アートプロジェクトという生態系 P3 art and environmentが育てるアートの種

アートプロジェクトという生態系 P3 art and environmentが育てるアートの種

P3 art and environment|松本ひとみ
2022.04.27
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P3 art and environment(以下P3)は、「精神とランドスケープ」を活動のテーマに、1980年代からアートプロジェクトを独自の手法で手がけてきた。アートプロジェクトという概念が日本においてはまだ一般的に浸透していなかった時代から、アートと場所、そしてそこにいる人々が生み出す関係性に着目し、地元の人やアーティストと協同しながらプロジェクトをいくつも創造してきた。彼らのプロジェクトは一過性のイベントなどではない。その地域でこそ実現価値があるものばかりであり、それらはアートが地域に根を張るような、恒常的なものである。

 今回は、2011年からP3の中心メンバーとして活動している松本 ひとみさんに話を伺いながら、知られざるアートプロジェクトの裏側と本質に迫っていきたい。

西尾美也「感覚の洗濯 in 銀座」アーティストトークの様子 2019年 
撮影:廣田達也

P3のなりたち

ーーP3 art and environmentの成り立ちを教えていただけますか?

松本:P3代表の芹沢高志【1】が、東京・四谷の禅寺、東長寺の開創400周年記念事業である新伽藍建築計画のプロジェクトメンバーとして参加したのがきっかけです。芹沢は、寺本来の機能である寺子屋的なもの、つまり社会において行われる「文化的なこと」が集積する機能空間をプロジェクトの一環として提案しました。具体的には寺の地下に講堂を設置し、そこで現代美術を軸とした文化活動を展開するという計画です。その案が通り、アメリカにある常設のプロジェクトスペースや、国内ではクリエイティブ・ディレクターとしても有名な小池一子さんの佐賀町エキジビット・スペースなどを参考に計画を作っていったと聞いています。

実際に建設計画が進行しはじめると、臨時の建築事務所が敷地内に建ち、それが3階建てのプレハブ建築で、その3階にプロジェクトの事務所が入りました。そこから「P3」という名前になりました。


ーー屋号がそんな由来だったとは知りませんでした。そこからどのようにプロジェクトを作っていかれたのでしょうか。

松本:由来は、実はいくつか説があるみたいなんですけどね(笑)。その頃から創設期のメンバーが集まり始め、計画に着手したのが1985年頃、実際に活動を開始したのは89年です。最初は「P3 Alternative Museum, Tokyo」という名称で運営していましたが、コンセプトとしてはむしろそれぞれのアーティストと組んでひとつのプロジェクトとしてやっていくという性質が強かったので、プロジェクトをベースとした活動内容をより示すために、後に現在の名前になりました。

当初は東長寺の地下講堂で、現代アーティストの蔡國強さん、インゴ・ギュンターさん、三上晴子さんたちと色々なプロジェクトを展開していたのですが、アーティストと共にプロジェクトを行っていく中で、東長寺の事業とは独立した制作機関として運営していくことになりました。それから現在までは、場所を限定せず、各地でプロジェクトを展開してきています。


ーー具体的にどのような活動をされてきたんでしょう。

松本:例えば、2002年に北海道の十勝・帯広エリアで開催した「デメーテル」【2】は、ばんえい競馬の競馬場で実施した国際芸術祭です。ばんえい競馬は北海道内の数カ所を巡回していたので、開催時以外は競馬場は休業しているんです。その場所を使って行いました。当時はまだ芸術祭もほとんどなかったので、最初期ですね。参加作家の1人に川俣正さんがいたのですが、その後の2005年「横浜トリエンナーレ2005」【3】のディレクターを川俣さんが務めることになり、その繋がりで芹沢とP3のチームが共同キュレーターの1枠として参加しました。あとは大分県の別府で、2009年から3回にわたり別府現代芸術フェスティバル「混浴温泉世界」【4】という芸術祭を立ち上げました。これは「BEPPU PROJECT」というNPOが主軸となり行いましたが、1年目はそのコンセプトからアーティスト選定、制作まで全面的に関わりました。そして2016年、さいたま市の主催で「さいたまトリエンナーレ」【5】を立ち上げることになります。

P3オープニング企画
「シナジェティック・サーカス バックミンスター・フラーの直観の海」1989

ーーいまでこそアートプロジェクト全盛期とも言えますが、80年代からすでにその先駆けとして活動が継続されていたのですね。松本さんが実際にP3に関わるのはいつからですか?

