「アートとともに生きること。アーティスト・イン・レジデンス ディレクター 小田井真美さんに聞く」

「アートとともに生きること。アーティスト・イン・レジデンス ディレクター 小田井真美さんに聞く」

佐藤 拓実
2025.12.13

 全国で大小の地域芸術祭が開催され、地域振興策の一つとしてアートプロジェクトの活用が行われる昨今、アーティスト・イン・レジデンス(以下 AIR)は、見慣れた仕組みとなった。小田井真美(おだい・まみ)さんは、90年代以降、日本にアートマネジメントが広まっていった時期から活動を開始し、2014年からは北海道札幌市の「さっぽろ天神山アートスタジオ」【※1】(以下 天神山)で、AIRのプログラムディレクターとして事業設計・企画を担ってきた。小田井さんがアートとどのように関わって生きてきたのか。これまでの歩みを伺う。

(小田井真美氏 近影)
天神山アートスタジオ 内部の様子 
提供:小田井真美
天神山アートスタジオ 事務所で日本酒について話す 
提供:小田井真美

アートとの出会い 


ーー小田井さんが最初にアートに触れたご経験はいつでしたか?


小田井:子供の頃です。母が美術館に行くのが好きで、家には世界美術全集があったんです。中でも西洋美術はよく見ていて、解説に書かれている画家の人となりの記述が好きで。子供の頃から芸能ゴシップみたいな、表に出ていない話、人の素の姿に惹かれていました。


ーーアーティストの制作の裏側をサポートする、今の仕事にもつながっている気がします。

小田井:でもそこから美術の方面に行くことには直結していなくて。中学一年生の時に絵本クラブに入ってみたら全然何も思いつかなくて。これはダメだと思って、作ることはそこでやめました。私は中高一貫校だったんですけど、美術の先生が版画家で、学校の中でぶらぶら過ごす非日常的なふるまいを見て「アーティストってなんかいいな」と思っていました。その先生から聞いた話もいまだに覚えていて、私にすごく影響を与えたと思います。


ーー学生時代はどのように過ごされていたのですか?

小田井:勉強に関心がなくて、授業中も本ばかり読んでいました。でも本も大学を出て以降、読書の習慣はさっぱり薄くなりました。勉強する癖をつけないままきてしまったことは後悔しています。放課後は部屋で雑誌を読んだり、一人でぼんやりしたり。空想癖があって退屈しませんでしたね。それは今も変わらないです。

あとは西洋、特にヨーロッパの文化に対する憧れが強かったですね。フランスに留学したくて、フランス語を勉強したら全然できなくて。両親から留学させる余裕はない、と言われたのをすんなり受け止めました。


ーー進路はどのように決めたのですか?

小田井:ファッションやデザインのようなビジュアルのいいものが好きだったことから、美術大学が進路として浮上してきました。だから進学の動機はものすごい不純というか、消去法です。武蔵野美術大学短期大学部の、舞台美術や商業施設のディスプレイを学んで空間を演出するような科に入りました。
美術大学に行って様々な表現に触れたのがすごく楽しくて。その頃「P3art and enviroment」【※2】(以下、「P3」)を知りました。そこが、自分と現代アートの関係の始まりです。


ーーアーティストとの出会いもありましたか?

小田井:強烈なアーティストと若い時に出会ったのは今の仕事に直結していますね。一緒に展覧会場を設営したり、プロジェクトを進めるのは、当時、大学ではできない経験でした。例えば蔡國強さんの大きい個展があった時に制作の手伝いをしていて、おでんを買ってもらって「作家ってやさしい!」って感激したり(笑)。曽根裕さんの手伝いをしたことも印象に残っています。

90年代前半は現代アートの環境が整い始めた時代で、まだアートマネージメントは確立されていなかった。スパイラルや水戸芸術館ができて、西武グループの文化事業が盛んだった時期に東京にいたことで、無意識にいろんなことを取り込めたと思います。

アートを仕事にする苦闘


小田井:
音を扱う作家との仕事が多くて、好きな領域だったので、その後1995年頃から「LOOK AT MUSIC」という名義で、自分ひとりで企画やプロデュース、イベントの運営をするようになりました。名前はロルフ・ユリウスというドイツのサウンドアーティストの言葉からとっています。でも、どこでどうやって自分の事業資金を作ればいいのか全くわからなかったですね。

LOOK AT MUSICのはじまり 東大駒場寮元食堂 
提供:小田井真美

ーー大学卒業後はどのような活動をしていましたか?

