CAP STUDY|レポート② 美術

CAP STUDY|レポート② 美術

桐惇史
2024.07.25

2023年12月、C.A.P.(特定非営利活動法人 芸術と計画会議)で新たな取り組みとなる「CAP STUDY-芸術鑑賞のための講座の実験-」が始まり、音楽・美術・ダンスという3ジャンルで講座が展開された。副題にある、「芸術鑑賞のための講座の実験」とは一体どのようなものだったのか。実際にCAP STUDYに生徒として参加した筆者の実体験をもとに、ダンス、音楽、美術のレポートをそれぞれ紹介していく。

本記事では、「美術」の講座を振り返っていく。(本文中は敬称略)

「CAP STUDY 美術」の授業風景

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「アートとは何か – 便器はなぜアートなのか-」

美術の講座は、アーティストの藤本由紀夫(ふじもとゆきお)が担当した。藤本は「音」を「かたち」に捉えたサウンド・オブジェをはじめ、人間の知覚に働きかける作品を制作することで知られるアーティストである【※1】。藤本もC.A.P.の創設メンバーのひとりとして、今でもワークショップ等様々な形でC.A.P.と関わっている。

CAP STUDY開講に当たり、下田から美術の講座を頼まれた藤本は、美術ではなく「アート」を教えるのであればと受諾したそうだ。


藤本「美術という日本にしかないよくわからない言葉ではなく、アート全般で何かするというのであればお手伝いできるとお伝えしました。それにアートにしても、最近いろんなところで言われている「アート」と、僕の考えているそれとは全く違うというところもあって。だからこそ不確かなままのアートへ鑑賞で「誘う」のではなく、「アートとは何か?」を一緒に考える講座ならやりたいと言ったんです。まずそこを考えることが大事なんじゃないかと。アートがよくわからないものなのであれば、作品を見たって本を読んだって理解できないかもしれない。ただその手助けとして、僕がひとりのアーティストとして考えている「アート」を共有するのであれば、自分が考えていることを話すだけだからできると思って。それで3回分のレジュメを書いて送ったんです。」

授業での藤本由紀夫さん

1回目の講座「アートとは何か – 便器はなぜアートなのか-」では、まず「アート」という言葉が一体何を指すのか、その言及から始まった。CAP STUDYでは「美術」というカテゴリーに分けられる本講座だが、藤本は「美術」という言葉は日本にしかないと指摘する。そもそも「美術」は、1873年、日本が初めて参加したウィーン万博の折、西洋のファインアートを訳したものとされているが、ファインアートには当然ビジュアルだけではない聴覚、嗅覚を含む作品もある。そうだとするならば、視覚芸術に重きをおく言葉よりも「芸術」、あるいは単に「アート」と言った方が確かに良いだろう。ではアートとは何か?

藤本は20年ほど前に京都造形大学(現・京都芸術大学)の情報デザイン学科から、新設する先端アートコースの先生を引き受けてくれないかと頼まれたそうだ。その時にアートの領域で活動していない生徒や、他の学科の先生に説明するためにも自分の中でのアートの定義のようなものを改めて理解しなければと思い、リサーチをしたことがあるという。アートが何か?それは様々な方法で掘り下げることができるが、藤本は自身がアーティストということもあり、「アーティストがアートをどう考えているか」を観点に考えたという。


藤本「アートはこうだと確信している人は少ないと思います。やっぱり誰かの受け売りが多い。でも作っている人は言葉で作っていないから、行為の中で、アートとは何かを感じることが多いんです。だからこそ作る人の視点でアートを考えることで、アートやそこにある言葉が見えてくると思いました。」


「現代アート」は、20世紀初頭にマルセル・デュシャンが《泉》を発表してから始まった。そこで藤本は、ある種今日に続く「アート」を設計したデュシャンがアートをどう考えているかが重要だと考えたそうだ。講座で藤本は、いくつかデュシャンの言葉を紹介した。引用された『デュシャンとの対話』(みすず書房, 1997)はフランス国営放送の芸術・科学担当プロデューサーで評論家のジョルジュ・シャルボニエがデュシャンへ行ったインタビューの内容を掲載しているものだが、その中でデュシャンは、アートそのものについて以下のように述べている。 


