美術家・矢津 吉隆(やづ よしたか)さんには、個人で作品制作を行うアーティスト【1】としての顔、アート複合施設kumagusukku【2】の代表・経営者としての顔、そして山田毅(只本屋)さんとの共同プロジェクト「副産物産店」【3】ではユニットとしての顔など、様々な側面があります。そんな美術・アートに関わる幅広い活動を展開する矢津さんですが、今回のインタビューではどのようにして現在のキャリアに辿り着いたのか、ということを中心にお話を伺いました。
誰もが一度は悩むであろう「好きなことを仕事にするのか、それで食べていけるのか」というキャリア選択において重要な問題に、矢津さんはどう向き合ってきたのでしょうか。また、人生のそれぞれのフェーズにおいての「表現すること」に対する矢津さんの考えについてもお聞きしました。
聞き手の佐々木自身、以前はクラシック音楽をやっていましたが、その道に進むことを断念した経験があります。これからの自分がどう音楽と向き合っていくのかを考えるにあたって、また、これからアーティストを目指す人や文化芸術に関わろうとする人、何かしら表現をする人たちにとって、矢津さんのお話は何かしらのヒントになるのではないかと思います。
自分の生活の一部として絵を描く行為があった
佐々木:まず、矢津さんが美術やアートに触れた最初の経験は何でしたか?
矢津:小さい頃から絵を描くのが好きで、弟に見せるための漫画を描いていました。よくあるように、自由帳に弟が主人公で出てくるバトル漫画を描いて、それを弟に見せて喜んでもらうのを楽しむのが最初のきっかけでしたね。
中学では運動部に入ったので、長い間机に向かって描くことはないけれど、事あるごとにノートの切れ端などに落書きしたりしていたので、趣味というか自分の生活の一部として絵を描くという行為がありました。
佐々木:そこから芸大に進むという進路の選択をされていますが、そのきっかけは?
矢津:高校で美術の先生が声をかけてくれたことがきっかけです。僕が美術の授業で積極的に描いていたり、楽しそうにしていたのを見ていて、「芸大の受験に興味ある?」と声をかけてくれて。ちょうど進路を考えないといけない時期だったので、それも選択肢としてありかなと思いました。
当時、美術には全く触れていなくて陸上部に所属していたんですが、その先輩がひとり、大芸(大阪芸術大学)を目指すためにデッサン教室に通っていたのは知っていました。それで何かの拍子にそのデッサンを見せてもらったことがあって、その時に「正直下手くそやな」と思ったんですよ。こんなんやったら全然僕のほうが上手いわと(笑)。
これで芸大を目指すと言っているのかと思って、だから僕くらい画力があればいけると勝手に思っていました。
佐々木:実際に芸大を目指してみてどうでしたか?
矢津:芸大に行く前に予備校に通うんですけど、僕は大阪の中之島美術学院という大手の予備校に通っていました。浪人生と現役生、合わせて100人近くいるようなコースだったので、最初は結構打ちのめされましたね。自分がいちばん上手いと思って入ったけど、実際はそうじゃない。現実はそう簡単じゃないんだなということを最初に突きつけられました。
でも、そこで絵を描いている仲間に出会ったことはすごく大きかったです。今までは、絵を描いていることを高校の友達に言うこともなかったし、ちょっと恥ずかしいと思っていたところもありました。なので、予備校で始めて絵を描いていることが当たり前で、絵についていろいろと話ができる友達ができた。僕は一浪しているんですけど、周りも一浪して、現役の時からつるんでいたグループがそのまま浪人生でも同じで。ただ作品を作るだけでなく、その関わりの中で作品を介したコミュニケーションをしていくことで、アートの世界が少し楽しくなってきました。
同時に、アーティストの先生や現役の芸大生たちが教えていて、アートの雰囲気が強くあった画塾だったので、そういうアーティストの片鱗みたいなものを予備校時代に垣間見たことも大きかったです。そこから展覧会とかも行くようになって、何となくアートの世界観が掴めてきたところで芸大に入ったという流れですね。
佐々木:それまで趣味で絵を描いていたところから、きっちりとした美術・アートに触れた場所が予備校であったということですね。その後、京都市立芸術大学に入学されますが、学生の時から美術の道に進もうと思っていたんですか?
