言葉のない世界で話す 「声のないART BAR」がめざすもの

February 14, 2023

+5では、アートと社会をつなぐ人、アートネイバーの活動を、取材を通して研究している。アートネイバーの多くは昔からアートとなんらかの関わりがあり、自分の専門性を確立し、その力を使って社会や人々、アートを繋いでいる。一方で近年、ビジネスパーソンがアートを学び、関わる機会も増えてきている。ビジネススキルは、ソーシャルスキルに等しい。他者の意向を把握し、それに適したソリューションを提供する。彼らがアートに関わろうとするとき、その背景にはどのような想いや考えがあるのだろうか。また彼らがアートネイバーになる時、どのような価値が創造されるのだろうか。

+5ではゆくゆく、これからのアートネイバーとして新たな価値を生み出そうとする、ビジネスパーソンたちのアートへの想いや取り組みについてもまとめていきたい。その第一弾として、ロート製薬株式会社グローバルアライアンス部で新規事業推進を担当する、津久井  優(つくい ゆう)さんが初めて作ったアートプロジェクト、「声のないART BAR」をご紹介する。

そのバーは2022年11月、奄美大島北部の、小さな海岸で開かれた。

声のないART BARとは

ーーまず、プロジェクトの概要について聞かせてください。

津久井:声のないART BARは、言葉なしに人と人は分かり合えるというコンセプトを持ったアートプロジェクトです。自然の中に一夜限りできるバーで、一緒にきた人たちや参加者と、言葉なしに時間や空間を共有します。バーでの体験を通して、普段何気なく使っている言葉の大切さ、人との距離感、伝えるという行為の意味などを理解してくれる人を増やしたいと考えています。構想自体は2021年に社会人大学院に構想を初めて、正式には今回が初めてです。


ーーどうして奄美大島で開催をされたのでしょうか

津久井:私のルーツのひとつが奄美にあって。祖父が奄美大島出身なんです。祖父が亡くなった後に、初めてここにきたのですが、祖父と一緒に来なかったことをずっと後悔していて、それがひとつ。もうひとつは、プロジェクトとの親和性という意味で奄美を選びました


ーー今回アートプロジェクトは、事業構想大学院大学がきっかけで作ったそうですが、どのような大学なのでしょうか。

津久井:その名前の通り、事業を作っていく大学です。卒業の時に、事業をひとつ形にすることが求められるんです。

プログラムとして、1年の最初は基礎。事業を構想する概念から、ケーススタディを聞いたりします。あとはもっとMBA関連のこととか、構想するとはどういうことかっていうのを、手法も含めて学びました。今回のプロジェクトはその大学で、2021年に構想しはじめました。

事業構想大学院大学の教授や同級生たちと

ーーなるほど。そこでどうして言葉とバーをテーマに構想しようと思われたんでしょうか。

津久井:言葉は幼少期の時から関心があって。両親も祖父母もそれぞれに出身が違って、家の中でさまざまな方言が話されるんですね。だから言葉ってなんだろうとなんとなく考えていて。

バーは、大阪に越してきてから、バーを通してつながる縁みたいなものがすごく多くて、大切に感じていました。
そのふたつに最も関心があったので掛け合わせたいという気持ちが事業構想大の時に漠然とあって。ただ、バーを主体にすると、事業計画がバーの経営みたいな感じになるじゃないですか。そうじゃないですよねってのをいろんな人にアドバイスをもらっていて。担当の青山先生という方に相談した時に、「それアートプロジェクトにしたら面白いんじゃないの」とアドバイスいただいたんです。



ーーアートプロジェクトと聞かれてどう思われたんでしょうか。

津久井:なるほどと。アートプロジェクトという視点は、それまでなかったので。私、NHKの空港ピアノって番組がすごい好きで。どういう番組かっていうと、空港とか駅とかにストリートピアノあるじゃないですか?あそこをただただ定点カメラで撮っているっていう番組なんですけど、それがすごい好きで。先生にそれを聞いた時に、なんとなくですけれど、それに通じるものが、私のプロジェクトにもあるなって、割としっくりきたのもありました。


ーー津久井さんにとって、今回初めてアートプロジェクトと名付けて取り組まれたと思うのですが、アートと名前をつけるにあたって、アートってなんだろうと、自分の中で考えられたりされましたか?