松本:私がP3に参加したのは2011年です。実家は京都で、大学時代は6年間大阪にいましたが、大学院を修了する頃、P3に入りたいと思ったので直接連絡をしました。最初に関わったのは、神戸市の文化施設である「デザイン・クリエイティブセンター神戸」(通称KIITO(キイト))【6】の事業計画作成、開館作業と開館してからの自主事業の担当でした。その後、「さいたまトリエンナーレ2016」の事業計画のために東京の事務所に合流することになり、2015年から東京に住んでいます。


ーーなるほど。気になっていたのですが、P3の体制やメンバーの役割分担はどのようになっているのでしょうか。

松本:P3は全員で6名いるのですが、皆それぞれが多様な役割を担っているので、明確なすみ分けというのはありません。ただ個々に得意分野はありますので、それをもとに紹介していくと、まず代表の芹沢が事業全体のデザイン設計や理念など、P3の最も根幹となるところを担当しています。実際の経営やマネジメントは伊藤【7】が担当しており、この2人がP3の主軸となっています。

次に設立当初からのスタッフで、本業ではベーシストでありつつ、企画から制作運営まで音楽プロジェクトを中心に担当している人がいます。

アートプロジェクトの推進には現場での制作も含まれますが、そのスペシャリストもいますね。特定の地域に入り込んだり、数十年使われていない建物から土木系まで、ハードな現場を経験している人です。アートプロジェクトは、まず地元の方々に挨拶に行って、関係を構築するところから始まるのですが、そういうのをじっくりとやり遂げることができる人です。

また、主に経理や総務などを担当するスタッフもいるのですが、実は横浜トリエンナーレのインターンとして関わったのが最初なので、現場から事務局業務までできてしまいます。

聞いていただいているとわかる通り、皆が結構なんでもやる、やれるスキルを持っていて、横断的に仕事をしています。プロジェクトが始まれば、求められる役割によってチームを編成して取り組んでいます。


ーーそれぞれ突出した特技を持ったメンバーが、状況に応じてチームを組んでいるんですね。松本さんはどのような仕事を担当されることが多いのでしょうか?

松本:私はディレクションとプロジェクト進行です。行政や企業などさまざまなステークホルダーとの交渉や調整から始めて、プロジェクトの言語化しにくい部分を明確にし、企画の全体像を形にし、実行する役割です。




アートプロジェクトができるまで

ーーP3は各自がプロジェクトを持ち、それぞれチームを招集して動くという体制なんですね。今までどのような立ち上げをされてきたのか、聞かせてください。

松本:「さいたまトリエンナーレ2016」の時は、ディレクションはもちろん、P3としてほぼすべての工程に関わりました。招聘作家が34組で、すべてが新作。各所に設置する作品それぞれを、ひとつのアートプロジェクトと位置付けていました。さいたま市が主催と事務局を担いましたが、行政側は初めての芸術祭でしたので、芹沢がディレクターを委嘱されると同時にP3が企画の段階から入りました。当時の業務を分解すると、プロジェクトディレクターを決定して体制を整え、予算の確定期限や制作期限などの基本的な流れを作ります。もちろん芸術祭として国内外の作家を招くための予算組みを行い、広報はどんな人に依頼していつから動き始めるかのスケジューリングも重要です。そして行政としての予算要求や議会への説明タイミングをこちらが把握しながら業務を進める必要がありましたので、スケジューリングから総合的なプランニング、ディレクションまですべてを行政と一緒にやりましたね。

実際の現場でも、作品制作を担うためのチームビルディングから携わりました。各プロジェクトのディレクターの人選とオファー、チーム編成や人件費配分からマネジメントまで。現場のチームはフリーランスの方を中心に編成していったので、お互いどんなことが得意で、どんな特性があるのかなど最初はわかりませんよね。一緒にプロジェクトを作る人同士の繋ぎを担うのが、私たちの大切な役割でもありました。


ーーいきなり作品制作に入るわけではなく、まずはチーム作りから、ということですね。

松本:そうです。そして制作チームを整える仕事をしながら、アーティストにオファーし、作品プランが決まったらようやく制作が始まるわけですが、会場の選定作業もあります。会場の選定は、特に芸術祭を作る上では重要なポイントです。

芸術祭では、美術館などのホワイトキューブだけではなく、別の文脈を持っている地域の様々な場所を展示空間にしていきます。この時は長年誰も住んでいない県所有の住宅とか、何年も前に閉鎖されてそのまま残されていた博物館の建物だったりとか、そういった場所を選定したので、建築基準法と作品設置要件を満たす工事をするために専門家に指示を仰いだり、掃除をしたりと、作品を設置できるようにするための準備もしました。