矢津:美術の道に進もうと思ったことはなくて、入学してからはむしろ「美術の道とは違うんだろうな」と思っていました。
受験の時は何となく芸術家になる、絵描きになるとか、そんな漠然としたイメージでした。でも芸大に入ると、そこにはリアルがあるので。今までのふんわりとしたイメージから、もっと現実的な、作品を制作するにはこれだけのお金・場所・機材が必要で、その環境がないとだめだ、とか、先輩でも全然食えている人がいないとか、そういうことも分かるし。
僕は彫刻科に入ったんですけど、京都市芸の彫刻科は日本の現代美術シーンのど真ん中でもあるような場所で、すごく有名なアーティストの先生たちが大勢いました。そこでは先生に教えてもらうというよりかは、アーティストの背中を見て育てるという感じの教育だったので、気後れするじゃないけど、「本当にこの道でいいのかな」という疑問はどうしても感じてしまって。
自分の中では、もともと漫画が好きだったこともあるし、サブカルチャーとか映画とかそういった方向にも興味があったので、ど真ん中の現代美術というものに抵抗がありました。実は、浪人時代に仲間たちで自主制作の短編映画を作っていたんですよね。大学に入ってからも、2回生の頃に外部や予備校の友達と集まって長編映画を作ったり、後は3回生の時に漫画を本格的に描いてみたいなと思って、雑誌の賞に応募したりもしていました。
なので、卒業後アーティストとしてこうなりたいというビジョンは特に持っていなかったですね。
おもしろい友達たちとおもしろいことをやり始めたら、自然と美術の方向性になっていった
佐々木:結果として、現在は美術のフィールドで活動されていますが、そのきっかけは何だったんですか?
矢津:僕は、大学の同期が立ち上げたAntenna【4】というグループで活動していて、そこから現代美術の世界に入っています。僕は創設メンバーではないんですけど、立ち上げ2年目くらいに誘われて入り、3回生の後半から活動を始めて、4回生はまるまるAntennaの活動に時間を捧げていました。
Antennaというのは、デザイン科のメンバーが集まって作ったグループです。グラフィックや環境、プロダクトデザインの人たちが集まったユニットだったので、美術バリバリの彫刻科とは毛色が違って、見ている方向もちょっと違います。当時出てきたばかりの技術だった3Dを使って、ミュージックビデオなどの音楽と映像を組み合わせた表現であったりとか、映像を作ることをやっていました。ひとつの映像の中にいろんな技術を含めた作品を作っていく中で、モノをつくる、つまり大道具とか小道具とかも必要だし、世界観やコンセプトを作るのにも必要ということで、僕に声をかけてくれて。
ちょうどその時はひとつの世界観をミクストメディア【5】で作っていくことに興味があったので、いろんなおもしろいことができそうかも、と思って参加しました。周りにそんなことをやっている人はいなかったし。Macが気軽に手に入るようになって、それなりにスペックも上がってきた時期だったので、いろんなことがやりやすい環境にありました
そうして、在学中からもてはやされたというか、Antennaおもしろいぞと、ちょっとずつ認められていきました。キュレーターの方に企画展に選んでいただいたりだとか。
そんな感じでおもしろい友達たちとおもしろいことをやり始めたら、自然とそれが美術の方向性になっていったんです。それも完全に美術の王道という感じではなくて、今で言うコレクティブの感じです。いろんな専門性を持ったアーティストたちがチームを組んで、それぞれの得意分野を活かしてひとつの作品を作っていくということをやっていて、そうした活動がだんだんと僕らを美術の世界に連れて行ってくれました。
「このままどうなるんやろ」という不安もあった
佐々木:その時期の「表現すること」に対しての考え方はどうだったんですか?