津久井:そうですね。やっぱり、事業構想大学の時に感じたのは、既存の社会課題を解決していこうという考え方が比較的多いんです。マイナスになっているものを、1あるいはどんどんプラスにしていこうと。課題があるからその事業をするって考え方が多いんですけど、私の事業は、直近で誰かがめちゃくちゃ困っている訳じゃない。潜在的に人間として困っていることというか、課題や問いに対して、こういう場が必要なんじゃないですかって提起する立場だから、それってなんだろう、アートじゃないかなって。あとは参加する人にとっての価値そのものがもしかしたらアートと呼ばれるものなんじゃないかなって。だからアートという言葉を使いました。


ーー「人間性の再確認」というのも、今回重要なテーマだそうですが、それはどのように決まったんですか?

津久井:割と自然とですが、きっかけはたぶんコロナ禍です。対話ができなくなったことが、実は私的には心地よかったんです。会話って雑音だったんだって再確認することもあって。

単純な話でいえば、例えばですけれど、話していてもめちゃくちゃ中身がない人っているじゃないですか(笑)。口数は多いのに、話していることは退屈な人とか。そういう人も、黙っていたら素敵なのかなとか考えて。


ーーそれは面白いですね。黙っているからこその、その人の表情とか、リアルな感じってありますよね。

津久井:あるし、なんだろう。言い方が悪いかもしれないけれど、やっぱり沈黙に耐えられない人って、人間性弱いと思うんですよ。自分に自信がないと、あることないこと喋っちゃうんじゃないかなって。

声のないART BARでは、ひとりで来ている人も、集団で来ている人たちもいた。しかし沈黙を共有することでその境目や垣根はほとんどなかったように思う。

言葉と生きる

ーー先ほど小さい頃から言葉に関心があったとのことでしたが、それはどうしてでしょう。

津久井:19歳まで静岡にいたんですけれど、先ほどもお話した通り、家族間のコミュニケーションで言葉について向き合う機会が多かったんです。静岡の方言を私が話していると、両親が正す場面もあったりして。それで自然と、言葉に対して関心を持つことが増えました


ーーご両親はどんなお仕事をされていたんですか?

津久井:実は私以外、海に関する仕事をやっていて。父の仕事の関係でいつも海がそばにある環境に住んでいたので、海は私にとっても身近でしたね。父の職場に遊びに行って、目の前で遊んだりしていました。


ーーなるほど。津久井さんがいま奄美でサーフィンされたり、海好きな理由がよくわかりました。海外にも数多く行かれていますが、それもご両親、ご家族の影響があったんですか?

津久井:海外はなんだろう。母が英語を勉強させてくれていて。思い返せば小学校の時の教科書かなんかに、世界の言葉が一覧で乗っているのに感動して、行ってみたいと思ったのが最初ですかね。


ーーそういうルーツから東京外国語大学に進まれることになるんですね。ちなみに大学生の時に1年間、トルコに留学へ行かれていると思うんですけど、またどうしてトルコに?

津久井:大学の専攻はフランス語を選んだんですけど、やっぱりみんながやっていることより、違うことしようと思って。それでトルコ語を始めたんですが、最初の動機はTVでの興味くらいなんです。でもそうして始めたことで、自分の価値観が広がったのと、トルコ語を勉強することが楽しくて。

英語を勉強して、フランス語も勉強したんですけど、共通点ってあるんです。けれどトルコ語は単語も今までの概念からは到底引き出しえない単語だし、でも文法は日本語と似ているし、なんか組み合わせが面白いなぁって。1年間の留学は語学学校で学び、あとは小さい会社でインターンをしていたりしました。


ーー留学から帰ってからはどうされていたんでしょう。

津久井:仕事でトルコに再訪するまでは、その準備をしていました。当時企業で働くイメージが持てなかったのと、とにかくトルコで働きたいなと。

私が当時応募したのが、在外公館派遣員制度【※1】で、それは外務省が外部組織に委託している制度で、民間の青少年を海外の大使館、総領事館に派遣して、そこで2年ないし3年、任務を果たしてもらうものなんですね。業務自体は日本の官公庁からくる出張者のアテンド、通訳など総務業務に近いものが多かったですね。


ーー最初の3年、異国に根をはるのは初めてだったと思いますが、どうでしたか?