“そもそも、芸術 art という語は、語源的には、ただ単に「つくる」を意味します。(中略)芸術は、手で、そして一般的には個人によってつくられたものすべてです。”

ジョルジュ シャルボニエ (著)『デュシャンとの対話』(みすず書房, 1997)p8 7行目~9行目から抜粋 


デュシャンの最も有名な作品といえば、現代アートが始まるきっかけとなった《泉》である。《泉》は一見、ただの男性用小便器であるが、その外観から改めて「アート」とは何か、議論が巻き起こったことは知られた話である。デュシャンはこの男性用小便器を丁寧に素材から作ったのではない。商業既製品の便器を選び、そこに言葉を添えただけである。つまりデュシャンの言う「つくる」という行為は、さらに掘り下げれば、素材や手法を「選ぶ」ことでもある。この「選ぶ」という視点をアーティストはどう形成しているのだろうか。

デュシャンは《泉》を通して、アートとはこういうものだという社会一般の認識から、「価値の転換」を行った。それは「発見」だったのだと藤本は言う。「発見」に至るには、そもそも自分のことや周囲の社会を知ることが必要である。似た言葉として「発明」もあるが、発明がこれまでになかったものを具現化していく力であるのに対し、「発見」とはこれまで認識されていなかったものを見出す「行為」(選ぶこともである)であり、それこそがアートなのだと藤本は強調する。

制作における「行為」がアートだとすれば、我々が普段見ているアート作品は「結果」だということになる。現代アートの作品の多くが、そのビジュアルだけでは説明がつかず、コンセプトを有している。そのコンセプトの中にはレイヤーがあり、それらを全て一見してすくいとっていくことは不可能に近い。しかし作家が何を行おうとしたのか。素材やストローク、大きさや形状など、アーティストの制作行為を想像し、辿っていけば、作品への理解が深まるのではないだろうか。

そして藤本は、授業の最後に鑑賞者の重要性を述べた。デュシャンは、アーティストはひとりでは作品を作れない、鑑賞者がいて初めて作品となるのだと述べていることを紹介し、鑑賞者がアーティストの「発見」したもの、そして行為を認識することが重要であり、そこも含めて作品であることを強調する。


藤本「僕は授業で、鑑賞のあり方そのものを覆したかったんです。鑑賞は受け身じゃないんですと。鑑賞でも体験でもいいんだけれど、観る人が存在しなければ、アートは成り立たないんです。作品が良いものであれば自動的に誰かが感動するなんてことは絶対にありえないと思っていて。アートは誰が作るのかというと、アーティストと鑑賞者なんですよ。」


アートを鑑賞するとき、その「形状」や「意味」にどうしても頭が行きがちな人は多いだろう。その作品の創造者であるアーティストを想像しても、どうしてもどこで何をしていたかという遍歴を辿るだけになることは多いのではないだろうか。しかし作品とアーティストを繋ぐ、制作のための「行為」がアートであるならば、それを見落としていると、断片的にしか理解できず、不十分な納得感を抱えてみていたことになる。1回目の藤本の講座はここで書ききれないほど丁寧に「行為」を細分化し、受講生に提示してみせた。今まで、自分の中でごちゃごちゃに絡まって判然としなかった「アート」を、それぞれが紐解くことができた授業であったのではないだろうか。そしてそして我々は、アートを外から眺めるただの傍観者ではなく、参加者であることを自覚させられるものだった。

写真:1回目の授業風景

感覚とアート – think with senses -

2回目の講座では、冒頭に「ステレオスコープ」が紹介された。ステレオスコープはその名の通りステレオ写真(立体視を可能にする写真)を見るための光学器械で、立体鏡とも呼ばれる。藤本は少年時代、初めてそれを体験した時、あまりに不思議で衝撃を受けたという。