矢津:僕は、学生時代に個人の表現の主題があんまり定まっていなかったというか、それが固まる前にグループで活動したので、あんまり自分自身が何を表現したいのかとか、何をテーマにしたらいいのか、ということがわからないままに美術の世界に入ってしまったんですよね。
最初はグループワークだったので、そうした活動もある種のお祭り感というか、勢いがあって、流れに乗っていくみたいな感覚がありました。もちろん個人でも作品は作っていたんですが、グループ活動が忙しくなって、全然個人の作品を作らなくなってくると、だんだん自分自身の表現とは何なのかと考えるようになるんですよね。
結局2006年までAntennaに在籍して、2007年から個人で活動を始めたんですけど、グループにいた時から、自分とは何なのか、自分自身のことについて悶々とする時期がありました。その時はAntennaの活動がめちゃくちゃ忙しくて、アルバイトもあるし、いろんな場所に行って活動するのでお金もかかるしという状態で、なかなか立ち止まることができなくて。そうなればなるほど「なんで俺こんなんやってるんやろ」と思っちゃう。
当時23,4歳で「このままどうなるんやろ」という不安もあったし、周りは個人のアーティストとして活動し始めていたりもしたので、焦りもあって。一旦Antennaを離れることにしました。それから「自分自身のアイデンティティとは何なのか」ということや、「テーマにしていることは何なのか」を考えながら作品を作り始めました。
佐々木:そこからしばらく個人で作品を作られる時期が続くということですね。その後、kumagusukuを始められますが、そのきっかけは何があったんですか?
矢津:自分でも5年周期くらいで環境を変えているなと思うんですけど、最初はAntennaがあって、そこから個人の活動が5年間ほどあって、その中では個展もさせてもらったし、いろんな芸術祭にも個人で参加させていただきました。そうして活動していく中で、Antennaの矢津吉隆って最初は言われていたのが、途中からAntennaという肩書きが外れて、僕がAntennaにいたことすら誰も知らない状態になっている。今やAntennaがあんまり認知されていないのかもしれないけど。
個人の活動も5年間やったあたりで、次のフェーズへ自分が行かないといけないかなというタイミングが来ました。ちょうど30歳になったくらいで、個人の作品を作って発表するということを一通りやって、名前としてももうAntennaではなくなって、矢津吉隆になった時に、それでもやっぱり先行きが見えないような状況に不安を覚えました。今後もこのままこのやり方を続けていくのか、よっぽど成功しないとお金にもならんぞ、どうすればいいかいうアーティストがそれぞれ陥るようなものではあるとは思うんですけど。その頃は予備校で教えたり、大学の非常勤を週1でやっているくらいでした。収入も安定しないし、やっぱり30になると焦るじゃないですか。「結婚とかできるのかな」みたいな感じになってきたので、自分でも考え直そうと思って。
いつの間にか行くつもりのなかった美術の超王道にいた
矢津:それからkumagusukuをやる前に、実は留学を志していて、ロンドンに行こうと計画していました。僕の周りでも、日本でやっていてもらちが明かないと言って、ベルリンやロンドン、ニューヨークなど、海外に行っているやつが多くて。僕もこのままだといけないのかなと思って、ロンドン芸術大学のチェルシー校を受けました。
それで、受かったのは受かったんです。ただEU圏外から行くとなるとむちゃくちゃ学費が高くて。1年分の学費は祖母が協力してくれたんです。こんなことがしたいと言ったら、祖母は元々応援してくれていたのもあって「それくらいなら出すわ」と言ってくれて。学費だけは工面してくれることになったんですが、あとは助成金とか奨学金とかを取ったりしないといけない状況でした。ただ結局、それらの申請は通らなくて。ロンドンに行って、向こうでなんとかお金を工面するか、もう一度立ち止まるかという選択になった時に、どうしようと思ってめちゃくちゃ悩みました。
でもよくよく考えると、その選択って、いつの間にか行くつもりのなかった美術の超王道だったんですよね。あまり意識はしていなかったけど、考えれば考えるほど違和感があって馴染めなくて、ちょっとこの道は違うなと思いました。これはよくよく考えたら自分が本当にやりたかったことではないと、そこで思い直したんです。