津久井:仕事もすごい忙しかったし、正直、記憶がないですね(笑)。そのあとトルコでトヨタ自動車へ転職してからの方が、自分が決断しないと帰れないので、なんか終わりがない感じがしましたし、より現地人と同等の生活になっていったように思います。

トヨタは、派遣員の任期が終わる時にもうちょっと現地で働きたいなって思っていて、そういうのをいろんな人に言ってたら、たまたま声をかけていただいたんです。企業広報として、トヨタの工場がある地域とうまく共存していくっていうことをミッションにやっていました。

トヨタトルコ時代の同僚と 互いの誕生日などはケーキと花束でお祝い 

ーートルコにはのべ7年滞在されたと思いますが、帰国されるきっかけはあったのでしょうか?

津久井:トヨタ自動車で働き始めて3年目の終わりに、どうしようかなと。トルコにも7年くらい関わってきたから、その先のことを漠然と考えていました。また違う国にいこうと思ったりもしていました。転職が決まって日本に帰国し、6ヶ月ぐらいはトルコと全く関係ない仕事をしていましたが、この期間を経たことで、やっぱりトルコの経験を活かしたいなと思いました。これも偶然なんですけれど、友人の紹介で現職のロート製薬と出会うことができて再度転職し、今はロートで仕事をしています。


ーー今はどんな仕事をされているんですか?

津久井:ロートがあるトルコの会社に出資をしていて、そこのビジネスを日本に展開しています。コロンヤ【※2】ってご存じですか?トルコ語で「オーデコロン」という意味で、日常生活のあらゆる場面で使える香水です。例えば今はコロナ禍で消毒することが一般的になりましたが、トルコの人は元々コロンヤで消毒をしたりするんですよ。香水なのでアルコールがかなり入っていますし、良い香りがしますし。香りも比較的早く飛ぶんですよ。トルコではオスマン帝国時代から生活で親しまれてきたそうです


ーーコロンヤ知りませんでした。トルコ文化を日本に伝える活動を、今はされているんですね。ちなみに津久井さんは4カ国語を話されますが、言語を理解する時はいつもどうされているんですか?

津久井:まずは言葉を結構よく聞きます。あとネイティブが話す時の、無意識のイントネーションのルールとかを探したりもしますかね。大阪にくるまで関西弁をあまりわかっていなかったんですが、あ、こういうところでこういう話し方をするんだっていうのを複数の事例から自分の中でまとめて。こういうのは海外で学んだことなんでしょうね。

コロンヤPOPUPイベント時に開催したインスタライブ。トルコと日本のハーフのタレントの堀口ミイナさんをお呼びして。

奄美に帰る

ーー奄美はおじいさんが亡くなられるまで、行かなかったとおっしゃっておられましたが、なぜでしょう。

津久井:実は祖父から、奄美の話はあまり聞いていなくて。だからずっと、奄美は近いようで遠い存在でしたね。特に実際に行くまでは。飛行機が当時はそんなになかったこともありますが。海外への興味が優っていたこともあります。


ーー初めて奄美に降り立った時、どのようなことを感じられましたか?

津久井:悲しいとか嬉しいとか言う感情を超えて、自然と涙が出ました。自分の呼吸が楽になるような感覚を覚えました。


ーー奄美はそういう津久井さんにとって、帰る場所だったんでしょうね。改めてですが、今回、奄美を選定されるところからの流れを教えてもらえますか?最初は奄美って決めていなかったんですよね?

