XR時代のアーカイブが 拓く身体性とは? <前編>

XR時代のアーカイブが拓く身体性とは? <前編>

京都市立芸術大学芸術資源研究センター|佐藤知久
2020.12.16
7

デジタル技術が進化を続け、膨大な情報が氾濫する中、そもそも「アーカイブ」というものが何を、誰のために、どのように残し、どう活用していくのかがより強く問われるようになってきています。今回は、これからのアートアーカイブを見据えるヒントを探るため、文化人類学者で、コミュニティ・アーカイブの専門家でもある京都市立芸術大学教授の佐藤知久さんと、ART360°(アートスリーシックスティー)ディレクターの辻勇樹が対話を行いました。

今回は、これからのアートアーカイブを見据えるヒントを探るため、文化人類学者で、コミュニティ・アーカイブの専門家でもある京都市立芸術大学教授の佐藤知久さんと、ART360°(アートスリーシックスティー)ディレクターの辻勇樹が対話を行った。



ART360°の試み ——デジタルに身体性を



辻:ART360°は、現代アートの展覧会を360度カメラで記録し、VR(Virtual Reality:仮想現実)映像で配信するプロジェクトです。デジタルアーカイブは作品や出来事などの「正しい」意味や解釈を効率的に伝えることを目的とする場合が多いと感じます。後世の人が過去を読み取り、何らかの行動を起こすきっかけをつくるのがアーカイブの役割だとすれば、この「正しいアーカイブ」は、その行動をとる人の解釈を限定してしまうのではないかと思うんです。佐藤さんは、どのように考えますか?

佐藤:もともとのアーカイブズ学では、アーカイブはそもそもその内容が「正しい」かどうかを問われません。記録の由来の真正さについて、どういうものか箱書みたいな説明は書くけど、内容については各自ご判断ください、という姿勢です。アーキビストが箱書を書き、歴史家がそれを読み解いていく。アーキビストは内容の「記述」はしますが、その「評価」をする必要はなく、解釈を後世に委ねます。ただ、昔は出来事と記録のあいだに大きなタイムラグがありましたが、今は記録コストが下がり、かつリアルタイムで全部記録できる。出来事と記録の間が切り離しがたくなっています。膨大な記録を前にして評価をしないということが、やや成り立ちにくくなっていると思いますね。


辻:メディアの発達によって日々触れる情報量が膨大になると、目の前の生身の体験以上に情報が優位になり、感じる前に理解することで満足してしまうようになる、ということもデジタルアーカイブのプラットフォームの運営者は頭の片隅に入れておかなければいけないと考えています。


佐藤:今生きている感覚が大事なのは当然なのに逆転しがちですよね。

ART360°ウェブサイト。過去に360度でアーカイブされてきた展覧会を無料で鑑賞することができる。

辻:ART360°では根本的な問題意識として、芸術文化の効能を社会的に保存するためには、記録に身体性を加える必要があると考えてきました。事業として、2年間やってきて、VRで作品を観た人が、展覧会で観た人と同じように「あの展覧会よかったね」と言える状況が生まれています。それは身体性を一部獲得しているということかな、と。そこに「行った」という記憶がその人に残る。そういう意味では、一定の成果があったと思っています。


佐藤:メディアとしてはどんな工夫をしていますか?


辻:「360°メディア」が持つ「探索性」を大事にしています。自由に視点を回転し、映像内を探索することで、これまでデジタルメディアが捨象してきた身体感覚を少しでも取り戻すことができるのではないかと考えています。実体験の価値を軽視するわけではありませんが、現代社会のコミュニケーションが視覚情報に偏りがちな中で、身体性を伴った体験、特に文化領域の魅力を伝えられるデジタルメディアが必要だと感じています。


佐藤:絵画にしても彫刻にしても、どこから観るかを実際身体的に探索しますよね。AR(Augumented Reality:拡張現実)だと、視点を動かすことができると思います。VRでも、鑑賞者がどこから観るかを選択する余白があるといいと思うのですが、仮想空間の中でも視点を自由に動かすことは再現できないのでしょうか? 