小田井:アートの仕事をしたいなと思いつつ、友達に教えてもらったインテリアのスタイリストを手伝って、4年くらい経った頃に成り行きで独立しました。スタイリストで稼いで、アートで使う、みたいな。当時26歳か27歳だったのですが、年収が600万〜700万円あった。そこで「このままやってたらダメになるんじゃないか?」と思って。


ーーえっ?どういうことですか?

小田井:そこが私の気が小さいところで、世の成功みたいなものが怖くなるんですよ、今の仕事を発展させていくとアートをやるエネルギーもなくなると想像して怖くなった。これが若さでしょうね、いまの私なら違う考えになると思います。だから30歳頃にスタイリストを辞めて、アート分野に特化した広報の仕事が必要なのではないかと考えて、実務を学ぶためにファッションブランドの広報を手がける会社に就職しました。

 その広報の会社が、たまたま「GALLERY 360°」という場所【※3】のオーナーの根本寿幸さんが犬の散歩をさせるコースにあったので、時々出くわしては挨拶していたんです。広報は面白かったけどすごく忙しかったので、「辞めようと考えています」と話したら、根本さんが「ギャラリーやらない?」って。ファッションブランドのKOSUKE TSUMURAさんがビル一棟をフラッグシップショップにするから、一部をギャラリーにして若いアーティストをサポートする、って。


ーーすごい出会いですね。

小田井:それで広報の会社を7ヶ月くらいで辞めて、KOSUKE TSUMURAのフラッグショップの1フロアを3 ART PROJECTというスペースにして展示企画をしていました。このプロジェクトでは収入はなかったので、朝の5時から昼過ぎくらいまで築地で伝票打ちのバイトをして、ギャラリーに行く日々でしたね。

北海道、十勝へ


小田井:
ギャラリーで楽しくやっていても、いつまでも食べれないことにようやく気がついて、流石に落ち込んだりもしました。その頃、オランダから帰ってきたアーティストに、空き家を占拠してスタジオと居場所をつくる「スタジオスクウォッティング」という活動が面白いよと聞いて、その仲間になりたくて奨学金に応募し始めました。ちょうど2000年頃です。「P3」の芹沢高志さんに奨学金の推薦書を書いてもらったのですが、芹沢さんは当時「デメーテル」【※4】のディレクターをやることになっていて、北海道に現地スタッフが欲しかったらしく、奨学金の結果を待っていたら、芹沢さんから「小田井、十勝に行ったら?牛がいっぱいで真っ平で、オランダと同じだから」と誘われました(笑)。


ーー北海道にはそれまで来たことはあったんですか?

小田井:全くなかったです。でも来てみたら驚きの連続で、そのせいで、今日までうっかり北海道に居てしまったのかもしれません(笑)。十勝に初めて行ったのは秋で、乾燥した空気の中で見る紅葉は色がはっきり目に入ってきて、そのクリアさと言ったらなかった。あと、十勝は冬が信じられないくらい綺麗で。ダイヤモンドダストがキラキラ……って!綺麗すぎて泣きながら事務局から家に帰ったりしました。

「デメーテル」カタログ(左)と公式ガイドブック(右) 
写真:筆者撮影


AIRとの出会い


小田井:
「デメーテル」の事務局に勤めて、初めて仕事で毎日アートのことだけをやればいい状態になって、幸せで、そこからはそれをキープするために必死になりました。「デメーテル」が終わった後になぜ北海道に残ったかというと奨学金が全滅したからなのですが、「デメーテル」で私が担当していた連携プログラムの中で、札幌の「S-AIR」【※5】がやっていたAIRを知って「これは面白いし、私のやりたいことかも」と思って「S-AIR」に合流しました。


ーーそれがAIRとの出会いなんですね。「S-AIR」はどうでしたか?

