けれど実際の仕事としては壁を立てるなどの施工も行っていますし、佐野さんご自身は「展示設営業者」と名乗っておられますね。

佐野:面倒くさいから、というのは冗談だけど(笑)、作品の制作とインストールだけでやっていけたらもちろんベストですが、それだけではなかなかお金になりにくいんです。施工の仕事も一緒にやらない限り生活の糧にはならないので、そこはセットで考えています。クロネコヤマトの美術品輸送部門が作品を運んできて壁に掛けるとしたら、僕らがやるのはそれ以外のすべて。
 依頼主は、ほとんどが美術館です。95%が現代美術展、残りはそれ以外、たとえばナショナル・ギャラリー展のような美術展ですね。

――壁を立てて作品を掛けたり設置することが中心の仕事よりも、多様な作品や表現を成立させるために新しい方法を考え出していく現代美術の仕事のほうに重きを置いているということでしょうか。

佐野:むしろ、それをやっているだけで精一杯です。たとえば、東京国立近代美術館のような近代美術を主に扱うような美術館で開催される展覧会に手を出す余裕はないというのが、正直なところですね。ある意味では、それによって業界の中で棲み分けができているとも言えます。近代美術などは、昔からこの仕事をやってきている東京スタデオや丹青ディスプレイがうちよりも強いわけですね。お互いに、競争しても仕方がないと思っているんじゃないでしょうか(笑)。

設営風景 photo by スーパーファクトリー

INTERVIEWEE:佐野 誠(さの まこと)

Makoto Sano1955年生まれ。建設会社で約20年、トンネル工事現場などを担当。1998年、スーパー・ファクトリー創設。曽根裕、束芋、マシュー・バーニー、エルネスト・ネト、オラファー・エリアソンらさまざまなアーティストの作品制作、展示施工で協働。ヨコハマトリエンナーレ2017、あいちトリエンナーレ2016など芸術祭のほか、多数の展覧会に携わる。


INTERVIEWER|森かおる(もり かおる)

編集者。長野県出身。同志社大学文学部美学及び芸術学専攻を卒業後、美術系出版社に勤務。写真集、作品集、展覧会カタログの編集などに携わったのち、2018年よりフリーランスとしてアートを中心に編集、校正、ライティングを行う。時々、森の本屋(仮)の店主。