津久井:はい。たまたまトルコの事業で忙しかった時に、自分へのご褒美に、MIJORA(伝泊 The Beachfront MIJORA)【※3】に去年の夏4日間くらい泊まったんですね。その時にまず今回、手伝ってくださったMIJORAのスタッフのみなさんに知り合いました。その時には声のないART BARのこと考え始めていて、ここでやれたらいいなって。元々奄美でなんかしたいって思いもあったし。それでMIJORAの建築家、山下保博さんに、共通の友人を介してコンタクトしてみました。お忙しいかたなので、返信がくるとはそのときは思っていませんでした。MIJORAもとても素敵な場所で、やらせてほしいといってやれるほど、敷居は低くないし。

でもお返事があって。実際お会いしたときにART BARの話をしたら、あっさりうちでやりなよと。そこからはトントン拍子でした。


ーーゲストは今回、津久井さんからご招待された方も多いんですよね。

津久井:初めてのオフィシャルなイベントなので、感謝もこめて何名かはご招待させていただきました。事業構想大の先生や、西平酒造株式会社【※4】の4代目代表の西平せれなさん。イベントの場づくりをどうしようか考えていたときに、黒糖焼酎樽でテーブルを作りたいと思い、西平さんにご相談したところ、ちょうど廃棄に困っている樽があるとのことで、貴重な樽を譲っていただきました。その樽でテーブルを作ってくださった藤田さんや、私のサーフィンの先生とそのご友人なども。

西平酒造のISLANDミニボトル(左)と、同じく黒糖焼酎の紅さんご(奄美大島開運酒造)
奄美は日本で唯一黒糖焼酎を作れる場所としても知られており、日本にある黒糖焼酎の蔵、26蔵は全て奄美にある。西平酒造は、1927年から続く老舗であり、2021年に4代目へと代替わりした。

ーー準備期間はどれくらいだったんですか?

津久井:構想から考えたら1年くらい。実際動き始めたのが2022年3月くらいからです。3月にやるって決まって。助成金のための企画書を作って、7月に助成金のめどが立って、日にち決めようってなって。そこからはロゴを作ったり、人を集めたり、インスタを使って人と繋がって。設営どうするか考えて、テーブル制作できる人探して。

バーテンダーを決めるっていうのも大きな意思決定でした。元々は大阪から友達が来てくれることを想定していたんですけれど、その人が無理になりまして。それで島で探していた時に、SHOT BAR CONCEPT【※5】の松崎 さんと知り合えて。そこからドリンクメニュー、あてメニューを決めてって感じです。


ーー今回、関わる人たちの中には新しく知り合う方も多かったと思うのですが、どういう基準で一緒にやろうと判断されたんですか。

津久井:誰が紹介してくださっているかということを最も大切にしていました。その人の紹介ならと。賭けみたいなところもありますが、それでうまくいったと本当に思っています。

声のないART BARの様子

関係者インタビュー

今回、声のないART BARの空間づくりに寄与し、言葉のない空間を津久井さんと作り上げた伝泊 The Beachfront MIJORAのスタッフである夏目春菜(なつめはるな)さんと音成麻友(おとなりまゆ)さん、そしてBARで重要な役割をになったSHOT BAR CONCEPTの松崎覚(まつざきただし)さんにもお話を伺った。

伝泊 The Beachfront MIJORA|夏目さん、音成さん

左から音成さん、夏目さん

ーー今回、どういう経緯でこのプロジェクトに参加されることになったんですか?

夏目:私は元々ここのディナーを担当しているのですが、今回お料理も出すということもあり、慣れているスタッフをと、津久井さんからお声がけをいただきました。

音成:私はフロント勤務で、流れがわかるので、ホテルとイベントの架け橋的な役割でお仕事をいただきました


ーーホテルがやるイベントとしては、結構特殊だったと思うんですが、戸惑いや不安はありませんでしたか?

夏目:イベントの詳細を聞いた時、みんな一声で承諾でしたよ。楽しそうって。だから不安は全然。私はアートに興味があるっていうのもあって楽しみでした。

音成:私も始まる前からすごい楽しみで、不安はありませんでしたね。


ーー今回プロジェクトが始まるまでに、どのような準備があったんでしょう。

夏目:準備という準備はしていなくて、メニューくらいですかね。今回、奄美に関連するものをメニューとして出したんですけれど、あえて奄美の人もあまり知らないものも入れてみて。それを出した時に言葉がなかったら、どうなるんだろうって


ーーメニューはどう決められたんですか?