わからないものが目の前にあるとき、私たちはしばしば対象を言語化しようと試みる。知っている言葉や、誰かの言葉を借りて理解し、安心する。アートもよく「難しいもの」と言われる。それは作品の形状に加え、それが内包するコンセプト、そして簡単に言語化できないことがそうさせるのだろうが、私たちはしばしば、アートとの出会いと、対象を認識した時の「感覚」という情報をおざなりにしていないだろうか。すぐに理解、言語化する日常に慣れてしまっていると、アートを「難しい」と捉えてしまう。両者の間隔を埋めるに当たり、知覚機能を意識することは重要であり、藤本はそんな「感覚」の重要性を2回目の講座で繰り返し述べていた。


藤本「感覚と思考という両方が刺激しあうというのがアートの醍醐味だと思うんです。そういう意味で、最近の「アート」にはそれがないものも多いように思います。考えることや、体で試してみようというのもなかったり。さらには情報だけで語られ、売買までされている。アートっていうものを気軽なものとして片付けるんじゃなくて、ちゃんと考えてみようというので2回目の講座をやったんです。」


感覚を認識するためのツールとして藤本が持ち出してきたのは、デュシャンが1935年に作成した「ロトレリーフ」であった。ロトレリーフは、デュシャンが科学的なおもちゃとして作成したもので、ロトは回転、レリーフは浮き彫りという意味を持つ。つまり回転することで図柄が浮き上がってくるおもちゃのことだ。当時の使い方としてレコードプレイヤーに乗せて上から浮かび上がってくる図像を捉えるわけだが、当然、回さないとその柄がなんなのか、全くわからない。つまり感覚というフィルターを通して初めて理解できる作品と言える。

藤本が持参したロトレリーフ。

アーティストが制作したものの中には、そんな「感覚」に働きかける作品が多い。例えばフェリックス・ゴンザレスの《無題(ロスの肖像 L.A.にて)》は、キャンディーを集めて小山にし、それを作品として見せている。鑑賞者は「作品」であるキャンディーを手に取ることも、口にすることも、持ち帰ることも許されているが、1日の終わりには展示された作品にキャンディーが追加され、必ず79.4キログラムになるように決まっている。これはエイズで最愛の恋人を亡くしたフェリックスが、元気だった頃の恋人の体重を元に設計し、キャンディーが減っていく様を恋人が衰弱していく様子を重ねたものである。

講座では他にも、フェリックスの《パーフェクトラバーズ》や《無題(loverboy)》、Ay-Oの《フィンガーボックス》や、ブルーノ・ムナーリの《役に立たない機械》など、人間の感覚を問い直す作品がいくつか紹介された。

藤本は、感覚や好奇心は、人間が新しいものを発見するための重要なものだと講座の最後に述べた。昨今はAIの隆盛によって人間の仕事がなくなっていくのではという議論がよくなされるが、AIはあくまで過去の情報の総体を操るもので、新しいものを探れるのは人間だけだと藤本は指摘する。そのためにも今日の仕事、遊びを従来の道具や概念だけで捉えるのではなく、どうなるだろうという新しい感覚の声に従うことが大事なのだと。

2回目の講座では、感覚に訴えかける作品が数多く紹介されたが、最初の講座で習った、人間の「行為」がアートだということを前提にしていると、不思議と頭で作品をすぐに理解しようとせず、冷静にアーティストの「行為」をまずは観察していることに気づく。そして本講座では、それを受ける自己の「感覚」への問いかけを学ぶことで、鑑賞がより細分化され、気づきが多くなることに気づかされた

藤本が持参したロトレリーフを実際に動かしてみるところ。

遊びとアート -人は遊ぶ存在である-

3回目の講座は、「ホモ・ルーデンス」という言葉から始まった。これはオランダの歴史学者​​ヨハン・ホイジンガが提唱したもので、著『ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み』の中で、ラテン語で「遊ぶ人」を意味する。ホイジンガは著書の中で、人間とは「遊ぶ人」であり、遊びの中から文化を生み出したのではなく、元々文化は遊ばれるものだったと述べている。藤本はこのことを引用しながら、遊びはそれそのものが目的であり、これはアートも同様だと指摘する。2回の講座で繰り返し言われていた通り、アートもその行為が目的であるということだ。