「さいたまトリエンナーレ2016」展示会場リサーチの様子


作品の実制作は、最終段階までアーティストと話をしながら進めていきますが、新作の場合はどういう技術を使えばそれが実現できるのか、誰に何を相談すればいいのか、現場ではインストーラーの人たちと話し合いながら、制作のためのコーディネーション全般をやります。

広報に関しても、適切なタイミングで適切な広報をしてもらうために、行政と広報の橋渡しをする作業が必要になります。さまざまな人がそれぞれ目的を持って集まる中で、ひとつの大きなプロジェクトとして成立させるためにあらゆることをやったというのが「さいたまトリエンナーレ」でしたね。


ーー特に芸術祭では行政側がアートに望むことと、作品を制作する側との齟齬があることも多々あると思います。その中での難しさや、税金つまり公的なお金を使っていく中で、芸術祭の担う役割とはどのようなものだと思われますか?

松本:やはり行政が主体になっている時点で、特定の地域や、そこに住む方に向き合わなければならないということはひとつ、大きくあると思います。アートの持つ力は強く、私自身もそれに惹かれてこの仕事をしています。それと同時に、プロジェクトを展開する場所の魅力にも引き寄せられています。場所の持つ力を引き出してそれを受け手に伝え、それによって育まれる新しい価値を提供すること、まずはそれが大事な役割だと考えます。

アーティストにとっては、その場所ならではの作品制作と、作品のプレゼンテーションができる機会となります。だからこそ地域の人々と対話を重ね、その場所の地域社会の特性や歴史をリサーチし、作品を作り上げることができるよう並走したいと思っています。

加えて、地域経済の側面での役割もあります。大規模な芸術祭はひとつの自治体や地域がそこに集中して全てのリソースを注ぐ機会であり、観光など芸術祭でなければできないレベルの波及効果が期待できます。

それぞれが、プロジェクトが生み出す生態系のひとつの側面であり、単一の視点だけではその事業全体は評価できません。様々な立場の人が関わる芸術祭においては、それぞれの人が達成したいものが異なるのが実際のところですが、立場の異なる人たちが協働することによってこそ実現できるものがあると考えていますし、それが大きな成果に繋がると考えています。

横田大輔展「Room. Pt. 1」2019
「The Second Stage at GG」シリーズの50回目として、ガーディアン・ガーデンで開催された。松本さんは本展覧会の企画を担当した。
・ART360°公式サイトで、同展覧会の360°アーカイブ映像をご覧いただけます


ーープロジェクトを作る、関わる中で重要なことはなんでしょうか?

松本:これは芹沢がよく言っていることで、P3の共通認識でもあるのですが、あらかじめ設定したゴールに到達するための計画を遂行していけば良いとは考えていません。プロジェクトは不確実性が伴い変化していくもので、常にそれに対処していくものです。ひとつのプロジェクトを様々な人々で構成される生態系として見たときに、ここのサイクルが今うまく回っていないな、こういう機能を果たすものが足りていないな、と気づいた部分にどう対応していくかが重要となります。新たな職能を持つ人に入ってもらうことが解決法かもしれないし、コミュニケーションのやり方を変えるということが解決法かもしれない。その時々の状況に、その都度適切な対処をしていくということを大切にしています。そしてそういう過程で育まれる人間関係は良いプロジェクトとなり、良いプロジェクトは、次の新たなプロジェクトを生み出せるつながりになると、私は思っています。

ーー「生態系」というのは、様々な人や場所を繋ぎながら常に新しいものが生み出されていく、そんなP3のプロジェクトのあり方を象徴する表現ですね。松本さんはこれまで担当されたプロジェクトの中で、印象に残っているものはありますか?

松本:2018年くらいから、銀座の街の方々と行っているプロジェクトです。銀座の街は地図上で見ても区分が明確で、もともと川だったところが現在は東京高速道路になっています。そこに囲まれている1丁目から8丁目までが「銀座」というエリアなんですが、8丁とはまた別に、丁目を分ける東西の通りに直行する南北の通りには、商店街のような「通り会」というものがあります。他にも自治組織が何十もあるのですが、それを取りまとめるのが「全銀座会」というところで、そこと共同プロジェクトを実施しているんです。

銀座は表通りにショーウインドウが並ぶ商業の街という華やかなイメージが強いですが、実は江戸時代から銀座の街が変化していく中で、現在も残されている細い路地がたくさんあり、それらは華美な銀座のイメージとは異なります。それらの路地は銀座で働く人々の生活動線として使われているのですが、基本的に個人の所有地と言うこともあり、開発などのきっかけがあれば簡単になくなってしまうようなもので、最近もいくつかの路地が姿を消しています。そういった生活動線として昔からある路地も、銀座のひとつの界隈性であり街の魅力でもあると考え、その路地に再注目してもらおうというのがプロジェクトのコンセプトでした。


ーー具体的にどんなプロジェクトになったのでしょうか?