現代アートっていうのは西洋の価値観で出来上がっていて、その思想の元にすべてのことが成立している。そんな中、マイノリティであるアジア人で、なおかつ日本というアートもそんなに社会的地位を獲得していない島国から、現代アートの本場である西洋、特にイギリスなんかに行くと、本当にそのフィールドでばりばり戦っていく気概がないと絶対にやっていけない。本当にそのアートワールドの中で成功しようとすべてを捧げた者だけがトップのアーティストとしてやっていけるという世界なんです。半端な覚悟じゃ、行けないなと。
佐々木:なるほど。そのひと握りの人間しか行けないような超王道という話はすごくよくわかります。それはクラシック音楽でも同じで、僕もその覚悟がなかったから続けられなかったので。
矢津:でも視野を広く持つと、行かなかったとしても、もっと違うところにも役割というか、やるべきことが残されているなと気づきました。
現代アートを取り巻く既存のグローバルマーケットに対しては、思うところが色々あって。アートの世界は、資本主義と強く結びついていて、資本家であったり、お金を持っている人との関係抜きでは語れない現状があります。マーケットを見た時、しばしば一般市民・庶民がアートに触れるようなフェーズが欠落しているように感じることがあります。例えば著名な作品がオークションで数億円レベルで取引されることがあります。場合によっては、もちろん美術館などにも展示はされて、その作品が多くの人に見られるかもしれないんだけれども、それらはすごく管理された、一部のコントロールされた世界の中でしかそのような体験が提供されないと、僕は感じることがあります。それでいいのかなぁって。
もっと身近な、それこそ自分の親であったり、祖母であったりとか、応援してくれている人に、アートの何を見せられているのか、ロンドンの件はそういったことを一度立ち止まって考える機会になりました。
英語も得意ではないし、正直言えばちょっとひよったのかもしれないけど、それとは違う方法もあるんじゃないかと思って、kumagusukuの方向に進むんです。
僕という存在がここにあることがすごく重要である
佐々木:少し話は変わって、矢津さんの表現に対しての考え方をお聞きしたいと思います。
アーティストとしての個人の表現と、kumagusukuや副産物産店のように共同体をつくるというか、周囲と一緒につくっていく表現に違いはありますか?
矢津:まず個人の表現についてですが、例えば心の中に自分だけの居場所というかそういう場所ってあるじゃないですか。子供がいて、奥さんがいても、自分だけの居場所というものがあって、それをどこかに持ち続けたいとは思っています。
アーティストとしての活動に成功するかどうかということよりも、そういった部分を自分の中に持ち続けていることが重要だなと。ただ、時々それをもっと自分の中で広げたい、あるいは見せたいという欲も出てくるから、個展を3年に1回くらい開いています。
佐々木:以前のインタビューで「kumagusukuは表現じゃない」と仰っていましたが、今はどうですか?
矢津:kumagusukuは表現である(笑)。そのインタビューは初期の頃だったと思うんだけど、以前とは変わってきた感覚はありますね。
最初kumagusukuを作った時には、なるべく自分を出さないようにということをある種のルールとして決めていました。例えば自分の作品を展示しない、企画も外部の人を入れて、アーティストもキュレーターと一緒に決めるとか。kumagusukuの建物自体や外壁も、外部のデザイナーや建築家が入ってくれています。僕の表現をなるべく無くして、個人によったものではなく、社会性がちゃんと育まれる場所にしていこうという意識で作ったので、その頃は表現ではないと言っていました。でもやっていくと、結局僕という存在がここにあるっていうことがすごく重要だということに気づきました。アーティストがここにいるということがすごく重要なので、そういった意味では表現なのかなと。
ひとつの空間の中に人が入って来れる店という形態そのものが表現たり得るんだろうな、ということを思ってきたからこそ、今はそういった結論に至っています。
佐々木:最後に今後、矢津さんが何かしてみたいことはありますか?
矢津:ずっと言い続けているんですけど、漫画はもう1回描きたいんです。死ぬ前に1冊漫画を世に残したいという想いがある。
そういった何かを作るというところではやりたいことがたくさんあります。彫刻として木彫もやってみたいし、映像も写真ももっとやってみたいし、山程あるんですけど、ひとつだけ挙げるとしたら漫画ですかね。できるのは死ぬ間際かもしれないけど(笑)。
佐々木:矢津さんの描かれた漫画、いつか読んでみたいです。本日は貴重なお話、ありがとうございました!