辻:水平方向の移動は課題ですね。実現しようと思うと、無数の場所で撮影をするか、空間自体を3Dスキャンして、デジタル空間に実空間を複製する必要があります。VRヘッドセットをつけて体験いただく際は、立つと歩きたくなってしまうので、座って観ることをお勧めしています。座る椅子を回転椅子にすることで、左右方向に回転しやすくするなどの配慮をしています。インターフェイスの設計を通して、身体性を高める努力をする一方で、身体的な制約(水平移動できないように座るなど)を設けることで、かえって他の体験が豊かになる可能性もあり、どちらも考えています。


佐藤:XR(クロスリアリティ)の可能性をどう考えますか? XRが究極的な「複製技術時代の芸術作品」だなと思うのは、複製物がどんどん自分の身体に近づいてくるからです。最初の複製技術作品である書物は、ベッドにつれこめるのだとベンヤミンも言っている。そして今後は、究極的に高精細なものが自分の身体感覚と連動したものとして見えるようになってくるはずです。その時、生身の身体と空間はどうなるんだろう。

辻:かなり前から、都市における生活空間は物質的に飽和状態です。デジタル技術もマイクロエンジニアリング(微小な機械の研究開発)の限界を迎えることで、処理速度の飛躍的な向上が終わりつつあります。その結果、発展の対象は人間の内面へと向かいます。XRは物理的現実を仮想的に拡張することで、物質を改変せずに人の解釈や行動を変化させることができます。これまで世界中に多様な文化体系があったように、地球という物質が有限であっても、人間の世界認識は無限です。XRは発展を希求する人類の新しいフロンティアとしてつくり出されており、この流れは誰も止められないと思います。


佐藤:社会学者の見田宗介がかつて、資本主義の歴史について似たこと[1]を言っています。資本主義はまず生活に必要な物資を商品化する産業社会をつくり、商品がゆきわたるとそれらに付加価値をつけて差異化して消費社会をつくり、それも飽和すると、物質主義的ではない幸福を追求する情報化社会をつくってきたのだ、と。それは確かにそうなんだけど、見田宗介がそこで論じていなかったのは、情報化社会が実際には、電源やサーバーやデータのアーカイブなど、外部的なコストを多大に必要とするということです。1996年の段階では、見田さんは情報化社会の到来を、地球資源を食い尽くし、環境を破壊する資本の運動に「転回」をもたらすものだと見ていました。


辻:実際の展開とは違いますね。

佐藤:実際には、知識やスキル自体が資本となる認知資本主義や、SNSでのコミュニケーション自体を商業利用していくコミュニケーション資本主義など、デジタルな領域が可能にする活動もまた、資本主義の運動と、消費社会的な消費に組み込まれてしまいます[2]。デジタルなコミュニケーションにもコストがかかるからこそ、自由なようでいて実際にはマネタイズされている。このような流れのなかで、どのように芸術の持つ(市場性を超えた)公共性や普遍性、そして直接的な身体性を生かせるのかが問われていると思うのですが。


辻:身体的な感覚をどこまでインポートできるか、ですね。人間の身体という構成は数万年来ほぼ不変です。いま僕たちはデジタルの体験とフィジカルな体験の間にグラデーションをつくろうとしています。その階調をどれだけ精細化していけるかが、芸術の持つ体験価値を高めるために重要だと考えています。デジタルは元をたどれば0と1という2進法の数字であり、電気信号でしかない。そこに物理的な身体における感触、質感をどう付与していくかを念頭にART360°をつくっているところです。

佐藤:とっても古い話で恐縮ですが、ソクラテスは、本は絶対ダメって言ってたんです。本に書かれた知識は知恵じゃないから、本なんか書いてはダメだと。生身の知識、知恵として考えなさいと言って1冊も本を書かなかった。だけど、ソクラテスの話を覚えていた人たち、たとえばプラトンが書きまくった。XRの時代に、生身の身体100%のソクラテス派と、本に書くプラトン派の問題がもう一度蘇っている感じがしますね。


物事の意味が100%決められない時代のアーカイブ



辻:今課題としてあるのが、アーカイブを通してどのように「解釈の多様性」を生み出せるかです。SNSのようなインターネット上の振る舞いを見ていると、既存の解釈にしたがって行っているものが多いと感じます。まさにコピー&ペーストです。コミュニティ・アーカイブのように閲覧者のパーソナルな感情やストーリーまでアーカイブすると解釈に幅は出ますが、オフィシャルなアーカイブとしては両立しがたいところもあり、この点をどう捉えればいいのか、考えています。


佐藤:まず個々の記録者は、アーカイブの本体となる作品の記録に、多様性をあえて取り込む必要はないと思っています。3がつ11にちをわすれないためにセンターでも、震災や復興に関する個々の記録者のひとつひとつの記録は、「これだ」という態度でつくられています。多様性が生まれるのは、そうした記録が複数ありえるし、その記録やそれが記録していることについての解釈も複数ありえる、という意味でだと思っています。