小田井:月給が本当に少なくて大変だったし、だから食えるようにしたいと思いました。AIR以外にも、広告代理店からアートを絡めたイベントの相談を受けたり、頑張っていました。そして上田市長 【※6】が当選した辺りから札幌でいろんな公共的な文化事業が始まったように思います。例えば「さっぽろアートステージ」【※7】にも携わりましたね。


ーー僕が高校に入った2008年頃、放課後に「さっぽろアートステージ」を見に行った覚えがあります。

小田井:その頃にはみんながどれだけ働いても食べれるようにならない現状に疲れ果てて仕事を続けるのが結構しんどくなっていました。どうしたらアートマネジメントで生活していけるんだろう?という問いがありました。当時の自分は終電まで働いて、家で寝て朝また行く、みたいな生活でした。またオランダに行こうと思って、結果的には文化庁の奨学金が取れました。

S-AIRの滞在アーティスト用のスタジオ
提供:小田井真美
S-AIR在籍時から携わっていた冬のアートプロジェクト「Sapporo2」の会場の様子 
提供:小田井真美

オランダから茨城、再び札幌へ


ーーオランダはどのような印象でしたか?

小田井:オランダは税金は高いけど、みんなあくせく働かない印象でしたね。私が研修先として籍をおいていたTrans Artists【※8】はディレクター含め、全員がパートタイムで運営に関わっていて、報酬は十分ではありませんでしたが、それぞれの活動と平行して自分の自由時間を確保しながら仕事をしていました。17時には帰るし、春になったら夏のホリデーのことしか喋らない(笑)。最初は働き方の違いに怒りを覚えて「なんで日本はこれだけ働いても生きていけないのか?」と思って怒りが沸きました。一方でオランダは徹底した個人主義なので、私はマイペースな性格だからとても楽でした(笑)。


ーーアートマネジメントで食べていくヒントはありましたか?

小田井:オランダのスタジオやアートセンターの運営費は概ね公的な予算で担保されていたんですよ。日本でもしっかり行政と働いたり、交渉して権利と待遇を勝ち取ったりしなきゃいけないと思いました。オランダもみんなが戦って制度を作ったんですよ。即効性のある解決策じゃないけど、そういう行動が大事だと学んだし、自分でもできると思いました。

ヨーロッパ滞在中、友人の部屋から 
提供:小田井真美
Trans Artists(オランダ)のミーティングの様子 
提供:小田井真美

ーーオランダの後は札幌に帰って来ようと思っていたんですか?

小田井:そうです。オランダからそのまま札幌に来て「Sapporo2」【※9】をやり終えたら貯金が底をついて(笑)。やばいと思っていたら、知人から「アーカス」【※10】のディレクター公募があると言われて、背に腹はかえられず、受けたら採用してもらえたので行きました(笑)。


ーー「アーカス」はどうでした?

小田井 とても面白かったです。特に、近隣地域の人たちとアーティストの活動を接続させることが楽しかった。でも東日本大震災が発生して。福島は茨城の隣なので、福島の原発事故に対する地域の不安や余震も続いて、私には強いストレスになっていましたから、リラックスするために月に一回くらい札幌に戻る生活をしていました。


ーーその後、札幌に戻って2012年からSIAF【※11】の事務局に入るんですね。

小田井:市とやる芸術祭は手続きが多くて大変でしたが、市長の肝いりというのもあって行政が管轄する場所が使いやすかったり、融通が効くのも知りました。行政がやる気をだせば社会システムが変えられるかもしれないと感じました。特に私は社会や地域の構造に向き合うパブリックのプロジェクトが好きなので、行政としっかり協力して仕事をするのも一つの方法だなと思いました。

「避難」とAIRの役割


ーー2014年以降、小田井さんは天神山でAIRディレクターをされていますが、元々の天神山の建物は札幌市の遊休施設だったんですよね?

小田井:解体する前にもう一度使用できないか検討して欲しいと札幌市から連絡が来て、雪解けまで待って、ようやく見に行けたのが、ちょうど2011年3月11日の午前中でした。


ーー建物を「東日本大震災からの避難で使ってください」と上田市長に手紙を送ったそうですね?