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【1】美術作家 矢津吉隆HP
https://www.yazuyoshitaka.com/
(最終閲覧:2022年11月9日)
【2】kumagusuku
http://kumagusuku.info/
(最終閲覧:2022年11月9日)
2015年、京都・四条大宮に「展覧会に泊まる」をコンセプトにした宿泊型のアートスペースとして開業。以来、様々な展覧会やイベントを開催してきたが、2020年にアートホステルとしての営業は終了し、12店舗が入居する小規模アート複合施設としてリニューアル。また、新たにサテライトスペースとして上京区にkumagusuku SASを開業し、アートと人の新しい関係をつくるための施設として運営されている。
【3】副産物産店
https://byproducts.thebase.in/
(最終閲覧:2022年11月9日)
2017年に山田毅(只本屋)と矢津吉隆(kumagusuku)が開始した、資材循環のための仕組みであり、ものの価値、可能性について考えるプロジェクト。絵画・彫刻・陶芸・デザインなど様々な分野の作品制作時に出る廃材を “副産物”と呼び、アーティストのアトリエから副産物を回収し、加工・流通させることで、従来は捨てられるだけだった副産物に新しい価値を生み出している。
【4】Antenna
http://www.antennakyoto.com/
(最終閲覧:2022年11月9日)
【5】ミクストメディア
性質や種類の異なる複数の媒体または素材を用いる技法、またそれによりつくられた美術工芸品のこと。
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INTERVIEWEE|矢津 吉隆(やづ よしたか)
1980年大阪生まれ。京都市立芸術大学美術科彫刻専攻卒業。京都芸術大学専任講師。京都を拠点に美術家として活動。作家活動と並行してオルタナティブアートスペース「kumagusuku」のプロジェクトを開始し、瀬戸内国際芸術祭2013醤の郷+坂手港プロジェクトに参加。2017年からは美術家山田毅とアートの廃材を利活用するアートプロジェクト「副産物産店」を開始。主な展覧会に「青森EARTH 2016 根と路」青森県立美術館(2016)、「やんばるアートフェスティバル」沖縄(2019)、「亀岡霧の芸術祭」京都(2018~22)など。2022年からはビジネスパーソンを対象とした実践的アートワークショップ、「BASE ART CAMP」のプロジェクトディレクターを務める。
・kumagusuku:http://kumagusuku.info/
・副産物産店:https://byproducts.thebase.in/
・BASE ART CAMP:https://base.kyoto/baseartcamp/
IINTERVIEWER|佐々木 拓人(ささき たくと)
ART IN TURN 第1期生
1996年大津市生まれ。ギタリストである父親の影響を受けて、5歳ごろからクラシックギターを始める。以来、親子デュオでの演奏や、フランスに招待されオーケストラと共演、複数のコンクールで受賞するなど音楽活動を行っていた。
その後紆余曲折を経て、現在は近畿大学文芸学部文化デザイン学科の4年生。大学ではプロデュースの視点から文化芸術と社会との繋がりを学ぶ。趣味は写真を撮りながらの散歩とサッカー観戦。
CONDUCTOR|山田 毅(やまだ つよし)
只本屋代表・美術家・+5メディアキュレーター
1981年 東京生まれ。2017年 京都市立芸術大学大学院美術研究科彫刻専攻卒業。映像表現から始まり、舞台やインスタレーションといった空間表現に移行し、ナラテイブ(物語)を空間言語化する方法を模索、脚本演出舞台制作などを通して研究・制作を行う。2015年より京都市東山区にてフリーペーパーの専門店「只本屋」を立ち上げ、京都市の伏見エリアや島根県浜田市などで活動を広げる。2017年に矢津吉隆とともに副産物産店のプロジェクトを開始。2019年春より京都市内の市営住宅にて「市営住宅第32棟美術室」を開設。現在、作品制作の傍ら様々な場作りに関わる。