松本:西尾美也さんという奈良県在住のアーティストとともに行った「感覚の洗濯」【8】というプロジェクトです。西尾さんは「装いとコミュニケーション」をテーマに作品制作を行っていて、公共空間でたらいと洗濯板を使って洗濯物を洗って干す、というプロジェクトがあります。もともとは「さいたまトリエンナーレ2016」で生まれた作品で、その後全国各地で同様の活動を行っています。銀座では、路地を練り歩きながら洗濯のワークショップを行い、洗濯物を干していくということをしました。洗濯物が干されるとその場所が一瞬でカラフルな景色になります。洗濯物が干された風景そのものをインスタレーションとして、普段の路地の光景を一変させる試みです。路地の他に、銀座唯一の公園である数寄屋橋公園にも洗濯物を干しました。来場者に銀座の路地マップを配布し、干された洗濯物を探しながら路地に迷い込んでもらうという1日だけの企画です。

西尾美也「感覚の洗濯 in 銀座」2019 
撮影:廣田達也

ーー実施にあたって困難なことなどはありましたか?

松本:予算があまりなかったことはまずありますが、それ以外だと地元の方々や中央区との交渉でしょうか。さいたま市と銀座では規模は異なりますが、プロセスは変わりません。「何かやりたい」という意欲を持つ人々の状況や意向を丁寧にヒアリングし理解していき、こういうことができるのではという提案をしながら、実現のために必要な組織や人とひとつひとつ交渉をしていくしかないので、銀座でも特にそれに重点を置いていました。困難というよりは最も時間のかかったプロセスという感じです。

アートプロジェクトの持つ可能性のひとつは、アーティストとは全く文脈が違うところから、他者の視点で新しい提案が生まれるところです。普段の社会生活では出会うことのない人や文脈同士が「アートプロジェクト」をきっかけに出会い、新たな化学反応が生まれるというところに面白さと醍醐味があります。



これからのビジョン

ーー松本さんは関西でも関東でも活動されてきましたが、都市ごとのアートプロジェクトの違いなどはありますか?

松本:まずプロジェクトの数は圧倒的に増えていますよね。その中で関東と関西の違いは顕著に感じます。関西と比較すると、関東、特に東京は良くも悪くも情報と資本が巡っています。プロジェクトの主体やアートに関わる人の人数も把握できないくらいに多い。関西にいたころは、どんな人がどんな場所にいてどんな仕事が依頼できるか、大まかに把握できていました。特に京都という町は地元ということもあり、自分の生活とアートプロジェクトの活動が結びつけやすかった。一方東京だと、情報や人と人の繋がりが膨大なので、その中で自分が個人としてどんな活動ができるのかについては、明確にしづらく、関西とは異なる環境にあることを否応なく感じさせられます。

また、東京は特に分業体制が確立しています。それ自体は役割が明確な分、良い側面ももちろん大きいのですが、それぞれが果たすべき仕事において、プロジェクトの文脈や経緯を常に共有していかないと噛み合わなくなることがあります。特に大都市ではそういうことが起きやすいのかもしれません。


ーーとても参考になります。ちなみに松本さんがこれから目指すものはなんでしょうか?P3としてのビジョンでも、個人的なことでも。

松本:チームとしては、組織としての持続可能性です。経営面でも人員の面でも。あとは活動を始めて数十年が経過しているので、アーカイブの保存と活用が課題です。プロジェクトをしていく中で様々な資料や記録映像がたくさん残っています。80年代から90年代にかけてはVHSだったりMiniDVだったり……それらの映像記録をデジタイズする作業が進行中です。あとは、紙の資料ですね。プロジェクト関連の資料が入った箱が膨大にあります。そもそもは過去に実施したプロジェクト、あるいは過去協働したアーティストと再度仕事をするとき、つまり業務円滑化のために残しているものですが、それらをオープンな形で活用できないかということを考えています。