辻:なるほど。


佐藤:たとえばひとつの展覧会があったときに、その展覧会が何なのかについて、「これだ」と決定的なことが言いにくくなっていると思うんです。どれだけえらいキュレーターがこの展覧会の意味はこれだと言っても、「私は違うと思う」という人がいていいんですよね。かつ「私は違うと思う」という人の中に、もしかしたら何か価値のある視点があるかもしれないと、みんなそこはかとなく思っている。「物事の意味は100%決定できる」とはだれも思っていない、というのが、ポストモダン以後の現代のリアリティで、その中で、何かがあったということを、どのように伝えるかが問われています。普通のおじさんがぶつぶつ漏らした作品の感想を集めることも、作品がもたらしたリアリティの一部ではあると思うんです。ART360°の記録も、ある展覧会についてのひとつの記録だと考えれば良いと思うんですよね。これがベストだという気持ちで記録をつくるわけですが、他の方法でやる人がいてもいい。そうした並列性がありえるんです。


辻:そこから見えてくることもありそうです。記録をどう行うかによっても解釈に幅が出てきそうです。

佐藤:話が飛びますが、夏目漱石が、現代も読まれつづけていますよね。漱石はすごく個人的な問題しか書いてなくて、天下国家を論じているわけでもない。一人の人間の、浮気しちゃったけどどうしようとか、浮気したいけどどうしようとか、ある意味でそういうことばかりを描いている。そういうテキストが、ある種の長距離性を持つということは、僕はアーカイブを考えるうえでは大事なポイントかと思っています。


辻:どういうことですか?


佐藤:漱石的なアプローチは、一人の人間の内面を徹底して描くことで、明治時代後半の知識人階層の生活の「記録」として読めるものになっている。かつ、それが言葉で書かれていることで、書かれていないことの細部は分からない。要所はつかんでいるけれども、全データがあるわけではないから、そのあいだを読者が補う必要があるんです。その意味で、高精細な記録ではない。たとえば漱石の生活にカメラを仕込んでおいてデータを全てとっておいて、これが明治の知識人の記録ですと言っても(研究者以外)誰も見ないと思うんです。それに比べて、小説の言語はディテールがスカスカなわけですが、スカスカであるがゆえに読者がそこに参加しないといけなくなっています。多様な解釈を生む余地が多いんです。


辻:読者が参加する余地がある、と。


佐藤:そうやって読者が、つまり読者の身体感覚が、小説の言語が想像させる仮想空間に入り込むようになり、かつその想像作業が楽しくなるような書かれ方をしている。読んでいても面白いリズム、たとえばある場面を描写していたと思ったら、いきなり人が現れるとか、ハラハラどきどき、どうなるんだろうと。こんなふうに読み手が活動する余白がすごくあるメディウムに記録されているんですね。かつその内容は簡単に複製もできるし、物質的な耐久性も高いし、自分の手元に置いておける。こうしたことのすべてによって、ある種のエンターテインメント性をキープしつつ、昔の人はこんなことを考えていたのか、と思わせるアーカイブ装置として機能していると思うんです。


辻:なるほど。アーカイブで何を記録するかは、何を記録しないかも含めて考えていくことが重要になりますね。

京都市立芸術大学芸術資源研究センターでの取材風景。

[1] 見田宗介(1996)『現代社会の理論』 岩波書店

[2] 水嶋一憲(2014)『ネットワーク文化の政治経済学』伊藤守・毛利嘉考編(2014)『アフター・テレビジョン・スタディーズ』せりか書房、所収



INTERVIEWEE|

佐藤知久(さとう ともひさ)

1967年生まれ。京都大学文学部哲学科(哲学専攻)卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。京都文教大学人間学部文化人類学科専任講師、同総合社会学部総合社会学科准教授等を経て、2017年度より京都市立芸術大学芸術資源研究センター専任研究員。日本文化人類学会会員。

辻勇樹(つじ ゆうき)

ACTUAL INC. 代表取締役 / ART360° ディレクター。京都精華大学卒業。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科エクス・デザインプログラムでは競技用義足のデザイン研究を行う。株式会社グランマにて発展途上国でのデザインリサーチに従事。渡米の後、2015年より京都を拠点に活動する。2017-18年 KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 プロジェクトマネージャーとしてTOILETPAPER MAGAZINE/JEAN-PAUL GOUDE などの展示マネジメントを担当。2018年より360°展覧会アーカイブ事業 ART360°ディレクター、2018年11月に ACTUAL INC. を設立。

Illustration | 矢津吉隆  Photo|+5編集部