夏目:やっぱりバーなので、飲み物と合う島のピクルスとかオリーブをと思ったのですが、それではちょっとつまらないなと思い、島の人たちもわかるかどうか際どいものを選んだんです。島の人たち、全部のメニューわかってたのかな。

音成:わかっていましたよ。私が料理を出した時、「お前、これ頼んだのか!」みたいな雰囲気になっていて。これこれって仕草でみんな盛り上がっていましたし。

夏目:じゃあやっぱりわかって頼んでくださったんだ。島で昔からある食べ物も入れていたんです。

バーのメニュー。奄美に関連したものが多い。

ーースタッフ間のコミュニケーションはどうとられていたのでしょうか?

夏目:ジェスチャーでしたね、ほとんど(笑)。

音成:会場以外の場所では別にしゃべっていいはずなんですけれど、なぜか会話がなくて(笑)。でもそこが面白くて。普段何気なく言葉にしていることの大切さとか、当たり前のありがたさを感じました。あと話さないからこそ、人のことをよく見るというか。相手のことを普段よりも考える時間が長かったように思います。


ーーおふたりとも、顔の表情をかなり使ってコミュニケーションされてましたね。

夏目:そうですね。やっぱり言葉がないと、自然と表情も大きくなるんでしょうね。いかがですか?ってブランケット渡す時も、なんか表情作っちゃいますよね(笑)

音成:やっぱりマスクに慣れていると、口角が下がっているんじゃないかなって改めて思いました。マスク取ると、それが上がって。特に言葉がない空間だと、口角を意識的に動かさないと感情が伝わらないし、その大事さを改めて感じました。


ーーおふたりの奄美との関係、奄美の魅力を最後に教えてください。

夏目:私は1年半くらい住んでいます。神奈川から越してきて。ただ偶然にも祖父母と母が奄美出身でして。子供の頃からよく来てはいたんです。津久井さんとその辺は似ていますね。ルーツがあるからこそ、迷いなくコロナ禍でもくることができましたし、住み心地もよく気に入っています。何よりも大自然が魅力ですね。どんな時もいいですし、毎日違うんですよ、自然の表情が。

音成:私は出身が佐賀県で、奄美と縁はなかったんですけれど、半年ちょっと前に縁があって移住してきました。私はたまたま奄美にたどり着いた感じです(笑)。奄美は本当に自然が素敵ないいところです。

伝泊The Beachfront MIJORAは海と山のすぐそばに位置しており、毎日奄美の様々な表情を眺めることができる。

SHOT BAR CONCEPT |松崎さん

松崎さん(SHOT BAR CONCEPTにて)

ーー今回の参加にいたる経緯を教えてください。

松崎:津久井さんからコンタクトしていただき、面白そうだったので、単純にふたつ返事でOKしました。


ーー今回参加するにあたり、何か準備されたことありますか?

松崎:今回喋らないからというのは前提ですが、任せられたことをちゃんとやるっていう。実際とは違うバーの空間をどういかすか、そこに徹していました。あとはカクテル用のフルーツを準備するとかです。始まってからは、テンパらないように。笑


ーーこのイベントは、バーテンダーの性質にも左右されると思います。特に言葉なしで注文を受けて、どうお客さんの希望通りのものを提供するのかが大事だったと思いますが、松崎さんは言葉なしで、非常に上手に会話されていましたよね。工夫されたことは?

松崎:やってみて思ったのは、言葉が通じない人とどう話せるのかを考えながらやっていました。海外の人とやりとりする時とか、言葉が通じなくても、ジェスチャーで通じるって思っていて。大阪の時からなんですけど、いけるなって。関西人やから喋りたいってのはありましたけど(笑)。


ーーやってみてもどかしかったところや、もっとこうしたかったなどはありますか?