ーーアーカイブの話は重要ですね。80〜90年代の「現代美術」をリアルで知らない世代の人たちがいまアートプロジェクトに関わり始めている。それらのアーカイブが開かれた形でアクセスできるものになれば、とても貴重な資料になるはずですね。

最後にアートプロジェクトのディレクションなど、現場を志す方々に向けてアドバイスなどあればお願いします。

松本:プロジェクトを成立させるための一連の仕事は、目的や言語が異なる人々の間を繋ぐ翻訳業のようなものだと思っています。その性質上、クライアントから見ても評価が難しく、まだまだ業務として成立しにくいという課題はあります。そういったことを改善することも自身のミッションの一つとしつつ、世の中に存在していなかった何かを生み出すことは何物にも代え難い経験ですし、たとえ小さな一歩だとしても、よりよい世界に繋がることを願っていつもやっています。純粋に楽しい仕事ですので、同じような仕事をする人がたくさん増えるといいなと思います。ぜひ一緒に仕事をしましょう!

・P3 art and environmentについてはこちら

注釈

【1】芹沢 高志(せりざわ たかし)

P3 art and environment エグゼクティブ・ディレクター
1951年東京生まれ。神戸大学理学部数学科、横浜国立大学工学部建築学科を卒業後、(株)リジオナル・プランニング・チームで生態学的土地利用計画の研究に従事。その後、東京・四谷の禅寺東長寺の新伽藍建設計画に参加したことから、1989年にP3オルタナティブ・ミュージアム東京(現 P3 art and environment)を開設。1999年までは東長寺境内地下の講堂を拠点に、その後は場所を特定せずに、さまざまなアート、環境関係のプロジェクトを国際的に展開している。とかち国際現代アート展『デメーテル』総合ディレクター(2002)、アサヒ・アート・フェスティバル事務局長(2002-2016)、横浜トリエンナーレ2005キュレーター、別府現代芸術フェスティバル『混浴温泉世界』総合ディレクター(2009、2012、2015)、さいたまトリエンナーレ2016ディレクター(2016)、さいたま国際芸術祭2020参与などを歴任。2012年から2021年まで、「デザイン・クリエイティブセンター神戸」のセンター長を務めた。

【2】デメーテル

【3】横浜トリエンナーレ2005

【4】混浴温泉世界 200920122015

【5】さいたまトリエンナーレ

【6】デザイン・クリエイティブセンター神戸

【7】伊藤 忍(いとう しのぶ)

P3 art and environment マネジング・ディレクター。

1963年東京生まれ。1988年、P3の立ち上げに参画し、組織運営と、現代アートを中心とする展覧会や関連出版物の企画制作・イベント運営を総合的に行う。「とかち国際現代アート展デメーテル」(2002)では補佐としてディレクター業務全般に関わり主に作品制作を統括。他に国東半島アートプロジェクト(2012)などでの屋外恒久設置作品作家選定および制作、さいたまトリエンナーレ2016ではプロジェクト・ディレクターを務めた。同時期にアンサンブルズアジア(~2018)/東京(~2020)」事務局を組織。
P3活動の法人格であるピースリーマネジメント有限会社の現代表取締役。

【8】「感覚の洗濯」西尾美也


INTERVIEWEE|松本  ひとみ(まつもと ひとみ)

ディレクター。2011年よりP3 art and environmentに参加。「デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)」「さいたまトリエンナーレ2016」「鮫ヶ浦水曜日郵便局」などの事業立ち上げに従事。まだ見ぬプロジェクトを実現する時に必要とされる、リサーチ、コンサルティング、事業設計、企画、制作などの様々なフェーズを担う。近年の企画に、濱口竜介「即興演技ワークショップin神戸」(2013)、西尾美也「ちびっこテーラープロジェクト」(2014)・「感覚の洗濯 in 銀座」(2019-)、横田大輔「Room. Pt.1」(2019)など。大阪大学文学部卒業、同大学院文学研究科修士課程修了。


INTERVIEWER|小島 ひろみ(こじま ひろみ)

広島県出身。舞台芸術の制作や広告代理店勤務を経て、2013年から広島市現代美術館学芸員。企画担当した展覧会に「東松照明―長崎―」展(2016)、「村野藤吾の建築―世界平和記念聖堂を起点に」(2017)など。2018年から外資系ラグジュアリーブランドのアート部門マネジャー。2020年度東京藝術大学大学院映像研究科主催RAM Associationに参加。2021年度企業メセナ協議会メセナアソシエイト(外部研究員)。2021年から東京都写真美術館専門調査員。