近年はアートの「利活用」的視点で、ビジネスや教育に取り入れられることが多い。特に2010年代は「アート思考」がビジネスパーソンの間で注目され、アートを学ぼうとする機運が高まり、今日も続いている。


藤本「アートを学べばビジネスがうまくいくとか、それがあればどうなるとか、そういうものに関しては正直疑問を感じます。アートはそれそのものが目的となるものなんですから。」


講座ではその後、イームズチェアで知られるプロダクトデザイナー、チャールズ・イームズとレイ・イームズの実験的な「遊び」がいくつか紹介され、その他創造的な仕事、生き方をしている人たちが、日々の生活の中にどう遊びの要素を組み込み、楽しんでいるのか、実例が画像や動画で共有された。最初はすぐにその行為の目的を探ろうとしている自分がおり、「理解」しようとしてしまっていたが、藤本の解説と共に実例をいくつも見る中で、だんだんとそこに加わりたい、あるいは自分もやってみたいという欲求が高まり、やはり遊びは、それ自体が目的であるということの再認識ができた。

そして遊びの道具として重要な要素である「玩具(おもちゃ)」が紹介された。玩具は遊ぶことそのものを目的として作られているため、遊びの方法を知らなければ、それがどういうものなのか、定義をすることが難しい。当日は藤本が自身のコマのコレクションを持参していたが、我々が知っている形とは異なるものも多くあり、コマと聞かなければ、それがなんなのか、探るところから始めていただろう。

玩具で遊ぶことは、全員が通ってきているが、大人になるとその機会は圧倒的に少なくなる。実際に全員でコマを回し、遊びの方法を身体で思い出す中で、2回目の講座でならった「感覚」への問いかけを行い、子供時代とは異なる探究心や理解をおぼえていることに気がついた。

藤本が持参したコマのひとつ。一見してコマとわかる人はほとんどいないだろう。
藤本のコマのコレクション。

3回目の講座で、度々藤本が引き合いに出していたのは、ブルーノ・ムナーリの言葉で、特に、「ファンタジア」【※2】という興味深いキーワードが提示された。

ムナーリによると、ファンタジアとは「これまでになかった新しいことを考え出させる新しい能力」のことで、デザイナーもアーティストも、このファンタジアを持っているという。しかし違いがあるとすれば、デザイナーはファンタジアと理性を組み合わせながら制作するのに対し、アーティストはファンタジアのみで創造する。だからアーティストの作品は何かに使えたり、役に立ったりするものではないことの方が多く、アートという目的そのものになっていると。


藤本「アートは特別なものじゃないんです。人間が食事をしたりする日常の行為と同じレベルの行為だと僕は思っています。だからアートは良いものだっていう風潮にも少し疑問を感じます。日常と同じレベルの行為だから悪いアートだってあるし、人を殺すようなアートだって当然あるのかもしれない。アートだから許されるなんて絶対にないですよね。」


藤本の講座は、あえて「鑑賞」を中心とせずに、アートとは何かを多視点で再考するものだった。昨今はアートがビジネスや教養という観点でも注目され、鑑賞方法の指南書も多い。しかしいくら他人の「見かた」をトレースし、作品を鑑賞したとしても、どこか消化不良のような感覚に陥ることがないだろうか。それはやはり多種多様な様相で我々の前に現れる「アート」そのものを、理解しないまま鑑賞に入っているからかもしれない。

もちろん、アートをこうだと断定することは難しい。しかしながら、アートの創造者でもあるアーティストが、アートをどう捉えるかという視点は、非常にシンプル且つクリティカルなものだろう。家具のことが分からなければ家具職人に、料理のことが分からなければ料理人に聞くように、アートのことはアーティストに聞いた方が、理解は深まる。