松崎:美味しい飲み方の細かいところをどう伝えたら良いんだろうって。なので単純になったところが少し反省かなと。もう少し挑戦できたかなと思います。

例えば自分がやっていたことでいうと、フルーツを選択してもらって、次に飲み方を選択してもらって、味の好みを選んでもらったんですけれど、例えば「すっきり」や「甘い」の中にもレイヤーがあったりするので、その細かさもやれたらなと。

あとは風が強かったので、本来置きたかったものが置けなかったんです。本当は島で作られているミントとかもおいて、素材見ながら、言葉を使わずディスカッションもできたのかなと。でも風があって諦めましたね。そういうところは臨機応変にやりましたけど。


ーーバーテンダーから見て、あのバー空間はどう思われましたか?

松崎:良い空間でしたね。あるもので楽しむ。できないことを楽しむ。無音になればお客さんの舌、嗅覚、五感が研ぎ澄まされるので、それに対応しないとなと思って。それはどこの空間でも同じなんですけれどね。バーテンダーであるかぎりそういった空間づくりは必要なので、心がけています。


ーー確かにみんな集中してましたよね。いろんな感覚に敏感になっていたような。

松崎:子供のころはそうだったなと思い出しました。自然の中で遊んでいる感覚。
でもやっぱり難しいですね。不自由なく過ごせていると、考える力がなくなるところもあると思うので、こういったイベントは、ありだなぁと思いました。


ーースタッフはふたりいらっしゃったと思うんですけど、やりとりには困りませんでしたか?

松崎:僕の助手をしてくれていた人とは、以前一緒に働いていたこともあって、意思疎通ができていました。簡単なジェスチャーで分かり合えるというか。

ART BARのバーカウンター。松崎さんが独自の目線でお酒、フルーツなどを用意した。

ーー今回、バーとしてよかったのは?

松崎:外の環境、特に夕陽がすごくよかったです。今度やることがあれば光が映えるようなカクテルとか、外だからこそできるものを作りたいなと思いました。

自分はバーテンダーとして任されて、自分の仕事をするというのに徹していましたが、裏で伝泊の方々が色々準備をしてくださっていたのもありがたかったですね。実は伝泊の方々と一緒に仕事をするのは初めてなんです。それでも無言で意思疎通できて、それがめちゃくちゃ面白かったですね。初めてなのに阿吽の呼吸で。


ーーそうなんですね!伝泊のおふたりとは、昔からお知り合いだと思っていました(笑)。
松崎さんは、昔から奄美でバーをされているんですか?

松崎:自分は大阪出身で、最初は大阪で働いていたんですけれど、両親は二人とも島出身で。一時休暇的な感じで奄美に戻ってきたら、なんかそのまま、かれこれ13年くらいいますね(笑)。


ーーいついてしまう奄美の魅力はなんでしょう

間がゆったり流れているっていうのがいちばん。そもそも小さいころずっと里帰りで帰ってきていたので、落ち着くなって。バーも、そういうところありますよね。

言葉なしでコミュニケーションをとる松崎さん。

声のないART BARのこれから

ーー津久井さんは今回やられてみて、いかがでしたか?

津久井:実際に開催してみて思ったのは、可能性がかなりあるなと。人と人の見えない空間もそうですし。あと今回は、自然体な人が多かったように思います。島の人たちだからそうなったのかなぁとか考えたり。

実は奄美のイベントの前に、大阪のバーで、プロトタイプ的に同じイベントをやったんです。その時は、若干戸惑っている感じとか、手持ち無沙汰な感じもあったんですよ。その時は筆談OKにしてたんですけど、それがミスしたなって。盛り上がってたんだけど、みんな筆談に頼っていたので、それじゃ違うなと。今回は1部、2部と分けて実施して、1部は携帯なし、2部はちょっとしたこちらのミスで携帯を持ち込ませちゃったんですけど、ほとんど誰も携帯を見ずに、時間を過ごしていた。あぁやっぱ島の人だなぁって。

風があったのが逆によかったのかな。あの空間にいて思いました。飽きなかったなって。

特に夕暮れ時は空の色もずっと変わっていたから。

2部の参加者。男性の集団は小さい頃からお互いを知っているようで、お互いをよく知っているからこそ、言葉がなくても全く苦ではなかったようだ。彼らは終始、楽しそうに言葉なしに笑い合っていた。

ーー津久井さんが元々想定されていた理想の形は、どのようなものだったのでしょう。

津久井:みんなが周りにいる人と、自然とジェスチャーでコミュニケーションをとりはじめたり、全くの他人が空気を混じり合わせているような感じが見えたり、漠然とですがそういう感じでした。

大阪でやった時は、室内のバーで開催したのですが、やっぱり都市部の、日常に近いところで空間設定をしたので難しかったかもしれません。声のないART BARは、やっぱり屋外が適していますね。


ーー今回、アートプロジェクトを初めてやられてみて、アートっていう枠組みで伝えられることは、何かありましたか?