小田井:結局その件については「設備が壊れていてできません」という丁寧な返事をもらったのですが、避難はAIRの使命のひとつでもあるんです。AIRの究極の目的は、アーティストのキャリアを継続させるための支援です。スランプに陥った時に、サバティカルのように避難する場所としても機能することが、ままあるんですよね。それをひとつのきっかけに、天神山のレギュレーションを作るとき、具体的な制作の目的もなく、いつもいる場所から離れたいというアーティストの動機も認めて受け入れるように考慮しました。
天神山のように、公立で貸出し式の有料AIR施設は、たぶん日本では札幌市の他にはまだ少ないと思います。


ーーAIRには二種類ありますよね。滞在費や交通費、制作費などを主催者側が提供する「フルサポート」型は、その分成果も求められる。一方で、天神山のような「セルフファンディング」方式は施設利用料などアーティストの一部負担はあるけれど、市の施設だから比較的安価で好きなだけ居られる。AIRというと前者のイメージを持っている人が今でも多いと思います。

小田井:そうですね。私も天神山以前は「フルサポートのAIR事業」ばかりをやっていたので、なんの経済的支援もできないのは、初めはしんどかったです。でも、そこに罪悪感をもったのは私だけで、アーティストには厳しい選考を経なくても自分のスケジュールに合わせられるハードルの低さが重宝がられたようです。こちらの思惑と関係なくアーティストは自分でチャンスを作って動くんだと改めて思い知りました。


ーーアーティストは基本的に自分の興味があることしかしたくないはずなので、行きたいところに行けて条件が合えば、それは大きなメリットだと思います。

小田井:なんのルールもなく、ただ札幌で滞在したいというモチベーションだけを採用してやってきたら、繰り返し来る人が札幌のアートシーンと無理なく接続して活動するようになったり、天神山で出会った人同士が結婚したり。このやり方のAIRも悪くないなと思いました。


ーー「セルフファンディング」の導入はどこから発想したのですか?

小田井:オランダに行って世界のAIRのことを調査したら「フルサポート」はほんの数%で、アーティスト・ランのAIRの大部分が「セルフファンディング」で運営されていたことを知ったのが大きいですね。


ーー日本は、海外との文化交流を目的として行政主導で始まったAIRが多いことも関係していて、AIRが始まった当初から「フルサポート」がほとんどだったらしいですね。そのような日本独自の流れの中で、ヨーロッパで得た知見を取り入れてみたんですね。

小田井:天神山をAIR拠点としてオープンさせる前の札幌市主導の調査で報告をして、検討時にそういう方向になりました。でも、自分でも恐る恐るでした。どれくらいアーティストが来るのか全く予想ができなかったので、責任も感じていたんですよ。軌道に乗るまでは面倒をみなきゃと思っていました。


ーーそれで、はや10年(笑)。

小田井:気がつくと(笑)。そろそろ手を離そうと思っていたら「コロナ禍」になって。その後、人の動きが2年くらいで戻ったと思ったら、今度は札幌市から天神山の継続が難しいかもという話が出てきていて、辞めるタイミングを逃しています(笑)。

冬の天神山アートスタジオ 
提供:小田井真美
北海道胆振東部地震(2018年)による停電時、水を運ぶ 
提供:小田井真美

「逃げること」と希望

ーーご経歴にある「チームやめよう」とは?

小田井:黒田大スケさんたち、広島市立大学関係のアーティストの何人かが、やめたいのにやめられないことを話す、流動的なチームです。誰でも加われるので、私も「AIRをやめたい」と言いながら、やめられない(笑)。


ーー黒田さんとの関わりは、小田井さんが広島出身であることと関係ありますか?

小田井:たまたま2014年の天神山の国際公募に黒田さんが来てからの付き合いです。黒田さんに広島の様子を聞いたところ「若いアーティストの表現が原爆と結び付けて解釈されてしまい窮屈だ」と言っていました。どうしても広島と原爆の歴史は大きすぎて無視できないから、何でも原爆と結び付けられてしまうようなことが起きる。これは広島で活動する障壁の一つではある。私が知っている範囲ですが、黒田さん達がその状況に対してこれまでとは異なるアプローチで活動しているところに惹かれたし、80年の時間の経過が新しい表現を可能にしているのではないかとも感じました。それならば、私がいつか広島に戻った時にも何かできるかもしれない、と思いました。
私は広島に対してずっと、言葉にできない興味と責任感を持っています。逃れられなさというか。北海道で暮らし、物理的な距離があるからこそ、少しずつ広島について考えることができているのかもしれませんね。