また藤本の授業を通して、鑑賞者である我々のスタンスについても気づかされることが多かった。今回提示されたように、アートが人間の行為そのものだとするならば、社会や自分の日常生活に意識の目を向け、行為を通して何かを発見したとき、我々もアーティストたりうる。そう考えたとき、アートがより身近なものに感じないだろうか。アーティストの多くは日常生活を紐解いて作品制作をしている。我々が気が付かないことを「発見」し、アウトプットとして作品を提示している。そしてその「発見」は我々の生活とつながるものが多い。アーティストの行為を知覚し、自分との関連性で想像を膨らませてみる。そうすることでもしかするとアートとの距離が一気に縮まり、気がつくことが増えるかもしれない。「鑑賞」とは本来、そういった能動性を持って、対象との距離を縮める行為なのかもしれない。

→CAP STUDY|レポート① ダンスの記事へ

→CAP STUDY|レポート③ 音楽の記事へ

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関連情報

C.A.P.(芸術と計画会議)

(URL最終確認2024年7月1日)


CAP STUDY -芸術鑑賞のための講座の実験-

(URL最終確認2024年7月1日)

C.A.P.の歴史については+5の過去の記事を参照されたい。

アーティストの連帯が街に浸透するC.A.P.(芸術と計画会議)の試み<前編>

アーティストの連帯が街に浸透するC.A.P.(芸術と計画会議)の試み<後編>

(URL最終確認2024年7月1日)

ShugoArts 藤本由紀夫ライブラリー

ShugoArtsのHPに藤本のインタビューが掲載されており、こちらで作品についても語っている。
(URL最終確認2024年7月1日)

注釈

【※1】ShugoArts 藤本由紀夫 作品と情報
藤本の作品は人間の知覚に働きかけるものが多く、我々が世界を(あるいは日常を)再発見するためのヒントが数多く隠されている。誰かと共に鑑賞すれば、自己と他者の認識する世界の共通項や違いも見えて面白い。藤本は現在、神戸は三ノ宮にアトリエを構え、制作を続けている。
(URL最終確認2024年7月1日)

【※2】ファンタジア

詳細はこちらの本で解説されている。
(URL最終確認2024年7月1日)

INTERVIEWEE|

藤本 由紀夫(ふじもと ゆきお)

1950年名古屋市生まれ、大阪市在住。「音」を「かたち」に捉えたサウンド・オブジェを中心に、人間の知覚を喚起する作品の数々を発表する。自身の作品を通して発見されうる外界の新たな認識手段を、鑑賞者それぞれの感覚へ委ねるという藤本作品に共通するその姿勢は、作品そのものから鑑賞者を巻き込んだ空間へと波及していく。

主な個展に「STARS」シュウゴアーツ(2017)、「The Tower of Time」アイコンギャラリー(バーミンガム、2009)、「+/-」国立国際美術館(大阪、2007)、「関係」和歌山県立近代美術館(2007)、「美術館の遠足 1/10 – 10/10」(1997-2006)など。近年では「キュレトリアル・スタディズ12:泉/Fountain 1917-2017, Case 2: He CHOSE it.」京都国立近代美術館(2017)、「DOMANI・明日展 PLUS × 日比谷図書文化館
Artists meet Books 本という樹、図書館という森」日比谷図書文化会館(2017)等においてキュレーションも行なう。

INTERVIEWER|桐 惇史(きり あつし)

+5(plus five) 編集長。

1988年京都府生まれ。京都外国語大学卒業後、学習塾の運営に携わりながら、海外ボランティアプログラムを有する、NPO法人のプロジェクトリードに従事。その後、ルーマニアでジャーナリズムを学び、帰国後はフリーランスのライターとして経験を積むかたわら、大手人材紹介会社でコンサルティング営業、管理職として組織マネジメントなどに携わる。現在は「+5」の推進をしながら、「言論空間の拡張」をキーワードに、アートと他領域を接続するメディアプロジェクト「dialogue point」のディレクションなどを行っている。