津久井:アートは、潜在的な問題を提起していくことが改めて可能なんだと思いました。あとは参加型であることの意義を、改めて感じました。参加者と一緒に新しい何か、今回であれば空間を創造するというところとか


ーー津久井さんは、一般企業で新規事業の推進をされていますが、ビジネスの枠組みでイベントをやるのと、アートの枠組みでイベントをやることの違いについて、どう感じられましたか?

津久井:ビジネスだとターゲットとした顧客の満足度をどう上げるのかっていうことと、やはり売上をどう作るかを意識しないといけないと思うんですけど(苦笑)、やっぱり参加者がいて初めて成立するものって考えると、ちょっと違うのかなって。アートという枠組みであるからこそできる、アグレッシブなこともあるなと改めて思いました。


ーーこれからこのプロジェクトをどうしていきたいですか?

津久井:まだ1回目なんで、もっと精度をあげていきたいなって。あとは持続可能なプロジェクトにするために、どうしていけばいいか。今回の経験を元に考えて行ければと思っています。

津久井優さん

関連情報

声のないART BAR …. .  .  kasari_amamioshima|アーカイブ映像

公式Youtubeチャンネル

声のないART BAR Instagram

伝泊のサイト上でもイベントのことが紹介された

(2023年2月21日11時45分最終閲覧)

注釈

【※1】外務省|在外公館派遣員制度

(2023年2月21日11時45分分最終閲覧)

【※2】アトリエレブル

津久井さんがロート製薬で立ち上げられたブランド

(2023年2月21日11時45分最終閲覧)

【※3】伝泊 The Beachfront MIJORA

(2023年2月21日11時46分最終閲覧)

【※4】西平酒造

(2023年2月21日11時48分最終閲覧)

【※5】SHOT BAR CONCEP|Instagram

(2023年2月21日11時48分最終閲覧)

INTERVIEWEE|津久井 優(つくい ゆう)

1984年静岡県生まれ。2009年東京外国語大学外国語学部欧米第二課程フランス語専攻卒、2022年事業構想大学院大学卒。言語学士、事業構想修士(専門職)。

2007年〜2008年トルコ共和国立イスタンブール大学留学、現地企業にてインターンシップも経験。2009年〜2012年在イスタンブール日本国総領事館勤務。2012年〜2017年トヨタ自動車トルコ法人トヨタモーターマニュファクチャリングターキー勤務。2017年〜現職ロート製薬株式会社勤務、トルコビジネス立ち上げを担当し、2021年にはトルコの老舗香水メーカーの日本初上陸を実現させる。その他、2018年トルコ政府文化観光省企画「トルコ大紀行」映像翻訳、2020年三省堂「デイリー日本語・トルコ語・英語辞典」著作協力、ほか。ことばをライフワークと捉え、事業構想大学院大学在学中「声のないART BAR」を構想。ロート製薬に在籍しながら、社会実装をするための実証実験中。

INTERVIEWER|桐 惇史(きり あつし)

+5 編集長、ART360°プロジェクトマネージャー。

1988年京都府生まれ。京都外国語大学英米語学科卒業後、学習塾の運営に携わりながら、海外ボランティアプログラムを有する、NPO法人のプロジェクトリードに従事。その後、ルーマニアでジャーナリズムを学び、帰国後はフリーランスのライターとして経験を積むかたわら、大手人材紹介会社でコンサルティング営業、管理職として組織マネジメントなどに携わる。現在は360°映像を通した展覧会のデジタルアーカイブ事業「ART360°」の推進に関わる。