ーー小田井さん自身もAIRのように、離れることで広島について考える時間を持てているのかもしれません。

小田井:ちょうど一年ほど前に、祖母が被爆者だったというオーストラリア出身のアーティストが天神山に滞在していて、彼と一緒に北海道の被爆者会館【※12】を訪ねました。そこで北海道に被爆者が多い理由を初めて聞きました。原爆に遭ったことで差別的な扱いを受けたり……。そういう辛い現実から逃れたいと思って、できるだけ遠くへと、北海道に来た人が多かった、ということも理由の一つだといいます。それを聞いた時に、自分と北海道の被爆者の存在が感覚的にリンクしたんです。

 逃げることの根底には、新しい人生や自分自身への期待がある。北海道は希望を抱きながら来る場所ではないのかな、と。だからこそ北海道は面白いと思うし、いまだに堀り下げる価値があると感じます。もちろん近代の出来事や帝国主義、植民地主義の存在も大きいけれど、そこで人が生きてきた事実は、本当に魅力的ですね。


ーー北海道、面白いですよね。

小田井:ひょっとしたら被爆者会館との関わりは、私が広島に帰る準備なのかな?という、うっすらとした自覚もあります。

ノーモア・ヒバクシャ会館 
提供:小田井真美
被曝に関する資料 
提供:小田井真美

アーティストとともに生きていく


ーー小田井さんの今後の展望や、これからアートマネジメントに関わろうとする人へのアドバイスはありますか?

小田井:私はその日暮らしで生きてきたので、老後の蓄えも全くないです。だからすごく困っている(笑)。そう言いながら実は考えることをやめていて、大して困りようがないのが困っちゃうんだけど(笑)。だから若い人たちには、年金はちゃんと払って、と言いたい(笑)。アーティストのキャリア支援をやってきましたが、自分の支援は面倒くさくて全然できなかった。これから長く働くにはどうしたらいいかを考えていますが、大前提としてアーティストが傍にいるのは欠かせないな、と思って悲しくなっています(笑)。


ーーアーティストとの関わりを「やめられない」んですね(笑)。

小田井:「チームやめよう」(笑)。あとは、体力と健康(笑)。それが、気持ちをキープすることにもつながる。とにかく生きて、ご機嫌に暮らしてほしいということだけが、若い人への願いです。


ーー精神面と身体面は結びついてますからね。それでアートが身近にあったらいい、と。

小田井:そうですね。私には丁寧に考える能力がないので他は勝手についてくると思うことにしています。


ーー小田井さん、すごくアートが好きですよね(笑)。

小田井:そんな気は無いんですけどね。でも、私、アートやアーティストが友達だったと思うんですよ。そこが自分がのびのびできる唯一のコミュニティみたいな。だから手放せないんじゃない?そんな気がします(笑)。

注釈

【※1】「さっぽろ天神山アートスタジオ」

国際的なAIRの拠点として札幌市が設置している施設。2014年オープン。市民が自由に立ち入ることができる公園の休憩所も兼ねており、「Art & Breakfast Day in 天神山」や「天神山文化祭」など地域との交流イベントも多数開催している。2024年度までの滞在アーティスト(利用者数)はのべ3138人。

【※2】「P3art and enviromental」

「精神とランドスケープ」を活動のテーマに、1980年代からアートと場所、人々が生み出す関係性に着目し、アートプロジェクトを独自の手法で手がける団体。都市・地域計画家である芹沢高志が主宰している。

【※3】「GALLERY 360°」

1982年10月オープン。1993年に表参道交差点の角に移転。現在は世田谷区尾山台と、神宮前3丁目にサテライトスペースがある。

【※4】「とかち国際現代アート展『デメーテル』」

2002年7月〜9月、帯広市政120周年などを記念し開催された。メイン会場は帯広競馬場。招聘アーティストはインゴ・ギュンター、オノ・ヨーコ、川俣正、蔡國強など。

【※5】「特定非営利活動法人 S-AIR(NPO S-AIR)」

1999年、札幌を拠点に活動する民間有志により立ち上げられた「アーティスト・イン・レジデンス実行委員会」を前身とし 、北海道で初めて本格的なAIR事業を行った団体。2005年にNPO法人化。

【※6】上田文雄

弁護士、第9代札幌市長。1948年北海道幕別町生まれ。中央大学法学部卒。2003年から2015年まで3期12年にわたり札幌市長を務めた。在任中には家庭用ゴミ袋の有料化や地下歩行空間の整備に取り組み、「さっぽろアートステージ」や「第1回札幌国際芸術祭」も開催された。2025年9月逝去。

【※7】「さっぽろアートステージ」

2005年から札幌市で秋に開催されている一連のプログラム。音楽、美術、演劇などの芸術分野の様々なイベントが開催される。

【※8】TransArtists

オランダ、アムステルダムを拠点に、アーティストのニーズを軸にしたAIR情報の提供を行うチーム。非営利団体として活動していたが、現在は、オランダ政府の国際文化交流機能を担うDutch Cultureのひとつのセクションになっている。1400以上の団体が登録されているデータベース運営や、AIRプログラム同士のネットワークの形成活動、アーティスト向けにAIRを活用する方法を自発的に見出すワークショップなどを行っている。

【※9】「Sapporo2」

2006年にアーティストのカミーユ・フェルシュフーレンによって提唱されたオープンコンセプトに賛同する有志によるアートプロジェクト。雪が降っている札幌をパラレルに存在するもうひとつ別の世界と捉えたことがその名の由来。実行委員会により2014年頃まで活動。

【※10】「アーカスプロジェクト」

「芸術を通じた地域づくり」を推進する芸術文化事業。茨城県が主催する。プレ事業としては1994年から活動が開始された。活動の拠点となる「アーカススタジオ」が守谷市にあり、『アーティスト・イン・レジデンスプログラム』と『ラーニングプログラム』の2つを主軸に事業を展開している。

【※11】札幌国際芸術祭

3年に一度のトリエンナーレ方式で行われる都市型芸術祭。札幌市が主催する。2014年に第1回、2017年に第2回を開催し、3回目となる2020年は中止となったがオンラインプログラムや企画の紹介展示を実施した。2024年には初めて冬に開催。略称はSIAF(サイアフ)。

【※12】「北海道被爆者協会 ノーモア・ヒバクシャ会館」

 広島、長崎に次いで全国で3番目、民間では初の原爆資料展示館。1991年に落成。運営していた一般社団法人北海道被爆者協会は被爆者の高齢化のため2025年に解散したが、会館および展示資料等は学校法人北星学園が譲渡を受け入れ、同法人が管理運営を行うことになった。

INTERVIEWEE|小田井 真美(おだい まみ)

1966年広島県広島市生まれ。武蔵野美術短期大学、女子美術大学卒業。

1995年頃から「LOOK AT MUSIC」名義でイベントを企画。2001年〜02年、「とかち国際現代アート展デメーテル」(北海道帯広市)事務局に勤務。2003年〜08年、「NPO法人S-AIR」(北海道札幌市)でAIRに携わる。2008年〜2010年「Trans Artists」(オランダ)で研修。2010年〜2011年「アーカスプロジェクト」(茨城県守谷市)ディレクター。2012年〜2014年「札幌国際芸術祭(SIAF)2014」チーフプロジェクトマネージャー。2014年〜現在「さっぽろ天神山アートスタジオ」でプログラムディレクターとして事業設計・企画を担う。おいしい丸い餅を作るのが得意。「アートとリサーチセンター」主宰。チームやめようメンバー。

INTERVIEWER|佐藤 拓実(さとう たくみ)

1993年北海道札幌市生まれ。北海道教育大学芸術課程美術コース(空間造形研究室)卒業、東京造形大学大学院造形研究科修了。2016年「アートとリサーチ 北海道の旅とプロジェクトのプラン作成ワークショッププログラム」選抜。2017年「3331ART FAIR」推薦。2018年「塔を下から組む 北海道百年記念塔に関するドローイング展」(グループ展)を企画。2019年「レジデンスプログラム 秋田市文化創造交流館(仮称)プレ事業 SPACELABO」選抜。2020年「竣工50年 北海道百年記念塔展」を市立小樽文学館と共催。2024年「KAMIYAMA ART カドリエンナーレ 2024」四方幸子・南島興賞受賞。

美術家として北海道をモチーフにした作品制作や展示企画をライフワークとし、近年は特に風景に興味を持っている。2025年4月から約10年ぶりに北海道を拠点としている。アーティスト集団「on-site-tive(オンサイティブ)」メンバー。LAWS1期生。

Instagram:@satotakumiart